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IRUCAA@TDC : 東日本大震災被災状況レポート : 気仙沼から

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Academic year: 2021

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Posted at the Institutional Resources for Unique Collection and Academic Archives at Tokyo Dental College, Available from http://ir.tdc.ac.jp/

Title

東日本大震災被災状況レポート : 気仙沼から

Author(s)

鈴木, 一雄

Journal

歯科学報, 111(5): 467-472

URL

http://hdl.handle.net/10130/2620

Right

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はじめに 私の歯科医院は昭和45年に建てた小さな5階建て ビルで,気仙沼湾奥の魚町の中央に位置し,海岸通 から1つ後ろの旧国道に面しています。私の父は子 供の頃日本橋に住み関東大震災を経験したことか ら,歯科医院ビルの建築時には施工業者に普通の場 合よりも2倍量多くのパイルを岩盤まで打たせたと よく話しておりました。医院は1960年に発生したチ リ地震津波では床下浸水でしたが,今回の震災では ビルを4.5mの大津波が通り過ぎていきました(図 1)。 地震の横揺れは長いものでした。揺れている最中 に停電し,レセプト用パソコン,石膏模型,技工 物,カルテなどが一気に散乱し,ジェットコース ターには強い職員もさすがに今回の揺れは恐怖だっ たようです。気仙沼市は町の中心部がほぼ壊滅し (図2),公的機関は麻痺状態でした。銀行は信用金 庫一支店を残して全滅,全壊した警察署は防災セン ターに移動,市役所も1階が冠水し2階が一部避難 所になる状態でした。このたびの東日本大震災を被 災した者の一人として歯科医師の立場から私の体験 したこと,考えたことをお伝えしたいと思います。 1.食料と燃料 震災直後に抱いた一番の不安は停電・断水中の 「食料と燃料」問題でした。私の場合を紹介する と,米は玄米と餅米がそれぞれ70kg と20kg ずつあ りましたが,停電のため精米することができず食べ られませんでした。発電機を備えていなかったこと を後悔しました。水は家の井戸を使えばよいのです が,近くに道路ができてから井戸は濁ったままと なっており飲料には不可でした。車は津波で2台流 されてしまいましたが,幸いガソリンが3分の2 残っているホンダフィット1台は流されずに済みま した。これまでの経験からこの車はリッター16km 走りますが,使用は最小限に止めました。まず始め に行動したことは飲料水の確保でした。まだ雪が積 もっている山道に入り,糞尿の心配のない人家ギリ ギリまでの上流から水を汲み20L容器6本に詰めて 運びました。炊飯は家内の実家にある釜戸を復活さ せました。燃料の薪は倒木した沢山の杉の木を利用 しました。井戸水は釜戸で湧かして身体を拭くのに 使いましたが,「電動水ポンプ」を外して深さ11m から手汲みしなければならず,これはかなりの筋ト レになりました。 震災から2週間を過ぎた頃,検死場でお巡りさん 達がお風呂に入っていないと聞きました。私の自宅 は防災センター近くにあり,震災後1週で電気と水 が復旧していました。そこで遺体安置所の指揮官に 我が家の風呂を使って欲しいと申し出たところ「自 分達仙台から通勤の派遣警察官はシャワーを使って いる」とのこと,「震災以来風呂に入っていないの は地元気仙沼の署員です」とのお話しでした。そこ

東日本大震災に学ぶ

東日本大震災被災状況レポート:気仙沼から

鈴木一雄

キーワード:東日本大震災,津波,気仙沼,検死,教訓 宮城県 (2011年9月1日受付) (2011年9月15日受理) 別刷請求先:〒988‐0013 宮城県気仙沼市魚町2−3−4 鈴木歯科医院 鈴木一雄

Kazuo SUZUKI:Situation Report from Kesennuma on Great East Japan Earthquake(Miyagi Prefecture)

