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直後から講和論争期を中心に

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直後から講和論争期を中心に

著者 久野 譲太郎

雑誌名 社会科学

巻 49

号 1

ページ 115‑143

発行年 2019‑05‑31

権利 同志社大学人文科学研究所

URL http://doi.org/10.14988/pa.2019.0000000093

(2)

戦後における恒藤恭の民族認識とその展開

─ 敗戦直後から講和論争期を中心に ─

久 野 譲太郎

法哲学者・恒藤恭は戦前戦後を通じて戦争と体制に反対した平和主義者として知ら れる。そしてその思想の中核には常に,個人や人権の尊重,そして国際平和と福祉を 目指すヒューマニズムの理想,すなわち恒藤言うところの「合理的精神」があった。し かし恒藤は戦時下,それを単に非歴史的に思惟することなく,現実世界での実現をこ そ理論的に模索,結果,人類的理念の立場に立ちつつも,かかる「合理性」を歴史的 に担う世界の変革主体として「民族」を評価するに至る。そしてこうした「合理性」へ と方位づけられた独自のナショナリズムは戦後になると冷戦や講和問題等,戦後の社 会状況のなかでそれらと対峙しつつ,より実践的に発展させられることとなる。具体 的にはそれは主権国家の協力により成る国際連合への期待や,とりわけ,法的制度に 基づく永世中立国の擁護という形をとって展開されたが,これらはまさしく国際平和 へと向けた合理的な民族の活用論であり,その認識の新たな発展にほかならなかった。

しかもその際,日本のナショナル・アイデンティティは人類的理念を実定法的に基礎 づけた新憲法の理念に求められたことも重要であった。これはまさに近年ハーバーマ スらによって主張された「憲法パトリオティズム」の議論をも先取りするような認識 といえよう。つまり恒藤の議論とは,ヒューマニズムの徹底という点で同時代知識人 たちと比しても,最も人類的理念の立場に立つ,進歩的なものであったのである。

は じ め に

法哲学者としても著名な恒藤恭(1888-1967)は,戦中はファシズムに抗し,戦後は日 本社会に新憲法が体現する平和主義や民主主義の理念が浸透するため終生尽力しつづけ た知識人として知られている。しかしそのゆえに従来の恒藤評価においては,恒藤言う ところの「合理性」ないし「合理的精神」,すなわち個人の尊厳や人権を尊重するヒュー マニズム,あるいは世界主義や平和主義といった性格が強調されるところとなり1),その ため,時にそれらの理念とは相反するような民族や国家のごとき存在に対する彼の姿勢 についてはほとんど視圏の埒外に忘却されるという事態を生んできた。しかしナショナ リズムが往々にして国際平和を撹乱し戦争を誘発する因由ともなってきたという近代の

(3)

歴史を顧みるならば,こうした問題こそは,とりわけ平和主義や世界主義をうたう論者 にとり,その鼎の軽重を問われるべき重要な論件であったと言わなければならない。そ して事実,恒藤自身もまたこの問題を閑却していたわけではなく,特に戦中から戦後を 通じ,一貫して自覚的に向き合っていた痕跡が認められる。そしてそうである以上,か かる問題はいみじくも広川禎秀も指摘するように恒藤の「平和主義の真価を問う問題」2)

として本来詳しく解明されるべき不可欠の考察課題といえよう。かく言う筆者もまたこ うした課題意識に基づき,すでに以前,戦前戦中期における恒藤の民族認識の在り様に ついては検討を加えたことがある3)。ただし今も触れたように,恒藤は戦前から戦後を通 じてその認識を発展させており,そのためその民族認識の特質と全容ならびに歴史的位 置を十全な意味で明らかにするためには,戦後における展開までを追跡して見定めてお くことが是非とも必須となる。

周知のとおり,敗戦後の日本とは,アメリカを中心とした連合国による占領とその政 策転換,そして講和問題と冷戦構造の固定化,独立と対米依存などというように,つづ けざまに主権国家の根本的有り様を問う問題に直面し,それに呼応して民族や国家に関 わるナショナリズムの在り方についてもまた,常に焦眉の問題として多くの論者たちに よって論じられてきた。従って,かかる時代状況や言説空間のなかにあって,恒藤が戦 時期の認識をふまえつつも,その後いかなる議論を展開していたかを思想史的に解明し ておくことは,その平和主義やヒューマニズムの真価を問う問題としてひきつづき重要 であるばかりか,ひいては,彼が一般に「戦後民主主義」の旗手とも見做されるだけに,

いわゆる戦後知や戦後日本におけるナショナリズム論の一斑を明らかにし,その特質と 可能性を歴史的に探るうえでもきわめて重要な意味を有していると言わざるをえない。

よって以下本稿では,すでに解明した戦前戦中期恒藤の認識をふまえたうえで,更に戦 後世界のなかで展開されるその民族認識の位相と特質を順次追跡,検討してゆく心算で ある。ただし,ここではそれに先立ち,まずは導入をかねて便宜のため,ごく簡潔なが ら戦前戦中期恒藤の民族評価の在り方を再度確認しておくこととしたい。

そもそも,恒藤は 1920 年代には,世界主義の立場に立ち,民族や国家をその排他性ゆ えに積極的には評価しない立場に立っていた。そしてその際の論理的出発点は「世界民」

という個人とその自由意志である。これは当時恒藤が定位したカントおよび新カント派 の哲学や方法論と密接に連関する認識であったが,しかしこのように抽象的に「世界」と

「個人」を定立して両者を一挙に連結する世界把握の方法は,「当為」の立場から「存在」

を批判する手立てとしては有効であっても,その分歴史外在的で,そこには現実の社会

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を変革するための実践性がかえって失われる危険性が包蔵されていた。民族評価という 点でもそれは現実の国際社会において,帝国主義秩序を破砕するものとしての民族運動 が有した歴史的意義を過少評価する姿勢へと繋がっている4)

しかし 1930 年代に入ると,恒藤はかような問題を自覚し,近代資本主義に立脚する抽 象的個人主義を越えるべく画策するようになる。たとえば彼は歴史を三つの段階に分か ち,前近代を「非合理的社会主体性」の時代,近代を「合理的個人主体性」の時代とし たうえで,未来を「合理的社会主体性」の時代として展望している。恒藤はそこで,従 来抽象的な「個人」にのみ求めて来た「合理性」という理念を,「社会」や「歴史」のな かでこそ内在的に把え返し,探求する姿勢を明確にしてゆくのである。そしてかかる過 程において,歴史的集団たる民族の意義にも注意が払われてゆくこととなる。ただし注 意すべきは,恒藤がそこでも従来の理想主義的立場までは放擲することなく,むしろそ の立場から,世界主義の理念へと方位づける形で民族を評価したことであった。つまり そこでは,民族や国家は世界史の形成主体として独自の歴史的意義を積極的に承認され るが,しかしそれは排他的な民族主義や国家主義のように独善的に自閉するものとして ではなく,一層大きな,しかも未来に目指されるべき「世界社会」という人類的理念に 制約されつつ,そこへと向けて現在する「国際社会」にその変革を求め自らアンガージェ する主体としてこそ,その意義を高く評価されたのである。恒藤はかような民族の性質 ならびに世界との緊張関係を「閉じた社会」と「開かれた社会」というベルクソンの概 念を援用しつつ次のようにも整理している。すなわち,恒藤によれば,「開かれた社会の 道徳も閉じた社会を現実の基盤とすることによってのみ,成立し展開し能うものたるこ とを知らねばならぬ」が,しかし同時に,

