1.はじめに
本稿では,「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」第1巻第10章のヴィ ルヘルムとヴェルナーの対話を題材に,経済社会における利益の意味や複式 簿記について考察する。考察にあたっては,まず中居[2015]による原著理 解を確認し,続き國部[2017ab]による計算の経済合理化論を考察する。 そして,ヴェルナーとヴィルヘルムの対話全体からほかに解釈できない理解 があるかどうかを考察したい。 ここで,本稿において,まず初めに確認したいことは,計算という形式が 一定の動機を隠しているということであろう。國部[2017a]は,「計算が, 経済活動を可能にする組織空間を構成するだけでなく,過去の活動を現在に 生起させると同時に,未来を予測可能にし,時間という準拠枠を創造して人 間の行動を規定する」と述べる1)。つまり,計算は,人間の活動領域を局所 的に構築してしまうので,なんらかの結果を引き出そうする能動性があると いう理解である2) 。こうした見地からみれば,複式簿記から計算される利益 数値が人間の倹約意識や利得追求を部分的に構築し,結果として経済社会全 体を回しているとの理解もあらわれよう。 しかし,本稿では,次のようなヴェルナーの諫言であったことに注目す <研究ノート>ヴェルナーと複式簿記
合理化ともうひとつの理解
1)國部[2017a]18頁。 2)國部[2017a]18頁。國部[2017b]6頁。 キーワード:複式簿記,合理化中 村 恒 彦
343る。すなわち,演劇に夢中になるヴィルヘルムが飽きっぽく長続きしない性 格で,しかも演劇中におけるヴィルヘルムの商人描写に周囲の理解が得られ ていないことを諫めようとしたことである。とくに,複式簿記による整理を 賛美したヴェルナー自身が儲けというものが数字だけにあるのではないと謳 い,ヴィルヘルムを説得したかった理由は何であるかを検討したいと思う。
2 .複式簿記のゲーテ賛美論・懐疑論と中居[2015]
まず,「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」第1巻第10章のヴィルヘ ルムとヴェルナーの対話を確認してみよう。 「真の商人の精神ほど広い精神,広くなくてはならない精神を,ぼくはほかに知 らないね。商売をやってゆくのに,広い視野をあたえてくれるのは,複式簿記に よる整理だ。整理されていればいつでも全体が見渡される。細かしいことでごま ごまする必要がなくなる。複式簿記が商人に与えてくれる利益は計りしれないほ どだ。人間の精神が産んだ最高の発明の一つだね。立派な経営者は誰でも,経営 に複式簿記を取り入れるべきなんだ3) 。」 簿記会計のテキストでは,この箇所「人間の精神が産んだ最高の発明の一 つだね。」という表現を用いて,その学びに導くことが み ら れ る。中 居 [2015]は,こうした引用の源泉をSchärまでたどり,HatfieldやLittletonの引 用を通じて拡散していったことを示している。また同時に,『ゲーテが複式簿 記を賛美した』とする通説がヴェルナーのみを引用または典拠としているのに 対して,ヴェルナーに対するヴィルヘルムの反論やヴィルヘルムに対するヴェ ルナーの再反論を引用して,「通説?」を批判・懐疑している論も紹介する4)。 「『失敬だが』とヴィルヘルムは微笑みながら言った。「君は形式こそが要点だと 3)山浦訳[2000]54頁。 4)中居[2015]6061頁。 344 桃山学院大学経済経営論集 第61巻第4号いわんばかりに,形式から話を始める。しかし,君たちは,足し算だの,収支決 算だのに目を奪われて,肝心要の人生の総計額をどうやら忘れているようだ ね5) 。」 「残念ながら君の見当違いだね。いいかい。形式と要点は一つなんだ。一方がな ければ他方も成り立たないんだ。整理されて明瞭になっていれば,倹約したり儲 けたりする意欲も増してくるものなんだ。やりくりの下手な人は,曖昧にしてお くことを好む。負債の総額を知ることを好まないんだ。その反対に,すぐれた経 営にとっては,毎日,増大する仕合せの総計を出してみるのにまさる楽しみはな いのだ。いまいましい損害をこうむっても,そういう人は慌てはしない。