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著者 高橋 進之介

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媒介(カタリスト)としての「沖縄戦後史」―新崎 盛暉著『私の沖縄現代史』を中心に

著者 高橋 進之介

雑誌名 PRIME = プライム

巻 42

ページ 70‑78

発行年 2019‑03‑31

その他のタイトル Postwar Okinawa as the Catalyst: On Arasaki Moriteru s Contemporary Okinawan History and Me 

URL http://hdl.handle.net/10723/00003650

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書評論文

媒介(カタリスト)としての「沖縄戦後史」

―新崎盛暉著『私の沖縄現代史』を中心に

高 橋 進之介

(ヴィクトリア大学ウェリントン)

本論の目的は2018年 3 月に逝去した新崎盛暉

(以下、新崎)が晩年に著した一冊を主な手がか りとし、同氏の「沖縄戦後史」(または「沖縄現 代史」)の持つ今日的意義について考察すること にある。新崎の思想については、まだ体系立って 説明した研究は存在しないものの、これまで多く の識者がさまざまな機会に論じてきた。一例とし て、『沖縄同時代史』の「番外編」(『未完の沖縄 闘争』)の「あとがき」で、屋嘉比収はこれまで の新崎の歴史の描き方を「批判実証的現実主義」

と呼び評価している( 1 )。また、新崎の没後、新 崎と長年に渡り親交のあった我部政男や若林千代 による追悼記事が「沖縄タイムス」紙上にて発表

され( 2 )、さらに新崎が岡本恵徳などと創刊した

『けーし風』2018年 7 月号上でも新崎追悼の特集 が組まれ、同氏とこれまでさまざまな場所で関 わった人々が故人を偲んでいる( 3 )。これら追悼 記事や小論は、新崎の功績をさまざまな角度から 振り返っており、今後、新崎を社会思想史の観点 から研究する上で貴重な参考資料となることは間 違いない。

これらを踏まえた上で、本論の位置付けとは、

あくまで一読者として新崎の論考に出会い、その 後、国内外で新崎による仕事を直接垣間見、また その一端に携わる機会を持った者による、ひとつ のささやかな備忘録的なものに過ぎない。著者が

はじめて新崎と出会ったのは、2011年11月末頃の ことであった。当時、著者はオーストラリアの大 学院に在学しており、新崎が世話人を務める「米 軍基地反対運動をとおして沖縄・韓国民衆の連帯 をめざす会」(以下、沖韓民衆連帯)に関する聞 き取り調査を沖縄や韓国・平沢などで行ってい た。このとき新崎は、既に沖縄大学名誉教授とし て、大学での教育の第一線からは退いてはいたも のの、新聞そして書籍などを通じて精力的に内外 への発信を続けており、相変わらず多忙を極めて いた。そうした状況下でも著者の無理を聞き入れ、

12月から 1 月にかけて各 1 〜 2 時間ほど、合計 4 回に及ぶインタビューにも応じて頂いた。その後、

2012年に開催された上海ビエンナーレと亜際書院

(Inter-Asia School)共催会議での新崎による発 表の通訳、そこでの同氏の発表原稿の英訳などに 携わる機会に恵まれた。

以上のように、新崎のこれまでの取り組み、同 氏にとっての「沖縄戦後史」の意義について、い わば「外延」から考えてきた者として、著者は以 下の問いを中心的に考えていきたい。それは、新 崎にとって「沖縄戦後(現代)史」の特徴と意義 とは、私のような「外延」にいる者と問題の核心 部分とを繋ぐ「媒介」的要素にあるのではない か、という事である。媒介とは英語のカタリスト

(catalyst)の邦訳であり、元々は、異なる物質間

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媒介(カタリスト)としての「沖縄戦後史」

に起こる化学反応を誘導または促進する要素のこ とを意味する。そこから転じて、今日では、しば しば二つ以上の異なるものを繋ぐ役割を果たすも の、人、出来事について使用されることもある。

新崎は、この言葉を2012年10月に上海で開催され た「Asian Circle of Thought」での発表「沖縄は 東アジアの平和にとっての「媒介」となることが出 来るか?」(英題:Can Okinawa be the Catalyst  for Peace in East Asia?)」において用いた( 4 ) そこで新崎が論じた、いわゆる「媒介としての沖 縄」は、日本やアメリカだけでなく、東アジアと いう地域的関係性の枠組みの中で沖縄民衆史の意 義と可能性を積極的に捉えなおす試みであった。

