のように変わってくるか
著者 高久 嶺之介
雑誌名 社会科学
巻 50
号 2
ページ 121‑148
発行年 2020‑08‑31
権利 同志社大学人文科学研究所
URL http://doi.org/10.14988/00027793
時局匡救事業と道路
─昭和戦前期京都府の道はどのように変わってくるか─
高 久 嶺之介
本稿は,昭和戦前期,不況対策として時局匡救事業が展開された1932年から1934 年の時期に,京都府の道路の道幅がどのように拡充され,さらに勾配の改善がどの ように進むかを,京都府庁文書を使用して具体的に明らかにするものである。本稿 では,国道・府県道・町村道をとりあげるが,とりわけ町村道に注目して論じたい。
町村道の整備が量的にも,そして法的にも充実される体制はこれまでなかったから である。
は じ め に
本稿は,昭和戦前期,とりわけ時局匡救事業が展開された時期(1932〜1934年)に,
道がどのように変わってくるかを,京都府を素材にして明らかにするものである。
昭和期において道がどのように変わってくるかを言う場合,前提としてまず大正期の 道路の法的整備がある。1919年(大正8)4月8日道路法,同年12月6日道路構造令 などによって,道路整備の規範が定められるのである。また,同年8月11日,道路公 債法によって道路整備のための財政的基盤が整備される。そして,これら道路の法的整 備が前提になるが,昭和期の時局匡救事業(とりわけ内務省の事業)によって国道・府 県道・町村道が量的にも格段に整備されていく事実は見過ごすわけにはいかない。
時局匡救事業によって,道幅の拡充,道の勾配の改善(道の「切り下げ」),路面の改 善(この点は地域において差がある)が,町村道に及ぶまで一挙に進むのである。しか も,「町村道改良工事に対する国庫補助は救農土木事業ではじめて登場した」1)。そし て,「ほとんどの町村が事業費の割り当てを受けているという事実」2)がある。
不況対策としての1932〜34年の時局匡救事業については,「どの程度これまでわが国 の農民の所得水準を引き上げたのか」3),という観点からこれまで多くの研究がなされ てきた。ある時期までは,この事業の効果については相対的に否定的な研究が主流をし めてきた。しかし,中村隆英氏の「農民の所得を2割前後引き上げる効果があった」と
いう説が出て修正の動きが強まる4)。ところがまた,中村隆英氏の評価を過大評価だと して「府県道路事業の賃金もすべて農民に向けられたとしても,32〜33年度の町村道 路・府県道路の賃金は1400万円に過ぎず,550万農家で割れば,1世帯当たり3円には 及ばない」という加瀬和利氏の詳密な研究が出ている5)。
これらの財政分析を交えた研究に,口をはさむ力量は筆者にはない。ただ時局匡救事 業を内務省のものに限定すれば,事業は,ほぼ道路を拡充整備する方向であった点に注 意する必要がある。しかも,これまで組織的には未整備であった町村道路を全国的に拡 充整備することになった事実は無視できない。確かに農民の所得水準をどれほど向上さ せたのかは評価の基軸であるにしても,この事業によって,国道・府県道・町村道がど のように整備されていくかも,評価の基軸になりうると思われる。なお,時局匡救事業 は,1932〜34年度まで行われるが,最初の年の財政的に道路事業の町村道中心から,
33年度以降次第に河川事業・港湾事業が増加し,しかも府県事業・国直轄事業の比重 が増加していることを加瀬和利氏は指摘する6)。このことも念頭に置きながら,本稿 は,京都府の道路がどのように変わってくるのかを見ていきたい。不況対策としての時 局匡救事業の研究はあるものの,道路がどのように変わってくるかの研究はまだない か,あるいは少ないと思えるからである7)。
なお,時局匡救事業は,農閑期に行われた点で本稿のような近畿の場合と降雪量の多 い(ただし日本海側)東北とではおのずと違いがある。また,不況の影響は,近畿の方 が東北に比べ相対的に小さい8)。本稿は,京都府,特に南部を中心にした事例研究であ る。また,国道,府県道,町村道の内,町村道を中心に叙述する。
なお,本稿での史料は京都府立歴彩館(旧京都府立総合資料館)所蔵の京都府庁文書 を中心にした。また,本稿で「メーター(メートル)」の表示は「m」に統一し,「パー セント」は「%」に統一した。
1
時局匡救事業以前の道路工事規定と以後の京都府の道路工事規定まず,時局匡救事業以前の京都府の道路整備を見てみたい。
大正期,道路の法的整備が行われる。1919年(大正8)4月10日,道路法(法律第 58号)が制定される。これは,道路を,従来の国道,仮定県道,里道の3種類から,
①国道,②府県道,③郡道,④市道,⑤町村道の5種類とした(第8条)9)。
道路の道幅などが法で規定されてくるのは,それから8か月後の同年12月6日,道
路構造令(内務省令第24号)によってである。道路構造令は,道路・隧道の有効幅員,
勾配,屈曲部中心線の半径などを規定した。国道の有効幅員は4間(約7.2 m)以上と し,山地その他特殊の箇所に限り,その幅員を3尺(約0.9 m)以内縮小することがで きるとし,府県道および主要なる郡道および市道の有効幅員は3間(約5.4 m)以上と した。そして,町村道の有効幅員は2間(約3.6 m)以上とした。また,勾配について も規定し,国道の勾配は30分の1,府県道の勾配は25分の1より急なることを得ず,
とした10)。
問題は,この時規定された国道が4間以上,府県道が3間以上,町村道が2間以上と いう道幅が早期に実現できたかどうかである。結論を言えば,これらは都市部を除き,
1930年代時局匡救事業の開始まで実現できなかった。また府県道3間以上は,後述す る如く時局匡救事業の開始をもってしても,実現できなかった。
たとえば,京都府では,1886年(明治19)以来道路工事の補助金額を定めていたが,
