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ムンクの《病める子》とそのコンテクスト : 19 世紀のノルウェー人画家との関係

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ムンクの《病める子》とそのコンテクスト : 19 世

紀のノルウェー人画家との関係

著者

川? 辰洋

雑誌名

人文論究

64/65

4/1

ページ

203-222

発行年

2015-05-20

URL

http://hdl.handle.net/10236/13285

(2)

ムンクの《病める子》とそのコンテクスト

──19 世紀のノルウェー人画家との関係──

川 﨑 辰 洋

Ⅰ は じ め に

ムンク(Edvard Munch, 1863−1944)の 《病める子》(1885−86 年)【図 1】は,彼が 独自の絵画表現を模索しはじめた作品の一つ として知られている(1)。《病める子》は,ム ンクの記憶にある姉の死を表現するために描 かれた作品で,後に数度再制作された。ま た,ムンクのライフワークでもあった〈生命 のフリーズ〉における重要な作品でもあり, 彼はこの作品をフリーズの第一の作品であ り,主要な作品でもあるとしている。これまでも多くの研究者がこの作品につ いて言及しており,《病める子》はムンク研究において重要な位置をしめる作 品であるとされている。しかし,それらは多くの場合,ムンクと《病める子》 の独自性を示すものであった。これに対し,作品が描かれた当時のコンテクス トにおける連続性については散発的に語られているのみである(2) 十九世紀末のノルウェー絵画では,パリの印象主義からの影響は当然なが ら,ドイツロマン主義のフリードリヒやダール(Johan Cristian Clausen Dahl, 1788−1857)からの風景画の伝統も受け継がれていた(3)。十九世紀後半

にはクリスティアン・クローグ(Christian Krohg, 1852−1925),フリッツ・

【図 1】ムンク《病める子》1885 −86年

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タヴロウ(Frits Thaulow, 1847−1906),エーリ ク・ヴェーレンショル(Erik Werenskiold, 1855 − 1938),シテ ィ ・ シ ー ラ ン ( Kitty Kielland, 1843−1914)などをはじめ,多くのノルウェー 人画家が活躍している(4)。このうち,ムンクが 師事していたこともあるクローグの描いた《病め る少女》(1880−81 年)【図 2】は《病める子》と 比較される機会が多い(5)。《病める子》では細部 の表現が省かれているのに対し,《病める少女》 ではモチーフが詳細に描かれている。この二作品 を比較することで,ムンク作品における表現の独 自性が明らかとされてきた。モチーフについては 先述のように,ムンクが実姉を看取った体験を持 つことがその内面性を表出することにつながっているとする特徴づけがなされ てきた(6)。しかし,病床の少女というモチーフについては,荒屋鋪透(7)やエ ッグム(8)などが述べたように,一般的な題材でもあった。 《病める子》のモチーフについては当時のコンテクストを参照することで, その連続性を確認することができる。その独自性について言及されてきた表現 の面でも,このように歴史的コンテクストに目を向けることで他の画家とのつ ながりを見出すことができるのではないだろうか。メッセルはムンクの《夕 方》(1888 年)の制作背景にフレスクム画家の存在を指摘している(9)。ヴォ ルやエッグムなど,現在の主な研究家が,《病める子》に言及するにあたって 常にフレスクム画家の存在へ注目しているわけではない。しかしながら,これ まで語られてきたようにムンクが周囲の多くの画家から影響を受けていること は無視できない。そのため,ここではフレスクム画家についても意識しなが ら,《病める子》の,先行する文脈との連続性について一貫した特徴づけを試 みたい。 【図 2】クローグ《病める 少女》1880−81 年 204 ムンクの《病める子》とそのコンテクスト

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Ⅱ 《病める子》における表現

《病める子》の初作は 1885 年から 1886 年の間に制作された。この作品は 1886年 10 月 18 日に,ノルウェー国立美術館の秋季展覧会で初めて公開され ている。今では《病める子》として知られているが,当時は《習作》と題され ており,後年ムンクによってタイトルが変更された。画面も今とは異なってお り,後に画家によって手が加えられている。公開された当時,《病める子》は 痛烈に批判されるが,同時に画家の才能も評価されている(10)。ビェルケはこ の出来事を振り返り,「それはムンクがノルウェーのローカルなアート・シー ンを打破したもので,1892 年のベルリンでヨーロッパにおけるそれを引き起 こす予兆でもあった」(11)と述べている。《病める子》はただ非難されたわけで はない。この作品は芸術家たちなどの一部に過ぎないとしても,理解され,受 け入れられていた。このことは,逆説的にノルウェーにはすでにムンクの絵画 とその表現を受け入れる下地があったことを示唆している。《病める子》完成 の前年に,ムンクはタヴロウの支援を受けて,初めての海外旅行でアントウェ ルペンとパリを訪れている。このとき,ムンクは印象主義の画家たちの作品を 直接目にしたと考えられているが,そのことについての詳細はわかっていな い(12)。《病める子》はこの旅行から戻ったムンクが一年かけて制作している。 確かに,作品制作の直前に行ったこの旅の中で受けた影響が作品に反映されて いる可能性は高い。しかし,1885 年までムンクがノルウェー国外へ出ること はなく,クローグやタヴロウに直接指導を受けていたこともあった。このため ムンクの作品について言及するならば,ノルウェーの絵画からの影響を無視す ることはできない。これまでの研究者たちも,《病める子》に言及するに際し て,ムンクと親密な関係だったノルウェーの画家の一人であるクローグの《病 める少女》を避けることはできなかった。 エッグムは,1989 年のモノグラフの中でムンクの《病める子》とクローグ の《病める少女》を次のように比較している。 205 ムンクの《病める子》とそのコンテクスト

