日蓮聖人滅後多くの弟子達は全国に伝道の足を伸していった。教線拡張の先端においては、諸宗と幾多の対論が生 じた事はいうまでもない。とりわけ宗門史上にみる大きな対論は、天文五年︵一五三六︶、茂原妙光寺門徒松本久吉 が京都一条烏丸観音堂で、叡山の僧華王房を論伏させた事により、叡山の僧徒が大挙して洛中の法華宗諸大寺二十一 ヶ寺を襲撃し焼払い、六万余の死傷者を出した天文法華の難。また天正七年︵一五七九︶、織田信長の命によって安 土の浄厳院において浄土宗と対論した、世にいう安土宗論。〆さらに慶長十三年︵一六○八︶、同じく浄土宗と江戸城 において対論した慶長法難などが挙げられる。しかし、これらは全て仏教者同志の対論であった。 日蓮宗と他教との対論には二件みる事ができる。一つは、明応六年︵一四九四︶、当時もっとも頭角をあらわして いた吉田卜部神道兼倶︵一四三五∼一五二︶が、﹁安国論師門弟諸流御中﹂と標題し、妙蓮寺・本国寺・妙本寺の ︵1︶ 上方三山に、法華宗で勧請している三十番神に関し質問状を発した、世にいう番神問答事件である。二つ目は、此の 度紹介させて頂く甲府神道問答事件である。以下この問答について考察していく事とする。 ﹁甲府神道問答記﹄考︵宮川︶
はじめに
﹃甲府神道問答記﹂考
宮 川了篤
− 7 −ミッハタヒコ 当地は他国と違い神道者が多い、ことに近年出雲から満鯨彦なる神官が来て神道を講じていった。満鯨彦の講説は、 日本国は天神七代をはじめ、地神五代の初祖である天照太神の国で神国である。しかるに外国の儒教・外道の仏教が 渡りきて国中に充満し、坊主共は姥嫁や親父をたぶらかして仏道に入れ、鉦や太鼓を打ちならし、念仏を或は題目を 唱えよと教えている。これは神道を奪い取り、仏国として神道を捨てさせている。天照太神を釈迦の再来など分身な どと説いているのは畜生の種子である、という内容を説き歩いていった。この満鯨彦の講説を聞き、三宝祖師を川に 流し、神棚を勧請して幣束を備え、注連を張って柏手を打ち、神道者の真似をする法華宗の者が多くあらわれて来て ﹁甲府神道問答記﹂は立正大学に写本一冊を蔵し、﹁甲府資料集成﹄第八巻に収録されている。内容は日蓮宗の英 智院日宣二七六○∼一八四八︶と甲府近郷の神主との対論記録である。 日宣は字を智寛といった。京都伏見本教寺十七世、鶏冠井檀林玄能第二百五十三世、鶏冠井山真経寺百八十五世。 著書には﹃四箇名言論﹄﹃実勝権劣論﹄﹃三道合法図解﹄﹁住迩顕本抄﹂﹃番神縁起論﹄三巻、﹃神代巻評撰記﹄五巻、 ﹁異体同心抄﹄﹃説法聴聞書﹄﹃聴取法門集﹂﹁歴覧家宝﹄﹃教訓﹄等がある。 日宣は文化四年︵一八○七︶、鶏冠井檀林の能化を退き同年七月に伏見を発ち、八月に身延山久遠寺・大野山本遠
︵2︶︵3︶
寺・小室山妙法寺・日蓮宗唯一の山岳信仰の七面山に参詣した。その折り投宿した鰍沢妙台寺日進と青柳寺日通の二 人は、日宣が神道に精通した学僧であることは伝え聞いていたので大いに喜び、当地の宗教状況を話しはじめたので 人は、 ある。 ﹃甲府神道問答記﹄考︵宮川︶ 一 − 8 −いるので、是非この地に留まって神道の根元を説いて下さい、と懇願したのである。 日宣は二人の要請に対し、宗門の輩は当国誇法を相止める事が宗祖への御報恩である、として暫く留まることに決 めた。同年八月中旬から甲州の在々所々において神仏一体の旨を説き、如来秘密神通之力の経意。久遠滅後に於て末 法の中に大明神と現じて広く衆生を利益するの意味・本地垂迩の意・唯一神道の唯一は法華方便品の文意である、と いう内容を説きつづけていった。 これを聞いた神道者は大いに驚き、藤田村・小笠原・南胡の宮などに五人十人と集り談合し、更に廻覧をもって武 田信玄の古城に三十有余名が参集して評議したが、結論は出なかった様である。こうした様子を世間の人達が見聞し て、日宣と神道者の間で対論が行なわれる、との噂が飛び散っていた。 この様な状況下にあって日宣は、十一月二十八日から三十日迄の三日間、甲府の法華寺において講説を開いた。三 日目の三十日に近郷の神主三十余人が法華寺に押し寄せ、﹁神道の儀に付きお尋ね申し度き義あり、御座敷借用仕度 存候﹂、と礼儀を重んじ日宣との対面を望んできたのである。法華寺の持住日蓋が、万が一の過ちあらぱ宗門の一大 事との心配をよそに、日宣は某は山崎嘉右衛門垂加流・伊勢近佳流・多田流を学んできており、神道長上吉田殿御内 鈴鹿右膳の口入で、直受相伝を授けて来ているので御心配には及ばない、と述べ神主との対論に臨んだのである。 間者は神主代表十名、答者は日宣、記録係に英胎院日通、侍者には小西檀林・和光院日明、座配役には甲州妙詮 ︵7︶ 寺住職、役僧に祐善院等の役配が定められた。問者の神主十名とは、穴山庄生山大隅宝一大八田村輿石土佐守・千塚 ︵5︶
