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Vol.66 , No.2(2018)047拉毛 卓瑪「ツォンカパの後期中観思想における「離戯論」について」

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Academic year: 2021

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(1)

印度學佛敎學硏究第66巻第2号 平成30年3月 (197) ― 778 ―

ツォンカパの後期中観思想における

「離戯論」について

拉 毛 卓 瑪

はじめに

ツォンカパ(Tsong kha pa blo bzang grags pa, 1357–1419)は「戯論(prapañca)」という 用語を二つの異なった意味で用いている.一つは,真実執着(bden dzin),真実成 立(bden grub)あるいは真実なるものとして思い込む働き(bden zhen),もう一つは 言語行為(tha snyad),無明の習気により生じ正理知によって否定されない言説有

(tha snyad du yod pa),現れ(snang ba)の戯論という意味である.用例としては後者 の意味で使われる場合が多い1).この「戯論」と関連して,「離戯論spros bral

という用語が『中論 : 正理大海』(1407)と『入中論釈: 密意解明』(1418)で使 われている.「離戯論」の他に「無戯論(spros pa med pa)」「戯論寂滅(spros pa nyer zhi)」「戯論が見られない(spros pa ma mthong ba)」なども同義の表現である.本稿 は,この「離戯論」という用語がツォンカパの中観思想の中でどのような意味を 持っているかを明らかにすることを目的とするものである. 「離戯論」という用語の意味を明らかにするためには,ツォンカパの後期中観 思想における勝義諦の構造を理解しておく必要がある.ツォンカパの後期中観思 想においては,認識主体を(1)凡夫,(2)阿羅漢を得ている声聞と独覚の聖者 および第八地以上の菩 ,(3)仏陀という,三段階に分けて二諦を設定してい る2).勝義諦を得る認識主体は仏智と三昧に入った聖者たちの無漏智であり,真 実義(de kho na nyid),即ち真実のありのままが見えている仏,聖者,菩 の智に とって,言説において存在しているものもなくなるのが勝義諦である. 本稿では,上記のような勝義諦あるいは真実義の文脈の中で「離戯論」という 用語がどのように用いられ,どのように位置付けられるかを検討する.まずナー ガールジュナ(Nāgārjuna, 150–250)の『中論』(Mūlamadhyamakakārikā)の帰敬偈の八 不縁起説にみられる「戯論寂滅」に対するツォンカパの注釈を分析する.

(2)

(198) ツォンカパの後期中観思想における「離戯論」について(拉毛卓瑪) ― 777 ― 1.

 「戯論寂滅」について

『中論 : 正理大海』の帰敬偈における「戯論寂滅」に関する注釈で,ツォン カパはチャンドラキールティ(Candrakīrti, 600–650)に基づきながら,次のように 述べている. 縁起の真実義を,存在している通りに聖者がご覧になっている〔その知〕にとって,述べ るものと述べられるもの,定義するものと定義されるものなどという諸々の戯論は退けら れているので,縁起の真実義において戯論は寂滅していると述べられる3) ここで縁起の真実義を存在している通りに見た聖者の知にとって寂滅すると言 われている戯論は,「述べるものと述べられるもの」などであり,言説において 存在するものである.無明を断じている聖者と菩 たちにはまだ無明の習気が 残っているので,彼らの後得知には存在するものの現れがある.無明の習気が断 たれた仏智あるいは聖者の無漏の三昧智によって縁起の真実義が直接見られてい るときには,存在するものの現れが寂滅する.これが「戯論寂滅」の意味であ る.前述したように聖者の無漏の三昧智と仏智によって直接見られるのは勝義諦 である.それゆえ,「戯論寂滅」と勝義諦を見ることとは同じことを指している と言える. 2.

 「離戯論を見る」ということについて

『中論 : 正理大海』第15章で,一切智者である仏の如実智は蘊などを見ない ことによって真実義を見るが,それは戯論を見ないことによって離戯論が見ると いうことである,とツォンカパは述べている4).さらに彼は,如実智とは「蘊な どという諸々の世俗のものの現れをご覧にならないという仕方で,それら〔蘊な ど〕の真実義をお知りになる〔智〕である」と述べている5).すなわち,仏の如 実智は,世俗のものの現れ一切を見ないという仕方で世俗のものの真実義を見る のである.またツォンカパは,仏の如実智と聖者の無漏の三昧智が世俗のもので ある微細なる二つの現れも見ないという仕方で真実義を見るというのは勝義諦で あると述べている6).ここでも「離戯論」と「勝義諦」の認識の仕方が同じであ る.「離戯論を見る」というのは,仏の如実智と聖者の無漏の三昧智にとって世 俗のものを見ないという意味である. また,『入中論釈: 密意解明』の第六現前地で,十平等性のうち,第七番目で

(3)

(199) ツォンカパの後期中観思想における「離戯論」について(拉毛卓瑪) ― 776 ― ある「無戯論」を解釈する時に,二つの現れがなくなることを指して「離戯論」 と言い,それが聖者の無漏の三昧智において,諸法は異なる特徴(mtshan ma)と して現れないという第一の平等性と結びつけられるとツォンカパは述べてい る7).この時も,聖者の無漏の三昧智においてすべての現れがないというのは 「無戯論」あるいは「離戯論」を意味している.上記から,「離戯論」と「無戯 論」,「戯論寂滅」,「勝義諦」は異なる表現だが同じ意味であることが窺える. 3.

