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カロリング期教会改革のバイエルンにおける展開 ――ザルツブルク大司教アルノ(785[798]-821)の時代を中心に――

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(1)

――ザルツブルク大司教アルノ(785[798]-821)の時

代を中心に――

著者

津田 拓郎

雑誌名

西洋史研究. 新輯

34

ページ

77-108

発行年

2005

URL

http://hdl.handle.net/10097/54340

(2)

カ ロ リング期教会改革 のバイエル ンにおける展開

―― ザルツブルク大司教アルノ (785[798]-821)の 時代を中心に一―

(3)

カ ロ リング期教 会 改革 のバ イエル ンにお け る展 開

―― ザル ツブル ク大 司教 アル ノ

(785[798]-821)の

時代 を中心 に一―

I。

は じめに

I.(1)研

究史

1969年

,Wウ

ルマ ンは

,い

わゆる「 カロリングルネサ ンス」を

,一

般 に「ルネサ ンス」

の語が想起 させるような「古典の復活」 としてではな く, フランク民衆全体の宗教的再生

を 目指す運動

,つ

ま り社会全体のキ リス ト教化を目指す運動 として捉えるという

,斬

新な

見解 を提示 した

このような考えは

,当

時のフランク王国を「広義の教会」 として捉え

た山田欣吾氏の見解 と合わせて考えるとより興味深いもの となる

.ウ

ルマ ンの言 う社会

全体のキ リス ト教的な再生への動 きとは

,民

=一

般信徒を も含む「広義の教会」全体を

キ リス ト教化す る運動 に他な らない

.フ

ランク王国は

,カ

ール大帝期に急速に領土を拡大

,多

様な文化・ 慣習を持 った人 々を包含することとなったため

,そ

れを一つにまとめ上

げる際にキ リス ト教が大 きな役割を果たす ことを期待 されたといえよう

.も

ちろん

,「

ロ リングルネサ ンス」が持つ宗教的な特徴はウルマ ン以前 にも指摘 されてこなかったわけ

ではない

.し

か し

,ウ

ルマ ンの見解の重要性は

,彼

が この「再生」の動きを

,聖

職者や知

識人の レベルだけでな く

,一

般信徒である民衆を も巻 き込んだ社会全体にかかわるもの

,

と捉えた点にある

.

ウルマ ンの主張はカロリング期を対象 としたその後の研究に大きな影響を与えている。

現在多 くの研究者が

,「

カロ リングルネサ ンス」を

,一

般信徒への宗教教育を通 じて社会

全体 をキ リス ト教の規範に沿 う形 に改革する動 きとして理解 しているといってよい

.ゎ

が国で も近年

,「

民衆教化」を主 た る対象 とした論考がい くつか出されている

.先

行研

究 は

,王

権の出 したカ ピ トゥラ リア

にあ らわれる教会改革の理念を分析 し

,カ

ール大帝

(768-814)と

ルイ敬虔帝期

(814-840)(特

にその前半

)に

,王

権が社会全体のキ リ

ス ト教化を目的 とした教会改革政策を打ち出 したことを明 らかにした

.王

権が目指 した教

会 改 革 の 理 念 は

,789年

に 出 さ れ た カ ピ ト ゥ ラ リ ア

,一

般 訓 令 AdmonitiO

Generalis161の

中に最 も良 く現れてお り

,そ

の内容はすでに多 くの研究中で詳細に分析 さ

れている

°

.従

って ここでは

,先

行研究中で明 らかにされた改革政策を簡単に概観す るに

とどめたい

.

一般訓令に見 られる諸々の施策の中で最 も強調 されていることは

,小

教区の司祭による

説教や模範的振舞いを通 じた民衆教化活動である。聖職者の司牧的・ 教育的役割が強調 さ

(4)

,彼

らの質の向上 も試み られた

.司

牧活動を通 じて民衆 と直接接触す る聖職者 を監督

0

調査 し

,司

教座に学校を作 る役割が司教に与え られている

.司

教はいわば改革の現場 にお

ける責任者の立場 に置かれたのである。 さらにカ ピ トゥラ リアの中には

,民

衆教化 に直接

関わるもの以外 にも

,教

義や典礼などの宗教的慣行の統一

,教

会組織の整備な ど

,極

めて

多岐にわたる施策が規定 されているが

,そ

れ らはすべて一つの

「キ リス ト教的価値観 に沿 っ

て矯正 された社会」を作 り出す試みとして理解す ることができる

. I。

(2)問

題の所在

このような改革 は王国全土で一様に行われたのだろうか

.そ

れぞれの司教が改革の責任

者 としての役割を与え られていたのであれば

,そ

れぞれの司教区に対象を限定 した上で

,

改革理念の現実 における展開を検討することで

,カ

ロ リング期教会改革の意義 に迫 ること

ができると考え られる

.こ

れまでの研究では

,改

革 に対す る王国各地の反応が概観 される

ことはあって も

,在

地での改革の展開を深 く掘 り下 げるような分析が行われることは少な

かったように思われる

.そ

のような試みが行われる場合であって も

,対

象 とされ る地域 は

ライン

0ロ

ワール間の王国の中心部 とされる部分のみであった

.

しか し

,カ

ピ トゥラ リアや司教 カピ トゥラ リアの伝存状況か らは

,王

国の中心部以外で

も教会改革が積極的に行われていたことが うかがえる

.モ

ルデクによるカ ピ トゥラ リアの

伝来写本 目録

を もとに作成 された

,地

域 ごとのカ ピ トゥラ リアの伝存状況を表 1に 示 し

た。また表 2は

,カ

ピ トゥラ リアを伝える写本の中で も特 に教会改革の在地での展開を示

す もの として重要な

,い

わゆる「手引書写本」

の伝存状況であ り

,表

3は 司教 カ ピ トゥ

ラ リアの

MGH版

001に

おける写本一覧 に基づいた司教 カ ピ トゥラ リア

GDを

伝える写本の伝

存状況である

.こ

れ らの表か ら明 らかになったことは

,ラ

イン

0ロ

ワール間の王国中心部

と並んで

,バ

イエル ン

Gaか

らも9世 紀前半を中心 に多 くの写本が残 っていることである

.

また

,残

されている写本のほとん どが「手引書写本」である点 も興味深い

.も

ちろん

,写

本の散逸の可能性を考えると, この調査結果は暫定的な ものに過 ぎない し

,カ

ピ トゥラ リ

,司

教カピ トゥラリアを含 まない形で伝え られている手引書写本 も数多 く存在 している

,そ

れ らはここでは考慮 されていない

.し

か し少な くとも9世 紀前半 には王国中心部の

みな らずバイエル ンにおいて も積極的な改革活動が展開されていたことは間違いないとい

,こ

の地域における教会改革の展開を検討することにも一定の意義を見出せるものと思

われる

.