閉じた社会としての性格を多分にそなえる民族共同体の生活も,単に閉じた社会 の道徳のみによって制約されるものではなく,歴史的発展の経過につれて,次第に 開かれた社会の道徳によっても制約されるに至るのであり,閉じた社会の道徳と開 かれた社会の道徳とは互いに交錯し融合して,現実の民族共同体の道徳をかたちづ くることとなるのである。5)

つまり,恒藤の言う民族共同体とは「閉じた社会」の道徳(民族独自の歴史や文化)を 重要な基盤として有しつつも,常に「開かれた社会」の道徳(人類的理念,合理的精神)

をこそ志向する点で,強く理想主義的な色彩を帯びるものとして在ったといえよう6)。そ

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してかかる認識を基礎として,彼は戦後新たな情勢下でもその独自の民族認識を一層発 展させてゆくこととなるのである。それでははたして,それは具体的にはどのような形 で展開されたのであろうか。以下ではいよいよ上記,戦前戦中期の認識をふまえ,戦後 世界のなかで展開される恒藤の議論とその特質を追尋してゆくこととしたい。

1 敗戦直後における恒藤恭の世界主義と民族評価

1.1 「世界」と「民族」の関係

戦中,時代との対峙を通じ世界主義の立場から民族や国家を承認した恒藤であったが,

それではかかる「合理性」を公準とした民族あるいは国家の評価は,敗戦直後7)ではど のようになされていたのであろうか。まずはこの点を簡単に概観することから始めよう。

そこで敗戦直後の論説類を俯瞰するとき,まずその評価として目に留まるのは,戦後 最も早い段階で書かれた論文「国際平和機構の思想的基礎」(恒藤恭「国際平和機構の思 想的基礎」『中央公論』1946 年 5 月)に観られる「国家」の位置づけである。それはその 名のとおり,「国際連合」という新たに建設された国際平和機構成立の歴史的・思想的基 礎を分析し,その意義と問題とを提示しつつ,かかる国際平和機構との関係のなかで日 本の在り方を検討しようとするものであるが,そのなかで恒藤はトルストイやクロポト キンの平和主義についても紹介しつつ,それを思想としては魅力的としながらも,それ ら無政府主義思想が「国家」の役割を否定するという点において,決して現実の国際平 和機構実現のために寄与しえるものではないと厳しく批判をしている8)。つまり恒藤はこ こで国際平和の建設主体として国家が担う積極的役割を評価する姿勢を早くも打ち出し ていると言える。もちろん,かかる考え方の背後にはのちにも触れるように,「世界国家」

構想が非現実的な現下の状勢においては「世界平和」よりも「国際平和」の実現こそが 現実的課題であり,そのためには各主権国家を単位とした平和機構構築への協力こそが 最重要事項という恒藤の客観的認識がある。しかしいずれにせよ国際平和確保のために 主権国家が主体的役割を担いえるという考え方は,戦前戦中以来の恒藤の民族や国家と いったいわゆるナショナルな存在への肯定的視座の連続性を垣間見せるものとして興味 深い。もっとも,上の論説では国際連合の構成員という限定された国際政治の文脈でそ の意義が語られるためその主体は「主権国家」として主張されているが,より広い文脈 においてはむしろその基礎をなす歴史的存在としての「民族」への強いこだわりとその 意義こそが語られてゆくこととなる9)。つまり恒藤は戦中を通じて発展させた民族認識を

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ふまえ,敗戦直後においても歴史の発展や国際平和建設の主体として民族や国家的存在 が有する歴史的意義と可能性,そして積極的役割を強く主張していたといえよう。

しからば一方で,この時期 20 年代以来の恒藤の「世界主義」はどのような展開をみせ ていたのであろうか。次にこの点に眼を向けておくと,そこにはやはり依然として民族 や一国的事象をそれ自体として独立して観ることなく,あくまでも世界の観点から位置 づけようとする姿勢が顕著に見受けられる。その典例としては恒藤が日本を含む枢軸国 の敗戦とそれに対する国際裁判を「世界史」の観点に立って考察しつつ,その意義を「世 界史の審判」と論じた論文「世界史の審判と人間による審判」(恒藤恭「世界史の審判と 人間による審判」『経済学雑誌』1947 年 1 月)における認識を挙げることができる。恒藤 はそこでまず世界史の過程を世界審判とするヘーゲル流の考え方には与しがたいとしつ つも,しかし「特定の時期に着眼するときは,世界史の経過が世界審判としての意義を もつ場合のあることは否定し難い」として,今次の敗戦はその一事例と規定した10)。な ぜならそれは枢軸国による侵略戦争が人類の幸福と道義の進展,すなわち「世界史」の 進歩に挑戦するものと判断されうるからである。従って,世界的,人道的立場から大戦 の戦犯を審判する極東ならびにニュルンベルク裁判は実質的には「世界法廷」としての

「世界史的意義」を持つ裁判であり,また同時に国連創設を中心とする国際社会の変革は,

かかる世界史の展開を真に世界審判たらしめる画期的事象と把えられるのである11)。こ うした認識はまさに 20 年代以来恒藤が懐いてきた「合理性」の獲得に世界史の進歩を見 る恒藤独特の進歩史観のうえに成り立つものであるが,かような発言からもわかるとお り,「世界主義」は従来どおりここでも恒藤の認識に対し「世界」ないし「開かれた社会」

という観点を提供しつづけているといえよう。そして事実,恒藤はこのような観点に立っ て,日本社会の再建を世界史の発展的展望のなかに位置づけてこそ論じてゆくこととな るのである12)。恒藤はそこで,「「新しく生まれる日本」と呼び得られるものの何たるか は,終戦の結果として日本国の遭遇せる状勢と日本国民にあたへられた運命とを世界史 の観点からふかくかへりみることによつて初めて把握し得」13)るとしたうえで,「日本民 族」の新たなる「民族的大事業」とは同時に「世界史的意義」と「世界史的使命」をも 併せ持たねばならないものであり,かかる観点に立ってこそおこなわれる必要のあるこ とを繰り返し強調している14)。つまり彼はここでまさしく,「民族」を「合理性」を介し て「世界」という全体的視野のなかで相対化しつつ,その存在意義を「世界史」の発展 方向へと方位づける形で積極的に論じたわけである。従ってこうした恒藤にとっては,求 められるべき真の「愛国心」もまた,それは当然ながら「「世界平和の確保による世界文

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化の向上,発展こそは一切の人類の実践的活動の最高の目標であること」を確信すると ころの世界的精神とかたく結合せる愛国心」15)でなければならなかった。戦後盛んになっ た「愛国心」論争では,挙って戦時とは異なる「新しい」愛国心が主張されたことで知 られるが16),この点では恒藤が唱える如上の「愛国心」もまさにこうした思潮に近かっ たともいえよう。しかし恒藤の場合,それが単なる戦中期の独善的愛国心に対する反省 と嫌悪というある種過去への反動性を帯びたものとしてではなく,むしろ戦前戦中より 一貫して把持されてきた独自の民族認識に基づくものとして在ったことが重要であっ た。そこにこそ歴史認識とヒューマニズム認識に裏打ちされた恒藤の認識の深さもあっ たのであり,その認識は戦時においてすでに戦後世界にまで届いていたといえよう。

