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こべる刊行会
NO. 173
部落のいまを考える⑩部落解放運動再生に向
けて
一運動にかけた夢をあきらめない 佐々木寛治 横浜・寿識字学校から⑧裸になること
大沢敏郎 いのちを生きる②生きる力と生きづらさ
長 谷川洋子 写真と文一宗 景 正(写真と文宗景正) 安部和子(あべかずこ)さん 1937年、神戸市生まれo神戸の長田神社の近くで、育った。そばに三菱重工科1戸造 船所があり、空襲の恐れがあるので近づかないように言われたυ小学校は入学式こ そ行ったが、空襲醤報で帰る日が続いた。父は漁師だったが、空襲で漁に出られず、 神経を病んでしまった。空襲で焼け山されて母親の里のある豊中市に行き、さらに 尼崎に引っ越した。父は1947年に亡くなった。 13歳から住み込みで子守をした。 2fi
部落のいまを考え る ⑩ ー運動にかけた夢をあきらめない
部落解放運動再生に向けて
佐々木寛治︵部落解放同盟大阪府連合会豊中支部︶ はじめに ﹁ 飛 鳥 会 事 件 ﹂ ︵ 以 下 、 ﹁ 事 件 ﹂ と い う ︶ が お き て 一 年 あまり経過しましたが、﹁事件﹂は終わったのでも、問 題が解決したのでもなく、失われた信頼や信用をとりも どすのはこれからです。この間、﹁不祥事﹂や﹁問題﹂ があった自治体では、組織・施策の見直しゃ施設の統廃 合、予算の大幅削減など、﹁同和﹂行政の切り捨てが進 められる一方、部落解放同盟では外部委員による委員会 をつくり、運動や組織のあり方についての﹁提舌己や ﹁検証﹂を求めています。しかし、委員の多くはこれま で運動や組織に関わってきた﹁なじみ﹂の人々であるだ けに、どこまで掘り下げた議論が交わせるのかという気 もしないではありません。それに、本来的には外部にゆ だねるべき問題ではなく、運動と組織が自らの力で原因 を究明し、再発防止策を打ち出し、責任の所在を明確に す べ き も の で す 。 ともあれ、事態が立ち至っている地点を見据えつつ、 ﹁事件﹂および部落解放運動について思うところを述べ て み た い と 思 い ま す 。本
当
の
﹁
危
機
﹂
は何か? 私が一番気になることは、中央本部も大阪府連も﹁戦 後最大の部落解放運動の危機﹂と言っているのに、組織 内で現実に進行している事態がそれと一致しないことで す。一年前にマスコミがかつてない規模と量で﹁事件﹂ こベる 1をとりあげたとき、情報提供もなく、緊急の会議も持た れず、報道に右往左往しました。その後大阪府連は、昨 年九月九日に﹁真相報告集会﹂を行いましたが、タイト ルとは違って真相は語られず、事態収拾への道だけが確 認されました。そして、一年たった今、﹁事件﹂は風化 し つ つ あ り ま す 。 こうした事態になるであろうことは、予測できないこ とでもありませんでした。というのは、私がここ数年関 わってきた大阪府連の大会や府連委員会、支部長書記長 会議といった機関の主要な会議における議論のありょう を振り返ると﹁さもありなん﹂と思えるからです。執行 部からの提案に対する質問や異議はほとんどなく、すべ てが提案どおりに決定されていくのが常態化していまし た。年に一回、運動方針を決める大会も同じで、発言の ほとんどは活動報告に終始していました。時に違った意 見 を 言 、 っ と 奇 異 の ま な 、 ざ し が 集 ま り 、 そ れ が 二 度 、 二 一 度 と重なると﹁また、あいつか﹂と冷めた視線が投げかけ ら れ る の で し た 。 三年前、参議院選挙の年でもあり︵松岡府連委員長が 立 候 補 て か 外 μ にうってでるということで、主会場を例 年の﹁浪速人権文化センター﹂から﹁エル・おおさか﹂ に移して行われた府連大会のやりとりを思い起こします。 会場を変えるには相応の理由があるはずだし、スタイル も内容も例年と何ら変わるところがないのは納得がいか ないので、分散会で説明を求めました。ところが、﹁こ れまでも﹁浪速﹄に限らず﹁中之島中央公会堂﹄でも行 ったこともあり、﹁エル・おおさか﹄で行うことに問題 はない。なぜいけないのか﹂と予期しない答えが返って きました。そこには議論をしようとする姿勢はなく、相 手を黙らせようとする悪意が露わでした。 かつてはいわゆる主流の末端に位置していた私が言う のもおこがましいですが、異質・異端を包み込むことが できず、同じ色に染まり、同質化を極めてきたのがこの 間の部落解放同盟の組織のありようだと思います。﹁内 部に批判者をもたない組織は腐敗する﹂と言います。こ の間の過程は組織や運動の活力がそがれていく過程でも ありました。それは今の私が異質・異端であることを自 覚しているからこそ見えることであり、言えることです。 だから、本当の危機はこうした問題意識が垣間見られな いこと、一大事を前にして議論がおこらないこと・おこ せないことにあると思います。
