• 検索結果がありません。

「看話と黙照」統合的理解への試論 : 大慧宗杲の黙照禅批判を中心に

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "「看話と黙照」統合的理解への試論 : 大慧宗杲の黙照禅批判を中心に"

Copied!
31
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

「看話と黙照」統合的理解への試論

──

 

大慧宗杲の黙照禅批判を中心に

 

──

花園大学大学院文学研究科

     

  

(道

 

海)

はじめに

 

 

問題の所在

 

本稿は、朝鮮・日本・ベトナムなど、東アジア全域の文化の中で、独自の伝統と安定的優位性を形成した 中国宋朝禅の二大思潮である看話禅と黙照禅の修禅形態に焦点を当て、就中、大慧宗杲 (一〇八九~一一六三) の 黙 照 禅 批 判    に 絞 り 込 み 、 特 に 、 大 慧 の 黙 照 批 判 対 象 の 分 析 を 通 じ て 、「 看 話 と 黙 照 」 の 全 体 像 を よ り 明 確にしようとするものである。 近年、看話禅と黙照禅を専門主題とした研究において、この分野を主導した研究者は、柳田聖山、石井修 道 の 両 氏 で あ る。 特 に、 柳 田 氏 の「 看 話 と 黙 照 」 ( 一 九 七 五 ) は、 大 慧 の 黙 照 禅 批 判 の 対 象 を 真 歇 清 了 ( 一 〇 八 八 ~ 一 一 五 一 ) と 限 定 し、 黙 照 禅 の 性 格 を 鮮 明 に し た [ 以 下、 真 歇 批 判 説 と 略 称 ] 。 柳 田 氏 以 前 に お い て は、 大 (1)

(2)

慧 が 黙 照 邪 師 と 批 判 し た 禅 者 は 宏 智 正 覚 ( 一 〇 九 一 ~ 一 一 五 七 ) で あ る と 知 ら れ て い た [ 以 下、 宏 智 批 判 説 と 略 称] 。しかし今日では、柳田の研究成果によって、大慧の批判対象は真歇清了という説が定説となっている。 一方、石井氏は、柳田の真歇説に賛同し、その詳細な補充説明を施すと共に、自らも新たな研究成果を提 示した (石井、一九七四/一九七六) 。 本稿では、このような先達の学説を基に「大慧宗杲黙照禅批判」の検討を中心に、この二つの修禅形態に ついての分析を通じて「看話と黙照」の統合的理解を試みる。

  「宏智批判説」の検証

もともと、大慧の黙照禅批判の対象者は宏智正覚であるというのが、凡そ学界の定説であった。その理由 は「黙照」という用語が、元来宏智の「黙照銘」に由来するので、宏智の思想に反論するために大慧は「黙 照」という用語を使い始めたと推察したためである。 事 実、 建 炎 三 年 ( 一 一 二 九 ) 、 宏 智 三 十 九 歳 以 前 に 成 立 し た「 黙 照 銘 」 は、 大 慧 が 本 格 的 に 黙 照 批 判 を 始 め る紹興四年 (一一三四) 以前の紹興元年 (一一三一) に流行していたので    、 慧 は こ の 頃 す で に 宏 智 の 「 黙 照 」 思想を理解していたと見て取れる。果たしてこの宏智の思想から大慧が批判するような「坐禅固執」と「妙 悟否定」という要素が見出せるであろうか。まずは、 「黙照銘」の内容から検証していくことにしたい。 (2)

(3)

「黙照銘」

   ( 1・ 2句)黙黙忘言、昭昭現前。黙々として言を忘じ、昭々として現前す。 ( 3・ 4句)鑑時廓爾、体処霊然。鑑する時廓爾たり、体する処霊然たり。 ( 5・ 6句)霊然独照、照中還妙。霊然として独照す、照中還た妙なり。         …(中略)… ( 37・ 38句)万象森羅、放光説法。万象森羅、光を放って説法し、 ( 39・ 40句)彼彼証明、各各問答。 彼 それぞれが 彼 証明し、 各 それぞれが 各 問答す。 ( 41・ 42句)問答証明、恰恰相応。 (その) 問答証明、 恰 あ き 恰 ら か に相応す。 ( 43・ 44句)照中失黙、便見侵凌。照中黙を失せば、便ち侵凌を見る。 ( 45・ 46句)証明問答、相応恰々。 (その) 証明問答、相応すること 恰 あ き 恰 ら か なり。 ( 47・ 48句)黙中失照、渾成剰法。黙中照を失せば、渾て剰法と成る。 ( 49・ 50句)黙照理円、蓮開夢覚。黙照理 円 まどか にして、蓮開き夢覚む。         …(中略)… ( 55・ 56句)黙照至得、輸我宗家。黙照至り得て、我が宗家に 輸 か え る。         …(中略)… ここで、1・2句と 49・ 55句などの「黙照」の黙は、寂黙を指し、照は照用をいう。その寂黙の「定」と 照 用 の「 慧 」 が 相 互 に 一 如 と な る と き 黙 照 禅 と し て 機 能 す る。 し か も 宏 智 は、 49・ 50句 に お い て、 「 黙 照 一 (3)

(4)

如の世界が理法として円満となる時、蓮の花が開き夢覚める」 (黙照理円、蓮開夢覚) と説く。 こ れ は 明 ら か に 悟 境 を 説 い た も の で 特 に 坐 禅 に お け る「 黙 而 常 照 」 ( 寂 黙 に し て、 そ の 用 は 常 に 万 物 を 照 ら し て 自 在 で あ る ) を 巧 み に 描 写 し て い る こ と が わ か る。 す な わ ち、 「 寂 黙 」 は 自 性 の 体 で あ り、 「 常 照 」 は 自 性 の 用の属性である。それは、長水子璿 (九六五~一〇三八) の『首楞厳義疏註経』巻四に、 或いは「寂にして常に照す」が故に「妙明」と称し、 「照して常に寂す」が故に「明妙」と曰うべし。 此 れ 法 界 一 相 の 真 覚 無 二 を 顕 す。 円 覚 に 亦 た 云 く、 「 一 切 を 覚 さ と る が 故 に、 円 覚 普 照、 寂 滅 に し て 無 二 な り」と    。 と 示 す よ う に、 「 寂 黙 」 の 体 と「 常 照 」 の 用 が 一 如 と し て 極 り 得 て こ そ、 法 界 一 相 の 真 覚 無 二 を 顕 す の で あ る。 つ ま り、 こ れ は 55・ 56句 の「 黙 照 極 り 得 て こ そ、 我 が 本 家 に 到 る 」 ( 黙 照 至 得、 輸 我 宗 家 ) と 一 脈 相 通 ず る。さらに着目すべきは 41・ 42・ 43・ 44・ 45・ 46・ 47・ 48句の修禅に於ける「寂々」と「惺々」の絶妙なバ ランス感覚の強調である。この「定慧」のバランス感覚は修禅上極めて重要であり、ことに「寂静」に沈溺 し、 「無記」に陥りやすい黙照の禅者にとっては特に繊細な点検を必要とする。このような黙照禅の要諦を、 四言七十二句・二百八十八字からなる比較的短編な銘として著すには、宏智自身の徹底した境地と、そこか ら滲み出る無碍自在な言語表現なくしては不可能である。このように「黙照銘」では、大慧が批判するよう な要素を見出すことは容易ではない。また『宏智録』に於いても、 黙 黙 と し て 自 在、 如 如 と し て 縁 を 離 れ、 豁 明 と し て 塵 無 く、 直 下 に 透 脱 す。 元 来、 箇 の 処 に 到 る に (4)

(5)

て、 是 れ 今 日 新 た に 有 る 底 も の に あ ら ず。 ( 覚 り は ) 旧 ふ る 家 く 広 大 劫 以 前 従 り、 歴 歴 と し て 昏 か ら ず、 霊 霊 と し て独り輝く。恁麽なりと 雖 い え ど 然 も、 (修行は) 為さざるを得ず    。 と、 い う よ う に「 黙 黙 」 の 固 執 で は な く「 黙 黙 」 の 自 在 で あ る。 し か も、 「 豁 明 と し て 塵 無 く、 直 下 に 透 脱 す」と、言い切っている。したがって、宏智が唱える黙照禅の本意は、大慧が批判するような「坐禅への固 執・妙悟の否定」というような要素は希薄であるといえる。 但し、宏智は妙悟を否定した訳ではないが、妙悟を前面に押し出すことはしない。それは、あくまで宗風 の違いということであって、禅宗の宗旨を奉ずる点では同じである。また宏智の思想には、現実の迷妄の世 界よりも本来具足の本性とその顕現の世界に重心が置かれているという意味では、松本史朗氏が主張する絶 対 的 一 元 論 の 立 場 で あ る「 仏 性 顕 在 」 の 系 譜 に 属 す る と も い え る    。 そ の 例 を 挙 げ れ ば 、「 黙 照 銘 」 の 37・ 38・ 39・ 40句において、 万象森羅、放光説法。   万象森羅、光を放って説法し、 彼彼証明、各各問答。   彼 それぞれが 彼 証明し、 各 それぞれが 各 問答す。 と い う 語 か ら も、 「 万 象 森 羅 」 が 悉 く 光 明 を 放 ち「 説 法 」 し て い る と い う「 無 情 説 法 」 を 表 し て い る こ と が 窺える。つまり、仏性が何等かのものに内在して覆いかくされることなく、個々の現象的事物において惺々 と 顕 現 し て い る と い う「 仏 性 の 顕 在 」 を 極 め て 明 瞭 に 表 現 し て い る    。 こ の よ う な 観 点 か ら 捉 え た 場 合 、 宏 智の禅は徹底した黙照一如の打坐による「本証自覚」に裏付けされた禅であり、大慧が批判するような「悟 (5) (6) (7)

(6)

