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ドイツの経営組織と経営権 : ハルトマンの非合理的接近を中心に

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ドイツ

の経営組織と経営権

  ーハルトマンの非合理的接近を中心に

山 本 安 次 郎

        ︻ 序     言  1 経営組織と経営権の問題 経営において経済的成果が主目的をなすこと、成果極大化の原則が認められざるを得な いことは改めて説くを要しないが、その経済的成果が経営の組織的活動の結果であることを忘れてはならない。経営の規 模が大きくなるにつれて、この組織的要素が重要となり、経済的成果をも左右するほど決定的なものとなり、今日経営組 織の問題が経営問題の中心をなし、経済理論を組織理論によって深化し、経営理論として確立しようとする試みが行われ         ていることはわれわれの繰返し指摘して来たところである。       ヘ   ヘ   ヘ   へ  さて、その経営組織を問題とする場合にも種々の観点が考えられるのであるが、われわれはこれまでと同様に経営権的 へ   へ 観点をもって組織的観点を代表せしめたいと思う。経営組織の本質が何かは必ずしも容易な問題ではないけれども、組織 がバーナードのいうように、80℃Φ箪け写①。。蕩3ヨであるとすれば、経営組織は80遷座臨くΦ望ωδヨ︷oHげ湯ぎ①圏ヨ⇔づ㌣ 子日Φ募といえるであろう。しかしその。oo需鑓効く①ω白昼日 の成立過程を見るならば、組織はハルトマソのいうように ω誘要目。︷9。巳げ。葺団N鮎鋤↓δ重臣℃であり、経営組織は銘ω8ヨ。︷日ゆ⇔pぴq①ユ巴鋤β↓げ。腎団お冨ユ。霧窪℃に外ならず、組織 理論の中心は組織調整力︵80匪8酢ぎσq℃。壽H︶あるいは経営意志決定︵ヨp・冨σq鼠巴牙。芭魯ヨ食・町コσ・︶の機構の解明とも見られ      ドイツの経営組織と経営権       一

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     ドイツの経営組織と経営権      二 るのであって、この経営権的観点が経営組織問題の集中的把握を可能ならしめるものであることも理解に難くはないであ    ろう。  ところで、経営組織の経営権的観点は経営の人間関係、支配関係、労資ないし労使関係を浮き上らせ、かくて一方では 経営権は一の明白な権利としての労働権との対立において主として労働法学の問題として取扱われる。この見方はわれわ れにも極めて興味ある問題を提供するが、それはこの経営権が経営組織における意志決定の機構や過程に関する理論的問 題と交渉をもつからである。しかしわれわれにとっては、経営権の組織理論特に経営理論が問題であり、本誌第七十五号        で考察したところは専らその序説的部分であった。われわれはここでは一歩進め、ドイツの経営組織における経営権問題 の特質を明らかにし、比較研究を通して試みらるべき経営権の一般理論の確立への一助としたいと思う。  2 比較研究とドイツ経営 経営組織や経営形態の比較研究においてドイツ経営が極めて重要な意義をもつことは、ド イツ経営学の学問の世界における地位、特にわが国に対する重要性を想起すれば、直ちに肯定せられるであろう。        ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  ところが、わが国におけるこれまでのドイツ研究は殆んど専らドイツ経営学の研究であって、ドイツ経営学の基礎をな  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ すドイツ経営そのものではなかった。思うに、ドイツ経営の実際の研究にはドイツ経営学の研究に比し幾多の困難が伴う のであって、誰にでもできるというものではないから、当然といえば当然であろう。  しかるに、わが国においても漸く第一一次大戦後における西独経済の﹁奇蹟的復興﹂から、ドイツ経営学と共にドイツ経 営そのものが注目せられるに至った。これについてもすでにいろいろな紹介や研究が行われているのは周知のところであ る。けれども、それらはなお限定せられたものであった。それらは多くの場合ドイツに特有の制度としての共同決定経営 の理論的研究が中心をなしている。それが重要なことは否定できないが、更に重要なのはもっと広い視野からドイツ経営 の実際につきその組織的特色、つまりドイツ経営組織の経営権的構造の特色を深く研究することであろう。これによって

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ドイツ特有の共同決定経営の意義や西独経済の奇蹟的復興の﹁秘密﹂をある程度まで把握し得るばかりでなく、ドイツ経 営学ないし諸学説をその地盤から理解し、これまでの理解を一穀と深化することができると思われるからである。  3 問題の提起と限定 ドイツ経営学といっても、そこには種々な学派があり、学説の対立のあることは、かつて詳説し た通りである。そして、このような対立はドイツ経営の形態ないし組織的特色をどこからどう見るか、いわばドイツ経営        史と経営学理論との関係の問題であり、方法論的には経営学の対象と方法との関係の問題である。それでは、ドイツ経営 学諸学説の基礎をなしこれを特色づけるところのドイ叉経営の典型あるいは典型的形態の区別はどのように行われ、それ らはどのような経営権的構造の特色を示すものであるか。これがわれわれのかねてから抱く根本問題であった。この重要 にして困難な問題についてはすでにグーテンベルクやノイローなどによってもある程度まで研究せられ、少くとも示唆の        与えられていること周知のはところである。しかしこれを一歩進め、真に組織理論的見地からドイツ経営組織の経営権的         構造の特色を解明し、われわれの長い間の疑問に答えんとするのが、ハルトマソの﹁ドイツ経営における権威と組織﹂と いえるであろう。ハルトマソはドイツ入で、しかもアメリカで社会学の研究をしている入であるから、艦上ビソンがその 序言でいうように、この﹁ハルトマソの研究は、ドイツ産業の発展について長い間外国の観察者には謎であったところの        多くの問題に光を投ずるものである﹂といえるであろう。われわれは比較研究に入る前に先ずドイツ経営そのものの特色 を明らかにせねばならない。ここでは特にハルトマソの非合理的接近の理論と実態調査の結果に依りながら、ドイツ経営 の経営権的構造を考察してみたいと思う。これによってドイツ経営学の理解を少しでも深めることができれば幸である。  ①本誌、三〇号、三四号、三七号、五三号の組織理論に関する拙稿、参照。  ②組織理論において意志形成ないし意志決定の理論が中心的地位を占めることはバーナード・サイモン理論以来広く認められ、一般組織論においての   みならず、経営学においても重視せられるに至ったことは周知の通りである。例えば、ざコ①・・”冨.頃二国×Φ。臼署①U①島巴。コ竃渠ぎ㌍一霧メω℃Φコー   ︵δ触鴛αしQδ銅Φ一ヨpDジ竃p臣帥騎Φ艮9国oopo唐ち9∪Φo一忽op︼≦騨出営ゆ。雪創喝。富白薗巳℃一会pぎゆq甲お切Pなど参照。      ドイツの経営組織と経営権       三

