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<研究ノート> 『摂大乗論』の一節(第二章第二四節)について

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Academic year: 2021

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一体﹃摂大乗論﹄の第二章第二四節は、どのような意 図のもとで叙述されたのであろうか。このような点を視 野におきながら→第二四節についていささか考察したい◇ ﹃摂大乗論﹄という大乗仏典は、この仏典が著作され たその時代における、著者であるアサンガ︵無著︶の上 に受けとめられた全仏教の帰結が纒め上げられているの であって、先輩によって、﹁大乗仏教を該摂するの論﹂ とか、﹁全仏教の大乗の立場からの概論である﹂などと 理解されていることでもある。﹃摂大乗論﹄は恐らくそ のような事情のもとに成立した仏典であって、その意味 からも、大乗仏教、あるいは、仏教思想を理解しようと する場合、必ず考慮に入れなくてはならない基本諭書の 一つであると考えられる。 因みに、近代仏教学の上からも、この仏典に対して、

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研究ノート

﹃摂大乗論﹄の一節︵第二章第二四節︶につ

佐々木月樵、宇井伯寿、E・ラモット、長尾雅人、上田 義文の諸先学を始め、多くの先進の方々によって研究が 進められてきている。特に近年刊行された長尾雅人著 ﹃摂大乗論和訳と注釈上・下﹄︵インド古典叢書、講 談社︶は、この仏典に、より身近かに親しむ機縁をもたら しているのである。既にそれらによって知られるように、 ﹁摂大乗論﹄はその内容がきわめて豊かである。しかし、 広い視野のもとに叙述されており、しかも、簡潔な文体 でもあって、理解し易い個所もあれば、一向にはっきり してこない個所も随処にでくわすのである。それだけに、 長い歴史を通じて多くの人々によって親しまれ、取り組 まれてきたとも言えるのであろう。 この仏典に対して、インドの仏教世界においては、仏 教の深まりを解明したヴァスバンドゥ︵世親︶や、アス

片野

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イ⑫ 士 』

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ヴァブハーヴァ︵無性︶などによって注釈書が著わされ ている。サンスクリット原典を欠くとは言え、関連する 漢訳、チ.、ヘット訳の諸資料が数多く伝承しているのであ る。従って、それらによって本論の内容が容易に理解で きるはずであるが、先にも述べたように必ずしもそのよ うには運ばない個所もある。ここに提起する一節もその 一つに思われてならない。 さて、﹁摂大乗論﹄の二’二四︵E・ラモット先生﹁研 究﹄の分節による︶は、玄英の漢訳によると次のごとく である。 復次云何、得し知如二依他起自性、遍計所執自性顕現﹁而非レ 称し体。由二名前覚無﹁称体相違故。由言一名有二衆多﹁多体相 違故。由二名不決定﹁雑体相違故。此中有二二頌記 由二名前覚無、多名不決定一 成一一称体多体、雑体相違一故 法無而可得、無染而有し染 応し知下如一幻等﹁亦復似中虚空上 ︵佐々木月樵﹃漢訳四本対照摂大乗論﹄四○頁︶ われわれの日常的な経験世界は、言語、思想というあ り方で集約されるのであろうが、仏教の識説においては、 それらは認識あるいは識知する識のはたらき、心の動き を基盤としてあり得ているとされる。その心の動き︵識︶ は、意識的な動きと無意識な心の動きとが縁起なる事態 として相互に関係性をもって動くあり方の上でとらえら れようとする。そのような縁起なる心の動きにあって、 われわれの認識、識知する世界においては、その心の動 きを根底としつつ、認識された対象、あるいは、もの が、実在するものとして把握し、捉えている。その実態 が﹁妄想分別された世界﹂︵﹁遍計所執﹂︶として受けとめ られる。いつの間にかその﹁妄想分別された世界﹂にお ちいっているのがわれわれの現実のすがたであるが、こ の現実を見すえて、実在化し、妄想、構想分別されたも のは、如実には、あらゆる点から実在性がない、という 仏教の目指す実践、即ち琉伽行がなされようとする。そ の妄想分別された世界はあらゆる点から実在性がないと して否定される一方、妄想分別された世界の﹁よりどこ ろ﹂としての、縁起なる事態として受けとめられる心の 動きが、所謂﹁他に依る世界﹂即ち﹁依他起﹂という ように表明される。そこで、﹁妄想分別された世界﹂は あらゆる点から実在しないと見極められていく世界が、 琉伽行の目指す世界﹁完成された世界﹂︵﹁円成実﹂︶と して性格づけられるのである。従って、依他起から遍計 44

