カリキュラムと精神薄弱児教育
吉 村 喜 好
教育内容の構成というカリキュラムの問題は,教育学の全領域において,カナメ的な重 要項目である筈である。然るに,最近10年間,我が国の教育界における現状は,具体的実 践指導案等の計画については熱心でも,その内容であるカリキュラムの立案や計画に対し ては,比較的冷淡であるように感じられる。最:近の教育学会の傾向も同様に,カリキュラ ムそのものに関する研究が全体的に乏しくなってきている。このような状態に至った最大 の原因は,33年度制定の学習指導要領にあるように思われる。
戦後の教育的困乱状態は,最初の22年度の学習指導要領によって,教育基本法,学校教 育法に基いた具体的学習の指針を得ることができるようになり,教師はここで再び,教壇 における自信を回復することができるようになった。更に26年,30年忌学習指導要領が改 訂されるに伴い,学習内容は充実を来したのであるが,一方その徹底した充実さが、33年 度に至り,文部省の決定版として,文部大臣名で公示され,教師たるものはすべてこれを 守る義務が法的に課せられるようになった。
事は学習指導要領の問題のみならず,元来自主性と計画性は,相対立する面をもつてい るもののようである。東京オリンピック大会がその頭抜けた緻密な計画性のため世界の人 々の驚嘆を得,日本人の卓越した計画性の能力が全世界に再認識されたのは今も我々の記 憶に新なところであるが,しかし一方,厳密な計画性の欠陥は,それが万一思わぬところ
で素謡を来した場合,収拾のつかない三二が起ることがある。他方単純,粗朴な計画は,
その実施結果に物足りない場合が多いのは勿論であるが,計画の中にない突破的な,ハプ ニングが生れ,以前予想もしなかった創意が生れる場合があるものである。
学習指導要領の性格についても同じようなことが言える。学習指導要領に示された教育 内容が,如何なる場合にもあてはまる可能な学習効果を期待出来るものとして,厳密な規 則のもとに定っているということは,能力の低い教師,怠惰な教師による児童生徒のロス を防ぐ意味から言へば,効果があるかもしれない。しかし二二基準がこのような形で厳密 に規定されると,動もすれば,それは,最高基準を示すことになることは,毎日の学習指 導の中で実際に体験しているところである。(例えば,基準として示された教科の学習時
間数のように)このように,厳密な教育計画である学習指導要領のもとにあっては,学習 に於ける一定のレベルを維持することは出来ようが,反面,有能な教師,熱心な教師の自 主的創造的な教育の実践を不可能にしている。即ち,彼等が子どもの実態に応じ,地域性
に立脚したカリキュラムを作成し,実践することが非常に困難となってくるのである。
こうして,教師達は,「何を学習させるか」ということより,「如何に学習効果を上げる か」という教授方法,学習効果についてのみに没頭せざるを得なくなった。最近,私の知
る或る離島の一教師は,ラジオの高学年学校放送番組である「このごろの出来ごと」を聴
取させていたところ,校長から,「学習指導要領にはっきり位置付け出来ず,どの教科の
学習ともいえないそのような番組を君がどうしてもきかせたいというなら,塾でも開く他
はないね」と痛烈に皮肉られたそうである。このことは,現在の指導的地位にある教師達
が教育の最も大切な本質的なものを忘れ,ただ学習指導要領という枠の中に子ども達をは めこむことに汲々としていることを示していることと思う。学習指導要領を初め,すべて のカリキュラムは,教授や学習を行う上に極めて大切なものであるが,しかし,潮岬,
それは学習の目安にすぎないのであり,書かれたものである以上そのままでは死物にすぎ ない。それでこそ,生きた教師がこれを活用することが必要になってくるのである。この 立場から言へば,学習指導要領にないから授業を行わないのではなく,学習指導要領にな いからこそ特に教えなければならないという,独自な教師の創意性,自主性が出てこなけ ればならないのである。