1.2 「世界国家」論への距離と「国際連合」への期待

以上ではひとまず,戦前戦中期の認識をふまえつつ敗戦直後における恒藤の世界主義 と民族(国家)および両者の関係認識についてごく簡潔ながら概観してきたわけである が,ここではそれと関連して,もう一点補足しておきたい点がある。それは先にも少し だけ触れた,当時コスモポリタニズムの機運軒昂の煽りを受けて盛んに議論された,原 子爆弾の時代に対応するものとしての「世界国家」論や「世界政府」運動に対する恒藤 の反応である。20 年代の初頭よりいち早く「世界主義」を唱え,戦時下でもその理想を 放棄することなく,敗戦直後も依然として「世界史的観点」に立ちつづけていた恒藤が,

当時盛り上がったそれらの議論に対しいかなる反応を示したかは興味ある問題と言える からである。しかしながら,結論を先取して言うならば,恒藤は 20 年代から戦後に至る まで一貫して意外にも世界国家や世界政府の性急な建設には冷淡であった。それではそ れは一体なぜであろうか。この点は恒藤の民族認識を観るうえでも看過できない重要な 論点を孕んでいると思われるため,以下ではその理由につき少し詳細に検討しておくこ ととしたい。

そこで早速その理由を追尋するならば,そこにはまず,何よりその早急な実現はあま りにも非現実的という恒藤の客観的な国際情勢認識があった17)。と言ってももちろん恒 藤は「世界国家」が持つ高遠な理想自体を否定するわけではない。恒藤は「民主的日本,

平和的日本の建設を目ざして懸命の努力を続けると同時に,世界国家の実現といふ,偉 大なる世界史的事業の成就を目ざして熱意のこもつた努力を続けて行くこともまた,わ れわれの任務に属する」18)とその理想への賛意を明確に表明している。しかしながら現 状では各国の主権を否定して統一国家を建設することはユートピア的発想を出でず,現

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実の国際情勢を無視してそのような理想を掲げるだけでは非現実的な空論に陥らざるを えない。従って恒藤はその理想は全面的に肯定しながらも,抽象的かつ短絡的な世界国 家論には距離を取りつつ,むしろそのための現実的方途として,「国際連合」の建設とそ の役割にこそ期待をかけたのである。恒藤は言う。「国際連合の結成は,ヒューマニズム の思想の一面たる世界主義的思想にもとづく国際秩序の革新のために,世界的規模をも つ国際法的制度を設定したものとして,深い関心に値いする」19)と。彼は少しのちにも 同様の見解を述べている。

世界のあらゆる国々が自己の主権を放棄し,世界国家の樹立に協力する態度に出 るならば,戦争の発生する余地も消滅することとなるであろう。しかしながら,こ の種の願望を固執するだけで,われわれの当面している世界の現実に対して何らの 積極的努力をもこころみることをしないということは,ひっきょう,国際平和を破 壊しようとする傾向に対して是認的態度をとるのと帰着するところは同一である。

(中略)「国際連合か,さもなければ世界国家か」というのは,決してわれわれの思 惟をみちびくただしい方式ではなく,「国際連合を通じて,遠い将来における世界国 家の実現へ」というのが,真に正しい方式だ,といわざるを得ない。20)

これが自身世界主義の立場に立ちながらも,恒藤が世界国家論には消極的姿勢を示し た第一の理由であった。ただし,こうした冷静な認識からカントと方向を同じくして世 界国家に距離をとり,国家群の連合構想をこそ評価する姿勢は 20 年代にも見受けられた ものであった。当時恒藤はそこから世界国家建設に先立ってそれを創る「世界民」とい う個人の自覚を求め,結果,教育を重視する方向へと向かっていた21)。それに対しここ 戦後の段階では,かような視点に加え更にもう一点,別の視点からした世界国家論への 消極的姿勢が示されることとなる。そしてそれこそは,「民族」という視点にほかならな い。

周知のとおり,戦後,国際社会では国際秩序の変動に伴ってアジアやアフリカ地域と いったいわゆる「第三世界」において,植民地状態から脱しようとする民族運動が続出,

独立国家形成への機運が大いに高まりつつあった。そしてそれはのちに,フランスが経 験し,サルトルやボーヴォワールら知識人の民族解放支持を呼び起こした 1954 年のアル ジェリア戦争等に観られるごとき大規模な独立闘争にまで発展してゆくこととなった が,それだけ当時,第三世界においては独立志向が熾烈であることをそれらの事件は物

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語っていた。従ってこのような第三世界の現状を無視し,仮に現状のまま各国の主権を 放棄させる世界国家建設へと飛躍するならば,かかる民族の独立と発展は蔑ろにされ,独 立したばかりの民族国家,或いは独立しようとする民族の意思と自主性がかえって圧殺 されかねない危険性があったのである。戦前戦中を通じて民族が有する合理的側面に注 目し,それが世界史の進歩に果たす役割を評価した恒藤からすれば,こうした事態とは まさに危惧すべきことであったといえよう。そのため恒藤は述べる。

アジア,オセアニアおよびアフリカには新しく国家的独立に到達したばかりの諸 民族もあれば,近い将来において国家的独立を獲得することを熱望している諸民族 もある。独立国家を形づくりながら民族的発展を遂げて行く段階を通過することな く,一足飛びに世界国家の中に編入されることをそれらの民族は到底肯んじないで あろう22)

恒藤にとり,世界社会の在るべき在り方とは,「世界社会の内面に存在する一切の国民 または民族がおしなべて平等の条件の下に正義と自由との要請にかなった法によって秩 序づけられた社会生活を営みうるような状態に到達する」ことにほかならなかった23)。そ れに照らせば,「特有の歴史的伝統をもつてをり,その国民はなんらかの程度の祖国愛を もつてゐる」24)各民族・国家の自主性と独自性を軽視し,独立国家としての民族的発展 を望む諸民族の要望を無視して一挙に世界国家へと至ることはまさに国際社会における

「正義と自由の要請」に背くこととなろう。このため恒藤は,植民地支配からの独立運動 によって合理性を獲得した各民族が各自の立場を活かしつつ,一層合理性の主体として 民族的発展を遂げてゆくことを期待したのである。つまり恒藤はそこで,各民族の政治 的独立,すなわち合理性を有した民族の在り方を尊重する立場から,それらを圧殺して 創られる世界国家をではなく,かかる民族的成熟を望む新興民族が新生日本同様,特有 の歴史的・文化的基盤に立脚しながらも「合理的精神」,「ヒューマニズム」に沿った「行 動」をおこなうことでそれ自体が成熟しつつ,しかも同時にそれら民族群の行動と協力 によって国際社会・国際平和が構築される途をこそ展望したのだといえよう25)。これは まさに戦中以来の「閉じた社会」と「開かれた社会」の論理に基づくものであり,恒藤 が語る「(ヒューマニズムの精神は―引用者)民族的であると同時に人類的な愛情と結び ついている」26)というヒューマニズムの二重性もまたかような文脈において理解をしな ければならない。そしてまさにこした点に基づいて,恒藤は世界平和実現の方途として

