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日蓮聖人御系譜の硏究(續)

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(1)

日蓮聖人御系諦内山川究

。井伊氏赤佐氏貫名氏の関係

井伊感直の第三子赤佐三郎俊直が井伊氏から分れて横尾に位 したのは一八

O

九年である事は前項に阪に述べた。而して賞名 政直が又擁直から分れて貫名に下った事もや L 切となった。共 交、共保嘗時遠江に十二郡を鎖してゐた井伊氏は此虎に赤佐、 貫名の分家を附したのである。貫名氏の組政直にご子があ P 、 長子は行在、旦定は貫名の二代を縦ぎ、次子の直−一点は石野に下っ て石野の租となってゐる。此の石野の事蹟に就ては何等知る肉 、 t 、 。 語 T 匂 し 横尾に下った俊直は、共の子共後、共俊の子共明と三代続尾 に位してゐた事は奥山信認によワて明である。共明の子朝請が 井伊谷を去る一里の奥山に披を築き此虚に住した。朝清以来代 身奥山氏と名乗り奥山城に居住し、横尾には問力文右衛門を先 制の墓守として置いた。此の奥山城は後南北朝時代、井伊 O 本 家と共に官軍に味方して大いに忠勤を蹴んだのである。今遠江 風土記によるに 二

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矢口 ’El

奥 山 古 城 奥山六郎日品目遠江介、井伊介族人奥山次郎議原朝藤之域也。 子孫世キ位。而延一冗元年京師兵飢 4 4 時、後醍醐天皇御子宗向島 親王入御此伸明也。慶安四年無文鮮側入御之時、相判藤建立方出胸 中守喜慶一克年二月十五日朝藤卒去、子孫伺績銭知奥山也。足利 将軍十三代之時、城主奥山凶幡守不脳出台命耐落城、其子奥山 源太郎住居子城下。

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城跡花村中高平、郭外三方措溝、郭中 直 南 礎 石 存 吾 向 。

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詩人日奥山城去井伊谷古城一一望。 南方傍記日、一万弘建武の飢の時は、井伊介選政官軍に鴎て 斡功あり。延一克元年十月後陛醐天皇叡山より吉野へ遷幸の時 新聞義貞は一宮隼良親王の供車中て北凶へ赴き井伊介選政は第 二宗良親王の供車中て叡山より遠江岡井伊谷二蹄 P 同郷奥山に 繍籍り、近隣を随て官を守護し世帯る。 太平語径十七︵延元一万年十月十日︶日、東宮一宮中務卿︵等 良︶親王北凶閑へ行啓、妙法院官は御船に被召て遠江凶へ落さ せ玉ひ、阿晶官官は山臥姿に成て吉野の奥へ泌ぱせ給ふ、同誌

(2)

第十九︵延元一万年︶諒江介、井伊介は妙法院を取立て奥山に 械籍

O

兵家茶話一五、延元一万年冬、主上忍で都を出させ玉ひ 楠正成が一一族等召具しで、吉野山に入せ給ひ、出不良親玉は井 伊介選政供奉て遠江閥打閃潰より御舟に召され、美濃地を歴 て尾張図犬山と云所へ渡らせ給ふ。か

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ける稼に同闘中島 の堀岡修掬亮之盛、海部大橋三河守定高等参

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て、遠江幽へ 怠

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参らす、井伊介選政甲斐甲斐しく供世帯

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て己が領内奥山 被に入り事やりて、新助高額をして問中の親族に燭れて招きけ る程に、秋葉の天野一黛を的め奥山、二保、入野等の兵我も 我もと集

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け り 云 一 耳 と あ

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。 井伊介とは十一代遺政の事で、遠江介とは十一一代高田酬の事で ある。遠江介、井伊介之族人奥山次郎藤胤朝藤とあれば井伊家 よ

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分れたる赤佐氏の子孫なる事明である。比の朝療の時、道 政が宗良親王を米じて脆の奥山域に立纏

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武 菌 汚 を 現 し た の で る る。明治問十五年滋賀師駒大演脅の折、明治大帝よ

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井伊光正公 に従三位を遮贈あらせられたのである。然し光正ぽ井伊家の系 園中には無︿、此の時代宗良親王を奉じて義軍を挙げたる井伊 家の一一族なる事疑ひない、然し今ほ系岡巾より落ちてゐる。 現花井伊谷飽湾寺後に宗良親王を祭る官幣中枇井伊谷宮がある 高瀬の女に品息子と呼ぶ者がるって宗良親王の犯となられ、平良 親王、及び榎子女王を御産み遊ばしてゐる。 如新井伊氏、奥山氏からは南靭の大忠医を出してゐる事国股史 上切である。南北朝時代其の系闘を出せば失の迦Pでるる。 白蓮翠人御系議の研究 舟 俳 五 代 六 代 七 代 八 代 九 代 十 代 感直|﹂

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良直||鵡班十|泰直

11

行直

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景直

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一 赤 佐 ノ 組 二 民 三 代 同 代 五 代 目 了後直||共俊トド共明

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朝 清 [ | 盛 朝 一 一 貫 名 誕 = 代 三 代 田 代 一 ﹁ 政 直 | , | 行 直 ト ト l 重貨

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重 忠 | | 日 蓮 一 一 | 直 友 石 野 ノ 極 一 一 十 一 代 十 三 代 十 三 代 十 四 代 十 五 代 以 下 島 ﹁道政卜

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高瀬町十時直

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穎直

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詳直 一|怠子︵謹話侍宗良親一玉川

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産 | | 玉 王 女 子 r

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榎 平 子 良 女 混 玉 玉

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J 井伊家の店開き系闘によると十一代道政よ

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十六代成直に至る 間載ってゐな引のである。十一代忠直となってゐて躍聞い系闘で は南北朝時代の事は全身載らず之は如何なる理由によって落し たのであるか不可解でならない。 比鹿で一言しな︿ではならないのは、井伊家の菩提寺たる井 伊谷鵡源寺の事である。穂調停寺は共保以来代今井伊家の菩提寺 になってゐて、共資公以来の御位牌を安置して特に其の寺の本 堂裏には同家の御魂屋がある。而して共保以来代キ比の龍湾寺 に 葬