︵8︶︵m︶︵皿︶︵吃︶︵過︶
村窪田造酒助・折居邑横森薩鴎一駒井邑上原越前・宮脇矢巻丹波・河原陀腰巻権之助・圓井邑歌田河内・下條村土 橋右京・武田社人天野斎宮、記録係に南胡宮神主歌之眺椴務めることとなった。なお問者以外の二十名は黙して対論︵M︶︵妬︶
﹃甲府神道問答記﹄考︵宮川︶ − 9 −﹃甲府神道問答記﹄考︵宮川︶ なし、したがって名前を記せず計三十余名が列座・日宣を上座につけ、三十余名が一同に一礼し対論がはじめられた。 この対論は第十五問答であった事が記録されている。目録を挙げると、 シヨリツ ー、第一番輿石士佐守表門之書附をとがむる事附り日宣所立之神道を糺す事 一、第二番目同士佐守天照太神八幡大菩薩下に勧請井に三十番神守護之訳を糺事附り吉田兼益より免許之書を 一、 一、 一、 一、第七番目歌田河内守柏手之古事を論する事附り五行五音皆顕る、事 カンシャウカンシヤウ ー、第八番目土橋右京幣そくと備物を糺す事附り菅原之菅相丞之詠歌之事 一一一 、、、 一、第三番目窪田造酒之助法之下に勧請は釈尊之説法義式成也日蓮聖人之自己流やと糺事附り惣別之法問行基 第九番目横森薩摩伊勢御祓に天照太神と書文字之誤り也と言事不審之事附り名越大晦日祓之法説を示す事 イッキヒルコノミコト アシナラズタ、 第拾番目天野斎宮蛭兒尊と恵美寿三郎伝受問答之事附り脚猶不立と言文字斗説示事 第十一番目上原越前恵美須大黒と相殿に祭るは誤り成事天神和人を論する事附り天台山開基伝教大師入唐 マ、 イク ヤ 第四番目矢巻丹波法之高下を糺し生山大隅守に趾しめらる、事附り神之法華経を御信用有也証拠を糺事 第五番目腰巻権之守唯一神道両部神道糺事附り主・師・親之三徳春日大明神漢土三聖顕る、事 フシ 第六番目上原越前唯一両部分る事不審附り金胎之二義井に神・儒・佛之三道譽を以て根元・枝葉・花実を 菩薩之引証聴聞之事 拝す事 天之香く山顕る猫事 分る事 1 0
-之訳大黒天神槌・頭巾・袋・米俵甲子に祭事 ユウダスキ ー、第十二番目土橋右京木綿襟かけし事を説座中一同大笑之事附り生山大隅守類聚読上る事 一、第十三番目輿石土佐守天照太神天上而空社と言何年何月何日と言証拠を糺事附り垂仁天皇廿六年十一月新 嘗会之時託宣佛神一躰を説示す事 ホンイ ー、第十四番目窪田造酒之助佛に譲り本居に帰事有れ共、国を捨るとは見ず不審成りと問附り人皇八十一代よ ︲り八十四代迄守護なき事 正嘉元日本国大地震・大風・大水・飢謹・疫病止事なきを以て説示事、依之日蓮上人立正安国論一巻を書、 時之将軍に献ず又蒙古退治旗漫茶羅之利益顕す事 一、第十五番目日宣上人より神道者へ天神・七神地神五代之年限割方問給事附り天野斎宮神々に軽々しく年代 を付る事信じ不申と答へ不し知事を不し信と言て大笑に成事 である。以上の目録によって問答記の内容は大筋には理解できるが、ここで一から十五番問答までを、逐次、筆者趣 意をもって概観していくこととする。 第一番目問答 輿石土佐守が先ず口火を切った、﹁表門の書付に神道講談とあるが、これは我等の職分にして仏者の説法に非ず﹂、日 宣曰く﹁愚なるかな、貴殿には神道は一つと考えられるか、神道は凡そ十段に分けられる。先は十八の神道・諸源檀 ﹃甲府神道問答記﹄考︵宮川︶ 一一 1 1
-輿石士佐守が問うた﹁示現による勧請の義は承知した。では免許についてはどうか﹂。日宣曰く﹁水上吉田兼益の免 許である。日蓮聖人は弘長元年に兼益卿と面談。表向きは神道御伝授だが、実際は当時、正嘉以来うち続く天変地天 による飢饅疫痛に国家を憂い、﹃立正安国論﹄を著わし持って面談され、鎮護国家の大法は法華経である。故に南無 妙法蓮華経と唱え、天照・八幡大菩薩を祈念すれば天下泰平一時に平癒ならん、日蓮法華宗の神道はこれなり、と神 仏一体の本理を言上し、兼益卿より宗源唯一神道の字訓・読み様に至るまで悉く伝授されたのである。これは﹁兼益 ﹃甲府神道問答記﹂考︵宮川︶ の神道・本地垂迩の神道・両部習合の神道・社例伝記の神道・元本宗源の神道・唯一神道・五十神代の神道・次第神 代の神道・因縁神代の神道、等である。