• 検索結果がありません。

「子どもを知る」という教育行為の意味とは何か : 「ヒューマン・ポテンシャル」概念の分析の教育学的意義

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "「子どもを知る」という教育行為の意味とは何か : 「ヒューマン・ポテンシャル」概念の分析の教育学的意義"

Copied!
18
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

「子どもを知る」という教育行為の意味とは何か

─「ヒューマン・ポテンシャル」概念の分析の教育学的意義─

畠 山   大

1.はじめに――本稿の目的と課題

米国の教育哲学者であるイズラエル・シェフラーによってなされた「ヒューマン・ポテ ンシャル」(human potential)概念の分析は、簡潔に述べるならば、「人間の能力とは何 か」という原理的な問題に哲学的示唆を与えるものである。とりわけ、「ポテンシャル」 という語が、一般的な文脈においては「潜在する能力」や「可能性としての力」としての 意味に用いられることを考慮するならば、シェフラーの関心は、当の能力とは何かという 問いを超えて、いまだ顕在化していない人間の能力を他者がどのように理解し、また、そ れを適切に開花させるのかという、極めて教育学的な論点に焦点づけられている。 このような「ヒューマン・ポテンシャル」概念の分析を踏まえるならば、当の概念は、 教える者が行う「子どもを知る」という教育行為のあり方を理論的に解明する際の鍵概念 として、極めて重要な意味を持つ。なぜなら、教育場面において教える者が「子どもを知 る」という行為を行うことは、単に、今その時の子どもの状態を理解することを超えて、 その行為の対象である子どもにおける何らかの教育的な可能性を、すなわち何らかの能力 の伸長や性質の変容という変化の可能性を捉えることに他ならないからである。つまり、 「ヒューマン・ポテンシャル」という概念への問いを問うことによって、教育行為の一つ の現れである「子どもを知る」という行為の意味を再考することができるのである。 そこで、本稿では、「ヒューマン・ポテンシャル」(human potential)概念の分析が有 する教育学的意義を考察することを通して、「子どもを知る」という教育行為のあり方に ついて再考することを目的とする。 ここで「再考」という言葉を用いているのは、次に述べる二つの理由に因っている。そ れは、第一に、日本の教育学言説においては、これまでにも「子どもを知る」ということ に関わる様々な先行研究が存在しており、それらの理論的立場を改めて検討しておく必要 があるからである。そして、第二に、シェフラーが行った「ヒューマン・ポテンシャル」 概念の分析それ自体も、「子どもを知る」という行為と教師の「教える」という行為との 関係の中で、改めてその意義と課題を検討する必要があるからである。 まずは、「子どもを知る」という行為に関わる先行研究を概観することを通して、その

(2)

意義と課題を析出し、本稿における理論的立場の明確化を図る。

2.臨床的アプローチにおける「子どもを知る」という行為

まず、先行研究の一つの系譜としては、臨床心理学を母体として「子どもを知る」とい う行為のメカニズムを解明することを目指す、「臨床教育学」の言説がある1) 。これは、 いわゆる「問題行動や社会規範からの逸脱行動を起こす子どもの存在」が、社会的に注目 を浴びる中で存在感を増してきたものである。そのため、この文脈における言説は、普遍 的に「子どもを知る」というメカニズムを解明するために行われている議論というよりは、 むしろ具体的で個別的な「その..子ども」が抱える問題を注視し、その子どもが引き起こす 問題行動や逸脱行動に、対症療法的に応答するためになされる議論であるところに特徴が ある。 この系譜における一つの原型とも言える議論を展開した河合隼雄は、彼の著書である 『臨床教育学』の中で、次のように述べている。 (臨床的観点の特徴は)、多くの人に能率的にすることとか、全体の傾向を調査して 結論を出してゆこうとするのではなく、何と言ってもまず個人を徹底的に大切にする2) 。 河合は、こうした「個人を徹底的に大切に」し、その子どもが抱える問題状況を解決へ と導いていく子どもへの関わり方を、従来の教育学から分化して「臨床教育学」と規定し ている。 では、なぜ河合は「臨床教育学」を打ち立てようとしたのか。ここで重要なのは、「臨 床教育学」という呼称やその学問的性格の問題ではない。問題としたいのは、河合がなぜ 従来の教育学から分けて、こうした臨床的観点に立つ「子どもを知る」という行為のあり 方を主張したのか、にある。この「分ける」という発想の背後には、河合の教育に関する 次の理解がある。 教育というと、どうしても何かを「教える」ことに力点がいく。そこで上手な教授 法をいろいろと考える。これは確かに多数の子どもに何かを能率よく教えるには有効 な方法である。……(中略) 学校の教師の非常に難しいところは、学級の子どもを全体として捉え、効果的に教 えることを行いつつ、そこから落ちてゆく子どもに対しても注意を払わねばならない ことである。後者の場合の方に力点をおいて考えるのが臨床教育学である3) 。

(3)

この河合の言明は、教育場面において一般的に見られる「教える」という行為と、臨床 教育学的な「子どもを知る」という行為との間にある、ある種の区別を指摘するものであ る。これは言い換えるならば、「教える」ということを、子どもを「学級」という全体と して捉えた上で何らかの事柄を能率よく伝達する行為として規定し、それに付け加えるも のとして、臨床的な観点に立つ「子どもを知る」という行為を位置づけているということ である。そして、さらに言えば、河合自身が述べているように、こうした臨床的な観点に 立つ「子どもを知る」という行為は、教師による「教える」という営みから「落ちてゆく 子ども」への視線のあり方として主張されているのである。 こうした立論は、一方で、「問題行動や逸脱行動を起こす子ども」への理解を促進する 社会的意義を持つものとして位置づけることができるであろう。事実、河合の「臨床教育 学」構想の後、学校には臨床心理学を専門とするカウンセラーが政策的・制度的に配置さ れることになり、そうした職業につく者は、今日では「子どもの『こころ』の専門家」と いう社会的認知を受けるまでになった。そして河合の言説に照らして言うならば、より重 要な事実として、教師自身がこうした臨床的な視線を持つことの意義が強調され、一般に 「カウンセリング・マインド」と呼ばれる資質を教師が身につける必要性までも叫ばれる ようになった4) 。当然のことながら、河合の構想を現実味のあるものとしたのは、政策的 な決定やその具現化としての制度だけではなく、その背後にある、子どもによる凶悪な殺 傷事件の発生や、過激な暴行事件の顕在化といった社会的背景も同時に指摘することがで きるであろう。ともあれ、河合が意図したように、「教える」という営みから「落ちてゆ く子ども」の存在が社会的に注目され、その対応策が促進されてきたことは、こうした臨 床的観点に立つ言説がもたらした成果である。 しかし、他方で、「教える」という行為の内にあるはずの「子どもを知る」という行為、 すなわち「教える」という行為に密接な関わりを持って行われる「子どもを知る」という 行為については、河合は充分に理論化し得ていない5) 。なぜなら、「教える」という行為 を「学級の子どもを全体として捉え、効果的に」何かを伝達することとして前提し、臨床 的観点から区別して規定している以上、この意味での「教える」という営みの中には、 個々の子どもを捉えるという「子どもを知る」行為への視点が、論理的には.....欠落してしま うのである。だが、果たしてこうした論理展開は妥当なものであるのか。 次に、授業論において展開された「子どもを知る」という行為に関わる言説を概観し、 この問題を検討する。