どれだ けの儲けを の一方の皿にのせればいいか直ちに見抜くからだ。ねえ,君。ぼく は確信しているが,君がいちど商売の本当の面白さを知ったら,商売でも,精神 のいろんな能力を思うさま発揮できるということがよくわかると思うよ6) 」 この対話は,物語の一節とはいえ,複式簿記に対するイメージを表現して いるといえよう。中居[2015]は,ヴェルナーの「商売人にとっての複式簿 記の有用性」の一方的な強調とヴィルヘルムの「商売忌避」に代表される 「非商売人・一般人の態度」が対比されていると述べる7) 。実際,劇中では, ヴィルヘルムがマリアーネとの恋愛や演劇に情熱を燃やす一方,ヴェルナー は大規模な商取引に情熱を燃しているゆえに,二人の目標がそもそも異なる のである。ゆえに,中居[2015]は,「[A Werner][B Wilhelm]8)
の対比に は,詩人・文豪であり同時に実務家でもあった教養人ゲーテの複式簿記に対 5)山浦訳[2000]5455頁。 6)山浦訳[2000]55頁。 7)中居[2015]63頁。 8)中居[2015]では,「複式簿記が商人に与えてくれる利益は計りしれないほどだ。 人間の精神が産んだ最高の発明の一つだね。立派な経営者は誰でも,経営に複式 簿記を取り入れるべきなんだ」を[A Werner],「『失敬だが』とヴィルヘルムは微 笑みながら言った。「君は形式こそが要点だといわんばかりに,形式から話を始 める。しかし,君たちは,足し算だの,収支決算だのに目を奪われて,肝心要の 人生の総計額をどうやら忘れているようだね」を[B Wilhelm]と略称している。 ヴェルナーと複式簿記 345
する深くかつ醒めた理解があったといえよう9) 。」と結論付けている。以上の ように,中居[2015]は,引用の源泉やその変遷を追跡するとともに,原著 文脈にのっとった理解をしようと務めている。 しかしながら,この一節をさらに物語の枠組みから見渡すと,複式簿記や商 売の精神だけにとどまらない,ヴェルナーの理想像がみえてくることになろう。
3 .ヴェルナーの理想像
では,ヴェルナーとヴィルヘルムの対話は,物語のどのような文脈ではじ まり,どのような文脈で終わることになるのだろうか。 まず,はじまりは,ヴィルヘルムが世間へ旅立つために,馴染みの友とし てもってゆく書物やノート類を整理しているところにヴェルナーが入ってく るところから始まる10) 。ヴェルナーは,ヴィルヘルムの飽きっぽい性格を指 摘し,「君はなに一つ仕上げる気はありゃあしないんだ」と非難する11) 。一 方,ヴィルヘルムは,ヴェルナーがヴィルヘルムの演劇出陣のたびにその道 楽気を煽ってひと儲けしていることを非難するが,ヴェルナーは,「昔の ヴェネチア商人と同様に」「他人の愚行から利益を引き出すことほど,理に かなったことはまたとないからね」と取り合わない12) 。 そこで,ヴィルヘルムは,「出来はともかく,これは完成してるんだ」と 『岐路に立つ青年』を取り出して反論を試みる13) 。しかし,ヴェルナーは次 のように非難する。 9)中居[2015]63頁。 10)山浦訳[2000]5152頁。 11)山浦訳[2000]52頁。ヴェルナーとヴィルヘルムの会話を抜き出すと次のとおり である。「またそんなものをいじっくいるのかい。君はなに一つ仕上げる気はあ りゃあしないんだ。書いたもの読み返し読み返しするだけで,またぞろ新しいも のを書き出すんだ」「習作なんだからしあげなくたっていいんだよ。練習するこ とが大事なんだ」「しかし,まあ,できるだけ仕上げるんだね」「自分にふさわし くないことをやり始めたとすぐ気がついて,その仕事をうち切りにして,なんの 役にも立たないことに無駄骨を折ったり,時間を浪費したりしない青年こそ,将 来期待できると言えないだろうかね」「仕上げるのは君の得手じゃないことはよ く知ってるよ。なんでも途中であいちゃうんだからな。」 12)山浦訳[2000]53頁。 13)山浦訳[2000]5354頁。 346 桃山学院大学経済経営論集 第61巻第4号「そんなものは捨ててしまえよ。火にでもくべるんだな。その着想なんて愚の骨 頂だね。構成にしたって,もうあの頃からぼくは嫌でたまらなかった。