1886年3月23日「郡部土木費及町村土木補助費支弁方法」を定め,宮津港・舞鶴港の 2港の工費は地方税支弁,5街道は地方税支弁,9街道は町村に属するものとして工費2 分の1補助の地方税支弁(第1類),さらに47街道は同じく町村に属するものとして工 費3分の1補助の地方税支弁(第2類)とした11)。しかし,工費の2分の1補助,ある いは3分の1補助といっても,大きな費用に変わりはない。現実には,ほとんど町村で の道路工事はあまり進まなかったとみていい。また,時局匡救事業が始まる直前の京都 府の道路整備の制度は次のようになっていた。1932年(昭和7)4月1日,京都府は
「町村土木費補助規程」を定め,町村または町村組合の負担に属する土木工事の府費補 助は,当該年度予算の範囲内においてこれを行う,とした。そして,補助すべき土木工 事費は一連の工事費1000円以上として,補助基本額は補助基本額の2分の1以内とし た(補助基本額は知事の査定した工事予算額より受益者負担金,寄附金,補助金などを 控除して定むとした,傍線筆者)12)。しかし,「一連の工事費1000円以上」で「補助基 本額は補助基本額の2分の1以内」では,工事費がある程度高く,しかも工事費の半分 しか補助されず,貧窮した町村では工事への起爆剤にはならなかった。
さて,1929年(昭和4)秋から始まる世界恐慌の波は,日本にも深刻な影響を及ぼし ていく。米価の暴落は特にひどく,綴喜郡青谷村(現城陽市)では1石当たりの価格の 変動は,1924年(大正13)の1石当たり42円から1930・31年には米1石当たり約18 円と約5分の2の価格に低落した。また京都府下の玉露・煎茶の1貫目当たりの価格 は,1931・32年頃には,大正末期の約2分の1まで下落している13)。その後さまざま
な地元などの努力により1936年(昭和11)には米価は1929年の水準にまで回復す る14)。
1932年8月,帝国議会では,時局匡救議会と呼ばれた第63臨時議会が開かれ,農村 救済のため1億7000万円の追加予算が可決され,9月早々,政府は府県に対し,匡救 事業の実施を指示した15)。京都府では,9月臨時府会が開かれ,時局匡救のための145 万円余の追加予算が可決された。145万円余のうちの115万円余は国庫からの補助によ るものであった16)。
時局匡救事業の開始である。時局匡救事業の開始にともなって,町村での道路工事補 助規定も大きく変わった。
1932年(昭和7)9月27日に制定された「農村振興土木費補助規程」(京都府令第81 号,公布の日よりこれを施行)では,農村振興のため市町村の施行する土木工事に対 し,当該年度国庫補助金の範囲内において補助するとし,補助金額は一連の工事費600 円以上のものに対し,補助金額は事業費の4分の3とした(傍線筆者)17)。
ほぼ半年前の4月,町村の補助金額を事業費の2分の1と決めたことからすれば,事 業費の4分の3という画期的な補助率である。しかも,工事費が1000円以上という条 件であったのに半年後は600円以上という工事費の低額である。町村にとっては工事の 極めてやりやすい条件ができたのである。
次節以降,国道・府県道・町村道が1932〜34年度の時局匡救事業においてどのよう に変化していくか,京都府の状況を具体的にみていこう。
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時局匡救事業と国道工事国道工事について,岡田知弘氏は,「京葉・京浜・中京・北九州という大工業地帯へ の集中が目に付く」ということと,「山陰や四国ではほとんど工事が行われていない」
と指摘して「国道直轄工事が『農村振興』とは裏腹に,4大工業地帯と地方都市とを結 ぶ形で,まさに資本主義の発展に引きずられながら行われていた」と指摘している18)。
「農村振興」を目的とする府県道・町村道と必ずしもそれにこだわらない国道では異な る論理があったことを意味する。しかし,京都府の国道工事では,すべてが工業地帯と 結びついているわけではない。たとえば,時局匡救事業中の国道工事について,1936 年7月の「土木概要」では,京阪国道,京津国道,京都国道(老ノ坂,観音峠)の3つ の国道工事を挙げている。ただ,京都国道は老ノ坂と観音峠という一部の工事であり,
全面的な道路工事ではなく,工業地帯と結びついていたとはいいにくい。
まず3つの国道工事について,大まかに見ておこう。
2.1 京阪国道改良
京阪国道は,起点を京都市下京区西九条坊城通旧市郡界から終点を大阪府北河内郡楠 葉村京阪国道大阪府界とする1万3276 m(約3里14町)の道路でこの当時において国 道2号線の一部である。この工事の工事前の状況は,「路面粗悪,直角屈曲十三箇所,
軌道平面交叉二箇所」があり,道幅はようやく5 m内外,甚だしい場合は3 m内外の 箇所があった,とされている19)。道幅が5 m内外とすれば,ほぼ2.7間内外であり,も しくはそれより道幅は狭かった。
しかし,この道は,鳥羽街道と並行して存在しており,明治初期,鳥羽街道は京都羅 城門より大阪につなぐ基幹道路として,紀伊郡上鳥羽村・横大路村では「約四間幅」20)
(約7.2 m)の広い道として存在していた。この鳥羽街道とは別に国道を開いたのであ
り,都市計画事業として,1928年(昭和3)10月起工式,1933年(昭和8)3月竣工し た。つまり,1931年9月の時局匡救事業以前から工事が開始され,時局匡救事業の最 中に竣工したことになる。支出総工費353万8462円20銭であるが,この財源326万円 を起債し,他は受益者負担金および一般府費でまかなった。なお工事の使役人員は延 40万4000人である。本改良区間の内,上鳥羽,下鳥羽,横大路,納所の各村は,工事 の途中で京都市に編入されたが,京都府において工事を続行し,完了と共に1934年1 月6日に京都市長に引継をした。
道幅は,起点より下鳥羽広長町まで4508 m(距離)が21 m(11.66間)で,下鳥羽 広長町より御幸橋北詰まで6058 mが18 m(10間),御幸橋北詰より終点までの2703 m が11 mである(6.11間)。これからすると,道幅は工事以前が5 mとしても,倍以上 の拡がりになったことがわかる。
2.2 京津国道(国道2号線)
京津国道は,国道2号線に属し,大津から京都府山科町日ノ岡夷谷までの幹線であっ た。この道路は,1929年(昭和4)5月の京都府臨時府会で,総事業費175万円で,