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クローグの《病める少女》との比較によって,伝統に逆らうムンクの芸 術の新たな要素が明確になる。クローグのスタイルがドイツのヴィルヘル ム・ライブルの流派に基づいた,詳細な細部表現からなるリアリスムであ ると特徴づけることができるのに対し,ムンクの絵画では細部表現の欠如 が明白である。[中略]クローグの作品では雰囲気[atmosphere]がな く,空気に一点の曇りもない。ムンクの作品では雰囲気[atmosphere] が集められていて触感がある(13) エッグムが言うように,一見この二つの作品では違った印象を受ける。彼は そこでは指摘していなかったが,両作品において少女の手の肌の青白さが強調 されていることには言及しておかなければならない。ムンクの《病める子》の 少女の手では,クローグの《病める少女》と比べより強調された表現がなされ ているが,どちらの作品においても顔より血の気のないその手は,鑑賞者が少 女の病状を想像する一助となっている。《病める子》の少女の手について,ム ンクがクローグの作品から直接の影響を受けた結果であると断言するにはその 証明となる資料が不足している。だが,二作品における表現の共通点として決 して無視できないのではないだろうか。 また,ヴォルは《病める子》について「一般的な考えの『いい絵画』に対応 していなかった」とし,クローグの《病める少女》を採りあげながら以下のよ うに言及している。 クリスティアン・クローグの《病める少女》──それ自体がすでにフラ ンス写実主義を支える題材の様式化されたセンチメンタリスムから逸脱し ているが,ノルウェー自然主義の主流の中では許容できる──との比較か ら,いかにムンクが当時の伝統的表現から根本的に逸脱していたかが明ら かとなる(14) ここでヴォルはムンクの《病める子》の特異性を強調しているが,クローグ 206 ムンクの《病める子》とそのコンテクスト

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の《病める少女》についても,既存の絵画様 式からは逸脱していると述べている。しか し,ノルウェーでは十分に許容できるものだ ったとしており,ノルウェーにおける新しい 絵画様式への寛容さを認めてもいる。このこ とは,ムンクの「逸脱」の背景の一つとし て,捉えることもできる。 このように,エッグムやヴォルは《病める 子》と《病める少女》を比較し,《病める子》 における表現技法の独自性や伝統的手法から の脱却を指摘している。更に,エッグムはムンクが手を加える前の《病める 子》の写真【図 3】とも比較している。1892 年から 93 年にひらかれたベルリ ンでの展覧会に出品されていた《病める子》を撮影したその写真について,エ ッグムは以下のように述べている。 その写真には今のもの[《病める子》]と比べて,よりぼんやりと,より 雰囲気のある[atmospheric]作品が写っている。 ムンクは液状の絵具をそのままカンバスに噴霧し着色していて,絵具の 滲むままにしたために垂直で平行な線の模様がつくられていることが指摘 できる。[中略]ムンクは,集約された一瞬では,対象が人間の目にどう 見えるかを示そうとした。視線が集中した箇所は比較的はっきりと再現さ れる一方で,焦点の外にあった周囲のものは不鮮明に再現される(15) エッグムはそこでは,それ以上ムンクによる手直しを受けた前後の比較につ いて言及していない。しかし,ムンクの修正作業によって《病める子》の画面 に人物の増減であったり,ポーズや構図の大幅な変更であったりといった決定 的な変化が生まれてはいなかったことは確認できた。 クローグの《病める少女》との比較が示しているように,エッグムとヴォル 【図 3】《病める子》の写真,1892 −93年 207 ムンクの《病める子》とそのコンテクスト

