戦前の日本における農民教育の普及(2)
神 田 嘉 延*・松 田 壌 司**
(1988年10月13日 受理)
The Spread of Peasantry Education
in Prewar Japan (Part 2)
Yoshinobu Kanda and Jouji Matsuda
目 次 第-章 明治後期の農業・農民教育の展開 第一節 明治後期の農業教育制度と農民 第二節 実業補習学校と農民 第三節 農会の系統化と農民教育 第二章 農会の技術指導と農民教育 第一節 静岡県における系統農会の成立と県農事巡回教師の役割 第二節 農会技術員の系譜 (以上38巻) 第三章 農会事業の発展と農民教育 第一節 農会事業の発展と町村農会技術員の設置 第二節 農会の短期農事講習会の役割 第四章 大正期における実業補習学校の展開 はじめに 第-節 大正初期における実業補習教育 第二節 臨時教育会議と実業補習学校 第三節 大正期の農村問題と実業補習学校 第四節 実業補習学校と地域振興 一鹿児島県の事例を中心に-* 鹿児島大学教育学部教育学科 ** 静岡英和女学院 (以上本巻)
246 鹿児島大学教育学部研究紀要 教育科学編 第40巻1988 第三章 農全事業の発展と農民教育 本章では,明治末期から大正期においての静岡県における農会の教育活動を分析対象としてい る。農会の教育活動の分析は,第一に,町村農会技術員の設置問題と農民教育の役割,第二に,農 会の短期農事講習会の地域農業振興の役割という二つのことを課題としている。 前者の町村農会技術員の設置問題と農民教育の役割は,町村農会に技術員が本格的に配属される 以前の農業改良と技術員問題と大正期に町村農会の技術員が制度的に保障されていく過程を問題に していく。町村農会に専任技術員が本格的に配属されていく契機は,帝国農会の成立により,県農 会,郡農会,町村農会の系統組織化の中でのことである。そして,この段階の農会の教育活動は, 単なる技術的な農業改良の事業ばかりでなく,農業経営,農村調査統計,農村文化,農村振興とい う多様な面に活動を拡げていく中でのことである。町村農会に専任技術員を配属させていくのは, 農会活動の多様化に対応して,撤密に農家との直接接触による教育活動が求められたことによるも のである。 後者の農会の短期講習会は,直接的に農民を対象にした教育活動であり,講習修了者は,農会の 事業に組織され,部落会,実行中組合等での地域リーダーとなっていくのである。短期講習会は, 農村の女子を対象にしての農事講習会も積極的に展開されるが,これは,農村生活,農家婦人間観 へと農会の活動が拡がっていく証でもある。この女子農事講習会は,静岡県農会が主催して県下各 地域へ巡回して開かれていくのである。すでに,町村段階では,部分的であるが明治末期に女子農 事講習会が開かれている。本章では,農会の実施する農事講習会を直接的な農民の教育活動として 重視するとともに,その修了者を農会活動の地域リーダーとして組織化していくことを明らかにす る。 第一節 農会事業の発展と町村農会技術員の設置 静岡県下の町村農会において,技術員が設置されるのは,明治38年以降であった。 そして,その後大正3, 4年頃を一つの転機として急速に設置されていく。しかし,大正末にお いてもその設置率は81%にすぎない(D.県下すべての町村農会に技術員を常設するに至ったのは, 「経済更生運動」の展開されるさ中の昭和8年以降のことである。 農業生産は,明治末から大正期において徐々に発展し,耕地整理などの土地改良事業も大規模に 展開し,一方牛馬耕,湿田の乾田化が進み,水田二毛作が拡大された。米麦の品種改良が推進さ れ,大豆粕,過燐酸石灰,石灰窒素など購入肥料が施用されていく。さらに,畑作,果樹園などを 中心としてボルドゥ液や石油乳剤などの農薬が撒布されると共に,病虫害防除技術も向上する。そ して,農業生産力は着実に発展し,農産物の反当収量の増大となってあらわれた。 特に第一次大戦期(大正3-7年)の急速な工業の発展は,都市人口の著しい増加をもたらした
ため,農産物全般に対する需要を大きく拡げた。そして,それに応じて,新たに果樹,読菜園芸を 発展させ,都市近郊では,疏菜の促成栽培及び軟化栽培などの技術が発展した。更に地域的に特殊 農産物の栽培地が形成され,社会的分業がいっそう発展した。 帝国農会は明治43年に成立し,帝国農会一道府県農会一郡(市)農会一町村農会という形で,文 字通り系統組織が確立する。この段階の農会は,単なる農事改良の指導・普及団体として止まるこ とがゆるされなかった。その事業範囲も拡大され,農家経済の改善,経営の合理化をめざす事業が 次第に比重を増していく。又農産物市場の拡大と,一定の商業的農業の発展に対応し,農産物など の販売購買斡旋事業を含む経済的事業も推進されていった。教育的事業も更に拡充され,農村に掲 示板が設置されたり,新聞縦覧所が設けられたりした(2).更に女子農事講習会が各地で開催される などの新たな発展を示した。地主会が組織されていったのもこの時期である。又,大正9年の系統 農会の米投売防止運動を典型とする農会の農政運動への傾斜は,農会の性格を大きく変えた。町村 農会技術員の設置はますます緊急不可欠のものとなった。 (1)農業改良と町村農会技術員設置の端初形態 町村農会は本格的に技術員が設置される以前,すでに明治29年の害虫駆除予防法に基づき害虫駆 除予防の督励・指導のために,害虫駆除予防巡回委員,駆虫委員など様々な名称でよばれた委員を 配備した経験をもっている。静岡県下においても,そうした名称の委員が置かれ,早くから農民に 対し害虫駆除予防を強制していた.しかし,実際農民は強制だけで動くものではない。一方では強 制を伴うとしても,他方ではこの事業の施行は農民に対する啓蒙活動という側面を持った。委員た ちが,農民に対し昆虫の生態,その成長と農作物への加害の事実とメカニズムを説明し,実際に農 民自身が害虫駆除の必要性を自覚してその事業に参加する過程はまさに教育的過程に外ならない。 そうした意味において,その指導督励の任にあたった委員たちは,町村農会技術員の初期の姿で あった(3). 明治32年,小笠郡和田岡村農会では3名の農芸委員を嘱託し,害虫駆除予防の督励のほか農談 会,苗代品評会,立稲共進会の開催・審査などを担当させている。又同年度磐田郡上浅羽村農会で も稲委託試験の担当常設委員を選び,検査係とともに11名に手当を支給している。翌33年度には, 小笠郡農会で各町村農会すべてに農事教師を配置しようとしている。同年度引佐郡井通村農会でも 農事改良委員がおかれている。 明治34年度に入ると,富士郡農会が農事改良委員設置規程をつくり,各町村農会に1 - 3名の委 員を配置している。同規程によると,その資格を「本県農事講習会を修業以後本業に従事するもの 若くはこれに相当する教育及経験を有する者」と規定し,専門的教育を一定の条件としている。そ して任期2年の名誉職ながら, 1名金5円宛手当が支給されている。 引佐郡でも,同年度より郡内十一の町村に農事委員がおかれた。そして郡農会の同年度予算で は,事業費835円の41.;に相当する3,005円が技術員関係費にあてられており,そのうち町村農事