1929年度より1932年度に至る4か年継続で挙行するとして議決する。その後数次の変 更があり,1930年度(昭和5)より1933年度(昭和8)に至る4か年継続事業と決定 した。ちょうど政府において失業救済の目的をもって1931年度以降国道の直轄改良事
業にあたり,この事業を京都府側は内務省が執行し,滋賀県側は滋賀県が施行すること になった21)。なお,高野昭雄氏はこの事業を,「失業者を使用すべき事などが条件とな って,総工費の三分の二が国庫負担,残り三分の一が府費負担とされた」と指摘してい る22)。
この事業は,1930年度より開始された。しかし,1930年は雑費3000円が支出された が,道路費の支出はない。1931年度には工事が開始されていたが,道路費と雑費で8 万円が支出されただけで,本格的に工事が行われるのは1932年時局匡救事業と結合し てからである(1932年度支出額83万円,33年度支出額83万7000円)23)。
ところで,京津国道の工事以前の道幅は「僅々二間半及至四間ノ幅員」24),すなわち
2間半(約4.5 m)から4間(約7.2 m)の道幅で,この事業は自動車が自由に通れるよ
う幅員を拡張するとともに,勾配の緩和を図るものであった。とくに,京都府側の日ノ 岡峠,滋賀県側の逢坂山峠の勾配を緩和しようとした。すなわち,逢坂山峠の勾配を従 来の最急14分の1,平均19分の1を緩和するために,頂上において4 mを切下げ,最 急20分の1,平均22分の1とした。また,道幅は山地部が歩車道の区別なしとして11 m(約6.11間),平坦部は歩車道の区別ありとして16 m(約8.88間),併用軌道部が歩 車道の区別なしとして16 mとした。
なお,この工事にどれほどの労働者が使用されたかであるが,高野昭雄氏の研究によ れば,京都府管内で一日平均の労働者が,1931年度が373人,1932年度が305人とい う数を示している。その中で,高野氏は「その労働者の六割から七割は朝鮮人であっ た」という注目すべき指摘をしている25)。
2.3 京都国道改良(老ノ坂,観音峠)
この工事は26),国道18号線の一部の2つの工事,すなわち老ノ坂隧道工事と観音峠 隧道工事にかかわるものであった。「老ノ阪,観音峠ハ山陰ノ咽喉ヲ厄シ重要地点」27)と 位置付けられ,この事業は時局匡救事業がはじまって1933年度(昭和8)より着工さ れ,1936年(昭和11)3月に竣功した。また,本事業においては,2つの峠の前後の道 路も改良された。総工費93万9000円,その内京都府の分担金は31万3000円であっ た。なお,2つの事業の効果を完成前後の自動車所要時間でみれば,老ノ坂において10 分,観音峠においては20分の短縮になったという。
個別に見てみよう。老ノ坂は丹波・山城両国境に跨り,旧山陰街道の京都府乙訓郡大 枝村から同南桑田郡篠村に至る海抜220 mの峠である。この地は,1881年(明治14)
から1889年(明治22)まで工事が行われた京都宮津間車道開鑿工事で3万9161円余 という最も費用を要した老ノ坂隧道工事が行われた場所であった28)。「昭和十一年七月 土木概要」によれば,この隧道の前後の道路は旧道幅員は5.5 mであるが,峠にある
183 mの隧道は,有効幅員わずかに4.34 m,高さ4.3 m に過ぎず,かつ漏水が多く,自
動車すれ違いの通行が不可能だけではなく,路面不完全で人馬の交通すら困難である,
としている。したがって北側に併行して新隧道を掘鑿し,幅員を5.5 m,高さ5 mと し,路面は膠石舗装を用い,自動車すれ違いの安全を図る,とした。このようにして,
老ノ坂峠はあらたに生まれかわった。また,山城側にある老ノ坂峠直前の王子橋は橋面 を1 m上昇せしめ,かつ幅員を増大させて6 m(元は5.12 m)とした。
もう一つの工事が,船井郡園部町より同郡竹野村の間,海抜285 mの峠である観音 峠隧道工事である。観音峠は丹波地方での最大の難所であり,1881年(明治14)から の京都宮津間車道開鑿工事では隧道工事は行わず,1884年(明治17)から85年にかけ
て7間半(約13・6 m)の大々的な切り下げを行った29)。しかし,それでも急坂屈曲が
連続して,見透し悪く,交通上はなはだ困難で,昭和期の工事では,現在峠の南側にあ らたに20 m低下したところに,新隧道を掘鑿し,勾配の緩和を図り,最急勾配を20 分の1とした。また,有効幅員を老ノ坂と同様7.5 mとし,左右それぞれ路肩0.5 mを つけ,全幅員を8.5 mとした。新設隧道は幅員7.5 m,延長246 m,場所によってコン クリートとし,路面は膠石舗装とした30)。
なお,観音峠の工事について,興味深い新聞記事がある。1933年(昭和8)7月8日 の「観音峠切下工事 就労者問題解決す 農繁期も一段落つき 今後毎日五百四十名づ つ供給」と題する『日出新聞』の記事である31)。
目下人,馬,車の通行を停止し,内務省直営の下に工事中の府下船井郡の難路観音 峠の切下げ工事に当たり,関係町村から供給する就労者が折柄の農繁期のため需用 の半分にも達せず,工事の進行を阻害するというので就労者の供給を請合った府社
(不明)
会課では堪まりかね,既報の通り木村 □ 長自から出馬の上六日園部町役場に関係 町村たる同町長外須知町,富本,摩気,竹野,檜山,川辺の各村長を招き神野内務 省直営工事主任も列席の上種々協議の結果,農繁期も大体一段落がついたので今後 以上の関係各町村から毎日五百四十名の就労者を供給する申合せが成立し,なお賃 銀の支払場所も園部町の外須知町役場でも引受けることに協定がなり,問題は円満 に解決した(傍線筆者)。
この新聞記事によれば,「観音峠切下工事」とあり,1933年の工事時点では,従来通 り隧道ではなく,むしろ切下げ工事が予定されていたと思われる。さらに,「関係町村」
とあるが,その町村は,園部町,須知町,富本村,摩気村,竹野村,檜山村,川辺村が 含まれていることは間違いない。このように工事は広域的に住民をまきこんで行われた が,それでも都市部とは異なり農繁期には就労者の供給は困難であったことがわかる。
