明末「牙税」考 ─ その性質と財政上の役割を中心
に ─
著者
銭 晟
雑誌名
集刊東洋学
巻
115
ページ
65-86
発行年
2016-06-30
URL
http://hdl.handle.net/10097/00129921
65 明末「牙税」考(銭)
明末﹁牙税﹂考
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その性質と財政上の役割を中心に
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銭
晟
はじめに 近代以前の中国の商人は、商品を生産地から消費地に運 ぶなどの地域間交易に従事する客商、消費地などに店舗を 構えて卸売業や小売業に従事する鋪戸、そして客商と鋪戸 の周旋・仲介を行う牙行の三種類に大別される。中国では 地域間によって商品価格は勿論のこと、商慣習や話し言葉 すら異なる場合があり、客商と鋪戸との取引には牙行の周 旋・仲介が不可欠であった。特に明清時代の牙行に関して は、農村手工業の展 開 ︶1 ︵ や専業市鎮の成 立 ︶2 ︵ といった経済的背 景の中で、国家が商税徴収や流通保護などの業務を委託し たものとして注目を集めてきた。牙行の商税徴収上の役割 をはじめて明らかにした山根幸夫氏は、明代華北市集にお ける牙行の徴税機能を慣習法に従い行うものと判断した上 で、清代牙行の制度化された性格を強調し、両者の性格上 の差異を比較しながら、清代中期の山東省における牙行へ の﹁陋規﹂徴収の実相を概観し た ︶3 ︵ 。後に新宮学氏は、都市 商人らの被収奪性に着目し、牙行が明代初期には法律によ り商品流通の保護を義務付けられ、明代中期以降には地方 ︵ 州 県 ︶ 官 府 に 商 税 徴 収 の 請 負 を 強 制 さ れ る こ と を 解 明 し た ︶4 ︵ 。さらに山根氏の説を継承して、明代後期の江南におけ る牙行換帖銀︵牙行が牙帖を得るために納める手数料︶を ﹁ 陋 規 ﹂ と 判 断 し、 牙 行 に よ る 商 税 徴 収 請 負 が 明 代 後 期 に 牙行自身への課税へと転化したと主張し た ︶5 ︵ 。このような理 解に基づき、山本進氏は同治二︵一八六三︶年に本格的に 徴 収 さ れ た 牙 行 税 の 起 源 を 雍 正・ 乾 隆 初 の﹁ 陋 規 ﹂︵ 貨 幣 徴収の形式を採る︶ 、さらには明代後期の﹁牙行当官﹂ ︵物 資や役務の無償提供︶に遡ると し ︶6 ︵ 、牙行の﹁商税包攬﹂ ︵商 税徴収請負︶の趨勢は明代中期以降広がり清代に継続した と論じ た ︶7 ︵ 。以上の研究によって、牙行への陋規徴収は明代 集刊東洋学 第一一五号 平成二十八年六月 六五 −八六頁66 後期に遡ることが解明された。同時に、明代牙行の徴税請 負︵当官の一種︶が清代に牙税︵或いは牙税の付加税︶へ と変化したという明清牙行制度上の連続性も指摘されるに 至っ た ︶8 ︵ 。 しかし、そこに瑕疵なしとはしえない。先行研究は、あ くまで明代中後期の事例と清代中期のそれとを比較し、形 態の類似点からその継続性を類推するに過ぎないからであ る。その通説では、正税が設けられなかった明代牙行制度 の下で存在する﹁陋規﹂が、正税が設けられた清代にも依 然として存在することを説明できない。また、先行研究で は牙行の全国的な広がりも指摘するものの、同一時期の各 地域における牙行の量的差異や納税実態を述べることはな い。しかし、現在は史料状況が著しく好転し、それまで全 く不明であった明清交替期の史料も比較的容易に閲覧する ことが可能となった。その最大のものが崇禎六 ︵一六三三︶ 年序をもつ大部の財政史料の﹃度支奏議﹄である。 今回使用する﹃度支奏議﹄の版本は、中国国家図書館所 蔵 の 崇 禎 刻 本 で あ り、 ﹃ 続 修 四 庫 全 書 ﹄︵ 史 部 四 八 三∼ 四 九 〇 ︶ に 収 録 さ れ て い る。 ﹃ 度 支 奏 議 ﹄ は、 明 末 の 戸 部 尚書畢自厳︵在任一六二八∼一六三三年︶が万暦以来の財 政における諸問題を解決するため行った戸部の上奏を集成 し た も の で あ る。 内 訳 は、 堂 稿 二 十 巻、 新 餉 司 三 十 六 巻、 辺餉司十一巻、山東司七巻、浙江司一巻、湖広司一巻、広 東司一巻、広西司四巻、雲南司十七巻、貴州司二巻、福建 司四巻、山西司二巻、河南司一巻、冊庫一巻、陝西司四巻 の 合 計 全 一 百 十 九 巻 で あ る。 ﹁ 堂 稿 ﹂ は 戸 部 尚 書 畢 自 厳 に よる崇禎帝への上奏であ る ︶9 ︵ 。その中には牙行と相関するも の と し て 商 税、 塩 法、 漕 運、 僉 商︵ 商 人 に 対 す る 徭 役 ︶10 ︵ ︶、 撫賞︵兵士への賞与︶という五つの分野に関係する上奏を 見出すことができる。つづく各編は戸部内の部局たる清吏 司の上奏である。たとえば新餉司︵新規の軍需担当︶や辺 餉司︵従来の軍需担当︶は明末に頻発した対外戦争への軍 需に対応するため設置したもので、 ﹁新餉司﹂三六巻や﹁辺 餉司﹂十一巻の中には商税に関する記載も多い。特に﹁辺 餉司﹂の行った上奏には牙行の換帖費徴収を論じるものが 含まれ、 本稿にとり多大な研究価値を見出すことができる。 従来、明末期の牙人・牙行、或いはそれと関連する社会 経済史の分野において﹃度支奏議﹄が利用されることはま れであった。とはいえ、 その有用性はすでに明末の財政史、 軍事史および政治史等の様々な領域において指摘されてい る ︶11 ︵ 。従って本稿では、 当該分野において従来顧みられなかっ たこの史料を利用することで、明末の各地の牙行がどのよ う に 国 家 の 財 政 体 系 に 組 み 込 ま れ て い た の か を 検 討 す る。 これにより、 明清牙税徴収の既存の説を見直し、 さらに明 ・
67 明末「牙税」考(銭) 清牙行制度上の継続性を再検討することで、明清交替期に おける商税徴収と社会経済との実相を明らかにしようと試 みるものである。 第一節、徴税請負と牙税との性質上の差異 本節では、明と清との牙行制度上の継続性について牙税 の性質の側面から再検討する。特に、牙税の由来は国家が 牙行に強制した徴税の請負であったのか、牙行が営業資格 を得るために国家へ行った納穀慣行であったのかという点 を明らかにする。新宮氏は清代牙税の原型を明代後期の商 税徴収請負に結びつけたが、筆者は牙税の性質を納穀慣行 に近いものと考える。そこで先行研究の依拠する史料を再 検討し、明清交替期の牙行と牙税の状況を解明したい。 新宮氏によれば、明代における牙行政策の基調は﹃大明 律﹄の私充牙行埠頭の条により概括できる。この条は、牙 行の充当資格を規定し、牙行に商品の流通を保護させる義 務を定めたものであ る ︶12 ︵ 。しかし明代中期に入ると、鈔法の 破綻により税課司局︵商税徴収機関︶の人件費不足が問題 化 し、 江 南 で は 牙 行 を 商 税 徴 収 の 請 負 に 活 用 す る よ う に なっ た ︶13 ︵ 。さらに嘉靖四︵一五二五︶年に入り﹁牙行・鋪戸 に割りあてる門攤科派方式﹂が採用され た ︶14 ︵ 。そして最終的 に、牙行の商税徴収請負は毎年の徴税請負額を定めて季節 ごとに徴収する包納税銀法に変わった︵氏が根拠とする史 料﹁ 門 攤 季 税 原 委 ﹂ に つ い て は 表 一 を 参 照 ︶。 新 宮 氏 は こ のような経緯から牙税の徴収が史料上に表面化したと判断 し た ︶15 ︵ 。筆者は新宮氏が﹁門攤季税﹂を﹁清代の牙税﹂と判 断する根拠を見出せなかったが、氏も引用する山根氏論 文 ︶16 ︵ には、民国時期の山東牟平県における牙税の徴収対象や徴 収形式および性質︵氏が引用する史料﹁牙行営業税﹂は表 一を参照︶が詳説されており、これは新宮氏の見出した明 代牙行の門攤銀徴収請負と確かに類似する。 ただし、明代後期の徴税請負と清代の牙税との差異も垣 間見える。両者の地域︵江南と山東︶と年代︵明と清︶上 の差異はもちろん、両者の実質も異なっている。清代の牙 税は官府が牙行から徴収する牙行の営業税であ り ︶17 ︵ 、牙行が 商人︵売主︶から徴収する仲介手数料︵即ち牙 佣 ︶とは性 質や徴収対象に違いがある。また国家は牙行営業税を徴収 する時に、牙帖を配布する規定があ る ︶18 ︵ 。これに対して明代 牙行の徴税請負業務は商人の営業税を官府に代納するだけ であり、牙行が門攤季税を官府へ納入する際には、商人か ら徴収したものであるという点は変化しない。また官府が 牙行から商税徴収請負分を徴収する場合、牙帖を配布した のかについても疑問を残す。