りの体験」までをも撥無するものではないといえる。 以上、 「黙照銘」を中心に宏智の思想を概括したが、このような内容を踏まえた場合、 「大慧の黙照批判の 対象者が宏智である」と断定するには慎重を期すべきである。たしかに、双方の間に見識の相違があったこ と は 事 実 だ が、 大 慧 と 宏 智 と は 普 段 か ら 道 友 と し て 親 交 が 厚 か っ た。 そ の 一 例 を 挙 げ れ ば、 紹 興 二 十 六 年 ( 一 一 五 六 ) 、 配 流 刑 を 赦 さ れ て 復 僧 し た 大 慧 を 育 王 山 住 持 に 推 薦 し た 人 が 宏 智 で あ り、 同 年 十 一 月 に は、 大 慧 の 明 州 報 恩 光 孝 禅 寺 の 開 堂 法 会 で 白 槌 師 と し て 随 喜 し て い る    。 し か も 、 宏 智 示 寂 の 際 、 大 慧 に 書 簡 を 送 っ て 後 事 を 嘱 し、 そ れ に 対 し て 大 慧 が 葬 儀 を 司 っ た こ と は 周 知 の 通 り で あ る    。 し た が っ て 、 以 上 の よ う な事例からしても、 「大慧の黙照禅批判の対象者が宏智正覚」とする主張には無理がある。

  「真歇批判説」の検証

次に、現在、学会の定説とされる「真歇批判説」についてである。まず、真歇の年譜であるが、真歇清了 は、 元 祐 三 年 ( 一 〇 八 八 ) 、 四 川 省 西 川 道 綿 陽 県 に 生 ま れ、 十 一 歳 の 時 に 出 家、 成 都 の 大 慈 寺 に お い て 経 論 を 学び、のちに鄧州 (河南省南陽府鄧県) の丹霞子淳に嗣法する。宣和五年 (一一二三・三十六歳) には、江蘇省淮 揚 道 儀 微 県 の 長 蘆 崇 福 禅 院 に 住 し、 建 炎 四 年 ( 一 一 三 〇・ 四 十 三 歳 ) に は、 雪 峰 山 に 住 し た。 紹 興 四 年 ( 一 一 三 四・ 四 十 七 歳 ) に は、 法 兄 で あ る 慧 照 慶 預 に 雪 峰 山 崇 聖 禅 寺 住 持 を 移 譲 し て、 翌 五 年 ( 一 一 三 五・ 四 十 八 歳 ) 雪 峰の東庵に退居し、同六年 (一一三六・四十九歳) 十月には、阿育王山、同七年 (一一三七・五十歳) には、建康 府 蒋 山、 同 八 年 ( 一 一 三 八・ 五 十 一 歳 ) 四 月 に は、 温 州 龍 翔 興 慶 の 合 額 禅 院 ( 後 の 江 心 山 龍 翔 寺 ) 、 さ ら に、 同 十 五 年 ( 一 一 四 五・ 五 十 八 歳 ) 五 月 に は 径 山 に 住 し た。 そ し て、 紹 興 二 十 一 年 ( 一 一 五 一 ) 十 月 一 日、 真 歇 は 六 十 (8) (9)

(7)

四 歳 で 示 寂 し た。 紹 興 二 十 三 年 ( 一 一 五 三 ) 八 月、 高 宗 よ り「 悟 空 禅 師 」 と い う 諡 号 と「 静 照 之 塔 」 と い う 塔号を賜った。 (『明州天童景徳禅寺宏智覚禅師語録』巻四「崇先真歇了禅師塔銘」 ) 一方、真歇と宏智の関係であるが、まず、具足戒を受けたのは宏智が先である。しかし、嗣法と出世時期 では真歇が先ということで、主に真歇が法兄、宏智が法弟という位置づけとなっている場合が多い。 年齢上では法兄の慧照慶預より十歳年少で宏智より三歳年長、大慧よりも一歳年長である。それでは、真 歇批判説の根拠とされてきた項目について、順次検討を加えていく。 ①「 昔 日 了 老、 専 ら 人 を し て 坐 禅 せ し む。 杲 老 以 て 然 ら ず と 為 し、 「 正 邪 論 」 を 著 し て 之 を 排 す。 其 の 後杲天童に在って、 了老乃ち一向に師として尊んで礼拝す 。杲遂に之と 同 なかよく し、死に及んで之が為に銘 を作す」 。問う、 「渠既に清浄寂滅を 要 ほ っ す、如何が坐禅せざる」 。曰く、 「渠も又た「悟」有らんことを 要 ほ っ 得 す。杲は 旧 も と甚だ子韶を喜ぶも、南に帰るに及んで、書を 貽 お く って之を責む。 以 お も え 為 らく前日と同じ からずと。今其の小師、杲の文字を録するに、正邪論を去り子韶に与うる書も亦た節却す」    。   (『朱子語類』巻百二十六) こ の 條 は、 朱 熹 門 下 の 高 弟 で あ る 鄭 可 学 ( 一 一 五 二 ~ 一 二 一 二 ) が、 紹 煕 二 年 ( 一 一 九 一 ) に 晩 年 の 朱 子 ( 一 一 三 〇 ~ 一 二 〇 〇 ) か ら 聞 い た 話 を 記 し た も の で あ る が    、 大 慧 が『 正 邪 論 』 を 撰 し て 黙 照 禅 を 批 判 し た こ と に つ い て は あ る 程 度 事 実 と し て 論 証 で き る    。 し か し、 大 慧 は 天 童 山 に 住 し た こ と も 真 歇 の 塔 銘 を 撰 し た こ と も 無 い。 天 童 山 に 住 し て 真 歇 の 塔 銘 を 撰 し た の は 宏 智 で あ り、 真 歇 示 寂 の 時、 大 慧 は、 梅 州 ( 広 東 省 ) に おいて配流中である    。 (10) (11) (12) (13)

(8)

したがって、朱子あるいは鄭可学が宏智と大慧を混同していて信憑性があるといえない    。 ②屏山少年にして、能く挙業を為し莆に官たりしとき、塔下にて一僧の、能く定に入ること数日なるに 接す。後に乃ち了老に 見 ま み え、家に帰りて儒書を読むに、 以 為 も えらく仏教と合致すと    。   (『朱子語類』巻百四) 劉 屏 山 ( 一 一 〇 一 ~ 一 一 四 七 ) は、 字 が 彦 沖( 仲 ) で、 若 か り し 時 の 朱 子 の 師 で あ る。 一 一 三 四 年、 劉 屏 山 は福州雪峰に官吏として赴任し、雪峰山に住していた真歇に接見する。劉屏山は、以後、兄、劉彦修ととも に 大 慧 に 参 ず る こ と に な る が、 次 の『 大 慧 書 』「 答 劉 宝 学 」 で は、 大 慧 が 黙 照 邪 禅 に 陥 っ て い る 彦 沖 ( 劉 屏 山) を強く憂慮している内容である。 近年より已来、禅道仏法は、衰弊これ甚だし。 有 あ る し ゅ 般 の杜撰長老は、根本自ら所悟無く、業識茫茫とし て、本の拠る可き無く、実頭の伎倆の、学者を収摂する無きに、一切人をして渠の如くに相似て、黒漆 漆地にして、 緊 か た く眼を閉却し、喚んで「黙して常に照らす」と作さしむ。彦沖、此の輩に教壊され了わ る。 苦 に な が る に か が な し 苦 い な か り な だ    。 つ ま り、 ② の 記 述 に お い て、 一 一 三 四 年、 彦 沖 が 福 州 雪 峰 ( 莆 田 ) の 官 吏 で あ る 時、 雪 峰 山 に 住 し て い た 真歇に 見 ま み えたとするが、それをもって、上の「答劉宝学」で大慧が批判した「杜撰長老」が真歇であると断 定するには慎重を要すべきである。たしかに、大慧がいう「黙して常に照らす」という語は黙照の宗風を表 (14) (15) (16)

(9)

す が、 そ れ は 真 歇 を は じ め と す る 曹 洞 系 以 外 の 禅 者 に も 用 い る 語 で あ り    、 あ く ま で 大 慧 側 か ら 見 た 主 張 で あ る こ と を 見 落 と し て は な ら な い。 次 に 大 慧 は 紹 興 四 年 ( 一 一 三 四 ) 、 真 歇 の 請 を 受 け て 雪 峰 山 を 訪 問 し 普 説 を行う。 ③只だ真歇の如き、 尋 こ の ご ろ 常 の学者、多くは目前の鑑覚を認め、知見を求め、解会を覓めて、歇む時の無き を見て、 已 や むを得ずして人をして劫外に承当せしむ。実に拠って論ずれば、這の一句も已に是れ多く し了わる。此れは是れ一期の方便、月を指して人に示すが如し。…(中略)… 適 い ま 来 真歇、一段の公案 未了なる有り、 雲 わ た し 門 が 他 か れ の為に 結 ケ リ 絶 を 付 却 け る せん    。   (『大慧語録』巻十三「師到雪峯値建菩提会請普説」 ) こ こ で 大 慧 は 普 説 に お い て、 「 真 歇 は、 修 行 者 が 現 実 の 分 別 迷 妄 の 世 界 に 執 着 し て い る の で 仕 方 な く 方 便 と し て、 絶 対 的 無 分 別 の 世 界 ( 劫 外 ) を 強 調 し た 」 と 言 い、 そ の よ う な 教 え は、 「 た と え 方 便 と は い え ど も、 余分な無駄事であり、さらに、真歇にはまだ分かっていない公案がある」と説く。 結 局、 大 慧 は 紹 興 四 年 ( 一 一 三 四 ) の 三 月 か ら 秋 頃 の 間 に 真 歇 の た め に 普 説 を 行 い、 一 方 で『 弁 邪 正 説 』 を著して黙照禅批判を開始したという。しかし、たとえ大慧の批判対象が真歇であったとしても、大慧が黙 照禅を非難し始める紹興四年に、その対象である真歇の請に応じて普説を行うことが果たして可能であろう か。 普 説 の 内 容 も、 大 慧 が 真 歇 を 認 め な い よ う な 箇 所 も 見 ら れ る が、 全 体 的 に 友 好 且 つ 称 賛 す る 内 容 で あ る。その一部分を示せば以下の通りである。 爾 なんじ 看 よ。 他 か の 真 歇、 禅 を 説 く に、 都 す べ て 計 較 せ ず、 学 人 の 問 処 に 拠 よ り て、 口 に 信 ま か せ て ( 自 在 に ) 便 ち 説 (17) (18)

(10)

