〔論 文〕
医療機器産業を考える
―その課題と動向―
北 村 正 仁
(日本大学 博士課程後期) (オリンパス株式会社)1.はじめに
昨今,日本において医療機器産業への関心が高まっている。日本政府が推進するアベノミクス3本 の矢のうち,「第三の矢」として「新たな成長戦略」が掲げられ,直近では2018年6月に『未来投資 戦略 2018』が閣議決定され,「Society 5.0」や「データ駆動型社会」への変革を提唱している。その 中では,「次世代ヘルスケア・システムの構築」が具体的施策として設定されており,その目標とし て,「先進的医薬品・医療機器等の創出,ヘルスケア産業の構造転換」具体的には,①先進的医薬 品・医療機器等の創出のための基盤整備,②AI等の技術活用,③ヘルスケア産業の競争力強化・構 造転換,などが提示されている。これらの背景には,日本が急速に「少子高齢化社会」へ移行してい る社会的・政治的な諸課題はもとより,医薬品や医療機器に関する急速な技術革新や,それに伴う国 際競争の激化などが影響していると考えられる。 これと呼応する形で,過去には日本の花形産業であった家電や半導体産業などの低迷が続く中,事 業構造改革や業績回復策の一つとして,医療機器産業への参入を目指す企業が増加していることも事 実である。つまり,日本の産業構造変化の一部として医療機器産業へ注目が集まっているとも言える。 本稿では,このような医療機器産業の大きな変化について考察を加えつつ,医療機器産業,特に日本 企業の視点から,その課題と動向を探る。2.医療機器産業の外観
2.1 医療機器産業の現状 まず,日本企業を中心に医療機器産業の現状を外観する。経済産業省(2018a)の資料によると, 医療機器は大きく「治療機器」「診断機器」「その他」に分類され,その対象は非常に広い。日本の医 療機器市場は,2004年以降増加の一途で,約2.8兆円の市場規模(2016年)であり,金額ベースで治 療機器が55%,診断機器が22%を占める。一般に,治療機器の成長率が高く市場規模も大きいが,輸入比率が高いのが実情である。世界市場も新興国の需要拡大などにより拡大を続けており,2019年の 市場規模は4,678億ドルで米国と欧州が高い比率を占める。日本の医療機器の輸出入額も年々増加し ており,2015年で約8000億円の輸入超過である。 同じく経済産業省(2018b)のデータから国内企業の国際競争力を見ると,軟性内視鏡で日系企業 が世界シェアの99.1%を占め,超音波画像診断装置で33.1%,MRIで23.5%と,診断機器分野では一 定の国際競争力を持つ一方,治療機器では殆ど存在感が無いのが実情である。技術革新が進む中で, 欧米大手企業によるベンチャー企業の買収が相次ぎ,世界の医療機器メーカーの2017年ランキング上 位20社では,オリンパスが17位,テルモが18位,キヤノンが20位と,日系企業は欧米の後塵を拝して いる。 2.2 医療機器産業の主要プレイヤー 医療機器産業は,その中核となる医療機器メーカーだけでなく,それを取り囲む数多くのステーク ホルダーからの影響や相互作用を受けている。その中でも主要な5つのステークホルダーを英語表記 の頭文字から「5つのP」と呼ぶ。 (1)患者(Patient) (2)医師・ドクター(Physician) (3)病院・医療サービス提供機関(Provider) (4)医療費支払い者・保険組合(Payer) (5)政策立案者・行政機関(Policy Maker) この5つの主要プレイヤーが相互に複雑な影響を及ぼし合っており,その中で如何に行動するかが 医療機器メーカーの戦略となる。この5つの主要プレイヤーと医療機器メーカー,そしてそのプレイ ヤー間で相互に及ぼし合っている主要な事象や社会動向を模式的に表したものが,次の【図1】医療 機器産業の主要プレイヤーである。 図1 医療機器産業の主要プレイヤー 出所:著者作成。 ୢਃஓਓੀदमڱणभਏউঞشখشق3كऋളහप୶॑ऻख়ढथःॊ ೩ 3DWLHQW ୢા੍௸ 3D\HU৳૫ੌ় ੁয়੧ 3ROLF\0DNHU ୢਃঢ় 3URYLGHU ॻॡॱش 3K\VLFLDQ ୢజহ 0HGLFDO6WDí ૠਊଂ ୢਃஓ ওشढ़ش ੀ੮৬ ৈೡ৲ ৳૫મ೪ ୢાచ ૼৈ২৲ ৸ਙ %LJ'DWD ්ਙ ૠਮ ୢ୪ය ૨ઈ৷ যੲਾ ୢ৽ੋਙ
この【図1】では,医療機器メーカー並びに主要プレイヤー(5P)だけでなく,各プレイヤーの 間に存在する様々な社会動向や社会課題を表すキーワードが記されている。例えば,医療機器メー カーは,業界団体などを通じて,政策立案者に対して,規制緩和を求める。政策立案者は医療費支払 者へ医療費削減を求める一方で,医療機器メーカーへは安全性や医療経済性の向上を求める。医療費 支払者は患者からの保険料抑制を求められ,医療提供機関への効率的な経営や運用を求める。少子高 齢化による患者数の増加の中で,医療機器の安全性や医療費の効率的な運用のため,技術の高度化や 個人情報の活用,Big Dataの分析などが進められている。といったような相互の関連性や動向である。 このように,日本の医療機器産業は政府並びに企業間でも関心が高い一方,多くの社会課題や技術革 新に曝されており課題が多いのが事実である。これら医療機器産業に関する社会動向や社会課題につ いて整理・分析してみたい。
3.医療機器産業を取り巻く社会動向
3.1 少子高齢化 医療機器産業を取り巻く社会動向の大きな潮流として,まず「少子高齢化」の急速な進展が挙げら れる。内閣府の『高齢化白書』(2019)によれば,国内の65歳以上の高齢者の人口割合は,2000年に 17.4%,2010年に23.0%だったが,2020年に28.9%,2030年に31.2%と増え続け,2040年に35.3%となり, 2050年には37.7%にまで高齢化が一気に上昇する。一方で,少子化による労働人口の減少より,15歳 から64歳までの生産年齢人口は減少の一途であり,2010年の8,103万人が2020年に7,406万人,2030年 に6,875万人と減少し,2040年には5,978万人,2050年には5,275万人にまで減少する推計されている。 このように,急速に高齢化が進むことにより,社会の医療ニーズは増加の一途を辿ると予測される。 一方で,生産年齢人口の減少により,政府の税収や健康保険組合の歳入面の減少が予想され,大きな 社会問題となって来ている。つまり,医療や福祉に対する社会ニーズが急激に増加する一方で,それ を支える健康保険料の歳入や税収の減少が予想され,政府の医療福祉行政予算の増加が大きな国家課 題になって来ていると言える。 