とりわけ本地垂迩の神道・両部神道・社例伝記の神道・因縁神代の神道等は 仏法において立てた所の神道である。仏法者がこの説を講ずるに何の子細があろうか。この度、仏法を説く序段とし て神道講談としたまでで、先の神道十段ではない日蓮所立の神道を、法華宗の寺で法華の信者を集めて説くのに貴殿 方の世話にはならない﹂。士佐守は﹁日蓮所立の神道とは聞いた事がない。いかなる神道か﹂と再問した。日宣曰く ﹁日蓮大菩薩の御本尊を見なさい。南無妙法蓮華経の下に天照太神・八幡大菩薩の二神を勧請しているではないか。 この二神を勧請することによって、八百萬の神々が引き続いてくる、という事である。これを日蓮所立の神道という﹂。 引き続き士佐守は問うた﹁御本尊の中に天照・八幡を勧請するのは日蓮聖人の自己流か、何れより免許を受けて勧請 したのか、証拠になる物はあるのか﹂。日宣曰く﹁二神の勧請は霊山の契によるもので、貴殿方には判る法門ではな い。ただし、示現の神勅の故に勧請しているので説明する。日蓮聖人は建長元年の二十八才の時、比叡山定光院に おいて法華経読調中、一一一十番神が姿を現した、証拠はここにある言祖らである﹂と。 第二番目問答 − 1 2 −
卿塗にある。これを読み給え﹂と差し出すと、大隅守・土佐守は互いに手にとって一覧すると、大隅守が曰く﹁確 かに兼益卿の文である。日蓮聖人を顕学無双の人と称し、凡人でなき故に字訓・読み様並びに神道の極意まで伝授の 趣きが記されている。確かなる証拠である﹂。日宣曰く﹁兼益卿は日蓮聖人を御信用と見えて、建治二年の正月、身 延山の日蓮聖人のもとへ年賀の使者を遣わし、御本尊を望まれた。以来五百数十年、吉田殿より身延山へ年始の書状 が遣わされている。その御本尊の写しがこれである﹂と授与書を読み上げて一同に見せると、神主等三十余人、拝す る者も恐れ入って呆れ果てるものもあった。 窪田造酒之助が問うた、﹁題目の下に天照太神等の神々を勧請することは釈迦の説法の儀式にあるのか。あるいは日 蓮の自己流なのか﹂、日宣曰く﹁釈迦如来の儀式である。法華経第七巻の表題を見よ﹂と経文を開き見せると、造酒 之助、経文を手にとって見れば確かに妙法蓮華経の下に神力品とある。﹁しかし経文を見れば如来も題目の下に勧請 すべきに、釈迦・多宝を上に勧請するのは仏教ぴいきの私流ではないのか﹂と造酒之助は反問する。 日宣曰く﹁そうではない。神仏の勧請に十界・賓客亭主の二義がある。十界すなわち地獄・餓鬼・畜生・修羅・人 間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏に約せば如来は仏界の主であり、神は人界の主である。また賓主に約せば神は日本 では主であり、仏は客である。天竺にては仏は主であり、神は客である。行基菩薩の大和葛城宝山記にも神仏互いに 賓主たり、とある。さらに総別の二門があり、総じて言えば仏は法華経に今此三界皆是我有とあり、天竺・震旦・日 本の主である。別して言えば賓主に約して日本では神が亭主、仏は客である。それ故に仏菩薩等は上に勧請するので ある﹂。生山大隅守が曰く﹁神仏を賓主に約してのご返答恐れ入る。ことに行基菩薩の引証、ごもっとも至極﹂と。 ﹃甲府神道問答記﹂考︵宮川︶ 第三番目問題 − 1 3 −
矢巻丹波が問うた、﹁天照太神・八幡大菩薩は日本の宗廟である故に、題目の上にも勧請すべきである。妙法蓮華経 とはいかほどに尊き法なのか﹂。大隅守﹁丹波殿。妙法蓮華経というのは法であり、師である。神・儒・仏ともに法 は尊く人は軽き者なのである﹂。日宣曰く﹁妙法蓮華経とは本迩二十妙百二十妙・六万九千三百八十四の妙である。 法とは十界権実の法であり、蓮華は法嶮、経は諸経中最第一ということである。天台大師はこれを解釈して、妙法蓮 華経とは本地甚深之奥蔵とおっしやっている。故に二神の上に勧請し奉るのである﹂。 時に矢巻はじめ一同ちんぷんかんぷんにして一向にわからず、互いに顔を見合わせるばかりであった。日宣笑いな がら続けて曰く﹁仏の甚深微妙の法は一言でわかるものではないが、簡単に申せば、妙法蓮華経とは一切衆生の仏性 であり、仏性は法性で、法性とは菩提である。一切衆生に備わる仏性を妙法蓮華経という。神々の神性即仏性にして、 神も仏も皆妙法蓮華経より出生するのである。よって二神の上に顕わすところの南無妙法蓮華経である。故に本尊と は、本より尊いということである。本より尊きは妙法蓮華経なのである﹂と日蓮聖人御書を引用して説くと、大隅守 は感心し、丹波守は﹁死後の安心を説く他宗派とは異なり、日蓮宗に限る法門のようだ。法華経が神々に御信用ある 証拠はあるのか﹂と問う。日宣は甚だ多いと、﹁神宮雑事記﹄﹃扶桑記﹄などを引用して答え、﹁神々も皆妙法蓮華経 を信敬守護を加えたもう事疑いない﹂と・すると大隅守は﹁神も衆生を度したもうこと、今日初めて聞き恐れ入った。 他の宗門と大いに違い、吉田兼益も日蓮聖人を御信用あるのもごもっとも﹂と感心し、他の神主の面々も口々に感心 を述べた。 ﹃甲府神道問答記﹂考︵宮川︶ 一同皆々感心した○ 第四番目問答 − 1 4 −