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    ドイツの経営組織と経営権       四 ③拙稿、経営権の経営理論序説t経営組織と経営権の問題、本誌七五号、参照。 ④拙著、経営学本質論、第六、第七章、参照。 ⑤拙著、経営学本質論、第三章、参照。 ⑥期舘けヨ碧9自二﹀自讃。葺︽雪山○蹟Φ巳Np鉱。昌ぎ02ヨ舞竃鋤轟mqΦ白ΦP倉一㊤㎝り●本書はカー︵カルフォルニャ︶、ハービソソ︵プリンストγ︶、  ダソロップ︵ハ!ヴァード︶、 マイヤー︵マサチューセッツ︶を委員とするH馨①7Q三くΦ冨詳団ω什邑唄Ohピ餌σo搬℃﹃oσ冨ヨω自切oo昌。ヨ一〇∪Φ︿Φ巳  一〇眉目①葺の研究計画の一部をなすものである。 ⑦踏即答B砦夕。唱.9什二岡。話≦o巳唱く. 二 経営権の二つの基礎一合理性と非合理性  1 経営権とその基礎 経営権の基礎について一応残余理論、信託理論、経営理論の三越が区別せられることは前に述         べた通りである。これを動的発展的に見れば、経営近代化の線に沿って経営権の基礎も非合理性︵き三食δ轟︸菖︶から合        理性︵聾δコ巴菖︶へ、または価値合理性︵<鋤︸器漿δ邑ξ︶から目的合理性︵陰6。。・幕同蝕。専一︽︶、 権力的から職能的への         変遷を示し、権能一致の原則︵”三ざ﹁量も。壽門。gヨニ戸§︶の実現過程を示すともいえよう。 またこれを静的構造的に見れ ば、経営権の基礎は合理性と非合理性、目的合理的と価値合理的、職能的と価値的との二重構造を示し、それぞれの理論 は合理性と非合理性の割合、いわば二重構造の特殊性を意味するともいえよう。経営権の理想が権能の一致であっても、 経営権の現実は権能の乖離であり、両極間を動揺するといわねばならない。  恰も、組織理論において人間関係論の成立が、組織のフォーマルとインフォーマルとの二重構造および両者の相互関係        を明らかにすることによって、﹁組織理論におけるイデオロギー革命﹂を可能ならしめたように、経営権についても合理 的基礎と非合理的基礎との二重構造および両者の相互関係を明らかにすることによって、経営権の経営理論を一層深化す

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ることができるであろう。要するに、経営権の二重構造が組織の二重構造に照応することを注意したい。それはともかくめ 社会学の伝統に従いつつ、ドイツにおける経営権を非合理的基礎から説明してその特殊性を解明するところにハルトマソ の研究の意義がある。ドイツ経営経済学の合理的解釈に慣れた者には異様に感ぜられるが、それだけにまた却って意義深 いものがある。われわれは先ず経営権の合理的基礎と非合理的基礎につき老察し、これまで述べたところを補いたい。  2 経営権の合理的基礎  職能説 前にも述べたように、 経営権が経営権として経営参加者から承認せられるのは、 −換言すれば、経営権が権威︵習浄8ぞ︶をもち、これに正当性︵︻函葺︶や合法性︵落蒼舞畠︶が認められる理由ないし根拠は、 今日では経営の客観的に要求する職務を遂行する能力、経営を成功に導く職能である。つまり、経営権の基礎は経営職能 に認められるのである。経営権は経営職能の合理的遂行という合理性に基礎をもつというのが、職能説︵胤呂。ゴ8。=幕。蔓︶ である。なるほど﹁評罫σqo臼σqo。。償巳︵我が作用する、ゆえに我は存在する︶であるから、作用を中止するものは存在をも中止         するのである﹂。経営権とて同様である。  現代の経営はこのような経営権を中心に形成せられるから、 経営組織は当然に 8同8巴oNσq鋤三讐鼠。⇔を中心にし、         び母Φ⇔9鑓。団と躍角費警世とを必然的ななしめるのである。思うに、経営職能という合理性を基礎とする経営権いわば  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ 職能的経営権︵hき9・9聾・亀、。ゴ叶蜜。胤藁屋σq①毒茸︶は経営の成功という事実に基づくが故に、その失敗によって容易に基礎 を失い、経営権も権威を失墜し、正当性や適法性が疑われることとなる。かくてこの職能的経営権は常に、そしてあらゆ る問題によって﹁挑戦﹂され、 鷺。ぼ①ヨー。臨①韓Φ山なものとなり、経営権者としての経営者はこの挑戦に応え、その地位 に十分な資格︹職能︶を証明せねばならないのである。そして、そこに経営者の努力があり、組織の改善、経営発展の合 理的基礎がある訳である。  しかし、経営権は常にこのような合理的基礎の圭にのみ立つであろうか。決してそうではない。恰も、フォーマル・オ       ドイツの経営組織と経営権      五

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     ドイツの経営組織と経営権       六 ーガニゼーションの根抵にインフォーマル・薬礼ガニゼーシ育一ンがあるように、そこにも常に非合理性が作用しているの である。われわれはこの点を明らかにせねばならない。  3 経営権の非合理的基礎−地位説 経営権は発展的には非合理的基礎から合理的基礎へ進んで来たといえよう。 し かし現在の経営権を見るとき、そこには全く非合理的基礎が見られないかといえば、そうではなく大きな要素−1その大 きさは国によって異るが  をなしていることが看取せられる。だから、われわれもハルトマソに従って合理的基礎に立       ヘ  ヘ  ヘ   ヘ  ヘ  へ っ職能的経営権に対し、非合理的基礎に立つ究極的経営権?箭暮滞帥・浄。三︽9ヨ・葛σ。・3①巳を区別することができる。そ れは前に述べた職務遂行の能力とは無関係に指令を発する地位そのものによって承認せられるもので、地位説︵8き暴乱 甚8受︶に外ならない。  この究極的経営権においては、バーナードの受容説︵p。8営撃8チ8昌oh窪♂ぎ昏罵︶のように、 ﹁上下の両当事者がこれ を当然と承認するが故に、その部下の服従を要求し得るのである。だから、経営権は自明と考えられ、部下にその要求を 証明する必要はない。⋮⋮  究極的経営権は技術的知識や問題解決における能率とは無関係である。⋮⋮だから、入が一度経営権の地位を占めるや 彼が経営権の基礎たる究極価値に違背したことを示すことは困難となる。このような事情のために、これを得るのも困難 であるが、またこれを破壊することも同様に困難である。 経営組織においては、 この究極的経営権は重点を価値指向 ︵︿巴話○ゴΦ馨Ω・⑪05︶、思考態度のパターン︵馨。δひq・8一毎・2牙唱葺。≡︶の形成、成績の非合理的評価︵口9毬酔・2芭Φ琶・巨・。一・。出 罵Hす塁9①︶におくもので、この価値を受容する限りの広い領域に亘って承服を要求することとなる。  以⊥二つの経営権はもちろん理念型であり、 ﹃現実の誇張﹄︵Φ益σqσQ①聾&・Φ。。霧︽︶であり、何れの現実の場合もただこれ 賦養嘱するにすぎない。しかし経営権の顕現はすべて何れかの極に接近する傾向をもつから、この型も有用である。われ