このような少子高齢化による社会環境の変化から,医療機器に対する継続的な需要の増加がある一 方で,その有効性や効率性の議論が高まっている。具体的には,「より安全でより安く」という社会 ニーズの高まりと言える。これは,日本に限定した課題ではなく,多くの先進国が同じ問題に直面し ている。さらに,新興国においても医療に対するニーズは高まる一方であり,この「安全性」と「経 済性」の向上は医療機器産業を取り巻く社会の基本ニーズと言える。 3.2 技術革新 医療機器産業を取り巻く社会環境のもう1つの動きとして「技術革新」がある。特に,デジタル技 術やICT技術の急速な進展は,スマートフォンなどのデジタル機器や関連サービスの普及により,私たちの生活スタイルや社会システムの大きな変化を生み出しているが,医療機器業界においても同様 であり,大きなうねりとなっている。これら新技術の導入は,必ずしも既存の大手医療機器メーカー だけでなく,各種医療ベンチャー企業やGAFA⑴など巨大IT企業の参入といった,「デジタル・ディ スラプション」と呼ばれる,破壊的な技術革新,異業種からの参入や産業構造の大きな変化に直面す る時代とも言える。例えば,AI技術を活用した「診断技術」の向上や,ダビンチ⑵に代表されるロボ ディクス技術の導入による「治療技術」の向上などが挙げられる。 このように,医療機器産業を取り巻く社会動向としては,少子高齢化による医療ニーズ(市場)の 増加と,それに対する社会ニーズとしての「安全性」と「経済性」の確立や向上などが求められてい る。一方で,「技術革新」の波が,医療機器産業に新たな機会と脅威として押し寄せていると言える。
4.医療機器産業における企業動向
このように,医療機器産業を取り巻く社会動向は大きく変わりつつあり,医療機器メーカーの動向 にも様々な変化が見られる。 4.1 企業の新規参入 従来から,医療機器産業は比較的高収益で安定した市場と見なされて来たが,バブル経済崩壊後の 長引く経済の低迷,いわゆる失われた10年・20年や2008年のリーマン・ショックなどから,最近多く の企業が医療機器産業へ新規に参入する事例が見られる。この背景には,前項で示した2つの社会動 向があると考えられる。つまり,継続的に伸び続ける医療ニーズが医療機器市場の安定的な拡大を示 していること。次に,様々な技術革新により,新たな参入チャンスが得やすいと考えられる。すなわ ち,既存事業の低迷に苦しむ企業や,新たな事業への多角化を目指す企業などが,安定的な市場の拡 大と技術革新による参入機会を捉え,新規参入を目指していると考えられる。 4.2 新規参入企業例 医療機器産業へ新規で参入する企業が増えている状況について,具体的な事例を挙げてみたい。こ こに示す事例は,比較的大手企業による参入事例である。 ・ニコン(2015年) 眼科用カメラ世界最大手 英国 「オプトス」 を買収 ・ヤマハ発動機(2017年) 細胞培養装置へ参入 ・キヤノン(2016年) 「東芝メディカルシステムズ」 を買収 ・キヤノン(2018年) 治療機器ビジネスへの参入を表明 ・キューピー(2018年) 医療機器ビジネスに参入 ・カシオ(2019年) 皮膚科向け医療用カメラに参入 ・京セラ(2019年) 米国ベンチャーを買収し人工関節市場へ参入・グンゼ(2019年) 医療機器販売会社を買収 ・丸紅(2019年) 米国ベンチャー企業 「エンリテック」 に出資 ・イシダ(2019年) 尿量・血尿計測機に参入 ・富士フィルム(2019年) ドイツ内視鏡器具「メドワーク」を買収 このように,既存の医療機器メーカーだけでなく,他の業界からの新規参入が多く見られる。この他 にも,デジタル技術の分野やICT分野まで視野を拡げれば,更に多くの企業が医療分野に参入してい る。それだけ,他の産業や業界から見た時に医療機器産業(市場)が魅力的な存在である証とも言え よう。
5.医療機器産業の課題
前述の通り,医療機器産業は比較的安定した収益性の高い産業と見なされて来た。しかし,その前 提条件であった社会環境と技術環境が大きく変わり,ある種の転換点にあるとも言える。その環境変 化と課題について考察してみたい。 5.1 社会ニーズの変化と技術革新 3項で示した通り,医療機器産業を取り巻く社会環境の変化では,先進国における少子高齢化によ り,高齢者向け医療市場の拡大と同時に医療費の削減が求められている。また,新興国においても, 経済発展に伴って医療ニーズは高まり,世界的にも医療機器市場は継続的に拡大すると考えられる。 この社会ニーズの変化は,「安全性」と「経済性」の両立を求めることとなり,前述の通り「より安 全により安く」という社会ニーズの顕在化と言える。 一方,技術革新による変化は,他の業界同様に,AI・ICT・IoTなどのデジタル技術革新が医療機 器産業にも波及し,自動診断やロボティクス技術などの実用化が急速に進展している。これら,デジ タル技術による診断技術や治療技術の高度化は「スマート・ヘルスケア」と呼ばれるようになり,そ の影響範囲と影響力は拡大の一途である。つまり,従来から医療の世界では重要な課題である,優秀 な医師や看護師の安定的な確保に代表される「人的課題」に加えて,技術革新によって引き起こされ る「技術課題」への対処が急務となりつつある。 5.2 2つの波の分析 この「社会ニーズの変化」と「技術革新」の2つの波が,どのような形で医療機器産業へ影響を及 ぼしているのか分析を試みたい。 まずは,医療機器産業界の変化や動向にまつわる最近の様々なキーワードを列挙してみた。ここで は純粋な医学用語等は避け,社会変化と技術革新に関連のありそうな用語に絞った。次に,それらの キーワード(用語)を2つの軸によるマトリックス上に配置してみる。2つの軸の1つは,社会ニーズの変化の観点で「安全性」と「経済性」の程度を表す。もう1つの軸は,技術革新の観点から,社 会課題の「人的課題」と「技術課題」の程度を表す。この2つの軸からなる4つの象限に,社会ニー ズ変化の「安全性」と「経済性」,技術革新に関する社会課題を「人的課題」と「技術課題」との関 連度合で各キーワードの配置を試みた。ここでは客観的な数値判断が出来ないため,あくまで筆者の 主観的な判断ではあるが,主に4つの象限のどこに位置するのかの視点から配置分析を実施した。そ の結果が次の【図2】社会ニーズ変化と技術革新である。 この【図2】は,昨今の医療機器産業が直面する様々な課題を,キーワード(用語)をある程度客 観化し,それを2つの軸の4象限に分類配置することで,その傾向や動向を分析したものと言える。 