お父さん だって怒ってたじゃないか。詩の出来はいいかもしれないが,考え方がまるで間 違っている。商売を擬人化した婆さん,しわくちゃの惨めたらしい占い女をまだ 覚えているよ。あの人物は,どこかうす汚い小商いの店先から仕込んできたんだ ろう。あの頃君は商売ってものがまるでわかっていなかったんだ14) 。」 この非難は,ヴィルヘルムの商売人の描写方法に向けられているものであ り,ヴィルヘルムが商売の精神をまるで理解しておらず,周囲が納得できる ものでなかったことを指摘している。そして,ヴェルナーは,本来の商売の 精神を与えてくれるものとして,複式簿記による整理を賛美してゆくことに なる。したがって,中居[2015]が述べるように,ヴェルナーの商人の精神 賛美とヴィルヘルムの商売忌避が対比されていることがわかるだろう。 しかしながら,ヴェルナーとの複式簿記の対話ののち,ヴィルヘルムは 「今度の旅でぼくの考え方も変わるかもしれないね15) 」と述べたうえで,次 のようなヴェルナーの言葉を一方的に聞く展開になる。 「そうだとも。いいかい。君は大規模な商取引の実地に見たことがないんだ。い ちど見てみれば,君はこれからあとずっとぼくらの仲間になるよ。君が旅行から 帰ったら,あらゆる運送手段や投機によって,世の中を必然の成行きで循環して いる金と幸福の一部を,手元に引き寄せるすべを知っている人たちの仲間に喜ん で加わるだろう16) 。」 「まず大きな商業都市と港を二,三訪ねてみるんだね。そうすれば君はきっと夢 中になると思うよ」と言った。「多くの人間が忙しく働いているのを見,非常に 14)山浦訳[2000]54頁。 15)山浦訳[2000]55頁。 16)山浦訳[2000]5556頁。 ヴェルナーと複式簿記 347
多くの物がどこから来,どこへ運ばれてゆくかを見れば,君もきっと,君の手を 通してそれらを動かす喜びを味わいたいと思うだろう。どんなに少量の商品で も,商業全体と関係していることを知れば,あらゆるものが,君の生活が糧を得 ている循環を増大させているのだから,どんなものでもつまらないとは思わない だろう?」17) ここでは大規模海上貿易にともなう商取引と資本循環が言及されている。 ヴェルナーは,非現実的なことに情熱を燃やすヴィルヘルムの考え方が変わ ることを願って言葉を続けている18) 。ヴィルヘルムも,自分が情熱を燃やす ことをそっとしてほしいとは思いつつ,これを友人の諫言として聞いてい る19) 。 そして,さいごに,ヴェルナーは,ヴィルヘルムの関心に合わせた形で次 のような表現でもって諫めてゆくことになる。 「人間のすることには心から関心を寄せる君のことだから」とヴェルナーは言っ た。「大きな企てにともなう仕合せがひとびとにあたえられるところを君の目で 見るのは,この上ない見物だと思うよ。平穏な航海を終えて帰ってきた船,豊か な獲物に恵まれて早々と帰ってきた船,こうした船を見ることほど楽しいことは ない。閉じこめられていた船員が,まだ完全に接岸しないうちに陸地にとび移っ 17)山浦訳[2000]56頁。 18)「ヴェルナーはヴィルヘルムと付き合っているうちに,正しい考え方を身につけ ていたので,彼も,自分の職業や仕事について誇りをもって考えるようになって いた。その他の点では,理性的で,尊敬に値する友人が,ヴェルナーの目には世に も非現実的なことに非常に価値を置き,全霊を傾けているのをみると,友人より も自分の方がいっそうそう資格があるとつねに信じていた。ときどき彼は,善良 な友人をこうした熱狂から引き戻し,正しい道へ導いてやることは,必ずできる と考えた。いまも彼はそれを期待しながら話をつづけた。」(山浦訳[2000]57頁) 19)「ヴィルヘルムはこの攻撃には少々腹が立ったが,顔には出さなかった。ヴィル ヘルムがなにか押しつけがましいことを言っても,ヴェルナーはいつも落ち着い て聞いてくれたことを思い出したからである。ともあれ,ヴィルヘルムは,他人 が自分のすることを最善と考えているのを,快く受け入れられるだけの度量は もっていた。としいうものの,彼が情熱を傾けてやっていることだけはそっとし ておいて欲しかった。」(山浦訳[2000]58頁) 348 桃山学院大学経済経営論集 第61巻第4号
