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文化と心理学 : 道徳性発達心理学における個別性と普遍性の問題

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文化 と心理学

道徳性発達心理学 における個別性 と普遍性の問題

田 村 俊 輔

Culture and Psychology:

Issues on Moral Psychology regarding to the Distinction

between Particularity and Universality

Shunsuke Tamura

心理学は人間に関す る諸現象の実証的解明 を目指 し、その発祥の当初か ら 要素還元的な探求方法で心理現象の普遍的側面の理解 に焦点 を当てて きた。 この傾向は、研究の積み重ねの うちに分野の細分化 を生 む結果 となってい る。 この伝統 の うちに成立 して きた道徳性発達の研究 において、研究結果 の多 くは、その研究分野の中では強い妥 当性 を持つ ものではあって も、そ れが よ り広い人間の現象 を含んだ文脈のなかで評価 された とき、その妥 当 性 は狭い分野内で持 った もの よ り弱 くなっている。そんな状況の中で研 究 は一方では よ り還元的な方向- つ ま り、普遍性 を存在の階層 におけるよ り下位の部分 に求める傾向- に進み、道徳性の持つ複雑性 を単純化す る ことで問題 を解決 しようとしている。本稿 は、 この ような傾向の中で道徳 性 と文化の関係 を考察す るものである。具体的には人間の持つ 「畏れ」 の 感情 と文化的な前提が道徳的思考、感情 に及ぼす影響 を通 して上記の問題 に接近す る。

はじめに

この小論 は

、1

9

9

7

年度 日本 カ トリック大学連盟 カ トリック学術奨励金の助成 を受 け、

(2)

122 清泉女学 院短期大学研 究紀要 (第21号) 東洋、桑原直己、吉岡昌紀、唐揮真弓、西脇良、田村俊輔6名 によって行 われた 「道徳 判断における普遍性 と文化性」研究の田村担当分の一部 (本稿の後半、 ラス コー リニコ フとハ ックルベ リー・フィンに関す る項)を加筆修正 し、新 たに、文化 と心理学、及び、発 達心理学 を基盤 とした文化心理学 に関する考察 を加 えた ものである。 1.問題提起 学術分野のみな らず、 日常生活の中において も、私たちは行動の前提 となる決断を下 す際 に、多かれ少 なかれ、何 らかの規則的な認識行為 を行 っているように思われる。例 えば、ある行動 を起 こす必要が起 こって きた場合、私たちは先ず、「どの ような行動 を起 こすべ きか」 を考 える。その考 える行為 とその結果 もた らされる行動への 「答 え」 は主 観的な色合いを含 んでいることも多いが、その多 くは、私たちのそれ までの様 々な直接 ・ 間接 的経験 か ら導 き出 され た ものであるこ とは否定で きない事実であ る。それでは、 「どの ような行動 を起 こすべ きか」とい う問い に対 して 「これ これの行動 を起 こすべ きで ある」 とい う答 えが出た とき、私たちはこの 「答 え」、時によっては複数の 「答 え」に無 条件 に従 うであろ うか。多 くの場合 「否」である。 どの ような答 えに到 った として も、 行為 に到 る前 に先ず、その答 えが 自分が直面 している具体的状況の中での 自分 自身の行 為 として妥当であるか否かについて考 え、その結果の判断に基づいて、 ようや く行為 に 及ぶ に違いない。何故ならば、 この 自分が直面 している具体的状況 とはそれ までの自分 の経験 の中に、似 た ものはあるとして も、全 く同一の ものは一つ としてない経験上唯一 の ものだか らだ。 この一連の二つの行為 を名づけるな らば、前者 は 「行為の可能性 (Feasibility)の発 見」、そ して、後者 は 「行為の妥当性 (Validity)の判断」 となろ う。二つの行為の間に はある決定的な差異が見つけ られるだろう。即 ち、前者 はよ り普遍的、 または、一般的 な性質 を帯びるが、後者 は、 より個別の状況 に条件付 け られた もの となる とい う違いで ある。 もちろん、後者 にはよ り強い価値判断 とい う要素が含 まれて くることも見逃せ な い。 また、私 たちが どち らに従 うかはその状況 によって、決断者 の個性 、行動傾 向 に よって も異 なるため、一概 に全ての人間が常 に前者だけでな く、後者 について考え、判 断 した結果行動する とは言い切れない。 しか しなが ら、一つの ことだけは確 かなように 思 われる。 この二つの行為の間には時間的な前後関係が存在 し、後者 は前者 を前提条件

(3)

田村 :文化 と心理学 123 とすることである。つ ま り、私たちは発見 された行為の可能性 の中か ら、 よ り妥当性が 強い ものを選択 し、それを実行 に移す決断 を下すのである。その結論 に従 って行 われた 行動の結果 は経験的な知識 として蓄 えられるのである。 心理学 はその歴史の中で 自然科学的実証 を基盤 とす る知識体系の形成 を 目指 して きた。 実験心理学の祖 と言 われるヴン トが生理心理学 (実験心理学) と民族心理学 (文化心理 学)の区別 を明確 に設け、 自身の構想の中では両者 を統合す ることを考 えていたにもか かわ らず (高取、2000)、その後の心理学史が示す ように、必ず しも両者 は統合 に到 って いない ところか らもこの傾向はうかがわれる。 自然科学的 に実証可能 な限定 された領域 内での数多 くの発見がなされて きた一方、その ような方法が人間文化の諸現象 を解明す る場合 に使用 されることが果た して妥当であるか否か とい う問題 は前者 に対す るほ どの 熱意 を もっては取 り扱 われて来なかったのではないだろうか。 ヴン トが最初の実験心理 学講義 を行 った当時の人々が実験心理学的な知の探求 を熱望 していた反面、心理学への 思索 的 なアプローチ には興 味 を示 さなか った ことは藤永 (1997)が引用 してい る吉 田 (1983)の心理学史におけるエ ピソー ドか らも容易 に想像で きる。つ ま り、自然科学的な 知 に対する時代 的な要請が この二つの極 を結 びつける試み を困難 な もの に して きた とい うことである。その難 しさは、 ヴン トの構想 にもかかわ らず、結果的 にその後の心理学 が 目指 した自然科学的な知の探求 とその 目標 に達す るための方法論の うちに兄いだす こ とがで きる。つ ま り、心理学 は人間の諸現象 を解明す るための 「人間科学」であること を 目標 に したが、その方法論 を自然科学 において用 い られ る還元 的 な実証科学 に範 を とったのである。 還元的な実証方法 とは、物事の現象 の成 り立 ちの根拠 を存在の階層の よ り下位 に求め てい く方法である。例 えば、植物の発芽 とい う 「生物的」現象 は、植物 を構成す る要素 の中の より下位 に属す る 「化学的」 レベルにおける変化、 さらには 「物理的」 レベルに おける運動、などに、説明の根拠が求め られる。 自然現象 を理解 しようとす る自然科学 とは異 な り、人間の精神 における諸現象、つ ま り、心理、特 に、道徳性 に関す る現象の理解 と還元的実証方法が うま くかみ合 わないこ とは明 らかであろう。 自然科学の要素還元的な方法 は、その探求対象が非常 に限 られた 自然 とい う範囲内の現象である場合 においては比較的容易 に適用で きる。そ して、観察 された自然現象の裏 にある原因を化学的、物理的な働 きに遡 ることも可能である。先 に

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124 清泉女学 院短期大学研究紀要 (第21号) 挙 げた例 と同 じように、生物学の観察 によって仮説化 された遺伝現象の原因は隣接の分 子生物学の探求方法 をもってよ り化学的、物理的現象へ と還元 されるのである。 この 自 然科 学 の学 問分野 間 にお ける階層 関係 は社会 生物学者Wilson (1978)や科 学 史家 の Peacocke(1979)によって詳細 に論 じられて きた ことである。一方、心理学 においての 研究 も自然科学 に範 をとったゆえの宿命 として、 よ り要素還元的な方向性 を持 ち、その 傾向は道徳性 を扱 った心理学分野 にも現れて きた。 上記 の階層関係 に当てはめれば、道徳性心理学 はその基盤 となる心理学の傾向 と動 き を同 じくし、 よ り要素還元的な自然科学 と、要素還元的方法では説明 しきれない文化の 間に位置 している と言 えよう。その位置関係の中で、道徳性心理学 は発見 して きた多 く の行為の可能性 における妥当性 を、下位階層の うちに還元することで見出そ うとしてい るのではないだろ うか。 しか しなが ら、心理学が扱 う現象、特 にそれが道徳性 にかかわる現象 においては、含 まれる関係要素の数が多 くなる。 したが って、 自然科学 と同 じように、様 々の現象の原 因をよ り下位の階層 に求め ようとすると、意図的 に何 らかの要素 を排除 しない限 り複雑 極 ま りない もの となって しまうのである。 この状況の中で可能 となる一つの選択 は、複 雑 な要素間の関係 を避けるために、道徳性 をあえて一つの要素 に還元 して しまうことで ある。 この選択 はこれ までの道徳性研究 に多 くとられて きた選択であろう。道徳性 は知 性