その結果,数多くのキーワードが大きく3つの象限(第1・第3・第4象限)に分布していることが 分かる。逆に,第2象限には殆どキーワードが見られない。この第2象限は,2軸の観点から,社会的 ニーズには「安全性」を,社会課題的には「人的課題」を強く求められるものとなる。つまり,「人 的安全性」に対するニーズと課題言える。この「人的安全性」は,医療産業や医療機器が従来から延々 と取り組んで来た,古典的且つ基礎的なニーズである。すなわち,新たな社会ニーズや課題ではなく, 旧来からの基本的ニーズや課題と言える。そのため,昨今の社会的ニーズや技術革新に関するキーワー ドとして現れてこないと考えられる。 5.3 4つの領域 では,医療機器産業が直面する社会ニーズ変化と技術革新の2つの波を4つの象限で分類した結 果,キーワードの分布が偏った他の3つの象限について,それぞれを深堀して考えてみたい。 まず,第1象限は,「安全性」のニーズと「技術課題」の要素が強いものであり,技術革新に対す 図2 社会ニーズ変化と技術革新 出所:著者作成。
ୢਃஓਓੀ॑ॉ೧िҦভॽش६৲ҧधҦૼৗҧभڮणभణ
৸ਙ
৽ੋਙ
ૼୖ
যୖ
ৈೡ৲ )'$ ,&7 ්ਙ ঽ൧ ॥থউছॖ॔থ५ ୢ৽ੋਙ ৗ௪ব ӑӝӁҽҵҩҵҷӈҺӕ $, ,R7 ҸӏӢӇӢӡӁҩӑӢҴӁ টॸॕॡ५ ॲদॕথॳ ୢાచ *32 ӇӢӀӢӄӝҩӇӢҬӐӣӛӐӣӀҲӡ 0'5 ,9'5 42/ %LJ'DWD &(ঐشॡ ॡছक़ॻ ৸ਙ ӁӓҴӈҩӑӝӁҽҵ *'35 ೫࿒ 406 8/る安全性の確保と捉えられる。AIやロボティクスなどの新たな技術に対して,如何に安全性を確保す るのか?そのような社会の動きと言える。一言で表せば,新しい技術革新に対する品質,安全性,セ キュリティなどの「規制強化」の動きと言える。具体的には,米国FDA⑶や欧州MDR⑷などの規制 の強化,更に欧州におけるIVDR⑸のような対象機器の拡大の動きなどがその典型と言える。 次に,第3象限は「人的課題」と「経済性」の要素が強いものであり,人や組織,その行動に対す る経済性の追求と言える。一言で言えば「透明性の追求」と言える。ここで言う「透明性」とは,全 ての医学医療業界共通の課題であり,医療機関・医師・医薬産業・医療機器産業等の全ての医療関係 者の関係性,特に取引や意思決定等に関する行為や行動を「透明化」し社会にオープン化する動きで ある。具体的には,医薬品や医療機器メーカーと医師との癒着やその取引に関する贈収賄行為の徹底 した排除などを意味する。医療行為に対する費用を削減するためには,旧来のような医師の特権的行 為や企業側の贈賄行為等を撲滅し,客観的なデータに基づき,有効且つ効率的な医療行為を実現しよ うとする社会的ニーズである。より解りやすい用語で表せば社会的な「倫理強化」と言え,医療機 器メーカーの立場で見れば,「コンプライアンス」の強化と徹底と言えよう。例えば,2009年に世界 医師会(WMA)⑹が発表した「医師と企業の関係に関するWMA声明」や,米国では2009年に「サン
シャイン条項」(Physician Payments Sunshine Act)⑺が制定され,日本では日本医療機器産業連合
会によって 「医療機器業界における医療機関等との透明性ガイドライン」⑻が策定され2014年度から 情報公開が始まっている。このような社会的関心の高まりにより,関連する法整備が進む一方で,コ ンプライアンス上の様々な問題が発生し,不正行為として企業や関係者が摘発される事例も後を絶た ないのも実情である。 最後の第4象限は,「技術課題」と「経済性」の要素が強いものであり,新たな技術革新を利用し て,医療経済性を向上し,少しでも安く的確に医療機器を活用したいという社会的ニーズと言える。 先に挙げた,手術支援ロボット「ダビンチ」による腹腔鏡手術の支援による前立腺がんや腎臓がんの 手術。AI技術の活用による自動診断など,最新のデジタル技術やロボティクス技術を活用し,従来 困難だった治療の実現や,より安く早く診断や治療を行うことによる医療経済性の向上などが該当す る。このような動きは,「スマート・ヘルスケア」呼ばれるようになっており,言わば,医療機器産 業における「デジタル・ディスラプション」と言える。 5.4 3つの動向 前項を集約すると,【図2】の「社会ニーズ変化と技術革新」で示した4つの象限のうち,第2象 限が従来からの古典的ニーズや課題である「人的安全性」に関する動向であり,新たな社会的ニーズ や技術革新に関連すると考えらえる動向としては,他の3つの象限が対象と言える。第1象限が,技 術革新における安全性の確保に関する動向であり「規制強化」による安心や安全の実現と言える。第 3象限は,経済的ニーズに対する人的課題であり,主に医療関係者間の透明性の向上にあり,「倫理 強化」すなわち「コンプライアンス」の強化の動向と言える。最後の第4象限は,技術革新による経
済性の向上に関するニーズや課題であり,いわゆる「スマート・ヘルスケア」に関するもので,医療 機器業界における「デジタル・ディスラプション」の動きと言える。 つまり,現代の医療機器業界が直面している大きな社内ニーズの変化と,技術革新による社会課題 の変化は,大きく3つの領域だと言える。これを示したのが,下図【図3】医療機器産業が直面する 3つの課題である。
6.医療機器メーカーの対応事例
5項では,現在の医療機器メーカーが直面していると考えられる数多くの課題を,社会的ニーズの 変化である「安全性」と「経済性」で分類し,技術革新との関係性から,3つの社会課題に大別出来 ると推察した。すなわち,(1)規制強化(安心・安全)に対するもの,(2)倫理強化(コンプライア ンス)に対するもの,(3)スマート・ヘルスケア(デジタル・ディスラプション)に対するものの3 つである。 ここでは,実際の国内医療機器メーカーを対象に,その実際の動向を探ってみたい。確認する対象 企業としては,国内の医療機器メーカーとしては最大手の「オリンパス株式会社」(以下,オリンパス) を選定した。選定理由としては,前述の経済産業省(2018b)のデータにおいて,医療機器メーカー として世界第17位の売上規模を誇り,医療機器の売上比率が企業全体の80%を越えるだけでなく,海 外の売上比率も80%を越えている,言わば日本を代表する「医療機器のグローバル企業」と呼べるか らである。後述の通り,オリンパスは国内最大の医療機器メーカーであり,海外の売上比率が高い分 だけ,社会動向・産業動向の変化に大きく翻弄されていると言え,幾つかの事件や事故を起こしてい る。また,それら関連する事象について,積極的に情報開示していることもあり,事実関係を調査・ 図3 医療機器産業が直面する3つの課題 出所:著者作成。৸ਙ