ところで,特殊教育の基準カリキュラムである「養護学校小学部中学部学習指導要領」
については,「小学校,中学校,高等学校,盲学校及び聾学校の学習指導要領はすでに文 部大臣名で公示されているが,養護学校学習指導要領については,文部事務官名で通達さ れているに止り,まだ文部大臣名での公示されるまでに至っていない」と養護学校学習指 導要領の精神薄弱児教育編解説に記してある。これは養護学校の学習指導要領が他の学習 指導要領のように,厳密な法的拘束性を持たないというように解釈してもよいと思われ る。しかし,文部大臣名で公示しない理由として同書には「この学習指導要領がわが国で 最初に作られたのであって,養護学校の現場における実践の試練を経ていないということ である。小学校や中学校の学習指導要領は現行の:文部省告示による学習指導要領が制定さ れる以前にやはり文部事務次官名による通達という形で数年間の現場における実践の期間 があり,その間の経験と反省に基いて現行のような文部省告示による学習指導要領となっ たのである。この学習指導要領も上述の順序を踏もうとしているのである。従って現行の 文部事務次官通達によるこの学習指導要領も当然,数年間の実践の期間を経たのちにおい て,改めて文部大臣名で正式に公示さるべきものなのである。」といっている。しかしな がら,精神薄弱児に対する教育内容の設定は,普通児のそれのように,一般的に概括的に 定める部門よりも,各個人差による内容の設定ということに大きなウェイトがか鼠ている のである。従って,これに対する基準的カリキュラムの在り方は,簡素で,しかも,各担 任教師の自由裁:量の余地や,独創性を充分発揮出来るものであってこそ,その効果が期待 出来るのであって,一般の学習指導要領のような,厳密な規定や細かい条項によって枠づ けられたものでは,精神薄弱児教育の場合は特に,それがマエナスの効果の方に働くとい うことが考えられるのである。この意味で,現在の養護学校学習指導要領は,これに教師 が強く拘束される必要がないという点において,精神薄弱児教育の特性に立脚していると いうことができるわけである。しかし,反面,基準カリキュラムが簡潔で自由裁量の予地 を充分に残したものであるということは,それだけ現場教師自身が宮主的に,自分の子
ども達の実態や,地域の状況に応じた,独創的な実践カリキュラムを構成する技術や,創 意,努力が要求されることを忘れてはならない。
このことは,現行の小学校,中学校の学習指導要領の強い拘束性に反罰して,もっと自
由な基準カリキュラムを要求している教師達にとって,現にこれらの自由を与えられてい
るとみられる精神薄弱児学級の教師が果して,その自由を有効に享受しているか,独創的
なカリキュラムが展開されているか等を知ることは重要な問題であると思われる。むし
ろ,自由はあっても,独創的な個性的なカリキュラムを各教師が自主的に作成すること
は,少くとも現段階の大多数の教師達にとっては大きな困難な問題であるのではなからう
か。
〔労りキユラムの基本的意義〕
カリキュラム,即ち教育課程の定義については「学校教育の目的や目標を達成するため に計画され,組織された教育内容の全過程である」ということができる。具体的にはf学 校において各教科,道徳,特別教育活動及び学校行事等について,学年に応じ,その目 標,内容,授業時数等と組織的に配列した教育計画である。」と学習指導;要領一般篇に記
されている。ところで本来のカリキュラムの語源は,ラテン語のcurrere(走る)という意味の動詞:
から来ている。そしてcurriculumという名詞は,走路,競争のコース或いは,トラック を指している。これが教育の場合に転用され,児童生徒が学ぶ「道すじ」という意味にな ったのである。更にcurriculumの意味の中には,走路から転じて,走ることそのものに.