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世界国家の早急な建設ではなく,その機能不全と欠陥を認めつつも,「このたびの世界大 戦によってもたらされた国際連合の成立は,世界史をして真に世界審判たらしめる方向 へと国際社会が重大なる一歩を踏み出したことを意味するものと考へられる」27)として,

なお国連の果たす役割に期待をかけたのである。そこには敗戦直後における恒藤の国連 への高い期待が見事に表現されていたと言えるであろう。またついでながら触れておけ ば,この時期にはかかる国連の創設に限らず,それに伴い人類的理念の立場から国際政 治を方向づけようとする動きが国際的にも盛んになりつつあったことにも留意しておく 必要がある。1945 年の国連憲章やユネスコ憲章,そして 48 年の世界人権宣言等の採択は そうした動きを端的に表すものであったが,こうした動向とはおそらく恒藤にとっても きわめて重要なできごととして受け止められていたに相違ない。なぜならそこにうたわ れた平和や人権の保障とは,まさに戦後日本国憲法が前文や基本的人権条項等によって 高らかにうたいあげた理念と合致するものにほかならなかったからである。それはつま り,日本という一国的な次元において実定法的に基礎づけられた理念が,同時期,国際 社会というより普遍的次元での理念としても採択されることで,ナショナルなレヴェル での理念と世界的なレヴェルでの理念とが一致したことを意味している。実際恒藤自身,

当時講演のレジュメで「確固不抜ノ正シイ理想―世界的デアルト同時ニ国民的(中略)新 憲法ノ精神―国連憲章 ユネスコ憲章」などと誌し,憲法の理念と国連やユネスコ憲章の それとを連続的なものとして把えていた28)。その意味では敗戦直後とは恒藤にとり,ま さに「閉じた社会」も「単に閉じた社会の道徳のみによって制約されるものではなく,歴 史的発展の経過につれて,次第に開かれた社会の道徳によっても制約されるに至る」と いう世界史進歩の過程,すなわち人類的理念へとナショナリズムを包摂するヒューマニ ズムが,もはや単に恒藤個人が描いた理想であるに留まらず,歴史的現実として眼前に 開示され,現実に根拠づけられつつあった時代であったともいえよう。

しかしながら周知のとおり,戦後こうした進展をみせたかにみえる歴史も以後恒藤が 望む方向へと直線的に向かうわけでは決してなかった。1948 年 6 月のベルリン封鎖以降 東西世界の対立による冷戦は深刻さを増し,アメリカの占領政策は日本の民主化から経 済成長および再軍備化,すなわち共産主義に対する防波堤とする政策へと 180 度転換し てゆく。そして 1950 年の朝鮮戦争勃発をひとつの契機として,日本はその地位と安全保 障をめぐりいよいよ全面講和か片面(単独)講和かという,その後の日本の在り方を現 在に至るまで規定する重大な岐路に立たされることになるのである。恒藤の議論もまた かかる事態に直面してより具体的な展開をみせることとなるであろう。よって今や,講

(11)

和論争期における恒藤の議論を検覈,もってその民族認識の具体的発展を跡づけるべき 段取りとなる。

2 講和論争期における民族認識の具体的展開

2.1 合理的な民族論としての「永世中立国」論

敗戦後,戦前戦中での営みをふまえ,民族や国家を植民地体制の破砕や新たな世界秩 序形成の主体として積極的に位置づけた恒藤は,冷戦構造の固定化によって「二つの世 界」の対立がいよいよ激しくなり,日本においても講和問題が喧しくなると,かかる国 際状勢に応答する形で従来の合理的な民族認識に基づく平和論をより具体的に展開,そ のなかで日本独自の国際平和建設への途を模索するようになってゆく。恒藤はそこで,

あらゆる実践がそうであるように,政治的実践は,あたえられた歴史的社会的現 実の具体的状況に即して自己の課題を見出し,その遂行に努めなければならぬ(中 略)個々の国家または民族は歴史的・社会的現実の中にそれぞれ独自の地位を占め ているのであるから,個々の国家または民族が自己の政治的実践の課題を見出し,そ の遂行のために努力するしかたは,それぞれ全く特有のものでなければならぬ29)

と,各民族・国家の歴史的独自性をあらためて尊重したうえで,更にそのひとつたる 日本についても,「よし国家としての独立性は一時的に否定されているとしても,民族と しての自主性を堅持することは充分に可能」ゆえ,「現在の我国における一切の政治的実 践は,このような現実的事態についての冷静な客観的認識に立脚しながら,民族として の独自の理想を目指して前進しようとする根本的態度を予想するのでなければならぬ」

と,「二つの世界」の対立の渦中にある平和国家としての日本が果たすべき役割と意義を 強調した30)。そしてそのようななか,恒藤は講和問題をめぐって自ら平和問題談話会に おいて憲法擁護,全面講和を掲げ論陣を張ってゆくこととなるのである。この間の事情 についてはすでに広川が説得力ある見解を展開しているのでその参観を乞うが31),ここ ではより民族評価の追跡に重点を置いた視点から恒藤の議論をあらためてふり返ってお くこととしよう。

恒藤が談話会の活動において交戦権放棄と安全保障の問題を中心に日本の採るべき途 を最も明確かつ体系的に示したのは広川も注目する論文「戦争放棄の問題」(恒藤恭「戦

(12)

争放棄の問題」『世界』1949 年 5・6 月)であるが,今ここであらためて注目をしたいの は,まずもってそこで示された日本の位置づけである。恒藤はそこにおいて,「世界史の 上から見れば現代は伝統的国家観を脱却し,戦争を放棄し平和国家に化してゆく歴史的 傾向がかすかながら動きはじめた時代」と見做しえるならば,交戦権と軍事力の一切を 放棄し,徹底的平和主義国家として生まれ変わった日本は「かかる傾向の先端に立つ国 家的品位の向上,進化をきたす立場」の国だと評価した32)。「戦争放棄の問題」が書かれ た直接の動機は 1947 年に来日したロイヤル長官による米軍引き揚げ可能性への言及に対 し安全保障の面で国民に不安が拡がったことにあったが,そのため恒藤はここで交戦権 と軍隊を放棄した日本を世界最先端の国家,すなわち人類進歩の先頭に立つ画期的国家 と位置づけることで世界史の観点よりその積極的意義と責任を明示し,国民の間で平和 主義の理念が動揺しないことを期したのであろう。そしてここで恒藤が新たに展開した 日本独自の安全保障および国際平和貢献の在り方こそは,いわゆる「永世中立」制度の 採択であった。ただしこの場合の永世中立とはスイスなどの場合とは異なり,「日本の現 実と日本民族が表明した平和的理想に適したしかた」33),すなわち「憲法第九条の規定の 基礎をかたちづくっている徹底的平和主義の理想をば,不動の民族的理想として全面的 に肯定する」34)立場からの独自の永世中立でなければならないことは当然である。

日本の立場から要望すべき集団的安全保障体制は,太平洋地域に対して重大なる 関心をもつ諸国が,戦争を放棄した日本の平和国家としての地位を有効に維持する ことを目的として結成する国際機構以外の何物でもあり得ず,(中略)それはスイス の場合に範を求めつつ,しかも日本の徹底的平和主義のありかたに適応するところ の独自の永久中立保障制度たるべきであろう。35)