248 鹿児島大学教育学部研究紀要 教育科学編 第40巻(1988) 委員の俸給総額は250円・その他旅費25円であった。 こうして,町村の現場では,当初駆虫事業を担当していた委員の活動が,農事改良上予想以上に 効果を収めた。郡農会は,そのような指導性に注目し,各町村農会に農事委員を配属した。そし て,農事改良全般にわたって指導する者(技術員)が現れた。こうした素地があったからこそ,一 部の郡では,他郡に先駆けて,いちはやく町村農会技術員を設置する一方,郡農会からの補助を実 現していったのである。静岡県下では,富士,引佐両郡はそうした先進地となった。明治37年度に おいて,郡農会予算に町村農事監督費(技術員費)の交付金(補助金)を計上しているのは,磐田 郡420円(事業費の40.0%),引佐郡275円(同34.6%),富士郡225円(同41.7%)の三郡農会で あった。このうち,富士,引佐両郡農会は別に郡農事監督費手当,旅費をそれぞれ計上している。 その合計額の事業費に対する割合は富士郡76.9%,引佐郡58.4%に達した。尚,当時これら技術員 の呼称は,富士では農事監督委員,引佐では農事委員,周智では同年度より新設予定の町村農事監 督であった。しかし,周智郡農会が実際に各町村に1名ずっ町村農事監督を設置したのは,明治38 年度以降であった。 明治36年の農商務大臣諭連と,それにひきつづく日露戦時の強権的農事指導・督励はその後,継 続的に実施され大正期に至った。そうした農事強制をすすめるうえでも,町村農会技術員の必要性 が痛感されたのである(4) 明治37年,時の農務局長酒匂常明は,全国の道府県知事,道府県農会長に「農会に対する注意」 を発送し,農会報の定時発行の廃止,各級農会への技師,技手の設置,農会費の徴収,の三点につ いて指導している。彼は, 「会報の定時発行がこの際不要不急であり,その経費を削減し,ただで さえ不足し勝ちで,実現困難な下級農会技術員設置費にまわすべきである」と主張している。更に 続けて彼は「この際農学校卒業生を郡町村農会技術員に名誉職的職員として採用すべきであり,そ うすれば,農会にとっても軽微な報酬で足り,本人自身も活動の場を与えられ,一挙両得である」 というのである(5)。 しかし,当時農学校出身者が高給で各界に迎えられたり,彼らが農村の地主・有力者の子弟で あったことなどを考えると,少額の報酬で名誉職的職員に採用すべきだとする彼の主張は,現実的 , ではなかった(6) 下級農会に技術員を設置することの難しさは,単に経費上のことだけではなかった。 「--ただ学力計りの人では,充分に農家は信用しない第-に言語それから風俗生活の点などが 農民の思想と甚しき懸隔がある等も関係のある所であります。それで此監督員(郡農事監督のこと ・-・・筆者注)には技術上の指導奨励のみならず風俗習慣総てに於て,農民と余り懸隔のない人を選 ぶこととした--地方学校からの出身者にて此等の条件に乏しい,所謂無位無官で民間の農業者と して草鞍がけで働くと云う様な人を望むもなかなか容易に得られない」 これは,全国農事会が各道府県農会に対し「明治38年度事業方針如何」と諮問した際当時の静岡 県農会顧問技師高橋昌が答申したものである(7)これには,当時の地方農学校卒業生に対する一定
の批判が含まれている。そして農村現場では下級農会の技術員が熱望されながらも,その人材難か らその実現が困難であるという事情が語られている。 明治38年11月,榛原郡農会は,当時模範的郡農会であった引佐,磐田,周智の三郡農会に役員を 派遣し,これらの農会の事業について調査している。そして,次のような事業報告を示した。 「三 郡農会は能く活動し町村農会の指導成績良好なり,就中引佐,周智の二郡は町村農事監督を常設し 大町村に於ては-ヶ年120円内外の手当を給し町村間を巡回指導し且つ会の事務を助けつつありて 町村農会と郡農会と能く連絡し諸事周到なり引佐郡農会にては町村農会長会及町村農事委員(各町 村1名)会を各4回開会し, 4月及12月の2回は多く連合して開会し諸般の改良事蹟を協議し町村 農事委員は町村内の部長及び農事督励委員を集め協議会を開き督励勧誘の普及を計り且つ町村農会 部会は春秋2期開会し講話及協議をなし・・・」と記し,その活発な農会活動を伝えている。 こうして,先進地の郡農会事業が紹介され,それに刺激されて各地で町村農会技術員が設置され ていく。 榛原郡農会が技術員設置の町村農会に対し,その予算の範囲内で一定の補助金を交付しはじめた のは,明治39年度からであった。 庵原郡農会でも,同年度より「郡内町村農事改良」を図る為,各町村に町村農事委員を配置し た。こうして,各郡農会の勧奨により,明治38年以降町村農会に技術員が設置されている。しか し,このことは,郡農会の町村農会に対する一定の補助を当初から前提としているのである。それ ゆえ町村農会技術員は,自己の所属農会長の監督下におかれる一方,郡農事監督の指揮を受け,農 事改良指導その他農会事務を担当するという二重の関係に立ったのである。そして,県農会が明治 36年に郡農事監督服務規程を設け,更に同42年には,その任免権を県農会が持ちかつ身分を県農会 技手としたことにより,技術員の上下指導・被指導の関係が明確化された。換言すれば県農会一郡 農会一町村農会の系統的指導体制が築かれていったのである. 明治40年1月榛原郡町村農会長協議会は,同年度の事業方針を「町村農会の戦後経営」として位 置づけ,町村農会の振興と生産力の増進のために積極的方針を採ることを決議した。そしてその中 で,町村農事監督が中心となって会務や事業を企画立案し,かつ会員を指導奨励して農事の改良を 計るべきこと,講話会を頻繁に開催し,啓蒙活動や農民の実際上の利益を計ることなど,前年度新 設されたばかりの技術員に大きな期待をかけている。 同年4月の県農会主催郡農事監督協議会では,町村農事監督について,農会の活動上極めて必要 なるが故に, 「其の経費の許す限り」町村農会を指導するとの方針を決めた。又その際町村農事監 督は成るべく次のような能力を備えた者とすると,一定の基準を協定している。すなわち, 1.農 事統計の調査に従事したる技価を有すこと, 2.主要製作物の病虫害駆除予防の実際的技両を有す ること, 3.米麦撰種を担任し得ること, 4.牛馬耕指導の任を執り得ること, 5.各種品評会の 審査に従事し得ることの五点である。明治35年12月の農商務省令第26号によって「農会二於テ農事 二開スル事項調査ノ件」が農会に義務付けられて以来,農会の調査統計事務はますます重要性を帯
250 鹿児島大学教育学部研究紀要 教育科学編 第40巻(1988) び,それに対応できる技術員が要求されていく。そして,技術員そのものが,再教育を受ける必要 が生じる。榛原郡農会が翌41年3月町村農事監督を対象として講習会を1週間開催し, 「農政学及 び監督に必要なる農業科」の講習を施したのはそのためであった。 明治42年4月の郡農事監督協議会でも,第6議案として町村農事監督設置に関する件が協議され た。前述の通り,この年度より県農会郡駐在技手制度が発足したのであるが,町村農会技術員設置 促進の決議後,県農会副会長は特に発言し,県農会が郡農事監督の駐在制を実施する以上,町村農 会にも農事監督が必要であると述べでいる。 こうした指導・勧奨を受けて,明治41 2年度には次々と郡単位で町村農会技術員が設置されて いる。すなわち,両年度に駿東・浜名・安倍・田方・志太の5郡に郡農会の補助を前提に町村農事 監督(及至町村農事委員,町村農事奨励委員)が設置されたのである。 しかし,この段階,郡内すべての町村に技術員がおかれたのではない。例えば,明治42年度志太 郡内の技術員設置農会は藤枝町はじめ21ケ町村であって, 7ケ町村が未設置であった。 