も用いるようになり,教育の四丁は,学習経験或いは,児童生徒の学習内容という意味も 含まれているのである◎
一方,我が国ではカリキュラムは「教育課程」或いは「教育過程」と訳されている。こ の「カテイ」という夫々の漢字を,玄海その他の辞典で引いてみると, 「課程」とは「わ
りあてたる仕事の程度」或いは「課してなさしめる仕事のほど」とあり,一方「過程」と は「物事の経過したるみちのり」或いは「物事のうつりす玉む順序」とあり,前者が,割
り当てられた仕事の量を意味するのに対して,後者は,みちすじを意味している。このこ とはカリキュラムの正しい意味が,この「課程」と「過程」の双方の意味を同時に含むも のと解釈すべきである。そして,それが教育内容や教科の意味を重視して考える場合は
「教育課程」といい,学習のみちすじとしてその系統性,一貫性を重視して考える場合に は「教育過程」という用語が用いられる。しかしこのようにそのカリキュラムに対する考 え方が,二通りもの用語で示されるということが,教育学の性格を複雑なものにしている ことは歪めないであろう。更に,このカリキュラムに関連する教育的用語としては,上記.
の教育課程(過程)の他,教科課程,学科課程,学習指導要領,指導計画,教育計画,指 導過程,単元(展開)計画,指導領域案,能力表等があり,これらについても統一的解釈 が行われないまX,各人が各様に勝手に使用して,教育現場に色々が混雑が生じてきてい
る。強いてその二三の区別を述べるならば教科課程や学科課程という用語は,教育課程が 主として小,中学校の教育のように,子どもの生活の全領域を直接に教育の対象とする場 合に用いられるのに対して,この場合は高等学校や大学のようにそのカリキュラムが主と
して,教科のみを配列した計画表を意味する場合,教科課程,学科課程の用語が用いられ ている。学習指導要領はカリキュラムを国家的段階で構成した場合の用語である。これは 国家の教育を一定の水準に統一するため,定められた基準的カリキュラムのことである。
これに対し,指導計画或いは,教育計画なる用語は,県や学校或いは,教師自身の手にな るカリキュラムの意味である。更に具体的な1時間の学習計画案になると,指導過程,単.
元計画等の用語が用いられる。しかし,何れにしても厳密に定義されたものでなく,各人.
各様に,使用されているところに問題があるようである。
ところで,カリキュラムを立案しようとする場合,第一に行わなければならないのは,
目標の設定である。目標が設定されると,その目標達成の第一段階として,広い児童生渚
経験の中から,その目標達成のためどのような経験を選んで学習させなければならないか
、が考えられる。即ち学習内容の選択である。
第二段階は,その教育内容を如何に組織するかということである。即ち,選び出された 経験内容は断片的,無統一であってはならないのであって,それは組織され,まとまりを
もったものでなくてはならない。
第三段階は,それが一定の順序で児童生徒に提供される。ということである。このよう に,カリキュラムは,目的設定,選択,組織,排列,提供の手続を経て構成される。こ そでカリキュラムを内容的にみると選択し組織された経験の中味を意味し,形式的にみる
,と,学習経験の組織された形及びそれを学習する過程もさす。即ち前述の,「課程」と
「過程」の双方の意味が含まれているわけである。
〔単習指導要領の性格」
前述のように学習指導要領とは,基準的カリキュラムの性格をもつものである。その必 要性は,国家社会の実態から生ずる社会的要求として現われる性質のものである。学校
教育法施行規則第24条に,「小学校(中学校)の教科課程,教科内容及びその取り扱いに ついては学習指導要領の基準による。」とあり,基準としての性格を強く表現している。
しかし本来「基準」というものは,性格として本質的であるが,他面,幅のある弾力性を もったものであるべきで,換言すれば,現場教師の具体的な計画を立てるための資料的性 格であるべき筈のものである。しかるに,現行学習指導要領が文部大臣の公示という形で 出されている関係上,拘束力をもつ法規命令である(養護学校小学部中学部学習指導要領 精神薄弱児編解説P,8)といっている。 (但し最近の,裁判の判決はそれを否定してい るが)。このように本来自由であるべき教師の立場が法律によって拘束されることによ