、感情 にと還元 されて研究 されて き ここで、視点 を少 し変 えると、 これ とは違 った もう一つの道があることに気がつ くで あろ う。それは、道徳性 をより上位階層の側面で扱 う可能性である。具体的 には、道徳 性心理学の発見 を 「個別の文化の中で」妥当であるか否か を探求す ることであ り、同時 に、個別の文化 との相互関係 を理解する中に、現実的な行為の妥当性 を判断す る判断材 料 を求めることである。 本論では、 この心理学の還元的な傾向が どの様 に道徳性心理学 に現れているか を明 ら か に し、その動向 を補 う目的で文化 と心理の相互関係 を視野 に入れた道徳性心理学の可 能性 を探 ろうとす るものである。

2.

心理学の普遍性への志向 ここでは、先ず、現在の様 々な心理学理論の基盤 となっている3つのグラン ド ・セオ

(5)

田村 :文化 と心理学 125

リーが どの ように心理学 を人間心理の普遍的性質 を解明す る手段 としているか を明 らか に してみたい。

(1)

S.

フロイ ドに見 られるパーソナ リテ ィにおける物理学的概念

Freud (1962)はパ ー ソナ リティを3つのシステムに分 けて説明 している。 3つの シ ステム とはイ ド(Theld)、自我 (TheEgo)、超 自我 (TheSuper-Ego)であ り、人間の 行動 はこれ らのシステムの相互作用の結果現 れて くる もの とされている。 フロイ ドはこ の

3

つのシステムを想定 した理論の うちにいかに人間心理の普遍的な側面 を組 み入れ よ うとしたのだろうか。 フロイ ドは、 これ ら3つの システムの働 きを心的エネルギー (PsychicEnergy)とい う物理的なエネルギーの概念 を導入 し、そのエ ネルギーの配分 を通 してパーソナ リテ ィ の働 きを説明 している。Hall&Lindzey(1978)の解釈 によれば 「パ ーソナ リテ ィの働 き は心的エネルギーが どの様 にイ ド、自我、超 自我 に振 り分 け られるかによって構成 され る。そ して、一人の人間の中に蓄えられているエネルギーの総量 は一定であるので、 こ れ ら3つのシステムの間でエネルギーの獲得競争が起 こる。 1つの システムに供給 され るエネルギー量 は他 の

2

つのシステムの犠牲の上 に立 っているのである。従 って

1つ のシステムが強 まれば、他2つのシステムは自然 に弱 まることになる。」 フロイ ドが理論の うちに組み込んだ 「心的エ ネルギー」 とい う物理的概念 は、見方 に よっては全 く不必要であるように思われる。例 えば、上記の説明は、「心的エネルギー」 とい う概念 を使 わず とも、「パーソナ リテ ィの働 きは、イ ド、自我、超 自我の強 さによっ て決定 される。一つの システムの働 きが強 まれば他 のシステムの働 きは弱 まる」 と言 い 直せ るだろう。そ して、 フロイ ドが 自身の臨床体験 か ら得た症例 の研究か ら導 き出す結 論 としてはこの言い直 した表現 の方が妥当なように思われる。 しか しなが ら、 この二者 の間には一つの決定的な違いがある。それは、前者が現象の説明 を しようとしているの に対 して、後者 はその描写 に過 ぎない とい う点である。 フロイ ドが行お うとしていた こ とはパーソナ リテ ィの働 きに関する説明であ り、単 なる現象の描写 ではなかったのであ る。 物事の説明 を完全 にす るためには、説明 しようとす る現象の最終原因(FinalCause)を 突 き止めることが必要 とされる。 フロイ ドの場合、パーソナ リテ ィの動 きの最終原因 を

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126 清泉女学院短期大学研究紀要 (第21号) 物理学的なエネルギーに求めたのである。 この フロイ ドの試みは当時の機械的な世界観 と一致す る ものであ り、 フロイ ドは人間 を構成す る化学的物質に心理現象の原因をもと め、その背後 にあるエネルギーを想定す ることによって、 より普遍的な人間観 を目指 し た現 われ と言 えるであろ う。 (2)J.ピアジェの認知発達理論 に見 られる系統発生の概念 そのキャリアの初期段 階で生物学 に携 わった ピアジェはフロイ ドとは違 った領域 に認 知発達の最終原因を求め ようとした。その最終原因はダーウィン進化論の系統発生の概 念であった。 ピアジェ (1975)はラマルク流の生物学 を 「構造 なき発生主義」 と名づ け、 その環境 により固体が無限 に変化 してゆ く可塑性 を持 っているとい う生物観 を否定 して いる。 また、ワイスマ ンか ら始 まる生物の前成説的意味合いの強い 「発生 な き構造主義」 にも疑義 を呈 している。 ピアジェはこれ らの二者 と対照 的な 「系統発生 に基づ く構造主 義」の立場 に立 っている。 この系統発生 は、「すべ ての発生がある構造か ら出発 して他の構造 に達す る」とい う中 心的な命題 によって説明 されている。 この命題 をピアジェは以下の ように説明 している。 「知能の心理学では、構造 にかかわ り合 うたびごとに、常 に、より基本的な他の構造か ら 出発 して、発生 を跡づけてい くことがで きます。 しか も、 より基本的な構造 は、それ 自 体、絶対的な始 ま りをな しているのではな くて、以前の発生 によって、 もっと基本的な 構造か ら派生 してい ます。そ して、この ように して、無限にさかのぼれるのです

」(1975、

p

.

1

9

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この説明に続いて ピアジェは、心理学者が扱 う範囲は人間の誕生の部分以降にと どまるが、その前の段階 を順次遡 ることによって、私 たちは生物学的な段 階の神経構造 その ものにまで発生 を跡付 けることがで きる、 とも示唆 している。 認知構造の発達が神経構造 にまで遡れるとい う考 え方 は、一見突飛 に思われるか もし れないが、「系統発生」と 「構造」とい う概念 を心理学 に導入 した ときには当然の論理的 帰結 となるものであろ う。そ して、発生の前段階 に順次遡 ることによって、人間に共通 であるはずの神経構造 とその構造の発生 にまで帰結す る とい う非常 に強力 な人間の 「普 遍的構造」観へ と私たちを導いてい くのである。

(7)

田村 :文化 と心理学 127 (3)心理学の普遍性 を求める志向 以上の心理学者がお互いに異 なった理論的な枠組の中で試み ようとしたことは、人間 心理の普遍的な側面の解明であった。 しか し、普遍性 を解明 しようとすればす るほ ど、 その探究 は、普遍性 を存在の階層 を下へ下へ と下 って求める他 はない結果 となった。 も ちろん、 この方法 は心理学 を自然科学 と肩 を並べ うる科学 として位置付 けるために不可 避 なものであったことも間違いない。 一方、スキナ-は前者達 とは異 なった接近方法 をもって、動物 ・人間行動の普遍的な 側面 を解明 し、心理学 を科学の一分野 に位置付 けた心理学者 と言 って よいだろ う。スキ ナ-は人間の行動 を科学する際、「行動」とその行動 に対する 「環境」か らの反応 の2極 か らなるパ ラダイムの うちに学習 を解明 しようとした。 この試みはピアジェが 「構造 な き発生主義」 と分類 した範噂 に組み入れ られるだろ う。 フロイ ドや ピアジェが心理現象 の最終 原 因 を人 間 を構 成す る物理 的、生物 的側 面 に求 め た とす るな らば、ス キナ-(1965)は 「行動の原因 と結果の間にある関係 は科学の法則 に則 っている」とし、その両 者の間にある関係の分析 (FunctionalAnalysis)によって、人間の行動 に含 まれる 「意 図」や 「意味」 まで も解明で きることを主張 した。つ ま り、スキナ-は前二者 とは異 な り、その方法論 において、客観的な観察が可能である行動 とその行動 と環境 の間にある 関係 を扱 うことで人間科学の確立 を図った と言 えるだろ う。そ して、スキナ-は人間だ けでな く動物 にまで及ぶ普遍的な学習形態 を提唱 したのである。 現在私 たちが接す る心理学理論の多 くが これ らの グラ ン ド ・セオ リーの基礎 の上 に 立 ってお り、従 って、「人間心理 の普遍性 の解明」へ の強い傾倒 を共有 していることは否 定 Lがたい ものであると思われる。