本稿では

,ザ

ルツブル クの初代大司教 アル ノ

(位

785-821,798年

以降大司教

)の

在位

期を主たる対象に

,王

権の 目指 した教会改革が

,改

革の現場である小教区や一般信徒 にま

で伝え られる様子を明 らかにす る

Э

.そ

の中で

,先

行研究中で明 らかにされた王国中心部

における改革の展開 との相違 も指摘 される

.本

稿で得 られた知見は

,ア

ルノ以降の教会改

革の展開を検討するための基礎 となるだけでな く

,カ

ロリング期教会改革の意義その もの

(5)

を問 う際の手がか りともなるものであると思われる

.

2

国王 の カ ピ トゥラ リアを含 む「 手引書写本」 の伝存数

OD

I.(3)本

稿で用いられる史料 について

カ ピ トゥラ リアは

,カ

ロリング期の研究において もっとも頻繁に用いられてきた史料類

型 と言 ってよい

.そ

れは

,教

会改革研究において も同様である

.し

か し近年

,カ

ピ トゥラ

リアに対す る認識は大 き く変わ ってきてお り

,教

会改革を検討する際にも

,最

新のカピ トゥ

ラ リア理解を踏まえる必要があるだろう

.

この史料 に関 しては

,ガ

ンスホーフによる

,「

通常 そのテキス トが条項

(capitula)に

分かれ

,カ

ロリングの支配者たちが立法あるいは行政措置を公知 させるために用いた

,国

家権力の布告」

という定義か らも分かるように

,従

来その法的・ 行政的側面のみに注 目

が集 まることが多か った

9.し

か し

,近

年ではカ ピ トゥラ リアの中の宗教的要素に大 きな

注 目が集 まっている

9.確

かにカ ピ トゥラ リアの中には

,純

粋に世俗・ 行政的な事柄のみ

を扱 うもの も存在す る

.し

か し

,ほ

とん どのカ ピ トゥラリアの中では聖・ 俗の問題が と

1

カロリング期に出された国王のカピ トゥラ リアを含む写本の伝存数

00 9世紀前半 9世紀 後半 10世 紀 合 計 ザル ツブル ク大 司教 区 1 マ イ ンツ大 司教 区 トリー ア大 司教 区 ラ ンス大 司教 区 トゥール大 司教 区 サ ンス大 司教 区 ブール ジュ大 司教 区 リヨ ン大 司教 区 9世紀 前半 9世紀 後半 10世 紀 合 計 ザル ツプル ク大 司教 区 マ イ ンツ大 司教 区 トリー ア大 司教 区 1 ラ ンス大 司教 区 トゥール大 司教 区 1 サ ンス大 司教 区

3

司教 カ ピ トゥラ リアを含む写本の伝存数

00 9世紀前半 9世紀 後半 10世 紀 合 計 ザ ル ップル ク大 司教 区 マ イ ンツ大 司教 区 1 トリー ア大 司教 区 1 ラ ンス大 司教 区 トゥール大 司教 区 1 リヨ ン大 司教 区 1

(6)

もに扱われてお り

,そ

れどころか

,純

粋に宗教的問題のみを扱 うものす ら見 られるのであ

.

カ ピ トゥラ リアは近代の「法」 とは全 く異な った性質を持 っていた

.「

カ ピ トゥラ リア

の法的有効性」は

19世

紀以来長 い問議論の的 とな ってきた問題であるが

,近

TM.ブ

クがその議論の方向を大 き く変える見解を提示 している

.彼

はカピ トゥラ リアの「宗教・

司牧的

mension」

に注 目 し

,そ

れを勅令や命令 のよ うな「立

法的

O mativ」

な もの として捉えない

.そ

のように考えた場

,カ

ピ トゥラ リアは

,強

制可能な法ではな く

,支

配者 による訓戒 としての性質を強 く持

つ ものとなる。 もちろんすべてのカピ トゥラリアが宗教的な訓戒 として理解 されるわけで

はないだろう

.カ

ピ トゥラ リアの役割は

,ど

のような写本の中に記録 されているのかによっ

て変化するか らである

.一

般訓令 は

,部

族法典な どの法史料 と共 にカピ トゥラ リアを伝え

る写本中で も

,手

引書写本 中で も伝え られている

.前

者の事例 において

,一

般訓令 は明

らかに「法」 として写本に取 り入れ られている

.後

者の場合 にのみ

,カ

ピ トゥラリアが支

配者の訓戒 として扱われ

,在

地での教会改革活動の手引 として用いる目的で写本 に取 り入

れ られたと考えることが可能であろう

ω

.

手引 とされ得たのは国王のカ ピ トゥラ リアだけではない

.こ

の時代

,教

会会議決議 とカ

ピ トゥラリアは明確 に区別 されていなか った

.ま

,司

教 カピ トゥラ リアと国王のカピ

トゥラリアも

,発

布者 という大 きな違いはあるものの

,そ

の内容

,形

式の点で国王のカ ピ

トゥラリアと異な ってお らず

,

しば しば写本中で も両者が渾然一体 とな って伝来 してい

°

。従来の研究では

,カ

ピ トゥラ リア

,司

教カ ピ トゥラ リア

,教

会会議決議がそれぞれ

別 々に考察の対象 とされることが多か った

°

。 しか し

,そ

れ らのテキス トはすべて

,改

の現場における手引としての役割を果た し得たものである

.そ

れゆえこの時代の教会改革

を検討する際には, この種の手引 となったテキス トをすべて考慮する必要があるのではな

いだろうか

.本

稿 は

,カ

ピ トゥラリアに類似 した

,司

牧の際の手引とされた可能性のある

訓戒的な性質を持つテキス トをできる限 り広 く考察の対象 とする

.そ

こには教会会議決議

,

カピ トゥラリア

,司

教カピ トゥラ リア

,大

司教 による教会会議でのスピーチや司牧教書が

含まれる

.そ

の際特に注意 されることは

,そ

れが教会会議決議なのかカ ピ トゥラ リアなの

かという違いではな く

,王

国 レベル

,大

司教区 レベル

,司

教区 レベル といったテキス トの

対象 とする範囲である。それによ り王国 レベルのカ ピ トゥラリア 0教 会会議決議 に見 られ

る理念が

,小

教区や一般信徒 まで伝え られてい く様子が明 らかになることと思われる

.

.前

史 :大 公領時代から大司教座設立までの時期の教会組織化の動 き

788年

までバイエル ンは大公 によ り支配 されてお り

, 8世

紀半 ば以降はフランク王国か

ら半独立状態にあった

9。

この地域 には 8世 紀以前か らキ リス ト教が持ち込まれていたが

,

本格的な教会の組織化はボニファティウスの活動 によっては じまるといってよい

.そ

(7)

ときの様子を

,彼

と教皇の間の書簡が伝えている

.ボ

ニ ファティウスによると

,彼

がバイ

エル ンで活動を始めた当時

,そ

こには一人の司教

(お

そ らくパ ッサウ司教ヴィヴィロ

)し

かいなか った らしい。

739年

の教皇 グレゴリウス 3世 の書簡 によると

,ボ

ニ ファティウス

はバイエル ンをザルツプル ク, レーゲンスブルク

,フ

ライジンク

,パ

ッサウの

4つ の司教

区に分割 し

, 3人

のア ングロ・ サ クソン人を新たに司教に任命 した

OD.こ

こで重要なこと

,ボ

ニファティウスが「大公オディロの認可 とともに」4司 教座を確立 したことである

.