それでは恒藤の永世中立論とは具体的にはどのような形で展開されたのか。順にその 立論と特徴を観てゆけば,そこではまず恒藤が「永世中立」の歴史的,思想的起源をふ り返るところから説き起こし,その基礎を大国間の「勢力均衡」に求めていることが注 目される。恒藤はそこにおいて,従来の国際秩序の歴史を回顧しつつ,そのなかで「小 国」が存在を保ちつづけてきた事実に注目,国際関係が単純なマキャベリズムによる「弱 肉強食」の論理ではなく,「勢力均衡」の論理によって形成されてきたことを指摘してい る。

(13)

先進諸国における高度資本主義の成長につれて,国際的勢力均衡は世界的規模の ものに拡大し,帝国主義的闘争の調整組織としての性格をもつにいたったことを特 記しなければならぬ。(中略)ところで,そのときどきにおいて比較的に最も強大な 武力を有する若干の国々が二個の国家群にわかれて対立するというのが,勢力均衡 の典型的形態であり,比較的に弱小な武力の持ち主たるその他の国々は,直接には 勢力均衡関係のなかにたつことなく,その外部にあって,いずれかの側に対して好 意的態度をとるか,または全く不偏的な態度をとるのであった。(中略)強大国の自 己保全の欲求にもとづいて生まれたところの勢力均衡関係が,強大国自身の存立の 維持に役だってきたばかりでなく,そのお蔭で,弱小国もまたおのずと存立を保有 し得たことを看過すべきではない。(中略)ほんとうのところは勢力均衡関係のたす けによってそれらの国々は独立を持続し得たものにほかならない。36)

恒藤はここで,「勢力均衡」が国際政治において持った重要性を指摘し,それが「外部 の」小国を「中立国」として存続可能にさせた史実を指摘している。恒藤がその永世中 立論を展開するにあたって専ら注目をしたのは,まさにこの「勢力均衡」と「小国」と の密接な国際政治力学であった。すなわち,まず「小国」側の観点から言えば,当然小 国は両陣営に属さない以上,大国とは異なる存在位相および意義を帯びることになり,国 際関係上,大国とは異なった役割を果たすことが可能となるはずである。それが歴史的 に観れば「中立国」ないしは「永世中立国」という在り方として現れるわけであるが,し かも永世中立は当然ながら国際社会による承認を必要とするため,そこでは中立当事国 のみならず,その他両陣営に属する諸国もまた永世中立国の存在をめぐる相互間の平和 的関係促進により,間接的に自国の安全を保障されることとなるであろう。つまり結果 として永世中立国たる小国の存在は,勢力均衡政策下に在っては国際社会全体の平和構 築に寄与しうるというわけである37)。そのため恒藤はここで革めて「二つの世界」の対 立構図に対して永世中立が有する意義を主張,「小国」の存在に注意を払ったと言える。

恒藤には大国が国際競争のなかで必然的に帝国主義や軍国主義の論理に絡み取られざる をえないのに対し,小国は本来的に平和主義的傾向を持ち,それゆえ「勢力均衡」のな かでその助けを借りつつ大国間の対立緩和に大きな役割を果たすという認識があったの であろう38)。そうであればこそ,恒藤は勢力均衡政策の歴史的役割を再評価しつつ,植 民地領土の喪失によって本来の小国に戻るとともに非武装平和国家となった日本が,そ の独自の地位を活かして冷戦構造下の国際社会に貢献するための方途として,永世中立

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制度の採択を主張したのである。

ただし,そうは言いながらもたとえどれほど非武装中立による日本の平和的国際貢献 を説いたところで,日本自体の安全が国際社会によって保障されるのでなくては現実的 な議論としては説得力を有しないであろう。そのため恒藤は,既述の「小国(中立国)」

→「国際関係(勢力均衡)」というベクトルのみならず,反対に「国際関係(勢力均衡)」

→「小国(中立国)」というベクトルをそこで同時に重視した。すなわち,先に弱小国の 存続理由を「勢力均衡関係のたすけ」に求めていたように,恒藤はあくまで,永世中立 成立の歴史的,国際政治的基礎として,両陣営大国による相互的中立保障をこそ重視し たのである。

スイス,ベルギー,ルクセンブルクの三個の永世中立国の出現は,十九世紀前半 のヨーロッパにおける勢力均衡関係の生み出した産物に外ならない。すなわち当時 二つに分れて対立していた国家群の中間に介在する一国が,いずれか一方の国家群 の勢力範囲に引き入れられた場合には,他方の国家群の安全が著しく脅かされるお それがあるところから,双方の国家群が問題たる一国を中立的地位に立たせること において利害の共通点を見出し,かような共通の利害を基礎として,その一国の中 立的地位を尊重し,保障すべき義務を定めた条約を締結する態度に出た次第である。

すなわち種々の重大なる利害関係において互いに対立する二つの国家集団が存在し ている場合に,その対立関係が険悪化して平和を破壊するに至ることを防止するた めの手段の一つとして,双方の国家集団が永世中立国の安全保障を目的とする結合 を形成するというのが,永世中立国の出現の国際政治的基礎状況だと言うことがで きる。39)

恒藤は両陣営の中間に立つ小国が永世中立国として機能し,かつその安全を保障され るためにはぜひとも,対立する両陣営の部分的利害一致による相互条約という制度的結 合が必要であると考えていた。よって恒藤は随所で,「わが国が永久中立国としての地位 を取得するためには,わが国に対して密接な利害関係を有するすべての国々が,わが国 自身をも加えて所要の条約を締結するのでなければならぬ」40)と主張している。そのた めにも彼は講和問題に際し「全面講和」の必要性を強く訴えるのであるが,こうした各 国の条約締結による制度的保障を重視する点は恒藤の永世中立論の大きな特色であった と言ってもよい。というのも,この時期以降多くの論者によって主張されてゆく「永世

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中立」とはたとえ言葉は同じでも,その意味するところは厳密には同じではなかったか らである。今更絮語するまでもなく,「永世中立」という考え方自体は当時恒藤が末川博 とともに関西の主力として活動した平和問題談話会では一致した賛同を得ており,また 安全保障の形態として「永世中立」を望む声も『毎日新聞』による世論調査では約半数 にのぼっていた41)。しかしながら,そこでは恒藤自身,「多くの人は永世中立といってい るが,それは国際法上の制度としての永世中立というふうなことを,必ずしも指しては いない」42)と疑義を呈したように,その語法は論者によってまちまちであり,酒井哲哉 の分類に従えば,この時期に展開された「中立」論には大きく分けても三つの類型が存 在していたのである43)。それらは主として「法的制度としての中立」に加えて「政策な いし政策的志向性としての中立」,「国内規範の函数としての中立」の三つであったと言 われるが,それに照らすならば,当時世論にあっては,多くが片面(単独)講和と永世 中立という制度上矛盾するはずの両者を同時的に欲したことからも窺えるとおり,必ず しも「法的制度としての中立」を意識的に主張したものが多数であったわけではなかっ た。そしてそれは談話会内部においてもある程度同様であったといえよう。しかし酒井 も指摘しているとおり,そのようななかに在って,談話会中誰よりも正面から「法的制 度としての永世中立」を掲げて論陣を張ったのが恒藤恭であったのである。まさしく,「法 学者であった恒藤には,何らかの国際条約によって保障される中立制度が必要であると いう判断があった」ものといえようか44)。そもそも,恒藤にとっては独立後の安全保障 として最も望ましい形態は本来,日本の国連加盟と国連安全保障理事会による制度的な 保障であったのであり,永世中立自体が,安保理が機能不全ゆえの次善策として要求さ れていたことを忘れてはならない45)。そのため,恒藤はあくまで「太平洋地域に対して 重大なる関心をもつ諸国が,戦争を放棄した日本の平和国家としての地位を有効に維持 することを目的として結成する国際機構」46)によって保障される,「法的制度としての永 世中立」の必要性を強く主張したのである。その点で恒藤の如上の永世中立論とは談話 会のなかでも最も国際法的観点に基づいたものと言えた。つまり,それは「中立国」と