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所執へ、遍計所執から依他起へ、あるいは、遍計所執を 転じて円成実へ、という究明など、これら遍計所執、依 他起、円成実の三つの世界の解明は、琉伽行唯識仏教の 成立において三性説と呼ばれ、学の対象として提起され るのである。 転迷開悟としての転識得智も、その三性説という仏教 の思想体系によって開顕されようとするのである。︵こ れらについては、長尾雅人﹃摂大乗論和訳と注解上﹄二 二頁以下、﹁第二章の三性説﹂の解説を参照されたい。︶ この﹁妄想分別された世界﹂を如何に処置していくか、 が琉伽行唯識仏教の重要な実践課題であるが、﹃摂大乗 論﹄においては、その﹁妄想分別された世界﹂︵遍計所 執︶について次のように叙述している。 義︵外界の対象︶は無くして、ただ識︵表象、記識︶のみ 有る中に於いて、義に似て顕現することなり。︵二’三、 玄英訳による。佐灸木本二九頁︶ すなわち、心の動きというただ表象のみの事態にあり つつ、認識された対象が実には実在しないのに、実在す るかのどとくに現われている、という。そして、先にも 概述するように、依他起は構想分別された世界︵遍計所 執︶の根底に見い出されるのであるが、その依他起が ここで検討しようとする﹃摂大乘論﹄の二’二四は玄 英訳によって先に示したが、偶頌の前の、設問部分の長 行に相当する文章が先輩によってチ、ヘット訳、漢訳を考 慮しつつ、次のように判り易い文体によって紹介されて いる。 また他に依る実存が、妄想された実存として現われながら、 しかもその様にはそれ︹他に依る実存︺と同体ではないと いうことが、如何にして知られるか。︵長尾雅人﹃摂大乗 論上﹄三五五頁︶ そして、その問いに対して、続けて、 何となればの名まえより以前には知はないから、︹この知 が︺かれ︹物︺と同体であるというのは矛盾であり、⑨名 まえが多数あることからして、︹物も︺多体となるという ﹁よりどころ﹂となり、根底となって、構想分別され、 妄想分別された対象が実在するものとして把握された世 界は、もはや依他起的な世界ではない、という伺察が三 性説で提起されてくる。そこに、依他起は、遍計所執と 同体であるか、異体であるか、という論議も予想される のである。更には、円成実と依他起は同体か別異の関係 にあるかという伺察も提起されてくるのである。 f民 主 U