৽ੋਙ
ૼୖ
যୖ
ৈೡ৲ )'$ ,&7 ්ਙ ঽ൧ ॥থউছॖ॔থ५ ୢ৽ੋਙ ৗ௪ব ӑӝӁҽҵҩҵҷӈҺӕ $, ,R7 ҸӏӢӇӢӡӁҩӑӢҴӁ টॸॕॡ५ ॲদॕথॳ ୢાచ *32 ӇӢӀӢӄӝҩӇӢҬӐӣӛӐӣӀҲӡ 0'5 ,9'5 42/ %LJ'DWD &(ঐشॡ ॡছक़ॻ ৸ਙ ӁӓҴӈҩӑӝӁҽҵ *'35 ೫࿒ 406 8/Ᏻᚰ䞉Ᏻ
䡿䢚䡸䢚䡼䢕䡡䡿䢚䡤䡹䢓䢈䢛䡸䡪䢙
䝁䞁䝥䝷䜲䜰䞁䝇
ୢਃஓਓੀऋઉએखथःॊگणभୖ
ேⓗᏳᛶ
ྂⓗㄢ㢟
⌮ᙉ
つไᙉ
䝇䝬䞊䝖䞉䝦䝹䝇䜿䜰
確認しやすいこともある。 6.1 規制強化への対応 5項で分析した通り,技術革新による新たな技術や手技の導入に対して,各国による規制の強化が 図られている。これにより,医療機器メーカーは,その「規制強化」への対応に追われていると言え る。オリンパスでは,2つの事例を挙げてみたい。 6.1.1 品質管理の強化 オリンパスでは,主力の医療機器内視鏡事業において「十二指腸内視鏡」の品質問題により,米国 司法省から情報提供を求める召喚状を2015年に受理⑼ ⑽している。その後,米国食品医薬品局(FDA) による調査を受け,その結果として医療機器報告(MDR)違反を指摘された。2018年12月に米国司 法省との司法取引契約を締結⑾し,刑事罰金として8000万ドル(約91億円),刑事没収相当として500 万ドル(約5.7億円)の支払いを行った。合わせて,法規制遵守プロセスを強化し,期待される水準 に達している確認を定期的に実施することに合意している。これら十二指腸内視鏡に関する品質問題 の対応から,オリンパスの「統合報告書 2018」では,冒頭の社長メッセージの中で,笹宏行 代表取 締役社長執行役員は次のように述べている。 「新たな欧州医療機器規制(EU-MDR)の施行,新興国を中心に増加する医療機器申請・登録等の 法規制要求事項の高まり,北米を中心とした洗浄・消毒・滅菌(リプロセス)要求の高度化など,品 質法規制をめぐる状況は想定を超えて加速しています。この1年間,これら品質法規制強化の潮流に 対し着実に対応してきました。トップダウンにより品質法規制部門への大規模な人材異動を行って機 能強化を図り,あわせて開発そのもののあり方について,開発の流れを根本から見直して開発プロセ スの整流化を図り,外部環境への対応力を強化しました。一方で,短期的には新製品開発に制約をか ける形となり,その結果,一部新製品導入に影響が出る等,事業に大きな影響を及ぼしています。体 制は整いつつありますので,今後は事業を成長路線に戻すべく取り組みを進めていきます」とし。さ らに,同報告書には医療事業に関する説明の中で,「Patient Safety First ―医療機器の安全確保に向 けた「リプロセス」(洗浄・消毒・滅菌)の取り組みを強化―」と題した特別のページを設定⑿して 詳細な報告を行っている。 このように,オリンパスでは米国や欧州,さらには新興国における法規制の強化や実際の品質事故 による対応に追われ,経営上の大きな課題となっていることが分かる。 6.1.2 セキュリティの強化 従来,医療機器に求められる最大のニーズは,製品の品質にあったと言える。しかし,技術革新に より,通信機能等が強化され,医療診断データや患者の個人情報などの積極的活用や管理保管の重要 性が高まる中,単に医療機器の製品品質だけでなく,広く情報セキュリティ全体への社会的関心が高
まっている。特に,病院などの医療機関に対するサイバー攻撃が増加し,実際に病院機能が停止する 事件や患者情報が漏洩するなどの事案が各国で起きており,その対策が急務となって来ている。 オリンパスでは,2011年3月に「オリンパスグループ情報セキュリティ方針」を制定⒀し,「情報 セキュリティ推進委員会」を設けて様々な対応を従来から実施していた。しかし,社会環境の変化に より更なる体制強化が必要との判断から,新たに「情報セキュリティ担当役員」である“CISO”⒁を 2018年末に任命している。つまり,従来の委員会形式での対応から,専任の役員と専門部隊を設置す る,より高度な体制へ強化していると言える。 6.1.1項に示した製品品質の問題と対応は,言わば「安全」への対応と言えるが,「セキュリティ」 特に「情報セキュリティ」への対応は,単なる「安全」の確保だけでは不十分であり,顧客や社会か ら見て「安心」と感じられることが重要となる。その意味では,単に法律や各種規制への準拠だけで は不十分であり,各社の「安心」実現への考え方や体制も含めての整備や対応が求められると共に, それを如何に顧客や社会などの全てのステークホルダーに正しく伝えるかという,情報発信や情報公 開の姿勢も問われていると言える。 6.2 倫理強化への対応 2つ目の社会動向として,医療経済性に対する社会の強いニーズにより,医療産業界の全体で人的 関係性や組織関係性が見直されている。特に医療従事者や医療関連組織と医薬品メーカーや医療機器 メーカーとの関係の「透明性」を高める動きが強まり,業界における「倫理強化」が進められてお り,その象徴が「コンプライアンス」の強化と言える。ここでは,オリンパスにおける倫理強化,す なわちコンプライアンスに対する取組み事例を2つ確認する。 6.2.1 医療従事者との関係性変化 オリンパスは,1950年に世界で初めての実用的な胃カメラの開発に成功し,1952年にガストロカメ ラ(胃カメラ)の初代製品である「GT-I」を製品化している。それから現在までの約70年間,内視 鏡を中心に着実に医療機器事業を発展させて来た。特に,内視鏡はオリンパスが市場をゼロから創出 したこともあり,世界中の関連医師や学会などの医療関係者や関係組織との強く太いパイプが出来上 がっていた。しかし,世の中の医療産業に対する「透明性」向上のニーズから,医療従事者・医療関 連組織と医療機器メーカーとの関係性は大きな変化を迎えていた。医療産業にとって最大且つ最先端 の市場は米国の医療業界であり,この「透明性」向上の動きも米国が先行している。その代表的な法 律が,米国国内におけるキックバック(賄賂)を禁止する「米国反キックバック法」⒂であり,海外 における外国公務員に対する賄賂を禁止する「海外腐敗行為防止法」,いわゆる“FCPA”⒃である。 これらの法律により,米国内の医療従事者や海外の国公立病院の関係者に対する賄賂行為が禁止され, 近年その適用が厳しく行われるようになっている。 オリンパスの米国子会社とその南米子会社は,2011年末から米国司法省による調査を受け,上記の