68 表二、納穀と陋規との比較 名称 出典 年代 地域 史料 納入形式 納入金額 納入目的 明文化さ れる原額 名分 共通点 相違点 該当する 論文 移両台 査革六合 商税呈 徐必達 『南州草』 巻十二、 公移 天啓 (南直隷 応天府) 六合県 聞 、其充当之日赴県納穀二 担 、請帖一張 。給帖到手 、 公然霸佔 。…於是無頼市棍 至有納充領買経紀者 。買者 買 、売者売 、牙者牙 、与彼 絶不相干 、而彼獨以領為名 、 白手分索牙用 、其為郷里小 民之害滋甚。 就任する日に 県に赴き二担 の穀を納め 、 帖一枚を受け る 二担の穀 (大体一両、 二両ごろ) 牙行営業の 許可 (牙帖) を受ける ため なし 納穀 (慣行) 1、牙帖を もらう時に 支払う 金額。 2、地方 財政を 補助する 1、 営業税 と 接近 2、 金額は 二 担( 一 両、 二両)ほど 注 ( 5) の 新宮学 一九九〇 (李芳膺) 民 瘼 要覧 雍正楽安 県志巻四、 城池志、 市集 雍正 (山東 青州府) 楽安県 旧例有牙税押帖之陋規 。毎 行各給一帖 、其帖毎歳一更 。 有合数人而朋充一帖者 、亦 有持一帖而影射数行者 。… 籍名官税 、尽飽私囊 。総其 終歳之所入、累百盈千。 牙税の押帖で あり 、行ごと に一帖を配 る 、帖は毎歳 一回更新する 年末までの 所得は 、百 を重ねて千 を超える 牙行営業の 許可 (牙帖) を受ける ため 牙雑税銀 (楽安県 志巻五、 田賦、額 外銭糧) (押帖) 陋規 1、 営業税 の 付加税 2、 数十両 か ら数百両ま で 注 ( 3) の 山根幸夫 一九七八 表一、明代徴税請負と清代牙税との比較 名称 出典 年代 地域 史料 牙行が 金額を 徴収する 対象 牙行が 金額を 徴収する 時の名分 牙行が 徴収する 金額の 実質 官府が 金額を 徴収する 対象 官府が 金額を 徴収する 時の名分 形式・性質 官府が 牙行から 徴収する 金額の実質 該当する 論文 門攤季税 『淮安府志』 巻十二、 貢賦志 天啓 (南 直隷) 淮安 旧例原有門攤課税 、凡民間開 店生理 、倶照頒発時估則例赴 税司上納 。…続拠段絹紙果等 七鋪戸並各鎮集頭告称 、…乃 立毎年包納税銀之法 、免其随 到随報 、惟按季赴司交納 、名 曰季税 。…各鋪牙倶照地方赴 府城・清江二税課司交納。 民間開店 生理、 零星販売 (の商人) 門攤課税 商人らが 官府へ 納める 営業税 鋪(戸) ・ 牙(行) (門攤) 季税 毎年 、税銀 を包納し 、 三ヶ月ごと に司へ赴き 交納する 牙行の商税 徴収請負の 所得 注 ( 5) の 新宮学 一九九〇 牙行 営業税 『牟平県志』 卷四、 政治一、 財政、 雑税 民国 (山東) 牟平 買売居間説合 、而取其 佣 、謂 之牙行、 業牙行者、 納費領帖、 按年繳納課程 、是為牙税 。清 初已行之。 純為一種包辦性質。 …概由牙紀逕向売主征収。 売主 牙 佣 商人が 牙行へ 納める 手数料 牙行 牙税 年ごとに 繳納する 「包辦的な 性質」 牙行の 営業税 注 ( 3) の 山根幸夫 一九七八
69 明末「牙税」考(銭) 次に、新宮氏は徐必達﹃南州草﹄巻十二、公移﹁移両台 査 革 六 合 商 税 呈 ﹂︵ 以 下、 商 税 呈 と 略 称。 史 料 原 文 は 表 二 を参照︶を用いて﹁もちろん六合県の納穀の慣行を府尹が ﹃ こ れ 官 と 民 と ま た 交 こもご も 市 を 為 す な り ﹄ と 判 断 し て 斥 け、 上級官庁の巡撫や巡按もまたこの提案を承認していること から明らかなように、中央レヴェルでは未だ必ずしも公認 されておらず、言わば﹃ 陋 ワイ 規 ロ ﹄に近いも の ︶19 ︵ ﹂と述べ、地方 の上級官庁が牙行の納穀慣行を批判しているので、この慣 行は中央に公認されたものではなかったと結論づけた。な おこの結論は山根説とも同じである。山根氏の引用する史 料である雍正﹃楽安県志﹄巻四、城池志、市集﹁李芳膺民 瘼 要 覧 ﹂︵ 史 料 原 文 は 表 二 を 参 照 ︶ に よ れ ば、 換 帖 の 陋 規 とは牙行が営業許可を受けるために牙帖を入手する際に官 府へ納めるもので、この点では納穀慣行と類似している。 とはいえ、牙行の納穀行為は慣習法的な性格を帯びてお り、この納穀の慣行も全面的に禁止されたわけではなかっ た。新宮氏が引用する史料によれば、牙行は﹁十大行﹂と ﹁小行経紀﹂とに分けられ、 ﹁小行経紀﹂に対する一切の商 税 徴 収︵ 納 穀 慣 行 も 含 ま れ る ︶ は 廃 止 さ れ た も の の、 ﹁ 十 大行﹂に対する商税徴収は廃止されなかっ た ︶20 ︵ 。この両者へ の徴税による収入が、いずれも官府の財政を支えていたに も関わら ず ︶21 ︵ 、﹁小行経紀﹂ に対するもののみ廃止されたのは、 官府が ﹁小行経紀﹂ から商税徴収を行う際に、 ﹁無頼﹂ や ﹁市 棍 ﹂ が 関 与 し た か ら で あ る。 つ ま り、 ﹁ 小 行 経 紀 ﹂ 限 定 の 納穀廃止は、先行研究が言うように中央が牙行の納穀慣行 を公認していなかったためではない。さらに、牙行が納穀 時に営業資格たる牙帖を受領する点についていえば、清代 の牙行も同様に牙税納入時に牙帖を受領しており、この点 からも、納穀は営業税の納付と理解すべきである。 一方、清代初期︵順治∼康煕︶の牙行制度はなお明代と 大差ないものの、その後徐々に整備され制度的に確立して いった。一例を挙げると、康熙十七年の時、中央は呉三桂 の反乱を鎮圧するために官員の提議により﹁税﹂の字を使 用する正規化された牙行雑税を増置し た ︶22 ︵ 。この頃の牙税は、 多くとも一両数銭に過ぎ ず ︶23 ︵ 、ほぼ明代牙行が納穀する際の 納入額に相当する。これに対して清の﹁陋規﹂は牙税の数 倍から百倍に達しさえしたとい う ︶24 ︵ 。いずれにせよ、清代牙 行の﹁押帖陋規﹂は地方政府の財源の一つであ る ︶25 ︵ 牙行営業 税の付加税と理解するのが妥当であ る ︶26 ︵ 。それに対して、正 規化された牙行営業税がない時期に、納穀を陋規のように 付加税と理解する先学の見解は妥当ではなかろう。 以上、先行研究が依拠した史料を紹介しつつ、商税徴収 請負と牙税との関係や納穀慣行と換帖陋規との性格を再検 討してきた。明代後期の商税徴収請負と清代前期の牙税徴
70 収とは、史料から見れば徴収形式や徴収目的という点では 類似しているものの、引用史料の年代及び地域、徴収の実 質及び徴収対象上の差異を見過ごすことはできない。 また、 明代後期の納穀慣行と清代前期の陋規とは徴収の形式︵牙 行換帖︶ や目的 ︵地方の財源︶ などは類似しているものの、 両 者 の 性 質︵ 営 業 税、 営 業 税 の 付 加 税 ︶ は 異 な っ て い る。 それに対して、牙行が納穀時に牙帖を受領する点を考慮す ると、納穀は清代牙税の方に一層類似していると判断でき る。ただしこれら明と清の地方志は、商税の変化を直接に 跡付けるものではなく、いわば断片的な状況証拠に過ぎな い。それを補う史料こそが前述の﹃度支奏議﹄である。 第二節、 牙行換帖費の性格の変遷
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地方行政費から中央軍事費へ ﹃ 度 支 奏 議 ﹄ に よ れ ば、 明 朝 末 期 の 換 帖 費 は 地 方 の 付 加 税として普遍的に徴収されていたが、その徴収形式は地域 によりかなり異なるようである。堂稿巻四に載せる崇禎二 ︵ 一 六 二 九 ︶ 年 三 月 一 九 日 の﹁ 会 議 辺 餉 条 陳 六 款 疏 ︶27 ︵ ﹂ に は 以下のようにある。 一、商税を調査して整理する。⋮⋮これ以外、各所で はまた﹁行税﹂がある。およそ州・県での斗秤を以て 取 引 を 媒 介 す る 牙 行 は 先 に 粟︵ 穀 物 ︶ を 官 府 に 納 め、 官府が印照を渡すべきものに配布する。これを行税と いう。各地方をたずねると、一年に一回徴税するもの があり、一官員︵の在任期間︶に一回徴税するものが ある。また以前になくて新設したもの、以前にあり撤 廃したものがある。頭が良い地方官はこれにより恩を 売る。不肖の地方官は私腹を肥やす。この収入を計算 すると、大きな県では数百両を、小さな県では百余両 を 得 る こ と が で き る。 各 地 の 収 入 を 集 積 す れ ば、 数 十万の単位︵の額︶で計算できるほどであ る ︶28 ︵ 。 こ こ で い う﹁ 行 税 ﹂ と は、 牙 行 が 官 府 か ら﹁ 印 照 ﹂︵ 詳 細は不明であるが牙帖と推測される︶を受領する時に納め る ﹁粟﹂ ︵穀物︶ である。しかもそれは ﹁税﹂ と表現される。 周知の通り、中国の前近代国家において軍事費は国家の経 常経費で最大の支出であ り ︶29 ︵ 、明末には、中央の財政は軍事 費により日々窮乏してい た ︶30 ︵ 。特に崇禎年間になると、軍事 費の調達は戸部の主要な任務となったと言っても過言では ない。そこで本来ならば中央は正規の税のみ徴収するとこ ろを、軍事費調達のために地方の非正規の収入をも中央に 集めることとなった。畢自厳は、こうした国庫にも民にも 属さない所謂中間団体の利益となっていた収入を国庫に回 収 す る こ と は、 民 に さ ら な る 負 担 を 強 い る も の と な ら ず、71 明末「牙税」考(銭) また国を利するものとなると記載してい る ︶31 ︵ 。その十日ほど 後に崇禎帝は﹁辺境の軍事費についてはまさに会議を行っ ている最中である。