ここで著者はもう少し、この媒介という言葉に こだわりたい。確かに、新崎が「媒介としての沖 縄」を論じたのは晩年のことかもしれない。しか し、新崎の足跡や膨大な著書を振り返ると、この 言葉が彼の生涯を通じた、ひとつの沖縄戦後史へ の「臨み方」であったように見えてくる。結論を 先取りすると、「媒介としての沖縄」とは、往々 にして「沖縄問題」とまとめられてしまう日本の 近代経験が抱える諸矛盾を、安易な「当事者性」

や「ローカリティ」といった言葉の枠内に還元す ることで理解したつもりになることへの批判であ る。同時に、それは「非当事者」や私のような「外 延」に位置する者が沖縄から発せられる様々な問 いに向き合わず、思考停止状態となることへの批 判でもある。つまり、「媒介としての沖縄」は、

沖縄民衆史が政治史、外交史といった分野だけで なく、社会史的側面から考えても、戦後日本及び 東アジア地域社会にとって分ち難いテーマである ことを考えるきっかけを与えてくれる「思考の パッセージ(passage/小径)」である、と考えた い。そこではローカル、ナショナルさらにはリー ジョナルな公共空間が重層的に折り重なりながら 存在している様子が見て取れる。つまり、誰もが 関係性の線上にいるのであり、そこに織り込まれ

た(enmeshed)存在となる。以下では、新崎に よる晩年の著作の一つ『私の沖縄現代史―米軍支 配時代を日本〈ヤマト〉で生きて―』をもとにこ の点を考えたい。

「オートバイオグラフィ(自叙伝)」という方法

『私の沖縄現代史』は2017年、岩波現代文庫よ り出版された。本書は新崎が自身の誕生から、家 族と共に東京から沖縄へ移住した1974年までを描 いた唯一の自伝的著作である。同時に、新崎や彼 の家族が戦時中そして戦後をどのように見つめ、

生きたか、そして新崎が在京時代に拠点とした、

沖縄資料センターでの活動の一部始終を垣間見る ことが出来る点で貴重な資料でもある。本書は 2017年 1 月に岩波現代文庫の初版が出る以前に、

『けーし風』上にて 3 年間に渡り不定期連載され ていた記事を基にしている。だが、本テーマの構 想自体は、少なくとも更にそこから 3 年ほど前に は新崎の中で固まっていた。事実、著者が2011年 12月から翌年 1 月にかけて集中的に新崎にインタ ビューした際、既に自伝を書き始めていると話し てくれた。(著者による新崎インタビュー、2011 年12月 6 日於沖縄大学)

内容に入る前に、同書における特徴のひとつに 触れておきたい。新崎は、沖縄民衆史を描く際、

人々がその時々の政治状況とどのように対峙して 来たかを事実に基づき厳密に描き出す。この手法 は、『沖縄問題二十年』(1965年)、『沖縄・70年前 後』(1970年)、『沖縄戦後史』(1976年)、『沖縄現 代史』(2005年)から晩年の著作である『日本にとっ て沖縄とは何か』(2016年)といった新崎を代表 する著作の中で長年に渡り一貫して表れている。

そこでは沖縄社会をとりまく状況を政治史、外交 史、時には経済史的な側面から多角的に網羅して いるだけでなく、そこには市民社会がその時々の 状況にどのように向き合い、対峙してきたかが常 に中心的なイシューとして描かれている。市民社

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会、と一言で表現したが、新崎のそれは労組や市 民団体などの組織だけでなく、無数の個人にも目 を向けている。これは、占領下沖縄という渡航規 制の厳しい中にあっても、新崎が現地調査や関係 者への取材(今日で言うところの「フィールドワー ク」)を徹底して行うことによって可能となった。

新崎はこれら多様なアクターの実践を時系列に即 し、平易な文体で綴ることで、沖縄社会の過去と 現在を巧みに構造化してきた。

上記のようなこれまでの新崎の著作と比較する と、『私の沖縄現代史』は幾分異なるスタイルで 書かれていることが一読して分かる。その理由と して、同書で新崎は自分がいかにして沖縄やそれ を取り巻く時代状況に向き合い、巻き込まれ、関 わってきたのかという、自らの半生を対象として 描いているからである点に尽きる。しかし、だか らと言って、新崎は自分の過去を記述することへ の戸惑いやそれを取り繕うということはなく、む しろこれまで同様、あくまで自分の過去を出来る だけ客観的に見つめ、必要に応じて史資料や他人 の言と照らし合わせながら、出来る限り事実に則 して記述している。言うなれば同書は、「オート バイオグラフィ(自伝)」という方法を駆使した かたちで、沖縄と日本の戦後を描いたと言って良 い。