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現在も震時の章、‘の共傑の石牌が洩ってゐる。然し共費 公の石牌のみ飽調停寺にないのである。此の事は後に詳し︿述べ る事にして今は同寺の縁起だけ越ベて佳︿。

(3)

日蓮聖人御系一献の糾究 認調停寺は高松山と銃し聖武天皇の御宇天平副高際五年ペ一一間一 三年︶に行来菩薩の闘創に係り常時は八勝山地蔵寺と放した。 即ち寺後に八幡枇あり本学は行系菩薩白作の地蔵傘を安置せし を以て斯︿貌したのである。後悔晶弘七年正月元且共交八幡枇の 井中土日一子共保をね、是に井桁に橘の紋所を奥へ井伊を姓と せしめた。共交は村櫛に逝去し、共保以来代奇此寺に葬り菩提 寺となる、是れ井伊家の淑をなすのである。共保逝去して自国間 院般行輝寂明大崎士と銃するより地歳寺を改めて白調印院と却惜し た。越へて延一疋元年井伊道政、高問刷、後醍醐天皇皇子宗良親王 を米じて義軍を間部・げ井伊城に立箆りしが武運利な

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、 一 万 中 二 年 八月十日親王は空し︿井伊械に義じ給ひ其の御法統を冷湛寺殿 と申し米りし故に此の時又自由即院を冷滋寺と改めた。後又龍泰 寺と改め、永政三年九対十九日井伊在感稲狭間に於て職死し蕗 湾守殿と銃するよ

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又改めて龍海中一寸と稀するに至った。東山天 皇御室同提の伐として、東山天皇御笈翰にて張方の地蔵傘其の他 御 調 度 目 m 鋒御寄贈あり、明治維新に際しては百石の朱印は大字 上地となワた。又符境内を裂きて官を建て宗良親王を祭る之れ 官幣中枇井伊谷宮である。如斯法調停寺は由緒深き古利である、 特に今言はんとする井伊家とは深き間関係を有し、井伊家が彦根 に凶替へになるに及んでも賞主の逝去せし時は龍葎寺より寺主 がわざ

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\彦根に赴き法華経一部を讃諭回向した。如新井伊家 主訟華経とは奮より深︿結ぼれて居る。然るに今回我が門下に よりて滋 H 比されたる共受公墳墓が九百五十年巳来初めて法華経

の供養を受けたるは共の悦びゃ果して如何ばかり、更に此の供 養を待つ事内切な

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しを拝察する。如斯法草常的胞と凶縁浅からざ る井伊家の末より設が宗肌 1 7 出したる事業し偶然とは思はれな い。部岬岬寺は初め三論宗より天台に更に抑宗に改り現在は京都 妙心寺授に鴎し、開創以来数回の火災に遭ひ古書物の大字及び 賓物の殆ん

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烏有に陽してしまった。凶に共交、共保持代はコ一 論宗でるった様である。行基菩薩開創常時は三諭宗で、凸不良親 王の頃に至って天台宗に改宗し、今より問青年桜前更に線宗に 嬰り今日に至ったのである。其の間世有井伊家の菩提寺として 井伊家加護の下に今日に及んだのでるる。而して井伊氏は共保 以来井伊谷に居城し、二十一一一代首政の時三十五夜石彦般に閥替 へとなづた。却ち慶長九年皇紀二二六四年に彦根の城主となワ たの守ある。 井伊家と法華経とは前述の如︿深い凶縁蹴係に賢かれ、徳川 末期に至

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一身を犠牲にして幕府の銭に己が信念に遁遜し、円以 後槙同門外に於て水戸浪士の伐に一命を拾てた井伊掃部頭直弼 も正しく共保より三十八代の正穏である。あの信念を獲得した る締部頭は熱烈なる法華経の信者であった。是と彼とを思ひ合 せる時、むしろ官然の様な気がする。現主伯冊肘井伊泣必伯は四 十代である。以上大体井伊家と龍禅寺の閥係は逮ベ終った。 次に井伊氏より貫名氏の分れたるは何年頃かと一吉ふに、井伊 の五代盛直の四男政直が貫名に下った事は別であるが、其の事 蹟に閲しては一として知る曲がない。遠州貰名山妙日寺は政直

(4)

が城を築き位せし跡なりと言ふ。身延山第四世日義聖人の開創 せられたる寺であると言はれる。其の縁起に 共保より四代を井伊左衡感直と稀す。虚夜に三男あり、一を 井伊次郎良広と稀し︵是れ井伊山本の嫡流なり︶二を赤佐三郎俊 直と松し、一一一を問郎政直 ξ 稀す。政官所領を分ちて山名郡を 知 行 L 、貫名の里に館を築き住ナ。故に貫名を以て氏とし、 貫名四郎政直と披ナ。是れ貫名の品開組たり、其貫名次郎行鹿 其の子貫名五郎重賞に相綴し共の子貫名次郎重忠高肌大菩薩 のか父なり。 と言ふのみで其の分れたる年代等には何等鰯れてゐない。現在 妙日寺には賞名氏先祖の古墳と縛するもの三某ある。是れ先に 石野にあ日しものにして、明治四十年同妙日寺に移せるもので ある。貫名四郎政夜、貫名次郎行夜、貫名五郎重貨と標札が立 日蓮聖人御系議の研究