こうした未設置空白町村農会が存在する中で,明治44年10月帝国農会は,道府県農会役員会を開 き,技術員は「町村農会を活動せしむる」ためにも必要不可欠であるとしている。 (2)農会活動の多様化と町村農会技術員設置の確立過程 静岡県展会郡農事監督協議会は,町村農会技術員設置促進を大正2年11月に決議している。当時 静岡県農会主任技師であった梶正雄は, 『静岡県農会報』第197号(大正3年2月刊)に「町村農会 には必ず専任技術員無かるべからず」という論説を発表した。そして,その中で,島根,福岡,栃 ● ● 木の先進諸県の例をあげて,専任技術員の設置は「急務」であると主張した。 静岡県では,系統農会の指導の下に,県,那,町村の各級地主会が大正初期に結成されていっ た。大正2年4月静岡県地主会(前年11月結成)は第2回大会を開き,産米県営検査,米券倉庫の 設置などの請願を採択したのであるが,その大会決議中「農業的生産増加に緊要適切なる方法如 何」に対し「町村に技術員を常設し,其町村内の農事の指導監督を任せしむること」と注目される 決議をしている。又,同年11月の榛原郡第1回地主会は, 「小作保護奨励方法如何」の中で「各級 農会に専任農事監督を設け専らこれが活動を計ること」と決議している。地主層は産米改良,米穀 県営検査などの地主的商人的要求を農会に求め,技術員がそのために不可欠と認識したのである。 又この頃から,町村農会技術員がともすれば「専ら事務に従事せし」められ,技術員本来の業務 ● ● につけないという状態の改善(これは農会事務員の設置が前提となるが)が叫ばれ,専任技術員が 要求されている。 大正3年1月現在の静岡県下町村農会技術員は,表(3-1)の通り177名にのぼっていたがそ のうち専任技術員は僅か12名であり, 6.8%を占めるにすぎなかった。設置率100%以上の引佐,周 智,富士,磐田,駿東でも専任技術員は皆無という状況であった。又,設置率の低さの原因の一つ は,やはり町村農会の財政の貧困にある。それは,その事業費の平均が141円53銭しかなかったこ
表( 3 - 1 大正3年静岡県町村農会平均経費並技術員数 郡 名 町 村 農 会 数 平 均 事 業 費 専 任 技 術 員 嘱 託 技 術 員 設 置 ■率 榛 原 1 6 32 6 円 8人 8 人 1 00 .0 % ■引 佐 ll 23 5 - ll 100 . 0 安 倍 2 2 18 0 - 5 2 3 1. 8 富 士 19 16 0 - 20 1 0 5. 2 周 智 14 15 0 - 14 100 . 0 庵 原 15 13 8 1 r7 5 3. 3 志 太 28 1 30 ト 22 7 8. 6 小 笠 39 1 15 - 7 1 7. 9 磐 田 36 1 15 ー 39 108 . 3 田 方 28 8 4 - 7 2 5. 0 駿 東 21 8 1 - 26 12 3. 8 浜 名 33 81 - 2 8 ●7 賀 茂 23 45 - - 0●0 計 3 05 141 .5 3 12 1 65 5 8. 0 r静岡県農会報』第197号(大正3年2月刊)目次裏の表より加工 とから明瞭である。この場合,駿東郡農会管内の設置率は123.8% (農会数21に対し26の技術員) に連するものであった。しかし,その実態は同郡農会の大正4年度事業方針協議の際「本年度町村 農事監督設置を奨励せんとし,事業費の大部分を支出する故に堆肥競進会其他事業を見合するに至 りたり」と報告されているとおりである。当時如何に町村農会技術員の設置が過重な負担となって いたかが理解されよう。 大正4年3月,静岡県農会が開催した第1回町村農会事業展覧会も,町村農会技術員設置の機運 を高めたものと思われる。この展覧会は, 5日間の日程で開催されたが,各町村農会からその事業 成績(主としてその報告)を提出させ,選抜して優良なものを表彰するというものである。参考出 品を含めて全部で477点が出品され,選抜の結果模範的とされた15町村農会が表彰されたが,その 殆んどが技術員設置農会であった。こうして,町村農会の活動が技術員なくしてありえない,との 認識が農会関係者に高まった。 この直後同年4月3日には,県農会主催第2回農政研究会が開かれたが,同会は県農会提出の諮 問「県下町村農会二悉ク専任技術員ヲ設置スル捷径如何」に対し, 「ィ,専任技術員ヲ設置スル町 村農会二対シ郡農会ハ其費用ノ幾分ヲ補助シ漸次之ヲ増加セシムルニ努ムル事,ロ,各郡共或町村 二模範的二技術員ヲ設置セシメ其効果ヲ各町村二知ラシムル事」と決議している。技術員設置過程 で,大正3, 4年はその意味で転機となったとみられる。 その当時町村農会技術員に何が期待され,どのような事業が負わされていたであろうか。大正4 年5月の磐田郡町村農会長町村農事監督合同会議は,次のような指導方針を決定している。 「町村 農事監督事業概要-- 1.町村毎に米麦作改良に対する根本的方針を定め之れが実行を期するこ と, 2.其町村に適当せる米,麦作,産業,特用作物等の栽培設計書を作成し青年会員篤農家等に 実行せしめ一般当業者の模範たらしむること, 3.採種田の設置其の他良種苗の普及に努むるこ と, 4.肥料の経済及配合施用法に対する指導をなすこと, 5.時々町村内を巡回し各般の農事指
252 鹿児島大学教育学部研究紀要 教育科学編 第40巻1988 導に任ずること, 6.各字に農会,部を設置し時々集会を催し之れに出席すること, 7.農業掲示 板を利用し時々卑近適切なる農事上の事項を記載し当業者の観覧に供すること, 8.病虫害防除の 指導を為し又は青年会等と協力し之れが実行を為すこと, 9.農事統計等の調査を為すこと10. 品評会等の審査に従事すること11.其の他一般農事改良民風改善に対する事業に従事するこ と」。又大正5年の周智郡町村農業技手服務規程(準則)の中にも, 「(1)常に受持区域内を巡回し農 事の指導督励及農家風紀の改善に努むること」とあり,従来に較べ,その事業も単に農事改良,技 術普及事業に止まらず,個々の農家経営の合理化,農村生活の改善にも目配りがされ,更に町村農 会の活動を活発にするために部落農会,字農会等の小集団を軸としてきめの細かい指導が要求され ていたのである。そして,そのためには,青年会や町村内の,熱心な農業振興者,篤農家を協力者 として組織的に動員しなければならなかった。 梶正雄技師は,前述の論説の中で専任技術員設置の必要性についてふれ,その理想像として「所 謂野良番頭として作物栽培,土地利用に関して村内の農業を巡視注意せしめ農家の顧問として農業 の経営を指導せしめ亦農会事務に関する統計調査,補習学校の教務等凡百ゆる農事上の斡旋指導調 査を行はしむるを要す,専任技術員とはかかる人を指したるものなれども-」と記しているが,こ のような人物を得ることは当時仲々難しかった。しかし,農会事業が以上のように拡大され,その 質も変化してくると,次第に技術員の資質が問われてくる。 すでに,大正4年5月に大日本農会主催の全国農業技術者協議会が開かれた際,同会は農商務省 の諮問に対し, 「技術員の資格は甲種農業学校卒業以上又は相当の学識経験を有し道府県上級農会 に於て適当と認めたる者なること」と答申している。当時,一般的に町村農会技術員の資格とし て,農学校卒業程度が要求されていた。例えば,大正6年2月の志太郡町村農会長会の協定事項や 大正4年度安倍郡町村農事指導員採用基準などにそれをみることができる。 