大公 は

,領

内でのボニファティウスの活動を支援す ることで教皇 との結びつきを密に して

,

教会政策へのフランク側の干渉を排除 し

,バ

イエル ンの独立を保つことを試みた

.こ

の時

期のバイエル ン教会の組織化 は教皇・ ボニファティウス 0大 公のイニシアティプの もとで

行なわれている

.し

か しこの時点でバイエル ン大公領内での教会改革がそれ以上展開する

ことはなか った

.バ

イエル ンの教会の頂点にいたのは大公であったため

,大

司教座の設立

は必要 とされなか った

°

。 さらにオディロの後を継いだタシロ3世

(位

749-788)は

,司

教座 よ りも修道院を重視す る政策をとったため

°

,司

教座を中心 とした教会組織の形成が

進 まず

,司

教や司祭の司牧的役割が強調 されることもなか った◆

タシロ時代の教会会議決議か らは

,タ

シロの教会政策が見て取れる

.タ

シロが大公であっ

た時期か らは 3つ の教会会議決議が残 っているが

,756年

ごろのア ッシュハイム教会会議

にはタシロよりも司教たちの意向が大きく現われている。 この教会会議は

,タ

シロが未だ

I革

:冤

Kは

,公

[:[II奨

:後

と ら

塑冤

│:電

F臭

1霞

][の

対百

霧釜

Th`

通、

'条

]

「曇

[訴

T

決議 も見 られ

,同

時代の ピピンの政策 と対応す るもの とな っている

.こ

れ らの政策 は

,

カール大帝 による一連の教会改革政策の中へ も受 け継がれてい くこととなるものであっ

.

それに反 してバイエル ンが フランク王国か ら半独立状態にあった時期に開かれた

,770

年 ごろのディンゴル フィング教会会議

°

771年

のノイシング教会会議

°

には

,大

公の意向

が大 き く反映 されている

ω

.そ

れは

,決

議の形式その ものにも現れている。ア ッシュハイ

ムのように聖職者たちが大公や世俗の有力者 らに呼びかけるのではな く

,会

議の決議を も

とに した大公 による勅令の形式を取 っているのである

D.タ

シロ自らがイニシアティプを

とって開催 したこれ らの教会会議活動の中では

,

もはや司教の地位の向上の動きは目立 っ

ていない

.そ

こには教会関係の決議だけでな く

,世

俗の事柄 に関す る決議 も含 まれてお り

,

特 に貴族への優遇政策が 目に付 く

°

.こ

2つ の教会会議決議は

,バ

イエル ン部族法典の

T:1と

硝 昴

ξ

謂 訂雛 絲

T理

1渕史

,民

衆活動への動 きは見 られない

.

(8)

788年

のタシロの失脚以降

,バ

イエル ンはフランク王国に完全 に併合 されることとな り

,

カールの義理の兄ゲロル ド1世 が辺境伯・ プラエ フェク トゥスに任命 された

°

.し

か しそ

れだけでは

,こ

の地域を完全 にフランク王国内に組み込むためには不十分である

.一

般訓

令を見て も分かるように

,フ

ランク王国の統合原理 はまさにキ リス ト教であった

.カ

ール

にとって

,新

たに獲得 したこの地域の教会の組織化を進 め

,社

会全体のキ リス ト教化を進

めることは不可欠の課題であった といえるだろう

.

この時期 に

,バ

イエル ンの諸司教座 は経済的に豊かにな ってい く。カールは

791年

か ら

793年

までバイエル ンに滞在 し,征 服の後処理 に努めている

.こ

の時,以 前 に大公か らレー

ンとして受け取 っていた財産がすべて

,司

教座 0貴族 らにみとめ られ

,大

公に優遇 されて

いた私有修道院はその多 くが王権や司教座の傘下 に入 ることとなる

.し

か し, この時期

において も

,一

般訓令に見 られるような教会改革の積極的な推進 は見 られない

.そ

の理 由

としては

,791年

か らアヴァール遠征が本格化 した ことが挙 げ られ るだろう

.し

か しさ

らに

,バ

イエル ンの司教たちが必ず しもフランク寄 りではなか ったことも原因 と考え られ

るか もしれない

.従

来の研究 においてアギロルフィング期か らすでに親 フランク的であ っ

たとされていた

,ウ オジージッペ出身のフライジンク司教 ア ッ ト

(位

783-811)に

ついて

,

近年の研究 においては

,カ

ールの征服直後 に彼がカロ リング家の支配を非難す る態度 を

とっていることが指摘 されている

°

。また

791年

の前任者 シン トベル ト

(位

768-791)の

アヴァール遠征での戦死の後

,

レーゲ ンスブルク司教 に任命 されたアダル ヴィン

(位 791

-816)は

,こ

れまで考え られていたように宮廷サー クル出身なのではな く

,前

任者 と同

じ ドナウガウに基盤を持つ有力貴族 出身であった

°

.バ

イエル ン併合後 も

,カ

ールは自ら

の腹心を送 り込むのではな く

,在

地貴族家門か ら司教を選んでいるのである

.王

権 と個 々

の司教 との間の関係は

,王

国中心部 と異な り必ず しも親密であったとはいえなか った

.

しか し

,ザ

ルツブルク司教のアルノは例外である

.こ

こで彼の経歴を簡単 にまとめてみ

よう

.彼

,740年

ごろに

,バ

イエル ンの有力貴族家門であるファガナー族 の近親家系

に生まれた

.758年

にフライジンク司教 ヨセフス

(位

748-764)に

預 けられ

,遅

くとも

776

年 にはその地で司祭職についている

.778年

ごろにアル ノは

,フ

ランク王国内のサ ンタマ

ン修道院に入 り

,782年

にそ この修道院長 とな った

.そ

の ころ彼はカールの宮廷サークル

と親密な関係 を持 ったようだ。

785年

に彼 はザルツブル クの司教 となる

,彼

の司教ヘ

の昇進の背景にはカールの影響力があったのだろう

.し

か し彼 はタシロと対立 していたわ

けではない。

787年

,タ

シロはカール と自身の紛争 の調停 を教皇 に依頼す るとい う重要 な

任務をアルノに与えた

.こ

の試みは失敗に終わるものの

,ア

ルノとフランク国王・ 大公 と

の関係が悪化す ることはなか った と考 え られている

.バ

イエル ンの併合か ら

10年

,ア

ヴァール遠征 も一段落 した

798年

,ア

ルノは教皇 レオ 3世 か らパ リウムを受 け取 り

,フ

ライジンク

, レーゲ ンスブル ク

,パ

ッサウ

,ゼ

ーベ ン

,ノ

イブル クを属司教座 として持

6D大

司教 となった

.こ

こでの教皇の役割は形式的な ものであ り

,実

際のイニ シアテ ィブ

(9)