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       の われはこれを価値指向的︵垂⊆の−︹︶・・2互︶と問題指向的︵℃δ︸汁ヨー・膏三の山︶として対照させることができる。ししからば、ド イツの経営権.はどのような性格のものであろうか。  ①拙稿、経営権の経営理論序説、六頁以下参照。  ②ハルトマソによれば、普遇にアメリカでは錯艶。嵩巴騨罫8腎欝肺一8巴一身という言葉はパレトーの定義に従う。パレトーの鎚鉱。爵葺団はウエー   バーの℃ξOOωぞ①﹃簿一〇コ巴H畠に当り、パレトーの冨O跡農餌江05Pρ一はウエーバーのく臼。写O茜鉱05巴を含む。国P。辞ヨ鋤コ90唱.6一蝕こやト。Q。ピ  ③勺隷旨醇p巳望臼≦o&.﹀α邑三黒轟二く①O騒⇔三Np鉱8弘霧ρO■♂.  ④勺隷3①粍磐ユoDげ2ぞ。。ユ糟。づ.葺二〇.δピなお、拙稿、経営組織概念と組織の論理、本誌五三号、参照。  ⑤ 国曽,叶B曽昌員oO■o律二〇.節。。軽’  ⑥この問題に対する古典としてウ、ックス・ウエーバーをあげねばならない。≦①げ①5ζ二Uδ↓巻。ゴユ2,国Φ眞ω。冨ヰ︵浜島朗訳、権力と支配、み   すず書房、昭二九︶しdヨ。財轟江Φ ︵阿閉吉男・引高平訳、官僚制、副文社昭二九︶ぎ”を一﹃駐。冨捧巨αOΦωΦ房9鉱什上露一■なお、ζ臼89即.函こ   9。巳。夢Φ房・&・菊Φ銭Φ﹁一づud霞$⊆o冨6ざお認・切目蛋・℃二ゆ霞魯二。冨畠ぎζoΩ①ヨOQoo一9ざ一㊤鵠.などが参考となる。  ⑦自帥葺日碧㌍。や鼻こ薯﹁①ーメ 三 ドイツにおける経営権の基礎  ドイツ的価値体系  1 経営権の一般性と歴史性 経営権の一般性と歴史性は上述せる経営権の合理的及び非合理的基礎と密撲な関連をも っている。職能的.経営権が合理性、 一般性の方向を示していることは上述のところがら明らかである。経営の近代化はこ の方向への進展を意味している。地位的、ハルトマソの言葉を用いれば、究極的経営権は一切の合理的・︸般的基礎とは 無関係で、その基礎価値の無条件的承認によるから、非合理性を示している。職能的経営権は一般化すればするほど、価 値的特色を失.い、それだけ合理的なものとなる。しかるに、地位的ないし究極的経営権は]定の価値の承認に基づくが故 に、それは当然に歴史的であり、社会的・民族的特色を豊かに示すものとなる。われわれが経営権を理論的にその一般性      ドイツの経営組織と経営推       七

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     ドイツの経営組織と経営権       八 の面において問題とするとき、職能的経営権つまり経営権の一般性が中心に立つ。これに反してわれわれがこれを歴史性 の面においてその特殊性を問題とするとき、地位的、究極的経営権つまり経営権の歴史性あるいは民族性が前面に立つこ ととなる。われわれはここでは一般性を認めた上で、その特色を見ようとするのであるから、経営権の歴史性、民族性が 中心問題となる。しからば経営権の非合理的基礎をなす究極的価値は一体どのようなものであるか。特に、ドイツにおけ る究極的価値の体系はどのように考えられるであろうか。  2 ドイツ的三価値体系Ol職業意識 上述の意味におけるドイツ的経営権の特色、つまりドイツの究極的経営権の 基礎となっているところの価値がどのようなものかはわれわれにとっては必ずしも容易な問題ではない。ここではハルト マソの調査の結果として説くところを聞く外はない。  彼はいう。ドイツにおいても﹁経営権の基礎となっている価値にはいろいろあるが、その中で著者が特に興味をもつの は、現実に承認せられている価値あるいは価値体系︵餌8①只a<巴器。﹁ぎ﹃Φし・畜港霧︶という特殊な↓つの基礎である。しか し、そのうち三価値体系−−一私有財産制︵雷≦諾勺﹁・︶℃2ε、職業意識︵9一一已σq︶およびエリート意識︵匹蓉一繕3一︵・ぴqk︶−ーー だけを詳説し、ヒ・一高マニズム、個入主義、政治的デモクラシーというような他の価値については触れるに止めあるいは 殆んど触れないことにする。これら三価値を選択したのは、それらが他のものよりも調査報告における頻度が大きかった      ゆ からである。﹂先ず、職業意識である。         ω職業意識 ハルトマソによれば、ドイツの経営権の基礎をなしている価値のよい例として職業︵9=貯σqすなわちドイツ 語のヒuの︻鼻5σq或いはこれから派生するじd①・焦︶という究極価値︵¢一雨一巨虚辞① <八一¢①︶と関連する体系をあげることができる。この概 念は主観的意義と客観的意義とをもっている。客観的には、職業すなわちベルーフは生涯の任務︵三豊∋Φ薯5であって、 必ずしも現に占めている仕事つまり。。。毛p萬8巴なものではない。主観的には、 ベルーフはこの生涯の任務を引受ける

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ための・ある人の特別のお召しを意味している。この尉召し︵9=5σq︶は神の意志︵≦陣=。hO。α︶から生じ、それは第↓ に特別な肉体的精神的な可能性に現われ、第二に、当該個人に対する一定の職業の特別な訴求に現われ、第三に、個人的 及び社会的情況から起る具体的な機会に示現せられるのである。だから、職業の選定は神の意志への服従を意味し、帰依 を意味するのである。  職業意識の問題が深く労働観に根ざしており、それがキリスト教の原罪観と結びついていることは誰でも知っていると        ・ころである。従って、上述のところは宗教信者に承認されるだけではなく、職業の最後の源泉がどのようによばれ、また 名称をもたなくても、広く承認せられるところである。ハルトマソによれば、だから、ドイツではしばしぱ親達は子供が 困難な仕事に着手するに当って、 ﹁彼等が何をするために召されているか﹂を理解するように、これを注意するのである。 そこで、この信念に忠実なものは、﹁仕事﹂︵.へ﹂。げ、、︶というような概念とは無関係でありたいと望むのである。思うに﹁仕 事﹂という言葉は生涯の服務︵帰依︶や責任︵一・塗。謎8ヨ日・欝Φ巨霊b山塞℃呂ω・匿ξ︶あるいは働らきの成果や道具に対する 尊厳の感情を含むものではない。今日、労働移動の逓増、職業指導、機械化の拡大につれて、﹁仕事意識﹂︵・.﹂。げ日Φ富邑芽、、︶ も次第に拡大しつつあるけれども、職業観念は依然として強く行われているのである。  9臣づσq︵職業︶の原始的概念によれば、それに含まれる責任は共同社会︵○。薯髪二身︶への責任を意味している。なかで もbd臼亀︵職業︶は共同福祉への奉仕である。しかし個人はかかる奉仕を自己自らの上に貢献するのではない。むしろ個 入と社会との関係は﹁シュタンド﹂︵ω貯コ島︶という身分関係を示す中間項または媒介項を通して秩序づけられるのである。  ﹁シュタンド﹂は同一の職業を営む個人を結合し、この身分的集団はそれぞれ祉会的優越性に従い縦の験階に配置せられ るのである。しかし個々の身分的集団はそれ固有の威厳と重要性、権利と責任を賦与される。今日、シュタンドすなわち 身分関係という観念は次第に薄らぎ、職業観念が承認せられるに至ってはいるが、しかし経営権の正当化ないし擁護にお