2つの法律違反の指摘⒄を受けた。その後,捜査協力と交渉が続けられ,最終的には2016年3月に最 終合意⒅に至り,米国反キックバック法に関しては,約6.2億ドル(約717億円)の巨額和解金の支払 いと,米国保健福祉省の監察総監室との間で法令遵守に関する協定を締結し,コンプライアンスの改 善のために各種の施策を実施することに合意した。また,南米については,22.8百万ドル(約26億円) の罰金支払いと,コンプライアンスの改善のために各種の施策を実施することに合意した。 このように,オリンパスが長年培って来た医療従事者や医療関連組織との強い関係性は,時代の変 化と共にリスク要因へと変化し,その対応の遅れや誤りによって巨額な和解金の支払いと,コンプラ イアンスの強化・展開を短期間で取り組むこととなった。 6.2.2 コンプライアンスの強化 オリンパスは,2011年末に経営陣による会計不正の経営不祥事が発覚し,2012年4月に経営体制が 刷新された。そのため,上記医療従事者との関係透明性向上を含めて,会社全体のコンプライアンス 体制の強化が経営上の最優先課題として取り組まれた。新経営体制では「コンプライアンス担当役 員」である“CCO”⒆が任命された。そして,新経営陣による「コンプライアンスコミットメント」⒇ の宣言,社外取締役を中心とする「コンプライアンス委員会」の設置,企業理念とグループ企業行動 憲章の見直し,内部通報制度の見直し強化,コンプライアンスに関する従業員教育など,次々と施策 が展開された。更に,先に示した米国司法省による調査で問題となった医療従事者や医療関連組織と の関係性に関しては,寄付金や助成金の支払い,医療機器の供与や貸し出しに関する行為,医療従事 者に対する各種支払い行為,無償又は割引価格での機器の提供等が問題であったされており,これら の事業活動や行動基準・社内ルールなどについて,徹底的な見直しとそれに伴う従業員教育が繰り返 し実施された。オリンパスの「統合版アニュアルレポー ト2017」では,冒頭の笹宏行 代表取締役社 長執行役員からステークホルダーの皆さまへのレターとして,次のように記述されている。 「真のグローバル企業としてふさわしいコンプライアンスの仕組みの構築と実行に取り組み,より 高い透明性の確保に注力していきます。そして,法令遵守はもとより高い倫理観を持って,事業を通 じた社会課題の解決に取り組み,世界の人々の健康・安心と心の豊かさの実現を通して,社会に貢献 する企業であり続けます」と。 このように,オリンパスは長年築き上げた医療従事者や医療関連組織との密な関係性が社会環境の 変化によって大きなリスクと化し,巨額な和解金の支払いやコンプライアンス体制の短期間での整備 や強化に追われた。この「コンプライアンス」体制の強化は,全ての医療機器メーカーが,今や決し て避けて通れない重要な経営課題になっていると言える。 6.3 スマート・ヘルスケア 3つ目の社会動向として,デジタルテクノロジーの劇的な進化は医療業界にも大きな影響を及ぼ し,様々な技術革新による新たな技術や手技が導入されつつある。冒頭に掲げた「より安全により安
く」という社会ニーズに対して,新たな技術革新でそれに応えようとする企業は既存大手だけでなく, 中小でも高い技術力を持つ企業や,他分野からの新規参入企業が凌ぎを削っていると言える。言わ ば,医療産業における「デジタル・ディプラプション」が広がっていると言え,このような動向を広 く「スマート・ヘルスケア」と呼ぶようになっている。ここでは,オリンパスにおける2つの取組み 事例を紹介したい。1つはAI技術による内視鏡の自動診断技術であり,もう1つはクラウド技術を 活用するICT-AIプラットフォーム構想である。 6.3.1 AIによる内視鏡自動診断技術 2019年2月,オリンパスはAI技術を搭載した内視鏡画像診断支援ソフトウェア 「EndoBRAIN」 を 発表・発売している。発表資料によれば,内視鏡分野のAI技術において国内初の薬事承認を事例で あり,オリンパスの超拡大内視鏡で撮影された大腸の超拡大内視鏡画像をAIが解析し,検査中にリ アルタイムで 「腫瘍性ポリープ」または 「非腫瘍性ポリープ」の可能性を数値として出力し,高い 診断精度により医師の診断をサポートするとしている。具体的には,超拡大内視鏡 「Endocyto」で 撮影された大腸内視鏡画像を人工知能(AI)が解析し,診断結果(腫瘍または非腫瘍の可能性)を 数値で表示。約60,000枚の内視鏡画像を機械学習させたことで,国内多施設後ろ向き性能評価試験で は感度96.9%,正診率98.0%という専門医に匹敵する診断精度が得られたとしている。 このように,内視鏡医療画像を診断する医師に対し,AI技術の活用により診断のサポートを行い, 負担を軽減しつつ診断精度の向上に寄与するものである。現状では,診断そのものは医師が最終責任 を行うものの,それを手助けする有力な技術革新事例の1つと言えよう。 6.3.2 ICT-AIプラットフォーム デジタルテクノロジーの発展・活用が最も著しいのが通信やネットワークの世界である。医療産業 は,従来「病院」という閉鎖空間の中で議論されることが多かったが,クラウド技術の普及で,クラ ウドを活用したビジネスやサービスが医療の世界にも広まりつつある。2019年3月,オリンパスは医 療・ライフサイエンス・産業分野における専門家(スペシャリスト)の業務ワークフローの改善や 業務負荷の軽減に向け,「ICT-AIプラットフォーム」構想を発表。米国マイクロソフト社のクラウド サービスである 「Microsoft Azure」 をクラウド・システム基盤として採用し,このプラットフォー ムを基盤として,ICTやAI分野での他社との協業を積極的に展開し,さらなる顧客価値の向上を目指 すことを宣言した。具体的には,オリンパスの医療機器から動画・静止画データやログデータを高度 なセキュリティでクラウド上のストレージに転送し,クラウド上のプラットフォームにより,堅牢な セキュリティ下で情報を管理。このプラットフォームを基盤とし,ICT や AI の技術パートナー企業 との協業を積極的に展開し,収集した各種データを基に,将来的に次に示すような業務ワークフロー の改善や業務負荷軽減などの顧客価値を提供する構想である。