3.授業論における「子どもを知る」という行為

「子どもを知る」という行為に関する言説を支えるもう一つの有力な系譜として、授業

(4)

論とりわけ授業研究における「子ども」への着眼が挙げられる。この系譜における「子ど も」への言及は、先に検討した臨床的観点に立つ「子ども」への言及よりも、歴史的には より古くから存在する系譜である。たしかに、授業を構成する主たる三要素として、教育 学において伝統的に「教師」・「子ども」・「教材」が取り上げられてきた歴史的事実を 考慮するならば、その一つである「子ども」へと視線が向けられるのは、当然の成り行き である6) 。さらに言えば、こうした系譜での言説は、河合に代表されるような臨床的観点 に立つ言説とは異なり、授業における「教える」という行為の内にある「子どもを知る」 という行為を積極的に対象化しているところに、その特徴を見ることができる。 ここでは、授業研究の中でもとりわけ古くから存在し、かつ今日においても影響力ある 「授業分析」というアプローチに着目し、そこでの「子どもを知る」という行為に関わる 言説を検討したい7)。授業分析とは、主として1960年代以降に理論的に提唱され始めた授 業研究の一つの方法である。初期の中心的な主導者には、重松鷹泰や八田昭平らがいるが、 本稿ではこうしたアプローチを発展的に継承している柴田好章の議論を基に検討する。 柴田によれば、この授業分析は、1960年代の「教育の科学化」という系譜の中に位置づ けられている。この「科学化」という語は誤解を招きやすい表現であるため、若干の説明 を加えておく必要があるであろう。柴田によれば、そもそも授業分析という手法の成立以 前の授業研究は、個々の教師の経験に依存して、いわば個人の見解に基づいて授業を捉え てきたとされている。こうした中で、「授業分析」は、授業における発話を、教師を「T」 子どもを「C」という記号で置き換えて逐語的に記録し、文字として起こされた授業記録 を「誰もが共通に承認できる資料として位置付け、それを土台とすることによって科学的 な議論を成立させることを追求した」8)という。つまり、授業分析、さらには1960年代に 発展的な展開を見せた授業研究における「科学化」は、授業プロセスを文字化し、それを 基礎資料とすることで成り立つ、複数の教師(ないしは研究者)間での公共的なコミュニ ケーションの担保を意味している。 柴田は、こうした「科学化」を志向する授業分析の特徴を整理するうえで、五つの特徴 を挙げているが、その中に、「子どもの思考過程の解明」を位置づけている。以下に柴田 の言明を見てみよう。 教師の発問を検討するのにも、目標・価値・教育内容の具現である教材を検討するの にも、子どもの思考の検討を経ずしては成立しないのである。(中略)突き詰めて考 えれば、学習が起きている現場とは、まさに子どもの思考が生起する内においてであ る9) 。

(5)

柴田が指摘するように、この授業分析という授業研究の手法は、その成立当初から、 「子どもの思考」に着目して研究が進められてきた。事実、日比裕は、1960年代当時から の歴史的経緯を総括した上で、授業分析の課題を「子どもの思考の究明」を根底におく以 下の三つの問題群として提示している10) 。 ① 授業分析の実践的課題:良い授業を実現すること。すなわち教育実践の全体構造 にもとづく授業の実現。 ② 授業分析に固有の課題:きょうの授業を通してあすの子どもの可能性を具体的に 構築すること。 ③ 授業分析の理論的課題:子どもの可能性を表現する叙述形式の究明。 こうした経緯を踏まえるならば、授業分析における「子どもを知る」という行為は、い わば学習場面(授業)における「子どもの思考過程」すなわち「子どもの学びの諸相」を 解明することに他ならない。すなわち、教師が授業場面で「教える」過程の内で、子ども がいかに思考し学んでいくのかを、授業記録を基にして検討していくのである。さらに言 えば、授業分析における「子どもを知る」という行為は、子どもの思考過程を明確化する だけではなく、その変容の可能性を捉えようとするところにも特徴がある。先の引用に見 られるように、授業記録を基にして「あすの子どもの可能性」を捉え、それを「表現する」 ことも目指されているのである。 授業分析においては、以上の目的を持って「子どもの発言や行動、ノート、作文、作品 など、入手可能なあらゆるデータを総合して」11)検討がなされる。こうした手法は、今日 では授業分析を超えて授業研究一般においても見られることであるが、少なくとも授業分 析においては、授業過程における「子どもの思考過程」を解明し、それを踏まえてその子 どもの変容可能性を予測し、そこから授業理論を構築していくことに目的を置いている。 この授業分析における「子どもを知る」という行為のあり方は、前章で検討した臨床的 な観点に立つ「子ども」への視線とは、次の点で明確に性質を異にしている。すなわち、 授業場面での教師による「教える」という行為の内に、自覚的に、一人ひとりの「子ども」 への視点を導き入れるという論理構造を有しているのである。これは、河合が主張したよ うな「教える」という行為から落ちてしまう「子ども」への視点とは異なり、まさに「教 える」という行為の内に、「一人ひとりの子どもを知る」という教育行為が含まれている ことを例証するものである。 以上の点を踏まえるならば、個々の「子どもを知る」という行為は、その内実の吟味を とりあえず傍らに置くならば、河合が主張した臨床教育学的な視点においても、また、授 業分析に代表されるような授業研究・授業論の視点、すなわち一般的な教室場面における