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の二人に共通するのは,ムンクが用いた絵画表現の独自性の提示である。 エッグムが述べたように,今我々が目にすることが出来る《病める子》と, 1892年当事の《病める子》の写真では,画面に差異がある。描きなおされた 画面右下のグラスや,画面右の絵具が削り取られているか否か,画面右上にお ける線刻の有無など,多くの点で異なっている。ここで,両方の画面において 少女から布団にかけて縦方向に波打ちながら,対象の境界を無視して薄く絵具 が垂らされている点に注目しておきたい。1892 年から何年後に,ムンクが現 在残されている《病める子》の状態となるように手を加えたか,また少女の上 に絵具を垂らすという手法を採ったのがいつであるのかといった詳細について の確かな情報は確認されていない。しかしながらムンクが《病める子》にい つ,どのような修正を施したかにかかわらず,この写真によって 1892 年の時 点からすでに少女の上に絵具が垂らされていたことが明らかとなっている(16) ムンクは《病める子》をはじめ,《叫び》や《思春期》,《マドンナ》など, 同じ題材を繰り返し描いたことでも知られている。1894 年から 95 年にかけ ては《その翌朝》と,二点の《思春期》が再制作された。《その翌朝》と《思 春期》の一作目は《病める子》の初作と同じ時期の 1885 年前後に描かれたと されている。そして,1894 年の時点ですでに 両作品はともに焼失している。同じ時期に制作 された三つの作品が,再び同じ時期に再制作さ れたことは興味深い。焼失した二作品について の詳細は現在不明であるが,再制作された《思 春期》については,用いられた技法に《病める 子》の初作との類似がみられる。 近年行われた修復作業と再調査では,ムンク 美術館所蔵の《思春期》(1894 年)の紫外線写 真が撮影されている。その写真からは,ワニス が絵画の表面を滴らせるように塗られているこ とが判明した(17)【図 4】。そこでは,輪郭を無 【図 4】《思春期》の紫外線写真 の一部 208 ムンクの《病める子》とそのコンテクスト

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視して垂らされたワニスの塗り方に ついて,《叫び》(1893 年)や《病 室での死》(1893 年)との関係が指 摘されている。 ムンクは《病める子》と同じ題材 を扱った《春》【図 5】を 1889 年 に描いている。この作品において も,病床の少女と,少女に寄り添う 女性の二人の姿がある(18)。1928 年に出版されたとされている,ムンクの『生 命のフリーズの起源』では,《病める子》と《春》について次のように記され ている。 私は 1895 年と 1906 年[現在では 1907 年作とされている]に再びそ れ[《病める子》]を採りあげた。その際には,そうしてやりたいと思って いた,より明るい色彩で完成させた。私は三つのことなるバージョンを描 いた。それらは全て互いに異なりながらも,私が最初に感じていた印象を 引き出すために貢献しあっている。 病気の少女と母親が,開いた窓のそばで太陽の光を浴びている,[1889 年の]《春》において,私は印象主義と写実主義に別れを告げた。 《病める子》で私は自分のための新たな道を敷いた。それは私の芸術に おける突破口だった。その後私がやってきたことのほとんどがこの絵画に 起源を持っていた(19) 画家本人の言葉を信用するのであれば,《病める子》を描いた 1885 年から 86年の時点では,彼はまだ印象主義と自然主義から逸脱していなかったこと になる。少女の上半身から,下半身を覆う寝具にかけて垂らされた絵具による 表現がいつの時点で行われたかまでは判然とせず,これ以上の言及は避ける が,それは 1886 年の秋季展覧会の時点ではなかった可能性を指摘しておきた 【図 5】ムンク《春》1889 年 209 ムンクの《病める子》とそのコンテクスト

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い。 《病める子》については,後年に画家本人の手によって修正が施されている ことが確実視されるようになっている(20)。このことから,《病める子》におけ る表現技法の独自性について言及するとき,初めて公開されたときと現在では ことなる画面であったことに留意しなければならない。1886 年時点において, いくつかの表現技法は用いられていなかった可能性がある。ヴォルは「ムンク が当時の伝統的表現から根本的に逸脱していた」と先に引用した箇所で述べて いるが,1886 年当時の作品の姿が明らかでない以上,「逸脱」の度合いについ て 1886 年を基準にした議論は難しい。つまり,《病める子》は 1886 年のノル ウェー絵画の歴史と状況を考慮すると,十分に描かれうる作品だった可能性も 残るのである。

Ⅲ モチーフと歴史的文脈

《病める子》は病床の,死の床に臥した少女を題材にした作品である。この テーマは,クローグの《病める少女》を含め,当時のヨーロッパでひろく採り あげられたものだった。ビェルケは「この絵画[《病める子》]のモチーフはほ んのわずかも刺激的ではない」(21)としている。このことを理由に,彼は《病め る子》に言及するとき,モチーフではなくそのかたちに注目すべきであること をそこで主張している。確かに,ムンクの独自性に言及するのであれば,他の 画家の作品との共通点として最もわかりやすいモチーフを採りあげる必要性は 低い。しかし,ここで述べたいのは,ムンクの作品がノルウェー絵画史の文脈 上で語られ得るということである。そのためには,他の画家やその作品とのつ ながりを確認することは重要である。よって,次は病床の子どもや病気の少女 といった一連のモチーフに注目する。そこで,もう一度ビェルケの言葉を参照 すると,それは《病める子》で描かれている場面がありふれたものであったこ との証言となる。モチーフがおよそノルウェーで見慣れたものであったのなら ば,《病める子》はノルウェー絵画史の流れの中で捉えることが十分可能とな 210 ムンクの《病める子》とそのコンテクスト