【内視鏡検査フローにおける貢献】 ・ICTを活用した検査準備の負担軽減 ・AIを活用した内視鏡の挿入支援 ・AIを活用した内視鏡診断支援 ・ICT・AIを活用したレポート作成の自動化 ・ICTを活用した洗浄・消毒作業の高クオリティ化 など 【外科手術における貢献】 ・ARやVR 技術を活用した処置 ・機器のボイスコントロール ・外科手術イメージ・ナビゲーション ・アドバンスド・マニピュレーション など これらの構想をまとめたイメージ図が,下記の【図4】ICT-AIプラットフォーム構想図である。 6.3.3 イノベーション推進組織 このように,オリンパスではAI技術を活用した内視鏡の自動診断支援の実用化や,クラウド技術 を活用した新たな医療サービス・ビジネスのプラットフォーム構想を発表している。これら,デジタ ル技術の活用による新たな価値提供は,今後の医療機器産業において必須であるだけでなく,もしか すると新たな技術革新により,既存事業や既存サービスの代替や消滅のリスクをはらむ。この所謂「デ ジタル・ディプラプション」と呼ばれるリスクに対しては,従来の延長線だけではない,新たな技術 開発やそれを実用化しビジネス展開する機能や組織の確立が医療機器メーカー各社にとっての大きな 課題となって来ている。 図4 ICT-AIプラットフォーム構想図 出所:オリンパス株式会社『統合レポート 2019』
オリンパスでは,2016年4月からグループ全体のテクノロジーを統括する「技術統括役員」である “CTO”を置いている。更に,2017年9月には,CTOの直轄組織としてイノベーション戦略の立案, 推進を行う組織として「イノベーション推進室」の設立を発表。同時に人事制度の見直しも行い, 専門人材として3名の「チーフ・フェロー」を任命し,外部リソース(産学連携,他社協業,国家戦 略との連携)を積極的に活用する「オープンイノベーション」を基軸として,破壊的なイノベーショ ン施策を目指して行くとしている。このほか,2019年11月に発表された 「新経営戦略」では,内視 鏡とロボティクス技術を融合した,エンドルミナルマニピュレーターの開発にも取組むことを表明し ている。 以上の通り,オリンパスでは既にAI技術を活用して自動診断支援製品を商品化し,クラウドやIoT 技術などを活用するICT-AIプラットフォーム構想やロボティクス技術への取組みを明確にすると共 に,これら破壊的とも言えるイノベーションを積極的に推進する専門組織の立ち上げまで行っている ことが確認出来る。 6.4 担当役員のメッセージ 6.1から6.3項で確認した通り,オリンパスでは5項で確認した3つの新たな社会ニーズの変化や技 術革新の動向,すなわち,規制強化(安心・安全),倫理強化(コンプライアンス),スマート・ヘル スケア(デジタル・ディプラプション)に対して,対応の遅れなどにより,事故や事件となっている 事案も観られる。一方で,これらの新たな課題への積極的な対応を図っていることを確認することが 出来た。特に特徴的なことは,これら新たな動向に対処するため,各々の課題に対応する役員クラス の専任統括責任者を新たに任命すると共に,その対応組織を設立・強化している点にある。ここでは, これら担当役員の社外への発信メッセージの内容を確認してみたい。 まず,規制強化(安心・安全)を担当する「品質担当役員」である“CQO”のメッセージでは, 「統合版 アニュアルレポート2017」で,吉益健CQOが「お客さまの声に耳を傾け,真に求められる価 値は何かを常に探究し,関連する製品法規制を正しく理解し,遵守し,お客さまに高品質な製品・サー ビスを提供し続けます」。と製品法規制への対応と遵守を明言している。 次に,倫理強化(コンプライアンス)を担当する「コンプライアンス担当役員」である“CCO”の メッセージでは,同じアニュアルレポート2017の中で,キャロライン・ウエスト(Caroline West) CCOが「グローバルコンプライアンスプログラムおよびコンプライアンス意識に基づくビジネスプ ラクティスの強化,ステークホルダーからの信頼性向上,そして常に正しいことを正しい方法で行う 企業文化の醸成を継続的に行い,社会に対する真の誠実さを追求し続けます」。と倫理観の強化を強 調している。 最後に,スマート・ヘルスケア(デジタル・ディプラプション)を担当する「技術統括役員」で ある“CTO”のメッセージでは,「統合レポート 2019」の中で,小川治男CTOが「研究開発では, ICT,AI,ロボティクスをはじめとするさまざまなテクノロジーイノベーションが起きつつあります。
ものづくりにおいては,スマートファクトリー(考える工場)のコンセプトが注目されており,生産 ラインのデジタル化が進んでいます。この厳しい環境変化の中で,当社がどう生き残っていくかを常 に考え,それに立ち向かえる柔軟で強い組織にしたいと考えています」。とし,技術革新による大き な変化に組織的に対応する必要性を述べている。 このように,日本を代表する医療機器メーカーであるオリンパスでは,本稿で推察した3つの社会 課題とその動向に対し,専任の担当役員を置き,組織的且つ積極的に対応している様子が確認出来る。
7.医療機器産業の課題と動向
ここまで,医療機器産業を取り巻く社会的な変化,特に「少子高齢化」や「医療費の削減」,さら に「デジタルテクノロジーの進化」などにより,様々な社会的ニーズが顕在化し,様々な課題に曝さ れていることを確認した。その社会課題には大きく3つの動向があり,(1)規制強化(安心・安全), (2)倫理強化(コンプライアンス),(3)スマート・ヘルスケア(デジタル・ディスラプション)であ ると推察し,オリンパスを事例として実際の企業の対応状況を確認した。また,医療機器産業へ新た に参入する企業の増加や医療機器事業をさらに強化拡大する動きなどがあることも挙げた。これら医 療機器産業を取り巻く課題や動向をより俯瞰的な視点から整理してみたい。 著名な経営学者であるマイケル・E・ポーターは,著書『競争の戦略』(1982)の中で,一般的に 「ファイブ・フォース分析」と呼ばれる分析フレームワークを示している。ポーターは,業界内の競 争相手としての「競合他社」,新規参入の脅威となる「新規参入企業」,代替品の脅威となる「代替品」, 部品等の売り手の交渉力を持つ「供給業者」(売り手),買い手の交渉力を持つ「買い手」の5つの力 (ファイブ・フォース)から業界を分析する重要性を指摘した。 ここでは,この考え方をベースとして利用する。