「分断」を生きる

同書において、「媒介」がひとつの隠れたテー マになっていることは、特に第 1 章から第 3 章に かけて如実に表れている。これらの期間は、少年 時代から大学卒業までの、いわば新崎の思考の形 成期に当たる。この間、新崎は自身の中でのヤマ トとウチナーという二つのアイデンティティをど のように捉え、そして翻弄され、その後の沖縄民 衆運動の「同伴者」としての新崎がどのように形 成されたかを垣間見ることができる。

学生時代の新崎にとってのアイデンティティを

考える上で、出自と出生地、そして世代は重要な 側面を占める。新崎は、首里士族の出である父・

盛忠と奄美をルーツに持つ母・タヲの長男として 生を受け、家での会話はもちろん、親戚付き合い などを通じて、沖縄とウチナーグチは、新崎にとっ て日常の一コマとして存在していた。両親は共に 教員であった。盛忠は旧制沖縄一中を卒業したも のの大学に行かせてもらえず、那覇で代用教員を していた。また、母も沖縄県女子師範学校を卒業 した後、同じく那覇で教員をしていた。しかし、

経済的な理由から大学に行かせてもらえなかった 父は費用を貯めた後、東京へと渡り日本大学の夜 間部で学ぶ傍ら長男・盛暉が生まれた。その後、

一家は戦時中、熊本での疎開生活を経験しつつも、

基本的には東京の下町で暮らした。新崎は小山台 高校から東京大学へ進学し社会学を修め、卒業後 は東京都庁に勤めることからも見て取れるよう に、家庭の外では、いわゆる「東京人」であり、

そして何より当時の多くの男児がそうであったよ うに軍国少年であった。

新崎における〈日本〉と〈沖縄〉、二つのアイ デンティティに決定的な亀裂をもたらす二つの

「事件」が起こる。一つ目は1952年 4 月28日、対 日講和条約と日米安保条約が発効した日の出来事 であった。入学間もない高校の校長が全校生徒を 前に、この日、「日本の主権が回復した」ことを 祝して万歳三唱したのである。この出来事は、当 時まだ沖縄が米軍占領下に置かれ、「ふるさと喪 失感」に悩まされていた新崎にとって衝撃的体験 であり、新崎を米軍統治下の沖縄、そして日本に とって「戦後」とは何であるかという問いへと駆 り立てた一つの起点となった。しかし、新崎自身 も述べるように、戦時中の軍国・皇国教育の強い 影響とそこから来るアメリカ的民主主義へのシニ カルな態度で戦後を迎えた新崎青年がこの出来事 を克服した背景には、「反米愛国」主義的なイデ オロギーに拠るところが大きかった。これはその

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媒介(カタリスト)としての「沖縄戦後史」

年の弁論大会における「真の独立への道」と題さ れた発表へと繋がっていく。

しかし、反米愛国主義者的なナショナリズムに より、当時の時代状況に果敢に挑んだ若き日の新 崎にとって、より重大な二つ目の「事件」がすぐ に追い打ちをかけることとなる。それは、マッカー サーによる「日本人」と「沖縄人」をめぐる発言 及びそれと前後して新崎の目に留まった、アメリ カ人記者が描く沖縄住民に関する記事であった。

そこでは、「沖縄人」は「日本人」と異なる人々 であり、その日本人が戦争を放棄し、アメリカ人 が日本人に代わり沖縄を占領していることに沖縄 人は喜んでいる、というものであった。戦後日本 の復活からも切り離され、更にはアメリカの占領 を歓迎する、沖縄とは一体何なのか。この瞬間、

新崎は「自分の立っている大地が崩れる」感じが したと述べている。このような心境の中で、新崎 はそれまでの戦争観や日本人及び日本史をめぐる 見方を根底から転換させていくこととなる。