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のは矛盾であり、⑧名まえは決定的ではないから︹物が︺ 混合体となるということも矛盾であるからである。︵前掲 同書同頁︶ という叙述が見られる。ヴァスバンドゥの注釈によると、 他による︹実存︺と妄想された︹実存︺とが一体であるな らば、名前に関係せずに、知覚がものの上に起ることにな るであろう。けれども、瓶という名がなくしては、瓶とい うものの上に瓶という知覚が起こることはない。︵チ。ヘッ ト訳より、句①匡拐弓苫“I唖︶ 云々と説明されており、また、アスヴァブハーヴァの注 釈では、 他による︹実存︺が妄想された︹実存︺の分として顕現し ていても、︹それは︺それ︹妄想された実存︺の自体でな いごとく、そのごとくに了解せしめんがために、名の︹仮 設の︺前に知覚はないから、と語っている。もし他による 実存が妄想された︹実存︺であるとするならば、︵チ。ヘッ ト訳による。終りの文、玄英訳、若依他起与二遍計所執一同 一相者、拙著﹃インド仏教における唯識思想の研究﹄一五 八’一五九頁参照︶ 云々と本論文に対して説明されている。 それらの説明が考慮されて、これまで、この第二四節 は﹁遍計所執と依他起との区別﹂を語るもの、﹁依他起 は遍計所執と同体であるかどうか﹂あるいは、その両 者の不一義を叙述するものとして理解されてきたのであ う︵︺。 ところで、第二四節に掲げる一番目の偶頌は、直前の 長行の三項目による答えを偶頌にまとめたもので、アサ ンガの造偶であろうと見られている。二番目の偶頌は、 ﹃大乗荘厳経論﹄随修品第一六偶に相当するもので、サ ンスクリット文が知られる。 前者の一番目の偶頌の前半は、アサンガの著作と見な されているチ。ヘット訳﹃解深密経疏﹄第一章の中にも引 用されているが、そこでは勝義の﹁不二﹂の相弓の固掲 Z。.鯉曾“ぐ9.s陰や甲﹃1$を表明するものとしてその 偶頌を説明している。かって、そのような事情から、先 に述べるように、この第二四節が、依他起は遍計所執と 同体であるか、どうかという観点からの叙述と見るとき、 この﹁解深密経疏﹄の解説は、意味上、相違するもので はないが、その叙述の力点が違うように思えてならなか ったのである。また、二番目に引用される偶頌について は、﹃大乗荘厳経論﹄では、無自性や自性清浄に対する 怖れを除くために設けられているからでもある。 そのような事情にあって、チ、ヘット仏教者ツォンヵパ 46

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の解明に注意をひく。それによると、﹃摂大乗論﹄のこ の第二四節を、﹃解深密経疏﹄に提示されている趣旨に そった仕方できわめて明確に指示しているのであって、 その点にも留意されなくてはならないと思われる。すな わち、この第二四節の問いが、﹁遍計所執は依他起と同 体であるか﹂という受けとめではなく、﹁依他起は遍計 所執として空である﹂という提起のもとで設けられてい るとするのである。ツォンカ。︿の﹃了義未了義論善説心 髄﹄︵しクシェーニンポ、あるいは、タンゲーと略称さ れる︶によると、 ﹃解深密経﹄の中に、依他起は遍計所執として空であると いうが、そのことを証明する、︹﹃解深密経﹄では︺未だ説 かれていない理証を理解せしめんがために、﹃菩薩地﹄や ﹁摂決択分﹄の中で、各全一種の道理を説いており、また ﹃摂大乗論﹄の中でも、︵ぐ閏四画騨凰やS︾弓①冨侭ぐ巳. ]認﹄︺ご凸&I︶ と述べて、この﹃摂大乗論﹄第二四節の長行を引用し、 更にはその本文を説明している。 ツォンヵ・︿によると、依他起は遍計所執として空であ る、ということの道理、あるいは証明としてそれら長行 の三項目が受けとめられている。 り積極的に実現せんとする唯識の実践という方向に向け られているのであろう。先に注意する﹃解深密経疏﹂の 解説とも符合するのである。 ツォンヵ・︿の指摘する﹃瑞伽師地論﹄の﹁菩薩地﹄で は、 如何なる道理q烏邑によって、一切法の離言説という ことが︵日日ご匡国も閨凹︲のぐP国風ぐぃ風の胃ぐゅ巳︺胃弓凶唇習巳が 理解されるべきか。︵弓○四冒国&﹄やら蔦.腱I︶男匡凋 ぐ巳.]g直ら︲甲了隠︶以二何道理﹁応し知二諸法離言自性一 ︵大正三一、四八八頁a︶ と述需へ、以下において﹃摂大乗論﹄第二章第二四節に相 当する三項目による理証が、それらの順序は違うが、叙 述されている。しかし、依他起、遍計所執など三性説に ついては直接言及していないし、また、﹃摂大乗論﹄に 見られる偶頌も掲げていないが、﹃菩薩地﹄のその個所 の結びでも、 それ故に、この理由とこの道理によって一切法の離言説と いうことが理解されるべきである。︵弓。唱冒目の9ゞや浅﹄ 一男やl﹂C︶ 依他起が遍計所執として空であるというその方軌は、 二性説の、いわゆる完成された世界、円成実の世界をよ 47