り,独創的な教師の活動の芽がつまれ,それは結局,創造的な学習の欠如から来る創造的
.人間教育の欠如につながっていくのではなかろうか。前述のように,カリキュラムは児童 生徒が教師の指導のもとに,具体的に経験ある学習内容の組織なのであるから,それは児 童生徒各個人の要求を満たすという含みをもったものであるべきであり,それが可能なの
・は,担任教師を中心とする,学校や教師団によって構成された教育の計画がなくてはなら ないのである。
しかし乍ら,このことは決して国家的基準段階としてのカリキュラムが不必要だと言っ ているのではない。いうまでもなく,完全なカリキュラムの作成は一学校一教師のみの手 では決して満足なものを作ることは出来ないのである。第一に教師はそれだけの時間的予 猶がない。教師は本来,子どもの直接の指導にあたるべき任務を負わされており,それだ けでも毎日過重な労働が強いられているのであるのにその上,全体的なカリキュラムを作 るための労力や技術,知識の消耗が決して,授業の片手間にやれるものではないであろう ということである。更にカリキュラムの全体構想を立案するためにはどうしても,基本的 な教育学の知識や心理学或いは,各教科の専問的知識が必要であり,それらのすべてを現 場の教師に求めることは不可能であろう。最後に特に重大な問題は,我が国の現在の躍進 増大する交野内容の中から,一定の見地に立った基準を選択するということがなければ,
各地の教育に大きな歪みが生ずるということである。このように考えると,「教えるもの
が,教える内容を計画する」ことは原則的に正しいとしても,現在の様な,高度複雑な社
会に於ける,教育の計画の仕方をすべて,教師や学校の仕事をすることは酷である。それ
救に教師は,その理由で作成された中央の基準カリキユラムー学習指導要領一を参考とし
て,自分からの教育計画を作成するのがたてまえとなるのである。しかし,だからとい って,現行の学習指導要領の様に強い拘束力を持たせることには賛成出来ない。何となれ ば,教育は生きものであり,文字で書かれた学習指導要領はそれがたとえ緻密な,精確無 比な計画であったとしても,所詮,死物である。しかも一度刊行されると少くとも,10年 以上は改訂されない性質のものである。しかるに現実の社会は,日進月歩であり,昨日書 かれたものでも,今日は既に古くなっている場合があるということは,今日の自然科学界.
においては決して誇張した表現ではない。この様な急速度の進化に対して学習指導要領 は,これを停滞させる働をなすものである。この様な欠点をなくすためには学習指導要領.
は,簡潔で精選された内容からなり,そしてあくまで,参考的な基準としての性格をもつ ものでなくてはならないと考える。
〔精神薄弱児教育のカリキュラムの問題点〕
教育の本来の目的は,対象が普通児であろうと,精神薄弱児であろうと変るものではな いということは,養護学校学習指導要領に示されている通りである。しかし,同時に知能 的欠陥による社会的不適応に対しては,そのめざす具体目標に大きな違いがあることは当 然であろう。養護学校における教育の目標について「精神薄弱の児童,生徒ができるかぎ り身辺の生活を確立し,処理し,進んで集団生活に参加していくとともに,社会生活への 理解を深め,しかも,経済生活及び職業生活に適応していくための知識技術を,かれらの 知識やその程度やその能力に即して身につけさせるということにつきる。」とある。この 人間生活における基礎的生活習慣である身辺生活の確立,集団生活への参加,経済生活及 職業生活への適応の三本の柱を具体目標として建てている。この目標に対して,異論はな いが,しかし,多少問題となるのは,その中に記されている「知能」に対する考え方で ある。この学習指導指導要領では,例えば「能力に応ずる知識……」とか「かれらの知能 の程度やその能力に即して…………」という表現が使ってあが,現在の心理学の立場では.