こうして,町村農会の技術員として農学校卒業生に期待がかけられ,それが現実のものとなって いく背景には,地方農学校の発展がある。明治29年静岡県最初の農学校として中速簡易農学校(中 泉農学校,県立農学校と呼ばれる)が開設されたのであるが,同31年の第1回卒業生は僅か9名で あった。それが,その後新たに郡立,私立の農学校の開設を促し,大正元年には学校数10となり, その間の卒業生は合計1,980名にのぼった,(8)表3-2 表 3 - 2 大正元年7月現在静岡県農業学校卒業生数 学 校 名 御 殿 場 駿 東 田 方 富 士 志 太 県 立 周 智 浜 名 引 佐 佐野農業 計 農 学 校 農林学校 農林学佼 農林学校 農 学 校 農 学 校 農林学校 蚕業学嘩 農業学校 補習学校 卒業生数 188 162 163 127 134 616 117 126 158 189 1,980 「静岡県農会報」第183号(大正元年11月刊) 29頁による しかし,農学校卒業生がそのまま町村農会技術員として活躍できる程農村現場は容易ではなかっ た。高橋昌,梶正雄が求めるような存在として,卒業生が期待できる筈がない。こうして,町村農 会技術員養成の必要性が生じてくる。
大正8年2月1日から,静岡県農会は,町村農会技術員養成講習会を開いた。会期は2ケ月間で 2月1日から28日迄は県立農事試験場で学科講習, 3月1日から7日迄は県農会で学科補習が行わ れた。そして残りの約3週間(同3月10日より30日迄)は,県農会又は郡農会あるいは町村農会に 配属され,農会実務の講習を受けた。講習は1日5時間以上なされた。講習生の資格は,甲乙種農 学校卒業者又は中等学校卒業者で農業の素養のあるもの,及びそれと同等以上の学力あるものとさ れ,県下一円に募集されたが,その希望者は,志太郡在住者が多かった。結局選考の結果13名が入 会し,全課程を修了した者は12名であった。修了者の内訳は,県立農学校(中泉)卒業2名,志太 農学校6名,駿東農林,周智農林,韮山中(4年修業),掛川中卒業各1名であった。講習科目 は,農事試験場の事業果樹の肥料,米麦品種改良,蜜蜂,害虫総論,病虫害に対する注意,病虫害 駆除予防用薬剤の調製,耕地整理,畜産改良,林業,蚕業,農業金融,農政大意,町村農会,統計 調査,農会法,農産物価格,病害総論,稲の病害,病理実習であった。そしてこれらの科目は,狩 野県立農事試験場長以下技術員10名,県の技師4名,梶,横山芳介,原横祐などの有能な県展会技 師によって担当された。ただし農業金融だけは浮田静岡農工銀行員が担当した。講習生には一定の 手当が支給された。そして,この講習修了者は全員直ちに各町村農会に採用された。 この講習後志太郡農会は,大正8年度29名の町村農会技術員を任用し,それをすべての町村農会 に配属した( 1名は予備として郡農会が保留)。すなわち,町村農会駐在技術員制度を発足させた のである。尚29名の町村農会技術員の中に講習生5名が含まれている。 磐田郡農会も,同年度より町村農会駐在技術員制度を採用した。 静岡県農会による技術員養成講習会は,翌9年5月に第2回,第3回と続けて開催され,合計23 名が修了している。 農事試験場も技術員養成機関としての役割を果たした。第二章で述べた通り,静岡県立農事試験 場は,明治33年4月に開設されたのであるが,創設当初から「農事二関スル学芸及実務二概通セル 実業者ヲ養成スル」目的で,見習生を置いてきた。見習生は, 1ケ年間,試験場内で種芸,園芸, 蚕業,分析,病虫の業務を実習した。その後,明治45年には,農事練習生規則を制定し,甲種,乙 種農学校卒業生を対象に農業技術に精通する実業者養成の目的をもって, 1ケ年間の教育を施し た。その修業者数は大正元年以降同9年迄に150名を数えた。(尚明治期は不明である(9)この段階 試験場見習生,あるいは練習生制度の性格は実務者養成なのか指導者(技術員)養成なのか未だ はっきりしていない。おそらく,その両者の性格をもっていたものと考えられる。 試験場が町村農会技術員養成をはじめて目的に明確化したのは,静岡県の場合,大正9年であっ た。同年の練習生の募集要項をみると,その資格は1.甲種又は乙種農学校を卒業したるもの又は 是と同等以上の学力を有するもの, 2.年令18歳以上の男子にして修業後農事(又は茶事)に従事 するもの, 3.身体強健にして品行方正なるもの, 4.刑罰に触れたることのなきものであって, 入場するに際し,仮入場試験と本入場試験を実施し合格者のみ入場できるとしている。又,修了後 は修了試験が行われ,合格者のみに修了者として認定するなど,かなり厳しいものであった。
254 鹿児島大学教育学部研究紀要 教育科学編 第40巻(1988) 表(3-3)大正11年6月調査 静岡県下町村農会技術員の学歴構成 出 身 校 等 人 数 % 備 考 中 泉 農 学 校 ※ 1 4 2 20 . 5 ※1 県 立 農 学 校 卒 業 生 を含 む 志 太 農 学 校 ※2 6 2●9 ※2 藤 技 農 学 校 卒 業 生 を含 む ※3 富士都立農学校卒業生 を含む 5 9 .9 % 田 方 農 林 6 云●9 浜 名 蚕 業 学 校 4 2●0 御 殿 場 農 学 校 3 1●5 駿 東 郡 農 林 学 校 2 1●0 佐 野 実 業 1 0 ●5 大 宮 農 学 校 ※3 12 5●8 周 智 農 林 ● 1 0●5 甲種 農 学 校 と記 載 され て い る者 27 1 3. 1 乙 種 農 学 校 と記 載 され て い る者 7 3●4 単 に農 学 校 卒 業 と記 載 さ れ て い る者 7 3●4 東 京 府 立 園 芸 学 校 1 0 ●5 熊 本 県 立 農 学 校 1 0●5 神 奈 川 県 立 農 学 校 2 1●0 長 野 県 蚕 業 学 校 1 0 ●5 以 上 農 学 校 等 出 身 者 合 計 a 1 23 60 . 0 東 京 農 業 大 学 高 等 科 卒 業 1 0 ●5 東 京 農 業 大 学 本 科 卒 業 1 0 ●5 中学 校 卒 業 ■1 0 ●5 農 事 講 習 会 修 了 1 0 ●5 ※4 練 習 生 を含 む 高 等 農 事 講 習 会 修 了 23 l l. 2 静 岡 県 農 会 特 別 講 習 会 修 了 2 1●0 静 岡 県 展 会 技 術 員 養 成 講 習 会 修 了 2 1●0 県 立 農 事 試 験 場 講 習 生 修 了 ※4 3 1●5 ■学 歴 につ い て記 載 さ れ て い な い者 4 8 23 .4 え 謂 盟 主 . m i .1 4 ) る者 2 合 計 20 5 1 00 .0 表 3-4 と同一資料による。 表 3-4)大正11年6月調査 静岡県下町村農会技術員の年齢別構成 年 齢 層 別 人 数 % 備 考 17歳 ∼ 1 9歳 1 3 6 ●3 ※生 年 月 日が 記 載 さ れ て い な い者 2 0歳 ∼ 24 歳 4 8 2 3 .4 2 5歳 ∼ 2 9歳 5 2 2 5 .4 3 0歳 ∼ 34 歳 4 0 1 9 .5 3 5歳 ∼ 3 9歳 14 6●8 40 歳 ∼ 44 歳 8 3●9 4 5歳 ∼ 49 歳 8 3●9 5 0歳 ∼ 54 歳 8 3●9 5 5歳 ん 59 歳 4 2●0 60 歳 ∼ 64 歳 2 1. 0 65 歳 ∼ 69 歳 1 0 ●5 以 上 計 1 98 96 . 6 年 齢 不 詳 7 3 ●4 合 計 2 05 100 .0 F静岡県農会報J第298号(大正11年8月刊) 42-52頁による.