4

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t ってゐる。然し是れが果して先制の古喰なるや明でない。是れ は大凡七八百年前のものである事は間違ひない。政直が初め井 伊より分家して石野に位したと一古ふ記録はない、俸設によれば 其の古墳に鯛る込ものは必ず病壱得ると、人恐れて近寄らなか った。後是に貫名といふ字のかすかにあったのを見て貫名の先 剰なりとして現在地に移したといふ、今は何が書かれたか不明 である。政直以来貫名に伎し逝去の後石野に葬りたる記録あれ ば、之を以て先祖の古墳と見る事が出来るが、か、おる記録は一史 にない。政直に﹄一子があり、長子は行直、次子は直文と昔日ひて 直友は貫名から更に分家して石野の先祖となってゐる。然るに 其の石野氏に就いては知る肉がない。惟ふに石野の畑中にあり し此の古墳は或は庶友以来の石野家のものに非るか、許し石好 家のものとすれば貰名山に於ては全身別物をお祭りしてゐる事 ・となる。更に研究を要する事 である。故に此の貫名氏の先 租に釘しては知る古事が一も ないといふ事になる。次に同 中一寸に於ける御雨親に就ては闘 の如き御石碑及び碑文がある 日渥聖人とは、延山一一十大世 知見院日制的聖人の事?貫名山 中興ノ関山である。入寂は慶 安一疋年九月廿九日皇紀二三

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日蓮聖人御系譜の研究 八年で、正保三年は皇紀二三

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六年で聖人入寂の前三年に営ワ てゐる。放に此の碑は聖人入寂前三年に建立せられたもので、 今より二百丸十年前のものである。貫名山の開創は延山阿世日 韓聖一人であり今より六百四年前である。此の間妙臼寺に於ては 石碑等無かったものか、御先組に針する研究は如何、然も明治 四十年頃迄御先胞の石碑も建てなかったのであらうか。而して 禁し日善事一一人が田区に同寺の閉山とせば宗加減後直ちに俗姓に闘 する研究が行はれ御先制の御嘗践の保存が議せられたとせば宗 机御俗姓の研究も今臼の如︿至難なものではなかったらうと思 ふ。再考するに日養護人の関創は後人の憶測によるものならん

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善聖人開創が事貨とせば耳目人の研究に多大なるカとなるもの で あ る 。 如斯貫名氏先制に関する研究は至難中の難事である。然し此 虎に其の分家せし年代を俊直の分家より推して、貫名に初めて 分家したのは皇紀一八一

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年となるのは既に前越の如︿である 前して其の居住の地及び墳墓地は未だ確諮を得ざる故例んとも 言へぬ。諸賢の研究に侯ち其の何れの地なるやを明にし以て宗 組への御報恩の一端とせられん事を。

。御雨親に闘する研究

上来井伊、貫名の関係は大体遺ペ終ったか、 b 本項に於ては、 然 、 b ば盛直から分れたる賞名氏は如何なる系統をたどりて重忠 に歪り、重忠は如何なる四日出によ P て小湊に流罪になったかを 二

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内 確めよう。 前段に文献の全部を出したから本攻に於ては特に必要なる部 分のみ抄出 1 て 研 究 を 抽 出 め て 行 ︿ 。 − 、 系 悶 御 書 食貸

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貫名仲太 一 仲 = 了 | 日 蓮 一 | 仲 間 ニ、長秘覚正記 盛直

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! 良 直 一 俊 直

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政 直 | | 口 京 賃 重 忠 ! 日 蓮 = 一 、 宗 国 日 名 目 質賃

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質名仲太 一 仲 一 ニ ー

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日蓮 − 14L 4 B 目 V 回、元副化導詑 重賞

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長男不知 −

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藤 太 一 夫 死 一 仲 三 郎 一 臼 蓮

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藤 平 玉 、 設 音 読 重忠||四男日蓮

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六 、 蓮 租 家 諮 政直

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重賞

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日蓮

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七、貫名氏系岡 時 間 抗 lJ1 良直 一 俊 直 ﹁ 政 直

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直行||重賞

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重 紅 | 事 k 一 一 一

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直 文 一 l l 重忠||一早死 一 日 蓮 ﹁ l 重友 停 八 、 良 質 虚直 i

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良庇 一 俊 直 一|政直|寸行班 1 重貨

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藤太重政 一

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直 文 一 | 重 忠 一 早 世 一 件 三 重 仲 一葉王丸 一 | 藤 平 護 家 即ち﹁系閥御書﹂﹁宗旨名目﹂﹁化導詑﹂等は重賞以前には鯛れ でゐない。詰衝設には﹁怠貨の次子重忠也。師は其ノ第四子也﹂ 左官ひ是又重賞以前は語ワてゐない。﹁寛豆記﹂によれば虚直以 来を諾ってゐる。回定等の文献によれば各国持設を出してゐる。盛 直には古来三人の子があったとしてある。所が井伊氏の系闘に 日慈雲人御系譜の研究 は良夜は次子次郎と呼ぴ、俊碇は第一一一子で三郎止稀し、政直は 四子で四郎と呼んでゐる、故に此の三人以外に長男があり早世 したと見るベ︿、依ワて兄弟四人で政底は第附子となるのでる る。政直に一子と言ふ設

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二子との設との爾様がある。第二子 の直衣を﹁蓮瓢家諮﹂では行直の子としてある。事実はやはり ﹁貫名氏系闘﹂﹁井伊氏系属﹂の如︿政直の次男とするのが疋常 である。行直の子が重責であった事は皆一様である。然し軍貨 を重良と作ってゐるのがある、﹁蓮組家詩﹂がそれである。重貨 の子が三人だったといふのとご人だと言ふのと、又は一人だっ たと雪ふのと三様がるる。﹁系闘御書﹂系統では=一人である。長 男は早世し、次男仲三とは重忠の事で、一九回刀仲問 k は奴何なる 人であったかは明でない。何れにしても重貨には三人の子供が あ