この上奏の六条の商税や淮引、そして 諸 経 費 の 削 減 に つ い て 長 所 を 勘 案 し て 検 討 し て 行 う よ う に﹂と指示した。 つづく閏四月四日の﹁題覆会議辺餉議単十二款 疏 ︶32 ︵ ﹂には 大理寺卿の康新民、兵科都給事中の張鵬雲らによる在地の 換帖費による軍費補充提案が記載される。康新民はここで 河南省汝寧府の固始県知県を勤めた経験に基づきつつ、各 州県地方の牙行が牙帖を更新する時、もともと数銭の換帖 費を支払っており、また法律違反の名目で一両二銭の罰金 を徴収していたという︵ここで康新民の固始県在任期間を みれ ば ︶33 ︵ 、換帖費の徴収は少なくとも万暦三十年代に遡るこ と が で き る ︶。 固 始 県 で は 毎 年﹁ 一 百 八 十 余 石 ﹂ の 換 帖 費 を ﹁県官之用﹂ の名目で徴収していたと推定される。また、 続く曹于 汴 と楊鶴の発言によれば、場所によっては千石を 超えるところもあったという。さらに全国の規模を念頭に おけば、州 ・ 県ごとに数十両∼二百両を集めることができ、 これらを軍費に充てた方がよいというのが両者の意見であ る。戸部尚書畢自厳はこの換帖費を自らの提議した ﹁行税﹂ と類似していると見なし、自説を補強してもいる。これに 対 し て、 崇 禎 帝 は﹁ 牙 行 換 帖、 因 地 酌 宜 ﹂︵ 牙 行 換 帖 は 地 方ごとに良策を考えよ︶という裁可を与えた。 そ し て、 五 月 十 六 日 の﹁ 会 議 辺 餉 事 竣 通 行 彙 冊 頒 布 疏 ﹂ には、印刷の上、各地に頒布して周知徹底された内容とし て、さらに﹁牙行換帖﹂の﹁因地酌宜﹂に関する以下のよ うな記事を見てとれる。 国内の各省では、雲南や貴州及び貧困な辺境の州県は 議論の対象外とするのは当然として、中央部について 言えば、物産の生産地や集散地では、あらゆる商人が 往来しているために牙行経紀もおり、一行で十数枚も の牙帖を受領して、納帖の収入は数百金に換算される ほどである。また、小さな県や辺鄙な州でも必ず売買 の市場があり必ず牙行の仲介があるため、その︵納帖 の収入は︶三、 五 十 金 と な る 。 戸 部 は お よ そ 直 隷 や 各 省の貧富を把握しており、各省の巡撫や巡按は各州県 の貧富を知り得ている。そして現在、全国で定められ た徴収総額は約七万両となったわけだが、担当する省 でどのようなものが生産・集散しているのか、徴収す べ き 数 量 が ど の 程 度 な の か を 斟 酌 す る こ と に つ い て は、巡撫や巡按は布政司に文書を送って督励し、自ら 定めさせよ。ただし、もともと徴収されていた額を満 たすまでにとどめる。これより各省の定額を後に列挙 す る。 直 隷 や 各 省 は 定 額 ど お り 徴 収 し て 中 央 に 送 り、
72 軍事費を補助せ よ ︶34 ︵ 。 右の文から、少なくとも崇禎二︵一六二九︶年から換帖 費 が 中 央 財 政 収 入 の 一 部 と な っ た こ と が 判 明 す る で あ ろ う。 以上の史料から考えると、明末における牙行の納穀慣行 は全国的に遍在しており、納穀の実態も多様であった。し かも、中央はこれらを廃止せず、なにより軍需を充足する ため、各地で異なる現行のままですべてを中央に回収しよ うとした。これは、山根幸夫氏の﹁明代には牙行制度がま だ確立していな い ︶35 ︵ ﹂という見解と異なり、少なくとも明末 には牙行が国家の徴税対象とされるほど発達しており、牙 行制度の整備段階に入っていたと理解できるだろう。 また、 崇禎までは陋規が州県財政の収入となっていたというのは 既に先行研究に言及されており、ワイロとみなすことはで きない。したがって、 明末の牙行換帖 ︵行税︶ は清代の ﹁牙 税﹂の淵源と判断すべきであろう。 第三節、 明末における牙税の全国的な広がりと 地方間の収入比較 本節では、牙税が実際の財政収入に組み込まれていた実 態 に つ い て 明 ら か に し た い。 ﹃ 度 支 奏 議 ﹄ 所 載 の﹁ 会 議 辺 餉事竣通行彙冊頒布疏﹂には、各省が徴解すべき換帖によ る 収 入 が 記 さ れ て い る。 そ の 額 は、 南 直 隷 の 江 北 三 千 両、 江南七千両、浙江一万両、河南七千両、山東六千両、湖広 六千両、福建六千両、広東六千両、山西五千両、陝西四千 両、北直隷六千両、四川五千両、江西六千両である。全国 の州と県は合計一三一七で、 合計は七万七千両であ る ︶36 ︵ 。﹁会 議辺餉事竣通行彙冊頒布疏﹂は逼迫する辺境軍事費を補う ために、 その方策をまとめたものであり、 各省はこれに従っ て収入の増加及び出費の削減を図るものである。この方策 の各条により実質的に増加した収入は以下の通 り ︶37 ︵ である。 班軍折価︵班軍改折︶六万余両 加増榷額 五万余両 停修倉厫 九一五九両︵三年内︶ 板木改折 一八六九両 . 七五 南馬協済 約二十万両 修衙銀項 四から五万両 牙行換帖 七万七千両 河濱灘蕩 一万余金 ︵ほか十二条の金額は未確定︶ さらに﹃度支奏議﹄をひも解くと、中央から割り当てら れた金額に対し、各地方が応じた銀量の明細を確認するこ とができる。従来、この類の情報は極めて限定された地域
73 明末「牙税」考(銭) のものしか把握しえなかった。そこで、南直隷の江南全体 の状況を知るべく、以下に繁を厭わず、十府の状況を列挙 しよう。崇禎 三 ︵一六三〇︶年九月十一日の﹁覆応天撫属 増解会議旧餉款項疏﹂によると、応天府の上元など八県で は 板木改折 一百五十四両九銭七分三厘五毫 修衙銀項 一百三十一両七銭 牙行換帖 ︹ 一 ︶38 ︵ ︺千二百七十四両三銭 凑 解紙 続 ママ 九十三両五銭一分五厘 江寧県の稲銀 四十四両五銭六分七厘五毫 生祠変価 四百四十一両九銭四分一厘 ︵ 査 得、 応 天 一 府 上 元 等 八 県、 一、 板 木 改 折、 該 府 楞木松板 、 原編銀三百零九両九銭四分七厘、除本色 一半、仍給発運官収買本色外、冊報改折一半、該銀 一百五十四両九銭七分三厘五毫。一、修衙銀項、冊 報共扣銀一百三十一両七銭。一、牙行換帖、冊報共 認銀︹一︺千二百七十四両三銭。一、 凑 解紙 続 ママ 、除 額稲外、冊報共該折色銀九十三両五銭一分五厘、又 有江寧一県、自崇禎元年起至三年正月終、止余積稲 銀 四 十 四 両 五 銭 六 分 七 厘 五 毫、 応 併 解 部 充 餉。 一、 生祠変価、共計銀四百四十一両九銭四分一厘。以上 該府共計該解銀二千一百四十両九銭九分七厘、内除 江寧県積貯余穀、並生祠変価共銀四百八十六両五銭 八 厘 零、 後 不 為 例 外、 共 計 毎 歳 実 該 額 解 銀 一 千 六 百 五 十 四 両 四 銭 八 分 八 厘 零。 応 分 載 各 県 考 成 項 ︹下︺ 。︶ とあり、 合計二一四〇両九銭九分七厘を送ることとなった。 な お﹁ 生 祠 変 価 ﹂︵ 官 僚 の 生 祠 の 売 却 益 ︶ は 崇 禎 三 年 に 限 定されたものであ り ︶39 ︵ 、次年度には発生しない。 ﹁積貯余穀﹂ ︵ 江 寧 県 の 稲 銀 ︶ 及 び 生 祠 変 価 に よ る 銀 を 除 く と、 毎 年 の 送るべき定額は一六五四両四銭八分八厘零で、牙行換帖の 収入はそのほぼ八割に達する。さらに注目したいのは、末 尾の﹁応分載各県考成﹂の言葉で了解されるように、ここ で得た額は﹁定額﹂となり、地方官の勤務評定に使用され ることが明示されている点である。 また蘇州府の太倉州・長洲県・呉県などの八州県では以 下のようである。 停修倉廒 八十両 板木改折 一百七十六両三銭九分一厘 南馬協済 一万一千七百二十四両四︹銭︺一分 修衙銀項 九百八十一両九銭八分 牙行換帖 一千五百両 吏農班価 三百二十七両六銭 寺田起科 七十一両二銭五分六厘三毫