﹁事件﹂と向き合い、引き受ける ﹁ こ の 記 事 が 出 て か ら 腹 が た つ て 仕 方 が な い ﹂ ﹁ ま じ め にがんばってきたのに残念や﹂﹁府連が放置していたの が お か し い ﹂ ﹁ 差 別 の 再 生 産 や ﹂ ﹁ メ デ ィ ア に 踊 ら さ れ て る ﹂ ﹁ 今 ま で や っ て き た こ と が 水 の 泡 や ﹂ ﹁ 職 場 で は こ の 話でもちきりでいやだ﹂﹁こんな問題あんねんから、人 権 研 修 す る 必 要 な い と 言 わ れ た ﹂ 。 これは、﹁事件﹂から一ヶ月後の昨年六月に行った支 部集会で出された意見です。たった一つの不祥事によっ て、たった一人の不心得者によって、積み重ねてきたも のが一気に崩され、元の木阿弥になってしまうという事 態を前に、もって行き場のないくやしさや怒りがにじみ 出ています。しかし、結局のところ、﹁事件﹂は部落解 放運動がその内部に抱え込み、培ってきたものだと考え ざるをえません。だから、トカゲがシツポを切るように 不祥事や不心得者を切り離してすむ問題ではないという ことです。なぜそれらを生み出したのか、なぜ防げなか ったのか、冷静にみきわめる必要があります。 一つは、内閣同和対策審議会答申︵一九六五年︶と特 別措置法︵一九六九年︶に始まる行政闘争の功罪という ことを見るべきです。これらが被差別部落の姿を劇的に 変え、部落外との格差を是正し、私たちのくらしの底上 げをしたという大きな成果をあげたことは間違いありま せん。しかし、その一方で、手段であった﹁事業﹂が目 的化し、目的とした﹁解放﹂がなおざりにされるという マイナスや、行政依存という悪しき体質をはびこらせも しました。これらは解放運動の自律と浄化によって克服 されるべきはずでしたが、ある意味では骨の髄まで侵さ れていた部分があったのかもしれません。 一 一 つ 日 に は 、 良 性 の 腫 傷 な ら ば 、 そ こ だ け 切 り 取 れ ば いいわけですが、もし悪性ならば他に転移している可能 性があるわけですから、違った対応をしなければならな いということです。部落解放運動と﹁利権﹂や﹁暴力 団﹂をめぐる問題は今にはじまったものではなく、これ までもありましたし、豊中でも苦い体験をしてきました。 その意味では、﹁事件﹂は特別ではなくて、私たちの身 の回りにもその根はあるとも言えます。だから、﹁対岸 の火事﹂ではなく、﹁事件﹂が問いかけているものをし っかりつかんで、部落解放運動とは何かを改めて考えあ う こ と が 必 要 で す 。 こベる 3
三つ自には、﹁犯罪﹂として暴かれ、司直の手にゆだ ねられ、そこに至るまで問題が放置され、運動としての 対応ができきれなかったことは﹁痛恨の極み﹂だという ことです。そして、事態への対応が後追い・守りになり、 危機管理能力のなさが露呈しました。特に、小西被告の 犯罪は部落解放運動とは無縁な﹁えせ同和行為﹂だとす る認識が、初期対応を誤らせ、それを引きずったままで あることが今日まで尾を引いていると思います。﹁事 件﹂はまぎれもなく、部落解放運動のエリアで、部落解 放同盟がコントロールすべき場所でおきたわけですから、 正面から向き合って引き受けることなしに、事態の打開 や問題の解決はあり得ないことは明らかです。﹁事件﹂ の当事者として、責任をとりきる立場に立つべきでした。 さらには、マスコミ等によるパッシングの嵐が過ぎるの を首をすくめて待つという無対応に終始したこともそれ に輪をかけ哀した。この初期対応の誤りは、﹁事件﹂の 被害者の取り違えにもつながりました。小西被告が横領 したのは大阪市民に還元されるべき公金ですから、被害 者は大阪市民にほかなりません。然るに、組織内および 友好団体などへの内向きの謝罪を繰り返すという本末転 倒 ぶ り を 示 し ま し た 。 四つ目には、﹁戦後最大の部落解放運動の危機﹂とい うことが声高に叫ばれていますが、一体どんな危機なの かということです。このままでは解放運動や組織がつぶ れるかもしれないということなのか。いよいよ権力がキ パをむいてきたということなのか。それらは間違いでは ないと思いますが、でも本当の危機は私たち自身のなか にあるのではないかと思います。一大事ともいうべき事 態がおきているのに、さしたる議論もおこらず、淡々と う わ さ 事が運ばれていってるのはなぜなのか。﹁人の障も七十 の ど も と こ と わ ざ 五日﹂とか﹁喉元過ぎれば熱さ忘れる﹂という諺があ りますが、この﹁事件﹂はそれで済むのでしょうか。障 は消えて人の口の端にのぼらなくなったとしても、熱は 冷めて何事もなかったかのような日常が戻ってきたとし ても、部落解放運動が受けた傷や広まった部落に対する マイナス・イメージがなくなることも元にもどることも ありません。この﹁事件﹂の受けとめの弱さや対応の鈍 さは、原因究明の熱意に反映し、それは結果として責任 の所在と取り方に連なっています。すなわち、納得のい く説明がなされず、具一体的な責任を誰もとらないという 事態になっています。この悪循環をたちきること、そし て、もう一度根本的な議論がおこせるかどうか、ここに
