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対話的関係と発達の問題

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対話的関係と発達の問題

神⾕栄司 (花園⼤学教授)

ディベートは、話す前と後で考えが変わったほうが負け。 ダイアローグは、話す前と後で考えが変わっていなければ意味がない。 ̶̶̶平⽥オリザ1 はじめに̶̶治療的対話と哲学的対話 I 対話と話しことば的なもの・書きことば的なもの̶̶ヤクビンスキー II 対話者たちの意識の同権性̶̶バフチン III 対話における「知と情」̶̶ヴィゴツキー IV 子ども自身の独特な「造語」が含意するもの V 対話が生まれる発達的諸条件

はじめに̶̶治療的対話と哲学的対話

昨今のわが国の広い意味での⾔葉をめぐる諸状況は、対話の不⼗分な理解と、究極 的には「内⾔(内的⾔語)」あるいは「内的対話」の発達的・社会的・役割の不⼗分 な理解とを、顕わにしている2。そうした不⼗分な理解のもとでは、対話とは「⾔語的 コミュニケーション」の⼀種であるという規定から、それ⾃体は間違っていないがそ こからは積極的なものが何も⽣まれて来ない規定から、⼀歩も先に進むことができな い。 そこから抜け出すには、対話を重視した・⼈間を対象にする・実践およびそれを⽀ える理論を考察することが必要である。いわば、対話実践とその理論の考察である。 そうした対話実践の意味をなすものの 1 つは、かのソクラテスに端を発した哲学的対 1 「折々のことば」朝日新聞 2018 年 2 月 20 日付において鷲田清一によって引用。 2 ここで筆者が念頭においているのは、①今日流布している学習論が、「主体性」「対話性」「深さ」 という重要な契機を含みつつも、極めて皮相で形式的な「能動性」(アクティヴ・ラーニング)に堕して いること、②スポーツ界に蔓延るハラスメントは対話の深い理解によらずには克服されえないこと、③大 企業と官僚組織において問題となっているデータ偽装や公文書改竄は、もしそれらに関与する人たちのあ いだに(より正確には上司のなかに)対話の精神の欠片さえあれば、人命を失うところまでは行き着かな いであろうこと、④何度も確かめられた民意をもとに地方自治体の長が国の然るべき代表者との対話を求 めているのに、後者は前者と向き合おうとしないこと、等々である。これらの根深く大きな出来事は、も し対話論について意識的に深めるという努力を怠るならば、私たちに人間性の劣化を始めとする種々の災 禍をもたらすことを教えている。麻薬漬けのキャリア官僚たちはその一例にすぎない。

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話であり、いま 1 つは、オープンダイアローグがその典型である・統合失調症等へ の・治療的対話である。 ⼩論では、そのすべてを論じ尽くすことはできないが、概ね、以下のように課題を 設定した。 フィンランドにおいてセイックラらによって開発された精神療法の思想・技法であ るオープンダイアローグは、わが国へは主として精神科医によって紹介されている。 その主要な紹介者のひとりである齋藤環によれば、オープンダイアローグは、精神療 法に固有な諸理論(たとえば家族療法)を継承しつつも、バフチンとヴィゴツキーの 理論を⾃⼰の⽀柱としている。すなわち、バフチンがドストエフスキー研究から取り 出した「対話主義」の理論とヴィゴツキーにおける「発達の最近接領域」および「内 ⾔」の理論が重要になる。ところで、このバフチンとヴィゴツキーが対話や⾔語を考 察するために、どちらも参照している者のひとりは⾔語学のヤクビンスキーであり、 とりわけ、彼の論⽂「対話のことばについて」(1923 年)3はキーポイントとなる。 これについてはセイックラは⾔及していないが、対話について理解する上で⽋かせな いであろう。 こうして、オープンダイアローグの線から浮かび上がってくる、ヤクビンスキー、 バフチン、ヴィゴツキーの諸理論は現代の対話理論の解明・深化に寄与しうるものと して、⼩論の前半で取り上げることにする。彼らの理論はもちろん治療的対話の理論 づけに特化したものではなく、哲学的対話に対しても、さらには、あらゆる対話に対 して⼀般性を持つ理論である。 以上を理論編とするなら、後半では、広い意味での哲学的対話に該当する実践的事 実を取り上げて考察することにしよう。取り上げるのは 2 つの事例であり、ひとつは、 5 歳児の独特な「造語」のもつ対話にとっての意味、いまひとつは、⼤学⽣の卒業論 ⽂について対話が産み出すもの、についてである。これらは、それ⾃体としてはエピ ソードであるが、ヴィゴツキーの「教授・学習と発達」の理論の光を当ててみると、 対話が成⽴する教育的・発達的条件を⽰唆するものとなるであろう。 3 田島充士の編集・翻訳・著述になる『ダイアローグのことばとモノローグのことば』福村出版、 2019 年に、日本語で初めて読むことのできるヤクビンスキー「ダイアローグのことばについて」が訳出 されている。

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I 対話と話しことば的なもの・書きことば的なもの̶̶ヤクビンスキー

フンボルトからヴィゴツキーへの道の途上にいるヤクビンスキー ことばの機能、⾔語形式に関する考え⽅において、ヤクビンスキーはウィルヘル ム・フォン・フンボルトからヴィゴツキーへの移⾏過程に位置する。ことばの機能の 区別は、フンボルトにおける詩的⾔語と散⽂的⾔語との区別から始まったが、ヴィゴ ツキーにおける機能の区別は、ことばの形式の本質的特徴を抽象する形で、「他者に 向けられたことば」としての外⾔(外的⾔語)と「⾃⼰に向けられたことば」として の内⾔(内的⾔語)との区別、つまり、対他的ことばと対⾃的ことばとの区別という 具合に、⾔語内的に純化された。フンボルトも⾔及しているようだが(ヤクビンスキ ーによれば)、詩的⾔語と散⽂的⾔語との機能的区別は、より具体的に、「会話の⾔ 語、詩的⾔語、学術的論理的⾔語、弁論術的⾔語」(ヤクビンスキー、1923/2019、 第1 章・第 12 節、p.17)という⽬的的区分へと進化している。だが、その尺度におい ては⾔語外的な基準にもとづく区分なのである。ヤクビンスキーは、⽬的的区分とい う「⾔語外的な領域」から「ことばの現象」に「架橋」するために、また、「ことば の形式」から出発するのであるから、⽬的的区分に対して、種々の「伝達⼿段の相違」 (たとえば話しことばと書きことばの相違)と「独話(モノローグ)と対話(ダイア ローグ)」の相違とを対置したのである(同上、第1 章・第 13 節、p.17)4。 人間の交わり(交通)の諸形式 ヤクビンスキーの分析の特徴は、ことばの純粋な形式、たとえば対話ということば の純粋形式において本質を極めようとしつつも、実際の複雑性(たとえば対話の現実 的複雑性)をいささかも軽視していないところにある。 ヤクビンスキーが述べた、次のような・対話(ダイアローグ)と独話(モノローグ) の・区別は、これらのことばの純粋な形式を表している。——「⼈間の相互作⽤の直 接形式(フェイス・トゥ・フェイス)に照応するものとしては、発話する顔の(視 覚・聴覚の⾯での)直接知覚と特徴づけられる・ことばの相互作⽤の・直接形式が存 在する。間接的相互作⽤に照応するものとしては、ことばの領域では、たとえば発話 の書記的形式が存在する。 相互作⽤する諸個⼈の作⽤と反作⽤の相対的に速い交替を暗⽰する・相互作⽤の・ 混合的形式に照応するものとして、ことばの交通の対話形式が存在する。交通におけ る作⽤の⻑い形式に照応するものとしては、ことばの発話の独話的形式が存在する。」 (同上、第2 章・第 14 節、p.18) 4 ヴィゴツキーはこの「架橋」を通過したと言ってもよいであろう。