を取 ったのは明 らかにカールであ った

°

。アル ノの大司教位への昇格の背景 を巡 っては

様 々な議論がなされているが

,バ

イェル ンの貴族出身であると共にフランク宮廷 との関

係 も深か った彼がバイエル ンの大司教 にもっとも適 した人物であった, ということに疑い

の余地 はないだろう

.以

前か ら政治的中心地であ った レーゲ ンスブル ク

°

ではな くザル ツ

ブルクが大司教座に昇格 したことについて も

,ア

ルノ個人 と宮廷の結びつきが大きな役割

を果 た した と考え られ る

.ア

ル ノが大司教 とな った

798年

以降

,バ

イエル ンでは

,一

訓令の理念 に従 った教会改革が本格的に展開 してい くこととなる

.以

下で

,そ

の様子を具

体的に検討 していきたい

.

.教

会改革の展開

.(1)王

権 による改革理念の大司教区への伝播

一般訓令や王国規模の教会会議決議の中に見 られる改革理念は, どのようにして各地の

司教たちに伝え られたのだろう

.バ

イエル ンにおいては

,そ

れぞれの司教 と王権が直接接

触す るのではな く

,大

司教たるアルノを介 してそれぞれの司教区に改革理念が伝え られて

いる

.

そのための方法 として第一 に挙げられるのは

,カ

ピ トゥラリアが発せ られる場で もあっ

た王国規模の教会会議への参加である

.た

だ し

,こ

の時代のほとんどの教会会議決議は

,

参加者の署名を欠 く形で伝え られてお り, どの教会会議に誰が参加 したのかを正確に知 る

ことは困難である

.ア

ル ノが参加 したと考え られている王国規模の教会会議は

,801年

か ら

802年

にかけて開かれた一連のアーヘ ンでの教会会議

m,806年

の帝国分割計画の際の

デ ィーデ ンホーフェンでの会議な どである

ω

.さ

らに彼 は

,813年

に王国の

5ヵ

所で同時

に開かれた改革教会会議の一つ

,マ

イ ンツ教会会議 において

,ケ

ル ン大司教 ヒルデバル ドゥ

,マ

イ ンツ大司教 リクル フスと並んで司会を務めたことが分かっている

.こ

れ らの教

会会議 は

,一

般訓令 に見 られる教会改革政策の再確認が行われ

,そ

れがさらに発展 させ ら

れる場で もあった

°

。アル ノはバイエル ンの司教たちを代表 して

,こ

の種の王国 レベルの

教会会議 に参加 していたのである

.

さらにアルノは

,国

王の使節 としての活動を何度 も行 っており

,カ

ールが彼に大 きな信

頼 を置 いていた ことが うかがえ る

6D。

797年

,彼

,ア

キ レイア総大司教パウ リヌス

,

サ ン ドニ修道院長 ファル ドゥル フらと共に

,カ

ールによってローマヘ と派遣 され

,い

くつ

かの任務を果た した。

800年

には

,パ

ーダーボル ンヘ と逃れていた教皇をローマヘ と送 る

という重要な任務を

,ケ

ル ン大司教 ヒルデバル ドゥスと共 に行 っている

.彼

は同年末 に再

びローマヘ行き

,カ

ールの皇帝戴冠にも立ち会 っている

.彼

が皇帝の信頼を受けていたこ

とは

,811年

に出されたカールの遺言書か らもわかる

°

.彼 は

,ケ

ル ン大司教 ヒルデバル ドゥ

,マ

イ ンツ大司教 リクル フスに次いで 3番 目に署名 しているのである

.ア

ルノはカール

個人 とも頻繁 に接触できる位置にあったといえるだろう

.

(10)

彼は国王巡察使にも任命 されていた。巡察使制度 とは

,複

数の伯管区を包摂す る程度 の

広 さを持つ「巡察管区」を設 け

,そ

れを聖俗各 1名 の使者 によって巡回させ るもので

,彼

らは国王の代権者 として

,紛

争の調停

,伯

の監督

,王

領地の管理などを行なった

.さ

らに

カ ピ トゥラリアの伝達 と実行 もその職務 に含まれる

.い

わゆる巡察使 カピ トゥラ リアに

おいて巡察使が自身の管区で徹底 させ るべきことが述べ られてお り

,そ

こか ら教会改革 に

おける彼 らの役割が明 らかになる

.例

えば

,810年

の巡察使カピ トゥラリアでは

,「

聖職者

一人一人が

,自

身の品級 に応 じて, 自身に委ね られた民衆 に説教を行い

,彼

らに教育を施

す よう努めるべきである」 と定 め られている

.す

でに述べたように

,説

教を通 じた民衆

教化は一般訓令に見 られる教会改革の中で ももっとも強調 されているものの一つである。

一般訓令に見 られる教会改革を, 自身 に割 り当て られた管区で徹底 させることが巡察使 に

期待 されたのである

.彼

らは

,行

政面 における役割 とともに

,教

会改革 において も大 きな

役割を持 っていた

.ア

ル ノは

791年

以降国王巡察使 と して頻繁 に史料 に現 れ るよ うにな

.彼

,パ

ッサウ

,フ

ライジンタ, レーゲ ンスブル クなどで活動 してお り

,そ

の管轄

区域はザルツブルク大司教区とほぼ一致 していたと考え られる

。巡察使 としてのアル ノ

の地位は

,大

司教区内での教会改革を推進す るためにも好都合だった ものと思われる

.

このようにアルノは

,教

会会議への参加

,国

王の使節団への参加

,巡

察使活動を通 じて

王権 と頻繁に接触する機会を持 っていた

.さ

らに

,宮

廷サークルの中心人物であ り

,教

改革の推進者の一人 と考え られているアルクイ ンとも

,彼

は個人的な関係を持 っていた

.