(4

)文化心理学の役割 これ らの心理学理論、そ して、その基盤の上 に構築 されて きた理論の多 くはそれぞれ のパ ラダイムの中で は綿密 に構築 され、それ に対す る批判 に応 えた修正 を経 て強力 な 「可能性 (Feasibility)の発見」 として位置づ け られ よう。 しか しなが ら、これ らの可能 性 の発見がその まま人間科学 における 「妥当性 (Ⅵllidity)の判断」になるわけではない。 伝統的な心理学のパ ラダイムの共通点 を挙 げれば、それ らの多 くが研究対象 として きた 要素か ら下部 に属す る階層 においてその妥当性 を求めて きたことはすでに述べ たことで

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128 清泉女学 院短期大学研 究紀要 (第21号) あるが、ここで、人間科学 としての心理学がその妥当性 を求める とすれば、それはこれ まで とは違った文化 を含 む包括 的な視野のなかでの判断が必要 になって くるように思わ れる。 道徳性心理学 は重いハ ンデ ィを負 った研究分野である。そのハ ンデ ィとは道徳性心理 学が扱 う対象が非常 に多 くの人間の側面 を含 んでいるとい うことだろう。 このハ ンデ ィ はい くつかの方法で乗 り越 えられて きた。す なわち、研究者 は、 これ ら多 くの側面の う ち限 られたある側面 を 「道徳性」 の中核 として扱い、それを可能 にさせ る独 自の理論 を 構築 して きたのだ。人間の認知的側面 に道徳性 の中核 を置いた理論、感情的側面 に中核 を置いた理論、行動の側面 に中核 を置いた理論 な ど、それぞれは、その基盤 となるグラ ン ド ・セオリーの助 けを借 りなが らその道徳観 を明 らかに して きた といえよう。結果 と して、私たちは様 々な道徳性理論 を目の当た りに しているのだ。比較的新 しい試みはそ れ までの側面 よ り、 より基礎的な下部階層 に活路 を見出そ うとした 「進化心理学」、「社 会生物学」 を援用 した道徳性 の研究 も現れている。 この動向は、本稿の これ までの議論 で繰 り返 されて きた心理学の要素還元的な傾向の表れで もあろう。 多 くの要素 を含 む道徳性の うちの一要素か ら道徳性 に接近 している研究成果 を私たち が解釈するとき、その 「妥当性 の判断」 は欠 くことので きない ものであろう。文化心理 学の役割の一つ はその妥当性の判断にあるのではないだろうか。数多い道徳性理論それ ぞれの妥当性 に対す る判断は、その理論が構築 された領域 か ら一歩踏み出 した ところで 可能 となるのではないだろうか。

3.

道徳性心理学 における普遍性 と文化性の問題 道徳性心理学理論の多 くは、道徳性の普遍的側面の研究 を行 って きた。 ここでは、 ピ アジェ、 フロイ ドの発達理論 に強い影響 を受けている幾人かの心理学者の理論 にみ られ る道徳性 における普遍性 についての簡単 な概観 を行い、その普遍性 と文化の相互関係の 可能性 を探 る。具体的には、 ピアジェの構造発達 に道徳性発達 を当てはめ、非常 に強い 認知的な道徳性発達の普遍性 を唱 えたコールバ ーグとその理論 に触発 されなが らもコー ルバーグとは異 なった要素 に注 目した心理学者 の道徳性観 との関連の うちに道徳性の普 遍性の中に文化性が どの ように介入 しているか を指摘 してい きたい。

(9)

田村 :文化 と心理学 129 (1) コールバーグの道徳性発達理論が示す普遍的な道徳性発達 ここでは、 コールバーグの理論その ものの内容 を詳述す ることが 目的ではないので、 簡単 に、その理論の普遍性が どのような ものか を記述す るに とどめる。 コールバーグの理論が、多 くの批判 を浴 びなが らも、未 だに過去 の もの とはなってい ない主な理 由は、その概念的な明確 さ、そ して、その明確 さが 「理由付 け能力」 とい う 測定可能なひ とつの現象 とその背後にある発達概念 によって説明 されている単純 さにあ るといえるのではないだろ うか。 この理論の明確 さ、単純 さは、道徳性 とい う複雑 な研 究対象 を前 に、 どこか ら手 をつけて良いかわか らない とい うフラス トレーシ ョンに悩 ま されて きた研 究者 たちにとって、研究 の出発 点 を与 えるこ ととなった。 この意 味で、 コールバーグの理論 は、多 くの研究者の関心 を集め、研究のたた き台 としての役割 を果 た して きた と言 えよう。 この理論の明確 さ、単純 さは道徳性 を人間の知性的側面の観察 か ら探 り、その結果 をピアジェ流の系統発生的な発達観 に結 びつけたことによって得 ら れた もので もあろう。即 ち、知的側面の理由付 け とい う一つの能力で道徳性 を測 ること で単純 さを、そ して、その結果 を系統発生的発達観 に結 びつけることによって普遍性 を 帯びているのである。 コールバーグは道徳性 を構造発達主義の枠組みの中で解釈 し、道徳 にかかわる現象の うち人が持 つ 「公正 (Justice)」 に対す る理 由付 けや 「自立性 (Autonomy)」 に向か っ ての動 きに構造的発達 を認めた。彼は、仮想 ジレンマ を使 ってのインタビューで収集 し た様 々な 「道徳的理 由付 け」 を分析 し、そ こに6つの異 なった構造 を持つ理 由付 けを発 見 し、そ れ を道 徳 性 発 達段 階 と して、そ れ を ピア ジ ェ流 の 「堅 い構 造 段 階 (Hard StructuralStages)」 として位置づけた。「堅い段 階」 とは普遍的な発達段階 とい う意味 である。 この普遍的な 「堅い段階」 を持つ構造発達 は以下の4つの条件 を満 た している 必要がある。 (∋ 段階間の構造の質的違い :思考モー ドの質的な違 い。 (∋ 普遍的な発生順序 :文化的な違いがス ピー ドの違 いを生 むが段階が現 れる順序 は 普遍的。 (丑 構造の違い と順序が構造的全体 を形成 :違 った作業で も同 じ構造的な働 きの もと になされる。

(10)

130 清泉女学 院短期大学研 究紀要 (第21号) (彰 階層的な相互関係 :高い段階は下の段階 と統合 されるのではな く置 き換 え られる。 (Kohlberg、1984、P.238よ りの要約) これ ら4つの条件 を満たす ことで理論が扱 う心理現象 は普遍性 の強い もの とな り、そ の反面、文化性の働 きは付随的な もの とみなされる。 これ ら4つの条件の中で(丑と(丑は 普遍性 と文化性の関係 を示す もの として注 目されるであろ う。条件②が示す ものは人間 には理論の示す発生順序 は普遍的 に備 わっているので、 もしも、ある人がその上段階に 到 っていない場合があって もそれは文化が発達速度 を弱めているか らに過 ぎない、 とい うものであ り、文化 によって異 なった発達段階 ・発達順序 は存在 し得 ないことを示唆す る条件である。条件(彰が道徳性 に通用 される ときには、文化的な条件 によって異 なった 内容 を持つ理由付 け もその構造か ら導 き出された形式は同一である とい うことになる。 Kohlberg (1984)はその道徳性発達理論が これ ら4つの条件 に合致することを示 し、普 遍的な道徳性発達があることを主張 しているのである。