     ドイツの経営組織と経営権九

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     ドイツの経営組織と経営権       一〇 いて、それは強力な役割を果しているのである。  3 ドイツ的三価値体系口i私有財産制とエリート意識 以上第一の職業意識の問題について略述したから、以下第二、 第三について考察しよう。  吻私有財産制 これまで私有財産権が経営権の最も有力な基礎をなすと考えられて来たこと、つまり経営権の残余理論 については前に詳説した。ハルトマソによれば、ドイツでは今日なお強く私有財産という究極価値が承認せられ、従って         この残余理論が相当広く行われているのである。この点につき、ハルトマソはほぼ次の如く説くのである。  私有財産という究極価値は自然法︵Z野邑臣≦︶に根源をもつのである。この自然法という仮説によれば、歯入は一定 の先天的にして譲渡し得ない権利︵。g巴5日葛8騨巳雷=Φ轟げδ轟ぼ。。︶をもつ。 これらの権利は彼が祉会関係に入る前の、 人間の自然的条件にとり本来的なものである。だから、これは社会的承認や拒否から独立である。それは幾つかの究極的 賦与者︵o日OヨΦ 己一け一叫5P酢0 αO昌○﹁︶によって与えられ、証明や挑戦を越える究極的なものである。これらの権利の中には、 生命 権、自由権、私有財産権がある。私有財産権の古典的規定がジョン・ロック︵﹄。冨ピ。多ρδし。NIδ謹︶に由来することは          誰でも知っている。彼は﹁各人は彼自身の労働の産むものに対する自然権をもつ﹂といった。  仁心の進展につれて、この私有財産権という究極価値は、対立的社会集団たる労働側から論議せられるようになって来 た。現在、この確立された財産権を擁護するために、西欧諸国においては財産権に関する古典的論議の現代的解釈が広く         行われている。この新解釈とロックの古典的公式との間のギャップについてはいろいろに論じられている。根本的にいっ て、このような解釈の変化は私有財産概念を現代的必要に適応させるためであるが、今日までのところ、この適応は必ず しも十分とはいえない。いわゆる資本家的社会︵。書爵ヴけ。・o息ΦgQ・︶そのものが、イデオロギーとしては私有財産権に対す る無条件納承認の証拠であって、現実における所有の経営からの分離︵島2註。コ。︷。毒①誘げ送馬δ臼。8ぎσもこれを否定す

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るものではない。所有の経営からの分離の実際の過程は多くの場合国家の規制活動の結果であり、また所有者側において は、その財産の運営を管理専門家に委ねることを利益とする結果である。所有の経営のから分離、管理専門家の成立は、 改めていうまでもなく、主として個人企業の大規模経営化、企業組織の新法律形態の成立、カルテルやトラスト化への傾 向の結果である。  私有財産の獲得や処分についてはいろいろ制限が加えられ、伝統的な絶対性は薄らいで来たけれども、私有財産に対す る古典的観念は今日の資本家的社会においてはなかなか消滅するものではない。しかもドイツにおいては特にそうであ る。ドイツにおける私有財産に対する自然権の擁護者の中で最も強力なものはカトリック信者の企業者︵○。子。汗Φ葺Φ℃﹁? 器全し・︶である。彼等は、 一八九一年、法王レオ十三世がその回勅︵園Φ・ニヨZO話2ヨ︶の中で、社会主義が人間の自然権に反 するとしてこれを拒否したこと、一九三一年のピウス十一世、一九四九年、一九五〇年のピウス十二世のも同様であること を想起して、この私有財産権を自然権とすることを信条とするのである。しかし、その他のもの特に所有経営者 ︵。毒Φ7 舞﹁賃①器二邑もこめ究極的価値体系に極めて忠実である。企業者ばかりではなく、同様な考え方は広くドイツ民衆の心に 深く根ざしているところである。今日まで、大部分の民衆には、事業の指導者と所有者とは同一物にすぎないのである。 要するに、ドイツでば経営権の残余理論が今日なお妥当するとハルトマソは見るのである。        し  圖エリート意識 第三の価値体系は、ハルトマソによれば、近代経営に固有な、広く全体社会︵b・o。︸Φ蔓︶に対するエリー トとしての地位︵①誓Φひ雷聖旨αq︶の要求である。社会科学者達はこれまで度々企業者を社会め種々なエリート  例えば政        治的エリート、社会的エリートなど一の中に数えて来ている。マンハイムは組織するエリート︵。茜ゆ巨N5ひq①耳Φ︶といい、      エイロンは近代語会におけるエリートを、経済指導者をも含み得るように、細分類する。たしかに、経営者をエリートた らしめようとする普通の説明や偏頗な説明は少くない。しかし、多くの場合、そのような要求は多分に希望的観測に基づ

     ドイツの経営組織と経営権      二

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     ドイヅの経営組織と経営権      一二 いているようである。少くとも、ドイツに関する場合、企業者の社会的移動︵レ。・。巨琶。茎量。障7①C幕§筈ヨ9やドイ ツ実業家の文化型の他社会集団による認容や反対、その他エリート問題に関する同様なインフォメーションは存在しない のである。  さて、ドイヅにおけるこのような経営者的エリートの要求という概念は、経営者の仮定的または現実的態度を解明し、 これを更に広く一般大衆に認容せしめるために役立つのである。この経営者的エリートを構成する資質一それらはそれ 自身また価値である一は自立心、自己責任感から個人能力の伸張意欲、競争心、危険負担の決意、創造的思考にまで及 ぶのである。これらの態度なり、それらの向上なりは、特定の社会集団や社会情況の見透しゃ活動としてこれを容易に追 跡し得るから、その限りにおいてこれをエリート・イデオロギーということも許されるであろう。  このエリート・イデオロギーに内在的な価値体系は、ハルトマソによれば、二つの面において究極的である。先ず第一 は、経営者がエリ;トたる地位︵o洋Φ答簿塁︶を要求するのは特定の任務領域あるいは任務群︵件・舞Φ﹃窃9αq§も︶について ではなく、むしろ全体社会︵け。琶8ΩΦ受︶との関連においてである。ところで、このような要求は、 つの価値が他の競 合する価値以上に究極的なものとして非合理的な︵二塁四ま邑︶形で承認せられるときにのみ可能となるからである。第 二に、経営者の資質のあるもの、例えば自立心や個人的潜在能力、創造的思考力などの如きは、同様に究極的なものであ る。しかしながら、他方において、相対的または職能的価値が、たとえ限定的であるにしても、ここに入り来ることを見 落してはならない。経営者的エリートの要求は、しばしばリーダーシップにおける技術的能力やドイツ経済の復興、におけ る過去の成功というようなものの回想によって裏づけられているからである。  このエリート・イデオロギーはこれまでみて来た三価値体系の中で一般的に最も受容せられることの少いものである。 経営者が社会の舞台に初めて現われてから、明瞭な形ではないにせよ、同じ要求が続けられて来たけれども、本当に組織