1935年(昭和10)3月14日,観音峠・老ノ坂両隧道の竣工式が行われた。観音峠は 1933年5月に起工し,延長246 m,幅6 m,総工費47万1000円,老ノ坂トンネルは総 工費37万8000円であった32)。
船井郡須知町で3度町長職をつとめ,社会主義者への財政的援助をしていた岩崎革也 は3月15日の日記に「往古より山陰街道の癌として難交通たりし観音峠の隧道竣成本 日開道往来す 午後小学校ニ出向き町長,校長,と扁額揮毫ニ付東京に依嘱の件商議せ り」と書いた33)。
3
府県道の工事次に府県道の工事についてみていきたい。
表1は,京都府「昭和九年度所属農村振興府県道路事業成績調」(土木部監理課『昭 和十年度(附十一年度)時局匡救町村土木其他補助事業一件 二冊ノ内二』(京都府庁 文書)をもとに,1934年度(昭和9)の山城を範囲として府県道路工事の具体的実施状 況を示したものである。特徴として,①改良した有効幅員(道幅)は3.5 mから6 mが あるが,多くが4.5 mであることが特徴である。後述する町村道の道幅が4 mであるこ とが一般的であることを考えると,府県道路はそれよりも0.5 mほど道は拡大されてい る。②事業費は,各工事によって違いがあるが,平均すると約2452円である。後述す る如く,町村道の事業費のほぼ倍以上の金額である。
表1 1934年度所属農村振興府県道路事業成績調
路線名 路線箇所 改良有効
幅員(m)
改良延長
(m)
事業費 精算額(円)
労働者使役 人員(人)
久多京都線 愛宕郡久多村字宮ノ辻 3.5 120 2,000 1,737 大原市原停車場線 同郡静市・野村字野中 3.5 140 999 305 井戸京都線 同郡雲ヶ畑村字祖父谷 3.5 380 4,000 2,991 岩倉停車場岩倉線 同郡岩倉村字岩倉 5.5 265 2,994 724 伏見柳谷線 乙訓郡新神足村字馬場 4.5 214 1,997 319 向日町善峰線 同郡大原野字小塩 3.5 100 2,000 960 亀岡上鳥羽線 同郡向日町字物集女 4.5 48 1,091 121 伏見向日町線 同郡同町字森本 4.5 142.7 2,500 270
同 線 同郡久我村,久世村 4.5 480 6,498 714
長池停車場水主線 久世郡富野荘枇杷荘 1号5.0
2号3.5 176 1,499 182
宇治長野線 同郡宇治町字宇治 7.0 214.5 7,999 1,244
宇治小倉停車場線 同上 5.0 366 5,000 1,166
宇治志水線 同郡寺田村 4.5 110 977 236
郷ノ口長野線 綴喜郡宇治田原村字奥山田 4.0 144.5 2,000 616 北倭玉水停車場線 同郡普賢寺村字多々羅 4.5 495.5 5,500 1,631 八幡長尾停車場線 同郡八幡町字八幡 5.0 270 9,400 1,997 玉水上狛線 相楽郡上狛町字艮町 4.5 171 5,800 352 加茂木津線 同郡木津町字鹿背山 4.5 500 4,000 2,775 湯船停車場奥山田線 同郡湯船村字尾保羅 3.5 115 2,000 908 中和束停車場木屋線 同郡中和束村字木屋 3.5 212 2,000 908 北倭木津線 同郡山田荘村字柘榴 4.5 300 3,000 749 大原堅田港線 愛宕郡大原村字大原小出石 4.5 213.5 1,000 414 久多京都線 同郡花背村字八枡,大布施,別所 4.5 157.5 1,000 671 同 線 同郡鞍馬村字鞍馬竹原外2 4.5 217 1,481 1,189 井戸京都線 同郡雲ヶ畑村 4.5 176.5 1,500 1,211 黄檗三室戸線 宇治郡宇治村字五ケ庄 4.5 120 1,000 156 大原野山崎線 乙訓郡大原野村字石作,石見大原野 4.5 173.32 1,500 242 京都粟生線 同郡乙訓村字今里,井ノ内 4.5 115 999 195 伏見柳谷線 同郡海印寺村字奥海印寺金ケ原 4.5 157.5 1,000 1,113 淀山崎停車場線 同郡大山崎村下植野,円明寺,大山崎 4.5 350 1,992 560 寺田水主線 同郡寺田村字寺田,水主 4.5 170 1,444 388
国道15号線 同郡宇治町 6.0 112 999 223
郷ノ口長野線 綴喜郡宇治田原村字奥山田 4.5 192 2,000 1,690 宇治長野線 同郡田原村字郷ノ口 4.5 122 2,000 1,297 田辺玉水停車場線 同郡三山木村字山本 4.5 66 1,500 282 北倭棚倉停車場線 相楽郡山田荘村字東畑 4.5 170 1,000 532 木津郡山線 同郡相楽村字相楽 4.5 128 1,000 200 笠置上野線 同郡笠置町字有市,笠置 4.5 223.5 1,500 632 同 線 同郡大河原村字北大河原,今山 4.5 136.5 1,500 515 大河原停車場月ヶ瀬線 同郡高山村字田山 4.5 83.7 1,000 429 出典:京都府「昭和九年度所属農村振興府県道路事業成績調」(土木部監理課『昭和十年度(附十一年度)時局匡
救町村土木其他補助事業一件 二冊ノ内二』(京都府行政文書,昭10-116)の内山城地方の5郡(愛宕・乙 訓・久世・綴喜・相楽の5郡−葛野郡の分は記載がない)の分抽出。
備考:①「事業費精算額」の円以下(銭厘)は省略した。
表2は1933年度(昭和8)の京都府主要府県道路の道路修築の状況を示したもので ある。
この表は15の府県道を表しているが,これはこの時期の京都府の114の府県道のほ ぼ10分の1である。府県道の数は1920年(大正9)4月1日の京都府告示第百六十七 号では,110の数である34)。また,1923年(大正12)4月27日の京都府告示第二百三 十五号では,93の数である35)。府県道の数は,各年で新たに認定あるいは廃止により 一定しないが,ほぼ100を前後する数であったようである36)。
さて,町村道が75% の国庫負担率であるのに対し府県道が33.3% の国庫負担率であ ることは前述した。町村道であれば残りの25% をその町村が負担しなければならない が,府県道であれば残りの66.6% はその府県がその負担をしなければならない。しか し,時局匡救事業においては,府県道事業において受益者負担という原則があった。こ の受益者負担は,京都府では2割が原則であった(表2参照)。これはどの府県道でも 同じであった。