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ところで、上記のような 2 種類の区別—交通の直接性と間接性、ことばの交通等の 対話形式と独話形式—は、実際の⾔語活動における典型を考えれば、対話形式は直接 性と結びつき、独話形式は間接性と結びつくことが多い。また、ヤクビンスキーはそ うした考察に多くを費やしている。 この対話形式と直接交通性、独話形式と間接交通性の各組み合わせについて、《こ とばによる判断指標》《⼼理過程》《帰結》の観点から、ヤクビンスキーの述べる属 性を⼿繰り寄せれば、次のようになるであろう。 対話形式と直接交通性から⽣じる特殊性(第 1 の特殊性):交通における作⽤と反 作⽤との交替の素早さが眼に⾒える特徴である。その場合の⼼理過程としては、会話 の際にことばと癒着して現れる「話し相⼿の視覚と聴覚」、すなわち、表情・⾝ぶ り・イントネーションなどの知覚であり(同上、第3 章・第 17 節、p.20)、これらが 相⼿の話の理解を容易にする。これらが⽣み出すものは、「ことばの⾃動化」(同上、 第8 章・第 54 節、第 57 節、pp.68-70)である。筆者はこれらの特殊性を《話しこと ばの特殊性》と⾔い換えたい。 独話形式と間接交通性から⽣じる特殊性(第2 の特殊性):発話における⻑さが 感 覚できる特徴である。そこに含まれる⼼理過程としては、「複雑な活動の次元におけ ることばの過程」(同上、第 5 章・第 34 節、p.38-39)、より具体的には、「複雑な 意志的⾏為、つまり、考え直し・諸動機の闘争・選択などを伴う意志的⾏為の次元」 (同上、第5 章・第 30 節、p.35)の過程を⽰している。そこで起こるのは、「ことば の『創造』」(第8 章・第 57 節、p.70)である。ヤクビンスキーも「発話の書記的形 式」と述べるように、筆者はこれらの特殊性を《書きことばの特殊性》と呼びたい。 現実の交わり(交通)の複雑性 対話形式・独話形式と直接交通性・間接交通性との典型的な組み合わせとその特殊 性は以上のようになるが、ヤクビンスキーは次のような実際の組み合わせを念頭にお いている——「発話の対話的あるいは独話的形式と直接的・間接的形式とのありとあ らゆる結びつきのうちで、社会的により意義があり、⼗分に広く普及しているのは、 次の 3 つの結びつきである。〔すなわち〕対話形式と直接形式との結びつき、独話形 式と直接形式との結びつき、さらには、独話形式と間接形式、より正確には書記的形 式(⽂字の他に、ことばの他の「仲介者」をも思い描くことができる)との結びつき である」(同上、第2 章・第 16 節、p.20)。 ここで指摘されている「結びつき」のうち、「独話形式と直接形式との結びつき」 の実際場⾯は、かなり複雑なものであろう。ヤクビンスキーが挙げている諸事例のう ちで、それに該当しうるものは、集会における報告者と聴衆との関係である。報告者

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はあらかじめ準備した内容にそって息の⻑い発話をするのであるから、その発話は独 話形式のことばである。それと同時に、聴衆の視点からすれば、報告者の顔や声から、 ことばと癒着した表情・⾝ぶり・イントネーションを感知し、そのことばが理解しや すくなる、という点において、直接形式の交通がそこにはある。だが、これは、視点 をかえれば、聴衆は報告者に対して応答する形で⽿を傾け、「この応答性は、報告を 聞くことに伴う内⾔において表現されている」(同上、第4 章・第 27 節、p.32)ので あるから、この独話形式のことばは同時に対話形式のことばでもある。 2 種類の特殊性を併せ持つ治療的対話・哲学的対話 このように独話形式のことばが同時に対話形式のことばにもなるということやその 具体的事例を考慮に⼊れると、ヤクビンスキーが考える対話の概念はかなり広い。そ れによって上記の直接形式と間接形式(とくに「書くこと」という形式—第 5 章・第 34 節を参照)との各々の特殊性を対話形式のことばに引き寄せる点で⾒事に成功して いる。やや形式的に⾔えば、第 1 の特殊性は⼈間の「本能的志向」(同上、第 3 章・ 第19 節、p.23)に根ざしているために、あらゆるタイプの対話に共通するものである が、それに対して、第 2 の特殊性は「特別な場合」(同上、第 5 章・第 30 節、p.35) の対話にのみ現れている。⾔いかえれば、ヤクビンスキーのいう「特別な場合」の対 話のみが、直接交通性と間接交通性とに由来する 2 種類の特殊性を帯びているのであ る。 そのような 1 種類の特殊性か、2 種類の特殊性か、という観点からすると、ヤクビ ンスキーのいう対話(応答)の素早さは前者のみの特徴であり、後者は応答の断絶や 沈黙によってより⼤きく特徴づけられるであろう。それに関連するが、1 種類の特殊 性は「ことばの⾃動化」を、2 種類の特殊性は意識的な「ことばの『創造』」を産出 する。ここにおいて、眼に⾒え⽿に聞こえることばの理解しやすさと同時に、複雑な 次元の⾔語過程と「ことばの『創造』」をもたらす 2 種類の特殊性を併せ持つ対話こ そ、治療的対話や哲学的対話を真に特徴づけるものであろう5。 5 上記に考察したように、対話形式か独話形式か、直接的交通性か間接的交通性か、という 4 種類の 特徴の組み合わせだけでは、対話のことばの問題を十全に考察したことにはならないのは、「独話形式と 直接形式の結びつき」の分析から明らかであろう。そこでは、「話しことば」「書きことば」、さらに究 極的には「外言」「内言」という、ヤクビンスキーにとって新しい概念が必要となる。つまり、対話のこ とばの十全な考察には、ヴィゴツキーが必要なのである。

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II 対話者たちの意識の同権性̶̶バフチン

オープンダイアローグの理論的基礎とバフチン まず、オープンダイアローグを根底的に⽀えている理論はバフチンとヴィゴツキー のそれであることを、斎藤環のまとめから、明らかにしておこう。この点について、 斎藤は次のように総括的に語っている(斎藤、2015、p.28)。 (セイックラらが使⽤している)詩学、対話、ポリフォニーといった⽤語から予想されるように、オープ ンダイアローグの哲学は、思想家であり⽂芸理論家でもあるミハイル・バフチン、および⼼理学者レフ・ ヴィゴツキーに⼤きな影響を受けています。クライアントとのミーティングでは、こうした詩学の原則に もとづいて、治療的対話が⽣成されることになります。6 セイックラら⾃⾝が、オープンダイアローグを念頭におきつつ、バフチンについて 直接・間接に述べていることを、より詳しく⾒てみよう。 セイックラらは(セイックラ、オールソン、2015、pp.93-99)「オープンダイアロ ーグの詩学the Poetics of Open dialogue」およびその内容としての「不確実性への耐 性Tolerance of uncertainty」「対話主義 Dialogism」「ポリフォニーPolyphony」とい う諸概念を取り上げ、オープンダイアローグを解説している。これらは明らかにバフ チンに由来する諸概念、バフチンがドストエフスキーの作品を考察して明るみに出し た諸概念である。バフチンにはドストエフスキーを論じた 2 つの書物——『ドストエ フスキーの創作の諸問題 Проблемы творчества Достоевского』(1929 年)と『ド ストエフスキーの詩学の諸問題Проблемы поэтики Достоевского』(1963 年)—— があり、さらに前者を後者に改編することを意図した論⽂「ドストエフスキーに関す る著作の改編に寄せて」(1961 年)も、バフチンのドストエフスキー論を理解するう えで、重要な⽂献である。セイックラらは「詩学」という語を「対⾯して診察をおこ なう場⾯での⾔葉づかいやコミュニケーションの実践The term “poetics” refers to the language and communication practices in face-to-face encounters. p.404」という意味