74 生祠変価 二百六十七両 賈税酌徴 七十六両六銭三分六厘零 ︵ 蘇 州 一 府 太 倉・ 長・ 呉 等 八 州 県、 一、 停 修 倉 廒、 冊 報 共 扣 銀 八 十 両。 一、 板 木 改 折、 該 府 楞 木 松 板、 原編銀三百五十二両七銭八分二厘三毫、 除本色一半、 仍 給 運 官 収 買 本 色 外、 冊 報 改 折 一 半、 該 銀 一 百 七 十 六 両 三 銭 九 分 一 厘。 一、 南 馬 協 済、 冊 報 共 銀 一万一千七百二十四両四︹銭︺一分。一、 修衙銀項、 冊 報 共 扣 銀 九 百 八 十 一 両 九 銭 八 分。 一、 牙 行 換 帖 、 冊報共銀一千五百両。一、吏農班価 、 除減定各衙門 承 直 外、 尚 存 九 十 一 名、 毎 名 応 追 班 価 銀 三 両 六 銭、 冊報共該銀三百二十七両六銭。一、寺田起科、冊報 通共該陞米一百四十二石五斗一升二合六勺、以毎石 王 ママ 銭 折 算、 共 該 銀 七 十 一 両 二 銭 五 分 六 厘 三 毫。 一、 生 祠 変 価、 冊 報 共 銀 二 百 六 十 七 両。 一、 賈 税 酌 徴、 冊報共銀七十六両六銭三分六厘零。以上該府共該解 銀一万五千二百五両二銭七分三厘。内除生祠変価銀 二 百 六 十 七 両、 後 不 為 例 外、 共 計 毎 歳 実 該 額 解 銀 一万四千九百三十八両二銭七分三厘零。応分載各州 県考成項下。 ︶ す な わ ち 合 計 一 五 二 〇 五 両 二 銭 七 分 三 厘 を 送 る こ と と なった。この中に見える﹁南馬協済﹂とは、明初中央が南 方 で の 飼 馬 の 困 難 さ を 考 慮 し、 役 を﹁ 解 銀 協 済 ﹂︵ 南 馬 幇 貼ともいう︶として銀納化したものである。しかし、のち にこの徴収は形骸化し、崇禎年間に差し掛かる頃には、そ の 積 み 重 な っ た 徴 収 額 の 内 訳 や 由 来 は 判 断 不 可 能 と な っ た。そこで、戸部尚書畢自厳は一端、これまでの状況を清 算すべく、崇禎元年に当該税目下での実在の銀数を報告徴 解させることを提議し た ︶40 ︵ 。つまりここで見える ﹁南馬協済﹂ とは、特別に期限を切って中央が設定したものであり、そ の額面は恒常的なものではない。ゆえに通常時の地方財政 と牙税との関係を考える上では、省いて考えるのが妥当で あろう。従って、この項目と生祠変価の額を除くと、換帖 からの所得は五割弱を占める。 松江府の華亭・上海・青浦三県では以下の通りである。 班軍改折 ︵鳳陽・揚州二倉︶共一万四千八十両 停修倉廒 六十両 板木改折 二百三十三両四銭五分 南馬協済 七千八百八十四両一銭一分 修衙銀項 一百二十六両 牙行換帖 八百両 ︵ 松 江 一 府 華 亭 等 三 県、 一、 班 軍 改 折、 冊 報 鳳 陽・ 揚州而倉共該銀一万四千八十両。一、停修倉廒、冊 報 量 扣 銀 六 十 両。 一、 板 木 改 折、 冊 報 原 編 銀 四 百
75 明末「牙税」考(銭) 六 十 六 両 九 銭、 除 本 色 一 半 仍 給 発 運 官 収 買 本 色 外、 改折一半、該銀二百三十三両四銭五分。一、南馬協 済、冊報共該銀七千八百八十四両一銭一分。一、修 衙 銀 項、 冊 報 共 扣 銀 一 百 二 十 六 両。 一、 牙 行 換 帖、 冊 報 共 該 銀 八 百 両。 以 上 共 計 毎 歳 該 府 実 該 額 解 銀 二万三千一百八十三両五銭六分、応分載各県考成項 下。 ︶ 合計二三一八三両五銭六分を送ることとなった。 この ﹁班 軍改折﹂の由来は嘉靖二十九︵一五五〇︶年、モンゴルタ タール部のアルタンハンが北京を攻撃した所謂 ﹁庚戌の変﹂ の時、山東・河南などから一万二千人分の班軍の軍事費を 用 意 す る た め、 班 軍 費 と い う 名 目 を 設 立 し た こ と に あ る ︶41 ︵ 。 崇 禎 初 期 に 入 る と、 北 京 の 班 軍 は 合 計 四 〇 二 七 三 人 お り、 その費用は十二万を超え た ︶42 ︵ 。兵部は班軍費の半額を軍餉に 充当しようと提議し、さらに戸科都給事中解学龍は班軍費 を全部軍餉に充当しようと提議し た ︶43 ︵ 。つまり、 ﹁班軍改折﹂ は国家の要求により定められた軍事費である。これと﹁南 馬協済﹂とを除くと、換帖からの所得は上納額の三分の二 を占めることになる。 常州府の武進と無錫など五県では 班軍改折 ︵鳳陽・寿州・毫州三倉︶七千一百両 南馬協済 七千四百三十一両零六分 牙行換帖 五百両 議革冗役 五十七両六銭 賈税酌徴 一百五十両四銭三分五厘零 ︵常州一府武 ・ 無等五県、一、班軍改折、冊報鳳陽 ・ 寿州 ・ 毫州三倉、共該銀一万四千二百両、照例折半、 該銀七千一百両。一、南馬協済、冊報該銀七千四百 三十一両零六分。一、 牙行換帖、 冊報共認銀五百両。 一、議革冗役、除鎮江府另解銀七両二銭、並該府先 報過銀五十二両四銭外、冊報今仍該実扣銀五十七両 六銭。一、賈税酌徴、冊報共銀一百五十両四銭三分 五厘零。以上該府共該解銀一万五千二百三十九両九 分九厘、内除門攤税存庫銀一百五十両四銭三分五厘 後 不 為 例 外、 共 計 毎 歳 該 府 実 該 額 解 銀 一 万 五 千 八十八両六銭六分四厘。応分載各県考成項下。 ︶ とあり、合計一五二三九両九分九厘を上納することとなっ た。 ﹁班軍改折﹂と﹁南馬協済﹂ 、または一年だけの門攤税 の存庫銀︵門攤税の残額︶とを除くと、換帖からの所得は 上納額の九割に達した。 鎮江府の丹徒など三県では 板木改折 九十二両 南馬協済 一千一百五両九銭二分二厘 修衙銀項 一十五両
76 牙行換帖 一百七十両 凑 解紙贖 一百両 議捐公費 二百九十両 河濱灘蕩 七百二十九両八銭一分七厘 生祠変価 一百六十八両三銭九分三厘 ︵ 鎮 江 一 府 丹 徒 等 三 県、 一、 板 木 改 折、 該 府 共 編 銀 一百八十四両、 除本色一半、 仍給発運官収買本色外、 冊報今折一半該銀九十二両。一、南馬協済、冊報共 銀一千一百五両九銭二分二厘。一、修衙銀項、冊報 惟金壇県裁省銀一十五両。一、牙行換帖、冊報共認 銀一百七十両。 一、 凑 解紙贖、 冊報共該銀一百両。 一、 議 捐 公 費、 冊 報 共 該 銀 二 百 九 十 両。 一、 河 濱 灘 蕩、 冊報共該銀七百二十九両八銭一分七厘。一、生祠変 価銀、一百六十八両三銭九分三厘。以上該府共該銀 二 千 六 百 七 十 一 両 一 銭 三 分 二 厘、 内 除 生 祠 変 価 銀 一 百 六 十 八 両 三 銭 九 分 三 厘、 共 計 毎 歳 実 該 額 解 銀 二千五百二両七銭三分九厘、応分載各県考成項下。 ︶ とあり、 合計二六七一両一銭三分二厘を送ることとなった。 生祠変価銀と南馬協済銀を除くと、換帖費は上納額の一割 を占めた。 徽州府の歙・休寧など六県では 修衙銀項 一百二十八両五銭二分七厘零 牙行換帖 四百五十六両 生祠変価 二百三十一両二銭二分八厘 ︵ 徽 州 一 府 歙・ 休 等 六 県、 一、 修 衙 銀 項、 冊 報 共 扣 銀一百二十八両五銭二分七厘零。牙行換帖冊報共銀 四百五十六両。一、吏農班価、冊報共該銀八十八両 三銭八分。一、生祠変価、冊報共銀二百三十一両二 銭二分八厘。以上該府共該解銀九百零四両一銭三分 五 厘、 内 除 生 祠 変 価 銀 二 百 三 十 一 両 二 銭 二 分 八 厘、 後不為例外、共計毎歳実該額解銀六百七十二両九銭 七厘、応分載各県考成項下。 ︶ と あ り、 合 計 九 〇 四 両 一 銭 三 分 五 厘 を 送 る こ と と な っ た。 生祠変価銀を除くと、換帖からの所得は上納額の七割弱を 占める。 安慶府の懷寧・桐城など六県では 板木改折 六十九両 修衙銀項 一百一十九両九銭九分八厘 牙行換帖 六百両 奏解紙贖 一百両 ︵ 安 慶 一 府 懷・ 桐 等 六 県、 一、 板 木 改 折、 冊 報 原 編 銀一百三十八両、内除本色一半仍給発運官収買本色 外、該折半銀六十九両。一、修衙銀項、冊報共該銀 一百一十九両九銭九分八厘。一、牙行換帖、冊報酌
77 明末「牙税」考(銭) 派銀六百両。一、奏解紙贖、冊報該銀一百両。以上 該府共該額解銀八百八十八両九銭九分八厘、応分載 各県考成項下。 ︶ と あ り、 合 計 八 八 八 両 九 銭 九 分 八 厘 を 送 る こ と と な っ た。 換帖からの所得がほぼ七割を占める。 池州府の貴池・青陽など六県では 板木改折 二十八両七銭五分 修衙銀項 三十両 牙行換帖 一百九両六銭 凑 解紙贖 五十両 清汰虚冒 三十九両六銭 ︵ 池 州 一 府 貴・ 青 等 六 県、 一、 板 木 改 折、 該 府 楞 木 松板原編銀五十七両五銭、除一半仍給発運官収買本 色外、冊報該折半銀二十八両七銭五分。一、修衙銀 項、冊報共銀三十両。一、牙行換帖、冊報共銀一百 九両六銭。一、 凑 解紙贖、冊報共銀五十両。一、清 汰虚冒、冊報共銀三十九両六銭。以上該府共該額解 銀二百五十七両九銭五分、但査疏内原開、池州府該 銀二百九十三両三銭四分八厘零、今拠冊内之数、較 之疏中之数、少銀三十五両三銭九分八厘、応令照数 増入、分載各県考成項下。 ︶ と あ り、 合 計 二 五 七 両 九 銭 五 分 の 銀 を 送 る こ と と な っ た。 換帖からの所得は四割に達した。 寧国府の宣城など六県では 板木改折 三十両七銭五分 修衙銀項 九十五両三銭二分六厘零 牙行換帖 三百二十両 吏農班価 二十両四銭四分 議革冗役 三百四十九両 清汰虚冒 一百一十四両三銭六分四厘 生祠変価 六十三両五銭 ︵ 寧 國 一 府 宣 城 等 六 県、 一、 板 木 改 折、 該 府 楞 木 松 板原額銀六十一両五銭、除本色一半仍給発運官収買 本色外、 冊報改折銀三十両七銭五分。一、 修衙銀項、 冊 報 共 銀 九 十 五 両 三 銭 二 分 六 厘 零。 一、 牙 行 換 帖、 冊報該銀三百二十両。一、吏農班価、冊報共銀二十 両四銭四分。一、 議革冗役、 冊報共銀三百四十九両。 一、 清汰虚冒、 冊報共銀一百一十四両三銭六分四厘。 一、生祠変価、冊報共銀六十三両五銭。以上該府共 該 解 銀 九 百 九 十 三 両 三 銭 八 分、 内 除 生 祠 変 価 銀 六 十 三 両 五 銭、 後 不 為 例 外、 共 計 毎 歳 実 該 額 解 銀 九百二十九両八銭八分。応分載各県考成項下。 ︶ と あ り、 合 計 九 九 三 両 三 銭 八 分 の 銀 を 送 る こ と と な っ た。 生祠変価を除くと、換帖からの所得は上納額の三分の一を