第 2 章から第 3 章にかけて、その後の新崎の沖 縄との関わり方にとって決定的となる一つの契機 が書かれている。それは同時に、「崩れた大地」

を別の仕方で再び作り直していく過程でもあっ た。東京大学へ進学した時期、特に卒業論文研究 を間近に控えた1956年は、沖縄において、米軍の 強権的な土地政策への抵抗が、プライス勧告を経 て「島ぐるみ闘争」へと発展した年でもあり、世 界史的には、ハンガリーにおけるソヴィエトへの 抵抗運動やスエズ運河の管理権に端を発する英仏 をはじめとする西側のエジプトへの攻撃が勃発し た年でもあった。こうした中で、新崎は、「島ぐ るみ闘争」を、ハンガリーやエジプトなどと並び、

沖縄の民衆が「闘う主体」として歴史上に現れた 出来事と考えた。つまり、日本における「占領」

という圧政からの解放を目指す(日本人としての)

民族運動として捉えたのである。彼は当時、既に

「古い」とされた民族概念を議論の中心に位置付

け、それをアメリカにおける亡命ポーランド人哲 学者で社会学者のフロリアン・ズナニエツキー

(Florian Znaniecki)などの議論を援用すること で説明を試みた。この視点は、新崎の卒業論文と して結実したばかりでなく、一部を発展させるか たちで、後の『沖縄問題二十年』へと繋がってい くこととなる。

ここまでの新崎の思想を考える上で重要となる 枠組みは、戦後日本における「分断」にある。ま た、この新崎の経験した「分断」は、奇しくも、

近年、世界的に見直しが進む冷戦史の日本におけ る一つの事例として考えることが出来る。中国史 研 究 者 の オッド・ ア ル ネ・ ウェス タッド(Odd  Arne Westad)らによる「グローバル冷戦論」研 究は、それまでの「東西イデオロギー対立」や「長 い平和」と考えられてきた冷戦理解が北大西洋に おける外交史、政治史的な見方であると批判し、

インドなどのポスト植民地国家における同時代の 経験から「冷戦」という枠組みそのものの再考を 促す先駆的役割を果たしている( 5 )。また、人類 学者ホニク・クォン(Heonik Kwon)は、ベトナ ムや朝鮮半島での調査をもとに、冷戦が「熱戦」

として展開したアジアの多くの地域において、こ の「分断」が国家だけでなく、同一民族、隣人、

そして家族といった肉親を引き裂いたものでもあ ることを慰霊や亡霊の存在を通じて論じている( 6 ) この認識に立つのであれば、終戦直後から50年代 半ばまでにかけての新崎の試行錯誤とその要因が 暗示することは、新崎個人の経験というだけでな く、戦後直後の日本における冷戦がもたらした「分 断」の一つのかたちとして考えることが出来るの ではないだろうか。そうであれば、この当時の新 崎を特徴づける「反米愛国」イデオロギーにはナ ショナリズムだけに留まらない社会的紐帯への希 求―言い換えれば、いかに時代状況により隔てら れた二つの社会を再び共通の軸(または媒介要素)

で考え直すことが出来るか―が存在した、という

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見方も可能になるのではないだろうか。続く第 4 章から第 9 章までは、大学を卒業した後、新崎が 都庁職員として勤務する傍らで、沖縄資料セン ターに携わり、そこで研究員としてのキャリアを 開始する時期に相当する。ここでは、沖縄の現状 を主に本土社会に向けて発信することを通じて

「分断」を乗り越えるべく奔走する新崎を垣間見 ることが出来る。

「地域研究者」という媒介者

大学卒業後、新崎は「沖縄資料センター」研究 員と東京都庁職員という二足の草鞋を履く生活を 送ることになる。同センターは、中野好夫の呼び 掛けで、岩波書店『世界』の初代編集長であった 吉野源三郎、弁護士の海野新吉、後に東大総長と なる加藤一郎らの協力のもと、1960年 2 月に設立 された。だが、当の中野が規制の厳しい占領下の 沖縄へ渡航することが実質的に不可能であったた め、東大時代の同僚であった日高六郎より新崎を 紹介され、以降、同センターを閉鎖するまで二人 三脚で歩むことになる。この間、新崎は『沖縄問 題二十年』、『沖縄・70年前後』といった代表的著 作を中野との連名で出版する一方、『ドキュメン ト沖縄闘争』や『沖縄問題基本資料集』などの史 資料の蓄積と出版に勤しんだ。また、同センター は当時の在京沖縄知識人や学生の交流の場という 位置付けも兼ねており、さまざまな勉強会や研究 会といった集いが持たれ、啓発活動が展開された。

