印度學佛敎學硏究第六十六巻第一号 平成二十九年十二月
太容梵清に関する研究の現況と課題
秋
津
秀
彰
太 容 梵 清 は、 能 登 總 持 寺 ︵石 川 県 輪 島 市︶ や 加 賀 仏 陀 寺 ︵石 川 県 能 美 市 仏 大 寺 町、 現 廃 寺︶ 等 の 名 刹 に 住 持 し、 ま た﹃正 法 眼蔵﹄等の宗典をはじめ、祖録や總持寺文書の書写を行った ことでも知られ、これらの典籍・文書が中世から近世以降へ と伝来していくにあたって、重要な役割を果たした人物の一 人であると言える。そのような人物でありながらも、その伝 記や書写本そのものに対する研究は、一部を除いて積極的に は行われてこなかったというのが実情である。このような状 況を踏まえて、梵清に関する先行研究を振り返りつつ、今後 の研究課題を確認・把握することは必要な作業であると考え る。本稿では、梵清の伝記に関する諸問題を取り扱う。 そ も そ も 梵 清 は、 生 没 年 で す ら 正 確 な 所 は 明 ら か で は な い。 し か し、 有 木 環 山 氏 は、 昭 和 二 十 六 年 ︵一 九 五 一︶ に 初 版 が 刊 行 さ れ た﹃福 山 三 刹 法 流 誌﹄ ︵以 下、 ﹃法 流 誌﹄ ︶ に お い て、 没 年 を 応 永 三 十 四 年 ︵一 四 二 七︶ と す る 通 説 の 問 題 点 を 指摘しており、またその生年についても論考している。この 有木氏の論述と、近世に述された諸種伝記史料の記載内容 を再確認しつつ、梵清書写史料や、能楽等の他分野からの研 究も加えて、現時点で判明している伝記事項を整理し、今後 の研究につなげていくことを本稿の目的とする。 まず、梵清の没年について見ていきたい。先述の通り、現 在﹃禅学大辞典﹄等で採用されている没年は、応永三十四年 で あ る。 こ の 年 は、 梵 清 の 開 山 地 で あ る 玉 雲 寺 ︵京 都 府 船 井 郡 京 丹 波 町︶ 所 蔵﹁慈 雲 山 観 音 禅 寺 薦 霊 簿﹂ に も、 玉 雲 寺 五 十 七 世 祥 峯 楚 雲 の 序 文 ︵嘉 永 四 年︿一 八 五 一﹀ ︶ と 同 筆 で 記載されており、当時よりの寺伝であったと考えられる。 し か し、 そ の 年 に も 異 説 が あ る。 文 政 六 年 ︵癸 未、 一 八 二 三︶ に、 貞 享 四 年 ︵一 六 八 七︶ に 刊 行 さ れ た﹃太 容 和 尚 語 録﹄ ︵以 下、 ﹃太 容 録﹄ ︶ が 重 刊 さ れ て い る。 そ れ に 当 た っ て 付 さ れ た、 慧 門 禅 智 ︵一 七 五 八 ︱ 一 八 三 〇︶ ﹁重 刻 太 容 清 禅 師 語 録 序﹂ に は、 ﹁明 年 癸 未、 遇 禅 師 四 百 年 之 忌﹂ ︵﹃曹 全﹄ 語 録 一・ 二 〇 一 頁、 句 読 点 筆 者、 以 下 略︶ と あ る。 文 政 六 年 が 四 百太容梵清に関する研究の現況と課題︵秋 津︶ 回忌ということは、 その没年は応永三十一年と逆算できる。 しかし、この二つの没年に関する説を否定する史料が二点 あ る。 