6 もう少し厳密に言えば、「詩学」「対話」「ポリフォニー」の用語から一義的にヴィゴツキーを導 き出すのには無理があるが(間接的、媒介的には可能であろう)、セイックラらが使用するリフレクティ ングという用語(その内容からすれば、対話についての〔専門家による〕対話、その公開。いわば〔専門 家による〕メタ対話の外在化)からは、後述するように、ヴィゴツキー理論を導き出すことができる。セ イックラら自身のことばを考察すれば、ヴィゴツキー理論と一義的に関連づけて捉えられるのは、「行動 や感情を制御するための強力な道具」となる「内言」、リフレクティングなどを念頭におきながら規定さ れる、「ミーティングにおける感情の流れ」をサポートするものとしての「発達の最近接領域」(セイッ クラ、トリムブル、2015、p.169)であろう。

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で⽤いているが、上記の 3 つの主要な内容に着⽬すれば、この語の出⾃はバフチンの ドストエフスキー論、とくに『ドストエフスキーの詩学の諸問題』の「詩学」にある。 ⾔葉およびコミュニケーション実践としての「詩学」の 3 つの主要な内容のうち、 「対話主義」と「ポリフォニー」との語そのものはバフチンのものであるが、「不確 実性への耐性」は、バフチンの⽤語で⾔えば、対話の「⾮完結性 незавершимостъ」 (Бахтин, 1961/1979, с.309)7 に照応するものと考えてよいであろう。セイックラら が⾔うように、これらの 3 つのキーワードは、オープンダイアローグにおいて相互に 繋がっているが、それは同時に、バフチンのドストエフスキー論においてもそうなの である。 作者と作中人物との対話的関係のもつ意味 バフチンのドストエフスキー論の最⼤の特徴は、ドストエフスキーの作品はポリフ ォニー(多声的)⼩説である、という規定である。ポリフォニーの焦点は作者と作中 ⼈物との対話主義が作品の根底にある、ということであるが、そうしたバフチンの主 張には、深めるべき考え⽅が込められている。その中⼼的なものは以下のものであろ う。 ①作者⾃⾝も作中⼈物も個⼈として、より正確には、«человек-личность»「⼈格 〔個⼈〕としての⼈間」として(Бахтин,М.М. 1961/1979, с.318)、⽣きていること。 バフチンはこれを⼈間の物象化(概念化)と対置している。 ②作中⼈物は作者の意のままになると思われがちだが、そうではなく、作中⼈物の 独⾃の⽣成があること〔「作者はプロメテウスのように、⾃分から独⽴した⽣き物を 創造(より正確には再創造)し、作家はこの⽣き物と同権であることが明らかにされ る」(Бахтин,М.М., 1961/1979, с.309)〕。 ③ドストエフスキーの作品では、作中⼈物と作者の関係は、「作者による定義を作 中⼈物の⾃⼰定義のモメントにすることによって」コペルニクス的転回を遂げている。 具体的にはそれはどういうことなのか、バフチンは次のように解答している。── 「作者が⾏ったことを、いまや作中⼈物が⾏っている。それは、作中⼈物⾃⾝があり とあらゆる観点から⾃⼰を解明することによってである。作者の⽅は、もはや作中⼈ 物の現実を解明することではなく、作中⼈物の⾃⼰意識を、⼆次的な次元の現実とし ての⾃⼰意識を解明している」(1963,C.58//1995,p.102)。こうして、作中⼈物は作 者から⾃⽴するのである。 7 バフチンは「私の著作〔1929 年の『ドストエフスキーの創作の諸問題』〕のあと(だが、この本と は無関係に)、ポリフォニー・対話・非完結性の思想が広範に発達してきた」と述べている(1961/1979, с.309)。

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④歴史的に⾒ると、ドストエフスキーは他の作家よりも早く、個⼈を成⽴させた社 会的変化を捉えたこと〔「ドストエフスキーが他の誰よりも早く明らかにすることの できた、現実そのものにおける諸変化」(Бахтин,М.М., 1961/1979, с.309)〕。 なお、上記①②③に深い関連をもつバフチンのドストエフスキーに関する考察のひ とつ—「⼈間像の新しい構造」—には、次のようなことばがある。—「この他者〔作 中⼈物〕の意識は、〔作者の〕内部から明らかにされるわけだが、〔しかし〕作者の 意識の縁〔フレーム〕の内部に⽴ち現れることはなく、〔作者の〕外側に⽴ち並んで いるかのように現れるのであり、作者が対話的関係においてこの〔作中⼈物の〕意識 とともに登場するのである」(Бахтин,М.М., 1961/1979, с.309)。 ⾔い換えれば、次のようになるであろう。——作中⼈物は作者の意のままにはなら ないが、しかし、作者がこういう⼈物を書こうと思わなければ作中⼈物は誕⽣しない のであるから、作中⼈物の創造にとって作者は決定的な位置にいる。その作者がある 意味では「独裁的」〔バフチン的に⾔えば、モノローグ的〕であるとすれば作中⼈物 は⼩説のなかで⽣きられない。作者が「対話的」であって初めて作中⼈物は⽣きられ るのである。 ここから⼩説ではなく現実の対話が問題となるときには、⼩説における作者にあた るような⼈、つまり、権威が感じられ権⼒を保有している⼈の態度が決定的となる。 対話参加者の意識の同権性とは、参加者のあいだでの相互のリスペクトと⾃由な表 現を意味し、そのような対話の成⽴の鍵は権威・権⼒のある者にある。 内的対話と外的対話との相互関係 以上のような意識の同権性は、対話成⽴のための外的条件なのであるが、それと密 接に結びついているのは、バフチンがドストエフスキーの作品の分析から取り出した 対話の内的構造である。それには、作中⼈物の⾃⼰意識、内的対話と外的対話の関係、 ことばの新しい意味、といったモメントが含まれている。 バフチンはドストエフスキーの⼈間論・芸術論とともに、とくに対話の具体になれ ばなるほど、ドストエフスキーのドラマトゥルギーを分析して対話構造を解明しよう としているのだが、筆者のこの点での考察では、そのような解明をある程度は抽象化 し、現実の対話にも有効であるものを取り出すことにする。 ①まず作中⼈物の⾃⼰意識は「対話化」されていること、その⾃⼰意識は「⾃分⾃ ⾝、相⼿、第 3 者に対する緊張した呼びかけ」となって現れていること、「⼈間は呼 びかけの主体である」という点からすれば、こうした「呼びかけ」によって最⾼の意 味でのリアリズムである「⼈間の魂の深奥」、いわば「⼈間の内なる⼈間 человек в человеке 」を表現しうることを、バフチンは明らかにしている(Бахтин,М.М.,