き、 更 に 滞 礙 無 き こ と、 自 然 に 風 の 水 を 吹 く が 如 し。 只 だ 他 か れ 実 見 実 説 す る が 為 に、 ( あ た か も ) 普 賢 菩 薩 の仏華荘厳三昧より起ち、普慧菩薩、雲の興るが如く二百の問を致すに、普賢菩薩、瓶の瀉するが如く 二 千 ( の 答 え ) を 以 て 酬 こ た う る が 如 し。 何 ぞ 曽 て ( 真 歇 は ) 思 量 計 較 し 来 た ら ん。 …( 中 略 ) … 雲 門 今 夏、 広 因 に 在 り て、 個 の 灯 と う 心 し ん ・ 皀 さ い 角 か ち ( 何 れ も 漢 方 薬 ) の 舗 み 子 せ を 開 き ( 開 堂 し ) 、 豊 倹 の 家 風 に 随 い、 些 か 粗 禅 を 説く。室中、学者に一句を問い、 如 も し思量計較せず、天真自然にして、一句を 道 い い得るも、更に一拶を 与え、擬議し来たらざるも、劈脊に一棒す。別に 細 細かいこと 膩 無し。忽然として一個半個を打発して、却って雪 峰山に上来して大炉鞴 (真歇) に就かしめば、事、同一家ならん    。   (『大慧語録』巻十三「師到雪峯値建菩提会請普説」 ) ここで大慧は、真歇が説く禅を修行者の機根に応じて自在に接化し、只だ「実見実説」する明眼の宗師で あると評している。 そ し て、 そ れ は 恰 も 普 賢 菩 薩 が 普 慧 菩 薩 に 対 し て 自 在 に 問 答 応 酬 す る よ う で あ る と 賛 嘆 す る。 さ ら に は、 自身の門人の中で、見込みのある有能な人材がいれば、真歇会下に送って教えを受けさせるとまで言ってい る の で あ る    。 こ の よ う な 結 果 を 要 約 す れ ば 、 ① ・ ② の 根 拠 は い わ ゆ る 間 接 証 拠 で あ り 、「 真 歇 批 判 説 」 の 決定的確証とはなり得ない。 (19) (20)

(11)

  「大慧宗杲黙照禅批判」真相への試論

本章では、これまでの宏智・真歇批判説の検討を踏まえ、総括的に「大慧黙照禅批判」の真相について検 討 す る。 ま ず は、 「 大 慧 黙 照 禅 批 判 」 の 対 象 に つ い て で あ る が、 一 般 に「 宏 智 説 」 に し ろ、 「 真 歇 説 」 に し ろ、大慧は宏智や真歇を狙って批判を行ったものと理解されている。しかし、この主張を論証できる実証的 根拠は不十分である。もし、宏智や真歇が批判の対象ならば、大慧の著作中により多くの証拠が出てきても お か し く は な い。 と こ ろ が、 大 慧 が、 宏 智 と 真 歇 の 名 を 直 接 取 り 上 げ て 問 題 提 起 し て い る の は 次 の 一 箇 所 (①・②) ずつしか見出せない。 ① 禅 参 禅 者 た ち よ 和家 、若し決定して妙悟有りと信ぜば、這裏に 来 き た って参ぜよ。若し悟は是れ枝葉と信ぜば、却って 別処に往きて参ぜよ。 妙 わ た し 喜 は人を瞞ぜず。這裏の隣峰に天童和尚有り、是れ第一等の宗師なり。自家 行脚の時、 他 か れ は已に立僧し 了 お われり。又た (天童和尚の) 出世の高弟の這裏に在る有り。你、但だ去っ て 他 か れ に問え。若し総て悟は是れ枝葉と 道 い わば、我敢えて 道 わん、他も是れ 個 わ か ら ず や 瞎漢 なりと    。   (『四巻本普説』巻二「方敷文請普説」 ) ②定光大師の如きは、往年、歇長老の処に在って、 也 ま た悟有るを信ぜず。 自 わ た し 家 、雪峰に到りて一夜小参 す る に 及 ん で    、 忽 然 と し て 疑 着 し 、 夏 夏安居 を 破 り て 広 因 に 走 来 す。 猶 お 自 ら 無 迷 無 悟 を 主 張 す る も、 山 僧に痛罵せられ、 方 始 じ めて非を知る    。   (『四巻本普説』巻三「方敷文請普説」 ) (21) (22) (23)

(12)

ま ず、 ① で は、 紹 興 八 ( 一 一 三 八 ) 年、 宏 智 は 勅 旨 に よ り、 一 ヶ 月 の 間、 天 童 山 を 離 れ て 臨 安 府 の 霊 隠 寺 に住す    。この時、大慧は近隣の径山能忍禅院の住持であった。この普説はその時に示されたものである。 普 説 に お い て 大 慧 は、 「 天 童 和 尚 有 り て、 是 れ 第 一 等 の 宗 師 な り 」 と、 宏 智 を 優 れ た 禅 僧 と し て 一 目 置 い て い る。 さ ら に、 こ こ で 注 視 す べ き は、 大 慧 は「 他 も 是 れ 個 瞎 漢 」 と 一 見、 宏 智 を 批 判 し て い る か の よ う で あ る が 、 し か し 、 そ れ は 寧 ろ 宏 智 の 深 意 が 「 妙 悟 」 の 重 要 性 を 十 二 分 に 把 握 し て い る と 承 知 し た 上 で、 大衆および宏智門下の者たちに「宏智の深意」を曲解しないように注意を促しているのである    。 次 に、 ② で は、 真 歇 門 下 で あ っ た「 定 光 大 師 」 こ と 浄 居 妙 道 が、 「 悟 有 る を 信 ぜ ず 」 と あ る が、 実 は 真 歇 は宏智と同様「妙悟」の重要性を認知していた    。 しかし、ここで認めざるを得ないのは、宏智、真歇の黙照の家風、そして、広義的には坐禅を重視する曹 洞の宗風は、一つ間違えれば寂黙の世界に安住して「無修無悟」の自然外道の禅と化す危険性を孕んでいる 点である。事実、大慧にとっての重要事項は、宏智、真歇がどのような認識を有していたのではなく、妙道 や劉彦沖 (劉屏山) などの出家在家の修行者たちに、そのような思いを抱かせたということに他ならない。 このように、猶お自ら「無迷無悟」と「妙悟」を否定する妙道の態度を目の当たりにした大慧は、あえて 痛罵を浴びせてまでも「妙悟」の重要性を承知させねばならなかったのである。 以 上、 こ れ ら を 総 体 的 か つ 客 観 的 に 捉 え た 場 合、 大 慧 の 批 判 対 象 者 を 宏 智 や 真 歇 に 断 定 す べ き で は な い。 あくまで大慧の黙照禅批判の基準は「坐禅固執と妙悟否定」にその重点が置かれるのであって、それは看話 禅の顕彰と表裏する。そのような前提に立った上で、一つ言える事は、当時の福建地方には、大慧が黙照邪 師と蔑む禅者が多かったということである。 (24) (25) (26)

(13)

而 い ま 今 諸方に 一 あ る 般 種 の黙照邪禅有り。……此の風、往年の福建路に極めて盛んなり。 妙 わ た し 喜 紹興の初め、 閩 福 建 に 入 り 庵 に 住 す る 時 、 力 つ と め て 之 を 排 す 。 之 を 「 仏 の 慧 命 を 断 ず 」 と 謂 い う 。 千 佛 出 世 す る も 懺 悔 を 通 ぜ ず    。   (『大慧普説』巻十七「銭計議請普説」 ) 事 実、 紹 興 四 年 の 同 時 期、 同 場 所 に お い て、 大 慧 は 別 の 禅 者 に 対 し て も 批 判 を 加 え て い る。 そ の 禅 者 と は 、 同 じ 圜 悟 克 勤 会 下 で 後 に 大 慧 の 法 嗣 と な る 玉 泉 曇 懿 ( 生 没 年 不 詳 ) と 阿 育 遵 僕 ( 生 没 年 不 詳 ) の 両 者 で あ る    。 さらに、曇懿・遵僕以外にも大慧の攻撃の度合いからして、黙照邪師が相当蔓延していたと推察できる    。 以上の検討から判ることは、 「大慧黙照禅批判」の真相究明において鍵となるのは、 「看話と黙照」の実践 思想とその修禅形態の明確化である。したがって、以下この二つの実践思想と修禅形態の分析を通じて「看 話と黙照」の全体像を明確にしていくことにする。   看話禅の修禅形態   看話禅の概要   宋代禅宗の特色ともいえる公案禅すなわち看話禅は、北宋期に盛行する「公案批評」と「徹底した体験主 義 」 の 止 揚 に よ り 南 宋 代 に 大 成 さ れ た 修 禅 法 で あ る。 黄 龍 慧 南 ( 一 〇 〇 二 ~ 一 〇 六 九 ) や 五 祖 法 演 (?~ 一 一 〇 四 ) 、 圜 悟 克 勤 ( 一 〇 六 三 ~ 一 一 三 五 ) に そ の 萌 芽 を 見 る こ と も 出 来 る が、 厳 密 に い う な れ ば、 大 慧 宗 杲 に よ っ て 始 め て 明 確 に 方 法 論 と し て 認 識 さ れ、 無 門 慧 開 ( 一 一 八 三 ~ 一 二 六 〇 ) に よ っ て 完 全 に 定 型 化 さ れ た 修 禅 法 である。この修禅の最大の特徴は、公案を用いて修行者に疑団を起こさせ、その疑団の透過により開悟せし (27) (28) (29)

(14)