 戯論寂滅と涅槃について

ツォンカパは『中論 : 正理大海』で勝義諦の語義解釈をするときに,涅槃も 勝義諦であると述べている8).また,帰敬偈に対して注釈する箇所で「全ての戯 論が寂滅し,吉祥(zhi ba)を特徴としている涅槃というのがこの〔『中論』の〕 最終的な目的である」と述べている.この戯論寂滅と吉祥と涅槃について,ツォ ンカパは第25章の第24偈「全て知覚が寂滅し,戯論が寂滅した吉祥である.則 ち,仏はどこにおいても誰に対しても如何なる法を説かれなかった」に対する注 釈でより詳しく説明している. 仏釈尊が,涅槃という戯論寂滅し吉祥であるものにおいて,特徴に住しないあり方で住 しているその時に,特徴を捉える(mtshan mar dzin pa)〔知の〕全ての認識対象が寂滅し, 認識されないが故に,それゆえ,仏は,神の世界あるいは人の世界のいずれにおいても, いかなる神にもいかなる人にも,雑染あるいは清浄の法を何も説かなかった. 戯論寂滅は,涅槃において諸々の特徴が生じないことであり,吉祥は,〔聖者の無漏の 三昧智の対象の〕自性としては寂滅していること,あるいは言葉と心が生じないこと,あ るいは煩悩や生起が起こらないこと,あるいは煩悩と習気が残らず断じられていること, あるいは知られるものと知るもの〔など〕が認識されないことである9) ここで,無明とその習気を断じた仏は,涅槃という戯論寂滅において全ての認 識対象が寂滅し,どこにおいても誰に対しても何も説かないと示されている.上 記の引用の下線部からも分かるようにツォンカパは仏が涅槃において「特徴に住 しないあり方で住している」と述べている.すなわち,すべての認識対象が寂滅 しているあり方によって住しているのが仏であり,その境地とは究極の涅槃のこ とである.ここでも戯論は「言説において設定された全ての存在」を指してい る.その戯論が寂滅するとは,煩悩とその習気が残らず断じられることによっ て,知られるものと知るものなどの特徴をもつものとして設定される全ての言説 有が認識されなくなることであり,それがまた涅槃でもある.

(4)

(200) ツォンカパの後期中観思想における「離戯論」について(拉毛卓瑪) ― 775 ―

終わりに

戯論には,本稿で問題にした言説有である現れの戯論と,真実執着あるいはそ の対象である真実成立を意味する戯論という二つの用法がある.後者の戯論をな くすことができても,前者の戯論は残る.しかし,現れの戯論が残っている間は 離戯論,戯論寂滅とは言えない.戯論を離れた境地は,全ての戯論がなくなった とき初めて実現できる.その意味では,このときの戯論は最後まで残っている現 れの戯論を指していると考えるのが自然であると思われる. 以上,ツォンカパが使用する「離戯論」およびそれと同義の「戯論寂滅」,「戯 論が見られない」ことは,勝義諦や真実義,涅槃を指す別の表現であることを指 摘した.「離戯論」は,無明の習気を断じた仏智と聖者の三昧智にとって,二つ の現れであるあらゆる戯論から離れた真実義を意味すると考えられる. 1)拉毛卓瑪 予定に掲載予定.   2)福田2004参照.   3) RG: Zhol, 2b6–15b6.    4) RG: Zhol, 159a5–6. GR: Zhol, 111b3–4.   5) GR: Zhol, 110b2–3.   6) RG: Zhol, 240a6–b1.   7)GR: Zhol, 70b2–5.   8) RG: Zhol, 239b3–240a6. 涅槃と勝義諦には複数 の用法があることについては別に考察する.   9) RG: Zhol, 264b1–4.

〈略号および一次資料〉

GR 『入中論釈: 密意解明』bstan bcos chen po dbu ma la jug pa i rnam bshad dgongs pa rab gsal. tsong kha pa blo bzang grags pa. In gsung bum, zhol par ma, Tohoku no. 5408.

MMK 『中論頌: 梵藏漢合校・導読・訳注』叶少勇編,中西書局,2011.

RG 『中論 : 正理大海』dbu ma rtsa ba i tshig le ur byas pa shes rab ces bya ba i rnam bshad rigs pa i rgya mtsho. tsong kha pa blo bzang grags pa i dpal. In gsung bum, zhol par ma,

To-hoku no. 5401 . 〈参考文献〉 福田洋一 2004「ツォンカパの中観思想における二つの二諦説」『大谷学報』83(1): 1–22. 拉毛卓瑪 予定「ツォンカパの後期中観思想における 戯論 の位置付け― 中論 : 正 理大海 を中心として―」『日本西蔵学会々報』64. 〈キーワード〉 ツォンカパ,離戯論,言説有,勝義諦,現れの戯論,涅槃 (大谷大学大学院)

参照

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