アルクインがアルノに送 った多 くの書簡がそれを示 している

.そ

の中では

,一

般訓令を想

起 させ るような改革理念が繰 り返 し説かれている

.た

とえば

790年

の書簡では「 自分 自身

について考え

,向

かうべき所を知 り

,行

うべきことをあ らか じめ確かめ, 自身 についての

みな らず, 自身の指導に委ね られている一つ一つの魂について

,恐

ろ しい審判人の前で報

告することとなるのだということ

[を

考えるように

],何

度 も繰 り返 しお願い し

,勧

告 しま

.そ

れゆえ

,熱

心に働 き

,折

が良 くて も悪 くて も

,つ

ま り望む ものにもそうでない もの

に も

,説

教 し

,と

がめ

,戒

,励

ま して ください」

°

,と

述べ

,ア

ルノに司牧的な役割を

言去三嚢λ低 腫 夏 鍛

Z具

│ま

【↑

ざ 婁

%埴

不 詭 互■

u誓

1111を

I

アルノが大司教になった後の

800年

の書簡では

,「

平和 と愛の中に暮 らすわれわれの兄弟た

ち全員 に

,そ

して我 らが父

,司

教 ア リム

69に

,そ

してあなたの他の同僚の聖職者 たちによ

ろ しくお伝え ください

.常

に彼 らを説教の職務へ と促 して ください。使徒の座か らパ リウ

ムを受け取 ったとき

,あ

なたはよ り大 きな荷を受け取 ったのであ り

,あ

なたはすべての人

,す

べての身分に

,自

信を持 って神の言葉を説教す る義務を持 っている, ということを

忘れないように」

CO,と

して

,司

牧活動 と大司教 としての配下の聖職者の統制を再確認 し

ている

.ア

ルクイ ンとの頻繁な文通が

,ア

ルノによるバイエル ンでの教会改革への取 り組

みの際に大きな役割を果た したことは間違いない

.

(11)

以上か らバイエル ンにおいては

,王

権の改革理念を各地 に伝える際にアルノの果た した

役割が大 きか ったことが分かる

.王

国規模の教会会議への参加

,国

王の外交使節への参加

,

巡察使 としての活動を通 じて王権 と緊密に接触 し

,王

宮における改革の推進者 アルクイ ン

との個人的な友情関係を持 っていたことで

,ア

ルノは教会改革への意識を大いに高めたこ

とと思われる。 このように して王権の改革理念を受け継いだ彼は

,大

司教区内の司教たち

にそれを伝えてい くこととなる

.

.(2)大

司教区内での教会改革の展開 :大 司教区会議

アルノを中心 として

,各

々の司教たちに改革理念・ 改革政策が伝え られる場 として機能

したのは

,主

として大司教区会議であった。一般訓令

13条

では

,「

教会管区の司教たちに

対 して

,教

会の諸問題

[を

取 り扱 う

]た

めに

,[管

区の

]首

都大司教 と共 に年間に 2度 教会

会議 を開 くべ きこと」が定め られている

CD。

表 4は

,ア

ルノの時代 にバイエル ンで開催 さ

れたことが知 られている大司教区会議の一覧である

.798年

か ら

811年

までの間に少な くと

も6回

°

の大司教区会議が開かれたことが分かる

.さ

らにカロリング期の教会会議決議の

中では例外的に

,バ

イエル ンの教会会議 は参加者が明 らかになっているものがほとんどで

ある

.そ

の中で第一 に日に付 くのは

,俗

人の不在である

.俗

人の参加が記録 されているの

,テ

ーゲル ンゼー修道院長 とフライジンク司教の間の争いの調停を記録 した

804年

のテー

ゲル ンゼーの会議のみである

.大

公時代 とは異な り

,俗

人支配者たるプラエフェク トゥス

やグラーフの参加 は認 め られない

.以

前 まで大公が座 っていた主催者の位置には

,大

司教

のアルノがついた ものと思われる

.会

議 に参加 しているのは

,ザ

ルツブル ク大司教座の属

司教 と修道院長

,そ

しておそ らく開催地の聖職者 らである

.こ

のような大司教区会議は

,

大司教を中心 に してそれぞれの司教区内での教会改革の実践を再確認 しあう場 として機能

した

.ま

た, この種の会議は大司教区内での紛争の調停が行なわれる場で もあった

.大

教区会議 は

,巡

察使で もあったアルノが属司教や修道院長たちに自らの権威を示す場 とし

て も役立 ったと思われる

.

(12)

アルノの時代の大司教区会議 に関す る史料の うち

,教

会改革政策を具体的に伝えるもの

を表 5に まとめた

.Instructio Pastoralisは

,ア

ルノの大司教昇格直後の798-800年 の間

に開かれたと推測 される開催地不明の大司教区会議で出された

,18条

か らなる司牧の手引

である

00.各

条項 は比較的長 く

,一

つの条項で複数の問題が扱われる場合 も多い

.教

会会

議の決議その ものではな く

,ア

ルノが 自ら作成 し

,大

司教区会議の参加者達 に贈 った もの

と考え られている

.司

教 カピ トゥラ リアが

,基

本的に司教区内の司祭に向けられているの

にたい し

,こ

のテキス トが呼びかけている対象は主に司教である

.司

教はその内容を自ら

の司教区内の聖職者に司教区会議で伝え ることになっていた

.大

司教区会議の決議は

,

799年

にライスバ ッハ

,フ

ライジンク

,ザ

ルツブル クで開催 された もののみが完全な形で

残 っている。第 1条 か ら第 5条 までがライスバ ッハ

,第

6条 か ら第

31条

までがフライジン

4

アル ノの時代 の大司教区会議 の一覧

開 催 地 時 代 参 者 備 考 不 明① 798-800 不 明 アル ノが Instructio Pastorahsを 出 した 時 の教 会 会議0。決議 は伝 わ って いな い。 ライスバ ッハ, フライジンク, ザルツプルク

0

799? ゼ ーベ ン司教 ア リム

,ザ

ル ツプル ク大 司 教 アル ノ

,パ

ッサ ウ司教 ワル ドリッヒ, フライ ジ ンク司教 ア ッ ト,ノイ ブル ク司 教 シ ン トベ ル ト, レー ゲ ンス プル ク司教 ア ダル ヴ ィ ン

, 6人

の修道 院長, 4人の 司祭

, 4人

の首 席 司祭

, 2人

の助祭. 47条 の決議 が伝来.

f-ttvy{-(10

ザ ル ツ プル ク大 司教 アル ノ

,フ

ライ ジ ン ク司教 ア ッ ト,司教 ア ダルハ ル ドゥス(司 教 座 不 明),vocatus episcopusヒル テ ィ ゲル ス

, 2人

の修道 院長, 2人の首席 司 祭

, 2人

の 司祭

, 6人

の修道士, 3人の 伯, 1人の ケ ンテ ナ リウス他。 テ ー ゲル ンゼ ー修 道 院長 と フライ ジ ンク 司教 の間 の争 いを調 停 す る短 い記 録 が伝 来。 教会 会議 か ど うか は不 明.

7t4)>r?(l)

具 体 的 な人 名 は な い。「 バ イ エ ル ン州 の 司教

,修

道 院長

,他

の教会人 らの聖 な る 教会会議」

0.