そこには、新崎や中野はもちろん、新里恵二や霜 多正次といった新崎の先輩格に当たる在京沖縄知 識人のほか、国場幸太郎のような沖縄での大衆運 動を主導してきた人物、そして当時大学院生で あった岡本恵徳や沖縄タイムスのジャーナリスト であった由井晶子といった新崎とほぼ同世代の在 京沖縄出身者も集った。

もし学生時代までの新崎の経験や活動が、沖縄 と日本、そして東アジアの冷戦という、同時代を

土台部分で規定していた時代的背景、その具体的 現れとしての米軍による沖縄の占領の狭間で自己 を確立する過程であると捉えるならば、沖縄資料 センターの研究員として活動を開始した1960年代 から73年までの10年強の期間は、新崎にとって「島 ぐるみ闘争」以降、「歴史的な主体」として立ち 上がった沖縄民衆のエネルギーの行方を、東京を 拠点に、ヤマト社会に向けて発信すべく試行錯誤 してきた期間とも言える。誤解を恐れずに言えば、

この間の新崎の軌跡は、同時期に現れたアメリカ の若手アジア研究者のそれと比較可能なところが 多分にあったのではないか。具体的には、新崎と ほぼ同世代のアジア研究者であるマーク・セルデ ン(Mark Selden)やマリリン・ヤング(Marilyn  Young)といったアメリカのベトナム侵攻に反対し たCCAS(The Committee of Concerned Asian  Scholars)に属した研究者たちを意味する( 7 )

同書の第 4 章と第 5 章は、そうした新崎の試行 錯誤の模様を率直に綴っていると言える。この中 で著者が注目した部分は、やはり「媒介」につい てである。特に、新崎自身が積極的に「媒介者」

となることで、沖縄における祖国復帰運動をロー カルな枠の中だけに留めるのではなく、世界史的 文脈に位置付け直し、更には日本社会の変革に とって不可避か、という後に続く手法がこの時期 に確立された点である。これについて新崎は、み ずらかのスタンスを「沖縄問題が日本全体の問題 であることをヤマトの読者に理解させ」ること、

そして「沖縄の大衆運動のリーダーに、常に運動 の自己点検や内在的矛盾の直視を呼びかけるこ と」の二つとし、沖縄の祖国復帰運動を通じ、「は じめて本土人民と沖縄人民が、対等な資格で民族 的に統一される可能性が生まれる」(109頁)と考 えた。これは、彼の卒論以来のアプローチを更に 理論的に先鋭化させたものであった。そこには、

60年代中葉、沖縄の祖国復帰運動が本土の革新諸 勢力と連携しているという実感を掴むことができ

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媒介(カタリスト)としての「沖縄戦後史」

た一方で、在沖縄の諸勢力が次第に本土のそれら に系列化し組み込まれていくことに対する危惧の 現れでもあった。

いずれにせよ、このような背景は、直後に書か れた『沖縄問題二十年』、そしてその後続く『沖縄・

70年前後』、『沖縄戦後史』、『沖縄現代史』、そし て最晩年著作の一つである『日本にとって沖縄と は何か』を貫く新崎の思想を考える上で重要であ る。これらの「沖縄戦後史シリーズ」とでも呼べ る岩波新書シリーズは、学生や社会人などの間で 世代を跨いで長く読まれているものであり、読み 方、解釈の仕方、さらには評価も含めて様々な見 方が存在する。本論の中心的テーマである「媒介」

という観点から考える場合、そこには新崎が学生 時代より試行錯誤を繰り返しながら、沖縄の民衆 による運動をいかに日本社会全体の問題として捉 え、そして沖縄を一つの参照点としながら、いか に日本の社会変化を捉えることが可能か、という 核心的問いが一貫して貫徹されていると読むこと が出来るであろう。つまり、これらの著作により、

沖縄民衆闘争史を体系立って理解できると同時 に、沖縄の戦後史を理解することを通じて、日本 の現在を理解するという、逆説的な読み方が可能 となるのである。この意味で、『沖縄問題二十年』

が井上清などにより評価を受け、それまで日本戦 後史の文脈から抜け落ちていた沖縄の「戦後史」

に注目が集まる一つのきっかけとなったことは大 きな功績である。これを新崎の問題意識により引 き寄せながら読むのであれば、この著作が世に問 うたことは、沖縄、そして日本にとって「戦後」