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で警察署長さんに面会し,お風呂の使用を申し出た のですが「市民が我慢している時に我々が入るわけ にはいかない」と辞退されました。 防災センターは消防と警察そして避難民でごった 返し,仮眠する場所もままならない状態でしたの で,警察署長さんから24時間体制で市内をパトロー ルする兵庫県警警察官の仮眠所として拙宅を使わせ てほしいとの申し出がありました。仮眠するだけな ので布団は使わず寝袋を使うとのことでした。その 後,千葉県警も合流して気仙沼の広い市内を隅々ま でパトロールし市民の安全を守って頂きました。 2.検 死 市内に在住のK先生から検死に参加して欲しいと の依頼があり,警察歯科医のS先生と私そしてK先 生を加えた3人が検死にあたることになりました。 K先生が検死に参加したのは自院に勤務する衛生士 さんを捜すのが理由でした。 3月21日に宮城県歯科医師会から来た応援の先生 の検死を見学しました。ご遺体は停電,断水中の体 育館に安置された棺の中でした。懐中電灯は県警が 持参した旧豆球タイプで,さらに電池が切れかけて いるのでとても暗く不自由しました。私ども3人は LED のヘッドライトを装着していましたが,これ でも暗いのです。 私が送迎を担当し,翌22日から寒さ対策を講じて 安置所に出かけました。初日のご遺体は17体でし た。検死はご遺体の開口から始まり,日暮れ時の暗 い中3人で手分けして歯式のスケッチに1時間かけ て清書を行い第一日目が終わりました。この日の検 死で,器具は自分で工夫するしかないと気がつき早 速診療所から開口器,デジカメ,口角鈎口腔内撮影 用ミラーを持参し,そしてバイク用バッテリーを使 い40Wのライトを組み立てました(図3)。ご遺体の 口腔内はヘドロが詰まり真っ黒なのでペーパータオ ルでふき取りブラッシングするのですが,水銃とバ キュームがあればと,この時しみじみ思いました。 開口器は東京歯科大学51年度卒生が提供してくれた ネジ式と,私が持参したグリップ式が絶妙の組合せ でとても役立ちました。 気仙沼は地震,津波に加えて火災(図4)にも見舞 われたので多数の焼死体も運ばれてきます。県警の 指揮官から前日検死したご遺体の再検死を依頼され ました。ご遺体は開口できずに前歯だけの検死のた め,身元の判断が不可能だったとのことです。この 図1 津波に襲われた直後の診療所風景 図2 壊滅した気仙沼市内 図3 検死に使用した手作りのライト 鈴木:東日本大震災被災状況レポート:気仙沼から 468 ― 12 ―