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された集団が首尾一貫した形でのエリート・イデオロギーを前面に押し出して来たのは漸く第二次大戦後のことである。 最初は所有経営者から支持されたが、後には広く経営者によってこれが取り上げられた。しかしかかる拡大と共に重点が 究極的価値から職能的価値の方へ移動するに至った。しかし、原理的にいって、イデオロギーというものは合理的な洞察 や合理的な測定からは甚だ遠く、それは究極的価値として非合理的に接近せられるものである。 ①国費什ヨきp呂.蔓こ薯.刈一。。。 ②団p・諺ヨ磐po唱●ρ什二薯.。。一O■ ③難波田春夫、労働の哲学、東京都立商科短大論集、五ノ一、参照。なお、芝①ぎ・・8。ピ=二︾菩①騨菖αしdま巷瞬・O冨男色Φ⊆2>﹃びΦ昇晒8  ℃﹃oNΦωω¢ヨロ昌ω①同ΦζΦ⇒ωoげ≦①aρ轟σq、一㊤課凸 が特に詳しい。有名なマックス・ウエーバーの ﹁プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神﹂  をも参照しつつこれについていずれ評論したいと思う。 ④出p。簿日弩p8■葺こ箸.④1峯 ⑤ ぴ。。貯ρ匂こ↓≦o↓諾国江雷800<ΦヨヨΦ簿唱一$ρ森順次、憲法原論、一〇一頁以下参照。 ⑥ oDo三簿8び国こ勺ユ<2。什Φ℃容需鮮碧.男三嶋臼ω¢三<①﹃ω一結℃話器”一㊤㎝一”℃℃.b。刈。。!b。○。一①什℃霧姓8. ⑦山母汁8きp8’葺こ署の目OIF ⑧ζき冨巨”国こ言Φ富9盲伍OΦω亀ω。霊気ぎNΦ詳巴什Φ﹁α①ω¢ヨ冨霧﹂㊤。。伊GQ.。。一. ⑨ ﹀﹁OP幻二QQOO冨一ω育βOε厭①蝉づ飾子Φ男9一ぎひqΩ帥ωω”↓ゲΦしd﹁三豊﹃O自認巴O楠QOOO一〇ざ頭ざ一︵ζ国﹃∩げ 一〇αO︶O.㊤. 1 四ドイツにおける経営権の担手ーウンターネーマーとマネジャー の価値体系につき述べたが、 者がマネ。シャーではなく、 てウンターネーマーにもいろいろな形態かあり、 構造や経営形態の考察から始めよう。      ドイツの経営組織と経営権 ドイツ株式会社経営の組織構造 われわれは以上において、ドイツ経営二業の特色を解明するため、経営権の基礎にある特殊       ここでは更にその担手につき考察を進めねばならない。この点については、ドイツにおいては経営権の担当          ウンターネーマー、いわゆる経営者ではなく企業者であるというにつきる。とはいえ、企業形態の相異によっ        マネジャーへの接近もない訳ではない。この問題の解明のため、先ずドイツ株式会社の       ① 二二

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ドイツの経営組織と経営権 一四  ω監査役会 ドイツ株式会祉制度の特色が監査役会︵︾ほω一∩窪ω話ρω愚Φ垂目ω。蔓切爵乙︶と取締役会︵<。瑳ぢ口立国x①8ユ<①O。彗ヨ葺①①︶ との職能を明確に区別している点にあることは周知の通りである。ドイツの監査役会や取締役会はそれぞれアメリカの取締役会や経営委 員会、イギリスの取締役会や経営担当者︵巨峰①﹃。ぎαqa話。8﹃︶、わが国の取締役会や代表取締役社長に当るともいえるが、権限は異るの である。  監査役は株式総会によって選任され、また解任もされる、次に、監査役会が取締役会のメンバーを任命する。取締役は、任命せられる と、会社経営の一切の責任を負い、監査役は経営責任を留保することもこれに参加することも出来す、ただこれを監査する権限をもつだ けである。このように監査役の職務に限定のある点アメリカやその他の会社制度と異るところである。  監査役会の権限は、↓九三七年の会社法で制限せられたけれども、なお昇る程度の特権をもっている。つまり、監査役会が承認すると きにのみ、敵締役会は特定の重要問題につき決定し得るのである。取締役か独断で決定した場合、監査役はこれを拒否するだけで、自分 で行動することも自分の意志を・取締役に強制することも出来ない。監査役が取締役の決定を拒否するときは、取締役は株主総会を召集せ ねばならないのである。  通常、監査役会長か唯]の常任監査人として取締役の政策や執行を監査する。監査役と取締役との接触.の機会は両者からなる種々の委 員会において与えられる。しかし全体として見れば、監査役と取締役との接触の機会は比較的少く、近時の立法では、三ケ月に一度は監 査役会が召集されるようにすべきだと提案されている。一九五一年の共同決定法、一九五二年の経営基本法との関係については別の機会         ② に示した通りである。  ②取締役会 取締役会が監査役会から戯然と区別された集団であることは前に述べた。取締役会のメンバ1が監査役会のメンバーでも あり得るが、経営責任は取締役のもので、監査役に委譲することは出来ない。取締役は一入のこともあれば二入以上のこともある。取締 役の地位は同等であることも、順序のあることもある。多人数の取締役会には通常会長がおかれるか、その権限は独立の意志決定をし得 るものではない。  取締役の地位の平等性は鉄鋼業の会社に広く見られ、通常は二人、時には三人またぱ四人の取締役が集団指導︵囚O一一Φゆq一画︸一①一併⊆口駒︶を行       ③ っている。共同決定法の施行以来、三人或いはそれ以上が普通となり、集団指導はいろいろな形で利用されるに至った。  取締役の職能は経営管理の職能として知られているもので、ハルトマソは調整︵OOO同島一コQ⊃静昌O口︶、指導︵曾器。口8︶、職員の補充︵ω3鴎コαq︶、 続制︵碑p白亜Φ−8コ畦9や関連職能をあげ、更.に計画︵覧磐巳コひ。︶や政策の樹立︵o。Hざ胃ヨ葬ヨひ。︶をも含ませ、最後に伝統的な企業者職

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当たる危険負担︵﹃一ω評豊什四評一昌αq︶をも数えている。要するに、ドイツの取締役はアメリカのΩ器馬国×Φ9邑<Φ、 イギリスのζ⇔富σqぎσqけ㍗ H器。§と同様に経営の全責任を負うのである。  監査役と取締役との職能や責任の相異は.取締役会にコンーーローラー︵統制部長︶或いはトレジ.一ラー︵財務部長︶の存在しないことに.よ ってますます大きくなる。監査と経営とが本質的に同一集団によって行ねれる国では、特に統制機関が必要となる。然るに、ドイツでは 監査役会と取締役会とが異る集団であるから、前者による監査は後者を統制することとなるのである、なお、セクレタリー ︵総務部長︶ のないこともドイツ経営の特色である。  ㈲上位及び中位管理者 取締役の下でトソプに最も近い層は門の希乱Φ﹀嵩σq塗Φ=8︵幹部職員︶すなわち上位管理者︵口寒興ヨ四舜αq①ヨ①耳︶ である。彼等は部長か重要なスタッフ部長である。経営基本法に規定せられる如く、幹部職員の特質は ω会社傭人の雇入や解雇の権 限、働事業経営上重要性の故に、企業者の個人的信頼を得ている人で、しかも特に知識経験の豊かな人にのみ委任される特別な地位、㈲ 一般的代理権︵ぴq窪興巴宮≦霞oh讐8旨①︽o同即鼻霞p︶をもっことである。  しかし、この法も幹部職員の特質のあるものをあげるだけで、定義を与えないから、この言葉は依然として曖昧である。しかし少くと も二つの性質では一致する。すなわち第一は、幹部職員は使用者の職能を代行し、使用者の利害を代表することであり、第二はその仕 事において個人的責任に堪え得る特別な資質をもつことである。アメリカ的用語とドイツ慣用語とは異っているが、ドイツの幹部職員 ︵ピΦ八け①昌匹Φ ︾昌ぴqΦω汁Φ一一什①︶にも二つのグループがある。ωは歴史的な狭義のそれで、調整職能と決定権とをもつ会社上位のメツバーであ る。彼等は幹部であって多くの部下をもち、その職能は近代的意味において管理的である。それは技術的であると共に訓育的であり、主 として訓育的であり得る。②はスペシャリストであって、調査、監査、建設、入事、販売、広告などにおけるものであれ、とにかく明確 な専門職となりつつあるものである。その主たる職能は使用者的である必要総なく、むしろ科学的であり、訓育的ではない。彼等がスタ ッフ部長であっても、彼等は経営プロパーの命令系統には属しないのである。  この幹部職員の下には課長、係長、職長、蓮田などがある。形式的には、営業部門では課長︵﹀耳9ぎ昌αqω冨詳記︶から係長︵O﹁ξ需巳皿醇︶ へ、技術部門では工場長︵切Φ什﹃一Φびu9一①一汁①同︶から職長︵ζΦ簗韓︶組長︵く。茜吾Φヰ2︶への階層がある。この中位管理者︵邑ユ巳①ヨp・富晦雪 日Φ耳︶の権限は、経営の規模、構成、職能その他の特色と共に変化する。この集団の上位と下位との区別は特に曖昧である。  要するに、典型的なドイツの株式会社の経営構造は上述の如く三つの階層或いは集団から成っている。監査役会、取締役会、幹部職員 がこれである。更に、余りに明瞭ならぬ集団として中位及び下位管理者がある, ドイツの経営組織と経営権 五