部落解放運動の行方がかかっています。そのためにはど うしたらいいのか。四月下旬、問題意識を話してほしい と、大阪府連の書記局の学習会に呼ばれた私は、上述し てきたことにも触れながら、﹁事件﹂から一周年の日に 記者会見して声明を出してはどうかと提案しました。こ の機をとらえて誤りを是正し、反転攻勢にでるべきだと 思ったからです。しかし、提案が検討された節もないま ま、一周年は何事もなく過ぎていきました。チャンスは 度々来るものではありません。いつまで無為無策のまま に過ごすのかと思います。 部落問題でつながる新しい人間関係を ﹁部落問題はもう終わった﹂という見方がじわっと広 がり、他の人権課題に埋没し、教育現場だけでなく自治 体でも、あるいは労働運動や市民運動の世界でも部落問 題に光が当てられることがまれになっでいます。部落問 題の今目的な壁ともき守えますが、これを超えるためには 部落問題でつながれる新しい人間関係をつくることが不 可欠です。部落差別の現実を前にして揺れる子どもや保 護者のおそれや不安を受けとめ、それを教育の課題とし て捉え直して集団ゃつくりゃ進路保障のとりくみとつなげ ていくというのは、部落問題学習の基本ですが、さまざ まな状況の変化は、新たな問題も浮かび上がらせてきて います。特に、子どもに部落のことをどう伝えたらいい のかと悩む親、学校での部落問題学習に際して部落の子 への対応・配慮に苦慮する教員、こうした問題が避けて 通れないものになってきています。これまでは﹁自明﹂ で﹁前提﹂であったことが課題となっているわけで、違 ったアプローチやスタイルが求められていると思います。 そうした中でこの間、豊中市立第五中学校では、部落 解放運動にこめられた地域の人たちの願いやとりくみを 学び、それを﹁夢バトンーはみごのないまち q つ く り
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﹂ ︵﹁はみごのない﹂とは﹁仲間はずれのない﹂という意 味︶として受け継いでいこうと、学校と地域、子どもと 大人のコラボレl
ションによる人権総合学習を展開して きました。特に、﹁僕も将来、結婚差別にあうのかなあ﹂ ﹁なかよしはできたけど、ほんとのことを言える友だち はできなかった﹂と言って卒業していった部落の子ども のつぶやきを五中教育の根幹を問うものとして受けとめ、 部落問題学習の再構築にとりくんできました。二OO
七 年度の﹁五中人権教育方針﹂には、﹁﹃差別されてきた部 こベる 5落の人|差別してきた部落外の人﹄という固定的な見方 ではなく、部落の人も部落外の人も、大人も子どもも、 同じ地域で生まれて﹃はみごのないまちづくり﹄をつく っていく主体者であるというコンセプトに基づいて、地 域と協働でつくる新しいスタイルの部落問題学習﹂﹁部 落問題をタブ
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にせず、部落の子どもの顔が上がり、未 あ か 来にか夢灯り d を見出せる部落問題学習﹂﹁部落外の子 どもがか自分ごと 4 としてとらえ、﹃どこで生まれ育っ たかということで差別するのはおかしい﹄と実感できる 部落問題学習﹂とその特徴が記されています。この実践 を見つめ、関わるなかで思い至ったことがあります。 豊中の部落はほかと比べてこれといって抜きんでたと ころも、自慢できるものもなく、むしろ、とりえもひっ かかりもありません。でも、大事なのはそんなことでは なく、部落差別から解放されたいと願う人たちが、自分 の殻に閉じこもらずに、どれだけ外に向かって心を聞い て想いを発し、つながるために動くかということ、言い お ご ひ じ 換えれば、部落問題を前にして構えず、騎らず、肩肘張 らず、どれだけ自然体になれるかということにあると思 いました。もっと言えば、これまで部落の側は﹁学ばれ た だ る側、寄り添われる側、問題提起をする側、ときには札 す側﹂でしたが、大切なのは、部落問題について語った り、とりくんだりすることを部落の専売特許にせず、誰 もが出入り自由な空間をつくり、実践を促すことだと思 い ま し た 。 部落の子どもの自覚と立ち上がりを軸に、それに共 感・連帯する部落外の子どもたちを核とした集団づくり が華やかな時代がありましたが、今日、誰がムラの子ど もであるのかということは自明ではなぐなってきていま す。なお、そうした実践が成立する余地はなくはありま せんが、そこに先の展望は見出せません。求められてい るのは、今日的な部落差別の現実をふまえた新たな切り 口からのアプローチであり、それはこれまでの部落の子 どもを焦点化したものではなく、﹁部落の子どもと部落 外の子どもたちの関係性﹂に焦点をあてたものであると 思います。﹁部落であること﹂をことさらにクローズア ップするのでも隠すのでもなく、自然体で押し出す、そ んなスタイルこそが求められています。それこそ﹁言、つ は易し、行うは難し﹂の典型ですが、それでもそれが部 落問題の解決にとって不可欠であるならば、それを現実 のものとしなければなりません。第五中学校が提起して いるモデルは、まだテストケースの域を出ていませんが、一考に値するものだとの確信は揺らぎません。これが波 せっきたくま 紋を呼ぴ、議論がおこり、切薩琢磨の中から新たな実践 が生まれれば、夢に灯りがともるかもしれません。 