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日は,当日行う検死の前に7体の焼死体が待ってい たのです。3人の歯科医師が交替しながらの検死作 業で,1人が記入,1人が検死,1人が照明と撮影 を担当します。開口器は前歯にネジ式をかけると歯 が動いてしまうので犬歯と小臼歯の間に掛けます。 このネジ式はノッチ部分が短く開口途中で滑るので す。もう1つ溝が多ければ使いやすいと思いまし た。そして反対側にグリップ式開口器を入れて一気 に開口します。この日からK先生は「焼死体の検死 は,地元気仙沼歯科医師が担当します」と書いた紙 をテーブルに置きました。地元気仙沼市の歯科医師 が3人で検死をすると「この義歯は自院で作ったも のだ」とか「この冠は誰々先生の仕事だ」とか「義 歯に名前を入れているのは誰々先生」とその場で分 かるのです。該当の歯科医師には私達か鑑識さんが 連絡を取りました。 気仙沼市立面瀬小学校体育館では,私達が検死す る場所とご遺族が遺体確認をする場所が一緒でし た。ご遺族が近くに居る場合には私達は検死を一時 中断していました。ご遺体を確認した女性は大声で 泣きます。この声を聞くと私は顔を上げられませ ん。男性は棺に跪きただむせび泣きます。安置所の 外で地面にしゃがみ込み涙するのです。 ある日,歯科検死とカルテが一致して身元が判明 してもご遺族が納得しないので先生に説明して欲し いと鑑識から連絡を受けました。このご遺体は私の 古くから付き合いのある男性患者さんでした。検死 も私達のチームが担当していたので撮影した写真が 手元にありました。ご遺体を撮影したカラー写真を 直接お見せすることは避け,パソコンでモノクロ写 真に一度変換した後,歯だけをプリントしたものを パノラマ写真と比較してご遺族の娘さんに説明し, 納得していただくことができました。彼女の話では お父さんは2階にいれば安全だから大丈夫と言って 避難せず津波に流され,さらに夫は義母をおぶって 逃げる途中に津波に飲み込まれました。家とともに 全てを津波に流されてしまったとのことです。今, お父さんのカルテの5年保存場所は彼女の現住所と なっています。 3.診療再開 宮城県歯科医師会から「私物を持って引き上げる ように」とのお達しがあり5月11日を最後に,検死 を終了しました。私が検死に参加したのが3月22日 からで,この間に発見されたご遺体数は436体でし たが3月11日から3月21日までの10日間で発見され たご遺体数490体を加えると926体に上ります。大規 模災害における歯科の検死体制は立派なマニュアル はあったのですが,実際に準備してあったのはマ ニュアルだけで器材も予算も何から何までなにも無 かった,というのが現状です。1日何十体と運ばれ てくるご遺体の検死はどうあるべきか法制度も含め て考えさせられます。 5月12日から後は日本歯科医師会からの派遣歯科 医師が検死をするとのことでした。この時期,K先 生はすでに通常どおり診療をしていました。私は12 日から大型ディーゼル発電機と2t の水タンクを, 冠水を免れた3階治療室に接続し水をポンプアップ しての診療再開でした。但しパソコンだけはイン バーター発電機でしか使えません。一方,診療室が 完全に冠水したS先生はいまだ診療所を開くことが できずに失業中で,引き続き検死を希望していまし た。宮城県歯科医師会からの要望により8月からは 検死は再び地元の歯科医師が担当することになりま した。 震災後まもなく警察から各歯科医院に行方不明者 リストが渡されました。私が受け取ったのは31名の リストでした。全員が国保の患者さんです。このリ ストは市町村国保が震災で行方不明となっている者 の最終歯科診療所受診履歴を歯科医院別に作成した ものです。私はこのリストを基に該当する患者さん 図4 津波で流され炎上した船 歯科学報 Vol.111,No.5(2011) 469 ― 13 ―