第 一 が 永 享 二 年 ︵一 四 三 〇︶ 八 月 十 五 日 付 の﹁總 持 寺 門 徒 連 署 契 状﹂ ︵横 浜 總 持 寺 文 書︶ で、 十 三 人 の 連 署 中 に﹁前 住 梵 太 容 清 ︵花 押︶ ﹂ ︵﹃新 修 門 前 町 史﹄ 資 料 編 二、 石 川 県 門 前 町、 二 〇 〇 四、 五 二 頁︶ と あ り、 總 持 寺 五 院 に よ る 輪 番 次 第 に つ い て 定 め て い る。 第 二 が 宝 永 七 年 ︵一 七 一 〇︶ に 刊 行 さ れ た ﹃丹霞子淳禅師語録﹄ で、 その天冊の本文二五丁表に、 永 享 六 年 甲 寅 四 月 仏 八 日 生 日 、 日 本 国 山 陰 道 丹 波 州 舩 井 郡 山 内 荘 須 智 邨 霊 樹 山 嶽 王 禅 寺 開 闘 住 持、 淳 老 十 三 世 法 孫 嗣 祖 比 丘 梵 清 九 拝 謄。 伏願、曹洞法派長遠大洪宗風永扇。 の識語が確認でき る 1 。これらの史料から、梵清は少なくとも 永 享 六 年 ま で は 生 存 し て い た と い う こ と は ほ ぼ 確 実 と な る。 同時に、先の二説は両方共成立しないこととなり、確実な没 年は不明とせざるを得なくなる。これに対して、有木氏は永 享 十 一 年 仮 説 を 提 示 し て お り、 応 永 三 十 四 年 丁 未 は、 永 享 十一年己未を誤ったものかとする ︵﹃法流誌﹄一九七頁︶ 。 また生年については、有木氏は﹁玉雲寺に応永八年時に開 祖 廿 四 歳 の 記 録 あ り﹂ ︵﹃法 流 誌﹄ 一 九 六 頁︶ と し て お り、 こ れ に 従 え ば 永 和 四 年 ︵天 授 四 年、 一 三 七 八︶ 生 ま れ と い う こ と に な る。 こ の﹁記 録﹂ は﹁当 山 一 派 記﹂ ︵玉 雲 寺 文 書︶ で あ る こ とが確認できたため、本稿でもこの説を採用する。 次に梵清の伝記史料を確認する。諸僧伝を参照すると、梵 清 伝 は 成 立 順 に、 卍 元 師 蛮 ︵一 六 二 六 ︱ 一 七 一 〇︶ ﹃延 宝 伝 灯 録﹄八 ︵﹃続曹全﹄史伝六九九頁。以下、 ﹃延宝録﹄ ︶ 、湛元自澄 ︵? ︱ 一 六 九 九︶ ﹃日 域 洞 上 諸 祖 伝﹄ 下 ︵﹃曹 全﹄ 史 伝 六 四 ︱ 六 五 頁。 以 下、 ﹃諸 祖 伝﹄ ︶ 、 卍 元﹃本 朝 高 僧 伝﹄ 三 十 九 ︵﹃続 曹 全﹄ 史 伝 七 五 六 頁、 ﹃仏 全﹄ 一 〇 三・ 五 四 九 頁。 以 下、 ﹃本 朝 伝﹄ ︶ 、 嶺 南 秀 恕 ︵一 六 七 五 ︱ 一 七 五 二︶ ﹃日 本 洞 上 聯 灯 録﹄ 四 ︵﹃曹 全﹄ 史 伝 上 二 九 七 ︱ 二 九 八 頁。 以 下、 ﹃聯 灯 録﹄ ︶ に 掲 載 さ れ て い る。 こ れ ら の記載は、従来の梵清伝の基礎史料となってきたため、今一 度内容の検証を行うことが必要である。そしてこれらを一見 すると長文ではあるが、実際は大半が總持寺時代の語録であ り、 ﹃太容録﹄にも収録されているものであることが分かる。 以下、 これら諸僧伝の記載内容について検討したい。 ま ず﹃延 宝 録﹄ の 述 は﹃太 容 録﹄ の 刊 行 以 前 で あ る た め、本書に記載されている六回の上堂語は、刊本を典拠とし ていない可能性がある。この両者を比較すると、若干の語句 の異同がみられる。これは、恐らく何らかの手段で、刊本の 元となった語録の内容を部分的に入手することが出来、その 後どちら側かが開版に当たって語句の修正を行ったために異 同が生じたものであろう。いずれにせよ、刊本以前の﹃太容 録﹄ の姿を残す可能性を持つ史料として注目される。