める始覚門的修禅形態にある。 大慧は『大慧語録』巻二十六「答富枢密」第一書において、看話禅の概要を次のように端的に示す。 然れども切に心を存して破るるを待つべからず。若し心を破るる処に存せば、則ち永劫も破るる時有 る無し。但だ妄想顛倒の心、思量分別の心、生を好み死を 悪 に く むの心、知見解会の心、静を 欣 よろこ び閙を厭う の 心 を 将 も つ て、 一 時 に 按 下 し、 只 だ 按 下 す る 処 に 就 い て 箇 の 話 頭 を 看 よ。 僧、 趙 州 に 問 う、 「 狗 子 に 還 は た 仏性り有や」 。州云く、 「無」と。此の一字子は、乃ち是れ許多の悪知悪覚を摧くの器仗なり。有無の会 を作すを得ざれ、道理の会を作すを得ざれ、意根の下に思量卜度するを得ざれ、揚眉瞬目の処に垜根す るを得ざれ、語路上に活計を作すを得ざれ、無事甲裏に颺在するを得ざれ、挙起する処に承当するを得 ざ れ、 文 字 中 に 向 お い て 引 証 す る を 得 ざ れ。 但 だ 十 二 時 中、 四 威 儀 内 に、 時 時 に 提 撕 し、 時 時 に 挙 覚 せ よ。 「 狗 子 に 還 は た 仏 性 有 り や 」。 云 く、 「 無 」 と。 日 用 を 離 れ ず、 試 み に 此 く の 如 く 工 夫 を 做 し 看 よ。 月 の十日にして、便ち自ら見得せん    。 つ ま り、 「 看 話 禅 」 と は、 特 定 の 話 頭 に 意 識 を 集 中 し て 疑 団 を 形 成 し、 そ の 疑 団 を 限 界 点 に ま で 疑 結 さ せ ることによって、論理を超えた意識の大破、所謂「忽然大悟」せしめようとする修禅法である。 したがって、日用の行住坐臥に於いても話頭による工夫を間断なく継続し、一切の論理的把握は厳しく諫 める。大慧は、鄧伯寿に与えた法語の中で、 「庭前柏樹子」の話を採り上げ次のように諭す。 但 た だ 只 、箇の古人の入道の話頭を看よ。僧、趙州に問う、 「如何なるか是れ祖師西来意」と。趙州云く、 (30)

(15)

「 庭 前 の 栢 樹 子 」 と。 僧 云 く、 「 和 尚、 境 を 将 も つ っ て 人 に 示 す こ と 莫 か れ 」 と。 趙 州 云 く、 「 我 れ 境 を 将 も つ て 人 に 示 さ ず 」 と。 僧 云 く、 「 既 に 境 を 将 も つ て 人 に 示 さ ざ れ ば、 却 っ て 如 何 な る か 是 れ 祖 師 西 来 意 」 と。 趙 州 只 だ 云 く、 「 庭 前 の 柏 樹 子 」 と。 其 の 僧、 言 下 に 於 い て 忽 然 と し て 大 悟 す。 伯 寿、 但 だ 日 用 の 行 住 坐 臥 の 処、 至 尊 に 奉 侍 す る 処 に、 念 念 間 断 せ ず、 時 い つ も 時 提 撕 し、 時 い つ も 時 挙 覚 せ よ。 ( か く て ) 驀 然 と し て「 柏 樹 子」上に 向 お いて心意識、気息を絶てば、便ち是れ徹頭の処なり    。   (『大慧語錄』巻二十三) こ こ で「 話 頭 を 看 る 」 と は 疑 団 に よ る 話 頭 の 参 究 で あ り、 「 但 だ 日 用 の 行 住 坐 臥 の 処 」 に 於 い て、 間 断 な く話頭の「疑」を疑結させることで意識を極限にまで追い込み、その「疑」の破裂により忽然大悟せしめる のである。このように大慧は公案を整合的に理解する「死句」を拒み、只だ「活句」に参ずる看話禅を世に 大成させたのである。 ところで、大慧が生きた宋代の思想的風潮は、おもに儒仏一致説や儒仏道三教の合一説、文学面では詩禅 一味論が流行した    。仏日契嵩の『輔教編』などは、 こうした宋代の時代的雰囲気から生まれたものである。 そ し て、 こ の 時 代 の「 禅 」 は、 も は や 禅 僧 の み の 専 売 特 許 で は な く な り、 「 士 大 夫 文 化 」 と い う 士 大 夫 と の交流の上に成立し、一層大衆化されていく。それは、禅本来のもつ能動性により、社会との交渉を積極的 に働きかけることによって、儒教哲学や、漢詩などの様々な文化的事象においても影響力を拡大していった のである。大慧が黙照禅を批判し、積極的に時流に関与していったのも、このような現実と向き合わざるを 得なかった社会政治的情勢が、少なからず関与していたと分析することができる。 宋代の禅を彩る看話禅は、このような時代的要求から生れ展開していくのである。 一方、黙照禅を大成させた宏智の禅の特色は、一切の作為をともなわない無所得無所悟の坐禅にその比重 (31) (32)

(16)

がおかれている。それは、唐代禅が時代を降るしたがって、 「作用」を過度に重じることによる無意味な棒 ・ 喝の機関の乱用に対する批判により導かれたもので、仏教の伝統的な坐禅修行に完結態を認める本覚門的禅 思 想 で あ っ た    。 こ の よ う な 本 覚 門 的 基 底 を な す 黙 照 禅 は 、 徹 底 し た 坐 禅 修 行 と 行 事 綿 密 な 宗 風 を 鼓 吹 す る 反面、 「定」的性格が強く、 罷 ま か り間違えば自然外道に陥りやすい危険性も孕んでいたのである。 大慧は、このような妙悟を撥無し、安逸に定に固執して枯木禅に陥っている一部の亜流を見て「黙照邪師 輩」といって痛烈な批判を浴びせる。 近年の叢林に一種の邪禅有り、病に執して薬と為し、自ら曽て証悟の処有らざるも、而も悟を以て建 立と為し、悟を以て接引の詞と為し、悟を以て第二頭に落つと為し、悟を以て枝葉辺の事と為す。自己 既に曽て証悟の処有らざるに、亦た他人に証悟する者有るを信ぜず。一味に空寂頑然として無知なるを 以て、喚んで威音那畔、空劫已前の事と作す。日を逐いて両頓の飯を噇却し、事、理会せずして、一向 觜 ろ と じ 盧 都 地 に 打 坐 し、 之 を 休 し 去 り 歇 し 去 る と 謂 う。 纔 わずか に 語 言 に 渉 れ ば、 便 ち 喚 ん で 今 時 に 落 つ と 作 し、 亦 た 之 を 児 孫 辺 の 事 と 謂 う。 這 の 黒 山 下 鬼 窟 裏 底 を 将 も つ て 極 則 と 為 し、 亦 た 之 を 祖 父 従 来 門 を 出 ず と 謂 う。 己 の 愚 を 以 て、 返 っ て 他 人 を 愚 に す。 釈 迦 老 子 の 所 謂 る、 「 譬 た と え ば 人 有 り、 自 ら 其 の 耳 を 塞 い で 高 声 に 大 い に 叫 び、 人 の 聞 か ざ る を 求 む る が ご と き 」 (『 楞 厳 経 』 巻 六 ) な り。 此 の 輩 を 名 づ け て 憐 愍 す べ き 者と為す    。   (『大慧語錄』巻二十一) こ の よ う に、 大 慧 は、 黙 照 禅 の「 邪 」 を 激 し く 誹 謗 し て、 「 悟 を 以 て 第 一 と 為 す 」 と い う 開 悟 の 重 要 性 を 示すことで看話禅の「正当性」を顕彰していった。 (33) (34)

(17)

さらに、大慧はその大悟を徹底せしめるために間断なく話頭を挙し、疑団に疑団を深めていくよう次のよ うに諭す。 某、口業を惜しまず、努めて此の弊を救う。今、 稍 や や非を知る者有り。願わくば公、只だ疑情破れざ る処に 向 お いて参ぜよ。行住坐臥に放捨するを得ざれ。僧、趙州に問う、 「狗子に 還 は た仏性有りや」 。趙州 云く、 「無」と。這の無の一字子は、便ち是れ生死の疑心を破るの妙刀なり    。   (『大慧語錄』巻二十六) このように大慧は、 日々の煩雑な日常の中でも古人の公案上に疑心を起こすことを唱え、 特に古人の「無」 の上に疑心を生ぜしめよと諭す。そして、このような無字こそ全ての「疑」を打破し、仏陀の心境と契合で きる妙刀であると説くのである。 大 慧 は さ ら に 坐 禅 の 際、 最 も 警 戒 す べ き 障 害 で あ る「 昏 こ ん じ ん 沈 」 と「 掉 じ ょ う こ 挙 」   の 克 服 法 に 於 い て も 最 良 の 処 方 箋として「狗子無仏性話」を提示する。 静 坐 の 時、 纔 わずか に 此 の 両 種 ( 昏 沈、 掉 挙 ) の 病、 現 前 す る を 覚 れ ば 但 た だ 只 狗 子 無 仏 性 の 話 頭 を 挙 げ よ。 ( さ すれば) 両種の病、力を用いて排遺するに 著 よ らざるも、当下に 怗 平 穏 無 事 怗地 ならん    。 このように、大慧は唐代の禅を不徹底な形態で継承する一部の禅客らと無事安逸禅に陥った黙照禅の亜流 に向かって、 「黙照邪禅」と痛烈に誹謗するとともに、その代案として話頭を参究せしめたのである。 したがって、大慧のこうした黙照禅批判の主要原因は、臨済・曹洞における宗派間の抗争から派生したと (35) (36) (37)

(18)

いうよりも、先述したように「妙悟」を一切認めず、ただ意識を落ち着かせるだけの精神集中に安住してい た「黙照」の亜流に対する「破邪顕正」の使命感からであった。だからこそ、そこに「悟」に至らしめる主 体的な疑団の欠如を指摘し、その対処法として看話禅を鼓吹していったのである。 こ の よ う に 大 慧 の 看 話 禅 は、 単 に 古 人 の 公 案 と し て で は な く、 「 悟 り 」 へ の プ ロ セ ス で あ り、 そ の 方 法 で あった。それは大慧以前とは違って、一つの話頭参究といった疑団による徹底した「追体験」にその目的が あったことからも頷ける。そして、そのような徹底した「体験主義」であったからこそ、国家・民族の差別 を超えて、爆発的な禅の伝播を可能にし、後世にまで広く流通する普遍性を獲得できたのである。   黙照禅の修禅形態   黙照禅の概要   中 国 宋 代 禅 を 二 分 す る 黙 照 禅 の 大 家 で あ る 宏 智 は「 黙 照 」 と い う 語 に つ い て、 黙 に あ っ て は「 無 分 別 」、 そ の 行 態 と し て は「 坐 禅 」 で あ り、 照 に あ っ て は「 知 」、 そ の 働 き と し て は「 妙 用 」 で あ る と し、 そ れ が 一 如 と な る 時「 黙 照 」 と し て 機 能 す る と「 黙 照 銘 」・ 「 坐 禅 箴 」 な ど の 語 録 の 要 所 で 説 き 示 す。 そ れ は「 信 心 銘」で、 虚明自照、不労心力、        虚明自照 0 0 0 0 、心力を労せざれ、 非思量處、識情難測    。   非思量の処、識情測り難し。 (38)