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る。 荒屋鋪は,フィンランドの画家エーデルフェルトの《子供の葬儀》(1879 年)について言及するくだりで,次のように述べている。 [エーデルフェルトは]子供の棺を乗せた小船が出発する光景を写実的 に描いた《子供の葬儀》を 1880 年パリ・サロンに出品し,フィンランド 人として初めて金賞を受賞した。ドイツのデュッセルドルフ派はしばしば 「病める子供」などの感傷的な主題を描いたが,エーデルフェルトの作品 もこの主題に連なる,宿命的で重く,悲しげな雰囲気をたたえている(22) ここからは,デュッセルドルフ派が作品の題材として病床の子供のモチーフ を採りあげていたこと,そしてその流れを汲む作品がパリで受け入れられてい たことがわかる。デュッセルドルフとパリという絵画史上重要な場所でも,こ のモチーフが好まれていたことは間違いない。《病める子》と共通のモチーフ を描いた作品として,先ほどはクローグの《病める少女》を採りあげた。この クローグの《病める少女》に対して言及する箇所で,エッグムは十九世紀の写 真作品にもふれながら,描かれたモチーフについて次のように述べている。 クリスティアン・クローグの《病める少女》の細心な描写は,1881 年 の芸術家組合で初めて展示された。[中略]多くの芸術家たちが,この最 も評判のよいジャンル,あるいは機会に挑戦した。美術史ではほぼ忘れら れているようにみえるこのよう なモチーフだが,早くも 1850 年代には写真同様とても人気が あった(23) 彼の記述によれば,《病める少女》 にあるようなモチーフは人気があ 【図 6】ロビンソン《消えゆく》1858 年 211 ムンクの《病める子》とそのコンテクスト

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り,これらをテーマとした作品が肯定的に受け入れられていたことがわかる。 ムンクと写真との関係について書かれたモノグラフの中で,エッグムは病床の 少女というモチーフの一例としてヘンリー・ピーチ・ロビンソンの写真作品 《消えゆく》【図 6】を採りあげて「1889 年の《春》は《消えゆく》の様式か ら着想を得た数多くの絵画作品の中のひとつである」(24)としている。 エッグムのモノグラフから,このモチーフが絵画作品と写真作品において, 十九世紀後半には広く受け入れられ流行していたことがわかる。因果関係の証 明が困難であるため,明言することはできないが,このモチーフの流行につい てはひとつの仮説を立てることができる。当時のヨーロッパは産業革命の直後 にあった。産業革命による発展にともなって結核が流行していたことはよく知 られている。死病の床にある人物を描いた作品が流行したことには,このよう な歴史背景が密接に関係しているのではないだろうか。事実,《病める子》で 描かれている,記憶の中のムンクの姉ソフィエもまた,結核によって亡くなっ ている。ムンクの母も同じく結核が原因で息を引き取っている。イングランド がそのような状況にあったように,ノルウェーにおける結核の流行は歴史的事 実であり,そのためにこのテーマが流行したのだと考えられるのではないか。 もしもそうであったなら,ムンクの《病める子》もまた,他の作品と同様に歴 史的背景のもとで描かれた作品であると捉えることができる。結核の流行と, このモチーフの流行との関係については明示できなかったが,《病める子》の 題材自体は,十九世紀のヨーロッパの絵 画史上の流れに沿ったものであったこと が確認できた。 このヨーロッパの状況が,ノルウェー においても同じであったことを示すた め,クローグ以外にこのテーマを描いた 他のノルウェー画家の作品を一点採りあ げたい。それはハンス・ヘイエルダール (Hans Heyerdahl, 1857−1913)の《死 【図 7】ヘイエルダール《死せる子》 1881年 212 ムンクの《病める子》とそのコンテクスト

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せる子》(1881 年)【図 7】である。この作品では,幼い男子が息を引き取っ たシーンが描かれている。ヘイエルダールは子供の頃に弟を失っており,《死 せる子》はその場面を描いたものとされている。このことについて語った,美 術批評家であるアウベルの記事が,当時の新聞(Morgenbladet 紙)にも掲載 されている(25)。この《死せる子》と同様に,ムンクの《病める子》もまた, ムンク自身が姉を看取った子供時代の経験を描き出したものである。メッセル は《死せる子》を採りあげて,《病める子》への影響を指摘している(26)。そこ では二人の画家の経験が二つの作品を結ぶ共通点として述べられている。ま た,メッセルは友人へ宛てたムンクの手紙を引用しているが,どの手紙である かまでは記載されていない。これでは不明瞭であるため,以下にメッセルが採 りあげたムンクの手紙から,少し遡った文章を加えて引用する。 [前略]君はヘイエルダールの《死せる子》について称賛する記事をみ ただろうか? そして[その記事に],彼がパリの美術館に作品を売った ことが書かれているのを? この作品は[もはや]僕たちの国立美術館に 置くことができない。このような絵画は絵を学ぶ若い芸術家たちにとって 非常に有用で有益だ(27) この手紙はムンクが友人の画家ビャルネ・ファルクへ送ったものである。手 紙からはムンクもまたこの絵画を褒めていることがわかる。 メッセルは「[ムンクは]アウベルの批評記事を大きな興味を持って読んで いたに違いない」(28)と述べている。しかし,ムンクの手紙には,どの紙面のど の記事のことかまでは書かれていないにもかかわらず,メッセルはその具体的 な論拠については言及していない。ムンクの手紙にある「記事」がアウベルの 記事であることを証明する資料は確認されていない。アウベルの記事が 1881 年 12 月 4 日のものであるのに対し,ムンクの手紙の日付は 1882 年となって いる。日付に関しての整合性は取れているが,決定的な証左とはならない。し かし,メッセルが断言したように,ムンクがアウベルの記事を読んだ可能性は 213 ムンクの《病める子》とそのコンテクスト