太容梵清に関する研究の現況と課題︵秋 津︶ 次に、各書に採録されている上堂の内容について見てみた い。前掲四書中、 ﹃本朝伝﹄を除く三書は、 ﹃延宝録﹄収録の も の を 受 け 継 い で い る。 四 書 に 共 通 す る の は、 面 山 瑞 方 ︵一 六 八 三 ︱ 一 七 六 九︶ ﹃洞 上 夜 明 ﹄ ︵﹃曹 全﹄ 歌 頌 三 二 一 頁︶ に も 収 録 さ れ て い る﹁正 月 十 五 日 望 上 堂﹂ の み で あ る。 ま た﹃延 宝 録﹄と﹃本朝伝﹄は、同じ編者によるものにも関わらず大幅 に 収 録 内 容 が 異 な っ て お り、 特 に﹃本 朝 伝﹄ は、 總 持 寺 入 院・退院の上堂が収録されるなどの変更がある。その理由と しては、 ﹃本朝伝﹄ の ﹁援引書目﹂中に ﹁ 大 (ママ) 容 禅 師 語 録 ﹂ ︵﹃ 仏 全 ﹄ 一 〇 二 ・ 五 六 頁 ︶ と あ る こ と か ら 、 で き る だ け 両 者 で の 重 複 を 避 け る べ く 、 敢 え て 異 な る 上 堂 語 を 刊 本 ﹃ 太 容 録 ﹄ か ら 直 接 収 録 す る こ と と し た の で あろ う 。 し か し 、 編 者 の判 断 と み られ る 若 干 の 改 変 が 確 認 さ れ る 。 因 み に ﹃ 洞 上 夜 明 ﹄ に 収 録 さ れ て い る 二 上 堂 語 は 、 内 容 や ﹃ 太 容 録 ﹄ と の 文 字の 異 同 を 考 慮 す る と 、 共 に ﹃ 本 朝 伝 ﹄ か ら の 引 用 と 考 え ら れ る 。 最 後 に 、 語 録 部 分 以 外 の 伝 記 の 内 容 を 確 認 す る 。﹃ 延 宝 録 ﹄ で は 、 總 持 寺 ・ 仏 陀 寺 に 住 持 し た こ と 、 清 規 を 校 訂 し た こ と 、 語 録 が あ る こ と 、法 嗣 が 三 人 い る こ とが 記 さ れ る 。 続 く ﹃ 諸 祖 伝 ﹄ で は 、嗣 法 師 が 了 堂 真 覚 ︵ 一 三 二九 ︱ 一 三 九 九 ︶ で あ る こ と が 、﹃ 太 容 録 ﹄ の 末 尾 に あ る 道 元 禅 師 ︵ 一 二 〇 〇 ︱ 一 二 五 三 ︶ か ら 梵清 に 至 る ま で の 嗣 承 の 記 載 を 踏 ま え て 追 記 さ れ 、﹃ 本 朝 伝 ﹄ も こ れ を 受 け 継 ぐ 。 最 後 に ﹃ 聯 灯 録 ﹄ で は 、 摩 国 出 身 で あ る が 、 出 自 は 不 明 で あ り 、 受 業 師 は 石 屋 真 梁 ︵ 一 三四 五 ︱ 一 四 二 三 ︶ で あ るこ と 、 玉 雲 寺 を 開 い たこ と 、 四 人 目 の 法 嗣 が 追 記 さ れ て い る 。﹃ 聯 灯 録 ﹄ の 典 拠 は 、 嶺 南 自 身 が 調 査 ・ 蒐 集 し た ﹃ 總 持 寺 住 山 記 2 ﹄ 等 の 諸 史 料 と 思 わ れ る 。 以上、伝記史料としての諸種僧伝を概観したが、これらか ら得られる情報は、出典が現存史料からおおよそ推定できる 程度のものであるといえる。これは、近世初頭頃には、既に 梵清の行状は基本的には不明であったことを示している。 