て,またあたえられた自由を感じ,定めのない海から奪い取ってきたものを,た しかな大地にゆだねる喜び,この喜びには,身内の者,知人,関係者だけでな く,なんのゆかりもない見物人でさえ思わず引きこまれる。ねぇ,君。儲けとい うものは数字にだけあるんじゃないと思う。幸福は活動する人間の女神なんだ。 その恩寵を心から感じるためには,われわれは生き,真にいきいきと努力し,そ の喜びを体で味わっている人々を見なくてはいけない」20) ここで,ヴェルナーは,利益が数字という形式性を超えた存在として,大 規模商取引に伴う人間の活動を躍動感あるものとして詩的に描写しようとし ている。この表現は,ヴェネチア商人や複式簿記による整理や商人の精神を 賛美した箇所とは異なって,人間やその活動力や幸福に関心を寄せるヴィル ヘルムに合わせたものになっている。とくに,ヴェルナーが「儲けというも のは数字にだけあるんじゃない」と述べ,それらが人間の活動力の源泉に なっており,そうした人々をみなくてはヴィルヘルムの演劇作品がよくなら ないことを暗示している。 以上の展開から,ヴェルナーの理想像についてフローチャート的に整理す ると以下になる。 [ヴェルナーの理想像] ①ヴェネチア商人への賛美 ↓ ②複式簿記による整理への賛美 ↓ ③要点の形式性,倹約意識・利得追求 ↓ ④大規模な商取引と商業循環・資本循環 ↓ ⑤活動力と幸福 20)山浦訳[2000]5859頁。 ヴェルナーと複式簿記 349
4 .結びに代えて ∼「無限の利潤追求」合理化論と人間の活動力論∼
以上のように考察すると,二つの解釈が可能になると思われる。一つ目 は,ヴィルヘルムとヴェルナーの対立関係を軸にしながら,國部[2017b] が指摘するような「会計が利益獲得活動を駆動している」との理解である。 國部[2017b]は,大黒[2015]を引用しながら,『無限の利得追及』が有 限の生存動機から導かれることはなく,非合理なものから外から刺激されて 初めて動き出すものと指摘する21)。すなわち,複式簿記や会計が儲けを利益 という数字で計算することによって,人間は『無限の利得追及』を目指すよ うになるという理解である。したがって,「会計は『非合理なもの』に形式 を与える手段として『無限の利得追及』を加速させている22) 」。 こうした議論の基盤にあるのは,國部[2017b]が指摘するように古くか ら認識されてきた「会計と経済の関係はまさに形式と実質の関係でもあ る23) 」との議論である。たとえば,宮上[1979]は,会計現象は,客観的現 象24) ではなく,経済と関係することによってその素質を明らかにすると述べ る25) 。宮上[1979]では,会計制度現象(会計理論・会計監査・会計実務 等)が経済現象(税,配当,公共料金等)の要求に基づいて経済現象を合理 化・合法化していると述べていた26) 。現代的にみれば,簿記会計が節税・外 部流出の抑制・公共料金設定における『無限の利得追及』を形式的に支えて いるという形であり,その本質は経済のほうにあるという理解になろう。 この『無限の利得追及』「合理化」という理解は,ヴェルナーの議論が他 21)「単なる利潤動機ではない無限の利得追及は,有限の生存動機から決して導き出 せず,非合理なものから外的に触発されて初めて起動する」(大黒[2015]219頁) 22)國部[2017b]6頁。 23)國部[2017b]6頁。 24)宮上[1979]47頁。宮上理論では,会計現象は客観的現象ではない。「会計現象 は,客観的経済法則の支配のもとで成立する経済現象に規定されて成立し,」そ の法則に従属して成立している。そして,客観的なものの転化を媒介する主観的 契機が,制度といわれるものであると論ずる(宮上[1979]85頁)。 25)宮上[1979]66頁。宮上の議論によれば,会計的表現形式はその外貌化を外貌化 ではないようにみせかけるための手段あり,会計現象は,客観的現実としての経 済現象を社会的に合理化させるために機能しているにすぎない。 26)宮上[1979]7993頁。 350 桃山学院大学経済経営論集 第61巻第4号人の愚行から利益を引き出す「ヴェネチア商人」への賛美から始まっている ことからも補強される27) 。