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高いと考えられる。彼の推論を後押しするために,次の情報を提示したい。そ れは,ムンクが Morgenbladet 紙に触れる機会が多かったということである。 現在残されているムンクの手紙などには,Morgenbladet 紙の名前を記したも のが複数点残されている(29)。また,日常的に読んでいなかったとしても,ム ンクがファルクへ手紙を送ったように,アウベルの記事の存在を知人から教え てもらい,読んだ可能性もある。このため,アウベルの記事が掲載された紙面 を,ムンクが目にしていたという推論の蓋然性は高いと言える。 ムンクは,しばしば自分の作品について,「私は,私がみているものを描く のではない。そうではなく,私がみたものを」(30)などと述べて,自らの記憶に あるものを描いていることを強調している。《病める子》はその表現の特異さ から,用いられた技法などへ目を向けられがちである。そしてそこから《病め る子》が奇抜な表現による異質な作品でありムンクの独自性を示す作品である との結論が導かれてきた。しかし,そのモチーフにも注目することで,作品の 題材は十九世紀当時の一般的なものであり,ノルウェー国内の画家の作品から の影響を見て取ることができる。題材が当時の状況に沿ったものであること は,《病める子》のノルウェー絵画とのつながりを強く訴える要素であり,無 視することはできない。

Ⅳ 十九世紀のノルウェー絵画

《病める子》の表現とモチーフの二つの点についてみてきたが,この二つの うち,モチーフについてはノルウェー絵画史の中で連続性を持っていたことが 明らかにされている。表現については,ムンクが《病める子》に後々修正を施 していることが確認されているため,一つの時期に限って周囲との関連を探る のは難しく思われる。だが,このことは彼が常に新たな表現を模索し続けてい たことを伝えている。ムンクは自分の記憶にある光景の再現を求めたが,それ は写実的な表現から乖離してゆくものだった。これは,エッグムが語ったよう に,「雰囲気」を描き出すことを目的としたからであると考えられる。当時の 214 ムンクの《病める子》とそのコンテクスト

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ノルウェーでは「雰囲気」を描き出す「情趣画」(31)に分類される作品が描かれ ている。《病める子》を,そのような傾向にあった画家たちの作品との関連で 捉えることはできないだろうか。ここではムンクが《病める子》のカンバス上 で行った試行錯誤に留意しつつ,他のノルウェー画家とその作品へ目を向け る。 《病める子》が展示される少し以前,1886 年の夏にノルウェーの画家スケレ ツヴィグ(32)が六人の画家を自身が所有するフレスクム農場へ招待してい る(33)。彼らはそれぞれがフレスクムで作品の制作に励んだ。ヨハンセンは, 彼らについて「ノルウェーの美術史におけるフレスクム画家の貢献は,1880 年代と 90 年代において特に重要である」(34)としている。 十九世紀当時において,ノルウェー国内では独立の気運が高まっていた。ダ ールをはじめとするノルウェーロマン主義などは,このことと重要なつながり がある。ノルウェーにおけるナショナリスムについて,フェイコスは「ノルウ ェーの芸術家たちは,1880 年代中頃に,彼ら自身の芸術学校を設立すること で,愛国的な考えを芸術作品の中で実現することが可能であり,実現されるべ きであるということを示した」(35)とし,「十九世紀,ノルウェー人にとって, ナショナル・アイデンティティとスェーデンからの独立は密接に絡み合ってい た」(36)と述べている。フェイコスの記述からは,ノルウェーも他の国同様,ナ ショナリスムの影響下にあったことが明らかである。そして十九世紀後半にな ると,フレスクム画家たちが活躍しはじめる。デュッセルドルフに学び,ロマ ン主義の流れを汲む彼らはノルウ ェーの新ロマン主義に分類されて いる。彼らの中でも,ヴェーレン ショルの名声は一際高いと言え る。1889 年のパリ万国博覧会で, ヴェーレンショルの《農民の埋 葬》(1885)【図 8】がグランプ リに選ばれ,彼はレジオンドヌー 【図 8】ヴェーレンショル《農民の埋葬》1885 年 215 ムンクの《病める子》とそのコンテクスト