78 占める。 太平府の当涂など三県では 板木改折 一十九両五銭五分 修衙銀項 一百八十両 牙行換帖 八百両 吏農班価 六両 議捐公費 三百九十両 ︵ 太 平 府 当 涂 等 三 県、 一、 板 木 改 折、 該 府 楞 木 松 板 原編銀三十九両一銭、除本色一半、仍給発運官収買 本 色 外、 冊 報 改 折 一 半 該 銀 一 十 九 両 五 銭 五 分。 一、 修衙銀項、冊報共銀一百八十両。一、牙行換帖、冊 報 共 銀 八 百 両。 一、 吏 農 班 価、 冊 報 共 銀 六 両。 一、 議捐公費、冊報共銀三百九十両。以上該府共計毎歳 該額解銀一千三百九十五両五銭五分、応分載各県考 成項下。 ︶ とあり、合計一三九五両五銭五分を送ることとなった。換 帖からの所得は全額の六割弱に達した。 広徳州とその属下の建平県では 停修倉廒 四両三銭二分二厘 板木改折 四十五両六銭三分五厘 修衙銀項 三十二両一銭九分八厘 牙行換帖 二十七両 議捐公費 二百一十両 吏農班価 一十二両 生祠変価 二十九両八銭 ︵ 広 徳 州 建 平 県、 一、 停 修 倉 廒、 冊 報 広 徳 州 該 扣 銀 四両三銭二分二厘。一、板木改折、原編銀九十一両 二銭七分、除一半仍給発運官収買本色外、冊報改折 一 半 、 該 銀 四 十 五 両 六 銭 三 分 五 厘。 一、 修 衙 銀 項、 冊 報 共 該 銀 三 十 二 両 一 銭 九 分 八 厘。 一、 牙 行 換 帖、 冊 報 共 銀 二 十 七 両。 一、 議 捐 公 費、 冊 報 共 銀 二 百 一十両。一、吏農班価、冊報共銀一十二両。一、生 祠 変 価、 冊 報 共 銀 二 十 九 両 八 銭。 以 上 該 州 共 該 銀 三百六十両九銭五分五厘、内除生祠変価銀二十九両 八銭後不為例外、共計毎歳該額解銀三百三十両一銭 五分五厘。応分載各該州県考成項下。 ︶ と あ り、 合 計 三 六 〇 両 九 銭 五 分 五 厘 を 送 る こ と と な っ た。 生祠変価銀を除くと、換帖からの所得は上納額の一割ほど を占める。 以上の南直隷の江南十府における換帖からの所得は合計 六六四九両となる。 これは、 ﹁会議辺餉事竣通行彙冊頒布疏﹂ により定めた江南徴収予定額︵七千両︶の九割以上を達成 した数字となる。これにより明末一地方における牙帖の徴 収実態を把握しえよう。すなわち、南直隷の応天等十府お
79 明末「牙税」考(銭) よ び 広 徳 州 で は、 ﹁ 班 軍 改 折 ﹂ や﹁ 南 馬 協 済 ﹂ な ど 中 央 の 定 め た 徴 収、 鎮 江 府 の 丹 徒 等 三 県 の﹁ 河 濱 灘 蕩 ﹂︵ 河 の ほ とりなどを開墾して新設した租税︶ と寧国府の ﹁革冗役﹂ ︵役 人の減員︶及び広徳州そして建平県の議捐公費・生祠変価 とを除くと、換帖からの所得が最大を占める。また、どの 地域にも換帖費は遍在しており、かつ新設上納銀数に占め るその割合は多くの地域で五割を超えていた。このことは 当 時 の 地 方 財 政 構 造 と の 関 係 か ら 考 え な け れ ば な ら な い。 周 知 の よ う に 中 国 で は 地 方 の 行 政 に 対 し て 経 費 を 支 出 せ ず、地方は中央へ送る正税の一部分を地方の行政費用とし て残すほか、陋規を徴収して行政支出に充てていた。中央 が日々増加する歳出を補填するため正税の地方配当部分を 回 収 す れ ば す る ほ ど、 当 然 の よ う に 陋 規 徴 収 は 増 加 す る。 そして、ここまで見て来た内容は、中央が地方の陋規すら 回収を試みた明末の崇禎年間における地方行政費の内訳を 如実に表すものと言えるであろう。 ま た、 ﹃ 度 支 奏 議 ﹄ の 他 の 上 奏 か ら は、 従 来 ほ と ん ど 言 及されてこなかった明代の江南以外の地域、たとえば河北 における牙行の存在をも垣間見ることができる。 崇禎三︵一六三〇︶年十一月十一日の﹁題請 幾 ママ 南四府協 済按数節省充餉 疏 ︶44 ︵ ﹂では北直隷の真定府、 順徳府、 広平府、 大名府における換帖費の存在を見て取ることができる。 増加塩引 聴巡塩御史疏通増撥 南馬協済 行査不開 修衙銀両︵清軍糧馬理刑庁を含む︶ 一千六百二十九両四銭 牙行換帖 一千三百九十八両 凑 解紙贖︵遼糧支用以外の積穀︶ 二千一百八十五両 河濱灘蕩 一百六十九両四銭 吏農班価 三百八十五両三銭 清汰虚冒 行査不開 生祠変価 六百六十一両二銭 毎年合計の銀︵行査不開を除く︶は六四二八両三銭であ り、そのうち換帖からの所得は一三九八両であった。端的 にいえば北直隷真定府・順徳府・広平府・大名府の牙行換 帖からの総額は南直隷応天府のそれに比肩する量ではある が、北直隷四府上納銀の総額に占める割合からいえば、そ の比率は南直隷ほど高いものではなかった。これは北直隷 が新設した徴収項目のうち、軍事関連の徴収項目︵たとえ ば修衙銀両は﹁清軍糧馬理刑庁﹂の修繕費用であり、 凑 解 紙贖は﹁遼糧支用﹂である︶が高額に設定されたためでは ないだろうか。また当地は水運網が発達せず牙行からの徴 収は少なかったとい い ︶45 ︵ 、牙行の発達が遅滞していたと考え られる。その他の地域では、軍事地区の宣府鎮や行塩地の
80 河間府を除く換帖からの所得は 順天府 八百八十六両 保定府 一百七十七両 永平府 七十九両四銭八分 であっ た ︶46 ︵ 。前の真定府・順徳府・広平府・大名府の換帖費 を 加 え て も 二 五 四 〇 両 に と ど ま り、 ﹁ 会 議 辺 餉 事 竣 通 行 彙 冊頒布疏﹂に定めた額︵六〇〇〇両︶の五割にさえ至らな かった。こうした状況は陝西にも見て取れ る ︶47 ︵ 。これは、定 めた額︵七〇〇〇両︶の九割以上を達成した江南の状況と は好対照をなしている。しかし、これが南方地方経済上の 優位性を示す一側面なのか、或いは北方地方経済が己巳の 変のため悪化したことを示すのかは、 今後の課題としたい。 終わりに 最後に、本稿で解明した諸点を整理する。まず第一節で は、 明 代 後 期 江 南 に お け る 牙 行 の 納 穀 慣 行 を 再 検 討 し て、 その営業税としての性格および清代の牙税との近似性を明 らかにした。併せて、営業税の付加税である清代の地方陋 規とは性質が異なる点についても指摘した。 第二節では明末の上奏史料を踏まえて納穀が地方の慣行 から中央の正式徴税になる経緯を分析し、牙行営業税の制 度化・明文化の時期が明代に遡ることを明らかにした。以 上の考察を通して、先学の牙税に対する知見に一定の修正 を加えつつ、 明清牙行制度の連続性を実証した。また、 ﹁明 末各地でのかかる慣行が清代雍正年間に至って制度的に確 立した経 緯 ︶48 ︵ ﹂の一端も明らかにし得た。 さらに第三節では、換帖からの所得が崇禎初期の新設上 納額の内で高い比率を占めていることを明らかにした。納 穀 慣 行 が 北 直 隷 か ら 広 東 ま で 広 汎 に 存 在 す る 点 は 先 学 に よってつとに指摘されているが、換帖からの所得がこのよ う に 高 い 比 率 を 占 め る 点 は 特 筆 す べ き で あ る。 な ぜ な ら、 仮にこの新設上納額が崇禎初期以前から地方行政費の一部 分を担っていたとすれば、地方財政における換帖費は間違 いなく重要な位置を占めていたといえるからである。 また、 南北直隷での牙帖に対する徴収額の差異、崇禎六年から雍 正十一年に至る牙帖への徴収の質的変化、清代後期の牙税 と明代後期の牙行の﹁当官﹂との関 係 ︶49 ︵ など、残された課題 は後考を期したい。 注 ︵ 1︶ た と え ば 西 嶋 定 生﹁ 十 六 ・ 十 七 世 紀 を 中 心 と す る 中 国 農 村工業の考察﹂ ︵﹃歴史学研究﹄一三七号、 一九四八年。 ﹃中 国経済史研究﹄東京大学出版会、一九六六年所収︶ 。
81 明末「牙税」考(銭) ︵ 2︶ た と え ば 劉 石 吉﹁ 明 清 時 代 江 南 地 区 的 専 業 市 鎮 ﹂︵ ﹃ 食 貨 月 刊 ﹄ 一 九 七 八 年 八 巻 六 ・ 七 ・ 八 期 ︶、 臼 井 佐 知 子﹁ 江 南 に お け る 徽 州 商 人 と そ の 商 業 活 動 ﹂︵ 佐 藤 次 高 等 編﹃ 市 場 の 地 域 史 ﹄ 山 川 出 版 社、 一 九 九 九 年。 ﹃ 徽 州 商 人 の 研 究 ﹄ 汲 古書院、二〇〇五年所収︶など。 ︵ 3︶ 山根幸夫 ﹁明清時代華北における定期市﹂ ︵﹃史論﹄ 八集、 一 九 六 〇 年 ︶、 同﹁ 明 清 時 代 華 北 市 集 の 牙 行 ﹂﹃ 星 博 士 退 官 記念中国史論集﹄星斌夫先生退官記念事業会、 一九七八年。 ﹃ 明 清 河 北 定 期 市 の 研 究 ﹄ 汲 古 書 院、 一 九 九 五 年 所 収 ︶ を 参照。 ︵ 4︶ 都 市 商 人 ら の 被 収 奪 性 に 関 す る 研 究 は、 佐 藤︵ 新 宮 ︶ 学 ﹁ 明 代 北 京 に お け る 鋪 戸 の 役 と そ の 銀 納 化