「知能とは,遺伝と環境のほゴ等しい割合での所産で
あるという結論である。更に知能指数の恒席割につい 1・Qの変化 児童の変化の発
ては,最近それを否定する論文が多く認められ,現在 ではむしろ,「知能は変化する」と考える方が,常識 となっているようである。例ばえ,Robert M. W・
Traversの研究によると,6才頃ら18才になる12年間 に被験者222名の知能指数は,右表の様に変化してい
る。
50点以上
30 〜 40 20 〜 29 15 〜 19 io 〜 14
0 〜 9
0.5%
8.5
25.0 24.0 27.0 15.0
此の立場で最も顕著な研究をしたのは,イリノイ大学のK:irk・A. S・である。彼によれ ば,精神薄弱児施設に収容されていた27人の子ども(4〜5才で1.Q.40〜60)をえらん で,このうち15人のために,非常によい保育所を作って,そこに入れ,あとの12人はもと のま玉施設に残しておいた。この2つのグループを一連のテストによって比較した結果,
保育所に入れた15人の1.Q.は平均10点上り,施設にi残された12人のは平均6点ほど下っ た。此の差は,4,5,6才の時一方が保育所で訓練を受けたということだけで,3年後平 均16点の1.Q.の差が出たという発表である。このような一連の実験の結果から彼は,
1.Q.をある範囲において捉えるという仮説を発表している。即ち,子どもは,性得的
に,たとえば,70から100,あるいは,110という特定の範囲をもって生れてくるというわ・
けである。それで彼等の生後の環境の在り方によって,自分の最高の知能を獲得する者も いたり,或いは,最初から動かない者もいるというわけである。従って現在精薄児でも,
1.Q.100或いは130の可能性をもっているかもしれないというのである。現に,上記の良 い保育所で訓練を受けた子どものうちのある者は,大学課程を終えたということである。
この様に知能というものが,訓練によって或程度是正され得るということは,精神薄弱教 育に対する考えを,根本的に考え直さなければならぬ問題を含んでいると考えなければな
らない。即ち「知能に即して身につけさせる」という考え方から,「知能を訓練して向上 させる」ということに変らなければならぬ。特にこのことは変化の著しい低学年に於いて 大いに言えることである。
しかし乍ら,我が国においてはいまだ此等の充分な追試は行われていないだらうし,更 に,如何なる訓練が知能を向上させるかについての結論は出ていないように思われるの で、これらの研究の実証と結論が,早急に示されることが先決問題であらう。
〔精神薄弱児教育の実践カリキュラム〕
前述のようにカリキュラムは大別すると,基準的なものと,実践的なものに別れる。前 者が学習指導要領であり,後者は,各県,学校及び教室教師の手による指導計画がそれであ
る。第一図は,それらの関係を図示したものである。その要点を示すと次の如くになる。
1.関係法規に示された教育の一般目標を基準としながら,しかも自主的に編成するこ
(第1図) 養護学校指導計画作成の手順
教 育 基 本 法
↑
学 校 教 育 法
同法施行規則
↓
小中学習指導要領
↓
匝域硬司\
各県教育委員会規則
[報の実態ト
\ 養護学校,特殊学級 教育 目 標
塵徒の醐ぐ』
\バ1
↓ ソ
←
→
普通学校教育目標
領域表能
力表の作成
各個人の具体目標 →
〈一バ7
録
↑↓フ・一ドバ・ク
単元計画 指導案の
作 成
と。
2.学校や,地域の状況,例えば,学校の財政上の問題或いは,地域や学校の精神薄弱児 に対する認識の度合等を注意深く考慮しながら,特殊学級の独自の在り方が定められ,
学級の教育目標が設定されなければならない。
3.特殊学級の児童生徒数は,7〜8名であっても,普通学級のように等質の学級でない ことが殆んどである。従って等質学級であることを前提としている普通学級のような一 斉学習は不可能といはなければならない。実際,学級の指導計画を編成しようとして も,各人の個人差が余りにも大きすぎるので(例えば精神薄弱児の1.Q.60と40の差 は,普通児の1.Q.100と120の差と同じ単なる20点の差というより,質的に非常 な懸隔を示していると考えるべきである。)どこに焦点を合せ,どんな形にすればよい のか,皆目見当がつかないような困惑に合うことが多いものである5そこで,これに視 点を定めるため,学級内の標準的な児童生徒,一般に学習指導要領の基準によって,