(19)

と示すように、一切空寂である「体」から自ずと顕現する「妙用」であり、自ら照らす働きとしての「本証 の 現 成 」 と い う 意 味 合 い が 籠 め ら れ て い る。 し た が っ て、 黙 照 禅 は、 「 修 証 一 如 」 と い う 本 覚 門 的 修 証 観 が その基底を成し、それ故に、悟達への方法それ自体がそのまま覚りとなり現成となるのである。これについ て宏智は次のように示す。 農は 忙 多 乱 忙 なるも、田に 挿 う ゆるの心は、是れ秋に飯と成る。却って 道 い う、 禾 い ね 熟するも場に臨まず、 祇 た 麽 だ風雨の 爛 た だ らすに 任 か 従 す。禅和子、一身は一身に 了 さ だ まり、両眼は両眼に 対 あ た る。箇中 糸 わ ず か 髪 ばかりも 初 も と より 間 へだて 無し。老狐の 涎 よだれ 尽くれば、復た何をか疑わん。再び盤中に坐すれば、弓、盞に落つ    。 こ こ で、 あ え て 心 労 を 費 や し て「 秋 の 収 穫 」 を し な い の は、 す で に 人 々 個 々 の 分 上 に 悟 り と い う「 稲 の 実」が熟しているからであり、それを只だ坐禅を通じて冷暖自知すればよいからである。 と こ ろ で、 宏 智 が こ の よ う に 説 い た 根 底 に は、 当 代 の 禅 風 が 禅 の 本 質 か ら 遠 ざ か り、 「 本 来 具 足 の 証 」 或 い は、 大 慧 側 が 説 く「 悟 を 以 て 則 と 為 す 」 と い う 本 来 の 意 義 を「 安 逸 0 0 に 煩 悩 そ の ま ま を 容 認 」 或 い は、 「 悟 を 待って 0 0 0 則と為す」という曲解に流れ、それが自然外道と知解の病弊として蔓延していたことに対する警告 の意味が内包していたと考えられる。 宏 智 の 本 意 は ど こ ま で も、 「 一 身 は 一 身 に 了 ま り、 両 眼 は 両 眼 に 対 る。 箇 中 糸 髪 ば か り も 初 よ り 間 無 し 」 と、 い う よ う に、 悟 り は 当 初 か ら 人 々 個 々 分 上 に お い て 円 満 に 具 わ っ て い る の で あ っ て、 「 意 図 的 0 0 0 」 に 悟 り を追求することはない。只だ坐禅という徹底した行を通じて、日常の威儀それ自体を悟りの顕現として醸熟 せしめることにその力点が置かれているのである。 (39)

(20)

し た が っ て、 そ の 行 は 厳 格 な 坐 禅 修 行 に 裏 付 け ら れ た「 黙 照 一 如 」 の 禅 で あ り、 「 本 証 一 如 」 の 仏 行 に 他 ならない。そのことについて宏智は、彼の「法語」で次のように諭す。 渠は修証に非ず、本来具足せり。他は汚染せず、徹底清浄なり。……寂と雖も耀き、真に中辺無く前 後 を 絶 す る に 到 り て、 始 め て 一 片 と 成 る を 得 え 、 根 根 塵 塵、 在 在 処 処、 広 長 舌 を 出 い だ し、 無 尽 の 燈 を 伝 え、 大光明を放ち、大仏事を作さん。元より他の一毫の外法を借らず、的的是れ自家屋裏の事なり    。 ここで宏智は「渠は修証に非ず、本来具足せり」と、坐禅する而今の当処がそのまま透脱した悟りの世界 であり、その世界は特に目新しいものではなく本より自身のうちに円満に具わっていると諭す。そして、そ の 働 き は 寂 と 雖 も 惺 々 と 作 用 し 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 、「 根 根 塵 塵、 在 在 処 処 」 に 大 自 在 を 得 る と い う。 し た が っ て、 宏 智 が い う 黙照禅の本義からすれば、大慧側から主張されるような単なる「寂静」という意味とは厳密に区別されなけ ればならない。 つ ま り、 宏 智 の 黙 照 禅 は、 「 坐 禅 」 そ れ 自 体 が 必 然 的 に 覚 り の 手 段 を 超 え た 覚 り の 本 質 を 意 味 す る と と も に、 「 坐 禅 」 と い う 形 式 を 以 て そ の 本 領 を 発 揮 す る の で あ る。 し た が っ て、 本 来 成 仏 に お け る 深 ま り 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 で あ る と同時にその発着点であるため、只だ仏々祖々の行に徹していく中で自己が自己として深まっていくのであ る。このような黙照打坐による絶対の境涯を宏智は次のように示す。 但だ自らの本来頭を 知 し 識 れば、彼の変化境に入るも、自然に一切処に主と作り 得 え 、把得住し、他に一 乗の 馭 お さ む可き無く、他に万行の修す可き無く、他に三界の出離す可き無く、他に万法の了ず可き無から (40)

(21)

ん。 爾 なんじ 若 し 三 界 を 出 い ず と 道 い わ ば、 則 す な わ 便 ち 三 界 を 壊 し、 爾 若 し 三 界 に 在 り と 道 い わ ば、 則 す な わ 便 ち 三 界 を 礙 げ、 爾若し万法を了ぜんと 待 ほ っ せば、則ち万法紛然たり、爾若し万法を転ぜんと 待 ほ っ せば、則ち万法、 爾 なんじ を 擾 み だ さ ん。 此 こ こ に到って直に須らく不出・不在・不壊・不礙・不転・不了・不紛・不擾にして、便ち独露底の身 を見るべし。便ち是れ灑落底の漢にして、声色裡に眠り、声色裡に坐臥するも、諸々の対待を絶し、常 に 光 明 現 前 し、 覚 華 開 発 し て 情 境 を 超 脱 す る を 妨 げ ず。 ( こ の 時 ) 始 め て 信 ず、 元 よ り 修 持 せ ず、 曽 て 染 汚せず、無量劫中、本来具足し、円陀陀地にして、曽て一毫頭許も欠少無く、曽て一毫頭許も盈余無き ことを    。 こうした「独露底」の諸々の対待を絶した境涯においては自身を束縛するものは何もない。ここでは坐禅 が そ の ま ま 覚 り ( 覚 華 開 発 ) と し て 一 切 処 に 顕 現 ( 光 明 現 前 ) し て い る。 ま さ に、 黙 照 一 如 の 仏 行 に 徹 し て い く中で自己が自己として深り、さらに、自己が自己として顕現するのである。 このように黙照禅では、行仏性[行仏威儀、威儀即仏法]としての坐禅に重きを置く。したがって、坐禅 は 威 儀 即 仏 法 を 意 味 し、 仏 法 は そ の ま ま 坐 禅 に 通 じ る。 そ れ は 宏 智 が「 黙 し て 凝 ら ず、 照 ら し て 流 れ ず 」  、 「 黙 黙 と し て 游 び、 如 如 と し て 説 く 」  、 ま た は、 「 黙 時 に 説 き、 説 時 に 黙 す 」   な ど と 示 す よ う に 、 坐 禅 の 黙 は「 妙 修 」 ( 黙 而 不 凝 ) と し て の「 証 黙 」 で あ り、 証 の 作 用 で あ る 照 は、 対 象 に 流 さ れ る こ と の な い「 不 動 の 照 」 ( 照 而 不 流 ) で あ り、 さ ら に は、 「 寂 黙 の 妙 用 」 と し て の「 説 法 」 ( 黙 黙 而 游、 如 如 而 說。 黙 時 說、 說 時 黙 ) で あったのである。 以上のように、宏智の黙照禅は只だ黙々と坐っている姿勢だけに限定されなかった。 但し、 「黙照一如」の深淵なる実修とその日常底への無窮なる展開の基本的機軸は坐禅にある。 (41) (42) (43) (44)

(22)

つまり、坐禅はそのまま覚りの顕現として身と心の構造であるが故に、あえて悟りを得ようと力まなくと も自ずから修行の必然性が具現されるのである。このように黙照の坐は、行住坐臥・見聞覚知、全ての日常 底において顕現する「黙照一如」の坐であった。さらに、宏智の黙照禅は「至游禅」と呼ばれる頗る能動的 な性格も兼備する。 「黙照銘」とほぼ同時期の作品とされる「至游庵銘」において、宏智は次のように諭す。 夫れ道人の至游は、虚極を 履 ふ み、妙明を守り、真醇を飲み、清白に住す。断崖に足を放ち、空劫に身 を転じ、一に妙存を得て、対待を亡絶す。自然に出応して方無きこと、谷の響、水の月のごとく、塵塵 無礙にして、心心一如なり。彼我相い忘れ、是非斯に泯ず。方円大小、暦暦として 爽 た が わず。能く是くの 如くならば、諸の世間に入りて、真に游戯三昧に契う。斯に至游と謂うべし。衲僧の所住の処、何ぞ必 ずしも屋を縛り茨を編んで、孤り世外に 兀 隠遁する ならん    。 これが宏智における黙照禅の本領である。先の大慧が示した黙照禅の捉え方では、この銘の本意は捉え尽 くせない。ここでは明らかに宏智の禅が「坐」に留まらず一切処に於いて「真に游戯三昧に契う」というよ うな積極的且つ能動的性格が窺える。しかし、あえて言及すれば、大慧の禅に比べれば、宏智の禅はやはり 「 静 的 」 禅 と 言 わ ざ る を 得 な い。 そ れ は、 大 慧 禅 が 当 時 の 時 代 的 要 求 に 呼 応 し た 禅 で あ っ た の に 比 べ、 宏 智 禅が果たしてどれだけ当時の時代的要求に呼応できたかを鑑みた場合、自ずから明白となろう。 これまで大慧の看話禅と宏智の黙照禅の修禅形態に焦点をあて、相互の修禅方式とその特徵について検討 してきた。看話禅と黙照禅は、根本的には修証観の相違により由来したと見ることができ、そこから派生す る修禅方式に於いても、以上のような修証観の相違を踏まえた上で「看話と黙照」の全体像を見極める必要 (45)