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ドイツの経営組織と経営権 =ハ  2 ドイツの三つの経営形態 企業形態や事業形態に対して特に経営形態を明確に区別する必要があるというのか、箋老の永年の多 書であび。そしてわれわれは経営形態を経営の意志決定者従って経営権の担手の性格に見ようとするのである。これは、自覚的であるか どうかはともかくとして、ドイツにおいてすでに認められ、例えばグーテンベルクは五形態を、またノイローは三形態を大別する。ハル トマソは、経営︵老︶形態そのものを問題とするのではなく、ただ調査の必要上、基本的二経営形態、更に下位分類を含めて三経営形態  ︵穿同,ΦΦ8畦日一塁℃Φωoh言き農Φ臼①茸︶を認めるにすぎない。すなわち、ω所有者経営︵。≦コ2品目冨買Φ器母︶、②専門家経営︵鷲。h霧 ω圃D巴言p畠σqΦヨΦ葺︶、㈲専門家経営形態の明確な下位分類としての共同決定経営︵8雪髭①旨Φ算琶α28ユ簿興∋凶葛ユ。コー8二曾Φ﹁最銘叶δ昌       ⑥ 上玉pαqΦヨ①簿︶がこれである。第一の所有者経営はグーテンベルクの企業者経営 ︵¢づ叶O﹃コOげ5ノ①同σΦ酢二一φげ︶、 ノイローの所有一方的経営  ︵日80眞O①じd①什艮①びω︿Φほ鋤ω。・自走︶ であって、経営権の担手がウンターネーマーであることを特色とする。第二の専門家経営はグーテン  ベルクの経営者経営︵︵甲OのOず固h什ωh盟ず﹃Φ円げ①汁﹁一Φげ︶で、そこでは経営権の担手は専門経営者つまりマネ。シャーである。ノイローの形態論はこ  れを直接問題としない点に欠陥がある。しかし強いて解釈すれば、これを彼の双方的経営形態︵塁ゆ一ω①三鴨ゆ葺ユ。びω<2富ωω旨αq︶の中に  認めることも出来るであろう。第三の共同決定経営はドイツ特有の経営形態として注目され、グーテンベルクの形態論においても取扱わ  れてはいるが、特にノイローによって詳細に研究せられ、またわが国においてもいろいろ研究が進められている。   形態論としてはこれを出来るだけ細分し詳説することが望ましいが、ここではこれを目的とする訳ではないから、ハルトマソに従い基  本的二形態を問題とし、そこにおける経営権の担手につき考察することとしよう。共同決定経営は経営者経営とならざるを得ないから、  われわれにとっては所有者経営或いは企業者経営と専門家経営或いは経営者経営が問題となる。つまり経営権の担手としてのウンターネ  ーマーとマネジャーとの対立となるのである。そしてそこにドイツの特色が見られるのである。  3 ウンターネーマーとマネジャー ωウンターネーマー これまで会社の構造や経営形態を考察し、経営における権 限の形式的配分の相異を明らかにした。それは経営権的構造の理解に重要ではあるが、更に経営権の担手としての経営者 概念そのものも同様に重要である。 一体ドイツにおける経営老の役割は何であるか。それは他の集団と如何に異るか。こ        ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ の青沼を提出しながら、ハルトマソはいう。 ﹁これらの問題に対する驚ろくべき解答がドイツ的経営組織の内的特質を、 産出高や生産性を示す数字のなし得ないほどに明確に説明するであろう。それはまたドイツの経蛍指導の将来の発展に何         が期待されるかを推定する手引きとなるであろう。﹂

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 上述のように、ドイツはウン螢手ネーマーの国である。所有者経営ないし企業者経営は全経営の九四%に⊥ると推定さ れ、ウンターネーマー︵企業者︶すなわち経営老に外ならない。 しかしウン副直ネーマーとは何か。ウンターネーマーと         いえば、誰でも直ちにシュンペーターを思い、その他の経済理論家を思うであろう。たしかに、企業者の職能を問題とす るとき彼等がその合理性の基礎に立って試みる職能的定義︵節口︸8巴牙h日凱∩き。ぼ塁冨ひq留Φ段︶が実際⊥にも認容せられる のである。しかし同時にそれとは異った定義つまり非職能的定義︵8”よ§亀・8こ口ぎ一[§;︷暴評σ。§Φ葺︶が現実に行われ ているのである。その定義は職能や専門的能力とは特に関係するのではなく、むしろ一定の価値の承認、一定の価値に対        ヘ   ヘ       ヘ   へ する態度様式や個入的指向を示すものである。そしてこの定義は職能的定義と単に異るだけではなしにこれに対する反対 の調子を含んでいるのである。ハルトマソはその実例をあげて、ドイツにおいては、企業者とは独立に経営を維持しよう とする情熱をもつもので、必ずしも管理職能や技術的能力をもつを要しないことを説明している。要するに、ドイツでは ファンクショナリズムに対する反対が強く、非職能的接近、非合理的接近が実際界では一般的であるというのである。  恐らく誰でもこのような説明では、ウンターネーマーの定義の積極的意図を理解し得ないであろう。一体、ドイツの企 業者達のいう﹁情熱とか、諸職能の文脈とか、天賦の資質とか﹂いうような非合理的な言葉は何を意味するか。このよう        な疑問に対する解答としてハルトマソは被等の狙いが思考規範︵]ピ○はぴ二匹︶の確立にあることを指摘しそこに﹁驚くべき解 答﹂を見出すのである。そしてこれはハルトマソの非合理的アプローチにとり、中心概念をなすものである。  企業者の非職能的定義としては、この思考規範の特別な役割は入と価値とを結合し、価値によって人を評価することで ある。しかし思考規範は明確に規定できるものではなく、本来曖昧なものである。非合理的なものである。そこで、思考 規範はただ定義の形態、一般型に対する名称にすぎない。これらの定義の現実の内容は個々の集団と共に異る。これらの 形態の内容について一般的にいえることはそれらが常に前に述べた﹁究極的価値体系﹂︵。・ヨ①ヨし。。︷葺摯駕のぐ旦‘の。・︶から導      ドイツの経営組織と経営権      一七