これは昭和2年に静岡県立農業技術員講習所となり,更に同13年には静岡県立農会技術員養成所 と名称と性格を変化させ,その間多数の町村農会技術員を養成しているdo)。 尚大正9年以降昭和元年までの農事練習生の修了者は139名であった。 大正9年10月の静岡県農会調査によれば,県下町村農会技術員数は196名であり 328町村農会に 対する割合は未だ59.8%であった。 (表3-5参照) 更に大正11年には205名となり,初めて200名を越えた。そして,この段階の農学校出身者が約60 %を占め,そのうち県立農学校(中泉)出身者がその3分の1以上を占めていたものと思われる。 (表3-4 同年の町村農会技術員の年齢別構成をみると,最年少の17才の者を含め35才未満の者が全体の4 分の3を占めた。こうして,農学校出の若々しい活動的な町村農会技術員の姿をみることができた のである。 (表3-4) 尚同11年度の県下町村農会の予算をみると,経費総額は1ケ町村平均で1,199円余り,うち事業 賛同648円余り(総額の約56%:となっている.明治末よりも財政規模は増大してきている。 しかし,町村農会技術員の待遇についてみると, 30円未満の低給与者が36.8%も居り,同年の尋 常小学校男子本科正教員の平均月俸66円73銭余と比べ(ll)総じて技術員の待遇は極端に悪かったと 言わなければならない。 (表3-5 表( 3 - 5 大正9年10月現在静岡県下町村農会技術員の待遇 町 村 7 0 円 6 5 円 6 0 円 5 5 円 5 0 円 4 5 円 4 0 円 3 5 円 3 0 円 2 5 円 2 0 円 1 5 円 l o 門 lo 門 技 術 員 技 術 員 農 会 数 以 上 以 上 以 上 以 上 以 上 以 上 以 上 以 上 以 上 以 上 以 上 以 上 以 上 未 満 未 設 置 計 3 2 8 4 3 3 8 1 3 l l 3 5 2 0 2 7 1 2 2 7 8 1 0 1 5 1 1 9 6 百 分 比 2 ●0 1 ●5 1 ●5 4 ●1 6 ●6 5 ●6 1 7 . 9 1 0 . 2 1 3 . 8 6 ●1 1 3 . 8 4 ●1 5 ●1 7 ●7 - 1 0 0 . 0 『静岡県農会報』第276号(大正9年10月刊) 34頁による。 註.この中には郡内を数区に分け各区を受持つべく郡農会に技術員が居る場合の人数も含まれる。 こうして,技術員の待遇改善が問題となった。そして,帝国農会を中心とする継続的な運動の結 果,大正15年度から「下級農会技術員施設奨励金」として,国庫補助が実現した(12) 又待遇問題の一つとして退職給与金制度があるが,静岡県農会では,すでに帝国農会の「農会職 員退職死亡給与金規程(大正12年実施)」よりずっと前,大正5年度より退職給与金制度を発足さ せており,その後も帝国農会の制度の方には加わらなかった。 こうしたことは,町村農会技術員の設置を含めて県下の農会に対し,当初から県が多額の補助を してきたことと無関係ではない。県,那,町村の各級農会が,それぞれの行政機関と一体化して, 官民総がかりで農政を推進させた姿の反映と考えられる。 静岡県農会は,昭和8年1月,町村農会技術員駐在規程を設け,同年度より313名の町村農会技 術員を県農会の地方技手として採用し,それぞれを町村農会に駐在させる制度を発足させた。この 制度は,町村農会の財政が劣弱な中でそれを圧迫することなく,多額の補助金を前提に安定的に技 術員を確保できるという利点をもつ一方,そのことによりより一層系統的指導が容易になるという 利点をもった。他方,町村農会技術員自身もこれ以降県農会技術員になることを喜んだのである。
256 鹿児島大学教育学部研究紀要 教育科学編 第40巻(1988 第二節 農会の短期農事講習会の役割 農会が行った事業の中で,教育的事業とよばれるものには,農談会,農事講話,伝習会(伝習 所),農事講習会など様々なものがあった。そのうち,特に農会による短期農事講習会が注目され る(13)。農事講習は,農民を直接対象として行われた。この頃各地で頻繁に講習会が開かれたことに より,農民教育上その効果が著しかった。 大正元年の全国農事統計によれば, 「農業に関する教育を受けたる者」は,全体で100万人を数え ているが,そのうち農学校卒業者21万人,その比率21.7%に対し, 「農事講習所又ハ之二準ズベキ モノ」を修了した者は75万人 75%に連していた。 又,大正7年の同統計の静岡県の状況をみると, 「農事講習所又は之に準ずべきものを卒業した る者」は合計25,659人であったが, 「農事講習会又は之に準ずべきものに於て講習を受けたるも の」は 39,672人であり 56.8%に連している。 静岡県においては,短期農事講習会は更に重要な役割を持った。それは,講習の修了者が農会に よって組織され,各級農会の中核となり,その事業を推進していったからである。又,受講者個人 の果たした役割も重要である。彼らは,部落農会,実行組合のリーダー的存在となったばかりでな く,農村の他の諸団体,例えば青年会,産業組合,茶業組合(茶業青年会)などの自覚的部分と なった。農会による短期農事講習会の役割は,このようなリーダーを養成したことにある。 静岡県農会が主催した最初の短期農事講習会は,明治30年8月の精農者講習会であった。これ は,静岡県農事巡回教師伊藤悌蔵を講師として30日間開催されたものであって,このことについて は,既に第二章で記した通りである。 静岡県農会は,講習会の効果を重視し,農事講習会規程を設けると共に,翌31年8月に,同会主 催による第1回農事講習会を静岡で開催した。会期は30日間でやはり伊藤悌蔵が講師をつとめた。 講習生は48名であったが,全課程を修了した者は40名であった。同講習会は,ひきつづき会場を変 え各地で開催された。第2回農事講習会は同年9月掛川町で開催され,順次沼津,藤枝,田方郡田 京,浜松,富士郡加島,榛原郡役所,磐田郡役所,賀茂郡稲生沢村,引佐郡気賀町,周智郡森町, 庵原郡江尻町で開催され,同35年2月迄に修業者総数は1,088名を数えた。尚,同講習会規程で は,講習生資格を, 1.年令17歳以上の男子で, 2.平素自ら農業に従事するもので, 3.かつ簡 易なる文章を筆記し得るものとし,学歴などを特に問わなかった。 しかし,同県農会は明治36年農事講習会規程を改正し,農事講習会を普通講習会と高等講習会, 特別講習会の三種に区分して開催することにした。まず普通講習の対象と目的は,年令17歳以上の 男子を対象に「農政の大意と其の応用法を授くる」ものとし,郡農会が各町村を会場として開催す ると決めた。そして,その期間は1週間以内,毎日3時間以上の講習を行い,科目は「普通作物種 芸及び病虫害防除法要旨,土壌及び肥料論大意,農家経済心得」とし,その地方の状況に応じ科目 を選定することとした。
そして,従来30日間の会期で開催してきた農事講習会を県農会主催の高等農事講習会とし,更に 受講生の資格を,普通講習修了者及びこれと同等以上の智識経験を有し, 「自ら農業に従事し又は 農事の啓発誘導に従事せんとする者」とした。又,その講習程度を普通講習より「梢高尚なる農理 を授くるもの」とした。高等農事講習は, 1期30日間の会期で開催し1日5時間以上と決められ た。そして,年度内県内各地で数回開催されることになっていた。講習科目は「種芸論,農作物生 理及び病理論,土壌論,肥料論及び農業経済論」であった。又,必要により他の科目(正科に対す る科外)を課すこともできるとした。 特別講習会については,県農会が, 「農事に関する特殊の智識又は技芸」を授けるために開催 し,その資格,科目などについては随時これを決めるものとした。 これらの農事講習生に対しては,一定の条件を満たせば修了証書が授与された。又,講習生から は授業料を徴収しないことになっていた。 普通農事講習会は,県下各町村を会場として郡農会が頻繁に開催したほか,郡農会技術員の力を 借り町村農会でも独自に開くなど盛んに実施された。例えば,安倍郡有度村農会では,明治42年か ら大正2年の5年間毎年普通農事講習会をきまって開催し,修了者は652名に達している。大正元 年度静岡県下の普通農事講習会の開催地は70か所,その修了者は4,135人であり,その他会期3 -4日のものを合わせると実に4,754名に連した。 このように著しい数の普通講習修了者を毎年輩出していった。静岡県内の普通農事講習の修了者 は,大正元年4月には遂に25,975名に達し,大正4年末には更に35,005人と3万人台を突破した。 ここで,当時の普通農事講習の内容について一例をあげておこう。