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ル勲章を授与されている。題材や構図にクールベの《オルナンの埋葬》(1849 −50年)からの影響がみられるこの作品は,ノルウェーの農村の風景を描いた ものである。フェイコスは「典型的なノルウェー絵画であるとして,スウェー デンとノルウェーの両国民から称賛された」(37)と述べている。 1886年,そのヴェーレンショルを含む六人の画家たちは,フレスクムでノ ルウェー新ロマン主義を発展させていった。フェイコスは,彼らが確立したこ の様式について「それは,最も北の緯度における光と大気の様相を描くもの で,スウェーデンの画家たちがまもなく目指すようになるものだった」(38)と語 っている。また,シーランだけが 1886 年のフレスクムの夏よりも前に,その 様式に至っていたとしている。以下に,そのことについて述べている箇所を引 用する。 ノルウェーの画家シティ・シーランは,フレスクムに到着するより以前 に自然に対する北欧的感覚を発達させていた。[中略]1885 年の夏に描い た《日没後》[【図 9】]に描かれたボスヴィクにある十八世紀の領主邸宅 の描写において,画家は北欧の夏の夕方の穏やかな雰囲気に焦点をあわせ ている。[中略]シーランの絵画は,「情趣画」の早期の例の一つである。 「情趣画」は民族ロマン主義の代表的な例で,それは感情移入を手段とす る目論見を促進させた(39) なお,シーランもまた 1889 年の パリ万博で銀賞を受賞している。こ れらのコンテクストを振り返ると, 十九世紀のノルウェー絵画を語るに 際して,フレスクム画家への言及は 不可欠であると言える。パリの印象 主義の影響を受けていたフレスクム 画家がこうした試みに至った背景 【図 9】シーラン《日没後》1885 年 216 ムンクの《病める子》とそのコンテクスト

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に,ダールから続くロマン主義を次の段階へ進める必要性があったことが指摘 できる。そこには,先述のようにノルウェーがナショナリスムに後押しされた 民族的自意識の確立を迫られていたという背景があった(40) このように,その場の「雰囲気」というものを描写し,「感情移入を手段と する」絵画様式を発展させていったフレスクム画家たちの方向性は,ムンクが 《病める子》のカンバス上で行った試みと似ていないだろうか。ただし,これ は《病める子》がフレスクム画家の作品から影響を受けていると指摘するもの ではない。フェイコスが述べたように,1886 年の時点ではフレスクム画家た ちの多くは「情趣画」の様式を確立しておらず,シーランの《日没後》に確認 できるのみである。《日没後》に限ってみても,1886 年以前にムンクが目にし ていたことを明らかにできる証拠はない。しかしフレスクム画家とムンク,二 者の求めた絵画表現の傾向が類似しているということは確かである。 メッセルは論文の中で,ムンクの《夕方》(1888 年)【図 10】がペーテッシ ェンの《夏の夜,サンデ》(1884 年)【図 11】に着想を得たものであることを 示唆している(41)。そこに論拠はなく,可能性が示されているだけである。し かし,このことはムンクとフレスクム画家との関連についての研究がいまだ不 十分であることを明らかにしてはいないだろうか。ヴェーレンショルとシーラ ンの二人に限っても,ムンク作品との相互の関連性について,すべてが明らか にされているわけではない。フレスクム画家たちとムンクの間に交流があった 【図 10】ムンク《夕方》1888 年 【図 11】ペーテッシェン《夏の夜,サン デ》1884−94 年 217 ムンクの《病める子》とそのコンテクスト

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ことは,互いに宛てた手紙が残されていることからも明らかである。フレスク ム画家のノルウェー新ロマン主義における「情趣画」についても,ドイツにお けるものとの違いなど,ムンクが作品を描いた時代の背景としてこれまで詳細 な説明がなされてはこなかった。 十九世紀のノルウェー絵画について,ここではフレスクム画家の作品のうち 数点を採りあげたにすぎない。しかし彼らの「情趣画」と《病める子》では, 表現技法の差異はあるが,みたもの,感じたものを,その感情をもって描くと いう方向性において関連が認められることは確かである。

Ⅴ お わ り に

本稿ではその一部が別々の機会に語られるのみであった,ムンクの《病める 子》が持つノルウェー絵画史との連続性について,注目し集約することを試み た。作品で用いられた表現技法について,確かな連続性を見出すことはできな かった。しかしこれまで明らかとされてきた独自性において,描かれた時期を 基準とした周囲の作品との比較からの言及に対し疑問が浮かび上がった。それ は,《病める子》にみられる表現が 1886 年当時のものであることの証明がで きていない以上,同時期の他の作品との比較から,その独自性を指摘すること は困難であるというものである。モチーフについては,今まで言及されてきた ように歴史的なコンテクストとの繋がりが確認された。ここで生じたのは, 《病める子》と同じモチーフを描いた作品を比較対象として採りあげるとき, クローグの《病める少女》よりもヘイエルダールの《死せる子》の方がふさわ しいのではないか,という問題である。《病める子》について,その表現技法 にのみ限って言及する場合においても,ムンクが自らの内面を描こうとしたこ とに触れている機会がしばしばみられる。このように,ムンクが心象風景の再 現を試みたことを扱うのであれば,彼と同じ経験をしたヘイエルダールが描い た《死せる子》の方が,比較対象としてより適当と言える。《病める子》と 《死せる子》については,今まで以上に比較研究しなければならない。また, 218 ムンクの《病める子》とそのコンテクスト