大 司教 区会 議 で決議 され た祈 祷 兄 弟 盟約 につ いて述 べ る部分 のみ伝 来.

v-r>27*)(0

ザ ル ツ プル ク大 司教 アル ノ

,フ

ライ ジ ン ク司教 ア ッ ト, レー ゲ ンス ブル ク司教 ア ダル ヴ ィ ン

,パ

ッサ ウ司教 ハ ッ ト

,ゼ

ー ベ ン司教ハ イ ン リッヒ,(ア イ ヒシュタ ッ ト司教

?)ア

グ ヌス

,テ

ー ゲル ンゼ ー修 道 院長 メギ ンハ ル ト

, 2人

の司祭。 証 書 中 で,zわJたοεο "υ θπ滋 のおεOpοπ″sθ “ ι滋 解p盗ゎ滋

"%″

と して 言 及 さ れ て い る。 アル ノがSerm。を読 ん だ会議?

+ftv'y7nlw

ザ ル ツプル ク大 司教 アル ノ, フライ ジ ン ク司教 ア ッ ト, レー ゲ ンス プル ク司教 ア ダル ヴ ィ ン,ゼーベ ン司教ハ イ ン リッヒ, パ ッサ ウ司教 ハ ッ ト

, 6人

の修道 院長. 十 分 の一 税 の分 割法 につ いて の決議 の み を含 む記 録 が伝来.

7t4r>rED

ザル ツ プル ク大 司教 アル ノ

,フ

ライ ジ ン ク司教 ア ッ ト, レー ゲ ンス プル ク司教 ア ダル ヴ ィ ン

,パ

ッサ ウ司教 ハ ッ ト

,ゼ

ー ベ ン司教ハ イ ン リッヒ。 証 書 中 で,%b′加 ωω″滋 のおσψttι″Sι “ αらわα″″ ω笏 ″″ と して言及 され て い る。

(13)

ク,第

32条

か ら第

47条

までがザルツブル クでそれぞれ決議 されたものと考え られている

5

大司教 区会議 の内容 を伝 える史料

これ ら2つ の史料 には

,一

般訓令以来王権が 目指 してきた教会改革への取 り組みが大き

く現れている

.一

般訓令の中で最 も強調 されていたことは

,司

祭による説教活動を通 じた

民衆教化であった

89。

ここで も多 くの条項 は

,聖

職者たちが一般信徒 に教えるべ き事柄に

割かれている

.Instructio Pastoralisの

11条

には

,「

司教 はその信徒 たちに

,正

しい信

仰を保 ち

,聖

なる復活を信 じ

,審

判の 日をおそれ

,か

つて行 った善行・ 悪行が自らに戻 っ

て くることを信 じるべきであ り

,そ

れ らを疑 ってはな らない

,と

いつで も訓戒すべきであ

る」

00,

とある

.し

か し説教は司教 に限定 された ものではなかった

.第

4条

では「司祭た

ちが・¨ローマの教会の伝統に従 って教えることができ

,カ

トリックの信仰を論 じ

,自

身に

委ね られた民衆を教え

, ローマの伝統がわれわれに伝えるごとくに慣行に従 って ミサを挙

げる

, ということに司教 は注意を払 うべ きである」

00,

として

,司

祭の説教活動を監督す

る役割が司教に与え られている

.説

教の内容 として求め られたことは

,基

本的なカ トリッ

クの教義だけではなか った。第 5条 ではさらに説教 されるべき内容 として

,教

会 に通 って

祈祷 に専念す ること

,奉

納物を捧げること

,姦

淫・ 偽証・ 盗み・ 偶像崇拝・ 異教的な宣誓

を避 けること

,十

分の一税を支払 うことが規定 され

,罪

人に対 しては

,正

しく贖罪をおこ

な うことを教えるべ きとされている

.799年

の大司教区会議か らも一般信徒に教え られる

べきであった内容が明 らかになる

.第

5条 は

,す

べての聖職者が水曜と金曜に肉とワイン

を控え

,第

9時 に連祷を行 うことを決定 した上で

,「

民衆の中で説教が行われるべき時に

,

訓戒 と勧めを通 じて

,

もしくは何 らかの折を見て

,こ

のことをわれわれが民衆に説 くこと

ができるように」

0'と

定め

,一

般信徒 にも水曜 と金曜の断食を勧めることを求めており

,

16条

では「すべての司祭たちは

,民

衆 に罪深い宣誓の慣行を避けるように教えるべきで

ある」

ω

として

,ア

ルノの

Pastoralisの

内容が繰 り返 されている

.ま

,第

4条 は年に

4

回の施 しをおこな うことを

ω

,第

15条

は首席司祭が異教的慣習の根絶に努めること

,

23条

と第

46条

は信徒の結婚に関す る事柄を

,第

33条

と第

34条

はすべての信徒が四旬節

に月曜・ 水曜・ 金曜の行列に参加することをそれぞれ定めた

.こ

のように

,司

祭 には

,信

徒たちに基本的な教義を教え込むだけでな く

,彼

らの生活慣行すべてをキ リス ト教的なも

名 時 代 史 料 の 性 格 条 項 数 略 称 Instructio Pastoralis @ 798-800 大 司教 区会 議 の際 に出 され た

,属

司教 宛 て の 司牧 教書. 18条 Past. ライスバ ッハ

,フ

ライジンク, ザルツプルク教会会議決議18D 大 司教 区会議 決議. 47条 ConcoR.RS. 教会 会議説 教∞

806-81lm

大 司教 区会 議 の開催前 に読 み上 げ られた 文 書. 5条 田 Serm.

(14)

のに してい く役割が求め られたのである

.さ

らに教化活動は

,言

葉 による説教 に加えて聖

職者 自身の模範的生活によって も行なわれ るべ きであった

.Instructio Pastralis第

2条

では「言葉 よ りも彼

[司

]か

ら生 じる種 々のよき行 いのほうが従 うものたちを教えるほ

ど」

°

の善行を示すべきとされてお り

,同

様 の規定 は第 6条 や

799年

の会議の第

39条

に も

見 られる

.

このような説教や模範的振舞いを通 じた民衆教化の実践のためには

,小

教区の聖職者の

質の向上が欠かせなかったため

,そ

れに向けた施策 もとられている

.司

教は

,配

下の聖職

者が正 しい本を読み理解す ること

,女

性 と暮 らさないこと

,利

子付 きで ものを貸 さな

ぃこと

GDlこ

注意を払わな くてはな らなか った

.首

席司祭を通 じて他の聖職者の質 を保つ こ

とも求め られている性 また,Pastralisの 第 8条 では

,「

司教一人一人が

,自

身の都市 に

学校を作 り

,ロ

ーマの伝統に従 って教育 し

,読

書 に専念でき

,考

えを (?)判 断できる

,

聡明な教師をそこにお くべきである」

と定 め られてお り, ここには学校の設立を規定 し

た有名な一般訓令第

72条

が反映 されている里 さらに司教は年 に 2度 司教区会議 を開催す

べきであ り

,そ

こは「彼 ら

[配

下の聖職者

]が

どのように振舞 うべ きか

,ど

のよ うに民衆

に教え るべ きかを訓戒す る」

とともに

,「

彼 らが どのように生活 し

,ど

のように民衆を

教え

,洗

礼を与えているかを調査す る」

場 であった

.ま

,新

たに聖職者 に叙階 される

ことを望む者たちに対 して も調査が行なわれるべきであ り凱 非 自由人は

,解

放 された場

合のみ聖職 に就 くことが許 されたり

これ らの試みに加えて

,聖

職者 を俗人 と明確 に区別

するための施策 も見 られるり このような聖職者内部の改革 は

,そ

れ 自体が 目的なのでは

な く

,民

衆教化を円滑に進めるための手段 として取 り組まれた ものであった

.