浜名郡芳川村では明治43年2 月20日より26日迄普通農事講習会が開催されたが,講習科目は土壌,肥料及び疏菜であり,県農会 技師丸山万作と同郡農事監督上村源一郎がそれらを担当した。そして講習生71名中6日以上の出席 者に修了証書が与えられた。会場は同村尋常高等小学校が使用された。この当時,農会の行う農事 講習会は各町村立尋常小学校を会場とする例が多かった。 一方,静岡県展会が開催する高等農事講習も着実に進められていった。明治36年の農事講習会規 程によって従来開催されてきた18回もの県農会主催の講習会を継承し,同年7月20日より富士郡大 宮町で第19回高等講習会が開催された。この時の修了者は36名であった。 明治37年2月2日より開催された第22回高等農事講習会の講習科目は,肥料論,土壌論,植物生 理学,植物病理学,作物栽培論,害虫論,経済論であって,県農会顧問技師高橋昌のほか,細田県 立農学校長,狩野県農事試験場長ほか2名の技術員によって担当された。会場は榛原郡川崎町にお かれ49名の修了者を出した。 高等農事講習の修了者も次第に増加していった。明治44年度末迄に39回もの高等講習会が開催さ れ,その修了者は3,008人に連した。更に大正6年10月にはそれが50回,修了者総数は遂に4,079人 にのぼった。 高等農事講習がどのような性格をもっていたかについて,次の報告は非常に興味深い。
258 鹿児島大学教育学部研究紀要 教育科学編 第40巻(1988) 「本講習の修了生は皆真面目に農業の経営に従事し加ふるに本講習の出席者は中産資産家の子弟 なるを以て,農業経営に従事するの傍ら村役場,農会等の名誉職として働き勧業に力を注ぐを以て 農村にとって其効果少なからず・-・・又,町村農会に技術員を設置する場合に本講習修了者を採用す るに却って学校出身者に勝るものあり」。これは,静岡県農会が大正4年4月末日付の帝国農会の 調査に応じてなされた報告である。高等講習会の受講者が農村の富裕者の子弟であること,又この 講習修了者のうちから少なからず町村農会技術員が任用されたことなどを伝えている。 静岡県農会は,こうして農会の講習会で養成された農民の一群に注目しはじめる。 明治39年頃から各地に農事講習修了生が組織され,各級農会に対応し,農事研究会がつくられて いった。静岡県農事研究会は明治39年に結成され,その第1回の大会(研究大会)を開催した。農 事研究会は,単に農事に関する研究交流をはかるという目的だけでつくられたのではない。農会は これを農村の中核として位置づけ,様々な農会事業の推進に利用し,農会の諮問に対して答申を期 待したのである。その意味で,各級農事研究会は,それに応ずる県展会,那(市)農会,町村農会 の諮問機関であったし,又農会の別動隊でもあった。事実,第1回静岡県農事研究大会は,農政問 題を討議し,地主会を結成させることなどを決議している。そしてこれらの提言を採決の結果,農 会はそれを施策として具体化しているのである(14)。 静岡県農会の明治43年度第一次優良町村農会として表彰された榛原郡勝間田村報告には,次のよ うに記されている。 「講習修了者及び農学校卒業者等は悉く本村農事研究会貞とし村農会事業の-として毎年数回研究会を開催し農事上主要問題の研究と新智識を習得するとの便に供せり」。又, 静岡県農会の明治44年度事業施行方法(事業方針書)は,農事研究会の開催について, 「県下に於 ける県郡市農会の開設する農事講習会は年々盛況を呈し従て其の修了生の如きも己に二万以上の多 きに連す故に此等修了生を利用して農事改良上の機関たらしむるは有望にして効果を挙ぐるの捷径 たるのみならず講習会の目的亦大に麦に在るを以て」,県農事研究大会以下の開催予定を示している。 ところで,農事講習会の講習科目についてみると,明治末から大正期にかけて新たな変化が認め られる。明治43年8月志太郡青島町で開催された第36回高等農事講習会では,従来からの科目のほ か,耕地整理と養鶏法が加わっている。又,大正2年2月の掛川町の第41回講習会では,科外とし て茶,畜産,米穀論,園芸が加わって,農村と農業の変貌を反映した科目構成となっている。普通 講習会の科目にもそれがみられる。例えば,大正5年8月の西豆村での講習科目は,無論地域的環 境もあるとも思われるが,普通農事の肥料のはか,桑栽培,造林法など農家副業との関係を窺わさ せる内容となっている。こうしたことは,特別農事講習会が多彩な内容で増加してくることと関係 が深い。例えば,明治44年9月開催の周智郡農会主催園芸講習会には,果樹疏菜の品種,栽培,輿 定,肥料,病虫害等の講習科目が設定され,梶正雄県農会技師がそれを担当したほか,遠州地方特 産の生妻,糸瓜の栽培及び製造法を織田利三郎四品同業組合長に担当させ講習を行っているのであ る。この会は頗る盛況で聴講者は93名に及んだという。又,大正3年10月には小笠郡農会が農事統 計講習会を開催している。更に大正5年11月には,浜名郡農会主催で疏菜促成栽培講習会が開催さ
れ,疏菜の促成栽培及び軟化栽培の実習がおこなわれた。この時の講師は農商務省農事試験場喜田 茂一郎であった。そして62名もの修了者を出している。これは当時の遠州地方,特に浜名郡の疏菜 園芸業の隆盛な展開と,おそらく繋っているものと考えられる。 静岡県展会も,すでに大正元年9月18日より10月1日迄の2週間を会期として,第1回園芸講習 会を開催している。会場は県立農学校(中泉)であった。そして講習科目は,果樹栽培,読菜栽 培,園芸加工,園芸経営,土壌肥料,病虫害を正科とし,このほか科外として農業道徳,化学実験 が加えられた。修了生は96名の多数を数えた。 静岡県下の農会による女子農事講習会の開催は,明治40年前後に始まったものと思われる(15) 『静岡県農会報』記載の資料によれば,すでに明治40年8月には榛原郡五和村でそれが開催された とあるが詳細は明らかでない。しかし,明治41年7月の同郡御前崎村の女子農事講習会について は,次のような記述がある。 「本月5日より7日迄3日間開催す講師本会高橋技師にして婦女子に 必要なる農芸の事項を講演せり同村は海岸村なるにも拘はらず会員70余名の多きに達し毎日熱心に 聴講せりと云ふ」。前記勝間田村農会でも,明治42年度に女子蚕業講習会を開催している。明治42 年5月の磐田郡町村農会長農事監督協議会でも,婦人講習会を開期3日で1日3時間の予定で開催 すると決めており,この頃になると郡・町村農会では,女子農事講習会を開設しようとしている。 大正4年1月には,引佐郡内町村農会の技術員の研究施設である同郡町村農会巡回研究会が開か れており,女子農事講習会開催に関する件が話し合われた。そして,その中で,同年2月中に気賀 町で開設すること,講習時間は午前9時から午後3時迄とすることを決定し,その講習料目につい ては「ィ.平易なる疏菜栽培,ロ.農業扇鮎,ハ.簡易なる農家料理法」と決めている. 又,大正5年10月5日から7日迄,小笠郡朝比奈村で女子農事講習会が開かれた。この時の講習 生は41名であったが,県農会技師丸山方作は次のような内容の講習をおこなっている。すなわち, 「ィ.農家と衛生,ロ.種子を撰むこと,ハ.苗は田植のこと,二.農業及び人に対する微生物の 関係,ホ.作物の成長と人の栄養,へ.農家の経済,」であった。農村婦人に農家経済観念を持た そうと努めている姿が想像される。これも時代を反映したものであると考えられる。 静岡県農会が第1回女子農事講習会を開催したのは,大正8年9月のことであった。この講習会 は6日間の日程で榛原郡川崎町で開かれた。開会第1日目にはあいにく前日来の暴風雨に見舞わ れ,開催が危ぶまれたが,定刻真際になり「大暴風雨を物ともせず,三々五々会場に来集し定刻に は出席者120名余に達し-殊に遠近の別なく多くは桐油を以て身を固め半は傘を萎め足駄を手にし 素足にて駆けつけ来る建さは農村婦女子の如何に活動力に富めるかの部分を現はせるものにして」 と筆者が感激する状況で開催された。講習科目は,農家経済,土壌,肥料,米麦作,病虫害,疏莱 栽培であり,梶,横山,原,県農会技師それに原田同郡農事監督が担当した。尚,丸尾県立農事試 験場技師が茶を講習科目として担当した。この講習会の修了者は149名であった。その内訳は, 「年令は18, 9歳より21, 2歳の者多数を占め27, 8歳より30歳の者11-12名, 35歳以上の者2-3名」であった。