(18)

十九世紀のノルウェー絵画史からフレスクム画家に着目し,その作品を採りあ げた。そこからは,フレスクム画家の特徴として挙げられている「情趣画」に みられる傾向が,《病める子》においてムンクの表現が目指した方向に近いこ とがわかった。 以上のことから《病める子》は,1886 年当時の周辺のコンテクストに対し てある程度一貫した連続性を持つことが確認できた。そして,それは今まで主 な比較対象として採りあげられる機会の多かった《病める少女》以外の作品に もみることが可能であった。そのため,《病める子》について述べるとき,そ の比較対象としてより多様な作品を提示する必要があることがわかった。加え て,フレスクム画家の「情趣画」については,より詳細に研究を進めること で,《病める子》の新たな連続性を発見できる可能性があり,これらについて は今後の研究課題としたい。 註

⑴ Cf. Woll, Gerd. Edvard Munch : Complete Paintings[catalogue raisonné], Philip Wilson, London 2012, p. 146.

⑵ Cf. Thiis 1933, p. 132 ff ; Langaard 1960, p. 26 f ; Eggum 1978, p. 145 ff. ⑶ ダールはフリードリヒと親交のあったノルウェーの画家である。Cf. Facos,

Michelle. Nationalism and the Nordic Imagiation : Swedish Art of the 1890, University of California Press, California 1998 ; Messel, Nils. Edvard Munch

and His Critics in the 1880s, p. 169, in Munch Becoming“Munch ”:Artistic

Strategies 1880−1892[catalog], Munch Museum, Oslo 2008, pp. 159−170. ⑷ Cf. Caffin, Charles H. The Art of Sweden and Norway at Paris, in The Artist :

An Illustrated Monthly Record of Arts, Crafts and Industries( American

Edition), Vol. 28, No. 248(Sep., 1900), pp. xv−xvii. 彼らの活動を記録した例。 ⑸ Cf. Lampe, Angela. Dislocated Motifs : Munch’s Tendency Towards

Repetition, in Edvard Munch : The Modern Eye[catalog], Tate Publishing, London 2012.この論文では,「経験と記憶」と題された章があり,ムンクが自ら の経験や記憶を背景に《病める子》を制作したことに言及している。しかし,ム ンクと同じく自身の経験をもとに幼い弟の死を描いたヘイエルダールについては 一切言及されていない。クローグの《病める少女》について,「深く,重要な記 憶を描いているとはまったく言えない」とのみ述べている。 219 ムンクの《病める子》とそのコンテクスト

(19)

⑹ Cf. Messel 2008 ; Lampe 2012.

⑺ 荒屋鋪透「北欧絵画と印象主義」,『美術フォーラム 21 Vol. 7』,醍醐書房,2002 年,115 頁を参照。

⑻ Cf. Eggum, Arne. Munch and Photography, Yale University Press, New Haven and London 1989, p. 37.

⑼ Cf. Messel 2008. pp. 169−170.

⑽ Cf. Bjerke, O

/

ivind storm. Edvard Munch, THE SICK CHILD : form as

content, in Mo/rstad, Erik ( Ed. ). Edvard Munch An Anthology, Unipab

forlag, Oslo 2006, pp. 65−86. ⑾ From Bjerke 2006. p. 65. ⑿ Cf. Bjerke 2006. p. 71. ⒀ From Eggum 1989. p. 30.

⒁ From Woll, Gerd. A Good Picture Never Vanishes. The Artist and His Effects, p. 22, in Edvard Munch : The Frieze of Life[catalog], National Gallery of Victoria, Merborne 2004, pp. 19−29. ⒂ From Eggum 1989. pp. 29−30. ⒃ このエッグムが提示した写真と,彼の主張については議論がある。エッグムに対 し,1992 年にプラーターが反論している。また,このことについてヤコブセン が言及している。ここではこの議論を詳しく採りあげないが,《病める子》の画 面の状態における 1886 年当時から現在のものにいたるまでの変化については明 らかでないところが多い。Cf. Plahter, Leif. DET SYKE BARN : Spekulasjoner

og Fakta om Maleriets Opprinnelige Utseende, in Kunst og Kultur, Vol. 75,

1992, pp. 85−99 ; Jacobsen, Lasse. Edvard Munch’s Photograph Album from

Atelier Marschalk, Berlin 1892 − 93, and THE SICK CHILD, in Munch Becoming“Munch”: Artistic Strategies 1880−1892, 2008, pp. 199−205. ⒄ Cf. Topalova-Casadiego, Biljana. Painterly Aspects of PUBERTY − The

Results of Recent Studies, pp. 70 − 72, in PUBERTY[ catalog ], Orfeus Publishing AS, Oslo 2012. pp. 66−84.

⒅ 赤外線写真によって,制作段階においては立っている人物が複数描かれていたこ とが確認されている。

⒆ From Munch, Edvard. Livsfrisens Tilblivelse, 1928, p. 10. [ MM UT 13, Munch-museet. Datert 1928. Utgitt tekst.]