(23)

がある。

 

以上、これまで「看話と黙照」の諸問題について検討した結果、明確に浮上するのは、大慧の痛烈な黙照 禅批判もその根底には両禅の修証観の相違が大きく影響していた。それは、これまで論究したような黙照の 本質から逸脱した黙照邪師及びその亜流への批判からも十分に確認できた。 さ ら に 時 代 的 観 点 で 捉 え た 場 合、 大 慧 は 宋 王 朝 存 亡 の 危 機 に お い て、 主 戦 派 と 講 和 派 と の 激 し い 対 立 の 中、 「 社 会 的 実 践 」 と し て 看 話 禅 を 以 て 士 大 夫 の 中 に 飛 び 込 み、 国 政 に 加 担 し た こ と で 長 期 流 罪 の 身 と な る 苦難の境遇とは裏腹に、山中伽藍に囲まれた僧堂内において、連日黙々と如法なる修行に徹し続けた「黙照 禅 風 」 の「 時 勢 へ の 消 極 的 対 処 」 と、 「 静 に 重 点 を 置 く 宗 風 」 が、 晩 年 に 於 い て も な お 彼 を し て 黙 照 禅 批 判 の強度を強めさせたのかもしれない。このような「大慧の黙照禅批判」という破局的事態の様相を、時代的 観点から簡明直截に要約するならば、荒木氏の説が一定のメルクマールとなろう。 悟 り と は 元 来 時 流 を 超 え た 永 遠 と の 冥 合 で あ り、 あ ま り に ね ば っ こ く 歴 史 的 状 況 に 密 着 す る の は、 「 現 在 に 落 ち る 」 恐 れ あ り と の 批 判 も あ り 得 え る で あ ろ う が、 政 治 的 人 間 と し て の 士 大 夫 階 層 を 動 か す 力をもり上げるためには、即今の現実在に集中的な対決を挑む大慧流の行き方こそ、苦悩する知識人の 胸にこたえるものをもっていたのである    。 (46)

(24)

したがって、ある意味では「教団・組織」よりも、時代に束縛されない「個」の自在なる働きを重んずる 唐代禅の特徴は、石頭系の曹洞宗旨を綿々と継承する宏智の黙照禅にその意義を見出すこともできよう。 それは、すなわち宏智の禅が、超時代性、あるいは個的充足性を具えていたためである。 一方、大慧の禅は、祖師の禅を継承しながらも、その時代的要求に呼応して、社会に強力な禅的躍動力を 発動せしめ、人々を牽引していく積極的且つ即時代的特色を有しており、士大夫層に受け入れられた禅、ま たは歴史的充足性を具えた禅であった。但し、このような見解もあくまで断面的な指摘であり、大慧禅の歴 史的意義を完全に言い尽くしたものとはいえないであろう    。 い ず れ に せ よ、 大 慧 の 黙 照 禅 批 判 は、 正 法 護 持 の 使 命 感 よ り 発 せ ら れ た 禅 風 刷 新 の た め の 具 体 的 行 為 で あ っ た。 そ の 主 な 要 因 は 坐 禅 へ の 固 執 と 悟 り の 撥 無、 そ し て、 黙 照 邪 師 の も と で 寂 静 に 沈 泥 す る 士 大 夫 の 誤 っ た 禅 理 解 な ど を 挙 げ る こ と が で き る    。 大 慧 は そ う し た 諸 問 題 に 対 し て 、 真 正 面 か ら 痛 烈 な 誹 謗 と 論 理 的 説 示 と で「 看 話 の 正 禅 」 と「 黙 照 の 邪 禅 」 と い う 位 置 づ け を 定 着 さ せ、 絶 大 な る 社 会 的 支 持 層 を 獲 得 し、 宋朝禅の代名詞となる看話禅を大成させるのである。したがって、黙照批判と看話確立は表裏一体の不可分 の関係にあり、大慧は黙照批判の代案として看話禅を確立していったのである。   大 慧 の 邪 禅 批 判 を 大 別 す れ ば、 唐 代 の「 無 事 」 を 安 逸 に 曲 解 し た 禅 徒 へ の 批 判 と 北 宋 期 に 波 及 す る 文 字 禅 へ の 批 判、 そ し て 黙 照 の 本 質 か ら 逸 脱 し た 黙 照 邪 師 及 び そ の 亜 流 へ の 批 判 に 要 約 で き る。 本 論 で は 後 者 の 黙 照 邪 師 及 びその亜流への批判である黙照禅批判に論点を絞って検討していく。   「 黙 照 銘 」 は、 建 炎 三 年、 宏 智 の 三 十 九 歳 以 前 に 成 立 し、 紹 興 元 年 ( 一 一 三 一 ) に 刊 行 さ れ た『 長 蘆 覚 和 尚 語 録 』 に よ っ て 禅 林 に 流 行 し た も の で あ る。 石 井 修 道 編 輯・ 禅 籍 善 本 古 注 集 成『 宏 智 録( 上 )』 「 解 題 」 ( 東 京 名 著 普 及 会 一 (47) (48) (1) (2)

(25)

九八四) 五三〇頁、同氏『宋代禅宗史の研究   ─   中国曹洞宗と道元禅   ─ 』 (大東出版社、一九八七) 三三三頁参照。   泉福寺本『宏智録』第一冊 (東京名著普及会、一九八四) 七七頁。   『 首 楞 厳 義 疏 註 経 』 巻 四、 或 可 寂 而 常 照 故 称 妙 明、 照 而 常 寂 故 曰 明 妙。 此 顕 法 界 一 相 真 覚 無 二。 円 覚 亦 云、 一 切 覚故円覚普照寂滅無二。 ( T39-874c )   『 宏 智 録 』 巻 六、 黙 黙 自 在、 如 如 離 縁、 豁 明 無 塵、 直 下 透 脱。 元 来 到 箇 処、 不 是 今 日 新 有 底。 従 旧 家 広 大 劫 前、 歴歴不昏、霊霊独輝。雖然恁麽、不得不為。 ( T48-74b )   「 仏 性 顕 在 論 」 は、 あ ら ゆ る 事 物・ 事 象・ 現 象 そ の も の が「 仏 性 」 の 顕 現 で あ る と し て、 そ の ま ま で 顕 在 し て い る「 仏 性 」 が「 仏 性 」 と し て 顕 現 し て い る こ と を 証・ 覚・ 悟 す る こ と に よ っ て、 涅 槃 を 了 得 す る と い う 考 え 方 で ある。松本史朗『道元思想論』 (大蔵出版、二〇〇〇) 一三四 ‒ 一三五頁参照。   松本史朗『前掲書』 (大蔵出版、二〇〇〇) 五八九頁参照。   『 大 慧 語 録 』 巻 五、 師 紹 興 二 十 六 年 十 一 月 二 十 三 日、 於 明 州 報 恩 光 孝 禅 寺 開 堂。 宣 疏 拈 香 祝 聖 罷、 乃 就 座、 天 童 和尚白槌云、法筵龍象衆、当観第一義 ( T47-829b ) 。   『 嘉 泰 普 灯 録 』 巻 九、 翌 日 辰 巳 間、 沐 浴 更 衣、 端 坐 告 衆。 顧 侍 僧、 索 筆 作 書、 遺 育 王 大 慧 禅 師、 請 主 後 事。 仍 書 偈 曰、夢 幻 空 花、 六十 七 年。白 鳥 煙 没、 秋水 天 連。 擲筆 而 逝 ( Z137-152b ) 。 また、 『宏 智 広録 』 巻 九「行 業 記 」 ( T48-120c ) 、『大慧語録』巻五 ( T47-832c ) にも、宏智示寂の際、大慧に書簡を送って後事を嘱し、大慧が葬儀を司ったこ とが記されている。   『朱子語類』巻百二十六「釈氏」の一條、 昔日了老、 専教人坐禅。杲老以為不然、 著正邪論排之。其後杲在天童、 了 老 乃 一 向 師 尊 礼 拝。 杲 遂 与 之 同、 及 死 為 之 作 銘。 問、 渠 既 要 清 浄 寂 滅、 如 何 不 坐 禅。 曰、 渠 又 要 得 有 悟。 杲 旧 甚 喜 子 韶、 及 南 帰、 貽 書 責 之。 以 為 与 前 日 不 同。 今 其 小 師 録 杲 文 字、 去 正 邪 論、 与 子 韶 書 亦 節 却。 ( 中 文 出 版 本・ 四 (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10)

(26)