部落解放運動の再生と革新のために つづめて舌守えば、水平社以来の部落解放運動は、いわ ゆる﹁部落民による部落民のための部落民の運動﹂であ り、戦後は、圧倒的多数の部落民を組織してきた部落解 け ん い ん 放同盟が牽引してきました。部落外の人々は、連帯・共 闘する仲間ではありましたが、共に並び立つのではなく、 同伴者ないし随伴者という存在でした。その延長線上に、 いわゆる部落を拠点とし部落民を主役としたこれまでの 運動によって、部落解放が実現するのかと問わざるを得 ません。部落問題を部落民や部落解放同盟の専売特許に け つ ぺ つ してきたことから訣別することの意味がここにあります。 部落外の人々も部落解放運動のもう一方の主役になるこ と、部落にこだわらずあらゆる場を部落解放運動の拠点 にしていくこと、部落問題と向き合おうとする人々とつ ながること、その際には﹁なじらず・見守り・待つ﹂ニ とを心すること:・。こうしたことをふまえるべきだと思 い ま す 。 三十数年前、狭山闘争をはじめとする部落解放運動の 高揚期に部落問題と出会った私は、部落問題から日本が、 世界が見える、部落解放運動こそが日本を、世界を変え る と の H 青い夢 U を抱くほどに部落解放運動にほれ込み、 その只中に身を置くことを選びとりました。当時の豊中 のムラは活気に満ち、人々の顔は輝き、部落解放運動の うねりを実感できる日々がありました。それは間違いな く部落解放に通じているとの﹁確信﹂をもたらすほどの オ
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ラをも備えていました。しかし、同時並行して、 ﹁答申﹂や﹁特別措置法﹂の負の側面が内側から運動と h u し ば 組織を蝕んでいたことには、気づくよしもありません でした。かくして、熱病のような時代が過ぎ、冷たい風 にさらされる時代を迎え、赤く染まるかにみえたか青い 夢 4 は凍りつき、白く変色していきました。この過程を 振り返れば、私たちはムラの物的および人的資源を最大 限に有効活用して部落解放という夢に向かって全力疾走 し、部落解放への新しいベl
ジを刻んできたといえます。 そのありょうは多様でひとくくりにはできませんが、お しなべて言えば、ムラの内から外への告発であり、部落 問題の社会化︵部落差別が存在することへの社会的認 こぺる 7知︶であったと思います。 それが成果を生み、今日に至っているわけですが、そ の一つの帰結が一連の﹁不祥事﹂でもあるとすれば、小 手先の改革でこれを乗り切れると考えるわけにはいきま 三 え h
、
せん。八五年の部落解放運動が内包してきたものを扶り 出す作業が不可欠となります。﹁部落問題をはじめとす る:・﹂というフレーズを捨てて、部落問題を社会問題の 一つとして位置づけ直すこと、部落に注がれる人々のま なざしを問うのではなく、部落の側の外へのまなざしに 厚みと広がりをもつこと、部落解放運動への連帯・共 闘・参ノ加・協力ではなく、社会運動や地域運動に部落解 放運動として貢献をすること・:。こうしたことが必要な のかもしれません。これはへたをすると部落問題の限り なき一般化になり、それこそ部落問題が消えてしまうこ とにもなりかねません。そこに陥らないためには、部落 ざ ん し ん 問題にスポットを当てるための斬新な手法による演出ゃ、 し ん 部落問題を添え物にするのではなく、とりくみの芯の部 分にはまるような、おしゃれなしかけが必要です。そし て、それはこれまでのように、部落という衣や部落解放 同盟の看板に物を言わすことによってではなく、組織や 運動の既成の枠やしがらみにとらわれない柔軟な発想と 自由な行動のできる自立した個人によってこそ現実のも のになるのだと思います。 豊中の地域でも教育や福祉など課題別のネットワーク がありますが、昨今は部落問題をテl
マに取り上げるこ とは容易ではなくなってきています。それは、これまで 衣や看板がホンネの吐露を押さえ、部落問題をタテマエ の世界に封じ込める役割を果たしてきたことが結果して いるように思います。部落差別が露わできびしく、衣や 看板に物を言わさざるを得なかった時代状況の反映でも ありましたが、漫然とそこに浸りすぎ、倣慢をかまして きたことも事実です。部落外の人々からその記憶を消し 去ることは至難の業で、それはタブl
意 識 と 結 び つ き 部落問題についての一種のモラトリアム︵猶予︶状態を もたらしています。 だから、部落問題を軸に人との関係をつくり直すため には、衣や看板によるのではなく、部落問題に向き合う しんし 姿勢の真撃さや、部落解放運動をすすめる行動の確かさ など、人間への共感・共鳴が不可欠になります。八五年 におよぶ部落解放運動はそういう人々を生み出してきた はずですが、その人たちが表舞台から消えたり、埋もれ てしまっている組織や運動のありょうを根底から問い直し、腹を据えた議論をおこす時だと思います。 おわりに 豊中ローカルの限定された世界しか知らない私がこう した物言いをすることは片腹痛いと思われることは承知 ですが、タテマエがまかり通り、ホンネをたたみこんで やり過ごすことが大勢となっている実情を変えるための 一石になればとの思いは、人並以上にあります。