そして,この受益者負担は,各町村単位で処理されるものであった。つまり受益者負
表2 1933年度時局匡救土木事業による道路工事受益者負担関係町村別箇所限書
(主要府県道々路修築) ※工費,雑費,事業費,受益者負担額はすべて円 番号 路線名 郡名 町村名 工費(円) 雑費 事業費 負担割合 受益者負担額
1 久多京都線 愛宕 花背村 8,000 800 8,800 2割 660 2 伏見向日町 乙訓 久我村 10,000 1,000 11,000 2割 2,200 3 宇治長野線 久世 宇治町 12,000 1,200 13,200 2割 2,640 4 玉水上狛線 綴喜 井出町 9,000 900 9,800 2割 ○1,980 5 加茂木津線 相楽 木津町 10,000 1,000 11,000 2割 2,200 6 亀岡篠山線 船井 西本梅村 8,000 800 8,800 2割 1,760 7 久多京都線 北桑田 黒田村 7,000 700 7,700 2割 1,540 8 山家水郷線 何鹿 奥上林村 10,000 1,000 11,000 2割 2,200 9 河守宮津線 与謝 上宮津村 13,000 1,300 14,300 2割 2,860 10 福知山網野線 中 奥大野村 11,000 1,100 12,100 2割 2,420 11 網野間人線 竹野 島津村 11,000 1,100 12,100 2割 2,420 12 福知山佐治線 天田 福知山町 10,330 1,033 11,365 2割 2,273 13 遅岫綾部線 何鹿 綾部町 5,350 535 5,885 2割 1,177 14 舞鶴停車場線 加佐 中筋村 4,000 400 4,400 2割 880 15 宮津久美浜線野間宮津線 与謝 吉津村 11,000 1,100 12,100 2割 12,100
計 144,682 14,468 159,150
出典:『昭和八年度 受益者負担一件 道路関係 工営課』(京都府庁文書,昭8−171)
備考:①4番の○1,980は,正確には1,960であるが,そのままにした。事業費は工費+雑費で,雑費は工費の1割 であり,したがって事業費は工費の1割加算である。たとえば久多京都線は工費が8000円であるが,雑費 は800円であり,事業費は8800円である。
担は事実上町村の負担だったのである。しかも事業費は町村土木費よりは大きい。
したがって,町村では,時に次のような改修費用の減額の要求があった。
㋐ 昭和九年弐月九日
与謝郡上宮津村長 上家利治郎(印)
京都府知事齋藤宗宜 殿
府県道河守宮津線改修費変更申請
昭和八年度ニ於テ御施行可相成府県道河守宮津線改修費工事ハ曩ニ工費額壱万四千 参百円ニ対スル地元負担金弐千八百六拾円也ノ御決定ヲ告知セラレ候処,此負担金 ニ代ルベキ寄付金ハ表面上上宮津村ヨリナルモ其内容ハ関係町村(宮津町,河守上 村,河守町)ニ於分担スル申合ナリシモノニシテ其協定実行ニ行悩ミヲ生シ屡々折 衝ヲ重ネ候㽴共所期ノ負担金納入不能ニ陥リ,本村単独ニテハ貧弱ナル村政上納入 困難ニ付減額ノ止ムナキニ至リ受益者負担金壱千九百八十円也ニ特別ノ御詮議ヲ以 テ減額変更相成度此段及申請候也
追而右受益者負担金ハ告知書到達次第直チニ寄付納入可仕候37)
この文書には同じ2月9日付の次の文書がある。
㋑ 受益者負担ニ代ルベキ寄付金更生ノ件
昭和八年六月十七日試案第三七号ニ依リ議決セル昭和八年度時局匡救土木事業府県 道河守宮津線改修工事費金壱万四千参百円ニ対シ受益者負担金ニ代ルベキ寄付金弐 千八百六拾円ヲ仝工事費九千九百円ニ対スル千九百八拾円ニ更生スルモノトス 右提出
昭和九年弐月九日
与謝郡上宮津村村長上家利治郎(印)38)
㋐の文書と㋑の文書を総合すると,次のようなことがいえる。すなわち,上宮津村で は工費額を1万4300円から9900円に変えるが,そのことによって地元負担金に代わる べき寄付金を2860円から1980円に減額いただきたいと主張する。減額は工費額さらに は寄付金額(地元負担金)ともに2割の減額であった。つまりは工費額を減額すること
によって,2割の寄付金額(地元負担金)を減額しようとしたのである。しかもこのよ うな減額はもともと本来の地元負担金2860円を上宮津村が沿道の宮津町・河守上村・
河守町と分担で寄付金という形で行おうとしたが,それがうまくいかず,この結果,工 費を減額して2割の受益者負担金を減額しようとしていたことを意味する。
この道路は,江戸期宮津から河守に向かう中心的な道であった(宮津の領主の大名行 列の道)。明治初期には河守町は3間3尺(約5.94 m)の広い道があったが,後に河守 上村に含まれる内宮村・二股村は2間(約3.6 m)ほどの道幅であった39)。しかし,こ の道は,普甲峠(千載嶺)という峻坂険路につながる道であり,1881年に開始された 京都宮津間車道工事においては,この道を避け,宮津への道は由良・栗田という海岸線 を通る道が選択されたのである40)。
しかし,この道路は宮津への中心的な道を京都宮津間車道に譲っても,加佐郡北部お よび与謝郡上宮津村にとっては生活上の重要な道であった。この道路は,時局匡救事業
期には4.5 mの道幅(2間5尺,河守宮津線〔加佐郡河守上村字二俣〕)に改造されて
いるようだ41)。
地元負担金がある限り,府県道路の場合も町村ではそれなりの課題を抱えていた。
4
町村道をめぐる工事表3は,1934年度京都府の時局匡救事業(町村道改良事業)がどの程度なされたか を『昭和九年度 農村振興市町村土木費補助一件』(京都府庁文書,昭9-75-1, 2, 3)を もとに示したものである(時局匡救事業の最終年度であり,不況もかなり緩和されてい る側面がある)42)。ただし,この表は時局匡救事業(町村道改良事業)の内,山城地方 の7郡(愛宕・葛野・乙訓・宇治・久世・綴喜・相楽各郡)の38町村の町村道改良事 業を示したものである。項目ごとに具体的に見てみよう(なお,表3以外の指摘も,特 に断らない限り『昭和九年度 農村振興市町村土木費補助一件』3冊の分析から明らか になった事実である)。