(2

)文化性の介入 昨年の9月11日に起 こったアメ リカでのテロ事件 を契機 として、その後 に起 こった、 今 も進行 している争いを見るにつけ、普遍的な道徳性が果た して存在す るのだろ うか と い う疑問 を持たざるを得 ない。一方、 もしも、人類 に共通な道徳的な側面がな く、道徳 が全 くの相対的な ものであるとす るならば、私 たちは異文化 間、国家間 どころか 自分 自 身以外の人 との対話 もな くして しまうことになる と結論付 ける他 はな くなる。 ここで問 題 となって くることは、 コールバ ーグが精力 を傾 けて証明 しようとした道徳性 の普遍性 が要素還元的な意味で普遍的であるか どうか とい うことより、人間の道徳性が どのよう に文化 によって滴養 され、それが働 くものであるか、そ して、その文化の中で働 く道徳 性 の うちに互いの理解 を可能 とさせ る共通部分が どの ように組み入れ られているか、 と い う点ではないだろうか。 この視点 を持 たない限 り、道徳性 の研究は 「科学的」ではあっ て も 「道徳性の解明」ではな くなって しまうだろ う。つ ま り道徳性の発見 としての 「妥 当性の判断」 に推移する必要がある、 とい うことだ。 以下 に挙げる研究者たちは多かれ少 なかれコールバーグ理論 に対 して批判的な立場 を とっている3人であるが、 この批判 はコールバーグと同 じパ ラダイムの中でその細部 に

(11)

田村 :文化 と心理学 131 関 しての批判 を しているわけではない

。3

3

様 に違 った視点か ら自らの道徳性観 を展 開 し、その 「妥当性」 を問 うているのだ。 ここではこれ ら3人の心理学者 に共通す る道 徳性 の要素 を見出 して、 この小論の後半でその要素 に対 して文化が どの ように介入 して いるか を論 じてい く。 ヘ ンリ (

R.

M.

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n

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,

1

9

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3

)

はコールバーグがその上 に道徳性発達段階 を確立 した と 同 じ理由付 けのデータを分析 し、その うちに理由付 け能力の発達以外の要素 を見 出 した 心理学者である。ヘ ンリ

(

1

9

8

3

)

によれば、全ての道徳的議論 は 「これ これの行為が な されるべ きである。 なぜ な らば、それは

X

によって要求 されていることであ り

Ⅹが要 求することは正 しいか らである

」とい う基本的な言明が何 らかの形で含 まれている必要 があることを主張 している。 この主張のなかにあるⅩ とは具体的には何 らかの「権威者」 であ り、その権威者が内面化 した 「信念」である。 この考 え方 によれば道徳性 の発達 は、 それぞれの段 階の構造発達ではな く権威のおかれる対象の推移である と結論付 け られ よ う。ヘ ンリの コールバーグ理論の見直 しは、 また、私 たちに徐 々に自己中心的な考 え方 か ら脱皮 し、社会化 されてい く子供達が、その成長の中でいか に持続的な 「権威 の対象」 を自己の うちに内面化 してい くかが遣徳性 の発達 に不可欠であるか を教 えて くれる。 ホフマ ンは人が他の人に持つ共感的感情の発達 を研 究 し、その発達段 階 を普遍的な段 階 として まとめている。ホフマ ンは新生児の①反応的泣 きに始 ま り、② 自己中心的な共 感的苦痛、(参擬似的な自己中心的な共感的苦痛、④本当の苦痛、そ して、(9その場の状 況 を離れた他人の経験 についての共感 (ホフマ ン

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1、

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.

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)

5

段 階の発達 を見 出 し、それが、「正義原則の全部あるいはその中のい くつか と矛盾 しない し、少 な くとも思 いや りと正義 とに高い価値 を置 く社会では、共感は普遍的で向社会的な道徳的動機 であ る」 (ホフマ ン

、2

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0

1

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0

3

)

として コールバーグ理論 との関係 を示唆 している。共感 も、上記の権威 と同 じく道徳性のなかにある動機 を扱 った理論である。ホフマ ンの理論 の うち、 ここでは、一点だけを注 目してお こう。す なわち、 この共感的感情 の発達推移 は認知的な他者認識の発達 と密接 に結 びついている点である。 ギ リガン (

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l

l

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a

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,

1

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)

はコールバ ーグ理論が正義や公正 といった概念 を中心 とし た男性、欧米文化 中心の理論であ り、女性、文化的なバ イアスがあるとして、女性 は男 性 とは違 った道徳性の発達があることを主張 している。ギ リガ ンは女性が出産、子育て 等の役割 を負 って きていることに起因す る、他人 に対す る配慮 、責任感 を主軸 とした道

(12)

132 清泉女学院短期大学研 究紀要 (第21号) 徳性研究 を展開 している。 へ ンリは 「権威」、ホフマ ンは 「共感的感情」、そ して、ギ リガンは 「配慮 と責任」 と い う理由付 け能力 とは違 った切 り口か ら道徳性 に接近 しようとしている。それぞれの考 え方 を個別に見た ときには

3

つの 「もう一つの道徳性観」 と見 えないこともない。 しか しなが ら、これ ら3つ を並置 した とき、一つの特徴が浮かび上が って くる。それは、全 ての理論が具体的な他者への認識 を道徳性の基盤 としている とい う点である。その他者 の認識 は、また、他者が唯一の存在であることの確信への移行で もある。ヘ ンリの言 う 「権威」は、それが、現実の人であろうとも、神の ような存在であろうとも、唯一かけが えのない他者であろう

「権威」が強 く持続的に働 くときには、その権威 を帯 びた他者 は 主体がその唯一性 を強 く認識 し愛情 を持 った他者で もある。ホフマ ンが明 らかに してい る共感的感情の発達 も他者の認知 とともにその性 質は変化 し、最終段階ではその他者が 唯一のかけがえのない存在である とい う認識 を持つが故 に、その共感的な感情が強力か つ持続的になっている。ギ リガ ンが女性の持つ出産、子育てに注 目している配慮 と責任 の道徳性 を提唱 している背景 にも唯一かけがえのない他者 に男性 より身近 に出産、子育 てを通 して接 っす る女性 の特徴 を考慮 に入れての ことである。理 由付 けの背後 にある論 理構造の高度化 に道徳性の発達 を見たコールバーグの理論 を意識 しなが ら道徳性 の研究 を続 けている研究者の うちに共通 して見 られるものが 「他者-の気づ き」であ りそれが 「唯一の存在である」 ことへの理解であるところに私 は注 目したい。 この 「唯一の存在である個人」 とい う理解 は文化の中にあ らゆる形で組み込 まれてい る。人間の尊厳 とい う言葉 はそんな文化の一側面であろ う。 この言葉 を聞いた とき、私 たちはその唯一の存在である とい うことか ら受ける冒 しがたい存在感 を感 じるのではな いだろうか。 ここでは詳 しく触 れないが、聖書 にもこの点は強 く書かれているように思 われる。唯一神である神 をあがめ、愛せ よ、 とい う非常 に強い要請は、幼子の中に神が いる、神 を愛 し、隣人 を自分の ように愛せ よ、等の言葉 によって、一つの意味が完結す るように思われる。つ ま り、神が唯一の存在であると同時 に人 もそれぞれ唯一の存在で あることの示唆が繰 り返 されているのではないだろうか。 また、 この冒 しがたい唯一の 存在であるか らこそ、そ こに畏れの念 も感 じるのではないだろうか。人間の内 にある他 者の死 を悼 む心 もそんな ところか ら出ている ものではないだろ うか。 以上の指摘か らここで一つの仮説 を出 してお きたい。

(13)

田村 :文化 と心理学 133 道徳性 に関係する要素 は一つではない。 コールバーグが示 した理由付 け能力の発達が 存在する として も、その能力が遺徳性 の能力 として働 くためには方向性 を決定す る道徳 的な動機が必要 となる。そんな動機 は自己中心性か ら脱却 し、他者の存在 を認める とい う発達の中か ら生 まれて くる他者の唯一性 を認知す る能力 にあるように思 われる。そ し て、 この能力 を基礎 に した 「冒 しがたい」感情 を喚起す る畏れの念が道徳性 の動機的要 素 になっているように思われる。 この念 は文化の諸側面 に反映 している もので もある。 本稿 の後半 は以上の議論 を基 にして、先ず、道徳的行為 を簡単 に概念化 し、その概念 図に沿 って畏れの念 と道徳的行為の関係 を探 ってみたい。

4.