(6)

「教える」という行為においても、ともに必要とされるものであることがわかる。 しかし、先の河合の言明に見られるように、臨床的観点に基づく言説は、「子どもを知 る」という行為と、「教える」という行為との相違を殊更に強調することによって、あた かも、両者が実体的に全く異なる次元に属する行為であるかのような印象を与えてしまっ ている。同様の事例は、その後の臨床的観点に立つ議論においても見て取ることが可能で ある。例えば、木之下隆夫は、一方で、「SC(引用者註:スクール・カウンセラー)の子 ども理解の仕方、教師の子ども理解の仕方を双方が相互に学んでいく土台づくりが必要で ある」12) と述べて、両者において異なる質の子ども理解が存在することを認めながらも、 他方で、「今日の教師集団は子どもの「理解」と「指導」のはざまで振り子のように視点 が揺れ動いている」13) と述べている。すなわち、この木之下の言明は、教師の「子ども理 解」という形で、教師の立場における「子どもを知る」という行為を見出しながらも、結 局は、「理解」と「(学習・生活)指導」があたかも選言的な関係であるかのように述べて しまうことで、「理解」と「指導」の関係を二項図式的に捉えてしまっている。こうした 図式は、河合が示した「子どもへの臨床的な視点」と「教えるという行為」との間の選言 的な関係に共通する認識である。 以上の点を整理すると、「子どもを知る」という行為の意味をめぐって、以下の二層に 分かれる複雑な混乱状況の存在を指摘できる。 ① 臨床的観点に立つ「子ども」への視線と授業論・教育方法論の立場に立つ「子ど も」への視線の関係性の不明確さ。 ② 「子どもを知る、理解する」という行為と「教える、指導する」という行為との 間に設けられた区分の有効性、および関係性の不明確さ。 こうした混乱状況が起こる原因は、次の二点である。すなわち、第一に、現在の教育学 において「子どもを知る」という行為の意味が充分に明確化されていないことであり、第 二に、「教える」という行為と「子どもを知る」という行為を、どのような関係として捉 えたらよいのかが充分に明確化されていないことである。 そこで本稿では、「子どもを知る」という教育行為の意味をより十全に明らかにするた めに、これまでに検討してきた「臨床教育学的な子どもへの視点」と「授業論における子 どもへの視点」を今一度、一つの視座から包括的に再構成する立場をとる。これは、単に 両者の方法上の質的な違い.........に配慮しつつ統合するといった議論ではなく、「子どもを知る」 ということの意味を再考することによって、必然的に両者の立場が教育に携わる者におけ る一つの認識のあり様として.........再構成されていくことを意味する。そして、それは結果とし て、「教える」という行為と「子どもを知る」という行為との間にある関係を明確にする

(7)

理論的な基盤を手に入れることにもなるであろう。 次章では、こうした議論を展開するために、日本における言説から一度離れ、米国の教 育哲学者イズラエル・シェフラーが分析した「ヒューマン・ポテンシャル」概念を基にし て、「子どもを知る」という行為の意味を捉え直していく。

4.「ヒューマン・ポテンシャル」概念の分析の教育学的な意義

とは何か

(1)「ヒューマン・ポテンシャル」概念とは何か――神話の否定 「ヒューマン・ポテンシャル」概念(以下、「ポテンシャル」概念と略記する)とは何 か。「はじめに」で述べたように、一般的に「ポテンシャル」概念は、人間が持つある種 の「潜在的な能力」や「可能性としての力」を概括的に示すものとして理解されている。 言い換えるならば、未だ顕在化していない何らかの能力や性質を指し示すものとして「ポ テンシャル」という言葉は用いられる。 シェフラーによれば、この「ポテンシャル」という概念は、歴史的に三つの特別な意味 を付与されてきたとされる。すなわち、(1)ポテンシャルは時間的な変化に影響されるこ となく主体の内に固定的に存在し、(2)実現されるポテンシャルは互いに排斥することな く調和が取れ、そして(3)ポテンシャルと呼ばれるものは一様に有益な価値を持つもの である、という信念である。シェフラーはこうした三つの信念を伝統的な「神話」である としている14) 。 こうした「神話」が持つ弊害は、シェフラーによれば、ポテンシャルに関する教育問題 を、その人が「どのようなポテンシャルを持っているのか」という事実的な問いと、「い かにしてそのポテンシャルは最も効果的に実現されるのか」という方法論的問いという、 極めて単純化された問いへと還元してしまう危険性にあると言う15) 。なぜなら、まず「ポ テンシャル」を固定的に捉えた場合、時間によるポテンシャルの変化、すなわち、ポテン シャルが新たに見出される場合もあれば喪失する場合もあるという、ポテンシャルの動的 性格を不問に付すことができるからである。そしてまた、「ポテンシャル」を予定調和的 に実現するものとして捉えた場合、ポテンシャルがそもそも対立するかもしれないという 可能性を問うことなく、言うなれば、どのポテンシャルの発現を選択するかという価値判 断に関わる必要なく、その認定を行うことができるからである。さらには、「ポテンシャ ル」を一様に有益な価値あるものとして捉えた場合、「悪しき方向へと発現するポテンシ ャル」の存在を、根本から存在しないものとしておくことができるからである。 しかし実際には、成長の過程でポテンシャルが喪失ないしは発見される場合が往々にし てある。例えば、母語としての言語習得のポテンシャルという問題を考えるならば、極め

(8)