表3 1934年度(昭和9)農村振興市町村土木事業費補助調書
郡 町村名 路線 工事箇所 事業費
(円) 町村負担 幅員
(m)幅員未成
部分(m)最急勾配工事以前 最急勾配
着手 年月日
竣工予定 年月日
愛 宕 郡
雲ヶ畑村 町村道雲ヶ畑役場黒田村
役場線 雲ヶ畑村字中津川地内 864 村債 4 1/18 1/6 9・8・29 9・10.12 八瀬村 村道川原筋線 八瀬村地内 864 寄付金・
剰余金 4 10・1・15 10・3・30
鞍馬村 鞍馬村役場百井線 小字百井谷東原,百井谷
西原 864 寄付金 4 2 1/12 or
1/20 1/10 9・9・30 9・11・18 花背村 指定村道峯定寺原地新田
線
大字原地新田小字寺谷三
ツ田地内 1,296 村債 4 9・9・23 9・12・21
久多村 指定町村道久多村役場葛
川役場線 字東,山花街道地内 864 村債 3 1.8 1/20 1/15〜
1/12 9・9・10 9・12・10 葛
野 郡
中川村 指定町村道中川鷹峰線 字東山地内 648 村債 4 2.5 1/290 or1/300 1/4 9・10.5 9・12・13
乙 訓 郡
久世村 指定町村道大藪川島線 大字上久世小字橋本地内 648 部落
寄付金 5 1.8 10・1・10 10・3・31
羽束師村 地蔵本本郷線 大字菱川小字地蔵本 864 寄付金 4 9・12・20 10・3・31 大山崎村 小倉神社山崎停車場線 大字大山崎 1.296 起債及
一般歳入 3.6 10・1・10 新神足村 村道神足長岡線 大字開田 1,296 寄付金 6 2.5 9・12・13 10・2.13 海印寺村 町村道浄土谷線 大字浄土谷地内 864 町村負担金 3.6 1〜2 1/10 1/5 9・9・8 9・11・6 乙訓村 上里・長岡線 大字今里小字西ノ口 864 一般歳入 4 1.8 10・1・10 大原野村 大原野村道縄手線 大字大原野地内 1,080 寄付金 4 2 1/10 1/10 9・11・13 10・2・20 宇
治 郡
笠取村 指定町村道笠取村役場線大字笠取小字中庄引阪地
内 1,728 寄付金 3 1〜2 1/20 1/20〜
1/10 9・11・10
久 世 郡
槙島村 北内宇治町線 字薗場地内 1,080 一般歳入 4 2.7 1/15 1/8 9・11・13 小倉村 指定町村道伊勢田新田線 大字伊勢田小字毛語地内 1,512 一般歳入・
寄付金 4 2 1/100 1/50 or
1/80 9・12・6 10・2・3 久津川村 指定村道久津川村役場寺
田村役場線
大字久世小字北垣内,南
垣内地内 1,296 寄付金
(部落負担)3.6 1.5 1/50
(?)
1/50
(?) 10.1.10 富野荘村 富野荘役場青谷村役場線字富野北清水・里開字観
音堂地内 1,080 村債及村費 4.5 2.7 9・12・11
淀町 指定町村道淀町役場淀村
役場線 淀町字下津 1,512 土木費
積立金 6 5 10・2・20
綴 喜 郡
大住村 村道神ノ木杉ノ森線 大住村大字大住地内 1,080 寄付金 4 1.8 1/400 1/55 9・12・20 10・2・21 田辺町 指定町村道田辺興戸宮ノ
前線 大字興戸小字郡塚地内 648 町一般歳入 4 2.2〜
2.5 1/25 1/10 9・11・25 10・2・28 草内村 指定町村道草内村役場玉
水線 草内村字飯岡地内 1,080 寄付金
(部落負担) 5 2.42〜
2.6 1/30 1/20〜
1/10 9・9・27 9・12・15 普賢寺村 指定町村道普 賢 寺 村 役
場,打田線 字高船小字里地内 1,512 寄付金 4 2 1/20 1/5 9・12・7 10・3・6 多賀村 町村道第201号線 字石名田立石地内 1,080 村費 4 1.8 1/15 1/10 9・10・2 10・2・28 青谷村 村道青谷停車場線 大字市辺小字五ノ島地内 2,545 村費 5.5 9・11・1 9・12・30 田原村 村道荒木旧道線 大字荒木小字中出地内 1,296 村税及
寄付金 3.7 2 9・12・4 10・3・25 宇治田原村 町村道禅定寺通学道路 大字禅定寺小字砂川地内 1,080 村債 4 2.2 1/20 1/14
相 楽 郡
棚倉村 一般町村道藪浦渋川線 大字綺田地内 1,080 寄付金 4 2.7 9.11.24 10・3・10 高麗村 町村指定村道神童子・瓶
原線 864 寄付金 4 9・12・20 10・3・19
上狛町 町村道高麗寺線 字森ノ前地内 1,080 町基本財産
運用 3.7 1.8 1/15 1/8 9・11・27 10・3・20 川西村 指定町村道南垣外木津線 大字菅井小字古里地内 1,296 寄付金 5 3 9・11・25 山田荘村 一般町村道柘榴東畑線 大字柘榴地内 864 寄付金 3 1.3〜
1.5 1/20 1/8 9・12・4 10・3・25 相楽村 町村道相楽祝園線 大字相楽地内 1,296 村債 3.7 2 9・12・15 10・2・2 木津町 指定町村道木津町役場加
茂町役場線
大字木津小字殿城雲村地
内 1,080 寄付金 4 2.2 9・12・19 10・2・21
東和束村 町村道平田養治線 大字園地内 1,512 寄付金 3.7 1.5〜
3.0 1/5 9・12・6 10・2・8 大河原村 指定町村道大河原・高山
村役場線
大字南大河原小字阿僧及
和田ノ畑地内 1,080 村債 4 2.5〜
3.0 1/60 1/25〜
1/40 9・10・5 10・1・10 高山村 指定町村道高山村・大河
原村役場線 大字高尾小字カナイ地内 1,080 村債 4 1.82 9・11・1 10・2・20 出典:『昭和九年度 農村振興市町村土木費補助一件』(府庁文書,昭9-75-1, 2, 3)から摘出した。
備考:①綴喜郡八幡町大字八幡荘内大谷川河川改修工事および同郡有智郷村地内大谷川筋河川改修工事,乙訓郡大枝村橋梁工事(鉄筋コンクリー ト)は省略した。②「町村負担」は,費目が2種類にわたっている場合,一つの費目のみ記載したが,2種類のうち一つもそれなりに多い 場合,2種類とも記載した。たとえば,愛宕郡雲ヶ畑村の「町村負担」が村債200円と一般歳入18円55銭の場合,村債のみを記載し,愛 宕郡八瀬村の「町村負担」が寄付金が210円,一般歳入110円の場合,両費目とも記載した。③「着手年月日」「竣工予定年月日」の数字 の表記は元号である。