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と述べているのである。 ツォンカパが﹃摂大乗論﹂のその文節を引用している ことはすでに述寺へたが、それに続けて、更に次のように 説明している。 そこで、法はかのものを本質することは矛盾するから、 ︵呂○のggg樹画巨旨両昌冨の︶依他起は遍計所執と して空であるという、証明の仕方を理解し易いように語る ならば、瓶という言説の事体、あるいは所依である、その 円形のもの︵岸○匡胃g︶がすでに円形のもののあり方と して、或いは自相として成り立っているならば、︹それは︺ 日常的表示︵胃8.閏日常国︶の力によって建てられない ことになるのであって、そのようであれば、日常的表示の 対象を有する知覚も亦、日常的表示に依らないのであるか ら、瓶という名を施設する以前から、円形のものに対して 瓶であるという知覚が起ることになるであろう。︵ぐも.雪︾ 、.扇lや認急.ど このツォンカパの説明は、﹁摂大乗論﹄に叙述されて いる三項目による証明の第一番目に対するものである。 右の説明文でも、この証明によって、依他起は遍計所執 として空であると論証するものであることを表明してい る。ツォンカパのこの説明文は、恐らく﹃菩薩地﹄の所 説を踏まえているのであろうから、その所説にも注意し

たい。﹃菩薩地﹄では、蝿

もし仮説語の施設よりe国芦名陣︲ぐ:。恩○胃圏︶以前に、 ︹すなわち︺仮説語が施設されていないとき、かの法や事 体がそれ︹仮説語︺を本質とするのであれば、︵閻号目自陣の 3。く閉目国9弾目色弄煙昌暑弾︶そうであれば、色なり というその仮説語の施設を離れて、色と名づけられる法や 色と名づけられる、その事体において、︵目冨、騨且目常 呂胃目①目冒︲閻且冒冨ぐ尉首員︶色の知覚は起こるであ る貝ノ。︵3℃P合口。○冨伝目画く目5菌・︾急.凋旨四国①9︾やら︶ 罠やあ︾弓①置凋ぐ巳.]g︺属ややや当︾大正三一、四八八 頁b︶ という所説が見られる。右の所説によって﹃摂大乗論﹂ の叙述もより明確に知られてくるのである。﹃菩薩地﹄ では﹁摂大乗論﹄のこの一番目の証明が最後に置かれて いる。 因みに、二番目三番目の証明についてはツォンヵパは 続けて次のように説明している。 また、一つのものこそが多くのものの自体となって矛盾す るからという証明は、最初の提議のごとくであれば、︹す なわち、言説の事体であり所依であるそれが、自相として すでに成り立っているならば︺一つのものにシャクラ、イ ンドラ、グラーマガータカ︵村を掠奪する者︶などの多く

