肺癌の遺伝子治療―臨床試験の現況―
岡山大学医学部 第一外科 藤原俊義 要旨 癌は遺伝子変異の蓄積により発生する「遺伝子病」であり、発癌の過程には癌遺伝 子の活性化および癌抑制遺伝子の不活化などが複雑に関与している。正常な状態では これらの癌関連遺伝子は細胞の増殖や分化を制御しており、その機能喪失により癌細 胞としての悪性形質が獲i得される。癌関連遺伝子を標的とした「遺伝子治療」は異常 遺伝子の機能修復を目指しており、既存の化学療法や放射線療法とは異なるコンセプ トに基づいた治療戦略である。p53遺伝子はヒト悪性腫瘍で最も高頻度に異常が認め られる癌抑制遺伝子であり、細胞周期制御やアポトーシス誘導、血管新生抑制など複 数の癌抑制機構で重要な役割を果たしている。多くの前臨床試験の結果、ウイルス系 ベクターによるp53遺伝子導入の抗腫瘍効果が確認され、米国では非小細胞肺癌およ び頭頸部扁平上皮癌に対するp53遺伝子治療の臨床試験が開始された。すでに、非小 細胞肺癌に関しては第1相試験は終了しており、現在、放射線を併用する第H相試験 が進行中である。われわれも、1999年3月より岡山大学医学部附属病院において非小 細胞肺癌を対象にp53遺伝子治療の第1相臨床試験を開始した。現在は極めて初期段 階にある癌の遺伝子治療であるが、これらの臨床試験を含めた今後の研究開発により、 将来的には画期的な治療法となることが期待される。 はじめに 近年の分子生物学の発展により、疾患を分子レベルで解析することが可能になって きた。癌に関しても、前癌病変から早期癌、進行癌へと至る過程で、癌遺伝子と癌抑 制遺伝子の二つの遺伝子群の変異の段階的な蓄積が観察されているD。癌細胞の悪性 形質である分化増殖の異常や不死化に伴うアポトーシス抵抗性、転移や異常増殖を引 き起こす血管新生能の獲得などが、これらの遺伝子変異による正常機能の喪失に直接 起因していることが明らかになってきている。そこで、変異遺伝子を正常遺伝子で置 き換えたり、欠損遺伝子を補うことで、またある機能遺伝子を過剰に発現させること で、人為的に癌細胞の特性を正常細胞に向けて形質転換させることが可能ではないか と考えられる。このコンセプトに基づいて多くの治療遺伝子を用いた「遺伝子治療」 の基礎研究が進んでおり、そのうちいくつかはすでに臨床応用が試みられている2)。 本稿では、岡山大学医学部附属病院で進んでいる非小細胞肺癌を対象としたp53遺伝 子治療の臨床試験の現状を紹介し、その問題点と今後の展望について概説する。 1.p53の機能 p53遺伝子は第17番染色体短腕上に存在する癌抑制遺伝子であり、ヒト悪性腫瘍で 最も高頻度に異常が検出されている。正常なp53は、特定の塩基配列に結合する転写 因子として多くの遺伝子群の発現制御に関わっており、細胞周期調節、細胞の自殺経 路と呼ばれるアポトーシスの誘導、DNA損傷に続くDNA複製の阻害などの生理機能を持 っている3)。多くの癌で点突然変異が検出されるホットスポットと呼ばれる部位(コ ドン)はp53の標的DNAとの結合部位の蛋白質をコードしており、その三次元構造の変化によりp53と標的DNAとの結合が阻害され、転写活性、すなわち癌抑制機能を喪失す ることになる。 転写因子p53の標的分子として、次々と新しい遺伝子が同定されてきており、特に アポトーシスに関するものは多い。TNFレセプター・ファミリーに属するFasは、 Fas リガンドと結合することでFADD(Fas associated death domain protein)を介して caspase 8を活性化しアポトーシスを実行するが、正常なp53遺伝子の過剰発現で細胞 表面Fasの発現が著明に増強する4)。また、恒常的にFasレセプターを発現している癌 細胞では、p53遺伝子導入によりFasリガンドの発現がmRNAレベルおよび蛋白質レベル で増強する5)。TNFレセプター・ファミリーと相同性を持つKILLER/DR5はリガンド非依 存性にp53により誘導され、その細胞内death domainはFADDと結合し活性化すること でcaspase 8を介してアポトーシスを生じる6)。また最近では、p53からApaf−1、caspase 9によるアポトーシスのシグナル伝達も明らかになってきている7)。さらに、p53はレ ドックス制御系の遺伝子の転写を活性化し、活性酸素(reactive oxygen species、ROS) の産生を促し、ミトコンドリアの構成成分を酸化分解することでアポトーシスを誘導 している可能性が報告された8)。逆に、p53はアポトーシスを抑制している分子の発現 を低下させ、アポトーシス感受性を増強している可能性がある。例えば、NF−kBは転 写因子として多くの遺伝子発現に関与しているが、アポトーシスには抑制的に作用し ていると考えられている。われわれは、p53がNF−kBの核移行を阻害することで、その 活性を低下させ、高率にアポトーシスを誘導していることを明らかにした9)。 