とは何であるのか、つまり「戦後」という用語の 持つ両義性、そこから見えてくる歴史、記憶の認 識ではないであろうか( 8 )。これは新崎も言うよ うに、今日にまで続く問いである。この意味で、

同書における第 7 章は、第 6 章以前と第 9 章まで 続く、新崎在京時代の沖縄資料センターでの活動 の中心的な部分であると言って良い。

「場所」から「地域」を問い直す

最終章である第10章は、新崎が東京から離れ、

沖縄へと旅立つ復帰後の74年前後に焦点を当てて いる。新崎が沖縄へ移り住むことを決めた直接的 な契機は、のちに彼が学長・理事長を務めること になる沖縄大学が大学存続のために教員を補充す る必要がある、と友人の由井晶子から聞いたこと による。施政権返還前後、佐藤栄作首相の政策顧 問を務めていた大濱信泉元早稲田大学総長より

「私案」として、沖縄に二つあった私立大学(現 在の沖縄大学と沖縄国際大学)の統合が提案され たのである。この二つの大学は、文部省による大 学設置基準を満たしておらず、教員数の増加を含 む設備の拡充が急遽、大学存続のために求められ ていたのである。

しかし、新崎の沖縄移住を決定づけた背景を理 解するには、沖大存続問題と同時に、彼の個人史 的部分にも遡る必要があるだろう。前半の章にも 折に触れて言及されていたことではあるが、大学 卒業を前に、新崎は沖縄の新聞社に記者として就 職することを希望するなど、既に移住の萌芽が早 い段階から存在していた。しかし、復帰前50年代 中葉は事実上、それが不可能であり、都庁に勤務 する傍ら沖縄資料センターで研究員生活を送るな どしていたため、この計画はついに叶うことがな かった。だが一方で、東京という「安全地帯」か ら沖縄について発信し続けることに対し、「大言 壮語しているのではないか」という躊躇いは少な からずあった、と述べている(109頁)。こうした 中、1969年に予定していた 2 ・ 4 ゼネストの最終 的な頓挫、佐藤・ニクソン共同声明による沖縄施 政権返還の発表に示される復帰運動の質的変容、

それらを自身にとって納得できるかたちで総括し たいという考えがあったことを踏まえると(258 頁)、さまざまな要因が積み重なった結果の移住 であったと言える。

いずれにしても、結果として、この移住は復帰

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前後に鬱や体調不良に悩まされていた新崎にとっ て新しい風を呼び込むものであったことは間違い ない。新川明の呼びかけにより『新沖縄文学』に 携わり始めたのも沖縄移住後であり、また在京時 代から親交のあった岡本恵徳などと「CTS闘争を 支える会」を創設したのもこの頃からである。こ の運動は後に、「琉球弧の住民運動」、93年に発足 した「新沖縄フォーラム刊行会議」へと発展して いく。更には沖縄大学にて1988年、宇井純を初代 所長に迎えての地域研究所が発足し、現在に至っ ている。これだけを一瞥しても見て取れるように、

沖縄移住後の新崎は、復帰運動の全体的な総括と いう当初の目的に根差しながらも、それを深める ことで、在京時代とは異なる、沖縄の場所性に根 差した様々な「沖縄のかたち」を発信していった。

それは、結果として、沖縄の社会運動をめぐる理 解を狭義の特殊性から解放し、人間生活全般に関 わるイシューとしてより普遍的な次元に押し上げ るひとつのきっかけを作ったのではないか。

それを具体的に示す例が新崎の晩年における仕 事の一つである「アジアにおける沖縄」というテー マである。『私の沖縄現代史』を「媒介」という 観点から読み返すとき、新崎の韓国をはじめとす るアジアとの関わりについては欠かすことが出来 ない。冒頭にも述べた通り、新崎は1997年に発足 した「沖韓民衆連帯」の発起人の一人であり、世 話人でもあった。同書には、それに連なる新崎の 朝鮮半島、特に韓国との関わりが散見される。遡 ると本書の第 5 章では、請求権問題について民間 借款との引き換えに解決させようとした朴正煕政 権への民衆蜂起を受け、新崎が日記にて感嘆して いる模様が触れられている。また本書では言及さ れていないものの、新崎は沖縄大学学長時代、当 時明治大学の教員であった海野福寿より、日本軍 により徴用された元韓国人軍夫が中心となって創 設した太平洋同志会メンバーの 5 名が阿嘉島、渡 嘉敷島など慶良間諸島への同胞の慰霊に訪れたい