道徳的行為 (1)行為 の意図 人間の道徳的行為 はある前提 の上 に成 り立つ とは考 え られないだろうか。その前提 と は、人間の行為 は意図せず に行 う行為以外 はすべ て何 らかの意図の もとになされる もの であるとい うことである。そ して、行為の意図 とはその行為の影響が及ぶ対象 に、その 行為 によって起 こる変化の予測であると考 え られる。

(

2

)意図 と本来性 (善悪の基準) 次 に、行為の影響の予測 はその対象の本来性 (有 るべ き姿、な り行 くべ き姿)が どの ようなものか、そ して、その本来性 はどの ような行為 によって成長、発展、逆 に、堕落、 後退するか とい うことについての理解 と判断が前提 となる。そ して、本来性 を持つすべ ての存在物 にとって 「善」 とはその本来性 の方向へ向けて変化が起 こること、つ ま り、 成長発展す ることであ り、「悪」とは、本来性が阻害 され、あるいは本来性 の方向か ら外 れた方向へ動 くことであると、定義す ることがで きるのではないか。 となれば、「善 き行 為」 とは 「その行為の対象 となる存在物の本来性 を成長発展 させ る助 け となる行為」 と 言 えるだろう。従 って、善 き行為 とは、その行為の対象物 の本来性が どの ような ものか についての理解、判断があってこそ可能 となる とい うことは、逆 に言 えば、対象の本来 性 を見誤 る と、善 き行為 をな しているつ もりで、実際 は、その対象物 にとっての悪が起 こるとい う現象が生 じて くるのである。つ ま り、善 き行為 を意図 したにもかかわ らず、

(14)

134 清泉女学 院短期大学研 究紀要 (第21号) 実際 には善 き行為 とならない、 とい う事態である。

(

3

)ベ ク トルのぶつか り合い 我 々の行為の対象が、一つの行為 に対 して一つであるな らば、そ して、我 々がな しう る行為がその一つ しかないならば、我 々にとって行為の選択 をす る とい うことは必要で ない。 また、行為の対象物の本来性が誰の 目にも明 らかであるな らば、行為 を起 こすに 際 してのため らい とい うことも起 こ り難いであろ う。では、実際の生活 において、我 々 がなぜ、行為の選択 に迫 られ、あるいは、選択の判断に迷 う、 とい う事態が生 じるか と い うな らば、ほ とん どの場合、我 々がな しうる行為 は通常複数あ り、往 々に して、それ らの行為が向か うそれぞれの対象物 にとっての本来性が同 じ方向 を向いていないか らで ある。つ まり、様 々な存在物のそれぞれのベ ク トルは同 じ方向 を向いているもの もあれ ば、交錯 している、あるいは、互いに逆方向を向いているか らである。

A

B

のベ ク トルが同 じ方向を向いているならば

、A

にとっての善は

B

にとっての善 となる。 しか し、AとBのベ ク トルが交錯、あるいは、逆方向 を向いている場合、Aに とっての善はBにとっての悪 とな りうるのである。そこで、行為 を通 じてAとB、両方 の本来性 に向かった (あるいは逆 らった)変化 に影響 を与 える行為 をな しうる人間は、 AとBとどちらの本来性 を優先 させ るべ きか、 とい う選択 に迫 られるのである。

(4

)ベ ク トルの選択の基準 :価値体系 では、 どちらのベ ク トルを取 るべ きか とい う選択 に迫 られた場合、我 々は何 を基準 に してその選択 をす ることがで きるのだろうか。 選択 を可能にす るのは

A

にとっての善 と

B

にとっての善、 どち らの善が よ り価値が高 いか とい う 「価値体系」である とい うことがで きるのではないか。我 々の実生活 はい く つ ものベ ク トルが複雑 に絡み合 う世界だ とい うことがで きる。そんな世界の中にあって、 我 々は、様々なルー トを通 じて身に付 けた価値体系 に鑑み、その体系の中に在 る善の優 先順位 に従 って よ り価値が高い善 に通 じる行為 を選び取 るのである。言い換 えれば、 も しも、我々が何 らかの価値体系 を身に付 けていない場合 は、対象物 の本来性が交錯 した 場合の行為の選択 は一貫性 を帯 びることがないであろうし、選択す ること自体が非常 に 困難 になると考 え られるのである。

(15)

田村 :文化 と心理学 135 人間の成長の過程 を観察す ると、 自分のなす行為 の影響の及ぶ対象 についての理解が 増 えてい く過程である と考 えられないだろうか。前 出のホフマ ンが提示 した共感的感情 の発達過程 はその一例 として理解 され よう。つ ま り、一方で、一つの行為 によって影響 を受 けるベ ク トルの数が増 えてい くのである。最初ベ ク トルが2つだった場合 、その2 つの うちの どちらか を選 び取れば良かった ものが、それ以外のベ ク トルの存在 に気づ く に したが って、つ ま り、 自分の為す何 らかの行為 によって影響が出るベ ク トルを3つ、

4

、 5

つ、 と、新 たに発見す るに従 って、考慮の対象 となるベ ク トルの数が増 えてい く。そ うなれば、同 じ行為であ りなが ら、その行為 をなすべ きか、否かについての判断、 また、その選択理由についての理解 は当然変化 して くると考 え られるのである。 また一方で、我 々を取 り巻 く様々な存在物 の性 質 についての理解 は年齢 とともにある 程度変化 してい く。その理解の変化 は、何 らかの存在物の本来性 についての誤解があっ たことに気づ き得 る可能性 を含 んでいる。本来性 についての誤解が訂正 されれば、それ にともなって、他のベ ク トル との関係、つ ま り、それぞれの本来性 の優先順位 について の理解 も変化 しうるのである。 こう考えて くると、道徳性発達 とは 「行為 をなす際 にその行為の与 える影響 を考慮 に 入れるベ ク トルの発見数が増 えてい くこと、 また、ベ ク トルの方向についての訂正が起 こること」 とそれに伴 ってお こる 「価値体系の変化」 であると考 えられないだろ うか。 また、以上の観点か らす ると、「道徳判断」 とい う言葉 は、「自分がな しうる行為が関わ る様 々な存在物のベ ク トルの方向 と性質 を理解 し、何 らかの価値基準が示す善の優先順 位 に基づいて行為 を選択すること」 を意味す る と考 えられないだろうか。

(5

)ベ ク トル と価値体系 に関する質問 ここで、次の ような質問があげ られるだろう。 ① 価値体系の吸収 と歪みの是正 先ず、複数の可能性の中か ら一つの行為 を選ぶ基準 となる 「価値体系」 は、そ もそ も、 どの ように して我 々に与 えられるのだろうか。 また、様 々なベ ク トルの関係 を考慮 して 道徳判断 をなす際、関係するすべて、 とは言わず とも、中心 となるベ ク トルの どれか を 見落 とす ことがあ り得 る。その場合、その理解 の欠落 は どの ように して補 われ うるのだ ろうか。 さらに、価値体系全体 に歪み、誤 りが起 こった場合、それ らは どの ように して

(16)

136 清泉女学 院短期大学研 究紀要 (第21号) 是正 され うるのだろうか。 (∋ 理 由付 け能力が中心 とならない書 き行為の可能性 次 に、知性が未発達の子供 たち、あるいは知性 に障害のある人間は善 き行為、あるい は、 よ り書 き行為 をな しえないのであろうか。逆 に、知性が未発達であった り、知性 に 障害 を持つ人間の行為の中に極めて崇高 な種類の行為が見出 されることがある。 この よ うな場合、その行為 はどの ように して可能 となるのだろうか。 これ らの質問に答 える第 1歩 として、次 に、 ドス トエ フスキ一作 「罪 と罰」の中のラ ス コー リニコ7、 とマーク ・トウェイン作 「ハ ックルベ リー ・フィンの冒険」の主人公 のハ ックルベ リー ・フィンに見 る道徳判断 を分析す ることによって、異 なった価値体系 のぶつか り合い、 とい う観点か ら理由付 け能力 を中心 とした道徳性研究の問題点 につい て考 えてみ ようと思 う。

5.