第五番目問答 腰巻権之助が問うた。﹁貴僧は説法でかつては唯一神道ということはなかったが、仏法流の両部神道にたいして唯一 と後に名ずけたのであり、唯一の語の出所は法華経である、と。しかし、唯一神道とは神代のころよりの定めである。 漢字はないけれども神代の文字にて唯一神道というと伝え聞く﹂。 日宣は多いに笑いながら弓延喜式記﹄に神代に文字なし、とある。しかるに神代に唯一神道ということ定まると いうのは、神道の元本を知らないものと見える。吉田兼益撰述の唯一神道の書に諸経論に多く神変・神通・神力を説 くが神道にはない。神妙経の二意あり、一は神の妙経、妙経とは妙法蓮華経中の妙法である。唯一の語は法華経方便 品の唯一仏乗の唯一をとって唯一神道となずけるのだ、と。唯一とは三にたいして唯一であり、三にして而一である。 その三はまた神道・儒道・仏道で、神道といっても、吉田殿も漢字で神明の名を書き、儒道の法をもって神道を表わ し、死後の為に寺を建て、法華経をもって即身成仏を申し上げるのも神仏一体の本家の故である﹂と神主一同に説き 聞かせると、皆呆れ果てて黙して信受した。 聞かせると、皆 第六番目問答 上原越前が問うた。﹁唯一神道とは神のみを唯一というのに、神仏一体を唯一といい、両部の神道といっても一体で ある。とすれば、唯一・両部と別けるのは理解できない﹂。日宣曰く﹁両部というのは密教のいう理法身胎蔵界・智 法身金剛界のことである。金胎両部を神道に習合するのを両部と言い、唯一というのは神・儒・仏の三つに見るのを 唯一神道というのである。しかるに俗談神道はこの理を知らずして唯一神道とは日本の神ばかりと思い、儒仏を罵り 悪口する・また外国の文字をもって神道と名乗り、天照太神の神号を付けているのに気がついていない。そもそも神. ﹁甲府神道問答記﹄考︵宮川︶ − 1 5 −
歌田河内守が問うた、﹁貴僧は説法の折りに神職の者が神に対し拍手で呼び出すのわはなはだ失礼だと説法されたと いうが、事実か﹂。日宣曰く﹁事実だ。拍手で呼び出すのは主人が家来を呼びだす所為である﹂。河内守曰く﹁それは 俗説で、拍手は掌の虚空から音を出す事が霊妙にして即ち神であり、拍手にて妙音を表わすからである﹂。さらに窪 田造酒之助が問うた、﹁日蓮宗は拍手を用いるのか﹂と。日宣曰く﹁神仏を請するのに手を打つことはない﹂。造酒之 助曰く﹁妙音は法華経の音声である。その法華の音声を不用というのか﹂。日宣曰く﹁貴方は細かいことを論じるの か。妙音とは拍手の音だけのことと思っているのか。法華経には太鼓の音も笛・藷・琴の音も、虫・烏の声も妙音な のだと説いている。この妙音をもって唱えるから神仏も来臨して御納受されるため、別に手を打てとは日蓮宗では教 えないのだ﹂と。生山大隅守曰く﹁妙法蓮華経の五字即五音というのは何か﹂。日宣曰く﹁唇・舌・牙・歯・喉の五 音を木・火・土・金・水の五行に配当する。万法融通の妙法蓮華経なのだ。妙法蓮華経の妙徳によりカキクケコの牙 ﹃甲府神道問答記﹄考︵宮川︶ 儒・仏を根本・枝葉・花実に瞼えれば、神道は根本・儒は枝葉・仏道は花実、すなわち神道は道の根本で、天地とと もに開けて人の初めの道を説く。儒者は道の枝葉であるから仁義礼智信五常の中庸を説く。仏道は道の花実を説き、 人の智熟して後人の終りに道を説く。これは一本の木に根本・枝葉・花実と分けるが、一本の木で唯一である﹂と。 大隅守は﹁委細ごもっとも。実に妙談といえる﹂というと、越前は﹁吉田家にも神仏一体の義はあるのか﹂と問うた。 日宣は﹁ある﹂と答え、続けて﹁明応六年に、吉田兼倶より日蓮法華宗の三十番神勧請について二ケ条の難問があり、 ︵聰︶ 当宗の返答の中に神仏一体の本理玄々妙々の法があるとして、賀札を下された﹂と、その賀札を見せると神主達は一 言もなく荘然としていた。 第七番問答 1 6