260 鹿児島大学教育学部研究紀要 教育科学編 第40巻(1988) 静岡県農会主催の女子農事講習会は,その後も継続的に,会場を変えて開催されている。 大正9年度静岡県下各郡,町村農会開催の女子農事講習会は29ヶ所,その修了者は実に2,229名 にのぼった。こうしてこの頃,女子農事講習会は,短期農事講習のうちで重要な位置を占めるに 至ったのである。 m (1)帝国農会地方部「郡市町村農会技術員に関する調査」 (『帝国農会報』第16巻14号,大正15年11月所 収)による。但し市農会技術員数を含む。 (2)大正2年5月静岡県展会は,その会誌第188号で論説「各町村農会では速かに農事掲示板を作れ」を 掲載し各町村農会を督励した。この督励を受け各郡農会は各町村農会に対しその具体的設置方法・利 用法を細々と指示し急速に設置をはかった。例えば,大正3年5月には志太郡農会は,町村農事監督 協議会を開き, 1.未設置町村は本年度内に必ず設置すること, 2.掲示事項変更の都度チョークの 色を変えて記載すること, 3.記載事項は可成簡単にして要領のみを大書し一見明瞭なるよう記載す ることなどを決めさせている。このような指導の結果,静岡県下の町村農事掲示凝設置町村は同年5 月155町村,その設置掲示板数は911にのぼった。 (『静岡県展会報』第201号大正3年6月, 5頁, 15 頁以降。以下特に断りがない場合,同誌各号掲載の資料の引用又はそれに典拠したものである。) (3)事実この段階,農会による害虫駆除予防は「多数農民中の愚昧の輩」に対しその蒙を啓くという側面 をもった。例えば,明治33年秋の富士郡南部では「農会員が命令を聞かず所々の法印に御祈帝を頼み 其の腐り水を貰ふて田中に注入又は虫除の札を田の中に立つるなど本気の沙汰と思はれぬ所業をす る」のであった。こういう段階やはりこの事業を先導するのは,村の鈴木政吉のような農業熱心家で あった。 (4)高梨善一氏も,町村農会技術員設置過程で明治36年農商務大臣諭連が重要な契機となったと認めてい る。 (同編纂会『帝国農会史稿』記述編第3章第6節昭和47年刊所収。尚第2章脚注で文献名を『系 統農会史稿』としたのは誤りであって訂正しておきたい。) (5)全国農事会『中央農事報』第55号明治37年10月10頁。 (6)事実,明治37年度より京都府天田郡では町村農会技術員を設置するに至ったのであるが,農学校卒業 生は皆無でありその殆どが講習会修了生であった。その理由の一つは,やはり彼らの報酬額が最高で 月9円,最低で2円,就中4-5円の者多数を占めるという低さにあったものと思われる。 (前掲 『中央農事報』第67号明治38年10月13頁) (7)前掲『中央農事報』第60号明治38年3月18頁。 (8)大正期の農学校による中等農業教育の発展については,静岡県立教育研修所編『静岡県教育史』通史 篇下巻昭和48年108頁以下を参照されたい。 (9)同場『静岡県農事試験場一覧』明治40年1-2頁。 33頁以下。尚同場『静岡県立農事試験場史』昭 和27年139頁以下。 10 第二次世界大戦後,これは昭和24年に静岡県立農業講習所として再出発し, ′多くの改良普及員を養成 してきたが,こんにち静岡県立農業短期大学校として再編成されている。同書139頁以下。 帥 東洋経済新報社『明治大正国勢総覧』昭和2年 680頁。 12 前掲『帝国農会史稿』記述編760頁以下。 (13)愛媛県では「短期講習会は,県農会の主力を注いだ事業の一つであり,効果もまた極めて大であり・・・ 明治31年に最初の講習会を開催して以来各地で頻繁に」開催された。 (岡田慎吾『愛媛県農会史』農 業発達史調査会資料第75号 昭和27年 29頁以下) また岩手県農会は大正4年に,先進地千葉の農村学校などに範をとり,冬期農村学校(女子は家事学 校)として講習を実施した。そのため,著しく農民教育が進展した。 (川原仁左工門編『岩手県農会 史』昭和43年139頁以下)
H 愛媛県でも,明治33年度より温泉郡農友会が組織され,更に34年度には各郡で農友会が結成された。 これは講習会の受講者の「同志的結合を母体として」結成されたものである。そして「明治の末期か ら大正に亘る間の県下各町村の農事改良に主要な役割を果した人物は主として此の『農友会』の会員 であった」という。 (前掲『愛媛県農会史』 41-2頁。) (15)茨城県では,すでに明治35年に新治郡中家村で女子農事講習会が開設されている0 (鞍田純,早川孝 太郎『茨城県農会史』農業発達史調査会資料第53号 昭和26年 33頁, 37頁。) 一方愛媛県農会は,大正8年1月より「家計講習会」を開いたほか,同年3月には県下2か所で各4 日間「婦人農事講習会」を開催し,簡易料理,染色等の実習も併せて行っている。 (前掲『愛媛県農 会史』99頁。) 附 記 本稿第二,三幸執筆にあたり,岩手大学藤原隆男教授をはじめ,農林水産省農業環境技術研究所,静岡 県農業試験所などのご厚意により,貴重なる文献・資料を利用させていただいた。特に附記して謝意を表 したい。
262 はじめに 鹿児島大学教育学部研究紀要 教育科学編 第40巻
第四章 大正期における実業補習学校の展開
本章では,大正期における実業補習学校の展開を第-に,青年団の修養機関化との側面から,第 二に,臨時教育会議での実業教育振興策の側面から,第三に,大正期における農村問題と実業補習 学校という側面から,さらに,第四に,具体的に鹿児島県立の田上実業補習学校の事例をとおし て,地域農業振興策と実業補習学校の果たした役割について明らかにする0 鹿児島県立の田上実業補習学校は,大正期の県下のモデル実業補習学校の位置づけとして,存在 していた。また,田上小学校は,鹿児島師範の代用附属学校として,師範教育の一端を担っていた のである。従って,田上小学校に併設された県立農業補習学校の分析は,鹿児島県の実巣補習学校 施策を典型として見ることができる。 鹿児島県の実業補習学校の全県的普及は,大正6年以降であるが,田上小学校に併設された県立 の農業補習学校の開設は大正6年である。 実業補習学校の著しい普及は次のような背景の中で行われたのである。それは,日露戦争後の地 方改良運動,義務教育6年制実施以降の学校教育体系複線化の定着化,報徳運動に依存した国家主 義的イデオロギー教育,地主的農業生産力のためのサーベル農政の中の農業教育等々である.明治 40年の義務教育6年制実施時の実業補習学校数は,約五千弱,生徒数二十万弱である。 5年前の明 治35年「実業補習規定」改正時は,学校数六百三十,生徒数約三万強である。大正2年の文部省実 業補習教育全国実態調査では,学校数八千,生徒数四十万弱である。大正14年には,学校数約一万 五千強,生徒数百万人に連する婚実業補習学校普及の中で,大正6年に設置された臨時教育会議 は,実業補習学校義務制を決議する。そして,大正9年に実業補習教育のカリキュラム・施設等充 実のために実業補習学校規定の大改正が行われる。同時に, 「実業補習学校教員養成令」の公布が なされる。このような動きは,中等教育の国民への定着化として大きな教育制度史の意義をもって いく。 日露戦争後から第1次大戦を経ての日本資本主義の急速な発展は,国民の教育期間の延長を要求 していった。また,資本主義の発展による地主制の矛盾や新たな労働問題等の課題の中で,体制維 持的な国家主義的イデオロギーの要請が必要になっていく。また,大正15年の普通選挙制の発布 は, 「公民教育」として,国民の教育課題が益々重要になっていったのである。ここでは,明治後 期に展開された地主的生産力形成のためのサーベル農政的な技術教育指導や報徳思想的イデオロ ギー教育ばかりでなく,資本主義発展と地主制の矛盾から小作農民,労働者等の国民諸階層の貧困 化状況に対応しての職業教育,国家主義的イデオロギー教育,公民教育が求められた。それは,当 時の自作農創設施策,副業奨励,失業対策と密接に結びついた教育施策である。臨時教育会議の実業補習学校義務制の決議は,資本主義の発展にともなって国民大衆の中等教育 の要求の高まりと同時に,半封建的な地主制を内包して発展してきた軍事的・半封建的な日本資本 主義の体制的矛盾からの中等教育の要求があることを忘れてはならない。本章では,以上の視点か ら大正期における実業補習学校の著しい普及を国民大衆の中等教育の定着化としてとらえる。 第一節 大正初期における実業補習教育 (1)内務・文部両省の青年団に対する訓令と実業補習教育 内務省・文部両省による青年団に関する修養機関化の訓令・通牒が大正4年9月に出されてい る。 「青年団体ノ指導発達二関スル件」の訓令では, 「青年団体ハ青年修養ノ機関タル其ノ本旨トス ル所ハ青年ヲシテ健全ナル国民善良ナル公民タルノ素養ヲ得シムル在り随テ団体貞ヲシテ忠孝ノ本 義ヲ体シ品性ノ向上ヲ図り体力ヲ増進シ」とのべているように,青年修養の内容は,忠孝の倫理を 中心としての国家主義的な精神修養になっている。 「青年団の使命」等多くの青年団論を執筆し,戦前の青年団運動に大きな影響をもった田沢義鋪 氏は,この訓令を軍国的訓練を行うための青年団改造施策として次のようにのべている。 