とする旨聞き及び、招待状を送り、 5 名のビザ発 給を支援した過去がある。またその返礼として慶 尚北道にて催された元軍夫慰霊祭にも招待され、

現地を訪問している他、沖韓民衆連帯による韓国 でのシンポジウムにおける講演のために幾度も同 国を訪れている。こうした長年の交流の結果、

2008年には『沖縄現代史』の韓国語版も出版され た。(2010年には中国語版も出版された。)

結びに代えて

こうした背景を踏まえて、新崎の「沖縄戦後史」、

「沖縄現代史」を東アジアの文脈で考える意義は 一体何であるだろうか。本論の最後にこの点に触 れたい。冒頭で著者は、「媒介としての沖縄」が 持つ意義について、ときに「ローカル」な枠の内 側の問題として表象され、捉えられがちな「沖縄 問題」について、これをナショナル、さらにはリー ジョナルな公共空間の問題として捉える手がかり となる可能性について論じた。これは何も無理や りに新崎の沖縄への取り組みを地域的な視点に広 げようとしたのではない。むしろ、東京時代から 沖縄時代にかけて、一貫して沖縄の民衆運動を世 界史的な地平に置き換え、普遍的な問題として論 じてきた中での一つの帰結である。新崎は「大衆」、

「民族」、「人民」、そして「市民」といった概念を 用いて、歴史の渦に巻き込まれつつも、それに抗 う中で歴史的な存在となった、多くの名もなき 人々の姿を沖縄を舞台に描いてきた。これは何も アラブ世界や東欧といった世界だけでなく、ポス ト植民地期の独立闘争と市民紛争、東西イデオロ ギー対立、そして分断として経験した東アジアの 諸地域においても共有可能な経験であるばかり か、むしろ、こうした東アジアこそが新崎の描い た沖縄の経験との関連性が共有できる場所なので ある。それはまた、「逆説的に」日本の現在性を 批判的に捉えることを可能とする「合わせ鏡」の ような機能も果たすのである。本論では、著者の

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媒介(カタリスト)としての「沖縄戦後史」

力量不足により、本書を非常に限定的に解釈した。

新崎盛暉の82年の生涯をどう捉え、そこから次を 紡いで行くかは、今後、読者一人一人に掛かって いるだろう。

( 1 )  屋嘉比収「解説 いま、『未完の沖縄闘争』

をどう読むか」『沖縄同時代史別巻1962~ 

1972』、2005年、凱風社、527頁.

( 2 )  『沖縄タイムス』,2018年 4 月19日.

( 3 )  『けーし風』,99号,2018年 7 月.

( 4 )  Moriteru Arasaki, 2014. “Can Okinawa be  the  Catalyst  for  Peace  in  East  Asia?” 

(translated by Shinnosuke Takahashi and  Chia-Hsuan  Liu), 

 (15)1: 43-62.

( 5 )  Odd Arne Westad, 2005. The Global Cold  War, Cambridge University Press.

( 6 )  Heonik  Kwon.  After  the  Massacre: 

Commemoration  and  Consolation  in  Ha  My and My Lai, University of California  Press,  2006;  The  Other  Cold  War. 

Columbia University Press, 2010.

( 7 )  Mark  Selden,  2018.  Reflections  on  the  Committee of Concerned Asian Scholars  at  Fifty,  “Critical  Asian  Studies” (50)1: 

3-15.

( 8 )  この問題については、阿部小涼「〈戦後〉

が見つからない」『春秋』(2010年 8 月)な どを参照してほしい。また、日本における

「長い戦後」が日本の近代に関し、文化主 義的な歴史解釈を温存させる一方で、「歴 史」をめぐる多元的な解釈、過去の存在を 捨象する装置であるという指摘はハリー・

ハルトゥーニアン(2000)によりなされて いる。(Harry Harootunian, 2000. “Japanʼs  Long Postwar: The Trick of Memory and 

the  Ruse  of  History”,  South  Atlantic  Quarterly (99)4: 715-739.)

◆新崎盛暉氏主要著作一覧(出版年順)

『沖縄問題二十年』(共著・岩波新書、1965).

『沖縄返還と70年安保』(現代評論社、1968).

『 ド キュメ ン ト 沖 縄 闘 争 』( 編・ 亜 紀 書 房、

1969).

『沖縄・70年前後』(共著・岩波新書、1970).