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毎に口腔内歯式図の画面とパノラマX線をそれぞれ プリントして警察に提出しました。 ある日,私の治療室に千葉県から震災後不明と なっている父母を捜して歯科医院巡りをしていると いう娘さんが尋ねて来ました。彼女のお父さんが平 成4年に当院に通院した記録が私のパソコンに残っ ていました。彼は国保なので警察のリストに名前が 記載されていると思ったのですが,記載されていま せんでした。警察から手渡されたカルテデータは全 て平成18年以降のものだったのです。その理由は役 所の記録保存義務が5年間のため,役所のパソコン が自動的に5年以前のデータを削除した結果,警察 に手渡されたリストにははじめから彼の名前は記載 されていなかったのです。いずれにせよ,国保の不 明患者さんのリストは比較的早くできたのですが, 社保からは未だ行方不明者リストは出てきていませ ん(8月31日現在)。ご遺族はこれからも各地の歯科 医院巡りの旅を続けることでしょう。 後日談:私の診療所を尋ねてきた千葉県のご遺族 は,私から国保リストの話を聞いて市役所保険課に 行き,お父さんが通院していた歯医者さんを見つけ ることができました。お父さんは今年3月に気仙沼 の歯科医院に通院しており,診察したのは検死で一 緒のK先生でした。総義歯の印象模型を持っていま した。鑑識さん曰く「その総義歯の模型でどうやっ て本人確認できますか」,私「ご遺体の顎と比較し なくては……K先生に任せましょう……」。 震災後ライフラインが全滅した中で1台の診療台 を動かすには電気と水が必要です。私の二男が3月 にウクライナへ赴任する直前に「何か出来ることは ないか」,と聞かれた私は「発電機が1台あればユ ニットを1台動かせるので手配できるか」と伝えま した。彼は事後を後輩に託してウクライナへと飛び 立ち,私とその後輩某氏との間で,気仙沼の状況も 含めたメールのやり取りが始まりました。このメー ル交換を知った上司の本部長(本田技研工業)の取り 計らいにより,気仙沼市にもポータブル発電機15台 が寄贈されるという話に発展しました。そこで,気 仙沼市の危機管理室に発電機15台を寄贈したいので 介護施設で役立てて欲しいと伝えたところ,その場 で高齢介護課長が呼びだされ担当責任者が決まりま した。現在,発電機は市役所の停電時 PC 用として 危機管理室に1台,総務課に2台が設置されてお り,さらに2台は避難所の公民館にありますが,残 念なことに残り10台の行方は不明のままです。 気仙沼では土曜日の夕方になると休日当番の医院 を放送で知らせます。私の震災後初めての休日当番 は8月7日でした。「休日当 番 医 の 放 送 で こ こ が やっていると分かったでばぁ∼」という患者さんが 4人ほど来院しました。 4.震災の教訓 1)ガス壊疽 川を流されているお婆さんを友人が救助しまし た。彼はその時小指に傷を負ってしまい市内の病院 を受診しましたが,担当医に「指を切断するように なるかも」と言われただけで投薬を受けることなく 帰宅しました。翌晩から局所の腫れと高熱が出たの で,彼の息子が急いで岩手県立磐井病院に連れて行 きました。そのまま救急車で盛岡の岩手医大に運ば れ「ガス壊疽」の診断で入院,小指を切断して帰宅 しました。 2)DNA 鑑定用の抜歯 3月は寒い日が続きましたが4月に入るといわゆ る三寒四温で気温の変化が激しくなります。朝起き て寒い日は死者にとっては安らげる日だと思いまし た。DNA 鑑定は宮城県では地震で検査機器が壊れ て使えるのが1台だけと聞きました。DNA 鑑定用 に最初は血液を採取していましたが,血液採取が困 難となると次第に爪に移行してきました。ところが 爪も採取できない場合には,歯を抜去し,これの歯 髄を用いて DNA 鑑定を行います。4月末,ある鑑 識さんが「抜歯って難しいですね」と言ってきまし た。「どの歯が難しいの」と聞いたところ,「親知ら ずを抜く為にその前の歯を抜くのが難しかった」と のこと。歯の癒着とか弯曲の話をして,「誰が抜い たの」と尋ねると「私が……」と。私は驚いて「何 で抜いたの」と聞いたら,「ペンチで……」。私は仰 天して「抜歯鉗子を明日持ってくる」と申し出たと ころ,S先生が警察署に既に届けてあるとのこと。 直ぐに取り寄せ必要な鉗子を並べてから現場で抜歯 の実施指導をしました。最後に「これからは検死担 当の歯科医師にお願いするのがいい」と鑑識さんに アドバイスしました。 鈴木:東日本大震災被災状況レポート:気仙沼から 470 ― 14 ―