以上を受けつつ、梵清の伝記について、現時点で得られて いる情報をまとめておくことで、本稿の一応の結論とする。 梵清は、摩国にて永和四年に生まれる。受業師は石屋真 梁 で、 ﹃聯 灯 録﹄ に は﹁福 昌 石 屋 禅 師 祝 髪﹂ ︵﹃曹 全﹄ 史 伝 上 二 九 七 頁︶ と あ る が、 こ れ も 年 齢 上 の 問 題 か ら、 ﹃法 流 誌﹄ ︵一 九 六 頁︶ の 指 摘 の よ う に、 妙 円 寺 ︵鹿 児 島 県 日 置 市︶ 時 代 の 明徳元年 ︵一三九〇︶ 頃の方が妥当であると思われる。 応永二年に市森にて教化を行い、当地の豪族須智氏の帰依 を得る。その後応永二十三年に、同地にあった須智氏の氏寺 と考えられる﹁覚皇寺﹂を禅宗に改め、玉雲寺とする。この 間の応永六年に了堂が示寂するため、それ以前に嗣法が行わ れ た こ と に な る。 さ ら に、 了 堂 開 山 の 補 巌 寺 ︵奈 良 県 磯 城 郡 田 原 本 町︶ に 六 世 ︵一 説 四 世︶ と し て 輪 住 し て い る。 輪 住 年 は 不 明であるが、前住者の数や期間を考慮すると、玉雲寺開創以
太容梵清に関する研究の現況と課題︵秋 津︶ 前の応永十四年から二十年の内、三年前後の期 間 3 であろう。 応永二十五年頃に仏陀寺に住持 し 4 、応永二十六年二月から 十 月 に か け て 八 十 四 巻 本﹃正 法 眼 蔵﹄ を 書 写 す る。 応 永 二十九年閏十月二十五日に要請を受け、同年十一月十四日に 總持寺に四十五世として晋住している。恐らく總持寺住持中 に﹁總 持 寺 文 書 写 5 ﹂ を、 ま た 応 永 三 十 年 一 月 に は﹃瑩 山 清 規﹄を書写している。応永三十年三月頃に總持寺を退院する が、 その住持中の語録が ﹃太容録﹄ として残されている。 總 持 寺 退 院 後 は 玉 雲 寺 に 戻 っ た と み ら れ、 永 享 二 年 八 月 十五日に﹁總持寺住持職契状﹂に署名し、永享六年四月八日 に﹃丹霞子淳禅師語録﹄を書写する。さらに時期は不明なが ら、 ﹃梵 清 請 益 録 6 ﹄・ ﹃真 歇 劫 外 録﹄ ・﹃宏 智 小 参 録 7 ﹄ を 書 写 し て お り、 ま た 卍 山 道 白 ︵一 六 三 六 ︱ 一 七 一 五︶ は﹁天 童 遺 落 録 序﹂ に、 ﹁丹州徳雲室中所秘、梵清和尚真筆﹂ ︵﹃大正﹄四十八・ 一 三 三 頁 下 段︶ の﹃如 浄 語 録﹄ を 見 た と 記 し て い る。 没 年 は、 永享六年以降ということ以上の詳細は不明であるが、現時点 では暫定的に永享十一年仮説を採用しておきたい。 また 梵 清 は 、 了 堂 を 通 じ て 、 補 巌 寺 を 菩 提 寺 と す る 世 阿 弥 ︵ 一 三六 三 ︱ 一 四 四 三 ︶ や 、 そ の 女 婿 で あ る 金 春 禅 竹 ︵ 一 四 〇 五 ︱ 一 四 七 〇 ︶ 等 と も 交 流 が あ っ た こ と が 知 ら れ て いる 。 例 え ば 、 禅 竹 の 著 書 ﹃ 明 宿 集 ﹄ 式 三 番 ノ 事 に は 、﹁ 大 容 ノ 御 詞 0 0 0 0 0 0 ニ 云 、 過 去 ・ 未 来 ヲ バ 現 在 ニ テ 兼 ネ タ レ バ 、 三 番 猿 楽 ト 云 へ リ 。 