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1963,с280//1995,p.527-528 )。対話を構築ないし考察するうえで、その出発点となる のは対話参加者の「⾃⼰意識」なのである。 ②その「⾃⼰意識」は分裂・⼆分化において捉えられる。作中⼈物の「第 2 の内な る声второй внутренний голос」(Бахтин,М.М., 1963,с.283 // 1995,p.533)という表 現が分裂・⼆分化をよく表している。この場合、分裂・⼆分化といっても病理的なそ れではなくノーマルなそれである。たとえば、ハムレットの有名な台詞を例にとれば、 ⽗親殺しの犯⼈への復讐に関わって、To be, or not to be: that is the question(このま までいいのか、いけないのか、それが問題だ——⼩⽥島雄志訳)の To be が「第 1 の 内なる声」であるとすれば、 それとは対⽴的な(この場合には真逆な)Not to be は 「第 2 の内なる声」である。これによって第 1 と第 2 の声による「内的対話 внутренний диалог 」 つ ま り 「 ミ ク ロ の 対 話 микродиалог 」 ( Бахтин,М.М., 1963,с.282 // 1995,p.533)が可能になる。 そうした「第 2 の内なる声」に種々の関係を持って現れてくるのは他の作中⼈物の 声、つまり他者の外的な声であり、第 2 の内なる声は、「現実の他者の声の代替物で あり、特殊な代⽤品замена, специфический суррогат реального чужого голоса」 (Бахтин,М.М., 1963,с.283 // 1995,p.533)であった。「解明された作中⼈物の問題。 作者の⽴場の問題。対話における第 3 者の問題」。──こうして対話の役者は出揃っ た。 他者の声の「代替物」「特殊な代⽤品」について、バフチンはドラマトゥルギーの 観点からドストエフスキーの諸作品に即して考察しているが、現実の対話を問題にす る場合には、対話の基本⾻格は共通していても細部は具体に即して考察する以外には ない。重要なことは、代替物、代⽤品といっても現実の⼈間においては第 2 の内なる 声が他者の声とイコールなのではなく、この内なる声の出⾃は他者の声である場合が 多いとはいえ、内なる声に改変されていく過程がそこにはあることであろう。これが、 現実において、深みのある対話が成⽴する基本的な要件の1 つであろう8。 ③こうして、内的対話もその外的対話との相互関係も無限に続くことになる。対話 は結論を求めるための⼿段ではなく、対話そのものが⽬的となる。バフチンはドスト エフスキーの諸作品のうちに対話のタイプの違いを考慮しながらも、どの対話にも同 8 以上のようなバフチンの対話構造と、ヘーゲルの自己意識論(とりわけ自己意識内部における主人 と奴隷の対立性、『精神現象学』)、ヴィゴツキーの 13 歳の危機論における分裂的機能(「移行期のネ ガティヴな相」『「人格発達」の理論』)、ワロンの自我論(とりわけ第 2 の自我と社会的自己〔ジャ ネ〕との関係。「『自我』意識のなかで『他者』はどういう役割をはたしているか」『ワロン/身体・自 我・社会』)、「人間における外と内との弁証法」(バフチン、1961,с.316)とは、それぞれの深部にお いて深く繋がっている、と思われる。

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じ構成原理を⾒出している。それは、次のようなことである。——ドストエフスキー の作品におけるどの対話においても、「公然たる対話の応答の、作中⼈物たちの内的 対話の応答との、交錯・共鳴・途切れ」があり、どの対話においても「観念・思惟・ ⾔葉の⼀定の総体が、いくつかの融和しない声、各々の異なる響きに沿って、実現さ れていく」(Бахтин,М.М., 1963,с.296//1995, pp.558-559)。これは、治療的、哲学 的、その他の、現実の対話においても貫かれるものであり、その場合、対話のなかで 得られた「観念・思惟・⾔葉」は新しいものであるが、遅かれ早かれ、無限に続く対 話のなかで、より新しいそれらが形成されるのである。

III 対話における「知と情」̶̶ヴィゴツキー

オープンダイアローグとヴィゴツキー まずセイックラらがヴィゴツキーを論じているところを要約しておこう(セイック ラ、トリムブル、2015、pp.168-173)。 ①対話主義はコミュニケーションの形式であるにとどまらず認識論的⽴場でもある。 ここから、認識における⼀種の相対主義が⽣まれることになる。セイックラらはバフ チンをポスト・モダンの思想家と評価しているようだが、認識論における対話主義の ゆえに、ポスト・モダニズムに真理を独占させるのではなく、モダニズム(modernist scientific discourse)にも有益性を認めている。そのなかに、ヴィゴツキーや彼と共鳴 しあう発達⼼理学的諸研究が位置づけられている。 ②ヴィゴツキーの発達⼼理学のアイディアは多くの点でバフチンの対話主義と響き 合っている。もっとも根本的な原理としては、ヴィゴツキーは⾔語・思考・精神の起 源を、個⼈内過程に内化していく間個⼈的出来事である(language, thought, and mind originate as interpersonal events that become internalized individual processes over the course of development.)と⾒なした。それは、⾃⼰中⼼的⾔語と内⾔との関 係や、多声的な声の内化としての内⾔の基礎の形成にも、⾒事に現れている。 ③内言は行為や感情状態をコントロールする強力な道具となるが、ヴィゴツキーの 「発達の最近接領域」のアイディアは、治療的ミーティングにおける感情の流れのサ ポートを理解することに資する(おそらく治療チームによるリフレクティングはその ように位置づけられるであろう)。 ④現代の発達⼼理学研究は、⼈間の脳・⾝体の構造のなかに⼦どもの初期経験に起 源をもつ対話の基礎的・形成的・過程が含まれていること(in the development of the structure of human brain and body, dialogue is a fundamental formative process originating in the first months of life.)を明らかにしてきた。たとえば、親と⼦どもと

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の環境は、感情状態の相互コントロール、対象の世界への注意の相互の⽅向づけ、さ らには、記号への相互の注意、最後には、⾔語の相互の理解、への発達をもたらすが、 ⼦どもはそのような環境を切り拓くのである。これらも、ヴィゴツキーのアイディア と共鳴しあっている。 以上の要約(齋藤環『オープンダイアローグとは何か』医学書院、2015 年、p.170-171 参照)からでも、バフチン理論と並んでヴィゴツキー理論も、オープンダイアロ ーグの理論的基礎をなしていることが、よくわかる。 リフレクティングとしての発達の最近接領域 セイックラらは、オープンダイアローグの⼀部分となっている「リフレクティング」 (当事者とその家族の眼前で⾏われる専⾨家同⼠の話し合い)をヴィゴツキーの⾔う 「発達の最近接領域」の創造と⽐している。 ところで「発達の最近接領域」とは、もともとは、ヴィゴツキーが知的教育のプロ セスのなかにいる⼦どもの知的発達を表す概念である。それを要約すれば、⼦どもは たえず、⼆重の知的発達⽔準を持っている。⼀つの⽔準は、⼦どもが独⼒で課題を解 決しうる⽔準。もう⼀つの⽔準は、独⼒では解決できないが、先⽣がヒントを与えた り、年上の⼦どもと⼀緒にすれば課題解決できる、という協同的⽔準である。この⼆ つの⽔準の隔たりのことを、ヴィゴツキーは「発達の最近接領域」と呼んだのである。 ⼦どもの持つ「発達の最近接領域」のなかに位置する課題を提供することこそ教育的 である。協同的⽔準があってこそ、独⼒の⽔準が向上するのである。 セイックラらは、オープンダイアローグにおける「リフレクティング」は、発達の 最近接領域の創造に類似している、と考えたのであろう。少なくとも、リフレクティ ングによってダイアローグの⽔準が向上することを期待したのである。 ヴィゴツキー理論によってさらに補完可能なこと̶̶知と情の関連 以上のように、情動のコントロールと内⾔との関連、リフレクティングと発達の最 近接領域との関連が、オープンダイアローグにヴィゴツキー理論が寄与するものとし て、理解しやすいのであるが、ヴィゴツキー理論に対する視野をやや広げてみると、 さらに補完可能なものが⾒出される。 セイックラらは、ヴィゴツキーの内⾔理論や発達の最近接領域のアイディアを取り 上げるとき、もっぱら情動および情動のコントロールという視点から重要視している。 それは確かに治療的対話においてまずは必要なことであろうが、翻って捉えてみると、 ヴィゴツキーが情動の問題を考察するときには、情動の先にまで、つまり、知と情の 関連にまで進んでいる。そこまで⾏ってこそ、情動が理解できる、というのが、ヴィ