限界のある価値体系 と超越的価値体系の衝突 ドス トエ フスキーの小説 には様 々な仕掛 けが施 されている。その仕掛 けの一つ として、 この著者 は登場人物の物語中の役割 をその名前で暗示する とい う手法 を多用 している。 「罪 と罰」の登場人物であるラスコー リニ コフの命名 もその例外ではない。 この名前はロ シア語の 「分裂」 にあたる語か ら派生 している (Peace,1992)。 「分裂」、 ラスコー リニ コフの人格 を端的 に現す言葉 としてこの 「分裂」 に勝 る ものは ない。作者 はこの 「分裂」 と名づ けられた登場人物 を通 して どの ような分裂、そ して、 何か らの分裂 を措 こうとしたのだろうか。以下 に、 この 「分裂」 を体現 している主人公 の行動 ・考 え方 をなぞ りなが ら、「分裂」 とは何 についての分裂であるのか、それは現代 の社会が持つ道徳性 についての理解 にどの ような光 を投 げかけうるのか について考えて み よう。 ラス コー リニコフは彼 自身の社会正義理論 を拠 り所 として、この社会 を改革す るため には理性一知性 と言 うべ きであろう- と意志 を持 った卓越者が社会規範 を乗 り越 えて ど の ようなことを実行することも許 される、 と考えた。そ して、その一歩 を踏み出す こと が卓越者 にとっての義務であると信 じた。 ラスコー リニ コフにとって、 この一歩 を踏み 出す とは、社会 にとって益 にならない強欲 な金貸 しの老婆 を殺害 し、彼女か ら奪 った金

(17)

田村 :文化 と心理学 137 品 を有効 に利用することだった。そ して、この殺人の実行 は、卓越者 にとっては理性が 許す殺人は犯罪 とはな り得 ない ことを証明す る筈の もので もあった。物語 は、 この老婆 殺害の計画が ラス コー リニコフの脳裏 に暗い影 を落 としている様子の描写か ら始 まる。 罪 とはな り得 ない と信 じた殺人 を実行 しようとしているラス コー リニ コフの 日常 に精 神的な抑欝 とで も言 えるような混乱が起 こる。そ して、浮 き沈みの激 しい精神状態の彼 は一つの夢 を見 る。夢の中で彼 は7歳 くらいの少年 として登場する。父親 といっ しょに 祭 りの夕暮れ散歩 を していた少年 は居酒屋 の前で大勢の人だか りに遭遇す る。その人だ か りは痩せ た弱 りきった百姓馬 を酔 っ払 った馬の持 ち主が見物人 にけ しかけられて鉄棒 で殴 りつけている場 を囲んでいた。少年 ラス コー リニ コフはこの場面で必死 に馬 を助 け ようとしているが、馬 は持 ち主の鉄棒の もとに息 を引 き取 って しまうのである。汗で体 中びっ しょりにな り目覚めたラスコー リニコフは 「夢で、 よかった !」 と深いため息 を つ くが、次の瞬間 「ああ」 と叫 び声 をあげる。彼 には、 この夢が これか ら彼が実行 に移 そ うと思 っていた老婆殺 しの場面 と二重写 しになって理解 されたのである。 自分 自身の 計画の醜 さを悟 った彼 は 「神 よ !わた しに進むべ き道 を示 して下 さい。わた しはこの呪 われた--わた しの空想 をたち きります !」 と神 に祈 って、明るい顔 になる。 この場面 は、「罪 と罰」とい う長編小説の中で、ラス トシー ンを除いて唯一主人公が明るい顔 を見 せ る一瞬の場面である。 この直後 に、悪魔の采配 としか言い ようのない偶然の出来事が あ り、彼 は老婆が確実 に一人 きりになる時間帯 を知 って しまい、 殺人 を実行 に移 して し まうのである。 ラスコー リニ コフの殺人 を犯す に至 る道、そ して、その後の苦悩 を、先 に述べ たベ ク トルの方向性 による価値体系の枠組み を通 して解釈す るならば、そ こには二つの価値体 系のぶつか り合いを見ることがで きるだろう。

6.3

種類のベク トル ここで、存在物の 「個 々のベ ク トル」 と、それ らのベ ク トルを総合 した時、存在物全 体の本来性の相互関係が最終的 にどの方向 を向いているのか とい うことを示すベ ク トル を 「総合ベ ク トル」 として区別することにす る。 ひとつの価値体系 中の様 々なベ ク トル には、その価値体系が最終的に向か う最高善 に照 らし合 わせ て、優先順位がついている と考え られる。 このベ ク トルがぶつか りあった とき、ひ とは、 自らが身につける価値体

(18)

138 清泉女学院短期大学研究紀要 (第21号) 系 のベ ク トルの優先順位 に照 らしあわせて、ベ ク トルを選択 し、道徳判断 を下す ことが で きるのである。 さらに、「個 々のベ ク トル」、「総合ベ ク トル」 と区別 して、「基本ベ ク トル」とい うものを考 えることがで きるだろ う

「基本ベ ク トル」とは、価値体系 におい て優先順位の高い、その価値体系の総合ベ ク トルと方向 を同 じくする、いわば、その価 値体系の中核 を為すベ ク トルの総称である。 馬の夢 を見た後 に彼が、 この長編小説で数少 ない明るい表情 を見せ、安堵す る場面か ら推測 されるように、彼が成長す る過程 において身につけた価値体系 はキ リス ト教的な 価値体系である。キ リス ト教 の価値体系 は、総合ベ ク トルが最終的に指 し示す最高善が 超越的神である体系である。 もうひとつの価値体系 において、総合ベ ク トルが指 し示す 最高善は 「卓越 した人間の理性 と意志の もとに世界 を変革す ること」である。 この よう な、 もうひとつの、全 く異 なった価値体系がキ リス ト教価値体系 に割 り込み、その二つ の価値体系のぶつか り合いが ラス コー リニコフの混乱の原因である。そ してこのぶつか り合いは、 まだ殺人 を犯 していない段階においてすでに、特定で きない 「恐怖」の感情 としてラスコー リニコフの意識 にのぼっているが、殺人を決意 した後は、その 「恐怖」 はその深刻 さの度 を深め、様 々な形の メッセージを彼 に向けて送 って くる。彼 自身の抑 密状態がその一つであ り、上記の夢 は2つの価値体系 に板挟み になったラス コールニコ フの精神状態 を表 していると考 えることがで きる。 夢 に登場する少年のラス コー リニ コフは弱 りきった、そ して、世の中において何の益 ももた らさない馬 に対 して 「かわいそ う」 とい う一言の理由で 「殺 してはいけない」 と い う結論 を出す。一方、 この馬の持 ち主である ミコールカは 「無駄飯 ぽっか り食 ってい る役立たずの馬

「俺の馬だ。 どうしようと俺の勝手だ」とい う理由の もとにこれを打 ち 殺そ うとしているのである。 ラス コー リニ コフとミコールカの馬の扱いに対す る理由を 比べ てみると、その理由は、前者 においては、キ リス ト教の価値体系 において最優先 さ れるベ ク トルのひとつが 「殺 してはな らない」か らであ り、後者 は、その価値体系 にお いては、生 き物 の生存の有無 に関す るベ ク トル よりも 「所有

「功利」等 に関わるベ ク ト ルが優先 されるか らである。 「殺 してはいけない」とい う少年の内に起 こった道徳的命題 について、少年 は ミコール カが 「殺 して も良い」根拠 として挙 げた理由付 けを覆す程の明確 さを持 った理 由を挙 げ ることはで きない。少年が身につけている価値体系 においては、生 き物の生存 に関す る

(19)