八五三頁)   『語類』の巻頭に付録されている「朱子語録姓氏」に拠れば、 「鄭可学、 字は子上、 甫田 (福建省) の人。辛亥 (紹 煕 二 年・ 一 一 九 一 ) に 聞 く 所 な り ( 鄭 可 学、 字 子 上、 甫 田 人。 辛 亥 所 聞 ) 」 と あ る。 鄭 可 学 は、 字 は 子 上、 持 斎 と 号 し た。 福建省の人である。田中謙二氏によると、 朱熹に師事した期間は、 淳煕十四年 (一一八七) から慶元四年 (一一九八) に 至 る ま で、 断 続 的 に 四 期 に 分 け ら れ る と さ れ る。 「 朱 門 弟 子 師 事 年 攷 」 ( 八 三 頁 ) に 詳 し い。 そ の 伝 に つ い て は 『 宋 人 伝 記 』 第 五 冊 ( 三 六 八 六 頁 ) 参 照。 野 口 善 敬、 廣 田 宗 玄    他『 朱 子 語 類 』 訳 注 巻 百 二 十 六( 上 ) ( 汲 古 書 院 、 二 〇 一三) 一〇五頁。   こ こ で い う『 正 邪 論 』 は、 『 朱 子 語 類 』 巻 百 二 十 六 で、 弟 子 が 大 慧 語 録 を 編 集 す る 時 そ れ を 削 除 し た と あ る が、 江 戸 時 代 の 無 著 道 忠 が 著 し た『 大 慧 普 覚 禅 師 書 栲 栳 珠 』 に よ れ ば、 大 慧 の『 正 法 眼 蔵 』 末 の 示 衆 が そ れ に 相 当 す る と 言 及 さ れ て い る。 近 年、 廣 田 宗 玄 は「 大 慧 宗 杲 の『 弁 邪 正 説 』 に つ い て 」 (『 禅 学 研 究 』 七 十 八、 二 〇 〇 〇 ) 、 及 び 「大慧宗杲の邪禅批判の諸相」 (『禅文研紀要』二十七、二〇〇四) において指摘した。   『 大 慧 年 譜 』 是 年 六 月 二 十 五 日、 准 命 移 梅 州。 ( 柳 田 聖 山、 椎 名 宏 雄『 禅 学 典 籍 叢 刊 』 巻 四、 臨 川 書 店、 二 〇 〇 〇、 三 六 二 頁)   た し か に 朱 子 あ る い は 鄭 可 学 が 宏 智 と 大 慧 を 混 同 し て い る 可 能 性 は 十 分 に あ る の で は な い か。 こ と に 鄭 可 学 は 大 慧、 真 歇、 宏 智 と は 直 接 会 っ て お ら ず、 ほ ぼ 次 世 代 の 人 で あ り、 ま た、 福 建 省 出 身 で あ る た め、 大 慧、 真 歇、 宏智に関する様々な風評を受けやすく混乱を招き易い。   『語類』巻百四、 屏山少年能為挙業官莆田、 接塔下一僧能入定数日。後乃見了老、 帰家読儒書、 以為与仏合。 (中 文出版本・四一六四頁)   『 大 慧 語 録 』 巻 二 十 七、 近 年 已 来 禅 道 仏 法 衰 弊 之 甚、 有 般 杜 撰 長 老、 根 本 自 無 所 悟、 業 識 茫 茫、 無 本 可 拠、 無 実 (11) (12) (13) (14) (15) (16)

(27)

頭 伎 倆 収 摂 学 者、 教 一 切 人 如 渠 相 似、 黒 漆 漆 地、 緊 閉 却 眼、 喚 作 黙 而 常 照。 彦 沖 被 此 輩 教 壊 了、 苦 哉 苦 哉。 ( T47-925a )   大 慧、 真 歇、 宏 智 と 同 時 代 に 活 躍 し た 茅 子 元 ( 一 〇 九 六 ~ 一 一 八 一 ) も ほ ぼ 同 地 域 で 教 線 を 張 っ て い た。 こ と に 大 慧 は 福 州 に 入 る 以 前 ( 一 一 三 〇 ~ 一 一 三 四 ) ま で 江 州 の 雲 門 庵 に 住 し た が、 子 元 も 江 州 の 地 で 活 動 し て い た。 そ の 思 想 は「 寂 而 常 照、 照 而 常 寂 」 を 強 調 し、 少 な か ら ず 宏 智、 真 歇 の 黙 照 思 想 に 影 響 さ れ た と 見 て 取 れ る。 況 や 古 来 よ り 総 合 仏 教 的 伝 統 を 育 ん で き た 福 州 の 地 に 於 い て は、 こ の よ う な 宏 智、 真 歇 に 代 表 さ れ る 黙 照 思 想 に 影 響 さ れ た 禅 者 が 宗 派 に 係 わ ら ず 数 多 く い た で あ ろ う と 推 察 で き、 そ の 中 に 大 慧 の 批 判 対 象 と な る 黙 照 邪 師 と い わ れ る 亜 流 も 存 在 し た で あ ろ う と 思 わ れ る。 子 元 の 思 想 に つ い て は、 張 欣「 「 念 仏 者 是 誰 」 ─   そ の 思 想 源 流 に つ い て   ─ 」 (『インド仏教学研究』十五、二〇〇八、一〇五 ‒ 一〇六頁) 参照。   『 大 慧 語 録 』 巻 十 三「 師 到 雪 峯 値 建 菩 提 会 請 普 説 」、 只 如 真 歇 尋 常 見、 学 者 多 認 目 前 鑑 覚、 求 知 見 覓 解 会、 無 有 歇 時、 不 得 已 教 人 向 劫 外 承 当。 拠 実 而 論、 這 一 句 已 是 多 了。 此 是 一 期 方 便、 如 指 月 示 人。 … 適 来 真 歇、 有 一 段 公 案未了、雲門為他 結絶 却。 ( T47-864a )   『 大 慧 語 録 』 巻 十 三「 師 到 雪 峰 値 建 菩 提 会 請 普 説 」、 爾 看。 他 真 歇 説 禅、 都 不 計 較、 拠 学 人 問 処、 信 口 便 説、 更 無 滞 礙、 自 然 如 風 吹 水。 只 為 他 実 見 実 説、 如 普 賢 菩 薩 従 仏 華 荘 厳 三 昧 起、 普 慧 菩 薩 如 雲 興 致 二 百 問、 普 賢 菩 薩 如 瓶 瀉 以 二 千 酬。 又 何 曽 思 量 計 較 来。 …( 中 略 ) … 雲 門 今 夏 在 広 因、 開 個 灯 心 皀 角 舗 子、 随 家 豊 倹、 説 些 粗 禅。 室 中 問 学 者 一 句 子、 如 不 思 量 計 較、 天 真 自 然、 道 得 一 句、 更 与 一 拶、 擬 議 不 来、 劈 脊 一 棒、 別 無 細 膩。 忽 然 打 発 一 個半個、却教上来雪峰、就大炉鞴、事同一家。 ( T47-863b-864a )   但 し、 こ こ で は 真 歇 側 か ら 招 請 さ れ た 立 場 で の 普 説 で あ る た め、 真 歇 側 を 賛 嘆 す る の は 客 と し て の 礼 儀 で も あ る。 (20) (19) (18) (17)

(28)

  『 四 巻 本 普 説 』 巻 二「 方 敷 文 請 普 説 」 禅 和 家。 若 信 決 定 有 妙 悟、 便 来 這 裏 参。 若 信 悟 是 枝 葉、 却 往 別 処 参。 妙 喜 不 瞞 人。 這 裏 隣 峰 有 天 童 和 尚、 是 第 一 等 宗 師。 自 家 行 脚 時、 他 已 立 僧 了。 又 有 出 世 高 弟 在 這 裏。 你 但 去 問 他。 若 総道悟是枝葉、我敢道他也是個瞎漢。 (『禅学典籍本巻四・二〇七頁)   「雪峰に到り一夜の小参」とは、紹興四年 (一一三四) の「師到雪峯値建菩提会請普説」であると推察できる。   『 四 巻 本 普 説 』 巻 三「 方 敷 文 請 普 説 」 如 定 光 大 師、 往 年 在 歇 長 老 処、 也 不 信 有 悟。 及 乎 自 家 到 雪 峰 一 夜 小 参、 忽 然疑着、破夏走来広因。猶自主張無迷無悟、被山僧痛罵、方始知非。 (禅学典籍本巻四・二三八頁)   石 井 氏 は、 『 前 掲 書 』 ( 大 東 出 版 社、 一 九 八 七、 三 一 九 頁 ) で、 「 宏 智 が 首 都 臨 安 府 の 霊 隠 寺 に わ ず か 一 ヶ 月 し か 住 持 し な か っ た の は、 時 の 権 力 に 対 し て 形 式 的 に 組 み 込 ま れ る こ と を 嫌 い、 内 心 で 反 骨 の 精 神 を 示 し た と 考 え て も よ いであろう」と、評価している。   伊吹敦「宋の南遷と禅 (下之上)─要説・中国禅思想史二十六─ 」 (『禅文化』二一七、二〇一〇) 一一七頁参照。   真 歇 が「 妙 悟 」 の 重 要 性 を 認 知 し て い た こ と は、 真 歇 撰『 信 心 銘 拈 古 』 の 内 容 か ら も 十 分 に 窺 え る。 真 歇 の 思 想については期日改めて述べてみたい。   『大慧普説』巻十七「銭計議請普説」而今諸方有一般黙照邪禅…此風往年福建路極盛。妙喜紹興初、 入閩住庵時、 便力排之、謂之断仏慧命。千佛出世不通懺悔。 ( T47-885a )   廣 田 宗 玄「 大 慧 宗 杲 の 邪 禅 批 判 の 諸 相   ─「 弁 邪 正 説 」 の 検 討 を 通 じ て ─ 」 (『 禅 文 化 研 究 所 紀 要 』 二 十 七、 二 〇 〇 四 ) 一 二八 ‒ 一三一頁。   本稿の注   を参照。   然 切 不 可 存 心 待 破、 若 存 心 在 破 処、 則 永 劫 無 有 破 時。 但 将 妄 想 顛 倒 底 心、 思 量 分 別 底 心、 好 生 悪 死 底 心、 知 見 解 会 底 心、 欣 静 厭 閙 底 心、 一 時 按 下、 只 就 按 下 処 看 箇 話 頭。 僧 問 趙 州、 狗 子 還 有 仏 性 也 無、 州 云 無。 此 一 字 子、 (21) (22) (23) (24) (25) (26) (27) (28) (29) (17) (30)

(29)