「この訓 令は,その動機の一部に,軍国的訓練を行わんがために,青年団を改造せんとする意図を含んでい たがため,その青年団に与えた影響も,極めて重大なものがあった。そして,この訓令によって, 青年団改造の実をあげようと最も努力したものは, ・-・・-陸軍省であった。」(1) 青年団と実業補習教育についての研究は,佐藤守氏の研究があるが,佐藤氏は明治末期以降の報 徳運動と結びついた地方改良運動が実業補習教育を急激に普及させたものであると指摘する。 「報 徳運動は地方改良運動となっていき,全国各地で地方改良の講習会,講演会が開催され,山崎延吉 は東奔西走することになっていく。特に青年団(会),処女会,戸主会,婦人会などの団体を中心 にして地方改良運動のなかで,実業補習教育の重要性が力説されていったのである。」(2) さらに,佐藤氏は,大正元年の第1回青年団体調査会での青年団体の目的の項での教育補習機関 化の位置づけの指摘を強調している(3)。 大正元年11月に文部省が開催した青年団体調査委員会での青年団体の目的は次に示すとおりであ る。 「青年団体ハ義務教育ヲ了工家業二従事スル者ノ為こ,主トシテ教育補習ノ機関ナリ。青年ノ品 性ヲ陶冶し,自治ノ思想並義務奉公ノ精神ヲ滴養シ,又此等ノ者ヲシテ産業ヲ励ミ,衛生慈善ノ公 共事業二尽サシメ,健全ナル国民ヲ養成スルヲ以テ目的トス」 ここでの青年団体の目的は,義務教育を終えた家業に従事する者のための教育補習機関として規 定している。義務教育を終えた家業に従事する者ということが,農村の青年団と結びついた農業補 習学校の展開を考えているのである。ここでは,企業内での労働者を対象とした補習教育の考えを もっていない。青年の品性を陶冶する自治の思想と義務奉公の精神は,地方改良運動の中心思想で
264 鹿児島大学教育学部研究紀要 教育科学編 第40巻 あった報徳思想に裏づけられたものである。 大正4年9月の内務省・文部省の青年団体の訓令が出る以前に,すでに,大正元年文部省内にお いて,青年団の目的を教育補習機関としての位置づけが行われていた。しかし,大正4年の訓令で の青年修養機関化の位置づけは,地方改良運動と結びついた報徳思想の教育イデオロギーの啓蒙か ら,さらに「忠孝の本義」 「体力増進」 「剛健勤勉」 「国家の進運の精神」という軍事教練的,国家 主義的教育の色彩がより強まっていくのである。つまり,ここでは,地主的な生産力形成,体制維 持の「地方自治と青年団体」の論理から,より一層に軍国主義的な青年教育の論理が強化されてい く。 大正4年の青年団体の訓令と共に出された内務・文部両省の「青年団体二開スル件」の通牒で は,青年団体の年齢制限が20歳とされ徴兵年齢までとされたのである。青年団の実際の年齢の上限 は,伝統的な村落共同体の年齢階弟制の生活機能の側面が生きているところでは, 25歳, 30歳,ま たは,それ以上の年齢層を構成していた。また,地方改良運動での地主的な生産力形成・体制維持 としての「地方自治と青年団」の側面からみても実際の青年団の年齢構成は, 25歳, 30歳層の多く をかかえていたのである.それらの青年の年齢層は,青年団活動のリーダー層として青年団運営の 大きな役割を果たしていたのである。年齢制限の問題からみても地主的な地方改良運動の側面から 軍事教練的な側面に青年団の位置づけが変化していることがみられる0 大正4年の内務・文部両省の青年団体の通牒では,青年団体の指導者,援助者として,小学校長 等を規定したことも大きな特徴である。これらの訓令,通牒の内容によって,農村にあった伝統的 な年齢階弟組織が軍国主義的な国家の機構として整備されていく。また,地方改良運動で展開され た報徳運動は,解体していくのではなく,軍国主義的,国家主義的な論理の中に,より強固に組み 入れられて再編成されていく。 中央報徳会青年部が生まれたのは,青年団体に対する内務・文部省の訓令・通牒が出されてから 半年後の大正5年2月である。この中央報徳会青年部は雑誌「帝国青年」等を発行して,講演,請 習,調査を行い全国の青年団の中心機関の役割を果たし,連絡統一をはかっていく。 中央報徳会青年部結成から9ケ月後の大正5年11月に,中央報徳青年部は,青年団中央部と名称 を変更し, 1年半後の大正7年5月に開かれた第一回全国青年団連合大会の準備組織になっていく のである。臨時教育会議が設置されていたときの大正7年内務省・文部両省の青年団体の振興督励 についての訓令では,青年の公民としての修養機関化に青年団とともに実業補習学校を積極的に位 置づける。その訓令では次のようにのべている。 「公民タルノ性格ヲ陶冶スル青年ノ教養二於テ・・・ --補習教育ノ施設其ノ他適切ナル方法ヲ講ジ以テ其ノ目的ヲ達成セシメムコト要ス」 この訓令によって,実業補習教育において,公民教育が大いに奨励されていくのである。つま り,実業補習学校における普通教育と職業教育に並んで公民教育が重要視されていく。
(2)実業補習教育調査会の調査報告と実業補習学校の経営施策 大正元年文部省は16名へ委嘱して「実業補習教育調査会」を設置したが,同調査会は,大正2年 に「実業補習教育調査報告」と「実業補習学校の経営施策案」 (組織及び編成,学科,修業期間, 教授及び訓練,実習,設備,生徒の就学出席の奨励,教員,外部との連絡,奨励の手段等)の詳細 な参考意見書を提出している。 実業補習教育の調査報告は, 「工場,銀行,会社,個人商店」 (甲), 「農会,水産組合,商業会議 所」 (乙), 「実業・工業・農業・商業・水産・高船の各補習学校」 (丙)と調査対象を三つに分けて 0?回答結果をまとめている。 甲群の回答は,工場352,銀行707,会社601,個人商店151であるが,必要なる教科目について は,工場の場合,修身307 (87.2%),国語265 (75.3%),算術304 (86.4%),理科207 (58.8%, 等の普通教育と修身が大きな要求となっている。工場の職業的実業科目は,工業34 (9.7% ,機械 93 (26.4%),製図69 (19.6%)等とそれほど大きな比重を占めていない。銀行については,回答 707のうち修身582 (82.3%),国語550 (77.8%),算術569 (80.5%),地理463 (65.3%),歴史346 (48.9%),理科240 (33.9%)等の普通教科と同時に,簿記507 (71.7%;珠算361 (51.1%),商 業作文312 (44.1%),経済368 (52.1%),法規327 (46.3%;等と工場の場合と逆に職業的な実業 教育の比重が高くなっている。この傾向は,会社の回答でも同様である。実業補習教育について改 良を要することは,工場,銀行,会社とも優良なる教員の配置を求めている。工場については,職 業的実業教育を必要としていないが,銀行と会社の回答は,普通教育と同様に職業的実業教育の要 求をもっていることが理解できる。 農会の実業補習教育に対する回答は8680であるが,必要なる科目は,修身8124 (93.6%),国民 市町村の心得8283 (95.4%)とほとんどの農会が修身,市町村の心得を必要だと答えている。ま た,国語7824 (90.1%;算術8041 (92.6%;理科4310 (49.7%),地理3217 37.1%,歴史2921 (33.7%)等の普通教育の科目を必要と答えている。 農会の回答はこの普通教育の科目で国語と算術の必要性を高くしている。農業という農業基礎の 科目については 5090 (58.6%)の農会が必要と答えている。さらに,農業技術の専門科目の土壌 2455 (28.3%),肥料2863 (32.0%),作物2485 (28.6%),病虫害2043 (23.5%),土地改良1451 (16.7%),と回答している。実業補習教育についての改良すべきことは,優良なる教員を配置す ること,適当な教科書の編纂,就学の義務,専任教員の配置等があげられている。 就学出席の奨励は, 「賞状賞品等の授与」 「町村長青年団より勧誘」 「家庭訪問」 「娯楽機関の設 置」等が高い回答である。実業補習学校自身について, 「教育上最も困難を感ずる」について補習 学校の種別の全回答のうち「入学者の学力不揃」実業44.0%,農業50.3%,工業40.3%,商業 66.7%,水産19.8%, 「生徒の出席常ならざること」実業20.2%,農業18.0%, 「適当の教員を得 難きこと」実業33.1%,農業18.4%, 「適当の教科書なきこと」実業16.7%,農業13.7%, 「通学に 不便なること」実業16.3%,農業15.5%, 「生徒の年齢学力に差のあること」実業12.6%,農業13.3