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、重忠が貫名を相績した事は切である。次に重忠に子供が 四人だワたと言ふのと、五人だった正言ふのとご様がある e ﹁ 化 導毘﹂﹁設衝讃 L ﹁蹄品質停﹂では五人と言ひ、実名氏系闘では四 人となってゐる。仲三郎が入るか否かで奥ワて来るのである。 放に宗釈は重忠公の四男といふ設と三男と言ふ設と闘方がある のである。御兄換の中末子の藤卒のみはあウた事が事貨である が、其の他に就いては知る嗣がない。藤平の末孫は現在下線道 フ P ヒ ラ 野晶躍で藤平を姓して品目て豚合議長を廃た裂の名門として今日狛 祭へてゐる。 宗組は御書中に御父が質名京忠であ

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、御母が桜菊御前でる ったな

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とは仰せられてゐない。只諸所に父母、父母と言ふ御 一 一

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(7)

日蓮聖一人御系諮の研究 言葉を御使ひになったのみである。放に御堂同を通じて御父が貫 名重忠であ目、御母が清原氏であったと知る事が出来ない。然 らば何故に御繭親の御名を出さなかったかと言へば次の如︿考 へ ら れ る 。 宗組問宗以来迫害は御自身のみならず門下棺越に迄及んでゐ る。若し父母の御名を出 1 で父母に迄迫容の及ぶ事を恐れて特 に父母父母と仰吋られてゐたと田山はれる。市へ御爾親は領家の尼 御前とは特に親し︿交際してゐた程由絡みのる名門の末であるか ら宗組折伏の反響で御雨親の御赦免が後れてはならないと考へ たから、此の御厨親と領家の尼御前と親交のあった事ば、 領家の尼御前は、女人愚痴なれば人・ 4 の一五ヒ怖せば、さこそ とましまし候らめ。されども恩を知らぬ人とな

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て、後生に 思議に墜させ給はん事こそ不便に候へ共、又一には日蓮が父 母等に尽をかぼらせたる人なればいかにもして後生を扶け米 らん ζ そ 新

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候 へ 。 ︵ 枕 削 減 寺 大 衆 中 御 書 ︶ と村山家と御雨親とは相官親しい間柄であワた事が知れる。一商 是を以ても宗加が一般賎民の子でない事も知れる。 叉宗祖が門下又は主なる檀方に御書を御奥へになるに際し大 体御雨親の姓名は御承知であらうと御察しになっで特に御名を 出さなかワたとも考へられる。叉前惑の如く本地の開旧制法華経 の行者としての日蓮たる事を閣明せんが将仙台るり、又問姓平等 を設き階級打破を基調とせる働敬なる故特に賎民の子主仰せ、 b れて御爾親の御名を関されなかったのである。 二

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六 さ て 然 、 b ぱ重忠は如何なる理由にょっで房州に流凶弾になった かを検して見ょう。 ﹁系岡御書﹂﹁宗国日名目﹂には一家所領の争といひ、其の他で は卒家に奥カした結果との二設がある。山川博士は﹁何かの罪 で安房に流され給ふた﹂と言ワてゐる。﹁化導詑﹂には重貨の 代に流罪になワたと一百ワてゐるが、其の他では議・巾仙の代といふ 事になってゐる。重巾仙の代が正しいのである。 重必公御歳一一一十二建仁三年五月七目安房閣へ流罪になヴたの である。建仁三年は一八六三年に賞り、共資公下向から一一百十 三年後である。此の時重忠公三十二歳であうたから其の誕生は 承安二年皇詑一八三二年である。而して正嘉一一年二月十問日御 逝去遊ばされてゐるから、八十七歳で御逝去遊ばされたのであ る 。 日蓮聖一人御誕生は重忠公御流罪になりてから二十年目即ち皇 紀一八八二年共交公下向から二百三十一一年後で今より七百十四 年前だあり、重巾山公五十一歳の御時である。叉宗一蹴問宗の建長 五年四月サ八日は重忠公の八十一一哉の時に営ってゐる。 悲母梅菊御前は、重忠公より九年後のセ永四年八月十五日御 逝去遊ほされてゐる。皇紀一九二五年で白川机御年四十六歳の御 時である。此庭に一一一一一一しな︿てはならない事は、御母の事であ る。御母は清原氏で、下線八幡郷大野吉請の女で、選野建右京 亮の孫だと言ふのと、山崎左近兼良の女だと言ふのとの雨設が あり、御名を梅菊、又は菊千代と名けた正言はれてゐる。山崎

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袋内民は、合人親王去十五世の孫北両の武士であったと言はれて ゐる。今一般には清原氏で大野 L t 日清の女であったと言ふ事にな ワてゐる。惟ふに重中山公が安房に移された A V 同時は未だ濁身で小 湊に来てから縦菊女が嫁せられたと見るべきである。宗刷御遊 血午中の費用一般は富木氏によって符られてゐた様である。捕時訟 によれば、宮木、竹谷の人身は宇はり遠州の武士で、貰名氏の 同族であったと一言はれてゐる。又大野氏の一族だとも一− E 一 日 は れ て ゐる。何れにしても御雨親の何れかの御一一族であった事は間違 ひない。叉光日房は凸不利の叔母、向師の母と御遺文にある。故 に向附は宗加と従兄滋となる、更に研究を要する事 C あ る 。 古来梅菊女の御年齢に関しては何人も鯛れてゐない、文永四 年御逝去とあるのみである o 星野氏は、 文永元年蹄符の時に急病で昏峰山肌惑に陥つ土事がある、共の 時 八 十 に 近 かったのです。 と 言 ふ 。 小 企 も 稜 キ 研 究訟いたし用採をのの氏野星の此果結。 放御りあで三に八蔵十は四永文の去逝御年重公忠、年三仁建御 流 罪 営 時 は 十 九 歳 と な る の で あ る 。 重忠公一一一十二歳、総菊女は 十 九 歳 頃 小 湊 に 流 罪 に な り嫁すとたれらせに、公忠重頃の此れ ば 少 し の 無 理 も な い 。 き れ ば 文 治元年皇紀一八間五年御誕生で 宗 祖 を 御 誕八るなと時御生歳の十三はのたれらせのである。則 し て七雨御。たワあで歳四重十歳御、は時の去逝御公忠判明が無 く な ら れ て 初 め て 碑 の 建 て ら れ た のが元徳一万年であるから母者 御 逝 去 よ り 僅 か に 六 十十に慨てしに年七四三後滅組宗、目年妙 蓮 寺 が 建 立 さ れ た の で ある。 上 来 連 べ 古 都 り た る 一 本 諮 に 開 削 す る 年代を略闘に一不さぱ左の辺で あ る 。 惟 共 共 9 共 共 共 鎌 名 直