また、抗癌剤が殺細胞効果を発揮する際にも、p53によるアポトーシスの誘導が関 わっていることが知られており、p53遺伝子導入に抗癌剤や放射線などのDNA傷害性抗 癌治療を併用することで、より多くの種類の癌細胞でアポトーシス細胞死が誘導でき る1°・tl)。これらの多彩な経路がp53によるtriggeringの後に細胞の種類や微小環境に よって選択され、最終的に細胞はアポトーシスに至ると考えられる。 2.ベクター・システムおよび前臨床実験 アデノウイルスベクターは、幼児期の「かぜ」症状を起こすDNAウイルスである5 型アデノウイルスを基本構造として持ち、気道上皮に親和性があるため肺癌細胞への 遺伝子導入にも有用である。非分裂細胞にも遺伝子導入が可能、高力価のウイルスベ クターの調製が可能、高い遺伝子導入効率、などの理由から、in vivoにおける遺伝 子導入には多く用いられている。正常なヒトp53遺伝子を発現するアデノウイルスベ クター・・一一L(AdsCMV−p53)は、ウイルス増殖に必要なE1領域を除去し、その部分にサイト メガロウイルス・プロモーターとヒト由来の正常なp53 cDNAを組み込んであるため、 理論的にはE1遺伝子でトランスフォームした293細胞内でしか増殖不可能である12)。 H226Br肺癌細胞をヌードマウスの右主気管支に移植すると、肺癌患者で臨床的に観 察されるのと同様な腫瘍増殖パターンを示し気管分岐部近くに肉眼的腫瘍を形成す る13)。この同所性肺癌モデルにおいて、腫瘍細胞移植後3日目から3日間AdsCMV−p53投 与を行うと顕著な腫瘍形成抑制が見られ、p53遺伝子導入単独での抗腫瘍効果が確認 された12)。また、ヌードマウスの皮下に移植したH358肺癌腫瘍が直径約5 mmになった 時点で、AdsCMV−p53ベクターを腫瘍内に投与し、同時にシスプラチンを腹腔内投与す ることで明らかな抗腫瘍効果が認められたlo)。すなわち、正常なp53遺伝子を導入し、 さらにDNA障害性抗癌剤を併用することで、抗癌剤によるアポトーシスの経路が回復 したと考えられる。これらの基礎実験のデータから、AdsCMV−p53を用いた非小細胞肺
癌の遺伝子治療が考案され、実際に米国を中心に臨床試験が開始された。 3.米国におけるp53遺伝子治療の臨床試験 米国テキサス大学M.D.アンダーソン癌センターを中心に、1995年10月から1997年12 月まで正常なp53遺伝子発現アデノウイルスベクター(AdsCMV−p53)による外科的切 除不能な非小細胞肺癌を対象とした第1相臨床試験が行われた。106PFU(plaque forming units)から10il PFUまで段階的にウイルスを増量し、またAdsCMV−p53単独局 所投与するArm IとAdsCMV−p53局所投与とDNA障害性抗癌剤であるシスプラチン全身 投与を併用するArm IIの2群が設定されている14’15)。それぞれ28例、24例、計52例が エントリーされている。最も高頻度にみられた副作用はAd5CMV−p53投与に伴う一過性 の発熱であり、手技的なものではCTガイド下投与の際の穿刺部位の疾痛、気胸などが 認められたが、重篤なものはなく、本治療は比較的安全に施行可能であると考えられ る。Ad5CMV−p53ベクターにより導入されたp53遺伝子の発現は、 RT−PCR解析によりArm Iで46%、Arm IIで43%に検出可能であった。 臨床効果に関してはそれぞれ25例、23例が評価可能であり、Arm Iではpartial response(PR)2例(8%)、 stable disease(SD)16例(64%)、 progressive disease(PD)7 例(28%)、Arm IIではPR 2例(8%)、 SD 17例(71%)、 PD 4例(17%)であった。 Arm Iにお いて、106−107PFUの低濃度では5例中3例がPDであったが、108 PFU以上ではPDは22 例中4例で見られたにすぎなかった。またArmIIでは、気管支閉塞を来していた症例7 例中5例で何らかの気管支開通の徴候が認められた。全体としてはSDの比率が高く、 これは本来なら増大するはずの腫瘍のサイズがあまり大きくならないことを意味し ている。すなわち、治療を続けることで腫瘍の増殖が抑制され、いわゆるtumor dormancyが誘導できている場合があり、この現象に関して詳しく検討解析を行うこと で有効性について新しい評価が可能と思われる。 4.本邦におけるp53遺伝子治療の臨床試験 1)臨床試験の実施計画 岡山大学医学部附属病院の非小細胞肺癌に対するp53遺伝子治療は、基本的には米 国で行われた第1相臨床試験と同様のプロトコールを用いている。