『沖縄の歩いた道』(ポプラ社、1973).

『戦後沖縄史』(日本評論社、1976).

『沖縄戦後史』(共著・岩波新書、1976).

『 沖縄・世替わりの渦の中で』(毎日新聞社、

1978).

『 沖縄現代史への証言』(編・沖縄タイムス社、

1982).

『 沖縄自立への挑戦』(共著・社会思想社、

1982).

『 観光コースでない沖縄:戦跡・基地・開発・

離島』(共著・高文研、1983).

『沖縄考 琉球弧の視点から』(凱風社、1984).

『沖縄・反戦地主』(高文研、1986).

『日本になった沖縄』(有斐閣新書、1987).

『 沖縄・天皇制への逆光』(共編・社会評論社、

1988).

『 新版観光コースでない沖縄:戦跡・基地・産 業・文化』(共編・高文研、1989).

『 戦後沖縄の社会変動と家族問題』(共編・アテ ネ書房、1989).

『地域主義からの出発』(編・学陽書房、1990).

『 90年代と沖縄の自立:文化的・地域的多元主 義と統合原理の転換』(自治総研ブックレット、

1990).

『 沖縄同時代史 第一巻〜第四巻』(凱風社、

1992).

〈第一巻〉『世替わりの渦のなかで1973〜1977』

(10)

〈第二巻〉『琉球弧の視点から1978〜1982』

〈第三巻〉『小国主義の立場で1983〜1987』

〈第四巻〉『柔らかい社会を求めて1988〜1990』

『沖縄修学旅行』(共著・高文研、1992).

『 沖縄同時代史 第五巻 「脱北入南」の思想を 1991〜1992』(凱風社、1993).

『新版沖縄・反戦地主』(高文研、1995).

『 沖縄同時代史 第六巻 基地のない世界を 1993〜1995』(凱風社、1996).

『 沖縄現代史』(岩波新書、1996).

『 沖 縄 を 知る 日本 を 知る 』( 解 放 出 版 社、

1997).

『 第三版観光コースでない沖縄:戦跡・基地・

産業・文化』(共編・高文研、1997).

『 沖縄同時代史 第七巻 平和と自立をめざし て1996〜1997.6』(凱風社、1997).

『 琉球・沖縄写真絵画集成(全5巻)』(監修・日 本図書センター、1998).

『沖縄のこれから』(ポプラ社、1999).

『 沖縄同時代史 第八巻 政治を民衆の手に 1997. 7 〜1998』(凱風社、1999).

『 本当に戦争がしたいの⁉:新ガイドラインの 向こうに見えるもの』(共著・凱風社、1999).

『 第二版沖縄修学旅行』(共著・高文研、1999).

『〈 和 英 両 文 〉 沖 縄 の 素 顔 』( 編・ テ ク ノ、

2000).

『現代日本と沖縄』(山川出版社、2001).

『 沖縄同時代史 第九巻 公正・平等な共生社 会を1999〜2000』(凱風社、1999).

『 沖縄同時代史 第一〇巻 新たな思想は創れ るか2001〜2003』(凱風社、2004).

『 沖縄同時代史 別巻 未完の沖縄闘争』(凱風 社、2005).

『新版沖縄現代史』(岩波新書、2005).

『第三版沖縄修学旅行』(共著・高文研、2005).

『基地の島沖縄からの問い』(創史社、2007).

『 第四版観光コースでない沖縄:戦跡・基地・

産業・自然・先島』(共編・高文研、2008).

『 沖縄「自立」への道を求めて』(共著・高文研、

2009).

『 新崎盛暉が説く構造的沖縄差別』(高文研、

2012).

『 「領土問題」の論じ方』(共著・岩波ブックレッ ト、2013).

『 終わらない「占領」:対米自立と日米安保見直 しを提言する!』(共著・法律文化社、2013).

『 沖縄の自立と日本:「復帰」40年の問いかけ』

(共著・岩波書店、2013).

『 沖縄を越える:民衆連帯と平和創造の核心現 場から』(編著・凱風社、2014).

『 日 本 に とって 沖 縄 と は 何 か 』( 岩 波 新 書、

2016).

『 私の沖縄現代史:米軍支配時代を日本(ヤマ ト)で生きて』(岩波現代文庫、2017).

( 『沖縄同時代史第一〇巻』(凱風社、2004)の巻 末著作一覧をもとに編集委員会にて作成)

参照

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