-音を出し、法徳によりサ行の歯音がでる。蓮徳によりラ行・タ行の舌音が出、華音よりマ行・ハ行の唇音、経徳によ り、ア行・ワ行の喉音が出るのである。神々もこの音声にて唱えれば来臨したもうのである﹂。大隅守曰く﹁有り難 いことを聴聞して大きな徳を得た﹂と、その座の三十一人は平伏した。すると日宣は、天台大師の釈を引いて﹁両手 の十指を合せるのは十界具足を表わし、右手の十四節は迩門十四品、左手の十四節は本門十四品を表わす。両手を合 わせば陰陽合体本迩不二の印像であるから、手を打たず、一心に合掌して南無妙法蓮華経と唱えるのである﹂と答え、 証拠に日蓮聖人遺文を見せると神主一同は感心した。 土橋右京が問うた、﹁神前に立て置く幣束の儀に、世俗・神道ともに誤って神体あるいは神の乗物のように思って、 神の位によって金紙、銀紙で仕立てる者がいるが、幣は神体ではなく幣束は備物と説法されたが、神体の幣もあり、 それは御伝授なきものと見える﹂。すると日宣は神体の幣の仕立て方と意義を説明すると、右京は﹁いづれより幣束 の義を伝授されたのか﹂と問う。日宣は、﹁愚なり﹂と一蹴し、﹁そこもとは供物と神体の二種の幣があるというが、 幣束の本義を御存じないようだ。神体の義があれば恵些というが、神へ捧げものをするときに台に乗せ置き、五 色の色を付けて結びつけ、何某よりの献上と披露するものである。日光山へ遣わされる禁裏よりの勅使を例幣使とい う。幣は天子よりの供え物である。その入れ物を御幣櫃という。神の乗り移るものではなく、供え物である。また五 色の幣物に青・白の二色に青・赤を兼ねて陽色とし、白に黒を兼ねて陰色とし、黄は間色である﹂。そして五行にな ぞらえて五色の意味を説明し、﹁仏家では夏場など青い木や花を奉るのは春の義で、菓子を供養するのは秋の義であ る。神仏一体の故に神道では青幣・赤幣を供えるが、仏家では青幣に替り花を供え、赤幣に替り菓子を盛り物に供え ﹃甲府神道問答記﹄考︵宮川︶ 第八番目問答 − 1 7 −
横森薩摩が問うた、﹁天照皇太神を祭る伊勢の諸国に出す御祓に、天照太神の名を書くのは誤りというのはなぜか﹂。 日宣曰く﹁祓というのは祓払といって、先露払、塵払、芥払などのたたき払をする軽い者の役をいうのであって、天 照皇太神に不浄稜のたたき払の役など恐れ多いことだ。本来、祓とは神々の御座所宮の木で、三種の御祓を口に唱え て我が身の積れをたたき払いしたのち、川に流すのである。また伊勢より出している御祓箱を御神体と思っている者 がいるが、御神体ではなく我が身の積れを払う箒と思うべきである。もし御神体ならば御宿りとか御移りというべき である。伊勢のものが世俗をたぶらかして銭儲けに御神体のように言っているのである。祓の後に神前に進むのに、 神前で祓するのは稜れを神に掛けるようなもので、はなはだ失礼だ。かって祓方多しといえども御神体としたことは ない。日本の総廟たる伊勢にしては神道に疎いのではないか﹂。すると牛山大隅守が﹁おっしゃる通り、これまで祓 方を神体としたことはない﹂と言えば、他の神主も感心して聴聞した。 花を供える﹂と。 第九番目問答 天野斎宮が問うた、﹁蛭子尊は恵美寿ではなく、足が立たないわけでもなく、西宮へ流されたわけではないと説法さ れたが、神代巻に蛭子は三歳とはいえ脚猶立たず、天盤杼樟船に乗せて順風に捨つとある文は如何﹂。日宣曰く﹁三 歳の三とは天地人を兼ねた意で、いつまでも変わらずの義である。脚立たずとは蛭子尊の総領であったが、柔和だが 武徳に欠けるため妹の天照太神が総領となったことを指すのである。それを不具のようになすのは誤りで、それなら ﹃甲府神道問答記﹄考︵宮川︶ る。また金幣は黄金一枚、銀幣は白銀一枚、二文三文は銭幣、米は米幣という。神道でも幣ばかりではなく花の時は 花を供える﹂と。土橋右京、上原越前は﹁まことに妙談﹂と感心する。 第十番目問答 − 1 8 −