此 御 意 尤 有 リ ガ タ シ ﹂ ︵﹃ 日 本 思 想 大 系 ﹄ 二 四 、 岩 波 書 店 、 一 九 七 四 、 四 一 三 頁 、 傍 点 筆 者 ︶ と あ り 、 こ の ﹁ 大 容 ﹂ は 梵 清 で あ る こ と が 指 摘 さ れ て い る 8 。 さ ら に 世 阿 弥 の ﹁ 金 春 大 禅 竹 夫 宛 書 状 ﹂ ︵ 五 月 十 四 日 付 ︶ に は 、﹁ 仏 法 に も 、 し 宗 旨 う し の さ 参 学 ん か く と 申 ハ 、 と 得 法 く ほ う 以 後 の さ 参 学 ん か く と こ そ 、 ふ 補 厳 か ん 寺 二 代 ハ 、 お 仰 ほ せ 候 し か ﹂ ︵ 同 前 三 一 六 頁 ︶ と あ る 。 こ の ﹁ ふ か ん 寺 二 代 ﹂ を ど の よ う に 取 る か に は 、﹃ 日 本 思 想 大系 ﹄ の 頭 注 の よ う に 補 巌 寺 二 世 竹 窓 智厳 ︵ ? ︱ 一 四 二 三 ︶ と す る 説 や 、 竹 窓 個 人 の こ と の み を を 指 す の で は な い と す る 説 9 も あ る が 、 こ れ を 梵 清 個 人 の こ と と す る 説 10 も あ る 。 このように梵清は、曹洞宗学だけでなく、 申 猿 楽・能楽等に も理解があり、影響を与えている人物という側面も持ってい る。そのため、語録を中心としつつも、それだけに留まらな い総合的な視点から今一度見直しておく必要のある人物であ ると言え、伝記・思想共に、今後さらなる検討を要する。 1﹃丹 霞 子 淳 禅 師 語 録﹄ に つ い て は、 椎 名 宏 雄 氏 が﹁ 丹 霞 子 淳 禅 師 語 録 の 文 献 史 的 考 察﹂ に お い て 検 討 し て お り、 識 語 も 掲 載 さ れ て い る︵四 八 三 頁︶ 。 ま た﹃曹 全﹄ 年 表︵一 六 六 頁︶ に も﹁總 持 寺 住 持 職 契 状﹂ ︵一 六 四 頁︶ と 共 に 立 項 さ れ て い る た め、 有 木 氏 は こ れ に 依 っ た も の と 思 わ れ る。 因 み に 筆 者 も、 石 川 県 立 図 書 館 龍 譚 文 庫 本 に よ っ て 本 書 を 直 接 確 認 し た。 書 写 地 の﹁霊 樹 山 嶽 王 禅 寺﹂ は、 ﹁玉 雲 寺 の 寺 基 は覚 皇 寺 ﹂︵竹 貫 元 勝﹃日 本 禅 宗 史 研 究﹄ 四 九 六 頁︶ と い う 説 を 記 す 史 料 も あ
太容梵清に関する研究の現況と課題︵秋 津︶ り、 音 通 を 考 慮 す れ ば﹁覚 皇 寺﹂ を 指 し て い る と も 推 測 さ れ る。 ﹁日 課 回 向 文﹂ ︵玉 雲 寺 文 書、 昭 和 十 三 年︿一 九 三 八﹀ 書︶ に は、 歴 住 読 上 の 後 に﹁前 住﹂ が 三 名 挙 げ ら れ て お り、 そ れ が ﹁覚 皇 寺﹂ 世 代 の 可 能 性 が あ る。 玉 雲 寺 と い う 寺 名 の 確 定 時 期 等 に も 関 わ り、 一 時 期 は﹁覚 皇 寺﹂ と 玉 雲 寺 が 併 存 し て い た と も考えられ、今後の課題となる。 2 例 え ば、 通 幻 寂 霊︵ 一 三 二 一 ︱ 一 三 九 一︶ 伝 等 の﹁考 証﹂ の 典拠に ﹁總持住山記云﹂ ︵﹃曹全﹄史伝二六六頁︶ とある。 