実施計画は、1996 年1月に岡山大学医学部附属病院遺伝子治療臨床研究審査委員会に提出され、計6回の 審議を経て了承された後、1996年12月に厚生省および文部省に申請された。共同のワ ーキンググループにより科学的および倫理的な面から審議検討され、1998年9月、厚 生省の「厚生科学審議会先端医療技術評価部会」および文部省の「学術審議会特定研 究領域推進分科会バイオサイエンス部会専門委員会」でその実施が了承された。 対象は、生検材料のSingle−strand Conformation Polymorphism(SSCP)解析でp53 遺伝子の異常が認められ、かつ化学療法や放射線療法が無効であった外科的に切除不 能な非小細胞肺癌症例である。病期としては、局所的に進行している皿期か、局所コ ントロールすることで何らかの効果が期待できるIV期であり、原則としてIV期症例は シスプラチンを併用する群に振り分けられる。投与経路は経気管支鏡的あるいはCT ガイド下穿刺による腫瘍内局所投与であり、治療群としてはAd5CMV−p53単独投与の第 1群とAdsCMV−p53局所投与とシスプラチンを併用する第2群が設定されている。ベクタ ー濃度は、米国ですでにloii PFUまでの第1相試験が終了していることを考慮し、109 PFUを初期量として10ii PFUまで段階的に増量する。第2群の症例では、80 mg/m2のシ
スプラチンを全身投与した後4日目にAd5CMV−p53が腫瘍内に局所注入される。 安全性および治療効果の評価は、一般的な全身状態や画像所見に加え、治療前後に 連日採取する喀疾、尿などを用いたアデノウイルスのPCRアッセイや、生検材料によ る組織学的あるいは分子生物学的解析により行う。明らかな副作用が認められない限 り、この治療を1ヵ月に一度繰り返す予定である。治療に用いる臨床レベルAd5CMV−p53 ウイルスベクター液は、米国のベンチャー企業により製造精製され、各種安全性チェ ックを経て凍結状態で輸出され、本邦に輸入される。輸入後は、この臨床試験の依頼 企業であるアールピーアールジェンセル(株)の研究所で受入試験が行われ、使用ま で厳重な品質管理のもと保管される。 2)臨床試験の実際 平成12年3月現在、5例の患者に治療を施行した。1999年3月2日、第1例目の患者に 対して気管支鏡下に109PFUのAd5CMV−p53の投与を行った。気管分岐部の扁平上皮癌 が化学療法、放射線量の後に局所に再発した症例で、3mlのベクター液を1 m1ずつ3 箇所に分けて腫瘍内に注入した。この処置を28日間隔で繰り返したが、高い確率をも って発症する重篤な副作用は認められなかった。気管支鏡的処置の当日に一過性の 38℃台の発熱はみられているが、いずれも自然と軽快している。臨床効果では、気管 支鏡所見で隆起していた腫瘍の退縮が見られ、治療前に認められた易出血性が著明に 改善し、また症状としても治療前に増悪していた血疾が止まった。計14回の投与を行 い、良好な時期が約9ヶ月間みられたが、最終的には腫瘍が再増殖し、治療開始から1 年後にステントを挿入した。 第2例目は左肺下葉原発の扁平上皮癌で、化学療法および放射線療法が試みられた が、左肺下葉の無気肺を来した症例である。左下葉支を閉塞する腫瘍に、やはり気管 支鏡下に109PFUのAd5CMV−p53を注入した。臨床的には、2回目投与後に左下葉支の部 分的開通と腫瘍中心部の破壊像が認められ、左下肺の無気肺に一部含気が戻り、呼吸 機能の改善、具体的には肺活量の増加と咳症状の軽快が観察された。計9回の投与を 行い、良好な時期は約6ヶ月継続したが、肋骨転移が出現したため臨床試験は中止と なった。ただ、最後のCTでも局所的には腫瘍内部が崩壊し、局所的効果は持続してい たと考えられる。 第4例目の症例には、はじめてCTガイド下穿刺によるAd5CMV−p53の腫瘍内投与とシ スプラチンの全身投与が行われている。Ad5CMV−p53投与後の一過性の発熱は毎回みら れており、軽い気胸が2度生じたが、その他の大きな副作用は認められていない。原 発は左肺上葉の腺癌で、両肺に微小肺内転移があるため手術適応なしと判断された。 現在まで9回の治療を行っているが、腫瘍サイズの顕著な縮小は認められない。しか し、最高60ng/ml近くまで上昇したCEAが20 ng/ml前後に低下してきており、さらに 咳漱などの症状が軽快した状態が約7ヶ月間維持できている。すなわち、現在のとこ ろSDと考えられる。 第3例目の症例は右主気管支をほぼ閉塞する扁平上皮癌患者で、4回の治療を行った にもかかわらず病状は進行し、最終的には1999年9月に亡くなられた。第5例目は局所 的には若干の反応がみられたが、併用したシスプラチンによる食欲不振が激しく治療 中止を余儀なくされた。 治療後採取した喀疾から抽出したDNAをテンプレートとしてベクタ・一…一特異的なプラ イマーを用いて行ったPCR解析では、いずれの症例でも投与翌日の喀疾に最も高濃度