被差別 部落の実態が変わり、かつての枠組みや理論では部落問 題がとらえられなくなり、部落解放運動も転換を余儀な くされつつある地点にあることをふまえれば、百家争鳴 とまではいかなくても、相応の議論や問題提起があって しかるべきです。独断と偏見を承知で言えば、部落解放 同盟の影響下にある媒体には批判的言説が掲載されるこ とはまずないというシビアな状況があります。部落問題 を多一な角度から多一に論じ、理論や実践を交流しあう という姿勢が稀薄のように感じますが、運動の世界の同 質化がここまで及び、批判的精神が抑制されているとす るなら、憂うべき事態です。 ﹁事件﹂が残した傷跡はとてつもなく大きく、それを 埋めることなど不可能にも思えますが、それでも部落解 放運動にかけた夢をあきらめないためには、それぞれが 今あるポジションから、あるいはそれを越えて発信し、 実践するしかありません。良くも悪くも﹁事件﹂は組織 や運動の暗部を照らしましたが、それを超えるためには 新しい発想に基づく新しいスタイルの運動やとりくみを 創出しなければなりません。その際、一人でできること は高が知れているかもしれませんが、一人でできること はあるし、一人だからできることもあるということを心 に刻みたいと思います。そして、その一人が一人とつな がれば、夢はふくらんでいくはずです。日本社会の基底 に巣くう部落問題を見つめて、それを自らの問題として とらえ、向き合い、共に歩き続けようとする人々とのつ ながりを確かなものにし、共同の営みをつくっていきた い と 思 い ま す 。 豊中からもそうしたとりくみを発信していきたいと思 いますが、百人余りの同盟員のうちの半数が七
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歳以上 で、若年層は数えるほどというきびしい実情にあります。 五 年 後 、 一O
年後の青写真をどう描くのか、何を軸にこ れからの運動をつくるのか、待ったなしの局面にありま す。高齢者をはじめとする誰もが住みやすい﹁福祉のま こベる 9ち弓つくり﹂は欠くことのできない柱として、今日までさ まざまなとりくみを積み上げてきました。その一方で、 保育や教育の問題と部落問題との重なりを求めて子育て 世代のとりくみをサポートし、世代聞のつながりをつく ることをもう一つの柱としてきました。しかし、芽はな かなか出ず、持てる﹁人・物・財﹂は限られ、何を・ど こに・どう振り向けたらいいのか、悩ましい判断を迫ら れ て い ま す 。 これは第五中学校との﹁協働﹂から学んだこととも重 なりますが、その際に大事にしたいことの一つは、﹁部 落差別から解放されたい﹂との真撃な思いは、それに応 えようとする人々とつながれる﹁呼応の関係﹂に通じる ということです。いつ・どこで・誰と・どんな出会いを するか、それを呼び込むのはその人のありょうであり、 思いの深さだと思います。その意味では出会いは自らつ くるものです。もう一つは、﹁差別される側・差別する 側﹂という対立的な捉え方ではなく、また、﹁この子 ︵人︶﹂に着目し、クローズアップするという従来のパ タ ー ン で は な く 、 ﹁ こ の 子 ︵ 人 ︶ ﹂ と ﹁ あ の 子 ︵ 人 ︶ ﹂ ︵ い わゆる部落と部落外︶との関係のありょうを見据え、こ れを﹁往き来可能で響き合う関係﹂に変えることだと思 います。さらにこの﹁協働﹂モデルは、校区や地域で部 落問題を焦点化していく際のとりくみの下敷きになるだ ろ う し 、 私 が め 、 ざ し た い ﹁ 教 育 の ま ち ・ と よ な か ﹂ に じ て い る と 思 い ま す 。 地域に部落解放運動の活力をよみがえらせ、人々と未 来につながる夢を共有するために、部落問題に正面から 切り込み、タブ
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意識をじわっと港かすような魔力を備 えた、これまでとは違った映りのするキラッと光る部落 解放運動、これをつくりたいと思います。横浜・寿識字学校 から③
裸になること
大沢敏郎︵横浜・寿識字学校主宰︶ 識字学習を始めて一年ほど経ったとき、短い期間に出 会った人たち一人ひとりの来歴や個性の多様さに圧倒さ れ、ぼく自身の識字に向かう基本的な姿勢の枠組みを決 めておかなければと思った。 さま、ざまな人たちが参加してくる識字の場でぼく自身 の枠組みを明らかにしておかないと、ごくありふれた世 間的な情や通念や識字観に簡単に押し流され、ぼく自身 が潰れていってしまうのではないかと思ったからだ。確 かに、参加する人たちも同じ世間を生きてきたわけであ るが、文字の読み書きが十分にできないところでその世 間を生きてきたのだから、その内実は、ぼくの考える世 間とは全く異なったものであったと思うし、ぼくの既成 の社会観や歴史観や人間観が、厳しく問われていくのだ ろうと思った。ぽく自身の視点や視野の転換が、何か問 題が起こったときにできるかどうかだった。その準備は しておかなければと思った。 もう亡くなってしまったが、ぼくの好きな詩人の一人 に石原吉郎がいる。