て幼い時期に、そのポテンシャルの発現へと向かわせる何らかの働きかけがなければ、習 得が必ずしも不可能とは言わないまでも、極めて困難な道をたどるのは想像に難くない。 また、ある同一系統に属する言語(例えばイタリア語)を習得した者が、同一語族に属す る言語(例えばラテン語)を習得するポテンシャルを新たに発現する可能性もある。ポテ ンシャルの調和性という点について言えば、例えば恵まれた体格を育むことのできた子ど もが、同じスポーツ領域でも多様な道に開かれている可能性は容易に想像できる。野球選 手の松井秀樹が、幼いころに柔道や相撲で実績を挙げていたことは有名な事実である16) 。 しかし彼の場合は、柔道家や関取としての道ではなく、野球選手の道へとそのポテンシャ ルが開かれた。ここには当然ながら、本人や周囲の人間を含めた選択という価値判断があ ったに違いない。そして三つ目として挙げられた「ポテンシャル」それ自体が一様に有益 な価値を持つという信念も、手先の器用さというポテンシャルが、手芸職人になるという 職業的な道へとつながる方向性もあれば、泥棒へとそのポテンシャルの開花を向かわせる 可能性もあるということを論理的には否定できないという意味において、棄却されるべき 観念である。 シェフラーは、こうした「ポテンシャル」概念にまつわる「神話」の不毛さを例証し、 新たに三つの観点から「ポテンシャル」概念を捉え直す試みに着手する。すなわち、(1) 「力量」(capacity)、(2)「傾向性」(propensity)、(3)「遂行力」(capability)、という 三つの観点から、「ポテンシャル」概念を再構成するのである。 (2)三つの観点から捉え直される「ポテンシャル」概念 本来、誰かの「ポテンシャル」を認めるということは、その相手の何らかの将来的な予 測を含むものである。すなわち、「将来的に○○○になる」や「○○○へと発展する」と いった、将来的な展望への言及こそが、「ポテンシャル」を認めるという行為のあり方で ある。しかし、先に見たとおり、「ポテンシャル」が一様に有益な価値を持つものである と想定できない場合、当然のことながら、悪しき方向へと展開する可能性を持つ「ポテン シャル」の開花を、何らかの方法で阻害する必要性に迫られる。また、逆に有益な価値を 持つ「ポテンシャル」であると判断できる場合、その開花を阻害する要因を突き止め、そ れを何らかの形で解消する必要がある。シェフラーはこうした議論を「ポテンシャル」概 念の分析の中で展開するために、「力量」(capacity)という観点から分析を行っている。 ①「力量」(capacity)としての「ポテンシャル」 「力量」(capacity)という語は、一般的用法に照らせば、「何らかのことができる」と いうことを指すものとして理解される。具体的に言えば、「自転車に乗る力量がある」と いうことは、「自転車に乗ることができる........」という意味として、「リーダーとしての力量が

(9)

ある」ということは、実際に「リーダーとしての手腕を発揮できる........」という意味として、 すでに何らかの能力があるかのように解釈される。しかしシェフラーは、「力量」という 語の意味を次のように規定する。 ここで我々が関心を寄せている提案(「力量」の解釈)では、(中略)可能性(pos-sibility)の一種つまり、必然性あるいは拘束..の否定と取るのである。(中略)一般的 に言って、何らかの結果を導くための力量を確信することは、多くの場合、まさにそ の結果が決して生じないだろうということを否定することに他ならない17) 。 引用文の内容を改めて言い換えると、ここでの「力量」が意味しているのは、「必ずで きないということ」の否定である。先の例に照らして述べるならば、「自転車に乗る力量 がある」とは、実際に自転車に乗ることができるのではなく、「絶対に自転車に乗ること ができないということはない........」という意味である。つまり、「力量がある」とは、「いつで も○○○できる」ということを意味するわけでも、「○○○できる」可能性を一般的に予 測することでもないのである。 シェフラーがこうした議論を展開したのは、この「できない」ということの否定が、人 が何らかの能力を獲得しようとする際の「障害」が無い、または「障害の影響」が無いこ とを意味するということを主張するためである。つまり、「できない」ということの否定、 すなわち「力量がある」ということは、何らかの能力を獲得するための「障害」が無い、 または「障害の影響」が無いということなのである。 しかし、こうした障害が無い、障害の影響が無いということが確認されたとしても、そ のことで「力量」による何らかの特性の獲得が予測されるわけではない。そこでシェフラ ーは、次に、「傾向性」(propensity)としての「ポテンシャル」へと議論を展開する。 ②「傾向性」(propensity)としての「ポテンシャル」 シェフラーが「傾向性」という観点から「ポテンシャル」を分析する意図は、「もし∼ ならば、……だろう」という形で行われる仮言的予測としての「ポテンシャル」の認定の あり方を議論の俎上に乗せるためである。すなわち、先に確認した阻害要因の否定という 「力量」の場合とは違い、ここでは、より積極的な「ポテンシャル」の認定のあり方につ いて論じることを意図している。 シェフラーは「泳ぐ」という能力を例にとり、この「仮言的予測」としてのポテンシャ ルの認定を以下のように説明する。 我々が、日常的会話の中で、誰々は泳ぐ力量を持っているという代わりに、むしろそ

(10)

の傾向性、あるいは性向を持っているのだと語る場合、彼の泳ぐことが妨げられない ような状況がその文脈上存在する、ということ以上のことを語っている。しかし我々 は決して彼が泳ぐことを無条件に予測しているわけではない。このような場合に、 我々が実際に行っていることは、ある種の仮言的予測である。もしも彼が機会をえ、 さらに...、その機会が抑制されることもなければ、彼は泳ぎそうだという予測である18) 。 こうした傾向性としての予測は、能力の発現を完全に予測するものではない。シェフラ ー自身が述べているように、「もしも主体Aが機会を得て、さらにその機会が妨げられる ような障害がなければ(つまり「力量」があれば)、主体AはBせざるを得ない(Bしがち である)」という、もしも(if)が付きまとう条件的な予測である。シェフラーはこうした 予測を「仮言的予測」と呼び、その予測において、「もしも」という条件への着目が重要 であることを主張する。 ここで注意しなければならないのは、この「もしも」から始まる予測が、単一的な道を たどるような単純な因果の連鎖ではない、ということである。すなわち、ここでの「もし も(if)」は、その先に「多様なもしも(ifs)」へと開かれているという意味で、極めて複 雑な可能性に開かれているものである。言い換えれば、ここでの「もしも(if)」は、直線 的な因果の連鎖、すなわち「ああすればこうなる」といった単純な因果律に規定されてい るものではないということである。 この意味で、シェフラーは、およそ完全なポテンシャルの認定は見込めないという極め て現実的な主張を展開している。しかしこれは、ポテンシャルの認定が完全に不可能とい う話ではない。むしろそうした絶えざる不確実性を抱えつつ、それでも何らかの「もしも」 に照らしながら相手のポテンシャルを認めていくことこそが、教育者に課せられる責任な のである。 では、この「もしも」から始まる予測の確実度を上げるには、どのような条件が必要な のか。シェフラーは、もう一つの「遂行力」(capability)という観点へと議論を展開する ことで、この問題を考察していく。 ③「遂行力」(capability)としての「ポテンシャル」 この「遂行力」とは、シェフラーによれば、「予定された結果を効果的に増進する能力 に関わ」19) るものとして規定されている。すなわち、その主体に力量があり、傾向性があ る場合に、実際にそうすることを「選択」し、「実行」する能力のことを意味する。 これまでの「力量」や「傾向性」という議論は、当該の主体が置かれている状況への言 及が前面に出ており、その主体が選択するかどうかや、選択した場合に実行できるのかと いった問題は明示的に問われてこなかった。それは、シェフラー自身の「ポテンシャル」