3 ﹁補 巌 寺 開 山 支 派﹂ ︵補 巌 寺 文 書︶ の 系 図 部 分 に は﹁補 岩 輪 住 六代﹂ ︵﹃田原本町史﹄史料編第一巻、田原本町史編さん委員会、 一 九 八 八、 三 〇 一 頁︶ と あ り、 末 尾 の﹁古 記 写 シ﹂ に は﹁四 代 大容梵清﹂ ︵同前三〇四頁︶ とあるが、 ﹁補巌寺納帳﹂第三冊︵補 巌 寺 文 書、 永 禄 末 年 頃 写︶ に は﹁六 代 大 容 和 尚﹂ ︵同 前 二 五 四 頁︶ と あ る た め 六 世 と し た。 ま た 年 代 は、 竹 窓 は 明 徳 四 年 に 補 巌 寺 に 晋 住 し て お り、 ﹁補 巌 寺 開 山 支 派﹂ に は 三 年 輪 番 住 持 が 定められている ︵同前三〇三頁︶ ことから推定した。 4 仏 陀 寺 の 輪 住 期 間 に つ い て は、 廣 瀬 良 弘 氏 が﹁禅 宗 の 教 団 運 営 と 輪 住 制﹂ に お い て、 応 永 三 年 の﹁仏 陀 寺 未 来 際 之 置 文 之 案 文﹂ に、 五 箇 年 住 持 及 び 八 月 一 日 に 住 持 を 交 代 す る と 定 め ら れ て い る こ と を 指 摘 し て お り︵二 八 七 ︱ 二 八 八 頁︶ 、 梵 清 の 總 持 寺への晋住年及び ﹃正法眼蔵﹄ の書写年から期間を推定した。 5 徳 雲 寺︵京 都 府 南 丹 市︶ 文 書。 室 山 孝 氏 が﹁梵 清 筆 写﹁總 持 寺文書写﹂ について﹂ で紹介し、写真も掲載されている。 6 徳 雲 寺 所 蔵。 河 村 孝 道 氏 が﹃正 法 眼 蔵 の 成 立 史 的 研 究﹄ に、 本書中の ﹁三百則正法眼蔵﹂ の記載を引用している ︵九〇頁︶ 。 7 ﹃宏 智 小 参 録﹄ は 玉 雲 寺 に 現 存 し、 そ の 識 語 中 に﹃真 歇 劫 外 録﹄ の 名 が 見 ら れ る。 識 語 は、 石 井 修 道 氏 が﹁宏 智 広 録 考﹂ で 翻刻している ︵一三五頁︶ 。 8 大友泰司﹃世阿弥と禅﹄ 一三七︱一三八頁。 9 原田弘道﹁中世曹洞禅の一考察﹂ 一三〇頁。 10 大友泰司﹃世阿弥と禅﹄ 五八︱六四頁。 ︿参考文献﹀ 石 井 修 道﹁宏 智 広 録 考﹂ ﹃駒 澤 大 学 仏 教 学 部 研 究 紀 要﹄ 第 三 〇 号、 一九七二 原 田 弘 道﹁中 世 曹 洞 禅 の 一 考 察﹂ ﹃駒 澤 大 学 仏 教 学 部 研 究 紀 要﹄ 第三三号、一九七五 廣 瀬 良 弘﹁禅 宗 の 教 団 運 営 と 輪 住 制 ︱︱ 加 賀 仏 陀 寺・ 越 前 竜 沢 寺 の場合﹂今枝愛真編﹃禅宗の諸問題﹄雄山閣、一九七九 河村孝道﹃正法眼蔵の成立史的研究﹄春秋社、一九八七 竹貫元勝﹃日本禅宗史研究﹄雄山閣出版、一九九三 室 山 孝﹁梵 清 筆 写﹁總 持 寺 文 書 写﹂ に つ い て﹂ ﹃加 能 史 料 研 究﹄ 第一四号、二〇〇二 椎 名 宏 雄﹁ 丹 霞 子 淳 禅 師 語 録 の 文 献 史 的 考 察﹂ ﹃東 隆 眞 博 士 古 稀記念論集 禅の真理と実践﹄春秋社、二〇〇五 有木環山﹃福山三刹法流誌﹄昌源寺、二〇〇六 大友泰司﹃世阿弥と禅﹄林書房、二〇〇七 ︿キーワード﹀ 道元禅師、太容梵清、梵清本、 ﹃正法眼蔵﹄ 、伝記 ︵曹洞宗総合研 究 セ ン タ ー 研 究 員 ・ 博 士 ︿ 仏 教 学 ﹀︶