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十 阿 臼 菊 梼 原 氏 誕生承安二年 施罪建仁三年五月七日 逝去正嘉二年一一月十阿日 誕 生 文 治 一 万 年 逝去文永問年八月十五日 誕生貞膝元年二月十六日 間宗建長五年四月サ八日 入滅弘安五年十月十三日 池 精 小 小 小 17 17貫 横 9 井

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萱' {JI" 上 山 湊 湊 湊 名 尾 谷 身 小 小 ク 9 貫 横 17 17 以上を以て家組御系聞の研究を絡

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、以下縁組共資公に就て 語らんとするのである。 組

。縁組共資公村櫛居域

共交公京よ

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下向し村櫛に居城し此鹿に披を築き志棒械と名 け子孫の居城と定めた事は・前既に略是を越べた。即ち共委公年 三十歳正腰元年六月勅命を米じて、夫人と共に遠州の図司とし て遠江園に赴任し村櫛に披を築き佳したのでるる。遠江に十二 郡肢河三河に幾かの地があった様である。共禿に男子がな︿、 名 尾 ,-A.『 一 一 一 重 ー 一 一 一 一 九 九 ヘ 宝 九 八 九 八 八 問 一 八 十 二 四 一 六 三 三三三重さと豆~~二 湊 湊 延

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F、、 一 一 一 一 一六一 後維に非常に苦心せられた、毎年五月元且には隣村の氏神自身 の守護神たる井伊谷八嶋官に参割押し良き後幽偶者の得られん事を 紛られたのである。下向後廿一年目却ち寛弘七年例年の如︿多 ︿の供を従へ、参掛町を済せ神主と共に石段を下らんとする時石 垣の傍の井戸の中に赤鬼の泣聾が聞えた、固定れ紳の臨時へと喜び 成人の後自身の後目とせんと神主に命じて是を繍育せしめた。 時の神主は西尾纏守と言ひ其の子孫を西尾常吉と言ひて今に得 するのである。比の西尾纏守は自身では養育出来ぬ故寺内に住 せ

1

野滞某に授乳せしめたのである。野湾民は七歳迄其の子を

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養育し、天性明敏なりし怨め共費公之を養育せんが岱に域内に 連れ我が子として文武の遭を教へ、二十歳になるに及び其の女 を・似せしめて後繕とし、共保と名け出世の凶縁に凶んで井桁に 橘の紋所を奥へたのである、共保より代今井桁を以ワて外紋と し、橘を以て内紋とした。営時は井桁と橘とは別キの紋所であ った。然るに現衣日蓮門下の代表たる井桁に橘の紋所は如何に して嬰化せられたるものか不明であるが、重山卵胞公が房州に擁さ れた時は巳に井桁と橘の紋でるったと言へば其れ以前に既に二 個の紋所を合せて現在の如きものとしたものと思ふ。此鹿に一 言すべき事は、此の紋所は共保が養父の共美より奥へられたる 事は何人も疑ふ事の由来ぬ事貨である。現在其の井戸は井伊谷 龍埠寺の門前約一町の畑中に現存し其の傍に摘の木があるよP して事貨である。其の井戸は高さ三尺、縦横五尺に組み、其の 傍に橘の木が植

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共委公営時が恩ひ曲される様である。其の横 に碑があ

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、亙面には

日蓮翠人御系識の研究 正商左には 遠江引佐郡井伊谷八幡枇中有御手洗之井上有橘捕時四柄余義胤共 保生於井巾凶以井伊鏡氏以橘銭家紋以井怨幕之紋榊異之事俸 銭家瑞点字五戊辰問月依守島田龍調停寺諦新修浩之歳又加再修仰 襲泉源無窮家運奥久遠汲像流締高代甚向。

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徳二年壬辰八 H n 十五日 共保二十代後胤江州彦根太守正問位 k 行左近衛権中将鎌 待部頭藤原朝臣直該 正面右側には 父直該貞享五年戊辰歳初修神井経十三年夷反証惟出誕又絞十 一一一年豆徳二壬辰段低該再修造今歳又再修鴬伏巽漏紳井災際山本 運興隆偉井徳。 享保九甲反歳入月十五日 共保二十一代後胤江州彦根太守四位行左近衛中将朱締部 頭藤原朝臣直惟 とあり、共保よ

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二十代蔵該の時初めて此の井 を修復したもので其れ以前は現在の如きもので なく、営時の室、ゐ荒臨成して残ってゐたものと考 へられる。一万徳二年は皇紀一九九

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年で共保間 企よ

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一 一 ご 臼 一 一 十 一 年 目 に 鴛

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現在よ

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六百七年 前に常るのである。 然 、 b ば此の井桁に橘の紋所を宗祖が阻却し

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御 使用品地ほされたかと言ふ事である。御書を制押し 二

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日蓮翠人御系譜の併究 又古文献を瓦ても宗祖常時宗組が此の紋所を御使用になったと 言ふ事はない、恐ら︿共の御俗姓と共に御使用品描ばされなか AJ た事と思ふ。停設によれば土の牢に於て日朗上人が橘の呆を抱 いて泣いたとあるが、是れは宗組が橘の貨が御好であったので はなく其の紋所が橘であった事を諾する箆に後人が作った俸設 に過ぎないと思ふ。此出品に注意しなければならない事は果して 宗組は此の紋所を御使別にならなかったにせよ、紋所は井桁に 禍でる