(11)

の捉え方として、実体的に何らかのものが主体に内在しているという本質主義的な規定を 退けてきたからである。むしろ、シェフラーは、当の主体が置かれている社会状況や文化 的背景といったものとの相互作用の中で、それが他者によって「ポテンシャル」として認 定されるか否かという形で、いわば「ポテンシャル」をより関係論的な視点で捉える必要 性を主張することを意図している。だからこそ、この「遂行力」としてのポテンシャルを 論じるに先立って、それを下支えする「力量」としてのポテンシャルや、「傾向性」とし てのポテンシャルといった観点から考察してきたのである。そしてまた、「ポテンシャル」 概念の捉え方をこのように規定しているために、この「遂行力」も、単純に「○○ができ る」という実体的な能力の有無には還元されない。むしろシェフラーは、この「遂行力」 を明確化する際、次の事例を検討している。 一例として、条件の一応揃った環境、即ち、問題の行為の実行を妨げることのない環 境にいる、技術に熟達した一人の行為者を考えてみよう。熟練した行為者は、実行す る力量..とは別に、遂行力...をも持っている。彼は、もしも...、そうすることを選択するな らば、そのような条件の下で、適切に行為するものと一般に信頼..できる。熟練度で劣 る行為者は、同様の状況の下で、適切な行為を意のままに行なう信頼度が低いという 点で区別される。即ち、技術面で差のある二人の射手は、二人が同じ環境状態の下で、 実際に的を射ようと試みて...いる時、的を射当てる信頼度に差が現われるのである。よ り優れた技術は、より大きな環境的力量として表わされるわけでも、一般的な....的中確 度の高さに表わされるわけでもない。この種の確度の違いは、二人の射手が、双方に とって同じ程度に許容される環境で、的を射当てようとする時にのみ、顕著になるの である20) 。 この事例の分析に見られるように、シェフラーは、「遂行力」についても、ある特定の 状況でのみ言及し得るものとして位置づけている。なぜなら、上記の射手の例の場合、 「技術という要因、あるいはもっと一般的に言って、遂行力は」21) 、特定の状況を離れて 一般的に述べることのできる的中確度としては表わし得ないからである。言い換えるなら ば、シェフラーは、ある特定の状況を離れて何らかの能力を実体化し、それを個人の属性 として安易に内属させることを巧妙に避けているということである。 こうした「遂行力」の議論を踏まえるならば、前項で吟味した「傾向性」としてのポテ ンシャルの認定は、当該の主体がある特定の状況の中で、特定の能力を発現することを選 択しそうか、そして選択した場合に、実際に行動の形として実現できそうか、という点に 強く依存していることが明らかとなる。シェフラーは次のように述べる。

(12)

遂行力は、我々が行為者自身の決定や努力から、その結果をかなりの確度で予測しよ うとする際の仮言的予測に根拠を与えてくれるものなのである22) 。 この言明に基づくならば、「遂行力」と「傾向性」という概念は、非常に密接な関係に ある概念ということになる。すなわち、「傾向性」としてのポテンシャルの認定の確実度 を上げるための条件が、「遂行力」なのである。 以上に見てきた3つの観点からの「ポテンシャル」概念の分析を、図式的に整理すると 以下のようになる。 ◎「主体Aのポテンシャルを認める」という場合… ①「∼になる力量(capacity)としてのポテンシャル」 =「∼できない」ということの否定(阻害要件は無いという判断)。 ②「∼になる傾向性(propensity)としてのポテンシャル」 =多様な「もしも(ifs)」に影響される「仮言的予測」の実行。 このとき、「……するだろう」という予測の確実度を上げるのが ③「∼になる遂行力(capability)としてのポテンシャル」 概括的に整理をすると以上のようになるが、これは、三つの観点が独立して存在してい ることを示している訳ではない。むしろ、実際には、「ポテンシャル」を構成する要素と して「力量」(capacity)、「傾向性」(propensity)、「遂行力」(capability)という三つの 側面が不可分の物として混在していると考える必要がある。シェフラーが行った分析は、 この「ポテンシャル」という概念を、あくまでも論理的に三つの観点から検討したという ことである。 では、このように議論されてきた「ポテンシャル」概念の分析は、どのような教育学的 意義を持つのか。次節でこの点を考察する。 (3)「子どもを知る」という行為としての「ポテンシャルの認定」 シェフラーにとって、これまで検討してきた三つの観点からの分析は、単に「ポテンシ ャル」概念を構成する要件を論理的に明示化して解釈することに、その目的を置いてきた のであろうか。つまりこれは、「ポテンシャル」概念それ自体の分析的議論としてシェフ ラーは自らの議論を構築してきたのか、という問いである。 結論を先取りして述べるならば、それは誤った理解である。たしかに、シェフラーの分 析は、付随的な結果として「ポテンシャル」概念の明晰化につながるものではあったとし ても、そもそもの目的として「ポテンシャル」それ自体の分析を意図したものではなかっ

(13)