「勢力均衡」の相互規定関係に注目をしたうえで,前者から後者への働きかけのみならず,

後者から前者への力学作用を考慮して日本自身の安全保障を制度的に考える点で,その 目指すところは理想主義的でありながら同時に,方法論的には国際法および国際政治史 の原則に則った法学者らしいきわめて客観的・現実的な議論であったのである。そして そうであればこそ,そのような観点からその道の「権威」たる横田喜三郎が永世中立に 異論を唱えたとき,これに対し恒藤は談話会の誰よりも「法的制度としての永世中立」の

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意義を検討し,反論をおこなう必要に迫られたものと忖度される47)。そこで次にはこの 点を検討しておくこととしよう。

2.2 永世中立の理論的擁護 ―横田喜三郎の中立批判をめぐって―

横田と恒藤の論争については同じく広川の研究が詳しく48),またその論点もいくつか にわたっているが,ここでは特に一点,横田が永世中立の「理論上」の問題点として指 摘し,最も恒藤が反論の鋭鋒を向けた「国連における一律武力制裁」と「永世中立」の 関係という論点に限って革めて概略しておくこととしたい。なぜならばその点に最も,恒 藤の合理的な民族認識も反映していると思われるからである。

そこでまずはこの点つき横田の考えを聴いておけば,横田は国際法の観点から国連加 盟と永世中立を排反的に布置したうえで,国連のような国際機構を現代政治の普遍的要 請として支持,そのもとへの結集を呼びかける主張を展開している。つまりそこでは日 本の採るべき途とは現代国際政治の要請たる国連への参加ということになるわけである が,横田からすれば,当然そこでは国連憲章の条項に鑑みて,加盟国は一致して武力制 裁を含めた平和維持活動への参加を義務づけられることになる。そしてそれが現代国際 政治の「時代精神」である以上,日本もまたこれに協力することを求められ,積極的に 貢献をしなければならないはずである。しかるに永世中立とは,かかる考え方からすれ ばまさにその連帯と協力の義務を拒み怠るものであるがゆえに,それは「無責任な利己 主義」であり,国連加盟と反する,時代の要請に反した「時代おくれ」の代物だと痛烈 に批判されたのである。

理論上から見ても,中立は適当なものとはいえない。永久中立であつても,普通 の中立であつても,一九世紀の産物であつて,二〇世紀の現在では,もう時代おく れである。現在の世界は,いつさいの国が緊密な連帯関係に立つていて,その平和 と秩序を維持するために,いつさいの国が協力しなくてはならない,これは二〇世 紀の指導原理であり,時代精神である。中立は右の協力を拒み,自分さえよければ,

それでよいという無責任な利己主義に基くもので,二〇世紀の指導原理に反し,そ の時代精神にもとるものである。49)

それではこの点に対する恒藤の反論はどのようになされたか。恒藤によれば,そもそ もの前提として,「政治的実践を制約すべき当為的原則は,現実の複雑な事態に適応し得

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るような,弾力性に富むものとして理解されることを要するのであつて,一律に機械的 に適用されるべき性質のものとして理解されてはならぬ」50)ものであった。そうした原 則からすれば,現実には国連の組成国が一律に武力制裁に参加することは不適切な場合 もまたありうるのであって,スイスのような中立国が国際平和の確保という国連の機能 に対して必ずしも重大な障碍をなすとは言いえない。事実,安保理第 7 章の諸規定には,

紛争解決に際して国連は安保理の決議に従い,「必要な又は適当な範囲と程度において諸 組成国の協力を要求する」と定められており,それに従えば,全加盟国が同一の行動を 常に要求されるものでは決してない51)。つまりそこでは各国の事情と独自性が勘案され る余地があり,理論的に観ても,制度上,国連の武力制裁規定がただちに永世中立国の 国連加盟と矛盾するわけではないのである。この点を恒藤は鋭く衝いた。そしてそのう えで恒藤は,「もしも組成国が一律武力制裁に参加せねばならないとすれば,一切の武力 と交戦権を放棄した日本そのものが時代遅れということになり,かかる憲法を制定した 日本国民も,協力した連合国も時代遅れということにな」りかねないと反論,横田の論 理が実質的には平和憲法を否定し,かえって時代に逆行するものであることを示唆した のである52)

もとより,恒藤の見解とは先にも観たとおり,「個々の国家または民族は歴史的・社会 的現実の中にそれぞれ独自の地位を占めているのであるから,個々の国家または民族が 自己の政治的実践の課題を見出し,その遂行のために努力するしかたはそれぞれ全く特 有のものでなければならぬ」53)という,各国家・民族の歴史やナショナリティーを尊重 するものであった。そこからすれば「政治的実践を制約すべき当為的原則」が各国の個 別性に従って弾力性に富むものとして理解されなければならないというのは当然の論理 的帰結である。しかも恒藤からすれば,そのなかに在って非武装平和国家として再出発 した日本は人類の進歩をリードする「先端」の国家として位置づけられていたのである から,各国の事情や民族的独自性を無視した画一的武力参画を求めつつ,それにそぐわ ない永世中立を無責任で「時代おくれ」と批判した横田の見解とはまさに恒藤のそれと 正反対の解釈を採るものであった。このような国際法の「権威」からの反論を恒藤が同 じく法学者として許容しえなかったのは当然であったといえよう。そのため恒藤はあく まで,

現代政治の全体から見て,正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求する動 機に基づいて,永久に戦争を放棄し,一切の戦力を保持しないことを規定する憲法

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を採択する国民が日本以外にも次々に出現するに至ることが世界平和の確保のため に望ましい(中略)大国がかかる態度に出ることはなくとも,その代わりにそれら の国々の協定により,次々と永世中立国ができ上るならば,世界平和確保のために する工作は一層進捗するであろう54)

と小国日本の永世中立を敢然と擁護,「独立回復後の安全保障の方法として永世中立を 樹立することは決して国際政治の進歩に逆行するものとは考え難い」55)と断じて,永世 中立樹立のうえで更に国連に加盟することを求めたのである。ここにはまさに恒藤の平 和主義の新たな発展と,彼が平和問題談話会において果たした重要な理論的役割を観て 取ることができる。中立主義を一致して掲げる談話会内部においてもかかる法的制度と しての永世中立論をここまで透徹して展開し,横田の背理を追及した学者はいなかった のである56)