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ゴツキーの観点である。その観点から補完可能な点をあげてみよう。 ①知と情の関連についてのヴィゴツキーの考察は多岐にわたるが、彼が提起した主 要な諸命題は、横軸と縦軸とに、システムの観点と因果関係もしくは歴史の観点とに 分けて整理することができるであろう。 横軸の観点は、⼼理システム理論である。⼼理システムとは、どの⼼理機能を考察 する場合にも、それを個別的に捉えるのではなく、他の⼼理諸機能との連関のなかに おいてとらえてこそ、その⼼理機能の本質が顕わになる、という考え⽅である。ヴィ ゴツキーはこの考え⽅を「⼼理システムについて」1930 年(Выготский, Л. С., 1930 / 1982 // 2008)のなかで初めて提起し、彼の死(1934 年)に⾄るまで、それを深化さ せた。おそらく⼼理システムの観点から書いた最後の論⽂は「知的遅滞について」 1935 年(Выготский, Л. С., 1935 / 1983 // 1982 // 2006)であろう。その論⽂は、次の ように述べている。 精神薄弱児と健常児の⽐較研究が⽰しているように、両者の相違は、なによりも、知能そのものの特質 または情動そのものの特質のなかよりは、⼼理⽣活のこれらの領域のあいだにある諸関係の独⾃性、感情 的過程と知的過程との関係が切り拓く発達の道程の独⾃性のなかに⾒出されねばならない。思考は情念の 奴隷や下僕であることもできるし、情念の主⼈であることもできる。明らかなことであるが、感情的諸機 能と直接に結びついている脳のシステムは、きわめて独特な形に配置されている。感情的諸機能は、脳を 開通させ連結し、もっとも低次で古代的な脳の第⼀次システム、および、もっとも⾼次で後期の、⼈間に 固有な脳の形成物として現われている。もっとも原始的な形態からもっとも複雑な形態までの、⼦どもの 感情⽣活の発達の研究は、低次の感情的形成物の⾼次のそれへの移⾏が感情と知能とのあいだの諸関係の 変化と直接に結びついていることを、⽰している(1935 / 1983, c.255 // 1982 // 2006, p.133)。 この⼀⽂には、関連しあった 3 つのテーゼが含まれている。第 1 のテーゼは⼼理学 の次元における⼼理システム理論である。知的障害のある⼦どもを捉えるとき、健常 児との⽐較で、その⼦どもの情動の特質あるいは知能の特質を探り出そうとしても、 知的障害の本質には迫ることができない。問題は、知にあるのか、それとも、情にあ るのか、という点にはなく、むしろ、知と情との関連のなかにある。これが⼼理シス テム理論の観点である9 。第 2 のテーゼは、哲学の次元における⼼理システム理論であ る。「情動の奴隷」も「情動の主⼈」も、ともにスピノザのことばである。ヴィゴツ 9 心理システムのわかりやすい事例は、スタニスラフスキーの演技論における情動・表象との関連に 対するヴィゴツキーの考察に現れている。スタニスラフスキーは俳優に対して、演技がリアルで役に生き ることが可能になるためには、役の感情に類似した自分自身の感情を呼び起こさねばならない、と言う。 だが同時に、感情には命令する(たとえば、ある感情に「生起せよ」と命じる)ことはできず、その感情 を抱いたことのある現実場面を想起し表象することによって感情を誘き出す他はないのだ、と言う。ヴィ ゴツキーはこのようなことが可能になるのは、表象と情動とがシステムを構成しているからである、と解 説している(Выготский, 1932 / 1936 / 1984)。知と情の心理システムに関するひとつの好例であろう。

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キーは、スピノザ感情論の⾒地から神経学を考察することも、その逆に、神経学の⾒ 地からスピノザ感情論を考察することも可能であると述べている(1933 / 1984, с.101 // 2006, p.18)ように、スピノザ情動論を格別に重視した。そこから次のテーゼが⽣ま れてくるのは⾃然なことであった。第 3 のテーゼは、すでに、前述の因果関係的もし くは歴史的観点についてである。 ②縦軸の観点、因果関係的もしくは歴史的観点は、⼼理神経学理論によるものであ る。ヴィゴツキーは、この観点を、もっとも古くはジャクソンから、精神病理学に関 してはクレッチマーから、情動についてはキャノン=バード理論から引き出している。 その起点はジャクソンにあり、それについてヴィゴツキーは次のように述べる。 ジャクソンによれば、神経系の組織は⾼次中枢と低次中枢の複雑なヒエラルヒーであり、そこでは、⾼ 次中枢のより分化し繊細な形態の活動を何度も乱すことのできるような脳の古い部分の原始的・古代的諸 機能は、⾼次中枢の側からの抑制的影響を受けているが、それ故に、ノーマルな条件のもとでは能動性を ⾃由に発揮して⾏動において⽀配的な役割を演じることはできないのである。あれこれの条件のために低 次中枢に対する⽪質的コントロールが弱まるか、まったく消失するときに、以前には従属クラスであった 低次中枢は⾃⽴的になり、⾃由に作⽤するようになるが、そのために低次中枢の⾮随意的で極度に集中的 な能動性が現れることになる。きわめて弱い刺激でも、こうした条件のもとでは、極度に過剰な反応をひ き起こしうるのである(1933 / 1984, c. 147 // 2006, p. 93)。 要約すれば、⼈間の神経系組織は⾼次中枢(⼤脳⽪質における)と低次中枢との複 雑な階層として構成され、ノーマルな状態では、低次中枢は⾼次中枢のコントロール 下にある。ところが、何らかの事情で、⾼次中枢によるコントロールが弱化または消 失したときには、従属クラスである低次中枢が「⾮随意的で極度に集中的な能動性」 を発現させ、極めて弱い刺激によっても「極度に過剰な反応」を惹き起こす。ヴィゴ ツキーはクレッチマーからも同様の命題を、たとえば統合失調症において、導き出し ており(Выготский, 1931 / 1984 // 2004)、情動については、キャノン=バード理論 によりながら、⼤脳⽪質の⾼次中枢、⽪質下中枢、末梢神経の 3 つの連関を考慮に⼊ れ る こ と に よ っ て 、 情 動 の 豊 か な 現 れ ⽅ を 神 経 学 的 に 説 明 で き る 、 と 考 え た (Выготский, 1933 / 1984 // 2006)。スピノザの情動に関する諸テーゼ——コナトゥ ス(⾃⼰保存の本能)と情動の発⽣、⾼次の情動による低次の情動への抑制とその逆、 情動の認識による情動の制御とその逆、等々——もまた、同じく神経学的に説明しう ると、ヴィゴツキーは考えた、と推察しうる。上述のスピノザ感情論と神経学との相 互関係が教えているのはこのことであろう。 ③統合失調症は、知と情に関する横軸と縦軸を交差させることによって、より全⾯ 的に理解しうるようになる。 統合失調症は、斎藤環が述べるように、「⾃分と他者の境界があいまいになる病気」