ポーターは,サプライチェーンの視点から,部品 等の供給を受ける供給業者の「売り手」の力と,販売網などを持つ「買い手」の存在を指摘したが, 本稿では,部品の供給や商品の販売等のサプライチェーンの視点でなく,事業への影響力の観点から のバリューチェーン的な視点に置き換えてみる。2.2項の【図1】で示した医療機器産業の主要プレ イヤー(5P)の中で,特に医療機器メーカーが直接接する「政策立案者(規制当局)Policy Maker」 並びに「医療提供機関 Provider」と「ドクター Physician」が主要な影響力の相手となる。一方で, 業界内の「競合他社」,「新規参入企業」や「代替品」の脅威はそのままとした。これら,医療機器産 業を取り巻く全体像を俯瞰して図にしたものが,次の【図5】医療機器産業 課題と動向の俯瞰図で ある。 この図が示す通り,医療機器産業の内部では,従来通りの既存競合他社との業界内競争が繰り広げ られている。一方その周辺では,技術革新による「スマート・ヘルスケア」(デジタル・ディプラプ ション)を好機と捉え,新規参入を目指す企業や新技術による代替品などが現れて来ている。更に, 規制当局からの「規制強化」(安心・安全)の動きと,医療関係機関や医療従事者との関係性の透明化,すなわち「倫理強化」(コンプライアンス)の圧力に曝されている。
8.まとめ
本稿では,医療機器産業が直面している状況や課題を社会ニーズの変化と技術革新の大きく2つの 視点から分析を行い,その分析結果として,3つの動向を抽出した。1つ目は,新たな技術革新に対 する安心や安全の確保に伴う「規制強化」の動き。2つ目は,医療機器産業と医療従事者や医療関係 組織との関係性をより透明にしようとする「倫理強化」すなわちコンプライアンス強化の動き。3つ 目は,技術革新によって新たな新規企業の参入が増え,破壊的な技術革新(デジタル・ディプラプ ション)の影響などを含む「スマート・ヘルスケア」の動きであった。これら3つの動向を,国内最 大の大手医療機器メーカーである「オリンパス」を事例にして検証を試みた。最後に,これら医療機 器産業の課題と動向を俯瞰し,ファイブ・フォースのフレームワークを利用して俯瞰図としてまとめ た。 冒頭に示した通り,医療機器産業は「少子高齢化」などの社会変化によって継続的な成長が予想さ れ,企業にとって安定的な収益が見込まれる魅力的な産業として映り,そのため,他業種からの新規 参入も増えていると考えられる。しかし,そのような外観とは裏腹に,本稿で分析した通り,様々な 新たな圧力に曝されている業界とも言える。本分析の狙いや貢献は,この外観だけでは見え難い医療 機器産業の置かれている実態を明らかにしたことである。 8.1 医療機器産業の可能性 これら,社会環境変化による各種規制強化や倫理強化,そして技術革新への対応は,企業にとって 図5 医療機器産業 課題と動向の俯瞰図 出所:著者作成。 ৶ਘ৲ ҾӡӐӣӛҶҵӡӁୢਃঢ়
3URYLGHU
ੀ଼ଥ଼়
ৗૠোभะ๏ৗૠো੫
৻౹ષभะ๏৻౹ષ
ঽ
ૠਘ৲ ੱҩ৸ૠਊଂ
3ROLF\0DNHU
५ঐشॺঊঝ५ॣ॔ॻॡॱش
3K\VLFLDQ
قॹ४ॱঝҩॹॕউছউ३ঙথكୢਃஓਓ
ୖधभ
ᖊᰐ
大きな負担となる一方,政府による国家的な支援を含めて,産業レベルで見れば,大きな変革や飛躍 の機会とも捉えられる。医療機器産業には「多品種少量」という大きな特徴がある。医療機器の品目 数は,医療機器センターの資料(2008)では約61万件とも言われ,経済産業省(2018a)が示す世界 市場規模の約4700億ドルで計算すれば,一品目当たり約1億円弱規模の小さな市場の集合体とも言え る。家電機器産業や半導体産業が,最終的には大規模な投資競争となり,日本企業の撤退につながっ たのに対して,医療機器産業は,まだまだ日本企業の良さが活かせる可能性が残っているとも言える。 一方,前述の通り,デジタル化やICT技術などの技術革新によって,異業種や巨大IT企業の参入リ スクが高まっているのも事実である。この変化は,ユーザーである病院や医療機関側にも大きな変化 を及ぼしている。病院内のデジタル化やICT化により,電子カルテや各種診断結果・診断画像などの デジタルデータが電子的に共有化され,各医療機器が巨大システムの一端末になりつつある。この場 合,医療機器単体での販売や供給は困難な状況となり,総合的な「システム・インテグレーター」の 機能を有する大手企業が市場を席巻する可能性がある。他方で,臨床の現場は常に進化し,様々な研 究や手技開発の試行錯誤が続く側面もある。特定分野の医師との関係性や特別な手技に特化すること で,技術的「ニッチ」市場を確保することが出来れば,中小企業にも十分な機会があり得る。つまり, 医療機器産業の二極化が強まる可能性が高いと言える。 8.2 日本の医療機器産業の未来 以上の通り,医療機器産業は大きな社会的ニーズの変化を背景としつつ,技術革新の進展で大きな 岐路にある。デジタル化による産業構造変化,グローバル競争における勝者と敗者,先進国と新興国 での販売戦略等,これらの要素は,どれも過去の家電・コンピュータ・半導体・ITプラットフォー ムなど,日本企業が後塵を拝した産業界の歴史と重なる。冒頭に述べた通り,日本政府は医療機器 産業に大きな期待と支援を表明しており,社会保障や医療制度と直結する医療機器産業は,もはや国 家間競争の様相を呈しつつある。大規模なシステム・インテグレーターやデータ基盤を握るプラット フォーマーになるのか,端末の供給に徹するのか。差別化やニッチ市場を目指すのか,デファクトを 取り世界を狙うのか。既存市場を攻めるのか,新市場を開拓するのか。幸いにも,医療機器の世界は, 機能や性能,価格やブランドだけで勝敗は決し難い。科学的根拠や医学的有効性というある意味で平 等な競争条件が与えられている。一方で,製品規制や保険制度・医療財政とも密接な関係があり,各 国の政治や行政と密接不可分な産業でもある。総じて,巨額な投資競争では勝ち目の低い日本企業で あるが,知恵と努力,技術と工夫,信頼と安心などでは優位に立てる可能性がある。真の官民連携が 実現し,新興国での社会インフラ支援などと連携した日本の強みを活かしたユニークな仕組みが実現 出来るならば,わが国の医療機器産業が,今後の世界市場で活躍する可能性は十分にあると言えるの ではないか。