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の名前が起こるのであって、︹その場合︺事体によって起 こるべきであり、分別において顕現しているように、その ように事物として存在する故に、かのものは、多くとなる であろう。 混同しないものの自体が混同することになって矛盾する からという証明は、最初の提議のごとくであれば、二人に 対してウパグプタという一つの名前が起こるとき、これは ゥパグプタであるという知覚が起こる場合、区別がないか ら、また、その名前や分別も事体によってそれら二人に対 して起こるから、二つのものが一つのものになるであろ う。分別の執着する事体であるそれら色などが、勝義ある いは自相として成立すると捉えるならば、また、名前を施 設する所依も自相として成立すると捉えることと等しくな るから、この名前はこれであるという日常的表示を知らな い人においても、否定されるべき増益があるのであって、 そのことを否定する理証も︹前の理証と︺同じである。 ︲︵ぐ.や露ゞ曇.函1局︶ これら第二、第三の二の証明に相当する﹃菩薩地﹄に おける所説は、 そこで、もし、凡そ何らかの法、何らかの事体において言説 が起こるごとく、そのごとくそれら諸法やかの事体がそれ ﹂︹言説される様態のもの︺を本質とするのであれば、︵$O黒 己戸口閏割凹呂昌くいず旨両面○瀞曾QgHB①普望尉日旨ぐゅの目昌 冒Pぐ胃国弓、3早弾目凹丙爵蔚口唇閏日爵冨・ぐ儲目鍋戯c そのごとくであれば、一つの法、一つの事体の上に、多種 にして多くの自性があることになるであろう。それはどう してかといえば、即ち、一つの法、一つの事体において多 種にして多くのものが沢山の言説によって仮説され、施設 されるであろうから。 また、多種にして多くの仮説語の決定は何ら把握されな い。即ち、多くの中の一つの仮説語によって、かの法やか の事体がそれ︹一つの仮説の語︺の自体であり、それの類 であり、それの自性であるならば、他の残れる仮説語︹の 自体では︺ない︹というように︺。それ故に、一切の仮説 語は完備したものでもあり、不備のものでも︵チベット訳 ・いずれでもあり、一つでも︶︹あり得るので︺あって、 一切法や一切の事体はそ︹のような仮説語︺の自体でない し、それの類でなく、それの自性でない。︵3普罵目倒日︲ 冒日昌切は3口目当騨薗呂の陣苗圃く餌g胃四国.急o四目3 8.﹂や陰ゞ震や19︾勺の匡凋ぐ巳.巨戸]瞳l]凸l甲]︺大 正三一、四八八頁blC︶ と説かれている。 さて、このような思想的な背景を確認するとき、どの ように﹁摂大乗論﹄の第二章所知相章の第二四節の所説 19

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を理解するのが適切であろうか。﹃菩薩地﹄の所説を考 慮するとき、その第二四節の設問の文章を、 また他による実存が、妄想された実存として現われている ように、︹他による実存は︺それ︹妄想された実存︺を本 質としないということが、如何にして知られるか。 と理解することによって、この第二四節はツォンヵ・︿の いう﹁依他起は遍計所執として空である﹂という趣旨の ものとしてみなさなくてはならない。そして、三項目の 証明も﹁菩薩地﹄を背景として纒められたのであろう。 そして、アスヴァブハーヴァの注釈のそれも、そのよ うな観点からのものとあらためて理解されてくるのであ づ︵︾○ 一方、ヴァス、ハンドゥの注釈に見られるように、依他 起は遍計所執と同体でないという観点から三項目の理証 が理解される行き方も注意しなくてはならないであろう。 ヴァスゞハンドゥの﹁三十頌唯識論﹄の、その第二二偶の 前半において湿円成実は依他起と別異でもなければ、別 異でもないのでない、と述べ、円成実は依他起と別異で あるとすれば、依他起が遍計所執として空ではないこと になるとも解明されているのであるが、ヴァスゞハンドゥ は、﹃摂大乗論﹄第二章第一七節で叙述されている、三 性はそのあり方が相互に異なるのか、それとも異ならな いのか、という方向に向けた所説として、改めて、この 第二四節を解明したものと理解されなくてはならないの であろう。 以上、﹃摂大乗論﹄のこの一節を通じて、アサンガ自 らの仏教開顕ということと、アサンガからヴァスゞハンド ゥヘの琉伽行唯識学の形成の一端がうかがわれてくるの である。 本稿は一九九○年一月一六日の大谷大学仏教学会例会にお いて発表したものに加筆したものである。 50

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