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(斎藤、2015、p.13)であり、ヴィゴツキーは発達⼼理学的⾒地から「概念の崩壊」 「概念的思考の崩壊」をその本質的特徴と考えた(1931 / 1984 // 2004)。これを縦軸 の観点から解釈してみよう。3 歳代の「⾃我の芽⽣え」における⾃他の形成の始まり が13 歳の危機を超えたところで認められる⾃他の境界の意識化(⾃⼰意識の形成)に おいて⼀応のところ完了すると考えると、その10 年間に⽣じているのは意識の誕⽣か ら⾃⼰意識の誕⽣への過程である。これをヘーゲル的に捉えてみると、悟性(常識的 な知)から⾃⼰意識の形成を経て理性(新しい創造的な知)へという知の運動になる。 それに照応する形での、複合的思考から⾃⼰意識を経て⾼次の概念的思考へという知 的発達を理論づけようとしたヴィゴツキーは、「発達は、病理学的諸過程、総合や⾼ 次の統⼀体の崩壊の諸過程を理解する鍵であり、病理学は、発達の歴史、⾼次の総合 された諸機能の構成を理解する鍵である」(1931, с.400 / 1984 // 2004, p. 214)と述 べ、発達は統合失調症の理解への鍵であるとともに統合失調症は発達の理解への鍵で あると考えた。こうして、発達と後退(逆発達)の双⽅を⼀つの図式によって、⾔い 換えれば、縦軸の観点によって理解しうることを提起したのである。 統合失調症を理解するための横軸もまた、縦軸と密接に関連づけつつ、ヴィゴツキ ーは解明しようとした。当時の統合失調症の研究者シュトルフを引⽤しつつ、対象的 意識の異常性と⾃我の意識における恒常性の喪失とが平⾏的に⽣じると、ヴィゴツキ ーは考えている。——「私たちが対象的意識の領域で⽰しえたように、統合失調症患 者における対象的意識の異常性は、発達した⼈間の場合の世界の構図に分化・定式・ ⼀定の構造を付与する恒常的諸要素が喪失していることにもとづいているのだが、そ れと同じように、⾃我の意識においても恒常性の同様の喪失が平⾏的現象として明ら かにされた。また、第⼀の場合に未分化で直観的な複合的諸性質が、定式化された諸 事物や、従属的な⼼的体験の諸グループ、確固たる諸概念の世界に取って代わってい るのと同じように、後者の場合には⾃我の完成した意識の位置を、部分的諸成分の複 合的併存や、⾃我の境界の撤廃が占めるようになり、その故に、他の諸個⼈との拡散 的融合や融即が可能となるのである」。このシュトルフのことばに次のモメントを付 け加えて、ヴィゴツキーは統合失調症の核⼼を締めくくっている。すなわち、「その モメントとは、現実の意識、世界の構図の⼼的体験、⼈格の⾃⼰意識の分裂の基礎に あるのは概念形成の機能の破壊である、という点にある」と(1931, c. 430 / 1984 // 2004, pp. 251-2)。ここにおいて、横軸の観点と縦軸の観点とが統⼀されるのである。 「モノローグ」と袋小路 セイックラらは、バフチンの⾔うモノローグに学びつつ、治療的対話における「モ ノローグ」を「袋⼩路」と特徴づけている(セイックラ、トリムブル、2015、 p.171)。治療的対話の領域では、確かにモノローグでは袋⼩路から抜け出せない、と

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理解しうる。 ところで哲学的対話となると、モノローグにはそれとは異なる位置づけが必要であ ろう。ヤクビンスキーの考える「書きことば的なもの」はモノローグと親和性がある し、ヴィゴツキーの場合には、発⽣的に⾒れば、モノローグは内⾔の前史でもある。 その場合、ダイアローグの形での応答としての外⾔が哲学的であればあるほど、その なかに必要とされるものは内⾔である。 ⼩論の続く 2 つの章では、主として、広い意味での哲学的対話の実践を取り上げて、 それに求められる条件や特質について考察しておきたい。

IV 子ども自身の独特な「造語」が含意するもの

幼児の独特な「造語」としての「あおばい」、「よけとび」 4、5 歳児からは、「あおばい」とか「よけとび」といったような、独特な「造語」 がよく聞かれる。それらを⽿にしても何のことだか理解できないのが通例である。当 の⼦どもたちに尋ねてみると、「あおばい」とは「⻘いバイク」のことで、「よけと び」とはツバメが⽊を避けてさっそうと⾶ぶ様を表している、とのことである。慣⽤ とは違うとはいえ、それなりに納得できることばである。もちろん、こうした語は、 それを考案した当⼈とその周辺の⼦どもグループから外へは広がらない。「あおばい」 や「よけとび」に似た、⼤⼈による短縮語に「スマホ」があるが、こちらの⽅は権威 ある辞書に掲載されるほどの広がりを得ている。幼児の独特な「造語」は、けっして 辞書に載るようなことはない。しかし、彼らの「造語」はある意味では辞書に載る以 上に価値ある働きをしている。 母語の習得に不可欠な「造語」の創造・使用 このような独特な「造語」のもつ第 1 の意味は、⺟語の習得に深く関わるものであ り、かかる「造語」の創造・使⽤がなければ⺟語を真に習得したことにならない、と いう点にあることを、チュコフスキーとともに主張したい。彼は次のように述べてい る 。— 「 ⺟ 語 習 得 の 途 上 に あ る 幼 い ⼦ ど も 期 に 、 «ползук», «вытонуть», « притонуть», «тормозило»などというような語を創造しなかった⼈は、⾃分の⾔語の 完 全 な 主 ⼈ に は 決 し て な れ な い で あ ろ う 」(2012,с.19//1970,p.27//1996)。上記の «ползук(ポルズーク)»は、ползать〔ポールザッチ、這う〕と жук〔ジューク、 ⾍〕をつなげた造語である、と考えられる。 なぜ、このような独特な「造語」が⺟語の真の習得の保障となる、と⾔いうるのだ ろうか。幼児後期の「造語」の多くは、その独特さにおいて共通の特徴を持つ。その

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特徴は、⽂法規則にあまりにも忠実である、という点にある。「あおばい」の「語源」 は、それを使⽤した幼児によれば、「⽩バイ」にあった。やや⼀般化して⾔えば、 「⾊名+バイ」で「〇〇⾊のバイク」というようにあらゆる⾊のバイクを指すのであ る。同じように、「ピンクい花」(ピンクの花またはピンク⾊の花ではなく)、「緑 い葉っぱ」(緑の葉っぱまたは緑⾊の葉っぱではなく)というような⼤⼈がけっして 使⽤しない幼児のことばが⽰すように、幼児にとっては、「⾊名+い+名詞」で、あ らゆる⾊のモノを表している10。 このような「造語」が多く聞かれるれるのは、3 歳代に話しことばの体系が⼀応の ところ獲得された後の、幼児後期においてである。もし 1 歳児の初語と⽐較するなら ば、初語の場合には必ず「語の般⽤」「意味の般化」が⽣じるが、「造語」において はいわば「⽂法の般化」が⽣じているようなものである。 意味の般化とは発話される語の意味が慣⽤の枠から外に広がっていく、という現象 である。⾔語⼼理学者の村⽥孝次は、「語の般⽤」、つまり慣⽤からはずれる「意味 の般化」を、次のように定義している——「ここで“般⽤”とは、談話発達の初期に顕 著な、1 語が慣⽤の枠を超えて、過度に拡張使⽤される現象をいう。たとえば、ワン ワンという⾳声がイヌという慣⽤の意味範囲を超えて、あらゆる四⾜獣、さらに、そ れに似たあるいは似ない⽣物・無⽣物にまで⽤いられる場合がこれである」(村⽥孝 次、1968、p.168)。こうした語の般⽤、意味の般化は、けっして⾮効率的で無駄な 現 象 な の で は な く 、 真 の generalization を 導 き 出 し て い く こ と に な る overgeneralization なのであり、それを⼦ども⾃⾝の⼒によって担っているのである。 上記のような独特な「造語」の出現は、意味の般化(overgeneralization)に匹敵する grammatical overgeneralization なのだと⾔って良いであろう。 「模倣と創造の統一」を可能にする対話的関係 独特な「造語」のもつ第 2 の意味として強調したいことは、この語を創り出す⼦ど もの⾏為は、⼤⼈の「模倣」だけはなく、また⼦どもの「創造」だけでもないことで ある。「模倣」だけではない、というのは、こんな語を⼤⼈は使わないからである。 また、「創造」だけではないというのは、⼤⼈が普通に使う「⽩バイ」をアレンジし て「あおばい」を作り上げ、⼤⼈の使う「避〔よ〕ける」「⾶ぶ」をくっつけて「よ けとび」を作り上げているからである。簡単に⾔えば、「あおばい」や「よけとび」 という⼦どもの語は、チュコフスキーの⾔葉を借りれば、「模倣と創造の統⼀」

10 英語においても、go の過去形である went を覚えた子どもが、そのうちに goed を使用しだしたとい う事例が報告されている(広瀬友紀、2017、p.45)。