上原越前が問うた、﹁貴僧は大黒天は天竺の神だという。しかし、音が同じで大国を大黒というのであって、日本之 事代主命と恵美寿大黒を相殿に祭るのは誤りというのはどうしてか。天竺の神というが、像様は和服を着ているでは ないか﹂。日宣笑って﹁それは逆で音が同じ所から来る混同した誤りだ﹂と答え、﹁では聞くが、大黒天の手に槌、頭 に頭巾、足には米俵、背には袋を背負ういでたちにして甲子に祭るのはなぜか﹂と逆に問うた。丹波守は﹁一向に知 らない﹂と。日宣は同座の三十一人の神主に尋ねるが誰も知らない。そこで大隅守﹁大黒天の由緒・来由聴聞したい﹂ と願い出たので、日宣は承知したと来由を語った。﹁大黒天は日本の神ではないから神職が知らないのも無理はない。 新築のとき最初に建てる大極柱を大黒柱という御時世だからままあること。よく聞き給え﹂と、日天子順巡りを五行 相生に配して説明し、﹁伝教大師が入唐のおり、天竺の大黒天が天竺第三の法蔵にあらわれ、不変真如の袋を掲げ久 遠の古仏と示現した像様を、帰朝して比叡山開山ののち自ら彫刻して開運守護として安置したのが始まりである。そ れを日本の大国玉命と大黒と同音で取り違えたにもかかわらず、﹁神道類聚抄﹄にはかえって仏家の取り違えといっ ているのは大笑いだ。﹃大黒経﹄という経典のあることを知らないからそんな事を言うのだ。私は神職者の誤りだと ﹁甲府神道問答記﹄考︵宮川︶ を示す者はなく、 第十一番目問答 を示す者はなく、ただため息ばかりであった。 の文は如何に会通すべきか﹂と問うと、日宣は﹁入門なされば一々に説き申す﹂と答えるが、一人として入門の意志 ら恵比須とは異なるのである﹂と。生山大隅守は感心し、丹波守が﹁姪子伝授以外のことは知らなかったが、神代巻 子と書き換えたのである。蛭子は火の徳故に火生士と相生して士徳の神であり、百姓のための福神なのである。だか ば福神とはならないはず。姪子は日留児で日の徳を受けて生れたもう児の意で、天子となった天照太神に遠盧して姪 1 9
-巻﹄に﹃木綿樺を 面々一言の返答も 第十三番目問答 第十四番目問答 窪田造酒之助が問うた、﹁宝基本記の託宣は仏に譲り本宮に帰るとはあっても、国を捨てたとは見えてない﹂と。日 宣曰く﹁安徳天皇の入水や鳥羽上皇・士御門院・順徳院の配流は守護のない証拠である﹂。﹁しかし、蒙古襲来の際の ある﹂。 六年、天照太神、倭姫命に託して忌部惣忌等かねて本宮に帰り、神明の利益を仏に譲り神託を止めて天上されたので六年、 が教え諭し、善を修し機にしたがって法を授けて以来、太神本宮に帰り託宣を止むという。人皇十一代垂仁天皇二十 すでに心臓労れ散るとき、身は衰え生死の長夜の闇に沈み根の国民の国にさまよう。このため皇天に代わり、西天 説くが、伊勢天照太神はいつ神天上されたのか、その証拠は﹂。日宣曰く﹁神代には常に人の心聖であった。しかし、 輿石土佐守が問うた、﹁貴僧は伊勢は天上されたゆえ社は祉社で参詣に及ばず、三十番神を勧請して信じ奉るべしと 第十二番目問答 土橋右京が問うた、﹁神職が木綿裡を掛けて神を拝するのに、仏家の袈裟の如く思って掛けるのは誤りであるという のはどうしてか。木綿裡は身の清浄のためであり、積れた衣で神具を汚さない為である﹂。日宣曰く﹁ならば身の清 浄ではなく神に清浄にして奉る儀であり、供え物のときばかりでなく祓い清めするときに行ずるものである。﹁神代 巻﹄に﹃木綿樺を袈裟の如く思うは誤りである﹄とあるのは、そう思って掛ける神職がいるからであろう﹂。神主の 面々一言の返答もなく、ただ笑うばかりである。 田噂﹃ノ﹂○ ﹃甲府神道問答記﹂考︵宮川︶ − 2 0 −
大風は伊勢から吹いたのであり、だから風の宮という﹂と造酒之助はいう。日宣曰く﹁伊勢はまた﹃雨の宮﹂ともい う。干ばつの折、雨を祈るからだ。﹁風の宮﹂というのは風を祈るからである。蒙古襲来の折の風は、惟康親王の命 により、使者池上宗仲の依頼によって日蓮聖人が顕した大曼茶羅によるのである。宗祖自ら御祈祷の後、旗曼茶羅を 宇津宮定綱が持して筑紫に向い対処したからとある。惟康親王所持のその旗は、今は公儀よりの葵紋付長持ちに入れ ︵副︶ 押上の最教寺にあり、﹁蒙古退治の旗曼茶羅﹂として諸大名・旗本・庶民ら拝謁に参詣している。その旗曼茶羅の写 しがこれである一と見せると、三十一名の神主は一礼した。 日宣曰く﹁神々の年寿の根拠は何か﹂と。大隅守は﹁存じない﹂と答え、﹁土佐殿は如何か﹂﹁私も存じない﹂。一同 に問うたが神主一人も知る者がいない。輿石土佐守等一同声をそろえて﹁我等職分にあるとは言え、神々の年代の付 け方を知らない。何卒御教授下さい﹂と願う。日宣は﹁入門なされば伝授しよう﹂と。すると造酒之助が言う。﹁大 黒相伝は説いたのに、なぜ神々の年代は説かずに入門せよというのか﹂。日宣は﹁大黒相伝は仏法の相伝であって秘 す必要はないから説いたのである。他宗の中には金銭を取って伝授するものがあるが、日蓮の神秘は一文もいらない。 ただ仏法を誇ることのなきよう書面を入れてもらうだけである﹂、と説明するが一人の入門者もなく、龍の耳角であっ しがこれである﹂ 第十五番目問答 最後に日宣が﹁他に質問はないか﹂と問うと、大隅守が﹁不思議な縁で対面し珍しいことを聴聞してありがたいこ とであった。神職銘々の尋ねに一々返答下さり、多いに感心いたした。猶、問答の勝負は外に漏れないよう願いたい﹂。 日宣﹁承知した﹂と返答し大笑いののちに問答を終えた。 ﹃甲府神道問答記﹂考︵宮川︶ た ○ 2 1