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3)ポータブルX線装置 検死の過程でレントゲン撮影装置が手元にあれば と考えるようになりました。昨年,気仙沼歯科医師 会で説明を受けたアイデンス社の歯科ポータブルX 線装置 NOMADⓇ の存在を思い出し,早速,アイデ ンスに連絡し検死に使用したい旨を伝えたところ大 変好意的な配慮を頂き,4月15日搬入,18日から使 用することができました。検死歯式と歯科医師が提 出したカルテに記載されている歯式とが一致しない ため身元が確認できない二人のご遺体にこの装置を 使用しました。フィルムは自院に持ち帰って現像し ました。検死に立ち会った鑑識さんは撮影されたレ ントゲン写真をみて,その威力に感心していまし た。鑑識さんの中にレントゲン技師の有資格者がい て「これ欲しいな∼」と話していたので,私の検死 終了後にこのポータブルX線装置は宮城県警に寄付 しました。 4)先手必勝 震災後,道路は瓦礫だらけでした。移動手段は徒 歩か自転車です。そして私の通勤用自転車は2台共 すぐにパンクしたのです。犯人はクギとガラス片で す。私は震災3日目に50cc バイクを買いにバイク 屋に行きました。新品のバイクは並んでいるのに店 主は「売れない」と言うのです。「市役所の手続き が出来ない。電話が不通で自賠責の手続きができな い」という事でした。そして「中古のバイクは昨日 で全部売り切れた」とのお話。私は出遅れたので す。 8月に入り仮設住宅の建設戸数は3,400を超えま した。しかし素早く行動した人達は一戸建てや民間 アパートに入ったのです。被災建物のリフォームの 場合も同様で,建築資材と建築関係職人の手配は素 早く動いた人の勝ちでした。後手に回った人は,政 府方針の仮設住宅建設優先による資材と職人不足の 為,個人のリフォームは遅々として進みません。 5)地震保険 地震保険は損保会社の火災保険に入っていないと 加入できません。そして住宅にしか適応されませ ん。事業所は駄目なのですが住宅兼用だと加入でき るのです。内容は全壊で火災保険の2分の1が保証 され半壊でその半分,一部損壊で5%です。今回の 震災で分かったことがあります。津波が概ね1階天 井まで浸水すると全壊,床上浸水概ね1mで大規模 半壊,床上浸水が半壊,床下浸水では一部損壊と判 断されます。地震による一部損壊について何がどれ だけ倒れたかは,写真撮影することをお奨めしま す。家内は自宅室内の様子を撮影していました。宮 城県の地震保険加入率は3軒に1軒の割合で,復旧 にすぐ取りかかれた人の多くは地震保険の加入者で した。震災の地では地震保険加入の有無がその後の 復旧の明暗を分けたようです。 おわりに 漁師は津波注意警報が出ると船を沖に出して船の 安全を計ります。唐桑町舞根で2番目に湾から脱出 できた漁民の話を聞きました。曰く,「地震直後に 水が引きはじめ,引き波に乗って全速で湾口に走っ た。湾外に出て何マイルかしてぶつかった津波の波 はたいして感じなかったが,振り返った陸地は真っ 白になっていた。そのうち瓦礫が流れてきて夜にな り,燃えている家も流れてくるので危ないため,一 晩中沖で過ごし翌朝帰港したらこの地区には誰もい なくなっていた」。 何十台もあった牡蠣筏は遠くの1台を残し全て消 えていました。寺釜という大きな農家も土台だけ残 し消えています。残骸もありません。津波が全てを 太平洋に運び去ってしまいました(図5)。 唐桑町舞根湾は私の憩いの原点です。ここは水中 ダイビンクをし,また子ども達と一緒にキャンプを した場所なのです。これからどれほどの時を要する 図5 津波で流された唐桑町舞根湾沿岸 歯科学報 Vol.111,No.5(2011) 471 ― 15 ―

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か分かりませんが,震災前の美しい唐桑町舞根湾 (図6)が蘇ることを願ってやみません。 今回,未曾有の震災に遭遇した私の体験を様々に 書かせて頂きました。本レポート執筆の機会を与え ていただいた小田豊歯科学報編集主任に感謝申し上 げます。また大震災に際しましては,ほんとうに多 くの方々よりご連絡,励まし,お見舞い,そして義 援金を頂戴いたしました。誠にありがとうございま した。心から御礼申し上げます。 図6 震災前の長閑な唐桑町舞根湾 湾内にたくさんの牡蠣筏がみえる。 鈴木:東日本大震災被災状況レポート:気仙沼から 472 ― 16 ―

参照

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