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(2012,с.24//1970,p.33//1996)というほかはない。 この模倣と創造とが統⼀されたものという本性が⽰唆しているのであるが、この 「造語」は⼦どもと⼤⼈との対話の所産でもある。この対話のなかでは、⼤⼈が提供 していることばを⼦どもが創造的に加⼯している。この対話は、⼦どもが創造的なも のを産出するので⽇常会話的な対話とはいえないし、治療的対話でもない。敢えて⾔ えば、新しい⾔葉を産出するという点では、広い意味での哲学的対話であろう。 対話が鋭敏になる時期 「よけとび」という「造語」を深めて⾒えてくるものを明らかしておこう。この造 語を筆者が聞いたのは、ある幼稚園 5 歳児組の公開保育においてであった。次のもの は、その後に、その組の担任保育者に取材した筆者のメモである。 《ツバメの⾶びについてクラスの興味が集まってきた(公開保育の前の)ある⽇の設定保育。そこでは、 それまでに⼦どもたちが⾒た様々な経験が混ざりあっていた。⾍を取っているという話題については「⾍ の真似をして⾶んだら⾍が取れる」と⾔う⼦。それとかかわって、⾼く⾶んでいるのは「うえ⾶び」、地 上すれすれに⾶んでいるのは「すれすれ⾶び」や「ぎりぎり⾶び」、園庭の脇にある林のあいだで⽊をよ けながら⾶ぶのを「よけ⾶び」だと⾔うのである。⾶ぶ⾝ぶりを交えながら語られるこれらのことばは皆、 ⽣きている。「よけ⾶び」は⼀⼈の⼥児が語ったことばだが、すぐにクラスの共有財産になった(保育者 やクラスの⼦どもの誰かが⾔えば、何のことだかすぐにわかる)。》 これを保育の過程において捉えると、概ね、以下のように⾔うことができるであろ う。 「よけとび」「うえとび」「ぎりぎりとび」などの⼦どもが創造したことばが⽰し ているように、ここにあるのは⼩学校中学年や⾼学年に⾒られるような、教師が教え たことに反応する形で学習する「反応的学習」ではない。かといって、3 歳未満児に おけるような「⾃然発⽣的学習」でもない(保育者が導いているのだから)。ちょっ と⼤まかに「(保育者が)導く」「(⼦どもに)導かれる」がどのように⾏われてい るかを紹介しておこう。 (a)まず、⼦どもの興味・関⼼を考慮に⼊れて、ツバメをテーマにして、⼀定期間、 このテーマを追求する(導く)。(b)⼀定期間というのは⼦どもの興味の状態から判 断する(導かれる)。(c)⼦どもの興味の状態を⾒ながらであるが、実際のツバメを ⾒る・⾒てきたことを話し合いと⾝ぶりで表現することを積み重ねる・ツバメに関連 した歌をうたう・同様に絵本を読む・絵画製作を⾏う(導く)。(d)と同時にそれら の活動の具体的な内容・保育の実際においては⼦どもの興味を⼤切にする(導かれ る)。このように、「導く」と「導かれる」はお互いに絡み合っている。 ここで筆者が念頭に置いているのは、ヴィゴツキーが⽰した就学前期の教授・学習

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の性格、「⾃然発⽣的—反応的」という教授・学習の様式である(ヴィゴツキー、 2003)。これを保育の問題として⾔いかえれば、保育は⼦どもを導くものだが、⼦ど も(の興味)に導かれることなしには、導いたことにならないのである。 これを対話の問題として捉えた場合には、これらには、幼児としての独⾃性ととも に、対話としての⼀般的性格が⾒られる。幼児期の対話は、ことばによる対話に特化 されず、総合的あるいは混合主義的(ことば・⾝ぶり・描画・歌唱など)表現による 対話であり、そこに幼児の対話としての独⾃性がある。また、⼦どもを含む対話参加 者たちの関係は「⾃然発⽣的—反応的」相互関係であり、これがバフチンの⾔う対話 参加者たちの「意識の同権性」に⼀番近いものであろう。この点では、対話の⼀般的 性格に接近している。さらに、独特な「造語」という形で、新しいことばの創造が⾒ られるのであるから、この点から⾔えば、もっとも早い哲学的対話とも呼びうるであ ろう。

V 対話が生まれる発達的諸条件

3 つのタイプの教授・学習 ⼦どもを含めた対話、あるいは、⼦どもを主たる相⼿とした対話は、上記の「造語」 を⽣み出す独特な対話から⽰唆される事柄は多くあるのだが、ヴィゴツキーが指摘し た、幼児後期もその⼀つである 3 つのタイプの教授・学習あるいは教育における⼈間 関係に照らして、その対話を位置づけ直すことは、対話が⽣まれる発達的諸条件を⼀ 般化することにつながっていく。ここで⾔う 3 つのタイプの学習(正確には教授・学 習)とは次のものである(ヴィゴツキー、2003)。 ・「⾃然発⽣的タイプ」の学習 乳幼児期のことばの発達は、⾃然発⽣的タイプの学習の分かりやすい実例となって いる。ヴィゴツキーの⾔葉を借りれば、⼦どもは「⾃分⾃⾝のプログラム」にもとづ いて学習する。したがって、ことばの発達の内容や時期は⼦どもによって⼤きくは違 わない。たとえば、1 歳前には「指差し」が⾒られ、1 歳頃に初語が発せられる。それ は意味的には不安定で、いろいろな事物を表すのだが(「意味の般化」)、その初語 は⼀語でありながら⽂の機能を持つ(「⼀語⽂」。場⾯に応じてその⼀語は異なる⽂ を表す)。1 歳代をかけて語彙の増加とともに意味の般化は終息し(「意味の分 化」)、ことばも「⼆語⽂」、「三語⽂」となる。そうすると、1 歳後半から 2 歳頃 までのある時期にことばが爆発的に発せられるようになる。2 歳代における⽂法発達 を経て、3 歳代には「話しことばの体系」が⼀応のところ獲得される。ちょうどその

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頃、独り⾔が始まる。こうしたことばの発達は概ね(⾔語にも関係する障害がなけれ ば)、どの⼦にも法則のように現れるのである。⼤⼈はこのようなことをプログラム として持って、教育しているわけではない。ただ、⼦どもの欲求や必要を満たし喜び を味わいあうために、⼀緒に⽣活しているだけである。ことばのある⽣活のなかで、 ⼦どもが⾃分の⼒を駆使して、ことばを発達させている。つまり、⾃然発⽣的にこと ばを学習しているのである。 ・「反応的タイプ」の学習 その対極にあるのが「反応的タイプ」の学習である。これは、「教師のプログラム」 にもとづいてなされる教育に対して、それに「反応」するように⾏われる 学習 である。 それは⼩学校中・⾼学年に典型的に現れている。もちろん、その教育はたんなる知識 の伝達ではなく、教えようとする課題・内容に対して⼦どもの興味を惹き起こそうと する。しかし、その課題・内容、それらを教える時期は、⼦どもではなく、教師が決 めるのである。そうしなければ、⽂化を系統的に伝えることはできないからである。 ・それらの「中間的・移⾏的タイプ」である「⾃然発⽣的–反応的タイプ」の学習 幼児後期と⼩学校低学年における学習は、これらの 2 つのタイプの学習の中間にあ り、「⾃然発⽣的–反応的タイプ」の学習と特徴づけることができる。いわば、《⼦ど ものしたいことが保育者のしたいことであり、保育者のしたいことが⼦どものしたい ことである。たしかに保育者が⼦どもを導いているのだが、同時に、保育者は⼦ども に導かれている》と表現できるであろう。 前記の「よけとび」という新しいことばが⽣み出されたのは、3 つ⽬のタイプの学 習のなかにおいてであった。 発達の観点からの再整理 これらを⼈格発達と年齢的発達との観点から再整理してみると(ヴィゴツキー、 2003、2012a 参照)、以下のように考えることができるであろう。 3 つのタイプの学習が順次登場してくるのは、全体としての発達の時期区分にもと づいているが、ヴィゴツキーにとって時期区分の極めて重要なモメントは、⼈格全体 が⼤きく再編される危機的年齢期である。具体的には、1 歳、3 歳、7 歳、13 歳、17 歳の危機である。 学習の3 つのタイプは、1 歳と 3 歳の 2 つの危機のあいだ、3 歳と 7 歳の危機のあ いだ、7 歳と 13 歳の危機のあいだに、それぞれ主要なタイプとして登場する。