-この甲府問答は吉田二位良連の耳に達し、翌年︵一八○九︶に 前本教寺日宣上人究自宗之奥儀守法中之戒律偏仰宗祖之遺教崇我神道従来之精学可為神妙者也。 文化六年七月廿七日 神道官領良連印 右記の賀枇派日宣に送られた。以上をもって﹃甲府問答記﹄は全てを終了している。この問答記で知る限りでは、 日宣の神道に関する知識は大変深いものであり、問答そのものが日宣の独壇場であるかに映る。日宣は﹁番神問答記﹄ を著わしており、第二番目問答において﹃兼益記﹂を証拠として出しているが、日宣ほどの学僧が﹃兼益記﹄が事実 でないこと、吉田兼倶によって創作された記であるくらいは知っていたはずである。にもかかわらず、﹁兼益記﹄を 出した事は最初から神職者を呑んでいたかにみえる。 最後に、此の度の拙稿は資料紹介の面が強いが、今後の課題としては唯一神道系、とりわけ吉田兼倶の﹃神道大 たり骨なし、日一 というものであった。 以上の十五番問答終了後、神職者三十有余人は高座前に列座し、日宣の弟子・問答記録者であった英胎院日通の前 座﹁十種神財﹂、さらに日宣による後座﹁三種神宝﹂を拝聴したと記されている。日宣この時の講説内容は、 神代巻は法華経之心を得て唐之儒文を以て日本之神道を顕し示せり、文々句々を説示す書別記に有、伊勢延徳垂 加流は多田流を破す所也、多田儀俊は神道之皮を得たり、日本記に日、紫式部は神道之肉を以て神道之皮肉を述 たり骨なし、日宣は神道之皮・肉・骨之三つを得て神心を説総︶ ﹃甲府神道問答記﹄考︵宮川︶ 三 − 2 2 −
意﹄﹁唯一神道名法要集﹄、吉川惟足の﹃神道大意講談﹄などと日宣の関係を調べる必要があろう。また日宣が図顕し た窪華神道曼茶塗︵仮称︶の考察も見落すことはできない。 ※平成八年十月、日本仏教学会テーマ﹁他教との対論﹂において、﹁江戸中期にみる日蓮宗と神道者の対論﹂l ﹁甲府神道問答記﹂を中心としてI、を口頭発表のみで、神道者十名が本当に実在していたかの考証がとれぬ まま未提出にしてしまった。此の度はその裏付がとれた事によって、その時の原稿を整理したものである事を 付記しておく。 注 ︵1︶ ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ ︵5︶ ︵6︶ ︵7︶前掲書、九七頁。 昭和六十二年、拙稿﹁日蓮宗における三十番神信仰の受容﹂︵日本仏教学会編﹃仏教と神祇﹄所収を参考︶ 山梨県南巨摩郡鰍沢町二三八四。千光山第十三世、恵浄院。 山梨県南巨摩郡増穂町青柳三六七。妙洞山第十六世、祥生院。 甲府市武田一ノ四ノ三四。藤光山第十七世、奏牙院。 甲府市朝日五ノセノ三十。法晄山、歴世不祥。 愚蕊雷斐国志﹄第三巻、八九頁。 ﹁若宮八幡宮銅重久組二在り除地百三十二坪昔時ハ正月廿八日ノ祭礼二神輿ヲ出ス旅所・桟敷場ノ地名アリ今ハ廃セリ神主 生山大隅ノ家譜二云う其ノ先ハ下野ノ国小山政長二出ヅ天正壬午ノ歳織部正藤ト云う者新府御陣中ニテ拝謁シ神主職仰セ付ケラレ翌 年四月御朱印ヲ頂戴ス又新府城経営ノ時武田勝頼地鎮祭ヲ命ズ其ノ時拝領ノ仮面鳥兜今二伝ハレリ本、上州岩舟ノ宮神器ノョ シ仮面二刻字アリ、口八鍔菩 ﹁諏方明神酢秘御朱印社領二石六斗余社地七万二千六百九十八坪︵中略︶又建岡ノ社地ョリ四五町ヲ隔テ、大炊ガ池ト云ファ ﹃甲府神道問答記﹂考︵宮川︶ − 2 3 −