のベクターが検出され、以後漸減し、平均して7日目の喀疾では検出されなくなって いた。 臨床試験は全体的には順調に進行しており、2000年3月からは東京慈恵会医科大学、 東京医科大学、東北大学加齢医学研究所を加えた多施設共同研究に移行する予定であ る。臨床効果についてはまだ確定的なことは述べられないが、5例中3例で何らかの効 果がみられており、少なくとも重篤な副作用は観察されていない。 おわりに p53遺伝子導入による肺癌の遺伝子治療の実際を紹介した。原因遺伝子を治療する という遺伝子治療の基本的な概念からは、p53遺伝子導入は本来の遺伝子治療に最も 近い癌遺伝子治療と言える。しかし、局所療法としての限界から進行癌患者の治癒を 目指す治療にいたっていないのが現状であり、現時点ではこの治療法の目指すところ はあくまでもquality of life(QOL)の改善である。ただ、基本的な安全性を確かめっ つ臨床応用を試みることは重要であり、その結果得られる情報を基礎研究にフィード バックすることが可能となる。今後、積極的な基礎研究により技術的に遺伝子治療が 進化し、癌の日常的な治療法の一つの選択肢として確立されることを期待する。 文献 1) Fearon ER, et a1: A genetic model for colorectal tumorigenesis. Cel1,61: 759−767,1990, 2) Roth JA, et a1: Gene therapy for cancer: what have we done and where are we going ? J Natl Cancer Inst,88:21−39,1997, 3) Levine AJ: p53, the cellular gatekeeper for growth and division. Cel1,88: 323−331,1997. 4) Owen−Schaub LB, Zhang W, Cusack JC, et al: Wild−type human p53 and a temperature−sensitive mutant induce Fas/APO−1 expression, Mol Cell Bio1,15: 3032−3040,1995. 5) Fukazawa T, Fujiwara T, Morimoto Y, et al:Differential involvement of the CD95 (Fas/APO−1) receptor/1igand system on apoptosis induced by the wild−type p53 gene transfer in human cancer cells, Oncogene,18:2189−2199,1999, 6) Wu GS, Burns TF, McDonald ER, et a1: KILLER/DR5 is DNA damage−inducible p53−regulated death receptor gene, Nat Genet,17:141−143,1997. 7) Soengas MS, Alarcon RM, Yoshida H, et a1: Apaf−1 and caspase−9 in p53−dependent apoptosis and tumor inhibition, Science,284:156−159,1999. 8)Polyak K, Xia Y, Zweier JL, et al:Amodel for p53−induced apoptosis, Nature, 389:300−305,1997. 9) Shao J, Fujiwara T, Kadowaki Y, et a1:0verexpression of. the wild−type p53 gene inhibits NF−kB activity and synergizes with aspirin to induce apoptosis in hし1man colon cancer cells. Oncogene,19:726−736,2000, 10) Fujiwara T, Grimm EA, Mukhopadhyay T, et a1: Induction of chemosensitivity in human lung cancer cells in vivo by adenovirus−mediated transfer of the wild−type p53 gene. Cancer Res,54二2287−2291,1994, 11) Spitz FR, Nguyen D, Skibber M, et al,: Adenoviral−mediated wild−type
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