たと捉えるべきである。なぜなら、シェフラー自身が「(三つの観点からの)我々の解釈 のいずれもが、ポテンシャルを認定することの意味.........について分析を与えている」23) と述べ ているように、むしろ氏の議論の力点は、ポテンシャルの「認定」という点にこそ、置か れていたと見るべきである。 事実、シェフラーは、「力量」について論じる際には、「力量があると確信する.......」場面を 想定する中で分析を進めてきており、また、「傾向性」について議論する時には、「傾向性 があると言明する.......」場合を想定している。「遂行力」も当然のことながら、「傾向性がある」 と判断する際の基準として論じられている以上、ポテンシャルを認めるという点から切り 離されて論じられているものではない。 こうした論理展開が持つ意味は、紛れも無く教育者による教育行為の一つの現れとして、 「ポテンシャルを認める」という行為を位置づけているということである。つまり、教育 行為から切り離されたものとして「ポテンシャル」の議論を展開しているのではなく、あ くまで教育する側の人間が、「いかにして学び手のポテンシャルを捉えていくことができ るのか」という問題をこそ、シェフラーは議論の俎上に乗せていたのである。すなわち、 「ポテンシャルを認める」という行為は、教育者の「子どもを知る」という教育行為その ものなのである。 以上の理解に基づけば、次のように議論を展開することが可能である。 まず、先に「力量」・「傾向性」・「遂行力」という三つの観点から「ポテンシャルの 認定」を捉え直す前提として議論したように、「ポテンシャル」それ自体では、有益な価 値を持つものとも、負の価値を持つものとも規定できないことを確認した。さらに言えば、 この「ポテンシャル」は、あくまで何らかの力を発現する潜在的な力である。この前提に 基づく「ポテンシャルの認定」という「子どもを知る」行為は、「力量」という観点から 見るならば、例えば、望ましい学び(思考過程)に結びつくポテンシャルの開花を妨げる 要因を、あらかじめ除去あるいは無害なものとする「授業」を想定することになるであろ う。例えば、その子どもの現在の実力に照らして、あまりにも煩雑に過ぎる教材を簡略化 したり、発問の仕方を明確化したりするという形で、授業場面における教師の「教える」 という行為を規定することになるはずである。また、臨床教育学が捉えてきた問題行動や 逸脱行動に関して言えば、目の前の子どもがそうした行動へと自らの行為を展開しないよ うに、そのポテンシャルの開花を妨げる要因を意図的に作り上げることへと、教師は自ら の教育行為を考えることになるであろう。 さらに、「ポテンシャルの認定」を「傾向性」の観点から捉えるならば、次のように言 えるであろう。まず、授業場面においては、子どもが示すあるポテンシャルを望ましい学 び(思考過程)の発現へと結び付けていくように、多様な「もしも(ifs)」という条件が 生み出される状況を教師の側が準備することになるはずである。それは、一方では、新た

(14)

な学習空間の構成という大規模な形を取るかもしれず、また他方では、発問の工夫という 小さな変化かもしれない。いずれにしても、一人ひとりの子どものポテンシャルの開花に 見合う形で、その発現を促す条件づくりが教師には求められるであろう24) 。また、問題行 動や逸脱行動を起こすポテンシャルを示す子どもに対しては、そうした行動へと結びつき かねない多様な条件(「もしも(ifs)」)を可能な限りあらかじめ把握し、排除する必要性 を、個々の教師が認識する必要に迫られるはずである。もしくは、問題行動や逸脱行動へ と展開することを阻害する条件を、教師の側で準備することも必要となるであろう。近年 注目されている「保健室」の機能は、こうしたポテンシャルを示す子どもたちにとって、 場合によってはその発現を阻害する条件になり得る(実際になっている)かもしれない。 このように、「ポテンシャル」という概念を教育学的に吟味することによって、より正 確には、対象の「ポテンシャルを認める」という行為を教育学的に吟味することによって、 臨床教育学の「子ども」への視点と授業研究・授業論における「子ども」への視点の両者 を、一つの視点から議論することができるのである。まさにこの点にこそ、「ポテンシャ ル」概念を分析することの教育学的な意義がある。

5.おわりに

これまで検討してきたように、本稿では、シェフラーが行った「ポテンシャル」概念の 哲学的分析を基にして「子どもを知る」という行為の意味を再吟味してきた。このことの が持つ意義は、次のように整理することができる。 第一に、「子どもを知る」という行為とは、立場の如何に関わらず、広く子どもが示す 「ポテンシャルを捉える」という行為に他ならないことが明確になる点である。言い換え れば、「子どもを知る」とは、ある特定の立場の人にのみ求められる認識のあり様ではな く、広く子どもの成長に関与する立場の者に、共通して求められる認識の様式であるとい うことである。すなわち、本稿で検討してきたような、臨床的観点に立って子どもと関わ る者においても、学校教育において授業を担う教師においても、さらには、日常的に子ど もに関わる親や保護者の立場の者においても、この認識は共通して持たれる必要のあるも のであるということである。 第二に、「子どもを知る」、すなわち、子どもの「ポテンシャルを認める」と言った場合、 その行為が、対象に実体的に存在するポテンシャルを見出すことでもなければ、一様に価 値ある潜在的な可能性を見出すことでもないことが明確になる点である。むしろ実際は、 ポテンシャルを認める側の人間が、その子どもが置かれている具体的な状況の中で、次の 問いを問わねばならないことを意味する。それは、(1)ある状況の中で子どもが示す何ら かの兆候を「ポテンシャルとして認定し得るか否か」という問題、(2)「そのポテンシャ

(15)