石原は、日本の敗戦後、旧満州︵現 中国東北部︶のハルピンからシベリアに抑留され、一九 う よ 五三年二一月に三八歳で京都の舞鶴港に帰還し、好余曲 折を経ながら詩作活動に入っていった。石原の過酷なシ ベリア体験のなかから生まれた詩や散文は、それは今も 変わらないが、当時のぼくを魅きつけた。 し ん げ ん 石原の歳言のような一九の文章をその著﹃望郷と海﹄ ︵筑摩書房︶から拾ったものを、ぼくの識字学習の基本 的な指標とすることにした。その全てを紹介することは できないが、少し書いてみる。 新しい問題を語るためには、新しいことばが必要で あ る 。 ぼくにとっての識字学習は、間違いなく新しい問題で あった。識字の学びを自分自身のものとするための新し いことばを獲得していきたいと思った。そして、ぼくの 既成の言語観は崩されていくのだという予感はした。識 字のなかで書かれたことばと詰抗しうる自分のことばを よ み が え 見つけ、さらにそれをどのように蘇らせ伝えていくの こベる 11か。これは、ぼくの識字学習の大きな課題になっていく のだろうと思った。 ︿生きることの困難さ﹀とは、︿積極的に生きること の困難さ﹀である。労苦や悲しみにおし流されてい る聞は、この困難さへの認識はない。 他人の労苦や悲しみにたじろぎ、押し流されていって しまいそうな自分がいた。たじろいでいても、そこから は何も生まれてこないことはよく分かっていた。文字の 読み書きのできないことによって︿消極的﹀にしか生き ざるをえなかった人たちに対して、どうその︿積極的﹀ を提示していくのか。現実としであった生きてきたなか での労苦や悲しみを、ぼくが、どう受けとめ承認し、 ぎの課題に向かっていくのか。 ︿問題﹀は逃げられるだけ逃げるがいい。 問題は迫ってくる。 それでも 、 、 、 、 、 ﹁何が自分自身の問題か﹂ を自分自身に対してはつ きりさせること。生きるということは、 いわば自分 の問題を自覚すること。 自分では、どう処理していいのか分からない多くの問 題を背負った人たちに出会っていくのだろうと思った。 自分自身の大切な問題が何であるのかを分かっている人 はいいが、そうではない人たちに対して、どうそれを伝 えお互いに確認をしていくのか。そして、その背負った 荷の中身を吟味して、寿町の識字を、自覚的に生きるこ との荷解きの場にすることができればと思った。 、 、 、 なぜ
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自分はこうなんだと、自分に問うことを忘 れてはいけない。その聞いにたとえ答えることはで きなくても、問う姿勢には最後の意味があるのだか て コ ら 自覚して生きることのできる人は、 それはそれでいい。 でも、分かっていても、なかなかそれができないのが人 に っ ち さ っ ち ぼ う ぜ ん 間なのだろう。二進も三進もいかないところで正然と た た ず 件んでいる人たちにも多く出会っていくのだろうと思 き る と は そ {放みれ 塵I
ら も の 思 人 っ た て ち い に な 対 か し っ て た っ た 。 ぼくが適切に何かがで 一緒に走然と件むことぐらいはできるのではないかと思っていた。これは、 ぼくにとっても同じことが言えるのであるが、どんな状 態にあっても自分を問うことだけは忘れてほしくないと 思 っ て い た 。 裸にならなければならないということは、無限に理 性的にならなければならないということである。 寿町で識字を始めて、まだ一一年も経っていないころの ことだった。五歳のとき、広島の爆心地から二千メート ルのところで被爆したという山口武彦さんが参ノ加するよ うになった。当時、四一歳だった。被爆者健康手帳をも ち、定期的な検診には行っていた。しかし、乱れること はなかったが、いつも破滅的な様相でアルコールを浴び るほど呑んでいた。文字の読み書きはできたが、手元が おぼつかないのか判読しがたい文字を書いていた。 あるとき﹁手について書いてください。いろいろなこ とをしてきた自分の手、父や母や男や女ゃ、他の人の手 など、手について考えたこと、思い出すことを書いてく ださい﹂という課題で、出席した人全員に書いてもらっ た。山口さんは、被爆時、お母さんに手を引っぱられ避 難したときのことを酔ってはいたがしっかりと書いた。 被爆したときのこともみんなの前で詳しく話してくれた。 アルコールのことなどもふくめて、からだのこと、横浜 の被爆者の会のこと、今後のことなども話すようになっ て い っ た 。 また、あるとき、丸木俊さん︵え・丈︶の﹁ひろしま のピカ﹄︵小峰書店︶を、読むだけ読んでおいてくださ いと言って渡したところ、数日して、にこつと笑って、 ﹁これを書いたから持っていってくれ﹂と言って、かな りの量の原稿用紙の束を渡された。何かと思って見ると、 丸木さんの絵本の地の文章を全部書き写したものだった。 ま す 析目のなかに筆圧のつよい太い鉛筆の文字が記されてい た。うれしかった。﹁読むだけで良かったのに﹂と言う と、﹁勉強になったけど、疲れたゾ﹂と言って手を挙げ て、いつものようにフラフラと去っていった。 それ以後、ばったりと顔を見せなくなっていた。ただ、 山口さんがアルコール仲間と一緒に暴れまわっていると いうことは耳にしていた。理由は、分からなかった。何 をしているのか、一度、ゆっくり話をしなければと思っ ていた矢先のことだった。 そのころ、毎週日曜日の午前中、寿町の子どもの勉強 こベる 13