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後我が門下の紋所となった事である、御縁組共資公よ 目出たる紋所が代キ井伊家の家紋とな目、又貫名家の家紋とな って御父草山山公に至っても以然として此の紋所を御侠別になっ た事である。比の紋所よ

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見ても其の御系闘に問惑のない事が 知れ守ぅ。重忠公建州よ

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房州に滅されたる時幕府の役人によ り持ち来りたる出店同胞に井桁に橘の紋所ポ付いてゐた事である。 放に重忠公は此の紋所を御使用になった事は事貨に逮ひない。 然るに宗組は此の紋所を御使用にならなかったのは、その必要 がなかったからである、何故ならば東奔西走、﹁五尺に足らざる 身を一つ置き所なき﹂大要人放に御自身その紋所は一一切御使用 遊ばされなかったと見るべきでるる。若し然らば、此の紋を我 が門下として使用したのは何時頃かと言ふに、未だ研究巾で何 んとも言へぬ。 共交公共保に其の女を嫁せしめ、井桁に橘の紋所を奥へ、新 に井伊谷に新械を築き一切の倒政を共保に議ね、自身は村備に 隠出世して静かに余生を怒ったのである。比の時共資公は七十歳 二 一

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頃であったらし︿思はれる。是より村櫛を古城と呼び、井伊谷 を新城と時んだ。か︿て共資公は、共保の廿五六歳の時七十五 歳伎で逝去し、其の遺言によP裏山に葬ワたのである、是より 此の裏山を御山塚と呼んで村人達が掌崇してゐたのである。か ︿て共保は八十四践活去に至る迄共交の遺志を縫ぎ人民を愛幅惜 し、議閣に共の成を示し年八十四歳寛治七年三月サ日井伊谷で 逝去された。共交公の御逝去の年代は一切不明で只七月一日寂 とのみしてある。共保公は井伊谷に葬られ龍調停寺に石碑が存し て 居

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、一般に寛治七年八月十五日逝去となってゐる。事貸は 一一一月廿日である、八月十五日としたのは比の日は八幡枇の御祭 典で、共傑公は八嶋枇の申し子だから八月十五日が命日だと一 般に考へられる様にな

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何時とはなしに八月十五日寂となった のである。放に事貨は一一一月サ日が命日で、祭典は八月十五日に 行はれてゐた。何れにしても共保と八幡枇とは或る閥係ありと して結び付けられて来たのである。知斯共保は代#井伊家及び 井伊谷村氏によって祭られ、又井伊の元副となった事も決して 偶然ではない。 共保公が京都に崎浴せず村櫛で余生を怒ったから其の墳墓地 は必ず村櫛村か或は其の附涯にあるのが賞然である。共資公が 減を築曹志措仲叫慣と名け其の城祉が村の東南にあり、其の裏山に 小高き丘があ

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、此の丘を古から御山塚と呼ぴ共の附近一帯を 浅間山と呼んでゐた。披祉は明治維新迄は背のま L であったの が養魚が盛んとなり養魚池を治る怨め採り接され今は古の披の

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面影も時間ワてゐない。披は南殿と北殿とに別れ、其の御殿の中 間は平地であり、械の敷地は非常に庚大であワた。現に共資公 の矢訊石なる石が曲目ワてゐる、其れは養魚池を諮るに付き却め 堤の下になづてゐたのを最近掘り返して噴墓の前に出した。庚 さ阿尺に二尺位で厚さ一一パ位の大石で、之が背披内にあったの を見ても際大なる城廓であった事が知れる。又お山塚の下に井 戸がある、此の井戸は昔城内での歓

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水に使用したものと忠は れる。明治の初め頃迄此の地を抜山とも貯び市文集一感一同の城下で あったとは土地の古送の言である。矢研石は背から庄内博松の 氏子が泰日一柳祉の祭典に此の石で矢を研ぎ村内をねり歩いたと の事で、共費公 A V 同時の遺物として質草なる参考資料である。

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維新前官時の大老弁伊都部頭直弼は其の巨を遣して村櫛のお山 塚を調べさせたが常時の村人は後の係り合を恐れ事貨を否定し て何等語らなかったので井伊家に於てもやむを符ず塚にありし 膝を一枚持ち賜ったと、問中長滋と一百へる村人が語づて居る。 城祉は現杭にあっては、只問州或は養魚池で城廓としての何物 をも存してゐない。止日よ

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此のお山家に手を鰯れたる者は必ず 病み、村人達は此の地を千古の不思議として明治ル由来たづたの である。然も村人建は此の向精あ毛城祉並にお山塚一帯を附し て養魚池とする計義が抽出み、附託一帯は堀一辺へされて養魚池と なり、やがて此のお山塚も同様の運命に陥る計査でありた。多 年此の地こそ共資公墳官訟の地な

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と考へたる鈴木行精仰の驚き 一方ならず、先ず其のお塚の問問なりとも土地を買牧し此の理 日蓮聖人御系拙聞の研究 跡を保存せんと途に大正七年に此の地を削の手に隠せしめ、以 来数回今日に至る迄附近の地を民牧し、迭に多年の宿望たり、 一生の大事業たる共資公報恩供養塔建立の運びに至

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昭和七年 十二月十一日此の大事を大成するに至。た。併ふに龍湾寺に於 ける井伊家代身の党主逝去に際しての法華経積読と一一目ひ、今亦 共交公が宗門の師により器開見供養せ、 b れ る 事 と 畳 一 口 ひ ょ く / \ 法 華経に閃縁深き事にて、古来お山塚に手を絹れたる者は必ず病 みたるに、師によ目てなされたる時は何等の異努もなきは、惟 ふに共交公は法華経に縁あり、法草加般の供養を受けん事を願っ てゐたのであらう。由来村櫛村は明治迄は品川敬徒であづたが維 新の陵仰段四梓の際全部紳徒となり、現本五百五十戸の悶村は其 の九割を神徒にして儲か一一割が偽徒で、然も其の併殺徒も蹄宗 である。又井伊谷龍揮寺も共に蹄由民で危る。白川加日蓮大型人の 御縁刺たる共資公が若しも他宗の人の手により夜見せられ、更 に供養を受げたとせば吾々日蓮門下として如何に宗組に商ゆる 事が削来ゃう o 此虚に芳限し孤軍狗立迭に=一十余年苦心惨憾の 結果此の聖跡を我が門下のものとせる師の苦心努力、党︵の功績 は蒸し不朽なるものと言ふべきである。 附が初めて溌見せし営時は荒出出したる州で只僅かに大石の現 が地上に現はれてゐたのみであった。溌見されたる墳墓は二例 のカロウトウより成り中には叙、花器、土訴、玉等があ