乃 是 許 多 悪 知 悪 覚 底 器 仗 也。 不 得 作 有 無 会、 不 得 作 道 理 会、 不 得 向 意 根 下 思 量 卜 度、 不 得 向 揚 眉 瞬 目 処 垜 根、 不 得 向 語 路 上 作 活 計、 不 得 颺 在 無 事 甲 裏、 不 語 向 挙 起 処 承 当、 不 得 向 文 字 中 引 証。 但 向 十 二 時 中、 四 威 儀 内、 時 時 提撕、時時挙覚。狗子還有仏性也無、云無。不離日用、試如此做工夫看。月十日便自見得也。 ( T47-921c )   『 大 慧 語 錄 』 巻 二 十 三、 但 只 看 箇 古 人 入 道 底 話 頭。 僧 問 趙 州、 如 何 是 祖 師 西 来 意? 州 云、 庭 前 柏 樹 子。 僧 云、 和 尚 莫 将 境 示 人。 州 云、 我 不 将 境 示 人。 僧 云、 既 不 将 境 示 人、 却 如 何 是 祖 師 西 来 意? 州 只 云、 庭 前 柏 樹 子。 其 僧 於 言 下 忽 然 大 悟。 伯 寿 但 日 用 行 住 坐 臥 処、 奉 侍 至 尊 処、 念 念 不 間 断、 時 時 提 撕、 時 時 挙 覚、 驀 然 向 柏 樹 子 上、 心 意 識絶気息、便是徹頭処也。 ( T47-910a )   小 川 隆『 新 ア ジ ア 仏 教 史 七 中 国 Ⅱ 隋 唐 ─ 興 隆・ 発 展 す る 仏 教 ─ 』 五 章「 禅 宗 の 生 成 と 発 展 」 ( 佼 成 出 版 社、 二 〇 二 〇) 三二〇頁参照。   石井修道『東アジアの仏教』東洋思想    第十二巻・四章「禅」 (岩波書店、一九八八) 一二六頁参照。   近 世 叢 林 有 一 種 邪 禅、 執 病 為 薬、 自 不 曽 有 証 悟 処、 而 以 悟 為 建 立 以 悟 為 接 引 之 詞、 以 悟 為 落 第 二 頭、 以 悟 為 枝 葉 辺 事。 自 己 既 不 曽 有 証 悟 之 処、 亦 不 信 他 人 有 証 悟 者。 一 味 以 空 寂 頑 然 無 知、 喚 作 威 音 那 畔 空 劫 已 前 事。 逐 日 噇 却 両 頓 飯 事、 事 不 理 会、 一 向 嘴 盧 都 地 打 坐、 謂 之 休 去 歇 去。 纔 渉 語 言 便 喚 作 落 今 時、 亦 謂 之 児 孫 辺 事。 将 這 黒 山 下 鬼 窟 裏 底 為 極 則、 亦 謂 之 祖 父 従 来 不 出 門。 以 己 之 愚 返 愚 他 人。 釈 迦 老 子 所 謂、 譬 如 有 人 自 塞 其 耳、 高 声 大 叫、 求人不聞。此輩名為可憐愍者。 ( T47-901c )   『 大 慧 語 錄 』 巻 二 十 六、 某 不 惜 口 業、 力 救 此 弊。 今 稍 有 知 非 者。 願 公 只 向 疑 情 不 破 処 参。 行 住 坐 臥 不 得 放 捨。 僧 問趙州、狗子還有仏性也無。州云、無。這一字子、便是箇破生死疑心底刀子也。 ( T47-923a )   「 昏 沈 」 と は 無 記 ( 寂 静 に 浸 り き っ た 状 態 ) 、 ま た は、 睡 魔 に 陥 っ た 状 態 で あ り、 「 掉 挙 」 と は 散 乱 心 を 指 す。 い ず れも坐禅中、最も警戒しなければならない障害である。 (36) (35) (34)(33) (32) (31)

(30)

  『大慧語錄』巻二十一、 静坐時、 纔覚此両種病現前、 但只挙狗子無仏性話。両種病不著用力排遺、 当下怗怗地矣。 ( T47-922b )   『信心銘』虚明自照、不労心力、非思量處、識情難測。 ( T48-376c-377a )   『宏智錄』巻一、 農忙乱挿田心是秋成飯。却道禾熟不臨場、 祇麽任従風雨爛。禅和子、 一身了一身、 両眼対両眼。 箇中糸髪初無間。老狐涎尽復何疑。再坐盤中弓落盞。 (名著普及会本・三九頁)   『 宏 智 錄 』 巻 六、 渠 非 修 証。 本 来 具 足、 他 不 汚 染、 徹 底 清 浄。 …… 雖 寂 而 耀、 真 到 無 中 辺 絶 前 後、 始 得 成 一 片、 根 根 塵 塵、 在 在 処 処、 出 広 長 舌、 伝 無 尽 燈、 放 大 光 明、 作 大 仏 事。 元 不 借 他、 一 毫 外 法。 的 的 是 自 家 屋 裏 事。 ( 名 著普及会本・二九八頁)   『 宏 智 錄 』 巻 一、 但 知 識 自 本 来 頭、 入 彼 変 化 境、 自 然 一 切 処 作 得 主、 把 得 住、 他 無 一 乗 可 馭、 他 無 万 行 可 修、 他 無 三 界 可 出、 他 無 万 法 可 了。 爾 若 道 出 三 界、 則 便 壊 三 界、 爾 若 道 在 三 界、 則 便 礙 三 界、 爾 若 待 了 万 法、 則 万 法 紛 然、 爾 若 待 転 万 法、 則 万 法 擾 爾。 到 此 直 須 不 出 不 在 不 壊 不 礙 不 転 不 了 不 紛 不 擾、 便 見 独 露 底 身。 便 是 灑 落 底 漢、 不 妨 声 色 裡 睡 眠、 声 色 裡 坐 臥、 絶 諸 対 待、 常 光 現 前、 開 発 覚 華、 超 脱 情 境。 始 信 元 不 修 持、 不 曽 染 汚、 無 量 劫 中、 本来具足、円陀陀地、曽無一毫頭許欠少、曽無一毫頭許盈余。 ( T48-17b )   『宏智錄』巻九、黙而不凝、照而不流。 ( T48-109a )   『前掲書』黙黙而游、如如而說。 ( T48-109b )   『前掲書』黙時說、說時黙。 ( T48-109c )   『 宏 智 録 』 巻 六「 至 游 庵 銘 」 夫 道 人 之 至 游 矣。 履 虚 極、 守 妙 明、 飲 真 醇、 住 清 白。 断 崖 放 足、 空 劫 転 身、 一 得 妙 存、 亡 絶 対 待。 自 然 出 応 無 方、 谷 響 水 月、 塵 塵 無 礙、 心 心 一 如。 彼 我 相 忘、 是 非 斯 泯、 方 円 大 小、 暦 暦 不 爽。 能 如 是 也、 入 諸 世 間、 真 契 游 戯 三 昧、 斯 可 謂 至 游 矣。 衲 僧 之 所 住 処、 何 必 縛 屋 編 茨、 孤 兀 世 外。 ( 名 著 普 及 会 本・ 四 六 (37) (38) (39) (40) (41) (42) (43) (44) (45)

(31)

六 ‒ 四六七頁)   荒 木 見 悟『 大 慧 書 』 〈 禅 の 語 録・ 十 七 〉( 筑 摩 書 房、 一 九 六 九 ) 二 五 七 ‒ 二 五 九 頁。 し た が っ て、 荒 木 氏 が 示 さ れ た よ う に 看 話 と 黙 照 を「 対 時 代 的 機 用 」 と い う 視 点 で 比 較 し た 場 合、 悟 り の 超 時 代 性 と 即 時 代 性、 ま た は 個 的 充 足 性 と 歴史的充足性という図式となる。   野 口 善 敬 氏 は、 「 後 世 に お け る 大 慧 宗 杲 の 評 価 」 ( 花 園 大 学 国 際 禅 学 研 究 所『 論 叢 』 八 号、 二 〇 一 三    一 ‒ 二 二 頁 ) で 、 後 世 の 大 慧 像 に お け る 形 成 要 素 と そ の 評 価 を 十 項 目 に 分 類 し て 紹 介 し て い る が、 そ の 結 び で、 「 一 言 で 表 現 す る こ と は 難しいが、 ともかくいろいろな意味で突出した「 やり手 0 0 0 」だったわけである」と、 結論付ける。それは本論で扱っ た 大 慧 の 黙 照 禅 批 判 に 於 け る 一 連 の 言 動 に お い て も 対 応 す る も の で あ る。 因 み に 蛇 足 と し て、 大 慧 看 話 禅 の 修 禅 形 態 の 意 義 に つ い て、 筆 者 の 見 解 を 付 記 す れ ば、 ① 最 も 継 続 性 の あ る 実 践 的 修 禅 形 態 の 確 立。 ② そ れ は 中 国 祖 師 禅 史 の 円 熟 し た 禅 的 土 壌 の 上 に 形 成 さ れ た 修 禅 の 方 法 的 模 索。 ③ 東 ア ジ ア 全 域 に 独 自 の 禅 文 化 の 開 化 と 自 己 修 養 と し て の 実 践 思 想 の 確 立。 ④ そ れ ま で 優 れ た 機 根 と 一 回 性 の 機 縁 に よ る「 悟 」 の 可 能 性 が 地 域 や 人 種 の 差 別 を 超 え て 広 く 人 々 に 開 放 さ れ た。 ⑤ そ の よ う な 禅 思 想 の 基 礎 テ キ ス ト と し て の 伝 統 史・ 公 案 集・ 語 録 の 刊 行 な ど を 挙 げておく。   但し、大慧の「黙照禅」理解については、さらなる検討が必要である。 *   本 稿 は 臨 済 宗 妙 心 寺 派 教 学 部 の 助 成 金 に よ り 作 成 し た。 ま た、 本 稿 を 草 す る に 当 た り、 花 園 大 学 教 授、 野 口 善 敬、 中島志郎、両氏の助言を頂いた。合わせて謝意を表します。 (48) (47) (46)

参照

関連したドキュメント

そのような発話を整合的に理解し、受け入れようとするなら、そこに何ら

〔注〕

名の下に、アプリオリとアポステリオリの対を分析性と綜合性の対に解消しようとする論理実証主義の  

以上のことから,心情の発現の機能を「創造的感性」による宗獅勺感情の表現であると

インドの宗教に関して、合理主義的・人間中心主義的宗教理解がどちらかと言えば中

      ヘ ヘ へ も ヘ へ も   あ も ヘ へ ゐ ヘ ヘ へ も も ヘ へ も ヘ ヘ カ ヘ

 

1200V 第三世代 SiC MOSFET と一般的な IGBT に対し、印可する V DS を変えながら大気中を模したスペクトルの中性子を照射 した試験の結果を Figure