ルは当の状況の中で価値あるものとして認めるべきか、負の価値を持つものとして認める べきか」という問題、(3)「そのポテンシャルを認めた場合、その子どもが示す他の可能 性にどのように影響を及ぼすのか」を問わなければならないという問題、そして、(4) 「認定したポテンシャルの開花をどのように促す、ないし、阻害することができるのか」 という問題である。この4つの形式で表現することのできる問題を内包している意味にお いて、「子どもを知る」とは極めて複雑性を持つ行為である。言い換えれば、子どもが示 す兆候を全面的に肯定(否定)して捉えることもできなければ、子どもが示す兆候の全て を一様にポテンシャルとして認めることもできないという意味において、「子どもを知る」 とは、極めて高度な営みなのである。 そして第三に、「子どものポテンシャルを認めること」として「子どもを知る」という 行為の意味を明確にすることによって、初めて、教育者が行う「教える」という行為と 「子どもを知る」という行為との関係性を、さらには「教える」という行為の意味自体を 再考に付すことができるという点である。多くの教育実践家が指摘するように、教育者は 一人ひとりの「子どもを知る」ことによって、日常的に行われる「教える」という行為の あり方を具体的に構想している25) 。すなわち、本稿で分析した「子どもを知る」という行 為と「教える」という行為との間には、実践家の思考の内で密接な関係を有しているとい うことである。この前提に立つならば、本稿での議論は、「子どもを知る」という行為が 教師(教える者)の「教える」という行為にどのように影響を与えるものなのかを明確に する基点として位置づくということである。さらに言えば、「一人ひとりの子どもを知る」 という行為を分析の枠組みに組み入れたとき、「教える」という営みは、おそらく、従来 から存在する「子ども集団への知識・技術の伝達」というあり方を超えて、様々な様式を 示すであろう26) 。つまり、「子どもを知る」という行為のあり方を問うことを切り口とし て、「教える」という行為のあり方を再考することが可能となるということである。 このように、「子どもを知る」という教育行為の意味を解明していくことは、教育に関 わる原理的な概念そのものを、今一度再考する糸口となる。この点にこそ、「子どもを知 る」という教育行為を分析する教育学的意義があるのである。 【註】 1)この「臨床教育学」という呼称は、現在においては多義性を極めている。河合隼雄が構想した 意味での「臨床教育学」は、基本的に臨床心理学を基盤とした発想であると言えるが、現在は哲学 を背景とした議論や、社会学を背景とした議論、そして、実践論としての意味を込めてこの呼称を 用いる場合がある。本稿での議論は、こうした「臨床教育学」という学問的流派の解説を目的とし たものではなく、あくまで河合が想定した意味での「臨床教育学」における「子ども」への視線を 論究の対象としていることを、予め述べておきたい。なお、「臨床教育学」における様々な立場の理 論的展開を整理し、その意義を吟味した研究として、今井康雄「教育学の暗き側面?―教育実践の 不透明性について」同『メディアの教育学』東京大学出版会、2004年、107-128頁がある。 2)河合隼雄『臨床教育学』岩波書店、1995年、15頁。引用文中の括弧内の文章は、筆者が加えた

(16)

ものである。 3)同上、14-15頁。 4)この「カウンセリング・マインド」については、1998年に中央教育審議会によって答申された 「『新しい時代を拓く心を育てるために』―次世代を育てる心を失う危機―」(中間報告)を参照のこ と。そこでは、教員の「カウンセリング・マインド」に関して次のように述べられている。「教員が 教科指導などの力量の向上に努めるべきことはもちろんであるが、それとともに、子どもたちの 様々な相談に応じること、問題行動の予兆となるサインに気づき、適切な手だてを講じること、問 題行動等を通じて周囲の助けを求めている子どもに的確なケアをすることなどが今後ますます大切 になっていく。こうした役割を果たしていく上でまず重要なことは、教員がカウンセリングマイン ドを持つということである。例えば、相手の話をじっくりと聞く、相手と同じ目の高さで考える、 相手への深い関心を払う、相手を信頼して自己実現を助けるといったことがその中心をなしている。 教員は、こうした姿勢を備えることによって、初めて子どもたちとの間に共感的な関係をつくり、 子どもたちから信頼される相談相手となり得る。」(引用元:http://www.mext.go.jp/b_menu/shin-gi/old_chukyo/old_chukyo_index/toushin/1309674.htm、2011年10月15日) 5)もっとも、河合は「授業の臨床教育学」という主題で、授業場面における一人ひとりの「子ど も」への視点の置き方ついてケース・スタディを行っている。しかし、ここでも河合は「教えよう とする内容を、知識であれ技能であれ、いかにクラス全体に効果的にまちがいなく伝えるか、とい うことよりも、授業中に生じる現象を、やはり個人を大切にする視点から見ることができるはず」 と述べて、「教える」ことと「授業の中で個人を大切にする」こととを区分けして考えている(河合、 前掲書、193頁)。 6)この「教師」・「子ども」・「教材」による授業の三者モデルについては、(1)藤岡信勝「教 材構成の理論と方法」今野喜清・柴田義松編『教育課程の理論と構造』(教育学講座7)、学習研究社、 1979年、268-291頁、(2)佐藤学『教育方法学』岩波書店、1996年、(3)松下佳代「授業を創り出す」 片上宗二・田中耕治編『学びの創造と学校の再生―教科の指導と学習の指導―』ミネルヴァ書房、 2002年、50-68頁を参照のこと。 7)授業分析の手法を発展的に継承している的場正美は、「授業分析は子ども理解や教師の行為の理 解を深め、理論的再構成を図る」ことを意図しているとし、授業分析における「子どもを知る」と いう行為のあり方を、「子ども理解」という言葉で説明している(的場正美「レッスンスタディを持 続させ、豊かにする授業分析の役割」秋田喜代美、キャサリン・ルイス編『授業の研究 教師の学習』 明石書店、2008年、174頁)。 8)柴田好章「教育学研究における知的生産としての授業分析の可能性」日本教育学会『教育学研 究』第74巻、第2号、2007年、53頁。 9)同上、58頁。 10)日比裕「授業分析の課題と成果」日比裕・的場正美編『授業分析の方法と課題』黎明書房、 1999年、14頁。引用文中の波線は、引用者が補ったものである。なお、当論文の中で日比は、授業 分析という手法と、1960年代に重松鷹泰・上田薫が行った「R. R. 方式による子どもの思考体制の研 究」との関連について言及している。こうした論点からも、授業分析はその出発点として、「子ども の思考」の解明に力点が置かれていたことがうかがえる。 11)同上、57頁。 12)木之下隆夫「子ども理解を巡る教師と専門家の接点―「理解」と「指導」をつなぐ方法論―」 京都大学大学院教育学研究科『京都大学大学院教育学研究科紀要』第54号、2008年、544頁。 13)同上、544頁。

14)Scheffler, I. Of Human Potential: An Essay in the Philosophy of Education, Routledge & Kegan Paul, 1985.(邦訳:『ヒューマン・ポテンシャル』、内田種臣・高頭直樹訳、勁草書房、1994 年。)における「1章 人間本性(human nature)と価値」を参照した。シェフラーはここで繰り返 し「ポテンシャル」概念に関する神話の存在に言及している。

(17)

16)次のスポーツ各紙を参照。http://megalodon.jp/2010-0907-0545-31/www.sponichi.co.jp/baseball/ news/2010/07/09/25.html(2011年10月15日)、http://web.archive.org/web/20040208200706/ http://www.sanspo.com/mlb/top/mt200401/mt2004010802.html(2011年10月15日)