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     ドイツの経営組織と経営権      一八 き出されることである。そこで、ハルマトンは上述の三価値に基づくかどうかによって、企業者の非職能的定義を試みる 必要があるとし、詳論するのであるが、その内容は前節で述べたところと大差はないので、要約に止める。  先ず第一に、ドイツにおいては殆んどすべての企業者は、所有権の価値を自明なもの、問題や疑問の余地ないものと信 じている。思考規範は企業者と所有権という究極価値とを結合する。その結合は所有経営者において完全である。そこで ﹁企業者すなわち所有経営者は経営者の原型であったし、またあるであろう﹂ということになる。このような信念と事実 は数代、数十代に至る伝統の結果であって、ハルトマソはいろいろな事実でこれを立証するのである。第二に、職業意識 が企業者の究極価値をなし、思考規範をなしていることも明らかである。ある企業家はいう。 ﹁職能と職業との間には大 差がある。職能は⋮⋮熟練者なら誰によっても担当されるが、職業はより以上のもの、全く異ったものである。職業は全 人の問題であり、生涯の課題である。これに反し、職能としての仕事は単に金儲けのための時間潰しにすぎな%。﹂ これ は企業者の思考規範の特殊内容の例証であると共に経識者の職能的定義への反対の例証でもある。このように、ウンター ネーマーを経営のために﹁召された﹂入間、あるいはウンターネーマー・シュタンド︵企業者たる地位︶の一員と定義する ことはその職能によって定義することとは全く異る。第三のエリート意識が究極価値であり、思考規範であることについ てもほぼ同様にいうことができるのである。要するに、ドイツにおいては企業者は一種のカリスマ的リーダー︵島三≦重ε        百紆﹁︶に外ならない。  働マネジャー 以上述べたところがら、思老規.範がウンターネーマi型の記述を目的とするものであり、いわゆる経営 者︵目§pσ。窪。導︶という言葉がその定義に全く見られないことが分るであろう。 これは決して暗合ではない。英独の言葉 が異るからとてこれを期待するものは、 ﹁マネジメント﹂や﹁マネジャー﹂という言葉が大分前から独語となっているこ とを知って失望するであろう。しかしその説明は必ずしも容易ではない。実際上、ウン八二ネーマーとマネジャーはドイ

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       き ヅでは本来異るものを意味している。  第一に、ウンターネーマーはより古く、より伝統的な言葉で、入々には近づき易く㌔ノ入タルジャを感じさせる。所有 と経営の分離が進み、近代経済生活において危険要素が減少し、ウンターネーマーが権限の委譲によって大規模.化の必要 に屈服するにつれて、旧式の企業者はその近代化たる経営者に道を譲るのである。ウンターネーマーという言葉の使用を 固執するのは管理や組織の異る形態への発展を﹁書き漏らす﹂ことであるともいえよう。  しかし、他方においては、ウンターネーマーという言葉を使うのが正当でもある。第一、ドイツでは事業指導の専門化 はアメリカの如き典型的な経営者経済︵ヨ・8σq白刃Φ88日・①・︶におけるほど進んではいない。もっと重要なことは、ウンタ ーネーマーとマネジャーとが客観的に異ることである。ウンターネーマーは経営組織最高の唯一者、あるいは株式会社の 取締役会の最高の一メンバーを指す。然るに、マネジャーは言葉としては取締役会のメンバーから下位管理者にまで及ぶ のである。けれども、マネジャーとウンターネーマーとを互に同義に使用することに反対する重要な理由の↓はマネジャ         −やマネジメントという言葉に附着する特別な烙印−上述の究極的価値体系、具体的には思老規範に反するという烙印 である。所有権、職業意識、エリート意識の何れから見ても、ウンターネーマーを基準とすれば、マネジャーは﹁職員、 偽企業者、偽管理者、広義の長﹂︵h毎。g塁﹁Kもb。Φ&〒¢g臼器︸§Φひ甥Φ鼠9ギ2冨巳9⇔巳Z葺島¢冨貯︶にすぎないのである。 ドイツでは普通には企業者や経営者は所有を離れては考えられず、マネジャーは﹁代理企業者﹂︵σ窪現当σq8⊆ぽ≡Φげヨ& からさえ区別せられるのである。職業意識と仕事意識との相異についても前に述べたが、マネジャーは専ら後者に関連す るのである。エリートの問題についても、 ﹁真正のエリート﹂︵︹同[[Φ O一一僅Φ︶と職能エリート︵閏臨画蓉○ヲΦぼ①︶を区別し、マネ ジャーは後者に関連すると見るのである。  このように、ドノーッではマネジャーやマネジメントという言葉は排撃せられ、経営者とは企業者であり、企業者とは所      ドイツの経営組織と経営権      ]九

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      ドイツの経営組織と経営権       二〇 有者であり、独立企業者こそが固有の企業者であり、委任や代理の企業考やマネジ♪、1は偽者にすぎない。しかし、どん なに排撃しても、経営の事実としてのマネジャーの成立は否定し得ず、ドイツでも次第にウンターネーマーとマネジャー        ⑭ との調停を試みんとする見解も現われつつある。ウンターネーマーの定義の拡張、思老規範の再考が問題となっているの である。その際、共同決定経営の形態がかかる考察の基礎となることは容易に理解せられるところであろう。  ㈹幹部職員 上級管理者の本来の地位についてもいろいろな議論がある。幹部職員︵ぴ簿Φa①︾品Φ霧=酢Φ︶は企業者側で あるか、それとも労働者側であるか、につき古くからいろいろな立場から論争が行われて来たが、⊥述のマネジャーやマ        ⑮ ネジメントの性質が明らかにせられるにつれて、幹部職員はマネジメントの範疇に入れられる傾向になっている。  ① 国母什臼き戸8.簿こ薯.一①1卜。卜。・小島昌太郎、比較株式会社形態論、市原季一、西ドイツの経済と経営、参照。  ②拙稿、経営学本質論、一〇八頁以下参照。  ③℃ユ9ごをこ∪醇芝ヰヨ。冨降ωぴ①酔コΦ一∪巴ひ・じd卑瓜Φぴ︵∪鑑ピ①露.①≦ヨ芝置需9臥ヨσ2工Φご間じd⊆Hε”6ω9の■ミ①■  ④瓢。醇日磐Po℃.葺こb。ピこれがラインとスタッフであることは説明するまでもない。これらについては、拙著、経営管理論、参照。  ⑤ 拙稿、経営学本質論、八五頁以下参照。  ⑥訟国算日聖poPユけ二弓﹂トっ.℃﹂8h︹■P=鳶h■  ⑦霞p二旨窪p名■o︸.サNN.  ⑧ω9賃ヨ需8び旨こ↓冨。ユΦ篇臼三詳ω。冨三ぎぼg南コ叶葱。匹⊆髭﹄a﹂露①■  ⑨ ぴΦ暮σ剛比は達Φ巴なOρ嘆90身℃Pαq三里ロケqヨ。α巴を意味する。概念構成における一①陣9邑Φ霊。⑦に当るので、ここでは思考規範としておいた  ⑩出胃けヨ碧poや且叶二戸鱒。。,  ⑭ 妻Φσ馨興.ω2Φ≦同葺①ヨp賦。ロ巴U8什一9茜曼oh9Φ国ロαq目一撃い響鵬葛駒食く〇一﹂博によれば ﹁9霞目∋騨は特別な神の賜、すなわち神の寵愛の   経験の証拠として信者に与えられ、召された生涯、仕事、事務に彼を適せしめる特別な神官の才能である。﹂周知の通り、 マックス・ウエーバーは支   配の型を合理的、伝統的、カリスマ的の三つに分けた。  ⑫団曽跨日磐p8●ユ∬℃■ωωR  ⑬ マネシャーとかう言葉がドイツへ入ったのはサーカスやショウやボクサーのマネジャーで、三価値からは縁遠く、尊敬されないのである。