これは,商人の精神への賛美,複式簿記への賛 美,要点の形式性へと続き,大規模な商取引やその資本循環へと続く。実 際,ヴェルナーは,「形式と要点は一つなんだ」と指摘しながら,複式簿記 という形式によって「整理されて明瞭になっていれば,倹約したり儲けたり する意欲も増」すことを指摘している。これは,合理化が不純な動機をもっ ともらしい形式に変更してゆく手続きであることとも一致しているととも に28) ,結果として,経済社会全体の循環をドライブする活動力となってい る。 これに対して,もうひとつの理解は,ヴェルナーがヴィルヘルムに寄り 添った諫言から翻っていく形である。この理解では,ヴェルナーもヴィルヘ ルムの飽きっぽい性格を正したい,また商人の精神をはじめとする演劇中の 商人描写を正したい,将来は商人仲間になってほしいとの思いから一連の対 話が生起している。ゆえに,儲けは,単に数字であるだけではなく,人間の 活動力の源泉となっていると躍動感あふれる表現で最終的に述べている。こ の意味で,一連の対話は,ヴェルナーの言語戦略であり,ヴィルヘルムを諫 めるための言葉を聞かせるために述べた可能性がある。 この場合,商人の精神,それらを具現化するような複式簿記による整理 は,ヴェルナーの商行為や商人の描写の一例に過ぎない。あくまでも,ヴェ ルナーがヴィルヘルムを言い負かすために述べた知識の一部であり,商人の 精神全体を複式簿記による整理で表現しようとする比喩表現のひとつであろ 27)ヴェネチア商人と複式簿記については,たとえば中野[1992]1534頁を参照 せよ。 28)Eagleton[2007]p.51(大橋訳[1999]120121頁).「合理化とは,『真の動機が認 識されていない態度や観念や感情などについて,論理的に首尾一貫しているか, 倫理的に容認できる説明を,主体がしめそうとする手続き』である。イデオロ ギーを『合理化するもの』と呼ぶことは,その段階ですでに,イデオロギーに胡 散臭い何かがあることをほのめかしている─イデオロギーは,擁護できないもの を擁護しようとし,いかがわしい動機を,高尚な倫理的な用語によって糊塗して いるというわけだ。」 ヴェルナーと複式簿記 351
う29)
。そのため,ヴェルナーは,本当のところ,儲けがもたらす人間の活動 力を賛美し,そうした人々をみなくてはヴィルヘルムの演劇脚本の上達があ りえないことを言いたかったのではなかろうか。
[参考文献]
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Fergason J., D. Collison, D. Power and L. Stevenson[2009]“Constructing meaning in the service of power: An analysis of the typical modes of ideology in accounting textbooks ,Critical Perspectives on Accounting, No. 20, p. p. 896909.
大黒弘慈[2015]『模倣と権力の経済学』岩波書店。 國部克彦[2017a]『計算と経営実践─経営学と会計学の邂逅』有斐閣 國部克彦[2017b]『アカウンタビリティから経営倫理へ─経済を超えるために』有斐 閣 中居文治[2015]「引用の作法─引用の観点からみた『ゲーテと複式簿記』」『九州情 報大学研究論集』第17巻 51-64頁。 中野常男[1992]『会計理論生成史』中央経済社。 中村恒彦[2016]『会計学のイデオロギー分析』森山書店。 宮上一男[1979]『会計学本質論』森山書店。 山浦章甫訳[2000]『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代(上)』岩波文庫 (なかむら・つねひこ/経営学部教授/2019年11月12日受理) 29)中村[2016]121頁。これは換喩のひとつではないかと考えられる。すなわち,商 人の精神を表すのに際して,これに密接に関係する帳簿記入の形式である複式簿 記を取り上げて表現している。 352 桃山学院大学経済経営論集 第61巻第4号