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、何 れも千年以上の物にして、明治阿十一年村民によりて溌鋼せ、 b れたる事あり、其の時

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を堀 P たる者は病に躍り更に家が滅ぷ

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日蓮塑人御系譜の研究 故に皆恐れて元のま λ にして置いたとの事で、此の時掘り出さ れたる土器の一偶が村櫛の某所に保存せられ、又其の時の飢を 静岡の奏文庫に史料として保管されてるる。カロウトウは長さ 主尺、巾四尺、高さ三尺伎で石と石とを組み合せ中を安に洞と したもので其の上には天然石が蓋とせられてゐる。共の天然石 の頭が僅かに一寸位地上に現れてゐたのを頼 P に 堀 P 下げて行 。て此の地 ζ そ噴慕な

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としたのである。其の二個の塔は一個 は共費公のものであ

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、他の一例は恐ら︿奥方のものと考へら れ る 。 現在その上に縦三間字、横二聞のコシク F 1 トの櫛を廻らし 中に土浦中に丸︿土を盛

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其の前に大供養塔が建てられてるる お塚は前方は演名湖を一目に見下ろし、遠︿太平洋を望み、後 には千古白雪を説︿霊峰寓士が銭然として鋒へ立ってゐる品開め て風光佳麗の地にして、偉人目蓮大事人御縁組の墳墓としては 民に適したる地である。 九百年巳来地下にるって何等供養を受けられなかった共資公 は、今宇我が日蓮大事人の御縁組として鈴木師によ

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世に公に せられ、日蓮連人の流を汲む宗門人としての吾キもかミる官官び はない。此の慶事は宇がて宗門として、宗門の一大事業として 此の共委公を宗施の御縁組たる誇明を奥へ、宗門の村櫛として 是を宇内に宣揚しな︿ではならない。之れ門下としての目下の 念務である。 只車なる栴陀緯の子として七百年巳来考へられたる宗租も藤 原氏の’末器開たる由緒ある名門の出たる事が譜明せられた。恐ら, ︵宗祖としても此の御俗姓に闘する事は上行再誕としての日蓮 たると共に、藤附郎氏の末賞名重忠を父として御誕生遊ばされた る御自身を御考へ遊ばされた事と息ふ。然も御書中に御系闘に 闘する事の無いのは前訟の掬肉によるものである。宗祖が藤原 氏の末脅たる事が間引とな

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、縁組共費公の墳墓が護見され、此 晶凪に不明なのは質名氏の肌政直以来の事蹟である。

。村櫛村の現肢と是が保存

縁組共委公墳墓地たる村櫛は静岡麻引佐郡にる

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、 讃 松 よ P 西約五盟の潰名糊の突出せる臨間にあ

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、排天島より巡航船の便 あ

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、 又 甜 副 松 よ

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乗合自動車の使がある。戸毅五百五十を有し 織業が盛で、 b T 農宇漁で近年養魚が非常に底となった。村民は 大体格耐なる生活をなし、宗教は金村のえ割絡が神徒で他は輝 宗である。寺院は騨寺が一ケ寺あるのみでるる。明治維新迄は 村の全部が蹄宗に跨依してゐたが、時の代官が先頭に是隼の寺 院を全部品脱抑ひ住職を遁ひ、暫︿無宗敬の歎態にあった。此の 寺院を晶旗揚った代官は熱病に擢

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其の他の暴徒も悉︿或は護狂 し、或は熱病に、或は死亡し子孫に至るも紛其の影響を受けて ゐる。維新後村民の会部は紳徒とな

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、近年に歪

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村 民 の 一 一 部 が暴惑の報を恐れ諦寺を建立し、村の一割が之に賜依するに至 った。然れ共其の大部は依然として神徒下一るる。村人の紛んど は無宗教の如き朕態で報恩概念乏し︿、他村との往復少︿、か

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、ゐる村氏を釣手に此の塞跡を保存せんとした師の苦心の稗は察 するに余りある、初め此の遺跡の譲渡を交渉せる時村人達は取 り取りの噂をなし、皆冷笑をあびせた。然れ共師はかう岳事に 頓着せず、自己の信念に向って宿泊溢し途に此の地を譲興せられ た。此の頃村民の中に品郷土愛護舎なるものが組織され、比の地 の由緒あるを知

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共に保存せんとする議が興

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、漸く此の事業 が是等の村氏によ

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併せられ、現在に於ては村の大部が宗肌の 信者として題目を喝へ信行する総になった。然れ共此虎に一・寺 を建立 U 村人をして我が門下に改宗せしむるにはまだまだ遠い のである。一村改宗の気還がないではないが未だ其の時機でな い u 此の村櫛一村を改宗せしめ宗組の膝下に脆かしむる事とそ 谷々門下に奥へられたる任務である。村綿一村改宗せる時間 ζ そ 共資公も漢に日蓮火事人の御縁組として村人に命敬せらる L 時 であ

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、かくして ζ そ此の地に一寺を建立し良に敬線披張し宗 祖に針ずる報恩の意義も存するのである。 舎で昭和八年復興祭を修したる時村氏一同太鼓を手に明題し 乍らお山塚に至る閃挺々と行列したのである。又越へて昭和九 年身延山法主現管長望月日謙況下静岡豚下御穀教の際は、わざ