《謝辞》 本稿は,2019年6月に開催された第57回産業学会全国研究会において,基調講演を行った内容を基 に再考しまとめたものである。この全国研究会並びに本稿投稿の機会を与えて頂いた,中央大学の山 㟢朗 経済学部長,相模女子大学の山本匡毅准教授,並びに本研究年報の編集委員長である東北大学 の川端望教授をはじめとする産業学会の関係者の皆さまには深く感謝の意を届けたい。なお,本稿で は6項にて,医療機器メーカーの対応事例としてオリンパスの事例を取り上げているが,あくまでオ リンパスの公開情報をもとに,筆者が分析判断した内容であることを明記しておく。 以上 《注》
⑴ Google, Amazon, Facebook, Apple: 主要なデジタルプラットフォーム企業。 ⑵ da Vinci: 米国Intuitive Surgical社が製造販売する手術支援システム。 ⑶ FDA: アメリカ食品医薬品局(Food and Drug Administration)による規制。 ⑷ MDR: 欧州医療機器規制(Medical Device Regulation)。
⑸ IVDR: 欧州体外診断用医療機器規則(In Vitro Diagnostic Regulation)。 ⑹ WMA: 世界医師会(World Medical Association)。
⑺ Physician Payment Sunshine Act。
https://www.congress.gov/bill/111th-congress/senate-bill/301 ⑻ 日本医療機器産業連合会。http://www.jfmda.gr.jp/promotioncode/formulate/ ⑼ オリンパス株式会社「決算短信」(2015年3月期)(p.9)。 https://www.olympus.co.jp/ir/data/brief/pdf/brief147PB_4.pdf ⑽ オリンパス株式会社「決算短信」(2016年3月期)(p.9)。 https://www.olympus.co.jp/ir/data/brief/pdf/brief148PB_4.pdf ⑾ オリンパス株式会社「米国司法省との司法取引契約の締結について」2018年12月11日。 https://www.olympus.co.jp/ir/data/announcement/2018/contents/ir00022.pdf
⑿ オリンパス株式会社『統合報告書2018』(p.33)「Patient Safety First」。
https://www.olympus.co.jp/ir/data/integratedreport/pdf/integrated_report_2018j_11.pdf
⒀ オリンパス株式会社『オリンパスCSRレポート2016』(p.50)「公正な事業慣行 情報セキュリティ」。 https://www.olympus.co.jp/csr/download/pdf/csr_report_2016.pdf
⒁ CISO: Chief Information Security Officer。
⒂ 反キックバック法: The Anti-Kickback Statute of 1986。 ⒃ FCPA: The Foreign Corrupt Practices Act of 1977。
⒄ オリンパス株式会社「当社子会社に対する米国司法省の調査に関するお知らせ」2015年2月6日。 https://www.olympus.co.jp/ir/data/announcement/pdf/td150206.pdf
⒅ オリンパス株式会社「米国司法省との合意について」2016年3月2日。 https://www.olympus.co.jp/ir/data/announcement/pdf/td160302.pdf ⒆ CCO: Chief Compliance Officer
⒇ オリンパス株式会社「オリンパス経営陣によるコンプライアンスコミットメント」2012年5月22日。 https://www.olympus.co.jp/jp/news/2012a/nr120522corpj.html
オリンパス株式会社「AIを搭載した内視鏡画像診断支援ソフトウェア 「EndoBRAIN」 を発売」2019年2月 25日。https://www.olympus.co.jp/news/2019/contents/nr01157/nr01157_00002.pdf
腫瘍ではなく,切除する必要のないポリープ。
最大520倍の光学拡大機能により,リアルタイムに細胞レベルでの生態観察が可能なオリンパスの内視鏡。 疾患のある患者のうち,検査で正しく陽性と診断された人の割合。
疾患のある患者・疾患のない患者のうち,検査で正しくそれぞれ陽性・陰性と診断された人の割合。 CTO: Chief Technology Officer。
オリンパス株式会社「技術統括役員直轄の「イノベーション推進室」を設立」2017年9月28日。 https://www.olympus.co.jp/news/2017/contents/nr00615/nr00615_00000.pdf
オリンパス株式会社「経営戦略の策定に関するお知らせ」2019年11月6日。 https://www.olympus.co.jp/ir/data/announcement/2019/contents/ir00022.pdf CQO: Chief Quality Officer。
※上記インターネットリソースは,2020年2月11日に最終閲覧した。 参考文献 オリンパス株式会社(2012)『オリンパスCSRレポート 特別版-信頼回復に向けた100日間の記録』。 オリンパス株式会社(2015)『有価証券報告書』(第147期)。 オリンパス株式会社(2016)『オリンパスCSRレポート 2016』。 オリンパス株式会社(2017)『統合版アニュアルレポート 2017』。 オリンパス株式会社(2018)『統合報告書 2018』。 オリンパス株式会社(2019)『オリンパスの100年 1919-2019』。 オリンパス株式会社(2019)『統合レポート 2019』。 経済産業省(2018a)『経済産業省における医療機器産業政策について』。 経済産業省(2018b)『我が国医療機器産業について』。 (財)医療機器センター(2008)『医療機器の基礎知識』第2版。 内閣府(2019)『令和元年版高齢化白書』。 日本経済再生本部(2018)『未来投資戦略 2018』。 ポーター,M.E. (土岐坤・中辻萬治・服部照夫 訳)(1982)『競争の戦略』ダイヤモンド社。 松尾未亜(2014)「業界構造から見た医療機器ビジネスの経営課題と対応のあり方」『知的資産創造』2014年7月 号。