⒇ Cf. Jacobsen 2008. From Bjerke 2006, pp. 66.

荒屋鋪透 2002 年,115 頁からの引用。 From Eggum 1989, p. 32.

(20)

From Eggum 1989, p. 37.

Cf. Aubert, Andreas. Fra Kunstforeningen. I Anledning af Heyerdahls nye

Billede, in Morgenbladet 4. 12. 1881.

Cf. Messel 2008, p. 168.

From Munch. Brevutkast til Bjarne Falk, Datert 1882, p. 3.[MM N 3510, Munch-museet. Datert 1882. Brevutkast til Bjarne Falk.]

From Messel 2008, pp. 167−168.

以下は,ムンクが送った手紙のうち,該当する新聞の名が記載されているものの 一部。Cf. Brev. Til Karen Bjo/lstad. Datert 1892.[MM N 788];Brevutkast. Til Bjarne Falk. Datert 1883.[MM N 3511].

From Munch. Kunst og Natur, Datert 1928.[MM N 57−3]

「Stemningsmaleriet」であり,ドイツにおける「Stimmungsmalerei」。この語 に対応する一般的な訳がないため,ここでは「情趣画」としている。 クリスティアン・スケレツヴィク(Christian Skredsvig, 1854−1924)。ムンク は彼と連れ立って 1891 年の秋にニースへ旅行している。他のフレスクム画家五 人については次の通り。エーリク・ヴェーレンショル,シティ・シーラン,ゲル ハルト・ムンテ(Gerhard Munthe, 1849−1929),アイリフ・ペーテッシェン (Eilif Peterssen, 1852−1928),ハリエト・バッケル(Harriet Backer, 1845−

1932)。

このため,1886 年の夏は「フレスクムの夏(Fleskumsommeren)」と呼ばれて いる。フレスクムはクリスティアニア(現オスロ)から西へ 10 km ほど行った 郊外にある。

From Johannesen, Ina. Tone, Farve, Valo/r. Stemningsmaleriet − nyskapning

eller en romantisk tradisjon?, p. 9, in Seljeflo/ytens Toner : Fleskum-Malerne

[katalog], Labyrinth Press, Oslo 2002, pp. 9−23. From Facos 1998, p. 28. From Facos 1998, p. 29. From Facos 1998, p. 30. From Facos 1998, p. 31. From Facos 1998, p. 31−32. Cf. Johannesen 2002.フレスクム画家たちのロマン主義について,足跡をたどり つつ言及している。 Cf. Messel 2008, pp. 169−170. 図版リスト 【図 1】ムンク《病める子》1885−86 年,カンバスに油彩,120×118.5 cm,オスロ国 221 ムンクの《病める子》とそのコンテクスト

(21)

立 美 術 館 , Woll, Gerd. Edvard Munch : Complete Paintings [ catalogue raisonné], Philip Wilson, London 2012.

【図 2】クローグ《病める少女》1880−81 年,カンバスに油彩,102×58 cm,オスロ 国立美術館,Woll 2012.

【図 3】《病める子》の写真[ベルリン展覧会にて],1892−93 年,鶏卵紙,155×152 mm, Photographer : Atelier Marschalk, Eggum, Arne. Munch and Photography, Yale University Press, New Haven and London 1989, p. 30.

【図 4】《思春期》[ムンク美術館所蔵]の紫外線写真の一部,PUBERTY, Orfeus Publishing AS, Oslo 2012.

【図 5】ムンク《春》1889 年,カンバスに油彩,169.5×263.5 cm,オスロ国立美術 館,Woll 2012.

【図 6】《消えゆく》1858 年,鶏卵紙,245×395 mm,写真:ヘンリー・ピーチ・ロ ビンソン,バース,英国王立写真協会,Eggum 1989.

【図 7】ヘイエルダール《死せる子》1881 年,カンバスに油彩,194×224 cm,リオ ン,フランシスカ美術館,Munch Becoming“Munch”:Artistic Strategies 1880

−1892[catalog], Munch Museum, Oslo 2008.

【図 8】ヴェーレンショル《農民の埋葬》1885 年,カンバスに油彩,102.5×150.5 cm,オスロ国立美術館,Seljeflo/ytens Toner : Fleskum-Malerne [katalog], Labyrinth Press, Oslo 2002.

【図 9】シーラン《日没後》1885 年,カンバスに油彩,83×117 cm,オスロ,ノルウ ェー王宮,Seljeflo/ytens Toner : Fleskum-Malerne 2002.

【図 10】ムンク《夕方》1888 年,カンバスに油彩,37×74 cm,個人蔵,Woll 2012. 【図 11】ペーテッシェン《夏の夜,サンデ》1884−94 年,カンバスに油彩,129×160

cm,個人蔵,出典:Seljeflo/ytens Toner : Fleskum-Malerne 2002.

──大学院文学研究科博士課程後期課程── 222 ムンクの《病める子》とそのコンテクスト

参照

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