聖職者内部の規律を正 し

,一

般信徒への宗教教育を円滑に進めるためには教会組織の拡

充が不可欠である。史料か らは

,大

司教区会議で大司教を中心 として教会の組織化が進め

られたことが明 らかになる

.聖

職者 は世俗の裁判所 に行 ってはな らず咄 司教 に助言を求

めるべきであ り

,司

教が解決できない場合 には大司教が

,そ

れで も解決できない場合 には

国王の裁判所へ と訴えるべきであったり

この時代の教会が

,国

王を頂点 として

,大

司教

,

司教

,下

位の聖職者 というヒエラルキーか らなる, という理念が この規定 には良 く現われ

ている

.さ

らに大司教の権限 も明確化 された.PastOralisの 第

13条

でアル ノは

,「

司教 は

首都大司教がいないところではいかなる処置 も下 さないよう注意 し

,毎

年開催 される首都

大司教区の長が取 り仕切 る教会会議 に参加す ることを怠 らないように」

mと

定めている

.

それぞれの司教 区内の組織化 も試 み られ た

.司

教 は

,す

べ ての小教 区に洗礼教会 を作

り咄 司教区の財力 と民衆の数に応 じて司祭を配置 して

,彼

らの管轄領域を明示すべきで

あった世 定 まった司教区に属 さない聖職者 は

,教

会の組織化の妨 げとなると考え られた

ため

,他

地域の聖職者や放浪聖職者の活動 を認 めないこと%ゞ 求め られた

.十

分の一税や

信徒か らの奉納物の正 しい分割を監督す る役 目も司教がにな ったり それに加えて

,修

院を世俗か ら完全に分離する試み も行なわれ

,小

教区の司牧活動か らも修道士が排除され

(15)

ているり 社会全体のキ リス ト教化政策 と並行 して

,こ

のような教会の組織化 とそれぞれ

の ヒエラルキーの明確化 も試み られたのである

.こ

れ らすべての中に

,一

般訓令に始まる

王権の改革理念が反映 されている

.

さらに

,大

司教か ら司教への改革理念の伝達を示す史料 として

,ア

ルノが

806年

(?)の

大司教区会議で司教 たちを前 に読み上 げた説教のテキス トが残 されているり このテキス

トは

,編

者のポコーニーによって大 き く5つ の部分 に分 けられてお り

,最

後の 2つ の部分

は大司教区会議の決議の断片であると考え られている

.ア

ルノによる説教の中心は第 3の

部分であ り

,そ

こでは

,カ

ール大帝か らの書簡の文言を借用 しつつ峨

799年

の大司教区

会議の断食規定が見直 されている

.799年

の会議の第 5条 では

,聖

職者が水曜 と金曜に肉

とワイ ンの断食を行 い

,そ

れを一般信徒 にも勧めるよう決議 されていたが

,定

め られた祝

日やイースターか ら聖霊降臨祭までの時期 は断食が免除されていた

.こ

こでは

,「

いまや

,

他の 日々と同 じく… これ らの 日々

[イ

ースターか ら聖霊降臨祭までの時期

]に

も断食を行

うことを命 じる権威が見つけられた」躾 め

,聖

職者 は定め られた祝 日を除 くすべての水

曜 と金曜に第

9時

までの断食を行い

,俗

人 は「彼 らが望むのであれば

,ま

たは模範や喜ば

しい説教 によって彼 らを説 き伏せ ることが出来た ら」岬堅曜に断食を行 うべきとされてい

.ま

,遠

方か らの来客の場合や

,病

,断

食が不可能なほどの仕事 に従事 しているも

のについては断食が免除され, 日々厳 しい労働 に従事 しているものたちは第 6時 までの断

食でよいとされている。労働の厳 しさによって断食の免除や軽減を行 う措置 は,799年 の

大司教区会議の決議やカールの書簡 には見 られず

,説

教の作者であるアルノが独 自に生み

出 したものであると推測できる

.こ

こか らは

,ア

ルノが

,王

権の望む措置や以前の大司教

区会議での決議を

,在

地の状況にあわせてより現実的な形へ と展開させていることが分か

.大

司教区会議での決議 0訓 戒は

,現

実 において実行 されることを第一 に目的としてい

たのである

.

第 4の 部分 はおそ らく

806年

の大司教区会議決議か らの抜粋であ り

,こ

こか らはこの時

期のバイエル ンに未だ異教的慣習が根強 く残 っていたことが分かる

.「

動物の病気

,疫

,

その他の病

,ま

た は他の様々な災害の際に」望 神や魔術を用いない医者へ と助けを求め

るのではな く

,「

邪悪 な男や女

,予

言者

,女

魔法使 い

,占

い師

,誤

った書物

,ど

こかの木

や泉」簑 と助 けを求めることがあってはな らない

,と

いうことを

,司

祭が民衆 に訓戒す

るよう求め られているのである

.799年

の大司教区会議第

15条

に見 られた異教的な人 々が

未だに活動 していたことをこの規定 は示 してお り

,大

司教区会議では首席司祭が調査・ 審

間すべきであるとされていたが

,今

度は民衆のほうに訴えかける施策が とられている。

第 5の 部分 も会議決議か らの抜粋 と考え られる

.こ

こでは

,「

司祭や聖職者 に対 して

,『

,

肉を食べ るよう私 に命 じて

,私

のために 1つ の ミサと

,た

くさんの詩篇を歌 うように』 と

要求 して

,与

え られた贖罪を守 ろうとしない」

僣人の慣行が非難 され

,そ

れを行わない

ように彼 らに教えることが求められている。贖罪の断食を逃れるために

,配

下の司祭に ミ

(16)

サを挙げさせ詩篇を歌わせる

,私

有教会領主が非難 されているのだ と思われる

.

これ ら2つ の

,ア

ルノの説教 とともに残 された大司教区会議決議か らの抜粋は

,と

りわ

け在地での問題 に大き くかかわるものであったために記録 された もの と思われる

.異

教的

慣行の残存や私有教会の弊害が

,教

会改革の大 きな妨げになっていたことがわかる

.こ

らの問題 は

,一

般訓令以来

,王

権 も様 々な対策を講 じてきた問題であったり

ここでは

,

より具体的に

,在

地の状況を踏 まえた上でそれ らの問題が扱われている

.