そしてまた観てきたとおり,かかる横田批判のなかで具体化された恒藤の永世中立論 とは,国際法的観点を援用しながらも同時に各国のナショナリティーを尊重し,そのう えで国際平和に対する日本独自の貢献を説くことを基調とするという点で,それは紛れ もなく国際平和建設へと向けた合理的な民族の活用論であり,恒藤独自の民族認識を基 礎に据えた議論と言えた。そもそも,絮言を要すまでもなく,「永世中立国」とは「主権 国家」の存在をその前提とするものである以上,永世中立による国際平和論それ自体が 実にナショナルな観点に立脚した平和論だと言わなければならない。その意味では,恒 藤がここで言う「民主的平和憲法」に基づいた「永世中立国家」とは,まさしく彼にと り,戦前戦中以来彼が主張してきた「合理的精神」を有する「民族」の具体的現象形態 にほかならなかったといえよう。恒藤が横田に対する反論のなかで擁護したものもまた,

それはつまるところ,やはり「二つの世界」の対立が激しくなるなかに在って,戦後,憲 法によって,未だ不十分ながらも「合理性」を獲得した「日本民族」が,世界平和とい う人類的理念の実現へと貢献し,「開かれた社会」たる世界史の進歩の主体たりつづける ためのまさに制度的な筋道であったのである。

正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求する日本国民の立場としては,全 面講和が成立することを切実に要望せざるを得ないが,それに加えて永久中立制が 日本に対して適用されることにより,日本自身の安全保障があたえられると共に,二 つの世界の対立が幾らかでも緩和されるに至ることをも熱望せざるを得ない57)

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ここには講和問題と安全保障問題をめぐる議論の高まりに即した,恒藤の戦後におけ る平和主義と民族認識の高度な発展を観ることができる。そしてそれは講和論争期以後,

すなわち日米安全保障条約締結後のいわゆる「逆コース」の時代にあってもかわること なく,むしろ一層強固なもとなって積極的に展開されてゆくこととなるのである58)

3 恒藤恭の民族認識における「ナショナル・アイデンティティ」の所在

さて,これまでは主として敗戦直後から講和論争期における恒藤の合理的な民族認識 の発展過程を追尋してきたわけであるが,以下ではかかる認識を補完しつつその特質を 当時言説のなかに位置づけるためにもう一点,戦後,知識人たちによって議論された「ナ ショナル・アイデンティティ」の問題にまで言及しておくこととしたい。

かつて丸山眞男が「「デモクラシー」が高尚な理論や有難い教説である間は,それは依 然として舶来品であり,ナショナリズムとの内面的結合は望むべくもない」59)と指摘し たように,戦後にわかに価値を帯びるに至った「デモクラシー」のような考え方が真に 日本というナショナルな風土に浸透し,「日本民族」がかかる普遍的理念の実現を目指す 主体たりうるためには,当然ながらそれが単なる形式上ないし制度上のものとして外的 に与えられるだけでなく,国民一人ひとりが自覚的に思想としてそれを主体的に体得し つつ社会の精神的基底に定着させてゆかなければならない。従ってそこでは必然的に国 民一人ひとりの「自立した個人」としての主体性こそが問題となってくるわけであるが,

しかもかかるデモクラシーの理念を一国レヴェルで定着させるためには,それが主権者 たる国民全体の「ナショナル・アイデンティティ」と密接に連結される必要が生ずるで あろう。そしてこういった問題とはとりわけ戦後の民主化過程においては多くの知識人 によって切実な問題として意識されていたものであった。というのも,当時敗戦による 従来の倫理的規範喪失と占領による強制的民主化政策の推進とを背景として,アメリカ を中心とする占領軍によってもたらされる外来的民主化政策がはたして日本独自の精神 風土に根づきうるのかということが論者たちによって問題視されたからである。そのた め丸山や川島武宜,大塚久雄らは政治・社会制度の分析とともにそれを担う「普遍的主 体」や「近代的人間類型」の創出へと向かうのであるが60),それはまた別の面から観れ ば,もしかかる米影響下の民主化政策を無批判に受け入れるならば,民主主義は再び形 骸化し日本人の主体性が喪失してしまうという危機感の表れでもあった。ゆえに多くの 戦後知識人は主体性とナショナル・アイデンティティの観点から占領下の民主化政策や

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新憲法に対し,その理念は認めつつも単純な賞賛を送ることには逡巡するという複雑な 情況がそこには現出していたのである61)

これに対して,こうしたデモクラシーとナショナリズムをめぐるアポリアを比較的安 易に越えていったのが安倍能成や天野貞祐,和辻哲郎ら,いわゆる「オールド・リベラ リスト」と言われる丸山らよりも一世代上の知識人たちであった。彼らは日本の歴史や 伝統文化を賛美する立場に立って,デモクラシーを担うためのナショナル・アイデンティ ティをかかる戦前の歴史や文化に立ち戻って求めようとしたのである。従って彼らは 個々に違いはあれど,基本的には戦時下の日本を異常で例外的なウルトラ・ナショナリ ズムと規定し,それ以前の本来的な日本の姿はより平和でリベラルなものであったと主 張する点で共通している62)。そしてもちろんそうなればその歴史と文化の精神的中核に 位置するものは「天皇」ということになろう。そのため彼らオールド・リベラリストは 戦後には天皇制の維持を擁護,保守的論客として戦後知識人たちからの反発を招くこと となったのである63)

それでは,このような戦後のナショナル・アイデンティティをめぐる言説情況をふま えながら恒藤の認識をふり返るならば,恒藤の場合,こうした議論に対していかなる反 応を示したのであろうか。この点,如上の議論とも比較するなかで簡潔に観ておくと,ま ず恒藤はオールド・リベラリストたちとは世代的には若干の交錯を示しつつも,根本的 には異なる認識を示している。なにより,恒藤からすれば戦前の日本社会の在り方とは,

尊重されるべき個人の良心と自由に基づく「内的権威の倫理」を否定し,強権によって 個人と人権を抑圧する「外的権威の倫理」が支配する「非合理性の原則」の体系にほか ならなかった64)。そして天皇とは言うまでもなくその体系の中核であり象徴であった。

従って恒藤は敗戦直後から天皇制批判を展開し,旧来の日本文化に対しても「合理性」の 見地からした思い切った革新をこそ要求している65)。かかる恒藤からすれば,民主化を 担うためのナショナル・アイデンティティを旧来の非合理な伝統や歴史,まして皇室に 無批判的に求めるなどということはまったくの論外であったといえよう。一方,それに 比すれば,オールド・リベラリストを批判して新たなアイデンティティを主体的に創造 しようとした点において丸山ら戦後知識人たちはよほど恒藤に近い認識を示していたと 言える。現に恒藤は平和問題談話会や憲法問題研究会を通じて原則彼らと行動を共にす るのである。ただしそれでも一点,そこには一見微妙ながらも決して無視しえない差異 が存在していたことも見落とすことはできない。それは

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ひいてはアメリカの占領に 対する態度の相違である。先にも少し触れておいたように,戦後知識人たちは概して日

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本の主体性という観点から占領政策に対しては屈辱感や危機感の織り交ざった複雑な認 識を懐いていた。その苦悶と相剋はたとえば矢内原忠雄が誌した「管理下の日本」(矢内 原忠雄「管理下の日本」『表現』1948 年 10 月)のような論説にも典型的に表されていよ う。