︵8︶前掲書、七○頁。 ︵旧︶前掲書、一○五頁。 ︵皿︶前掲書、八六頁。 ︵Ⅱ︶前掲書、一○五頁。 ﹁八幡宮術居黒印神領一石八升社地六百廿四坪古社地神主屋敷千二百六十二坪除地ナリ神主横森薩摩ロ五垂一﹂ ︵加︶前掲書、八七頁。 ヲヒレ ﹁諏方明神嫡井御朱印社領八石二斗余社地九千七百廿坪鎮座ノ地ヲ尾鰭山ト云う︵中略︶神人屋敷等ノ地名存ス第一華表ヨ メグ リ以内五町余往時神輿ヲ行ラセシ所ナリ今ハ其ノ祭廃セリ神主上原越前其ノ先刑部卜云う﹂ ︵9︶前掲書、一○四頁。 ヨ八幡宮牡湘除地田六畝廿歩社地若干又社北二神領ト呼ビテニ三段ノ地アレドモ農民ノ持チニテ年貢地ナリ︵中略︶安永九 張年白山ヲ別二祠ル第三ノ石ノ華表二承応三年申午寄進渡辺太郎左衛門トアリ此ョリ第一ノ華表二至ル五町許リニ、ンテ官道ナリ 白山ノ祠ハ寛政四年荘七月士一百洪水二流亡スト云フ神主歌田河内口七嬉聖 ︵皿︶前掲書、一○二頁。 ﹃甲府神道問答記﹄考︵宮川︶ リ武日ノ連ノ妾大炊ガ霊ヲ祀ル水中二神鏡アリ旱歳二雨ヲ祈り其ノ鏡ヲ出ダシ八幡宮二納ムレバ必ズ雨フルト云う神主輿石土佐ノ 家記二云う本姓ハ大伴ナリ。天正壬午二清蔵森純卜云う者神主職仰主付ケラルト云うロ七娚唾 ﹁八幡宮糯塚大宮七社明神ヲ併。祭ル御朱印領二石六斗余社地神主屋敷各々若干︵中略︶神主窪田因幡家乗二云う其ノ先ハ高 階ノ菅根ナリ承久ノ頃窪田別当実貞ノ女武田太郎信隆二配シテ一男子ヲ生ム後チ離縁ス其ノ子ハ母二従上実貞二養ハル成長シテ 実貞ノ嗣トナリ窪田宮内実隆ト称スコレョリ数世ヲ経テ窪田淡路実吉卜云う﹂ ﹁姫宮明神銅下新田船山ノ上二在り社地六十坪除地ナリ市杵島姫・猯津姫・田心姫ヲ祀ルト云う神主腰巻権少輔ノ先祖因幡 ト云う者本州御入リノ時神主職仰セ付ケラルト云うロ八甥哩 ﹁諏方明神歴神御朱印社領一石六斗二升社地千五百坪神宝二笛アリ武田勝頼新府ヲ営スル時神主地鎮祭ヲ務メシ故二賜フト ハヤメ 云う又米倉佐大夫誠俊ノ奉納獅子ノ置物アリ華表ノ脇ノ清泉旱時ニハ反ツテ水マサル催生ノ池卜字ス難産ノ婦二此ノ水ヲ与フレ バ即チ効アリ神主矢巻越後口七鍔畦 − 2 4 −
へへへ 1 7 1 6 1 5 …ー へ 18 … へ 19 … ﹁神明宮斬癖中丸林二在り永禄慶長ノ番帳二載しり黒印神領二石四斗社地若干神手工橋右京口五塑一﹂ 社人であって社主でないために判明出来ず。 前掲書、二六頁に西南胡の八幡宮の名は見るが、南胡だけでは判明しがたい。記録に誤りがあったのでは。 智寂院日省著﹁本化別頭高祖伝﹂には、﹁読諦孝妙経開結十巻弓、求二願ス妙解妙行一生二満足亨﹃ヲ、一日見ユ異人↓聞写読調ノ 声与而去、日日以テ然ナリ、高祖佐庵之問日ク、子ハ誰グ、異人ノ曰ク、我レハ者法華守護ノ三十番神也﹂と、二日蓮上人伝記集﹄所収、 二六三頁︶。六牙院日潮著﹃本化別頭佛祖統記﹄、本満寺発行本、七六頁、本書の番神説も同文。また﹃高祖年譜﹄前掲 二日蓮上人伝記集﹄所収、三四一頁、参照︶ ﹃兼益記﹄は兼倶による偽作と考えられ、そのものだけでは出されていない。﹃神祇正宗﹄、日宣著﹃番神問答記﹄などに所 収。内容は、﹁弘長元年二月九日、法華ノ行者日蓮法師入来、佳与神領武州恩田御厨代官益行口入一一去年;以来運運通達シ了ヌ、 此人立二妙経時節、現当法門一作斗書籍司名二安国論一、顕学無双ノ之人云々、神代降臨三十二番ノ名号事、懇望之間、奮冬注進 之、件神号字訓読為二伝受一、今日来臨、此事神道ノ行法ノ之秘号也、於二凡人一者諏不二相伝一之義也、然此人ハ極二一代蔵経之才 学一、頗ユ異人︾之間、不し渉二思惟一令し授與件秘訓等与了﹂︵﹃番神問答記﹂四三∼四四丁︶。というものである。なお本﹁兼益 記﹂中で述べている﹁神代降臨三十二神ノ名号﹂とは、天祖降臨の供奉三十二神のことで、吉田家では大数に約し内裏三十 番神と称している。三十二神とは、天香語山命・天細売命・天太玉尊命・天児屋命・天櫛玉命・天道根命・天椹野命・天糖 戸命・天明玉命・天村雲命・天背男命・天御蔭命・天造日女命・天世平命・天斗麻禰命・天斗女命・天玉櫛彦命・天湯津彦 命・天三降命・天日神命・天乳速日命・天八坂彦命・天伊佐布魂命・天活玉命・天少彦根命・天事湯彦命・天八意兼命・天 児表春命・天次下春命・天月神命、を指ていう。︵立正大学図書蔵﹃番神問答記﹄﹁附録﹂写本に所収︶ ﹃甲斐資料集成﹄第八巻、二六○頁。 妙顕寺日脱上人へ賀札之次第左之通。 右本朝弘長之春有戴日乗蓮人之一日入予祖家問吾神道以一儀答乃至神明而顕妙々明而顕神鳴呼神妙之二字為能説仰乞削予小 明応六年十一月日 神道長上二品ト部兼倶在判妙顕寺貫主法眼御房 如是神佛一体唯一神道唯佛乗元々宗源也其後日宗上人之時吉田三位兼敬卿ヲ請ス追而賀札ヲ賜其文二曰先日依招請寛々面会 ﹃甲府神道問答記﹄考︵宮川︶ 量添公博賢謹対 − 2 5 −
へ∼へ 242322 … ー へ 21 … ﹃甲府神道問答記﹄考︵宮川︶ 殊一三宗数通之縮旨証文等一覧二候乾中三拾番神問答往来之書状先住在聖人之高徳哉誠二不思議之閑談先祖之感応二候依テ 表賀儀呈一翰余期再会謹言尚々其節鎮守参詣之所社頭殊勝ニシテ別而感悦二候 文禄十一年四月十九日