これ らの史料の内容が一般訓令の影響を大 き く受けていることは明 らかであろう。大公

領時代の教会会議決議では

,民

衆教化や聖職者の司牧的役割が これほど強 く打 ち出される

ことはなか った

.大

司教 アルノは

,大

司教区会議 において王権の意向を属司教や修道院長

たちに伝え

,彼

らと共に決議を行 った。そこでは一般信徒への宗教教育を通 じた社会全体

のキ リス ト教化政策 と並行 して

,教

会の組織化 と大司教の権限の明確化 も行われている

.

詳 しい史料が残 されていない大司教区会議 において も

,改

革政策の決議・ 再確認が行われ

たもの と思われる

.ア

ルノは大司教区組織を利用 して王権の改革政策を大司教区内に広め

,

司教たちの改革意識を高めることを試みた

.そ

れでは

,そ

れぞれの司教たちは

,司

教区内

でどのように改革を実行にうつ したのだろうか

.以

下では

,各

司教座か ら残 されている教

会改革の動 きの痕跡をたどってみたい

.

Ⅲ。

0)そ

れぞれの司教座における反応

司教区内での動 きを伝える史料 は

,司

教 カ ピ トゥラリアである。 9世 紀前半のバイエル

ンか らは 2つ の司教カピ トゥラ リアが残 っている.Capitula Bavaricaは

,ザ

ルツブル ク

大司教アルノか レーゲンスブル ク司教アダルヴィンによって司教区

(ザ

ルツブル クの場合

は狭義の大司教区

)内

の人々に向けて出された

15条

の司教カピ トゥラ リアであるり

この

史料は740-750年 の間の教会会議決議であると考え られていたが

,そ

の見解は現在認め ら

れていない性 序文には

,「

私の愛す るものたち

,我

らが主イエスキ リス トの栄光 によって

,

この聖なる祝祭にあなたがたは集まっているのだか ら

,聖

なる父たちとわれわれの兄弟た

,[つ

ま り

]教

会の人々が

,彼

らの教会会議で

,守

るべきだと定めた事柄を布告す ること

が良いと思われる」

とあ り

,こ

のテキス トが祝 日の集会の際に読み上げ られたこと

,王

国 レベル

,ま

たは大司教区 レベルの教会会議決議

%ゞ

もとにな っていることが分か る

.す

べての条項が信徒の望ま しい振舞いを規定 した ものである。 しか し

,テ

キス トの中では

,

司祭によって一般信徒に教え られるべ きこととして

, 3人

称複数で述べ られている部分

,直

接信徒 に語 りかけている部分野 ゞ

混在 している。教会会議決議の規定か ら司教区に

適 した部分を抜粋 したものに

,テ

キス トの作成者が独 自の加筆を行な う過程の中で, この

ような混乱が生 じたもの と思われる

.大

半の条項 は

,司

祭が信徒 に教えるべきこととして

規定 されている部分であ り, この司教 カ ピ トゥラ リアが もともとは司教区会議で聖職者た

ちに向けて出されたものであったとも推測 される

.ま

,こ

のようなテキス トは

,小

教区

(17)

の司祭が信徒へ説教をする際の手引として も役立 ったことだろう

.

6

司教区 レベルの史料

(司

教カ ピ トゥラリア

)

この司教カピ トゥラリアには

,王

国・ 大司教区 レベルで決議・ 訓戒 された内容が大いに

反映 されているが

,そ

の内容は作成者 によって改変 されている場合 も多 く

,独

自の規定 も

見 られ る

.第

7条 「

[信

徒たちは

]完

全 に邪悪な宣誓の慣行を避 けるよう努力すべきであ

る」性 第

12条

「 あ らか じめ

,司

祭 と

,彼

[結

婚 を望む男女

]の

間の親戚関係を調査す る

ことが出来 るその親類や隣人 に報告す る」

ことな しには結婚することが許 されない

,第

14条

[信

徒たちは

]正

しい枡 と正 しい計量器ない しは秤を持つべきである」Ч 第

15条

[信

徒たちは

]巡

礼者 と客人 を自身の家 の中に受 け入れ るべ きである」

%ど

の規定は

,そ

ぞれ

,799年

の大司教区会議第

16条

里 同

23条

峨 一般訓令第

74条

Ч 同第

75条

mを

踏まえた

ものと思われる

.第

2条 は他の条項 と比べると長いものであり

,司

祭が信徒に教えるべき

こととして

,性

的不道徳を避 け

,罪

の告 白と贖罪で最後の審判に備え

,臨

終の聖体拝領・

告 白を行な うことが述べ られてお り

,条

項の途 中か らは直接信徒に語 りかける文体にな っ

ていて

,聖

職者 による説教が意識 された もの とな っている。第 8条 か ら第

11条

までは施 し

と断食を定めた ものであるが

,大

司教区会議決議やアルノの教会会議説教の内容が独 自に

改変 されている。 ここでは

,「

[信

徒 たちは

]水

曜 と金曜の断食を慣習 とすべきである」

°

と定 め られ

,水

曜 と金曜の断食が一般信徒 にまで拡張 されているり また

,四

季の斎 日の

規定 も若干改変 された

.信

徒は

,「

枝の主 日の前の土曜

,聖

霊降臨祭の

[前

]土

,こ

月 [9月

]の

4土

曜ない しはこの祝 日

,我

らが主の誕生 日の前夜」

に施 しを行な うとと

もに

,そ

の週の水曜と金曜には第 9時 まで断食を行 って

,土

曜の第 9時 に教会に来 るべき

とされたり また, この司教 カ ピ トゥラ リアの作者 による独 自の規定 としては

,俗

人 も教

会会議 に参加す ることり 教会 に頻繁 に通 うこと性 俗人 も酪酎を避 けるべきであること

が挙げ られる

.第

6条 は

,ギ

リシャ人, ローマ人

,フ

ランク人 らが毎週聖体拝領を行 って

いる一方で

,多

くの ものが一年以上それを行 っていないことを嘆いてお り

,第 3,第

4日

曜には聖体拝領を行 うべきであると定めているり

これ らの独 自の規定は王国 レベル

,大

司教区 レベルでみ られた改革理念か ら大 き く逸脱す るものではな く

,民

衆教化 というその

基本的な方向性 は維持 されている

.改

革理念を受 け継 ぎつつ

,在

地の状況や司教の関心 に

あわせた形で改革が展開されていると考えることが出来 るだろう

. 史

名 時 代 作 成 者 条 項 数 略 称 Capitula Bavarica@ 813以 前 ザ ル ツプル ク大 司教 アル ノまた は レー ゲ ンス プル ク司教 ア ダル ヴ ィン 15条

Cap.B

Capitula Frisingensia tertia @ 9世紀 前半

(9世

紀 第

二 四半期)

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