を見ていた。五月の連休のあたたかい陽ざしの目だった。 それが終わって、生活館の前に来たとき、山口さんが先 頭になり、ぼくの名前を呼ぴ、何か叫びながら、七、八 人の仲間と一緒に追いかけてきた。山口さんもその他の 人たちも、鉄パイプや角材様のものを持っていた。七、 八人の人たちが、ぼくを取り囲んだ。 山口さんは、ぼくの前に来て静かに言った。﹁これか ら、お前を殺す﹂と。一瞬、何事が起こったかと思った が、彼の目を見たとき、ぼくは﹁ああ、殺される﹂と確 かに思った。抵抗するつもりはなかった。﹁二一六歳で死 あ き ら ぬのか。なんか短かったな。まあ仕方ないか﹂と諦め の他人事のような気持ちだったが、ぼくのからだは、寒 くなっていた。彼は、その理由を言った。﹁お前は、被 爆者でもないのに、どうして俺のことをゴチャゴチャ言 うのか﹂と。山口さんに被爆のことを話しているとき、 は ん ば っ 何らかの抗いや反擦はあると思っていたが、このような 究極のかたちで迫ってくるとは思っていなかった。ぼく た す と山口さんとの一対一のこと、誰かに救けてほしいとは 少しも思わなかった。 最期だから言っておこうと思い、今まで彼に話してき たことを話し、そして﹁アルコールで自分のからだを痛 めつけて誤魔化し、暴れて、俺を殺しても、山口さんの 問題は何も解決しないと思うよ﹂とも言った。取り囲ん でいる人たちは、彼の合図があれば、いつでも、という 態勢だった。通りすがりの人たちの遠まきの人だかりも できていたが、高見の見物然としていた。約一時間ほど の緊張した長い時聞がつづいた。彼が﹁分かった。もう いい、行け﹂と言って、取り囲んだ人たちと人だかりの 輪を解いた。山口さんをはじめ、その仲間たちは、ぼく に一指も触れることはなかった。 助かったからということではなくて、ぼくのからだは、 すっきりとして軽くなったような気がしていた。そのと き思ったのは、今まで考えてもいなかった﹁ああ、俺は、 この寿町で死んでいいんだ﹂ということだった。 これは、誤解のないように断っておきたいが、寿町は やっぱり荒っぽくて恐い街だということではなくて、山 口さんは、全く正当に、全身でぼくに向かってきたのだ。 余分なことばを一切排除して直接的に、ぼくの思想︵も のの見方・考え方、そして生き方︶と人間性を聞い、語 りかけ裸にしてくれたのだった。ありがたかった。
五月一九日、福岡・天神で敬愛するココロ裁判原告の 竹森真紀さんやフリ
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ユ ニ オ ン 福 岡 が ﹁ 五 月 病 祭 ﹂ を行った。フリl
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ユニオン福岡とは、二O
代 j 一 一 一O
代のフリl
ターや派遣社員、パート労働者を中心に結成 された労働組合である。企業から使い捨て同然のきつい 労働や超低賃金を強いられている彼らが、なぜ労働はシ ビアだが賃金はぼちぼちの教員より集会やデモがずっとー 元気で楽しいのか、前々から知りたかった。 百人近く集まった会場は二O
代が圧倒的だった。ゲス かりん トは雨宮処濠さん。学校でいじめを受け続け、リストカ ット、オーバードl
ズ︵﹁クスリ﹂の飲みすぎ︶を繰り 返し、フリl
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、愛国パンクバンドを経て今、ゴシッ ク ロ リl
タ作家として活躍している。繊細で賢そうな人 だ。それは会場の若い参加者にも共通していた。 雨宮さんは現在の若者の生きづらさを軽快に強烈に語 った。新自由主義が社会の不安定さを引き起こし、企業 が収益をあげるツケが派遣社員の若者にまわっているこ と。年をとっても安い時給は上がらない、社会保障もな い、体をこわしたり、うつ病になっても﹁自己責任﹂に い の ち を 生 吉 る ②生きる力と生きづらさ
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島 本 町 在 住 ︶ 帰せられる。うつ病から自死・餓死までは一直線。私達 ︵若者︶がこの国で生きること自体が戦争なのだと。 彼女の話は﹁生きる力﹂という言葉を連想させる。O