田村 :文化 と心理学 139 本来性 は他の様 々なベ ク トル と一線 を画す、あるいは、同 じレベルでは比較 しがたい本 来性である。それは、ほぼ、無条件 に尊重 され、優先 されなければな らない本来性であ る。 しか し、 この本来性 は、他の本来性 に比べがたい、圧倒的な ものであるがゆえにか えって、理 由付 けが困難 となるとい う性質 を帯 びている。つ ま り、「なぜ生 き物 を殺 して はな らないのか」、 と問われた時、「いけないか ら、いけないのだ」 としか返事 の しよう のない状況 を生 むのである。そ して、無条件 に近いがゆえに、理由 を超 えて、直感 とし てその優先性が把握 される行為 は、「明確 な理由付 けがで きてこそ行為 は意味 を成す」と い うような考 え方か らすれば、意味の薄い行為であると取 り扱 われ うるのである。 価値体系 は様 々な種類があるだろうが、その中で、総合ベ ク トルが超越 的最高善 を指 し示す超越 的価値体系 における基本ベ ク トルは他の価値体系 における基本ベ ク トル と一 線 を画す強 さを持 ち、そのつ よさゆえに 「直感的 に」 とらえられる ものである。例 えば、 キ リス ト教価値体系 において、総合ベ ク トルが 目指す最高善 は超越的神であ り、その総 合ベ ク トルの中で、生 き物 の生存 にかかわるベ ク トルは他の どのベ ク トルにま して優先 さるべ き基本ベ ク トルである。 したが って、「殺 してはならない」とい う道徳判断はこの 超越的価値体系の基本ベ ク トルにもとづいてなされた判断 とい うことがで きるだろ う。 しか し、超越的価値体系の基本ベ ク トルは他のベ ク トルを庄倒 して優先 さるべ き性質 を 持 っているために、それは、「直感」的に とらえられる ものであ り、その意味で、まるで、 理 由、あるいは、根拠 のないベ ク トルであるかのごとき印象 を与 える。あるいは、余 り に自明であるがゆえに、条件があ りなが ら、 まるで無条件であるが ご とくとらえ られが ちになるか らである。 ラス コー リニ コフの老婆殺 しの計画 において、老婆 を殺すべ きか否 か とい う問いに対 して、キ リス ト教の超越的価値体系 はその基本ベ ク トルに基づいて、直感的に 「殺 して はならない」 とい う判断 を促す。一方、理性 を最高善 とする もう一つの価値体系 は 「殺 して もか まわない」、 とい う判断 を導 く。 この二つの判断が理 由付 けの明確 さにおいて 比較がなされた場合、前者 は直感的な判断であるがゆえに、理由付 けの必要性 を超越 し て しまい、結果 として、後者 よ りも根拠薄弱 とい う印象 を与 えて しまった といえる。そ して、 この2つの判断に翻弄 されたラスコー リニ コフは、 よ り強い理 由付 けが可能 と感 じられる後者の判断に基づいて殺人 を犯す ことになるのである。 このラス コー リニ コフの例 を通 して、私 たちが学ぶ ものは何か ? 「理由付 け能力」 は

(20)

140 清泉女学 院短期大学研究紀要 (第21号) 人間の道徳判断 を可能 とする欠 くべか らざる要素である。 しか しなが ら、価値体系の分 裂、混乱 を起 こ している精神が道徳判断 をす る時、「理 由付 け能力」の役割 を過信す るこ とは、他の理由 と比較 にな りがたい圧倒的な優先性 を帯 びる超越的価値体系その もの と、 その基本ベ ク トルの存在 を見落 とす結果 を引 き起 こ し、その道徳判断 を大 きく誤 らせ る 原因 とな りうるのである。 ラス コー リニコフは、直感的に 「殺 してはな らない」 とい う 道徳判断 を下 している。 しか し、理性 と意志 を最高善 とす る価値体系の影響の もとにあ るラス コー リニ コフは、「直感的」判断 とい うものが、「理由が ない」か らではな く、逆 に、 自明的、つ ま り、「すべての理由を超越 した、圧倒的に強い理 由を持つ」がゆえに、 「直感的」である、とい う点 を見落 として しまうのである。現代の道徳性の研 究において は理 由付 けが他 の様 々な要素 に優先 されて考 え られている状況 にある。 しか し、「理 由 が明確 に表現で きる行為 こそ より善い行為であ り、優先 さるべ きである」 といったふ う に、理 由付 けを中心 に考 えす ぎる時、 ラス コー リニ コフに見 られるように、直感的に捉 え られる超越的価値体系の基本ベ ク トルの存在 を見落 とす結果 を引 き起 こす ことにな り は しないだろうか。 子供 たちの思考 ・行動の観察 を通 して道徳的な直感 を措いたコールズ (1986、1990) は理 由付 け能力 に焦点 を当てた道徳性 の見方 ・教育 に対 して強い警告 を発 している。そ の理 由は、理由付 け能力 に劣 る幼い子供、スラム街の少年少女達の為 した感動的行動 に 数多 く接 しているか らであろ う。「理 由付 け能力の高い ものが よ り善 なる行為 を為 しう る」 とい う前提 に立つならば、理 由付 け能力 に劣 る人間が、その能力 に勝 る筈の人間の 中にさえなかなか見出せ ないような崇高な行為 をなぜ為 しうるのか、 とい う理由 を説明 で きないか らである。では、理由付 けが十分 にで きないにもかかわ らず、なぜ 、人間は 崇高 な行為 をな しうるのであろうか。その鍵 となるのは、 これまで に述べ て きた、超越 的価値体系の存在 を直感的に捉 える感覚ではないか と考 えられるのである。以下 に、そ の感覚 を 「畏れ」 と捉 えてみたい。

7.

超越的価値体系 と 「畏れ」 と 「恐れ」 無条件 に近い、圧倒的な強 さを持つ超越的価値体系、そ して、その価値体系 の基本ベ ク トルの存在、そ して、その価値体系 の総合ベ ク トルが最終的に指 し示す超越 的最高善 の存在 は人間に 「畏れ」の感覚 として感知 されていると考 えられる。

(21)

田村 :文化 と心理学 141 健全 な道徳判断 とは 「畏れ」の念 を起 こさせ る圧倒的、かつ、超越的最高善の存在 を 出発点 とし、その超越的最高善 を指 し示す総合ベ ク トルの方向性が明 らかになっていて こそ、可能 となる ものである。価値体系 には様 々な ものがあ り、人間はその多 くを、 自 分の属する固有の文化 を通 じて獲得す る。 しか し、それぞれの文化 に固有の価値体系 は、 他の文化 においては通用 しない部分がある、 とい う限界 を持 っている。あるいは、他 の 文化 に通用 しない どころか、根本において欠陥 を含 む価値体系 もあ りうるだろ う。個 々 の人間が、 自分が属する文化の価値体系 しか身につけることがで きないならば、そ して、 その価値体系が特殊 な文化の中でのみ通用 し、他の文化 には通用 しない、あるいは、そ の基本 に弱点がある場合、人間はどの ように して、その価値体系の制約か ら逃れて、 よ り普遍的な価値体系へ移行することがで きるのだろ うか。 この問いに答 えるヒン トとな るのが、 ここで言 う 「畏れ」の感覚ではないか と考 えるのである。 つ ま り、「畏 れ」 の 感覚 は、固有の文化 に限定 されがちな価値体系 を超 えて広がる、超越的価値体系 の存在 を感知す る能力 と考 えることがで きるのではないか とい うことである。 では、「畏れ」 は、「恐れ」 とどの ように異 な り、 また、関連 しているのであろ うか。 2つの関係が考 え られるが、その一つの関係 を表現 しているのが、 ラス コー リニ コフ のケースである。 (1)「畏れ」 を無視することによって起 こる 「恐 れ」 「恐 れ」の感覚 は、ある場合は、超越 的価値体系 の存在 と、「畏れ (owe)」 によって感 知 されるその価値体系の向か う超越的最高善への魂 の傾 きを無視 した時、湧 きあが って くる感情であると言 える。 ラスコー リニ コフが超越 的価値体系の存在 を軽視 し、理性 を 最高善 とす る価値体系 に沿 って殺人を決意す る時、彼が覚 える 「恐れ」は 「畏れ」、つ ま り、超越的価値体系へ向か う自分の精神の指向性 を無視することによって起 こる もので ある。 「罪 と罰」の中でラス コー リニコフは、超越 的価値体系か ら外 れることに対 して感 じて いる 「恐 れ」の正体 を 「心理的恐 れ

「法律上の刑罰 に対する恐 れ」 と誤解 し続 ける。そ して、その 「恐 れ」か ら抜 け出すために最終的には自首 をし、刑罰 に服す るのであるが、 「恐れ」か ら自由にはなることがで きない。なぜ な ら、その 「恐れ」は理性 を最高善 とす る限界のある価値体系 にとらわれ、超越的価値体系 に背 を向けているがゆえに起 こる感