4.1 事業費
まず,事業費は村によって異なるが,1933年5月に京都府土木部が作成した「農村 振興市町村土木事業費補助事務取扱要項」(以下「事務取扱要項」と略す)に「工事ハ 一廉ノ工事費六百円以上ニシテ一町村二ケ所以内トスルコト」43)と規定にあるように,
648円から2545円まであるが,648円が3件,864円が9件,1080円が12件,1296円 が7件,1512円が4件,1810円が1件,1728円が1件,2545円が1件,総勢39件で ある。平均すると約1126円であり,先述した府県道の費用約2452円の半分程度であ る。また,補助金は事業費の75% と定められており,ほとんどすべての町村の事業が 実際75% であるが,唯一綴喜郡青谷村の場合は事業費2545円の内1701円で66.84%
となっている。
ともあれ,このようなごく一部の例外があるものの,ほとんどの町村が75% という 高率の補助金で,この補助金が町村の土木事業の盛況をもたらしたことは間違いない。
4.2 町村負担
それでも,75% の残り,25% は町村負担である。すなわち,町村道の場合,地元の 町村の負担額は,わずか経費の4分の1であった。では,経費の25% にあたる金額を 町村はどのように負担したのか。
この町村負担の金額を大蔵省預金部の低利資金融資でまかなう場合がある。すなわ ち,町内負担額も起債でまかなわれる場合があり,返済についても負担軽減が考慮され ていた。他府県であるが,筆者が自治体史を担当した滋賀県の『近江八幡市の歴史』第 八巻で使用した「昭和七年第拾村会決議書綴」44)に以下のような記述がある。
議案第二九号
起債及償還方法ノ件
時局匡救対策事業費ニ充当ノ為,起債及其償還方法ヲ左ノ通定ムルモノトス 昭和七年九月三十日提出
蒲生郡安土村長 伊庭慎吉 記
一,起債額 金 六百弐拾五円 一,起債ノ目的 村道改修工事費 一,借入利率 年四分二厘
但自昭和七年度至昭和九年度三ヶ年間ハ利子ヲ附セズ 一,借入時期 昭和七年度,但借入期日ハ県ト協定ス 一,借入先 滋賀県
一,据置機関 借入ノ月ヨリ昭和十弐年二月迄
一,償還方法 自昭和十二年度至昭和二十六年度十五ヶ年賦トシ別紙償還年次表
(略)ニ依ル
但借入先ノ都合ニヨリ低減アリタル場合ニ於テハ町村長限リ之ニ伴ウ償還年次表 ヲ変更スルコトヲ得,尚村財政ノ都合ニ依リ繰上償還ヲ為シ償還年限ヲ短縮シ又 ハ低利債ニ借換ヲナスコトヲ得
一,償還財源 一般歳入
昭和七年九月参拾日 安土村会議長
蒲生郡安土村長 伊庭慎吉
この滋賀県に提出した1932年(昭和7)9月30日付「起債及償還方法ノ件」による と,「村道改修工事費」の利子率が年4分2厘で,1932〜34年度まで3か年は利子を付 さなくともよいというものであり,据置期間を借入の月より1937年2月までとし,し かも償還方法は1937〜1951年まで15か年賦という好条件であった。このような条件 は,利子率・償還方法とも町村によって差異があったわけではなく,町村が村道改修事 業をやりやすいようにするという時局匡救事業の性格をよくあらわしている。
このように,町村負担が大蔵省預金部の低利資金融資による町村債によってまかなわ れる事例はかなり多かったと思われる。しかし,表3を見る限り,町村負担が町村債で
あるのは38件中10件(約26.3%)であり(ただし町村債+村費が1件含まれる),そ
のほかに寄付金(部落寄付金,さらに寄付金+剰余金を含む)が17件(約44.7%),町 村の一般歳入(村費)からが6件(約15.79%),さらに町基本財産運用や土木費積立金 や町村負担があった。意外に寄付金の比重が多かったと思われる。
4.3 道幅
この時改善された町村の道路の幅員はどの程度であったか。表3で明らかなように,
もちろん,たまに5 mあるいは3 mの幅員があるものの,ほとんどが4 mである。し たがって,時局匡救事業での町村道は,「道路ノ改良ハ指定町村道ニ在リテハ有効幅員 四米以上」(「事務取扱要項」)45)にほぼ合致していたといえよう。
では4 mに拡張される以前の道路の道幅はどの程度であったか。愛宕郡花背村では
工事以前1.8 mの平均幅員が,工事後は4 mになった。久世郡槇島村では工事前は2.7
mの平均幅員が工事後は4 mになった。同郡小倉村では工事前は2 mの平均幅員が,
工事後は4 mになった。さらに,同郡富野荘村では工事以前2.4〜2.7 mの平均幅員が,
工事後は4.5 mになった。表3の「幅員未成部分」をみれば,拡張以前の道の幅員がわ
かるが,ほぼこのように1〜3 mであることがわかる。工事以前に3 m以下の道幅が相 当数あったことでわかるように,道幅を4 mにすることは,相当な道幅の拡張であっ た。
4.4 勾配
勾配も明らかに緩やかになっていく。「事務取扱要項」に「縦断勾配(勾配−高久)
ハ最急十五分ノ一以下トス」46)とあるように,緩やかに設定されてゆく(ただし,すべ てが15分の1以下になるわけではない)。
たとえば,乙訓郡海印寺村では,工事前は最急勾配は5分の1,工事後は最急勾配は 10分の1であった。そのほか愛宕郡鞍馬村の「計画説明書」によれば,工事以前は,
最急勾配は10分の1から12分の1であったが,工事後は20分の1となってなだらか になる。愛宕郡花背村では最急勾配を従来の10分の1から工事後は12分の1あるいは 20分の1になる。愛宕郡中川村では,最急勾配は,工事以前は4分の1であったが,
工事後は290分の1あるいは300分の1になった。愛宕郡雲ヶ畑村は,最急勾配は6分 の1であったが,工事後は18分の1になる。久世郡槇島村では,最急勾配は工事前は 8分の1であったが,工事後は15分の1になった。久世郡小倉村では,最急勾配は工 事前までは50分の1から80分の1,工事後は100分の1となった。
4.5 請負