二年の学習指導要領改訂︵いわゆる教育改革︶の﹁目玉 商品﹂、総合的学習の目標になった一つが﹁生きる力﹂ だ。学校が荒れるのは詰め込み教育のせい。教育にゆと りを持たせ、子どもたちに自ら考える力、生きる力をつ けていこう。大幅な教科の時間数や中味の削減、総合的 学習の登場。多くの職場で研究会がもたれ、当時の私の 職場の研究会で校長が﹁生きる力とは何なのか﹂、教員 ひとりひとりに問、ったことを覚えている。その時の困惑 し た 雰 囲 気 も 。 まあ長いキャリアを持つ教員たちは、誰も総合的学習 で生きる力がつくなど信じなかった。それよりこの改革 のもう一つの面、三浦朱門氏が語った、﹁一方で﹃少数 のスーパーエリート﹄を養成し、﹃その他大勢﹄には詰 め込み教育しないから、できん者はできんままで結構。 ︵中略︶限りなくできない非才、無才には、せめて実直 な精神だけを養っておいてもらえばいいんです﹂という 格差教育論に憤慨していた。﹁その他大勢﹂には詰め込 み教育をしないから、荒れないで楽しく総合学習でもし ておいてね、というわけだ。﹁生きる力﹂という言葉が 当時の私たちにどれほどうさんくさく響いたことだろう。 こぺる 15それから五年の問、膨大な時間を使って総合的学習が 実践されたが、﹁生きる力﹂は子どもに培われるどころ か、教員の﹁生きる力﹂をそぎとるのに力を貸したよう だ。子どもに直接関係ない書類の増大。膨大に増え続け る仕事。こんな仕事は必要ないと反対する声はしぼみ、 仕事をやめる人が出始める。﹁おかしい。受け入れられ ない﹂と立って反対意見を述べることが目立つ行為にな り、あきらめて現状を受け入れる空気が年を重ねて濃く なっていく。子どもに良い結果が出る仕事ならまだよい が、現場はそれと関係なく生きづらくなっていった。 ﹁生きる力﹂って、ホントは意味がちがってんなあ、 とぼんやり思う。雇用先で﹁明日から来なくていいよ﹂ と一方的に解雇されるのは不当で一ヶ月分の給与は最低 支払われるとか、勤務中にケガをしたら労災になるとか、 勤務の聞の休憩時間は法によって保障されるとか。子ど もはもちろん、大人も教員も身を守る術として知る必要 が あ る の で は な い か 。 また、なぜ若者たちが厳しい状況で働かねばならない のか、引きこもりやニ
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トという状況が起こるのかを、 子どもとともに教員も学ばねばならないのではないか。 子どもたちが日常接する世間・マスコミで﹁ニl
ト、引 きこもり﹂は否定語だ。五年社会の授業で、﹁日本の農 業の未来をつくるには?﹂というテl
マ で 討 論 し た 時 、 ﹁ ニl
トに農業をやらす﹂と発言した子どもがいたので 仰天した記憶がある。子どもはニl
トの状態におかれた 若者たちに心を寄せるのではなく、ダメな人、自分とは 関係ない存在とみなしている。その時、重々説明したが、 説明不十分だったし、第て私が無知だった。今の世の 中のしくみや状況を子どもたちに伝えるには時間がかか るが、子どもたちがニl
トと呼ばれる若者たちと自分が 同じ生きづらさを共有していることを理解してくれたら と思う。そんな﹁生きる力﹂の取り組みゃ教員の勉強が 必 要 な の だ 。 集会後、天神の目抜き通りを行進。﹁武装より女装﹂ と書いたハl
ト型のプラカードを持ちきれいに女装した 若者。ドクロのメイドさんもいる。﹁交通費払え!﹂﹁残 業代払え!﹂﹁呑まずにやってられるか!﹂﹁カネがない から呑めないぞ!﹂﹁社会保険料が払えないぞ!﹂﹁︵こ んな状態で︶働かないぞ!﹂とシュプレヒコールの内容 は悲惨だが、なぜか楽しい。通行人も楽しそうに反応し ているし、行進に加わった人たちもいた。天下の路上で 大声で言いたいことを言う。あきらめて理不尽を受け入 れることを突破する素晴らしいデモンストレーションだ と 思 っ た 。 おじさん、おばさんたちょ。この若者たちに負けるわ けにはいかないぞ!鴨水記 マ﹁寺津︵亮一・元全同教委員長︶さ んは、部落解放運動は期待・好感・参 画の絶頂期を形成したが、しだいに幻 滅・倦怠感が内外で生み出されてきた のではないかとし、それが一連の不祥 事で内に脱退者を生み、外に同和問題 はうっとうしい問題としていく意識を 増幅させた V 生活要求を自立向上へ組 織できず、行政交渉に依存してきた嫌 いはなかったか V 解放運動の力点を対 外から対内へ展開し切れたのかと聞い、 ︵略︶丹羽︵俊夫・元テレビ朝日審査 局長︶さんは、不祥事の根は深くない の か と し 、 ﹁ 甘 え の 構 造 ・ 相 互 依 存 関 係 L の温床になっていないか V 今回の不祥 事でのマスコミの後輩の意見は、叩数 年前の答えと同じく、抗議・糾弾は納 得できない、表現における言葉の規制 は納得できない、運動団体は恐ろしい し煩わしい、というものだった、など さまざまな課題を指摘したうえで、部 落解放同盟は自己権力の拡大のために でなく、自己使命達成のために、全国 民をよき理解者、味方にする王道を遇 し ん 進 し て も ら い た い 、 と 結 ん だ 。 菱 山 ︵ 謙 二・筑波大学教授︶さんは、みずから が経験したさまざまなとりくみから、 自由な論議の場の確保 V 部落内外の相 互の交流の重要性 V 過去の運動展開で の強圧性・独善性というイメージがあ まりに強く持続している V ︵ 略 ︶ 既 得 権益にしがみつくというイメージがあ まりにも強くなっている、などの点を 指摘。倫理規定の構築、人権や同和問 題の解決についての現代的意味・意義 の再構築と組織内部での学習会をおこ なう、などお点の課題をのべた L 。 これは、部落解放同盟中央本部の提 言委員会︵座長・上田正昭京都大学名 誉教授︶における発言要旨︵﹁解放新 聞 ﹂ 町 ・ 7 ・