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それらを要約しなおせば、次のようになるであろう。 〔**1 歳の危機(発達の節⽬)〕 ・⾃然発⽣的学習 1 歳半〜3 歳 ⼦どもは「⾃分⾃⾝のプログラム」にもとづいて 学ぶ。たとえば、ことばの発達。 〔**3 歳の危機(発達の節⽬)=⾃我の芽⽣え。ワロン流に⾔えば、⾃他の同時的形 成の始まり。その特徴は、ヴィゴツキーが述べるように、確かに⾃我があるのに、⼦ どもは⾃分に⾃我があることは認知していない〕 ・⾃然発⽣的=反応的学習 3〜7 歳 ⼦どものしたいことが保育者のしたいことで あり、保育者のしたいことが⼦どものしたいことである。(たしかに保育者が⼦ども を導いているのだが、同時に、保育者は⼦どもに導かれている)。 〔**7 歳の危機(発達の節⽬)=⼦どもは⾃分に⾃我、⾃分の内⾯があることを認知 するが、内⾯のなかには⼊り込まない〕 ・反応的学習 7〜13 歳 ⼦どもは教師の「プログラム」に反応する形で学習する。 教師は知的興味を抱かせて⼦どもを⾃分の提起する課題の⽅に引き寄せる。 哲学的対話が生まれやすい時期 ここから先の学習のタイプをヴィゴツキーは明記していないが、以下のように、そ れを推測することができるであろう。⼀つの年齢期に 3 タイプが同時に出現する。対 話参加者の「意識の同権性」の観点から考えれば、対話が⽣まれやすいのは、前述の 3〜7 歳の時期と、次に述べる 13〜17 歳の時期および 17 歳の危機以降の時期におけ る「⾃然発⽣的=反応的学習」の相のなかでのことである。 〔**13 歳の危機(発達の節⽬)=本来の意味での⾃⼰意識の⽣成。⼦どもは⾃分の 内⾯に⼊り込む〕 (⾃⼰意識の形成を基盤にした⾼度化) ・⾼度化した反応的学習 ・⾼度化した⾃然発⽣的=反応的学習 ・⾼度化した⾃然発⽣的学習〔例えば、映画「キューポラのある街」のなかで中学 3 年のヒロインが⾃分の⽗親を事例に書いた「性格と貧乏」をめぐる作⽂。それを読 みながら深く考えさせられる無⾔の教師〕

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〔**17 歳の危機(発達の節⽬)〕 (⼤学⽣の場合) ・さらに⾼度化した反応的学習 〔講義〕 ・さらに⾼度化した⾃然発⽣的=反応的学習 〔演習、卒論指導〕 ・さらに⾼度化した⾃然発⽣的学習 〔卒業論⽂〕 ⼤学教育を事例として対話について考察してみよう。 大学における講義と内面の能動性 ⼤学教育を事例に考察してみよう。いま喧伝されているアクティヴ・ラーニングは、 活動・⾏為の要素を伴うこと(それによって知や⼼理が能動的になるという素朴な信 念がある)、発達段階貫通的に「調べる」「話し合う」「表現する」などの要素から 成り⽴っていること、などを特徴としている。 もし内⾯的に能動的な学習を促すということを考えるとすると、⼤学における講義 は実践的な活動・⾏為の要素を伴わなくても能動性を促進することができる。 ⼤学教育にもまたアクティヴ・ラーニングを導⼊したいようである。このことは講 義の軽視を招きかねない。ところで、発達の最近接領域の観点からすると、講義こそ、 明⽇の発達を切り拓くものであり、アクティブの観点からすれば、講義は内⾯の能動 性を促進させるものであるべきで、またそれが可能である。 以前に勤めたある卒業⽣の講義コメント(3 回⽣前期)を紹介して、内⾯の能動性 の問題を考察してみよう。 「この講義を聞いて、私は⼩さい頃に感じた違和感を思いだしました。それは、⼼の中でつぶやいた⾔ 葉〔だということ〕は分かるのに、周りには聞こえてないし⾃分の⽿でも聞こえないということです。い つから考え始めたのかは思い出せませんが、それは内⾔を意識し始めた時期と⼀致するのではないのかと 思いました。そのときは不思議だなと思っていただけでしたが、講義を聞いてこれは重要な過程だったの だと感じました。」 それは、どんな講義であったのだろうか。——ピアジェが発⾒した事実(おおまか に⾔えば、⼦どもの独り⾔は 3 歳をピークにして 7 歳には半減する。)についてのピ アジェの解釈とそれとは異なるヴィゴツキーの解釈。ピアジェは社会性の発達の故に 独り⾔(⾃⼰中⼼的⾔語)が半減すると考えた。ヴィゴツキーはそれは表⾯的な考え であるとし、独り⾔から内⾔(聞こえない、⾃分のための⾔語)への成⻑が半減の基 盤にある、と考えた。そうした内⾔は、ヴィゴツキーによれば、あらゆる⼼理活動を ⾼次化する⽀えになる(これも⼤まかに⾔えば)、というものであった。

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「⼩さい頃に感じた違和感」への解答を得たというこの学⽣とたまたまキャンパス で出会ったとき、「⾯⽩いコメントだった」と声をかけた筆者に対して、「⼼の中の ことばが聞こえない不思議さを感じたとき、⼼の中で⼤声を出してしゃべったけれど、 やはり聞こえなかった」と彼⼥は笑いながら付け加えてくれた。「違和感」は本物で あった。そして、10 年前後の時を経て、講義を契機にしてそのころの記憶がよみがえ り、違和感への解答がえられたと感じたこと——これは内⾯における知の能動性にほ かならない。 以上は、講義の内容を契機にして展開された哲学的対話と⾔ってよいものであるが、 講義そのものは対話とは違う。講義の内容は、講義者によってあらかじめ規定されて おり、対話に特有な「⾮完結性」を持つ、とは⾔えない。ところが、卒業論⽂の指導 や助⾔は講義とはまったく異なる。 卒業論文と対話 哲学的対話という観点からすると、卒業論⽂の執筆過程における対話こそ、哲学的 対話にもっとも近く、また、そうあるべきものである。 コミュニケーションということばは、⼀般的には、双⽅向のことばのやりとりを意 味し、たんなるおしゃべり会話・談話・対話などを含む⾔語活動の形式的な規定であ る。このうち、「ことばのキャッチボール」という間違ってはいないが深みに⽋ける 規定からは捉えきれない、もっとも深いコミュニケーションは対話である。ここには、 普通の会話・談話にはないものがある。ここには、ヤクビンスキーが⾔うような書き ことばにも⽐すべき⾼次の⼼理過程を担い、バフチンが⾔うような⾃⼰と第 2 の内な る声(その出⾃は他者の声にある)との内的対話が⾏われるといった、治療的対話や 哲学的対話がある。いわば、そこにあるのは、外⾔の内⾔化と内⾔の外⾔化との極致 であろう。 その深みの⼀つの証しは、対話をしている相⼿も⾃分も、もともと予期さえしなか った「新しい第 3 の意味や考え」が対話のなかで双⽅に誕⽣する、という点にある。 教育実践のうえで、対話がもっとも典型的に意味を持つのは、前述したように、おそ らく、「⾃然発⽣的–反応的」学習〔教授・学習〕が⾏われうる時期、つまり、幼児期 と⼩学校低学年期〔3 歳と 7 歳の危機の間にある時期〕、および、13 歳の危機〔思春 期〕以降の、⾃⼰意識が形成されていく時期であろう。その意味で、保育と卒論指導 は似ている。 卒論の指導は、そのような対話が成り⽴つとき、以下のように⾶躍を遂げる。ある 卒業⽣が書いた卒業論⽂の結論部分を紹介しておこう。

参照

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