17)Scheffler, op. cit., p.47.(邦訳:シェフラー、前掲、67-68頁。)引用文中の括弧内の文章は、一 部を除いて引用者が補ったものである。 18)Ibid., p.52.(邦訳:同上、76頁。)引用文中の波線は、引用者が補ったものである。 19)Ibid., p.58.(邦訳:同上、86頁。) 20)Ibid., p.58.(邦訳:同上、86頁。)文中の波線は、引用者によるものである。 21)Ibid., p.58.(邦訳:同上、86頁。) 22)Ibid., p.58.(邦訳:同上、87頁。) 23)Ibid., p.63.(邦訳:同上、96頁。) 24)例えば、近年盛んに論じられている「新たな学習形態に応じた学習空間の再構成」という議論 は、ここでの議論に重要な示唆を与えている。例えば、(1)山内祐平編『学びの空間が大学を変え る』ポイックス株式会社、2010年、(2)美馬のゆり・山内祐平『未来の学びをデザインする』東京 大学出版会、2005、(3)尾崎博美・他「『自律性ある学校』を創造・運営する『教員』像の研究―山 梨学院大学附属小学校における教員組織・学校建築に注目して―」東北大学大学院教育学研究科・ 大学院教育改革支援プログラム実施委員会『プロジェクト型共同研究 成果報告書』2008年、41-63 頁等を参照のこと。 25)例えば、教育実践家である大村はまは、自らの「教える」という行為を振り返る中で、次のよ うに述べている。「とにかく、いちばん大変なのは子どもを知ることですよ。子どもを知らなければ どうにもならない。教材のほうはある程度勉強すれば追いつくけれど、子どものほうはどんなこと ばづかいで誰がどんなことを言っているか、しょっちゅう聞いていないといけない。教師はそうで ないと。」(大村はま・他『教えることの復権』筑摩書房(ちくま新書)、2003年、106-107頁。)、「子 どもを知るというのはとにかく大変なことですよ。教育の仕事で最大のものではないかしら。その 力を持たずにいろんなことをやっても、うまくいかないというくらい。」(同上、108頁。)これらの 言明を見る時、教師の認識として、「子どもを知る」という行為と「教える」という行為とは密接な 関係性の内にあることがわかる。 26)日本における「教える」という概念の既存の理解については、(1)村井実『教育思想』(下)、 東洋館出版社、1993年、(2)山本正身「『教えない教育』を考える―教育の進化論的基盤の意味」田 中克佳編『「教育」を問う教育学―教育への視角とアプローチ』慶応義塾大学出版会、2006年、(3) 拙稿「「教育」概念の明晰化における鍵概念としての「教える」の再考―大村はまの言説および実践 記録における「必然性」概念の分析に基づいて―」東北大学大学院教育学研究科『東北大学大学院 教育学研究科研究年報』(第59集第1号)、2010年、1-18頁等を参照のこと。 【参考文献一覧】 飯田隆他編『心/脳の哲学』(岩波講座哲学05)、岩波書店、2008年。 金允貞「保育における子ども理解の人間学的考察―子どもの怒りを手がかりに―」お茶の水女子大 学大学院人間文化創成科学研究科『人間文化創成科学論叢』第11巻、2008年、359-367頁。 喜多明人「戦後教育を問い直す―子ども理解はどこまで深まったか」教育哲学会『教育哲学研究』 第77号、1998年、37-41頁。 鯨岡峻『ひとがひとをわかるということ―間主観性と相互主体性』ミネルヴァ書房、2006年。 古賀正義『〈教えること〉のエスノグラフィー』金子書房,2001年。 近藤邦夫『教師と子どもの関係づくり―学校の臨床心理学』東京大学出版会、1994年。 河野哲也『〈心〉はからだの外にある』NHKブックス、2006年。

Laird, S., The Concept of Teaching: Betsey Brown vs. Philosophy of Education?, in: Giarelli, J. M. (ed.) Philosophy of Education 1988, Philosophy of Education Society, 1989, pp.32-45. 宮野安治「戦後教育と子ども理解―関係論の立場より―」教育哲学会『教育哲学研究』第77号、

(18)

1998年、41-46頁。

宮崎清孝『子どもの学び 教師の学び』一莖書房、2009年。

元森絵里子『「子ども」語りの社会学―近現代日本における教育言説の歴史』勁草書房、2009年。 Ryle, G., The Concept of Mind, Hutchinson, 1949.(邦訳:『心の概念』、坂本百大・他訳、みすず

書房、1987年。) 酒井朗「『“児童生徒理解”は心の理解でなければならない』―戦後日本における指導観の変容とカ ウンセリング・マインド」今津孝次郎・樋田大二郎編『教育言説をどう読むか?教育を語ること ばのしくみとはたらき』新曜社、1997年、131-160頁。 重松鷹泰・上田薫・八田昭平編『授業分析の理論と実際』黎明書房、1963年。 重松鷹泰・上田薫『R.R. 方式―子どもの思考体制の研究』黎明書房、1965年。 砂沢喜代次編『子どもの思考過程』明治図書、1963年。 砂沢喜代次『集団思考過程の研究』明治図書、1967年。 田中孝彦「子ども理解はどこまで深まったか」教育哲学会『教育哲学研究』第77号、1998年、31-36 頁。 田中孝彦『子ども理解―臨床教育学の試み』岩波書店、2009年。 内田種臣「ヒューマン・ポテンシャルについて―シェフラーの提案」『現代思想』青土社、Vol.13-12、 1985年、72-85頁。

Wagner,P.A., Total Quality Management: A Plan for Optimizing Human Potential?, in: Studies in Philosophy and Education 16, 1997, pp.241-258.

参照

関連したドキュメント

状態を指しているが、本来の意味を知り、それを重ね合わせる事に依って痛さの質が具体的に実感として理解できるのである。また、他動詞との使い方の区別を一応明確にした上で、その意味「悪事や欠点などを

﹁ある種のものごとは︑別の形をとる﹂とはどういうことか︑﹁し

いかなる使用の文脈においても「知る」が同じ意味論的値を持つことを認め、(2)によって

睡眠を十分とらないと身体にこたえる 社会的な人とのつき合いは大切にしている

「臨床推論」 という日本語の定義として確立し

身体主義にもとづく,主格の認知意味論 69

インドの宗教に関して、合理主義的・人間中心主義的宗教理解がどちらかと言えば中

教育・保育における合理的配慮