│
都 市 商 工 業 者 の 実 態 と 把 握 を め ぐ っ て│
﹂︵ ﹃ 歴 史 ﹄ 六 二 輯 、 一九八四年︶ 、﹁明代南京における鋪戸の役とその改革﹃行﹄ を め ぐ る 諸 問 題 ﹂︵ 国 士 舘 大 学﹃ 人 文 学 会 紀 要 ﹄ 一 七 号、 一 九 八 五 年 ︶、 ﹁ 明 末 清 初 期 地 方 都 市 に お け る 同 業 組 織 と 公 権 力│
蘇 州 府 常 熟 県﹃ 当 官 ﹄ 碑 刻 を 素 材 に│
﹂︵ ﹃ 史 学雑誌﹄九六編九号、一九八七年︶を参照。 ︵ 5︶ 新 宮︵ 佐 藤 ︶ 学﹁ 明 代 の 牙 行 に つ い て│
商 税 と の 関 係 を 中 心 に│
﹂︵ ﹃ 山 根 幸 夫 教 授 退 休 記 念 明 代 史 論 叢 ﹄ 下巻、汲古書院、一九九〇年︶を参照。 ︵ 6︶ 山 本 進﹁ 明 末 清 初 江 南 の 牙 行 と 国 家 ﹂︵ 名 古 屋 大 学﹃ 東 洋 史 研 究 報 告 ﹄ 二 一 号、 一 九 九 七 年。 ﹃ 明 清 時 代 の 商 人 と 国家﹄研文出版、二〇〇二年所収︶を参照。 ︵ 7︶ 山 本 進﹁ 清 代 の 雑 税 と 牙 行 ﹂︵ 名 古 屋 大 学﹃ 東 洋 史 研 究 報 告 ﹄ 二 八 号、 二 〇 〇 四 年。 ﹃ 環 渤 海 交 易 圏 の 形 成 と 変 容 ﹄ 東方書店、二〇〇七年所収︶を参照。 ︵ 8︶ ち な み に 中 国 で は、 牙 行 の 商 税 徴 収 や 流 通 保 護 な ど の 問 題 に 関 心 を 寄 せ る 研 究 は 数 多 い。 た と え ば 党 誠 恩﹃ 中 国 商 業 史 話 ﹄︵ 中 国 商 業 出 版 社、 一 九 八 七 年 ︶、 汪 士 信﹁ 試 論 牙 行 ﹂︵ ﹃ 中 国 社 会 科 学 院 経 済 研 究 所 集 刊 八 集 ﹄ 一 九 八 六 年 ︶、 楊 其 民﹁ 売 買 中 間 商〝牙 人 〟、 〝牙 行 〟的 歴 史 演 変│
兼 釈 新発現的 ︽嘉靖牙帖︾│
﹂︵﹃ 史 林 ﹄ 一 九 九 四 年 三 期 ︶ な ど 。 た だ し、 日 本 の 研 究 を 乗 り 越 え る も の は 管 見 の 限 り 存 在 し な い。 な お、 牙 人・ 牙 行 に 関 す る 論 文 と 著 書 に つ い て は、 拙 稿﹁ 中 国 の 牙 人・ 牙 行 関 係 文 献 目 録︹ 稿 ︺﹂ ︵﹃ 山 形 大 学 歴史・地理・人類学論集﹄一五号、二〇一四年︶を参照。 ︵ 9︶ 吉 尾 寛﹁ 明 末 の 戸 部 尚 書 畢 自 厳 の 兵 餉 運 営 に 対 す る 一 視 点│
﹃ 度 支 奏 議 ﹄﹁ 堂 稿 ﹂ 部 に 記 載 さ れ る 数 値 史 料 を 手 が か り に し て│
﹂︵ ﹃ 中 国 近 世 社 会 の 秩 序 形 成 ﹄ 京 都 大 学人文科学研究所、二〇〇四年、一四八頁︶を参照。 ︵ 10︶ 詳 細 は 注 ︵ 4︶ 前 掲 の 佐 藤 ︵ 新 宮 ︶ 氏 論 文 ︵ 一 九 八 四 、 一 九 八 五 ︶ や 高 寿 仙 氏 の﹁ 市 場 交 易 的 徭 役 化│
明 代 北 京 的〝鋪 戸 買 辦 〟 与〝召 商 買 辦 〟│
﹂︵ ﹃ 史 学 月 刊 ﹄、 二〇一一年第三期︶などを参照。 ︵ 11︶ 楊永漢﹃論晩明遼餉収支﹄ ︵天工書局印行、 一九九八年︶ 。 注 ︵ 9︶ 前 掲 の 吉 尾 氏 論 文。 李 華 彦﹃ 財 之 時 者│
戸 部 尚 書 畢 自 厳 与 晩 明 財 税│
﹄︵ 花 木 蘭 出 版 社 、 二 〇 一 二 年 ︶、 ﹁ 崇 禎 朝 薊 遼 兵 変 与 餉 税 重 整 ﹂︵ 二 〇 一 三 年、 国 立 清 華 大 学 歴 史 研 究 所 へ 提 出 し た 博 士 論 文、 台 湾 博 碩 士 論 文 知 識 系 統82 よ り 入 手 ︶。 曾 美 芳﹁ 晩 明 戸 部 的 戰 時 財 政 運 作
│
以 己 巳 之 変 為 中 心 ﹂︵ 二 〇 一 三 年、 国 立 曁 南 大 学 歴 史 学 研 究 所 へ 提 出 し た 博 士 論 文、 台 湾 博 碩 士 論 文 知 識 系 統 よ り 入 手 ︶。 胡鉄球、 ﹃明清歇家研究﹄ ︵上海古籍出版社、二〇一五年︶ 。 ︵ 12︶ ﹃大明律﹄巻一〇、戸律、市廛、私充牙行埠頭﹁凡城市 ・ 郷 村 諸 色 牙 行 及 船 埠 頭、 並 選 有 抵 業 人 戸 充 応。 官 給 印 信 文 簿、 附 写 客 商・ 船 戸 住 貫・ 姓 名・ 路 引・ 字 号・ 物 貨 数 目、 毎 月 赴 官 査 照。 私 充 者 杖 六 十、 所 得 牙 銭 入 官。 官 牙 埠 頭 容 隠者、笞五十、革去。 ﹂ ︵ 13︶ 注 ︵ 5︶前掲の新宮氏論文八四四∼八四七頁を参照。 ︵ 14︶ 新 宮︵ 佐 藤 ︶ 学﹁ 明 代 後 半 期 江 南 諸 都 市 の 商 税 改 革 と 門 攤 銀 ﹂︵ ﹃ 集 刊 東 洋 学 ﹄ 六 〇 号、 一 九 八 八 年、 一 〇 〇∼ 一 〇 二 頁 ︶ を 参 照。 ま た、 范 金 民﹁ 民 代 嘉 靖 年 間 江 南 的 門 攤 税 問 題│
関 於 一 条 材 料 的 標 点 理 解 ﹂︵ ﹃ 中 国 経 済 史 研 究 ﹄ 二 〇 〇 二 年 一 期 ︶ に よ る と、 ﹁ 門 攤 科 派 ﹂ は 蘇 州 府・ 松江府・常州府・鎮江府から淮安府へ普及していった。 ︵ 15︶ 注 ︵ 5︶、︵ 14︶前掲の新宮氏論文を参照。 ︵ 16︶ 注 ︵ 3︶前掲の山根氏著書六六頁を参照。 ︵ 17︶ 稲 葉 岩 吉 氏 は 中 華 民 国 以 前 の 牙 税 を 経 営 資 格 に 対 す る 徴 税︵ 営 業 税 ︶ と 判 断 す る︵ ﹁ 駔 儈・ 牙 儈 及 ビ 牙 行 ニ 就 イ テ│
支 那 税 源 ノ 歴 史 的 考 察 ︵ 上 ︶﹂ ︵﹃ 東 亜 経 済 研 究 ﹄ 五 巻二号、一九二一年、一四二頁を参照︶ 。 ︵ 18︶ 例 え ば 臨 時 台 湾 旧 慣 調 査 会 第 一 部 報 告 編﹃ 清 国 行 政 法 ﹄ ︵ 臨 時 台 湾 旧 慣 調 査 会、 一 九 一 〇 年。 汲 古 書 院 一 九 七 二 年 の 影 印 版 を 用 い る ︶ 第 二 巻、 第 五 章 産 業、 第 四 節 商 業、 第 二 款 商 業 取 締、 第 一 項 牙 行、 四 八 九 頁﹁ 乾 隆 会 典︵ 巻 十 八 ︶ 二 曰 ク 凡 城 廂 衢 市 山 場 鎮 集 舟 車 所 凑 。 貨 財 所 聚 択 民 之 良 者。 授 之 帖 以 為 牙 儈。 使 辦 物 平 価 以 通 貨 易。 而 税 其 帖 曰 牙 税 ﹂。 ま た、 雍 正﹃ 楽 安 県 志 ﹄ 巻 二 十、 芸 文 志、 李 芳 膺﹁ 革 牙 帖 市 税 議 ﹂ に は﹁ 無 行 則 無 帖、 無 帖 則 無 税 ﹂ と 記 載している。 ︵ 19︶ 注 ︵ 5︶前掲の新宮氏論文八五二頁。 ︵ 20︶ ﹃ 南 州 草 ﹄ 巻 十 二、 公 移、 査 革 六 合 商 税 示﹁ 又 聞 各 経 紀 給 領 官 帖、 毎 張 納 稲 二 石、 成 何 政 体。 為 此 示 仰 通 県 人 民 知 悉、 除 十 大 行 照 旧 外、 其 余 一 切 小 行 経 紀 商 税、 無 論 在 城 在 鎮、尽行裁革。 ﹂ ︵ 21︶ 十 大 行 へ の 商 税 徴 収 は﹁ 夫 馬 工 食 ﹂・ ﹁ 草 料 ﹂ の 支 出 を 支 え て い る︵ 商 税 呈、 五 頁﹁ 十 行 税 銀 原 係 両 院 酌 定 額 数 徴 給 夫馬工食・草料﹂ ︶。 小 行 経 紀 へ の 商 税 徴 収 は 轎 夫 工 食 や 六 房 書 手 工 食、 操 院 兵 餉、 走 遞 夫 銀、 禁 卒 工 食、 夫 頭 工 食、 九 門 總 甲 工 食、 額 派 公 費 な ど の 行 政 支 出 を 負 担 し て い る︵ 商 税 呈 六∼ 七 頁﹁ 查 原 税 前 銀、 有 充 本 府 公 費 者 ⋮⋮ 有 加 本 県 轎 夫 者、 查 該 縣 轎 夫 工 食 ⋮⋮ 又 有 作 六 房 書 手 工 食 者 ⋮⋮。 止 有 操 院 兵 餉 ⋮⋮ 走 遞 夫 銀 ⋮⋮ 禁 卒 工 食 ⋮⋮ 夫 頭 工 食 ⋮⋮ 俱 不 可 少。 又 有 為 該県公費者⋮⋮全給﹂ ︶。 ︵ 22︶ ﹃ 聖 祖 仁 皇 帝 実 録 ﹄ 卷 七 二、 康 熙 十 七 年 三 月 壬 午﹁ 不 意 逆 賊 呉 三 桂 背 恩 煽 惑、 各 処 用 兵、 禁 旅 徴 剿、 供 応 浩 繁。 念 及 百 姓 困 苦、 不 忍 加 派 科 斂。 因 允 諸 臣 節 次 条 奏。 如 裁 減 駅 站 官 俸 工 食 ⋮⋮ 増 添 塩 課 塩 丁・ 田 房 税 契・ 牙 行 雑 税・ 宦 戸83 明末「牙税」考(銭) 田地銭糧。奏銷浮冒隠漏地畝、厳行定例処分。 ﹂ ︵ 23︶ 呂 小 鮮﹁ 乾 隆 前 期 牙 商 牙 行 史 料 ﹂︵ ﹃ 歴 史 檔 案 ﹄ 一 九 九 一 年 二 期 ︶、 江 西 道 監 察 御 史 衛 廷 璞 請 廃 止 糧 食 牙 帖 聴 民 開 行 以 平 米 価 奏 摺﹁ 乾 隆 七 年 七 月 二 十 四 日。 ⋮⋮ 査 各 直 省 之 雑 税 牙 帖、 ⋮⋮ 州 県 每 帖 不 過 徴 銀 二 三 銭 至 四 五 銭 而 止。 省 會 及通衢大鎮不過一両一二銭而止﹂ 。 ︵ 24︶ 詳 細 は 注 ︵ 6︶ 前 掲 山 本 氏 著 書、 足 立 啓 二﹁ 牙 行 経 営 の 構造﹂ ︵熊本大学文学会 ﹃文学部論叢﹄ 七三号、 二〇〇一年、 三四∼三五頁︶などを参照。 ︵ 25︶ 陋 規 が 地 方︵ 州 県 ︶ 政 府 の 財 源 に 言 及 し た 先 行 研 究 は、 た と え ば T ’ung -tsu Ch ’u ︵ 瞿 同 祖 ︶. L ocal Gover nment in Ch in a u nder th e Ch 'in g. H arv ard East A sian M ono graphs 143, Har var d University Asia Center . 1962. 岩見宏﹁明代地 方財政の一考察