LQ.50〜60程度で,性格異常や二重障害のないモデルを選び出し,このモデルをも ととして先づ,要素表,領域表を作成することである。
4.上記のようにして作られた要素表,領域表をもとにして,各学級の各人の実態に応じ て,指導計画(実施案)が作成される。
5.実施案によって,授業が行われる。各人目標や,領域表,更には,学級の教育目標に までフィードバックされることにより,より合理的なものに作り変えられていくのであ
る。〔特殊学級の学習指導法〕
精神薄弱児の知的欠陥は,その記憶力や把握力というよりむしろ,概活力,応用力にあ るということが,心理学の方で指摘されている。このことは,彼等に,基礎的知識を与え て,例えそれを記憶し得たとしても,概活化応用力に乏しければ,記憶内容が彼の経験の 幅を広げていく基礎にはならない。つまり,彼の知識にはなり得ないわけである。それで 彼等に対する学習の在り方は,ものを記憶させることではなくて,毎日の生活の実践の場 において意識させるという,生活学習が取り上げられなければならない。生活学習の方法 としては,単元学習,即ち生活単元学習,作業単元学習及教材単元学習と日常の躾指導と しての,日常生活指導があり,これらを精神薄弱児教育方法の主軸とすることが,今日の 最も一般的な学習指導法と考えられる。しかし,一般に学習指導案を作成する場合,その
テーマ,単元といったり,或いは,課題,主題,題目等勝手に使っているようであるが,
単元の意味が,これらの用語と異る点があることを,知っておかなければならない。即 ち,単元とは,単なる題目や課題等と異り,それ自身まとまりがあり,しかも全体の教育 に有機的に結合している部分の役目を果しているものを意味する。これに対し,題目や課 題として与えられる学習は,それ自体まとまりがあっても,全体との相互の関連が考えて なかったり,学習者の全人教育との関連よりむしろ,教科という学問体系の部分のみが強 調される傾向にあるため,子どもにとってそれが,自分の現実の生活問題解決にどのよう
に働いているかをみきわめることができないので学習に興味が湧かないのである。これに
対し,単元は,我々の生活問題に密着した内容の解決過程であることから自然に発する興
味を基本として組立てられているものである。養護学校学習指導要領解説編には,この単
元学習の必要条件として次の8つの項目が上げられている。即ち,
1.単元は実際の生活場面から発展し,児童,生徒の直接の興味に基いたものであるこ と。
2.単元は,児童,生徒の社会性,身体的,精神的発達水準にあったものであること。
3.単元はひとりびとりの児童,生徒の能力をのばすとともに,集団全体がその単元に参 加し協力できるようなものであること。
4.単元は,必要な知識,技能の獲得とともに,社会生活の望ましい習慣,態度の形成を 目標とするものであること。
5.単元は,単元活動によって身につけた関心,技能,習慣,態度が学校外の生活でも応 用されるようなものであることQ
6.単元は,読み,書き,算数を実際に用いる機会を含んだものであること。
7.いろいろな単元を通して,多種多様な経験を与えられるような配慮をすること。
8.単元は,それが終った時に児童,生徒が成就感を味わえるものであること。単元は,
2,3日で終る場合もあれば,1学期時には1年続く場合もあり得る。
これにつけ加えるならば,更に単元学習は,生産的な働きを原型としたものであって,そ れが生活として意味のある一連のまとまりへと発展したものであるということであらう。