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⑭寓母叶巨窪ジ8。紳r℃﹁ω㏄p ⑮国p諄含磐p8・息けこ憶島hh’        五 結 口          1 問題と思老基準 われわれの提起した問題は、ハービソンによれば、 ﹁第二次大戦後、アメリカとその連合国がド イツ産業家のカを破壊して、事業経営を﹃改革﹄せんと努力したにも拘らず、何故にドイツ経営はあんなに急速にその旧 来の構造と外観、その古い伝統と陣容を恢復したか﹂また﹁ドイツのウンターネーマーは経営政策にせよ管理方法にせよ その相手方たるアメリカから何物をも借用しなかった。 ↓体、ドイツ産業家の哲学は何であるか﹂といいかえうる。ま た、ハルトマソ自身の﹁要約と結論﹂によれば、 ﹁ドイツ経営がこれまでと同様にドイツ的経営方法を固執し得たのはど うしてか。またドイツ経営をして現在以⊥に経営権の拡張を強要するものは何か。要するに、ドイツ経営は何故安全であ         る︵ωゆO郎目0︶か、またドイツ経営は何故動的である︵砂塁塞。︶か。﹂  この問題に答えることは容易ではないが、 一度思考規準︵隔冨ヨ。≦oチ︶ として経営権の根抵をなす究極価値を見出し、 思老規範を措定していわゆる非合理的接近を試みれば、ドイツ経営組織の経営権的構造の特質が容易に解明されるばかり でなぐ、その自明性︵塗hゐく幕=8︶、全体性︵8邑邑︶、排他性︵Φ益二。・・<8Φ・し。︶も直ちに理解されると、ハルトマソは主張する のである。この点、圭果せるところで、われわれも一応これを認容せねばならない。しかし経営権はそのようにただ非合 理的基礎のみに立ち、カリスマ的なものと解してよいであろうか。そうでないことは、われわれの繰返し述べたところで あり、ハルトマソもまたこれを認めない訳ではない。  2 職能的経営権の役割と限界 ハルトマソはいう。 ﹁ケース・スタディは非合理性の好例を沢山発掘した。⋮⋮しか し明らかに合理性や職能主義を全く無視することは組織にとっては自殺であろう。⋮⋮経営権の維持か促進に重要な領域      ドイツの経営組織と経営権      二一

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     ドイツの経営組織と経営権       二二        に限定すれば、職能主義の二つの砦は組織の合理化と下級管理者の訓練である。L  さて、このように、価値的経営権と職能的経営権とがあるとすれば、両者のバランス、オプティマル・バランス、均衡 点が問題となる。われわれはこれを権能一致の原理と呼んだが、ハルトマソは均衡点︵Φρ旦・げコ§℃2暮︶として問題とす る。﹁あらゆる経営形態に対して均衡点は、特に経営権問題につき究極的価値が職能的価値を制御するという仕方でバラ ンスをとるのである。⋮⋮所有者経営は問題指向に一層大きな余地を与えることによって均衡点に近づき、専門的経営は        反対側から価値指向を拡大することによって接近するのである。﹂﹁グラフ的にいえぽ、均衡線は重なり合い、共同決定        経営は新価値体系が従来のと取替わる限りにおいてのみ例外をなす。﹂ とにかく、彼はどこまでもる究極的価値の優位を 主張するのである。  3 経営経済学・経営社会学と経営学 以上ハルトマソによりつつドイツ経営組織の経営権的構造を見て来たが、その 非合理的接近という社会学的方法のゆえに、なるほど経営権のドイツ的特色.を見、ドイツ経営特有な安定性と動的発展的         性格とを通してドイツの経済復興の﹁謎﹂をもある程度理解し得たと思う。これまで、ドイツ国民を﹁組織の国民﹂と考 え、ドイツ経営経済学の合理的接近に慣れたものにとっては、ハルトマソの所説は目新しく、これまで見落されていた方 面をクローズ・アップするものとして興味深いものがあろう。更に、ドイツ経営が上述のような構造をもつから、︸方で ぽ経営の経済面だけを問題とする経営経済学が発展し、他方では経営の社会面、人間関係の面を問題とする経営社会学が 成立することをも理解し得るであろう。けれども、経営経済学が一面的であると同じ意味にて経営祉会学もまた一面的と いわねばならない。よく同じ問題、例えば共同決定の問題も経営経済学的に見るのと経営社会学的に見るのとでは意義が         異るといわれる。この点、われわれも一応認めねばならないと思う。しかしそれぞれの方面からただ↓面的に分析するだ けでは存在そのものを根本的に把握することはできないであろう。経営権を単に価値的に、あるいは単に職能的に見るだ

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けではなしに、両者の相互関係において行為的主体的に見、綜合的に見ることも必要であろう。そこに真に経営学的見方 の方向が暗示せられるのではなかろうか。われわれは経営権の右脳理論をこのような意味に解するのであって、この見地 からハルトマソの研究を見直すことによって、その新しい意義を見出し得ると思うのである。ここではただドイツ的経営 権の特色の解明だけに限定せざるを得なかったが、今後はわが国の省察を試み、経営権構造の比較研究に進みたいと思 う。 ① 麟巴,9蜀コ90戸。詳こ出9。村ご弟っコポ喝2,Φξo国9冒ツ<−<一“ ②目窪,ひヨ讐ニー8窪こ戸卜。醗. ③ 山騨ニヨ帥口多oO.Ω叶.−O℃.卜Q露−卜⊃のω. ④国母肺ヨ雪p8.葺二薯■卜。①。。1卜。⑦O. ⑤団国牌ヨ磐p8.葺二や悼①。。. ⑥Zざ江6∩入国二U2をΦぴqp野芝即ほ匹○円αq窪H器江。Pお鱒ρニックリッシュのこの願望にもかかわらず、シュレソツカはいう。﹁多くの人はわ  れわれドイツ人を組織者の国民と呼ぶのを好む.が、正直にいって、われわれ・のどれだけが真に組織の原理を理解しているであろうか﹂と。 ω。冨守  N詳ρdコ什Φ円5Φぽ8ΦぴU塔Φ犀8﹃ΦPζ鋤5p職①がウト。這■ ⑦市原季一、共同協定と経営社会学、国民経済雑誌、一〇三巻六号参照。 ⑧拙著、経営学本質論はこの問題に答えんとするものである。 附記  本稿は昭和三十五年度文部省科学研究費による経営纏織研究の一部をなすものである。 ドイツの経営組織と経営権 二三

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