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142 清泉女学 院短期大学研究紀要 (第21号) 情 だか らである。 ラスコー リニ コフの 「恐 れ」か らの最終的な脱 出は、 ソーニ ヤとい う 助 けによってよみが えらされる、究極の真理、善、美、愛 に対す る人間の希求 としての 「畏れ」の感覚 に従 って超越的最高善 を指 し示す価値体系-回帰 した時 に起 こるのである。 ラス コー リニ コフの場合の 「恐れ」 は 「畏れ」 を無視す ることによって起 こるもので ある。 しか し、 この場合 とは異なった種類の 「恐 れ」 と 「畏れ」の関係 もあるのではな いだろ うか。マーク トゥエ イン作 「ハ ックルベ リー フィンの冒険」 はその例 として考 えられる。 (2)「畏れ」の向か う方向へ移行す ること-の 「恐れ」 ハ ックの場合 に見 られるのは、「畏れ」によって超越的価値体系の存在 に気づ き、限界 のある価値体系か ら抜 け出 ようとす る時起 こる 「恐れ」である。 この 「恐れ」の感情 は、 その原因 となっている限界のある価値体系 か ら、その限界 を超 えた別の価値体系 に移行 しようとする際、「現在 の価値体系 か ら抜 け出た ら、罰が与 え られるのではないか」 と いった 「罰 に対す る恐怖」 として足かせ とな り、 よ り良い価値体系-の移行 をはばむ力 となっているものである。 この恐怖 はコールバーグの段階では第一段階の道徳理由付 け の一側面 として解釈 され得 るものであろう。 ハ ックルベ リー ・フィンの冒険は、アルコール中毒の父親か ら、そ して、ハ ックルベ リーを 「文明化」 しようと固 く決心 した コミュニテ ィーの有難迷惑 な好意か ら逃れ、川 下 りをす る少年ハ ックの物語 である。ハ ックは逃亡黒 人奴隷 の ジム と出会 い、二 人は いっ しょに川下 りをす ることになる。二人の間には強い友情の杵が形成 されて行 く。 し か し、奴隷 をその主人の所有物 として扱 う文化 に育 ったハ ックに とって、逃亡奴隷 と いっ しょに旅 をするとい うことは、その奴隷の所有者、 ワ トソン婦人、か らジムを盗ん でい る とい う罪の意識 を起 こさせ る ものであった。ハ ックにこの価値体系か ら発す る 「良心の声」が行動の選択 を迫 る。逃亡奴隷 をワ トソン婦人か ら盗んでいるとい う自覚 を 持 ったハ ックはその意識か ら彼の心 に迫 り来る罪の意識、神か ら下 されるであろう罰へ の 「恐れ」 に震 え上がる。その ような状態か ら抜 け出すために彼が とった方法 は祈 るこ とだった。彼 は脆いた。 しか し、祈 りの言葉 は出てこなかった。奴隷制度 を容認す る価 値体系 について、ジム との個別的関係 を通 して、直感的疑問 を抱いている自分の何 もか

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田村 :文化 と心理学 143 も見通 している神 に対 して嘘の祈 りをす ることはで きないことを理解 したのだった。 こ の時のハ ックにとっての祈 りの対象 は、奴隷制度 を容認す る価値体系 の中で見出 される 「恐 れ」の神であった。ハ ックは奴隷制度 を容認する価値体系か ら外 れること、そ して、 その結末 として下 されるであろ う罰 に対す る 「恐れ」 に したが って 「奴隷 をその持 ち主 に返すべ きである」 とい う道徳判断を下す。 しか し、彼の心 は、奴隷制度 を容認す る価 値体系 を超 えた ところか ら響いて くる声 に反応する 「畏れ」 によって、奴隷 を持 ち主 に 返す とい う行為 を実行 に移す ことがで きないのである。 奴隷制度 を容認す る価値体系 に逆 らうことへ の 「恐れ」 とその価値体系 を超 えた世界 へ向か う 「畏れ」の間に板挟みになったハ ックは、一つの解決方法 を兄い出す。その解 決方法 とは、彼の 「神」か ら罰 を受けない行動 を示 し、同時に、嘘の祈 りをす る必要 も ない状態 になること、すなわち、 ワ トソン婦人 に宛て、ジムの居場所 を手紙で知 らせ る ことだった。ハ ックは短い手紙 を書 き、それ までの人生で味わった こともない ような、 「良い、罪 を洗い流 された」気持 ちになる。 この段階で、ハ ックは直面 したジ レンマか ら 解放 されたはずであった。 しか し、手紙 を書 き終わったハ ックの脳裏 には、それ までジム とともに した時間が記 憶 として蘇 って くる

「僕が眠 り続 け られる よう、ジムは喜 んで見張 りの役 を続 けて く れた。僕が霧の中か ら、沼か ら戻 って きた とき、ジムは大喜 び して くれた」次 々 とジム との記憶が蘇 って くる。ハ ックは震 えていた。何故 ならば、彼 は 「二つの ことの間で決 断 しなければならなかった。そ して、その決断の結果 はこの先永遠 に自分 に付 きまとう ものであることを知 っていたか らだ

」す なわち、限界のある価値体系の中の 「神」に従 いつづ けるか、あるいは、 ジムを助けることによって、 この 「神」 と永遠の仲違い を持 つか、二者択一の選択 に迫 られていたのである。彼 は後者 を選択 し、「それな らば、地獄 にで も堕 ちてやる」 と言い、 ワ トソン婦人への手紙 を破 り捨 てるのである。 この 「地獄 で も落 ちてやる」 とい うせ りふは、 これ までの価値体系 に従 うのをやめることによって 罰 を受 けることを受諾す ることを意味 しているが、それは 「畏れ」が 「恐れ」 を克服 し た瞬間 を表現 したせ りふで もあるように思われる。 この ようなハ ックの動 きを分析 して、セイガ ン (1988)は一方の道徳性 をフロイ ト的 なエデ ィプス ・コンプレックスの結果 として父性か ら引 き継いだ社会規範 を行動の基準 に した道徳性 と解釈 し、去勢恐怖 を背景 とした罰への恐れを道徳的な動機 とみな してい

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144 清泉女学 院短期大学研 究紀要 (第21号) る。 この道徳性 はハ ックが ワ トソン婦 人に手紙 を書いて、 ジムを彼女の もとに返す手筈 を整 えようとした決心の うちに見 ることがで きる。他方、前者か らくる恐 れの感情 を跳 ね返 してジムを助 けようと決心 した道徳性 を、セイガンはギ リガン的な母性的ケア-の 道徳性 と解釈 して、後者 を前者 に勝 った もの として捉 えている。 一万

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つの価値体系のぶつか り合い とい う観点 に沿 って解釈 を試みるならば次の よ うになる と考 えられるだろう。ハ ックの ワ トソン婦人へ ジムを返す とい う決断は、既 に 述べ たように、彼の持つ当時の社会 に流布 された価値体系 に基づいた理 由付 けか らなさ れた判断 をもとに している。 これは、セ-ガンの フロイ ド的解釈 と同一の ものであろう。 一方、ハ ックはこの理由付 けが正 しい と判断 しているにも拘 わ らず、「地獄へ落 ちる」行 動 を敢 えて選ぶのである。 この決断は、超越的価値体系の基本ベ ク トルの存在 を感知 し た彼の 「直感」 に基づいているのではないだろうか。 ハ ックルベ リー フィンの物語の文脈 に沿 って考えれば、ハ ックの心の中に次の ような 一連の動 きが起 こった と考 えられる。 ジム と共 に過 ごす 日々を通 じてハ ックはジムの う ちにある人格 を特別な もの として認識す るようになる。そ して、その認識 は、ハ ックに それ まで彼が従 っていた奴隷制 を容認す る価値体系の限界 を気づかせ、その価値体系 を 超 えた超越的価値体系-の魂の動 きとして彼の中に 「畏れ」の感覚 を生 む。奴隷制 を容 認す る価値体系 に従わないことへの 「恐 れ」 にせか されてハ ックは、一旦 は 「ジムを持 ち主 に返すべ きである」 とい う判断 を下す。 しか し、その価値体系 を超 えた方向を示す 「畏れ」 の感覚 は、「手紙 を送る行為 を為すべ きではない」 とい う、超越的価値体系の基 本ベ ク トルに沿 った直感的道徳判断 を生 むのである。 ハ ックの生 きた時代的文脈 を考慮 に入 れた時、「逃亡奴隷 を持 ち主 に返 さないほうが よい」理由は見出 しがたい。なぜ ならば、「すべての人間を、『人』 としての尊厳 を持つ もの として尊ぶ」 とい うような命題 はハ ックを取 り巻 く価値体系の中では意味 を持たな いか らである。 ここで、 ラスコー リこ コフと同 じように、 2つの価値体系 のぶつか り合 いが起 こるのである。一つの価値体系 は人を物 として扱 うことを容認す る限 られた価値 体系であ り、もう一つは、それ よ りも広 く普遍性 を帯 びた、「人」を 「人」 として重 ん じ る価値体系である。は じめは、「恐れ」にせか されて、狭 い価値体系 に沿 って為すべ き行 為 を考 えたハ ックは、その限 られた価値体系 を超越す る価値体系 の存在 を 「畏れ」 とし て感知す る。そ して、直感 に基づいて、みずか らの行為 を 「畏れ」の導 くよ り広い価値

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