しかしながら恒藤の場合,どちらかと言えば連合国の占領政策に対しては少なくとも 敗戦直後の段階では好意的な姿勢をみせている。もちろん,誤解のないように言ってお けば,彼とて敗戦と占領によって日本が未曾有の惨めな状態に陥ったことは率直に認め ており,一貫して対米従属を鋭く批判し,独立をいずれは回復すべきことを同様に強く 要求している。しかしそこには多くの戦後知識人たちとは異なり,「屈辱」や「アメリカ の影響」という点に関して彼らほどに拘泥する形跡が見受けられないことも事実であり,

それは当時の言説情況に鑑みるならば留目に価する特徴であったのである。そしてその 理由こそは,まさしく恒藤言うところの,個人の自由や人権,平和を尊重する「合理性 の原則」という観点の徹底にほかならなかった。すなわち,恒藤はかかる「合理性」重 視の観点に立って敗戦と連合国の占領という事態を,日本の国家的独立を奪う屈辱的事 件としてよりはむしろ,旧来の非合理な日本の在り方を否定し,「合理化」を推進する世 界史プロセスの一環とこそ見做した。ゆえに恒藤はその民主化政策が日本の合理化を援 け,保守勢力の反動から「合理的精神」を防遏している限り,占領政策に対しても一定 程度好意的評価を下したのである。

終戦後間もなく連合軍による日本国土の保障占領が開始され,日本の政治は連合 国最高司令官の管理の下に置かれてゐるのであつて,法律の革新のためにする一切 の立法作業は,根本においてそのやうな事情の下に行はれてゐるといふこと,そし て斯かる事情が,ともすれば保守的政治勢力によつて停滞しがちとなり,姑息的な ものとなりがちなところの民主化的立法をして,そのやうな欠陥によつて大いなる 過誤をおかすことから免れ得させ,それが大体において順調に進行するうへに少な からず役立つてゐることを附記しなければならぬ。66)

それはまさに日本の敗戦と極東裁判を「世界史の審判」と把え,「合理的精神」の発展 という世界史進歩の観点から国家と国際社会の在り方を展望した認識に通ずるものであ るが,このように「連合国」を「合理性の原則」の代行者と見做す把え方は67)当時の知 識人たちのなかでも,「占領」と「従属」を「日本」の「屈辱」や「危機」という視点か

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ら把えようとした論者たちと比較するならば,たしかに異例と言えた。しかも加えて言 うならば,こうした観方はアメリカの対日占領政策が転換された時点でもある程度維持 されていることが重要である。既述のとおり,アメリカは冷戦の激化に伴って 1948 年以 降,対日政策を 180 度転換していた。そのため日本の憲法論議を含む国内政策およびナ ショナリズムはアメリカの世界戦略のなかで翻弄されつづける形となり,これを機に,民 族独立闘争を掲げる共産党を中心として反米感情が顕在化,全国的に噴出するようにな る。丸山が「ナショナリズムの合理化と比例してデモクラシーの非合理化」68)の必要性 を主張,冷戦戦略に再びナショナリズムが利用されることを牽制してアメリカや旧日本 の支配層に対する「主体性」を説いたのもこうしたなかでのことであり,また,歴史学 研究会において 1950 年以降「歴史と民族の発見」がうたわれ,石母田正や藤間生大らに よって国民歴史学運動が開始されるのも同様の文脈においてであった69)。そしてかよう な危惧の裏かえしとして,平和問題談話会を中心とする当時の「非武装中立論と護憲論 は,ナショナリズムとモラルの回復をもとめる心情を表現する媒体とな」70)るとともに,

丸山や竹内好ら多くの知識人の間で,脱植民地・独立を掲げてたたかう第三世界の民族 運動に注目が集まっていたのである71)

それに対して恒藤の場合,1949 年段階でも民族運動を「合理性」の観点から考察し,彼 ら同様第三世界の民族運動をきわめて高く評価しながらも,しかし刻下の日本の独立運 動に対しては,それは,日本は自身が非合理かつ非人道的侵略戦争をおこなったがため に民主的平和国家として生まれかわるべく一時的に独立を否定されているにすぎないの であるから,第三世界諸国の民族運動とは異なって合理性を有するものではないと切り 捨てていた72)。また日米安保条約締結後のアメリカの対日政策についても,それ自体は 日本の政治的独立を擁護する観点から厳しく糾弾しつつも,しかしそれをあくまで合理 的見地からの判断と断って,当時一般に共有されていた反米感情からの対米批判とは自 ら一線を画する姿勢を明確に示している73)。そして恒藤は日本が真に独立を獲得するた めにも,まずはなによりも,日本自身の「合理」化こそが徹底されなければならないと いうことを強く主張した。

日本の政治的独立の問題と日本の政治および国民生活の民主化の問題とは不可分 離の関係をもつものであり,日本の政治的独立が達成されて行くためには,ぜひと も日本の政治および〔「国民生活の」欠か〕民主化が推進されねばならぬ74)

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ここに恒藤の基本的姿勢がはっきりと示されていたといえよう。つまりそこで主張さ れたものとは,当時一般に見受けられた反米感情や危機感に呼応するものとしての独立 の要求ではなく,戦前から恒藤の思想を貫通する「合理的精神」の徹底という「世界史 的観点」よりした「独立」の要求であったのである。またそうであればこそ,そこでは 当然ながら,結果的に高度の政治的従属をもたらし,同時に西側陣営に加担することで かえって国際平和を乱す早計な独立回復ではなく,日本社会における合理化推進あって の真の独立こそが希求されたのであった。従って,こうした恒藤にあっては,このよう な日本に求められるべき民族レヴェルでの新たなアイデンティティもまた,それはまさ しく如上の「合理的精神」の歴史的担い手たること,すなわち民主的平和国家の建設そ れ以外にはありえなかった。

権力者の側から強制的に押しつけられた理想は,終戦と同時に跡なく消え失せて しまつたかわりに,国民たる各自が自己の理性と信念とにもとづいて直ちに自発的 に受け容れることのできる民族的理想がすでに全国民にたいしてあたえられてい る。『日本の再建』いゝかえると『新しい日本の建設』ということがそれである。75)

しかも恒藤の場合,講和問題に際し「法的制度としての永世中立」に強くこだわった ように,こうした「民族的理想」の問題もまた多く法体系と関連づけて論じられるとこ ろにひとつの特色があった76)。そのため,憲法発布後にはかかるアイデンティティとは まさに,一国のナショナルな法でありながらしかも「合理的精神」を一定程度実現した

「日本国憲法」の理念にこそ収斂されて提示されることになったのである。かくして,憲 法とその擁護こそは国民が拠るべき「新しい道徳基準」として,以後逆コースの時代に も全面的に主張されてゆくこととなる。

いわゆる逆行的現象が全国的にさかんにあらわれつつある時に当つて,真に日本 の国を愛し,深くわが国の将来のためにおもんぱかる者にとって,第一に念とすべ きは憲法擁護の課題である。(中略)理性的自覚に根ざすところの正しい愛国心は,

必ずや国家および社会の秩序を定める法を尊重する精神とつながるものであつて,

愛国心は遵法精神と結びつくことによつて,建設的な役割を果し得るのである。と りわけ民主国家における愛国心は,国民の基本的人権を保障し,民主的政治体制を 定立するところの憲法を擁する精神と固く結合するものでなければならぬ。侵略的

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