1

1

、村櫛に御多野なされた、此の時金村の小血中生、青年問、魔 女舎、消防組等老も若きも男女を論せず総出で法主狽下を御迎 へ申し上げ、見︵鮎砿の設に時ならぬ題目の撃が咲いたのである。 望月現下には非常に御尽激の事の採に山押して府る。昭和の牛迄 題目の感さへ聞えなかうた此の海泡に今や除今に題目の撃が関 日蓮聖人御系純の桝究 かんとしてゐる。是れ九百五十年の背縁組共禿公が初めて此島 にトし、後日蓮聖人を問し、今又鈴木附の懸命なる努力の結果 此の成果を得るに至ったのである。今や此の聖跡を有する村民 が邸中って郷土愛護舎なるものを組織 1 、此の由緒ある遺蹟を長 ︿保存すペく計輩してゐる。誠に著しき品開である。二十年前此 の地を接して養魚池とせんとした村民が、鈴木氏と共に此の地 を長く後世に俸へ、庚く世間に紹介せんとしてゐる。 n A 正 を 閣 時 げ 挺に腸依せしめんとする第一歩は即ち村民の蹄依であり、村氏 の跨依はやがて一郡の蹄依となり遂に閣制げに鼠依せしむる事が 出来るのである。今儲かに其の酷民生地たる村闘すらも隠せず、只 溌端を岱すのみである。否門下の使命として近き将来に於ては 必ずや此の村櫛をして宗門の村簡として世に紹介すべきである 是れ主同等に諜せられたる重大なる使命である。

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共詩文公下向して初めて村慣に居城した事は明なるも其の墳墓 地に至つては何人も知る事が出来なかった。只村櫛に伎せし故 或は村櫛に其の澄践が存せしかとの疑問は抱いてゐた。然も此 の疑問の解決は九百年巳来何等具体的方法が議ぜられず、只俸 設として村の東北の小高き丘をお山塚と曾稀してゐたのみであ った。然るに明治四十年町村人によワて此のお山塚が護掘され 暗恨ん吋なる遺品現れ、其の一部は東京、静岡及び同村に、残像は 其のま弘北︵の地に地め、掘り出されたる口聞は何れも千年以上の

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日蓮聖人御系譜の研究 物にて共委公の使用せる事療然としてゐる。鈴木師は既に其れ 以前に岡村の何れにか必ず墳墓がある井考へ、其の地を零ぬる 事切なるものがあった。大正七年村の長老問中長藤氏よ

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此 の 後掘せし事と、明治の前井伊家主

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お山塚を尋ねし古事を聞き 此の地とそ豆し︿縁組の墳墓なる事を確信し、 R 定を自身の一事 業として世に公にし以て宗祖への御報恩に髄せんと企たのであ る。褒見された古墳が果して共費公の墓地なる中否宇を吟味し て見宇ぅ。現今のお山援のある岬を志樟崎と言ふ、且 H 志棒三郎 が初めて此の地に披を築きたる故其の附託を極相僻して志滞岬と 言ってゐた。此の志晶伸一一一郎とは共養の別名である。古書によ P 共資公が此の地にトし最後又此の地に永眠したのでるるから 材櫛か或は其の附涯に墳墓があるに決ってゐる。龍掠寺並に井 伊家に於ても是を尋ねてゐた事も無現はない。溌見された遺口聞 が一千年前後の物であ

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、此の時代共費公を除いて此の地に位 した有名なる人の無かった事、村人が曾島市してお山田部と町んで ゐた事、明治初年迄披祉があ

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、南北爾殿に分れ其の中間に平 地があ

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、要塞堅闘なる披廓であった事年種キ綜合するに正し ︿共養公の墳墓なる事明でるる。比に粛眼し=一十余年迭に此の 地に供養稽を建立し、一寺院建立の計筆中なのが鈴木師である 師が今後如何にして婁蹟を保存し、世に公に紹介し宗胞の御縁 胞として褒表するか其の完成の一日も早からん事を新ると共に 宗門として此の大事業を綬助し共に共に此の大業の完成を期す べ き で あ る 。

上来連べ来った宗肌の御系倒並に新に夜見されたる御品開釈共 費公に就ては宗祖滅後六百笠十五年を際たる今日何人も発見さ れない事貨である。放に古来の設とは非常なる間隔がある。即 ち藤原氏と一一一同氏との闘係、共費、共保聞の消息、井伊紳舵と 八幡枇、貫名氏等でるり就中縁組共委公墳墓に就ては何人も一 言も鯛れてゐない v 。殊に宗胆として一般に認めざる御俗姓を主 張し、勝陀羅の子を由緒ある名門の流な

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− と 断 定 し た る 事 に 就 ては、諸師諸問先輩の誇を完れないかも知れぬ、然し以上述べた る事前によ

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鱗陀羅が子としての宗胞を藤原、一一一闘の末流な

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と謹明を加へたのである。生の浅祭にしてか− A る研究は潜越な るかも知れぬ、が然し宗胞に針する報恩の一分として此の齢跡事 を敢でしたのである。願︿ば詩師先輩、生の及ばざる所は責め る事な︿不足せる部分は補ひ以て本研究の完成へと御指導下さ れ ん 事 を 。 生此の縞を起すに営

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、井伊谷部海寺、村櫛材、貫名山、絞 尾及び小湊毎臼誌に閥係を有する地を尋ね、或は書し、或は聴き 又は第し、事貨と偉設と割問し以て不完全乍ら此の稿を股する 事が出来た。然れ共未だ不完全厳重

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不足せる部分多︿研究出? なる部分多々ある。此の研究は生の一生の事業として遜むペ︿ 未だ着手して臼倫浸︿充分研究する暇な︿今後の研究を侠ち大 成せんとする念顕である。以上を以て本稿を終る。 南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経 昭和十一年六月十五日

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