│
広東の平均銀について│
﹂︵ ﹃ 研 究 ﹄ 巻 三、 一 九 五 二 年 ︶、 ﹁ 明 代 に お け る 上 供 物 料 と 徭 役 と の 関 係﹂ ︵﹃東洋学報﹄五五巻二号、 一九七二年︶ 。岩井茂樹﹁中 国専制国家と財政﹂ ︵﹃中世史講座六﹄ 学生社、 一九九二年︶ 、 ﹃ 中 国 近 世 財 政 史 の 研 究 ﹄︵ 京 都 大 学 学 術 出 版 会、 二 〇 〇 四 年、三二頁︶などを参照。 ︵ 26︶ 初 め に 清 代 の 陋 規 を 牙 税 付 加 税 と 判 断 し た の は 山 本 進 ﹁ 明 末 清 初 江 南 の 牙 行 と 国 家 ﹂︵ 名 古 屋 大 学﹃ 東 洋 史 研 究 報 告 ﹄ 二 一 号、 一 九 九 七 年。 ﹃ 明 清 時 代 の 商 人 と 国 家 ﹄ 研 文 出 版、 二 〇 〇 二 年、 二 〇 九∼ 二 一 〇 頁 ︶ で あ る。 た だ し、 論 者 の 論 述 年 代 と 立 論 の 根 拠 は 山 本 氏 と い さ さ か 異 な っ て いると考えられる。 ︵ 27︶ 六 款 の 疏 は 具 体 的 に は 糴 糧 生 息、 搜 括 商 税、 淮 南 積 引、 扣 省 站 価、 裁 革 雑 流、 査 覈 丁 銀 を 指 す。 ﹃ 度 支 奏 議 ﹄ 堂 稿 卷四、会議辺餉条陳六款疏、一五六∼一六三頁を参照。 ︵ 28︶ ﹃ 度 支 奏 議 ﹄ 堂 稿 卷 四、 会 議 辺 餉 条 陳 六 款 疏、 一 五 八∼ 一 五 九 頁﹁ 一 曰 搜 括 商 税。 ⋮⋮ 此 外 又 有 各 処 行 税。 凡 州 県 斗 秤 牙 行、 先 輸 粟 於 官、 給 一 印 照 応 行 者、 謂 之 行 税。 詢 各 地 方、 有 一 年 一 税 者、 有 一 官 一 税 者。 亦 有 旧 無 而 新 増、 旧 有而新革者。賢者藉以市徳、 不肖者籍以潤槖。度此項所得、 大県可数百両、小県可百余両。処処積之可以数十万計。 ﹂ ︵ 29︶ 詳細は注 ︵ 25︶前掲の岩井氏論文を参照。 ︵ 30︶ 詳 細 は 朱 慶 永﹁ 明 末 遼 餉 問 題︵ 一 ︶・ ︵ 二 ︶﹂ ︵﹃ 政 治 経 済 学報﹄一九三五 ・ 三六年、三八一頁︶を参照。 ︵ 31︶ 会 議 辺 餉 条 陳 六 款 疏、 一 五 六∼ 一 六 三 頁﹁ 朝 廷 嘉 恵 元 元 惟 正 之 供、 一 切 無 名 体 宜 報 報 罷。 而 勢 迫 軍 興、 租 税 兼 挙、 与 其 空 存 寛 大 之 名、 一 任 有 司 之 攫 攘、 何 如 明 定 徴 輸 之 額、 稍 益 軍 国 之 些 須。 此 所 謂 不 在 官 不 在 民 之 物、 改 其 侵 沒 而 収 之 公 帑、 雖 若 瑣、 而 実 鉅 有 利 於 国、 而 非 虐 於 民 也。 ⋮⋮ 崇 禎二年三月十九日具題、 四月初二日奉聖旨、 辺餉正在集議、 這条奏六款商税淮引、及裁革雑流、従長酌行。 ﹂ ︵ 32︶ ﹃ 度 支 奏 議 ﹄ 堂 稿 巻 五、 題 覆 会 議 辺 餉 議 単 十 二 款 疏 二 一 一∼ 二 二 〇 頁﹁ 題 為 遵 旨 会 議、 謹 萃 集 思 之 忱、 用 備 採 択、 以 求 実 效 事。 ⋮⋮ 一、 牙 行 換 帖。 議 之 者 寺 臣 康 新 民・ 科 臣 張 鵬 雲 也。 該 臣 等 看 得、 宇 内 州 県 地 方 有 肥 脊、 而 牙 行 換 帖 無 処 不 有。 ⋮⋮ 査 旧 例 換 帖 不 過 数 銭。 即 設 立 名 色、 折 罰 贖 穀、 亦 僅 一 両 二 銭 已 耳。 今 後、 査 天 下 州 県、 有 物 産 所84 聚、 行 貨 富 饒 者、 縦 量 行 加 増 亦 不 為 多。 即 以 寺 臣 原 任 固 始 計 之、 毎 歳 納 米 一 百 八 十 余 石 以 供 県 官 之 用、 而 多 者 尚 不 知 其 数 也。 此 処 不 必 再 議 徴 商 矣。 約 計 天 下 州 県 千 余、 多 者 可 得 二 百 両、 少 者 亦 得 幾 十 両。 与 其 入 貪 墨 之 囊、 不 若 充 軍 国 之 需。 此 与 臣 原 議 行 税 実 相 彷 彿。 ⋮⋮ 善 哉 科 臣 之 言、 曰 原 無者自不可増、 原有者亦不可減。此不煩加派亦不煩催徴者、 勿 藉 口 兌 餉 分 外 科 擾 也。 是 在 賢 有 司 拠 実 呈 報、 賢 撫 按 加 意 査 核 耳。 査 行 税 一 議、 台 臣 趙 洪 範・ 李 長 春・ 顧 其 国 皆 謂 猥 瑣、 且 擾 市 廛、 而 憲 臣 曹 于 汴 ・ 楊 鶴 又 謂 牙 行 換 帖 稲 有 千 石 不 止 者、 刑 臣 胡 世 賞 亦 云、 有 行 税 者 当 行 搜 括、 科 臣 解 学 龍 等疏云、 牙行納銀納穀、 夫既已徴之於民、 何不可帰之於国、 故不敢尽廃焉。 伏候聖裁。 ⋮⋮崇禎二年閏四月初四日具題、 本月十二日奉聖旨、⋮⋮牙行換帖因地酌宜。 ﹂ ︵ 33︶ ﹃ 礼 部 志 稿 ﹄ 巻 四 二、 礼 部、 儀 制 司、 主 事 に は﹁ 康 新 民、 朝 徹 四 川 合 州 籍 江 西 安 福 人、 万 暦 丁 未 進 士。 四 十 二 年 由 河 南 固 始 県 知 県 升 任 ﹂ と あ り、 万 暦 四 十 二︵ 一 六 一 四 ︶ 年 に 固 始 県 の 知 県 よ り 礼 部 儀 制 司 の 主 事 に 昇 任 し て い る。 な お 順 治﹃ 固 始 県 志 ﹄ 巻 五、 宦 蹟、 康 新 民 に は﹁ 由 進 士 万 暦 甲 寅年任。真心愛民、 実行課士、 涖任七載﹂とあり、 万暦︵甲 寅 ︶ 四 十 二 年 か ら 七 年 に 在 任 し て い る と 記 載 す る が、 乾 隆 ﹃ 重 修 固 始 県 志 ﹄ 巻 十 七、 秩 官 上 に は﹁ 万 暦 三 十 四 年、 孫 光 裕、 嘉 興 進 士。 万 暦 三 十 七 年、 康 新 民、 四 川 進 士 有 伝。 万 暦 四 十 四 年、 丁 鳴 陞、 霑 化 進 士 ﹂ と あ り、 万 暦 三 十 七 年 から知県になると直した。同書巻十九、 吏積には﹁康新民、 四 川 人。 万 暦 三 十 七 年、 以 進 士 知 固 始、 涖 任 七 載。 ⋮⋮ 陞 礼部主事。 ﹂ とあり、 万暦三十七年から七年間に知県となり、 万暦四十四年に礼部の主事に昇任しているという。 ただし、 礼部主事に着任する年月には食い違いが見られる。 ︵ 34︶ ﹃ 度 支 奏 議 ﹄ 堂 稿 巻 六、 会 議 辺 餉 事 竣 通 行 彙 冊 頒 布 疏、 二 五 二 頁﹁ 如 班 軍 折 価・ 加 増 榷 額・ 停 修 倉 厫・ 板 木 改 折、 此 已 有 額 数 而 但 須 徴 解 者 也。 如 増 加 塩 引・ 搜 括 雑 税・ 南 馬 協 済・ 修 衙 銀 両・ 牙 行 換 帖・ 凑 解 紙 贖・ 議 捐 公 費・ 河 濱 灘 蕩 ・ 吏農班価 ・ 寺田起科 ・ 裁革冗役 ・ 清汰虚冒 ・ 生祠変価 ・ 賈税酌徴 ・ 殿工冠帯 ・ 京東水田、此未有確額而猶俟査覈也。 統 計 凡 二 十 款、 謹 将 奉 旨 允 行 条 議 諸 款、 彙 成 一 疏、 恭 進 御 覧、 合 候 命 下、 刻 刊 成 冊、 頒 行 各 該 省 直。 ⋮⋮ 一、 牙 行 換 帖、 ⋮⋮ 因 奉 聖 旨、 牙 行 換 帖 因 地 酌 宜、 欽 此。 欽 遵 為 照 宇 内 省 分、 除 雲 貴 曁 窮 辺 州 県 免 議 外、 以 腹 内 地 方 言 之、 凡 貨 物 出 産 聚 集 処、 所 有 商 賈 往 來、 因 有 牙 行 経 紀、 一 行 領 帖 至 十 数 紙、 納 帖 折 価 可 数 百 金。 即 小 県 僻 州、 必 有 市 肆 貿 易、 必 有 牙 行 居 間、 亦 有 三 五 十 金。 本 部 第 知 各 省 直 之 肥 瘠、 而 各 撫 按 能 知 各 州 県 之 肥 瘠。 今 照 省 直 額 定 総 数、 約 有 七 万 余 両、 至 於 酌 量 本 省 地 方、 産 聚 若 何・ 応 派 多 寡 若 何、 撫 按 督 行 司、 自 能 定 之。 要 勿 失 原 派 之 額 而 止。 今 将 省 直 酌 定 額 数 開 列 於 後、 行 令 省 直 如 数 徴 解 以 佐 軍 餉。 ⋮⋮ 崇 禎 二 年 五 月 十 六 日 具 題、 本 月 二 十 日 奉 聖 旨、 這 餉 議 奉 旨 各 款 便 彙 冊 刊 布。 ﹂ な お、 第 一 節 で 明 ら か に し た こ と と の 関 連 か ら 言 え ば、 ここで頒布された二十条には ﹁牙行換帖﹂ のほかにまた ﹁加 増 榷 額 ﹂、 ﹁ 搜 括 雑 税 ﹂ と﹁ 賈 税 酌 徴 ﹂ の 項 を 載 せ る。 ﹁ 加