工事は「原則として直営」,やむを得ない場合は「地元部落請負」,危険率が高い工事 または地元部落請負を不適当と認める工事においては「一般請負」(指名入札)とする としたが47),一般請負は乙訓郡乙訓村と宇治郡笠取村の2か所で,ほとんどが村の直営 である。
1935年(昭和10)3月15日の乙訓郡乙訓村長より京都府知事宛ての「工事執行方法 に付承認申請書」によれば,1932年度,33年度は「直営」であった。しかしあらかじ め時間および就労賃金を定め就労せしめたが,いたずらに時間のみに拘泥し就労賃金が
予定を超過し村負担が増大したために,本年度工事はこれを「一般請負」としたい,そ の請負人は前両年度において技術的部分を主宰した就労者中の優秀者で村内殊に就労者 の信用厚いものに請け負わせる「指名入札」としたいと。実は乙訓村では,前年に未曽 有の暴風害(室戸台風)があり,とりわけ就労者の住居,納屋等の被害は甚大で,加え るに農繁期になり,就労者の出役がまったく不可能になっているという背景があった。
また,笠取村では1935年2月5日,笠取村長より京都府知事宛の「農村振興土木費 補助工事竣工期日延期願」によれば,竣工期限の変更ならびに手直しの箇所が多く,到 底期限内に竣功の見込がたたないために,竣功期限延期を願い出ていた。しかし,農事 多忙,さらに就労者が僅少,さらに硬岩層があることを予想し,「農民ヲシテ施行困難 部分ハ一般請負ニ付シ度シ」としている。
4.6 就労者
時局匡救事業が,昭和期の不況対策である以上,各村の就労者は生活困難なものを優 先して雇用しなければならなかった。先にとりあげた1933年5月に京都府土木部が作 成した「農村振興市町村土木事業費補助要項」の「第六 工事就労者」には,次のよう に記されている。「本工事ニハ必ス就労者名簿登録者タル農山漁民ヲ就労セシメ就労ノ 機会ヲ均等ナラシムルコト,但シ特ニ生活困難ナルモノヲ優先シテ就労セシムルコト」
(傍線筆者)。そして備考の「農村振興土木事業就労者名簿」には,「一 登録シ得ベキ 者ハ地元居住農山漁民ニシテ就労ノ希望アルモノタルコト 二 特ニ生活困難ナルモノ ヲ調査シ優先就労セシムルコト,コノ場合ハ摘要欄ニ「優先就労者」ト記入スルコト 三 就労者ハ身体強健ナルモノニシテ土木工事ノ就労ニ堪エエルモノタルコト」とあっ た。ただ,条件はいろいろ書かれているが,就労は原則として希望制である。生活困難 者は町村役場での調査が前提にあったが,「優先就労者(優先者)」の基準を決めるのは 町村であって,統一的な基準はなかったようである。
表4は,『昭和九年度 農村振興市町村土木補助一件』に記載されている1934年度京 都府土木事業の就労者の状況を山城地方だけを表にまとめたものである。
就労者は,各村で登録された。就労者は,「生活困難ナル者」である「優先就労者」
(実際の各村の記載では「優先者」とあり,本稿では「優先者」を使用する)とそれ以 外の就労希望者から成る。就労登録者は,愛宕郡雲ヶ畑村を除けば,ほぼ村内の人口の
表4 1934年度京都府町村土木事業就労者割合(山城地方)
郡 町村 戸数 人口(A) 就労登録
者数(B) B/A(%)就労登録者
(男)
就労登録者
(女) 優先就労者 その他の 就労者
愛宕
雲ヶ畑村 82 442 139 31.45 104 35 100 39
鞍馬村 234 1,151 41 3.56 41 0 0 41
花背村 186 925 108 11.67 95 13 2 106
久多村 68 381 44 11.54 44 0 0 44
葛野 中川村 116 544 61 11.21 61 0 0 61
乙訓
大山崎村 480 2,257 110 4.87 104 6 10 100
新神足村 678 3,430 375 10.93 − − 95 280
海印寺村 227 1,183 65 5.49 65 0 39 26
乙訓村 289 1,600 112 7 112 0 68 46
大枝村 231 1,232 110 8.92 100 10 65 45
羽束師村 172 918 60 6.53 60 0 20 40 宇治 笠取村 133 653 118 18.02 109 9 63 55
久世
久津川村 304 1,428 108 7.56 108 0 31 77
富野荘村 604 2,932 320 10.91 320 0 120 200
淀町 524 2,336 59 2.53 59 0 0 59
綴喜
大住村 465 2,325 115 5.35 115 0 54 61
田辺町 860 3,949 152 3.48 144 8 39 113
草内村 336 1,663 105 6.31 72 33 51 54
多賀村 405 1,923 223 11.59 198 25 180 43
田原村 630 3,173 150 4.73 135 15 65 85
宇治田原町 731 3,498 222 6.35 222 0 105 117
有智郷村 412 2,024 94 4.64 94 0 5 89
相楽
棚倉村 489 2,519 135 5.36 135 0 85 50
高麗村 197 1,480 87 5.87 87 0 27 60
上狛村 642 3,088 327 10.58 291 36 120 207
川西村 942 4,763 333 6.99 326 7 80 −
山田荘村 525 2,524 311 12.32 311 0 57 254
相楽村 373 1,797 144 8.01 144 0 11 133
木津町 1,399 6,819 43 6.3 43 0 0 43
東和束村 363 1,635 64 3.91 64 0 29 35
大河原村 379 1,862 63 3.38 57 6 0 63
出典:「農村振興土木事業就労者名簿登録者数調」『昭和九年度 農村振興市町村土木費補助一件』3冊(京都府庁 文書,昭9-75-1, 2, 3)
備考:①B/Aは村内の就労者の割合を示したものである。②「優先就労者」は村内の就労登録者中の「生活困難」
なる者を示す。③「その他の就労者」はそれ以外の就労登録者を示す。④乙訓郡乙訓村は「優先就労者」と
「その他の就労者」の合計が114になるが,そのままにした。