85 明末「牙税」考(銭) 増榷額﹂ と ﹁搜括雑税﹂ の条項は関税に関する改革であり、 こ れ ら の 徴 税 は 榷 関 や 税 課 司 局 が 行 っ て い る が、 第 一 節 で も 確 認 し た と お り 税 課 司 の 徴 税 は 後 に 包 納 税 銀 法︵ 商 税 徴 収 請 負 ︶ の 形 式 に 変 化 し た。 こ れ に 対 し て、 ﹁ 牙 行 換 帖 ﹂ と﹁ 賈 税 酌 徴 ﹂ の 条 項 は 国 家 が 従 来 把 握 し て い な か っ た 地 方 収 入 を 載 せ て い て、 そ の 具 体 的 な 金 額 も 明 ら か に さ れ て い な い。 関 税 か ら 変 化 し た﹁ 門 攤 銀 ﹂ と 項 目 を 異 に す る こ と か ら も、 こ の 七 万 両 の 牙 行 換 帖 の 額 は 新 た な 財 源 と 考 え ら れ よ う。 つ ま り、 国 家 は 牙 行 換 帖 か ら の 収 入 を 新 た な 財 源 と 見 な し て、 商 税 徴 収 請 負 か ら の 収 入 と 分 別 し た の で あ る。 ︵ 35︶ 同注 ︵ 3︶前掲の山根氏著書五五∼七六頁を参照。 ︵ 36︶ 会議辺餉事竣通行彙冊頒布疏 ︵第八条︶ 、二五二頁を参照。 ︵ 37︶ な お、 注 ︵ 11︶ 前 掲 の 李 氏 著 書 一 〇 三∼ 一 〇 四 頁 で こ の 史 料 に 触 れ て い る が、 例 え ば﹁ 停 修 倉 厫 ﹂ で の 大 修︵ 倉 庫 の 全 面 的 修 繕 ︶ 費 用 の 計 算 を 誤 る、 具 体 的 に 節 約 さ れ た 金 額も計算していないなど、問題が目立つ。 ︵ 38︶ ︹ ︺の内は筆者が補ったものである。 ︵ 39︶ ﹃ 度 支 奏 議 ﹄ 堂 稿 巻 五、 題 覆 太 常 寺 少 卿 呂 維 祺 会 議 疏、 一 九 二 頁﹁ 一、 生 祠 変 価。 ⋮⋮ 合 移 咨 撫 按、 凡 境 内 生 祠、 果 有 恵 政 及 民 而 民 心 思 慕 者、 許 合 詞 請 附 主 名 宦、 仍 聴 留 其 祠用旌遺愛。其余委理刑官査刷、 凡以物議敗而官無実恵者、 即 行 拆 毀、 変 価 充 餉、 以 後 仍 痛 禁。 自 建 者 事 発 褫 職、 及 議 建祠者首事之罪、伏候聖裁。 ﹂ ︵ 40︶ ﹃ 度 支 奏 議 ﹄ 堂 稿 巻 五、 題 覆 会 議 辺 餉 議 単 十 二 款 疏︵ 第 六 条 ︶、 二 一 五∼ 二 一 六 頁﹁ 一、 南 馬 協 済。 ⋮⋮ 国 初 立 法 所以均労也。自南人不習風土、 寄養称苦、 不得已解銀協済、 此 南 馬 帮 帖 所 繇 来 也。 ⋮⋮ 不 謂 日 久 法 玩、 地 隔 則 痛 痒 不 関 ⋮⋮ 始 則 圧 解、 継 則 拖 欠、 久 則 習 為 固 然、 子 虚 烏 有、 毫 不 可 問。 ⋮⋮ 従 前 者 不 可 査、 以 崇 禎 元 年 為 始、 将 実 在 銀 数 詳 細造冊、一面報部、一面徴解、以克軍餉。 ﹂ ︵ 41︶ ﹃度支奏議﹄ 堂稿巻五、 題覆戸科都給事中解学龍等会議疏、 一 九 七 頁﹁ 京 班 凡 十 六 万 人、 後 撥 山 東・ 河 南 等 処 辺 班 一 万 二 千 人 所 需 之 費。 ⋮⋮ 世 廟 庚 戌 之 変、 古 北 口 之 失、 撥 之以助辺防。 ﹂ ︵ 42︶ ﹃ 度 支 奏 議 ﹄ 堂 稿 巻 五、 会 議 辺 餉 事 竣 通 行 彙 冊 頒 布 疏、 二 四 二 頁﹁ 臣 伏 稽、 枢 臣 疏 内 所 載、 計 春 夏 両 班 官 軍 共 四 万 二 百 七 十 三 員。 ⋮⋮ 其 行 糧 之 在 臣 部、 計 三 個 月 ⋮⋮ 約 該 銀 ⋮⋮ 安 家 銀 則 有 ⋮⋮ 解 京 給 散 大 糧 銀 則 有 ⋮⋮ 以 上 約 銀 共 一十二万有余。 ﹂ ︵ 43︶ 詳 細 は 前 掲 の 題 覆 戸 科 都 給 事 中 解 学 龍 等 会 議 疏、 一 九 七 頁 及 び 会 議 辺 餉 事 竣 通 行 彙 冊 頒 布 疏、 二 四 一∼ 二 四 二 頁 を 参照。 ︵ 44︶ ﹃ 度 支 奏 議 ﹄ 辺 餉 司 巻 四、 題 請 幾 南 四 府 協 済 按 数 節 省 充 餉 疏、 一 八 七∼ 一 九 〇 頁﹁ 題 為 会 議 已 経 宸 断、 立 法 務 在 必 行、 仰 祈 聖 明 申 飭、 中 外 同 心、 共 裕 国 用 事。 ⋮⋮ 一、 増 加 塩 引、 ⋮⋮ 聴 巡 塩 御 史 疏 通 増 撥。 一、 南 馬 協 済、 ⋮⋮ 一、 修 衙 銀 両、 ⋮⋮ 共 該 銀 一 千 六 百 二 十 九 両 四 銭 零。 ⋮⋮ 一、 牙 行 換 帖、 據 報 按 属 不 通 江 河、 牙 行 抽 課 甚 微、 真 定 府 酌 定 認 派 銀 七 百 五 十 両、 順 徳 府 認 派 銀 一 百 二 十 三 両、 広 平 府 認
86 派 銀 一 百 九 十 八 両、 大 名 府 認 派 銀 三 百 二 十 七 両、 通 共 銀 一 千 三 百 九 十 八 両。 該 臣 等 覆 核 前 項 銀 両、 為 数 雖 自 無 多、 但 真 定 等 府 委 非 商 賈 幅 輳 之 地、 自 崇 禎 三 年 起、 相 応 責 成 各 府、 照 数 速 斛、 仍 応 分 載 各 府 考 成 項 下。 一、 凑 解 紙 贖、 ⋮⋮ 共 折 銀 二 千 一 百 八 十 五 両。 ⋮⋮ 一、 河 濱 灘 蕩、 ⋮⋮ 共 一 百 六 十 九 両 四 銭 零 ⋮⋮。 一、 吏 農 班 価、 ⋮⋮ 共 銀 三 百 八 十 五 両 三 銭 零。 ⋮⋮ 一、 清 汰 虚 冒、 ⋮⋮ 一、 生 祠 変 価、 ⋮⋮ 共 銀 六 百 六 十 一 両 二 銭。 ⋮⋮ 以 上 按 属 真 定 等 四 府 所 属 各 該 州 県、 除 南 馬 協 済、 并 逃 故 絶 糧 行 査 不 開 外、 毎 年 共 該 解 部 銀 六 千 四 百 二 十 八 両 三 銭 零。 ⋮⋮ 崇 禎 三 年 十 一 月 十 一 日 具 題、 本 月 十 四 日 奉 聖 旨、 拠 奏 畿 南 四 府 議 款 見 扣 銀 両、 既 経 覆 核、 雑 項 責 該 府 節 裁、 責 餉 司 倶 着 按 数 速 解、 一 体 考 成。 其 江 浙 協 済 南 馬 銀、 除 赦 免 外、 元 二 三 年 未 完 正 額、 著 厳︹核︺解部⋮⋮欽此。 ﹂ ︵ 45︶ ﹃ 度 支 奏 議 ﹄ 辺 餉 司 巻 四、 題 請 幾 南 四 府 協 済 按 数 節 省 充 餉 疏、 一 八 八 頁﹁ 一、 牙 行 換 帖。 拠 報、 按 属 不 通 江 河、 牙 行抽課甚微。 ﹂ ︵ 46︶ ﹃ 度 支 奏 議 ﹄ 辺 餉 司 巻 八、 覆 省 直 奏 報 会 議 充 餉 銭 糧 載 入 考 成 疏、 三 四 一∼ 三 四 三 頁﹁ 今 拠 順 天 府 尹 傅 淑 訓 開 □、 牙 行 換 帖 一 款、 共 得 銀 八 百 八 十 六 両。 ⋮⋮ 又 保 定 府 所 属 二 十 州 県、 認 派 牙︹ 行 ︺ 換 帖 銀 一 百 七 十 七 両、 又 折 穀 銀 四 百 八 十︹ 一 ︺ 両 五 銭、 共 銀 一 千 六 十 五 両 一 銭 五 分 三 厘。 ⋮⋮ 又拠順天撫臣傅宗龍、 会同按臣甘学濶□報、 一、 議革冗役、 銀 一 百 七 両 二 銭。 一、 議 捐 公 費、 各 州 県 已 充 新 餉 豆 価 外、 止文安県捐銀四十両。一、 修衙銀、 四十五両三銭三分二厘。 一、 牙︹ 行 ︺ 換 帖。 除 順 天 府 銀 八 百︹ 六 ︺ 十 六 両 □ □ □ □ □ 止 永 平 府 銀 七 十 九 両 四 銭 八 分。 ⋮⋮ 崇 禎 四 年 七 月 二 十 二 日 具 題、 本 月 二 十 五 日︹ 奉 ︺ 聖 旨、 各 省 直 奏 報 銭 糧、 既 経 査 核 明 白、 着 照 額 数 □ 分 解 部 充 餉、 仍 載 入 考 成、 虧 延 一 体 参罰、欽此。 ﹂ ︵ 47︶ 覆 省 直 奏 報 会 議 充 餉 銭 糧 載 入 考 成 疏、 三 四 三 頁﹁ 又 拠 陝 西撫臣□□事提報、⋮⋮一、牙行換帖銀二千両。 ﹂ ︵ 48︶ 注 ︵ 5︶前掲の新宮氏論文八五四頁を参照。 ︵ 49︶ 注 ︵ 6︶、︵ 7︶前掲の山本氏著書を参照。