ところが同じ単元でも,教材単元というものがある。これは単元学習が上述のように生 活から出発するのに対して,逆に一定の二二を生活の場面に下してきて学習させようとす るものである。このような二藍の生活化の場合は,二三の一つ一つの分節は,すでに最初 からきまって一定の順序で配列されており,その選択配列の理論は主として,教科の伝統 的なものである。その既定の教材はそのまX説明理解させるよりは,生活的なものをっけ 加えて,そこから導き入れる方が効果的だという考えから出発している。養護学校学習指 導要領解説にある「教科を合わせること」もこの立場のようである。しかし,この立場の 単元学習は,効果はとにかく,単元学習の本来の成立過程において,根本的に異るものと いって差支えないであらう。
〔生活単元学習〕
生活単元学習は,精神薄弱児教育に最も適した学習四丁である。特殊学級のように,個 人差の幅の広い集団にあっては・各人の能力に合った教材を・もっとも身近かな生活の中 ら取り出し,しかもこれを学級という集団の活動として取り扱うには,最も効果的方法で あらう。生活単元学習が効果的に行われる条件としては,前述の単元学習の必要条件の中 に記入されてあるが,生活単元学習として特に,子どもの,現在の興味を惹くに足る内容 であり,そして,それは,出来れば子ども自身で取り上げた内容であることが必要であ る。といっても何の計画性もない子どもの思いつきをいちいち取り上げて,思いつきの学 習をするのではなく,前以って計画した単元を,児童生徒が,あたかも自からその単元を 取り上げたかのように思わせる単元導入の技術が必要である。更に,生活単元学習は,遊 びと違って学習である以上,この単元の中で,自然に読み,書き,算数の領域が含まれ,
それによって,各々の学年の各教科の領域が相当量消化出来るような単元計画でなくては一 ならない。具体的には各教科の能力表と単元計画表との充分なつき合せが行われているこ とが必要である。等が主な要件である。
生活単元学習の内容を類型的にまとめると次のようになる。
1.子どもの興味や,問題意識を起し易いようなものをねらって単元を構成する。
(例)いろいろな形 おもちゃ,のりもの,花草をそだてよう,潮干狩 2.学校の行事に合せて単元を構成する
(例)春の遠足 学芸会 合宿
3.身近かなものへの関心を高めるための単元
(例)丈夫なからだ 自然にしたしもう みんななかよし 4.指導の契機となる独得の行事を考えて単元を構成する。
(例)合宿へいこう 時計とくらし
5.病気,けが,天災,事件などを中心に,しかも,時に応じて,子どもの能力や興味に あったものを,教育的価値の効果の高いものより随時にとりあげて単元を構成する。
〔作業単元学習(作業学習)〕
作業単元学習といっても広い意味においては生活単元学習の範疇に入るものであろう が,生活単元学習が主として日常の生活行動や,季節的行事という共通の興味ある事項を 取り上げているのに対し,同じ生活そのものをとりあげるにしてもこの単元の場合は,子 どもの興味のある生産的な作業や栽培,工作等を行わしめ,その労働を通して実践的な学 習を行わしめようというのである。上学年になるに従いそれは職業人としての自立に必要 な能力,態度,習慣を身につけるための,一定の作業学習に進んでいく,故に低学年にお いても,生活単元学習と作業単元学習を区別しなければならない積極的な理由は少ない が,強いて言うならば,生活単元学習が日常生活行事,模倣等等生活全般についての各単 元のもとに色々の日常生活に必要な知識技能を学習していくのに対し,作業単元学習の場 合は,単元名が直接に飼育とか栽培或いは花壇作りのように作業や仕事そのものであり,
子どもはこの単元によって,作業の方法を学ぶというより,それを通して勤労の尊さや仕 事に対する喜びという態度を意図する点にあると考えられる。しかしこの方法は,中学部 になってくると,むしろ職業教育のためということに重点が置かれ,将来自立するために 必要な能力,態度,習慣を身につけると同時に,技術や知識を学習するという目標に移っ
てくるのである。それ故,この場合はむしろ単元という形の学習形態でなくとも直接作業 学習として計画するのが普通のようである。しかし。この場合においても,それらの作業 が子どもの能力や興味を考慮して計画しなければならないことはいうまでもないことであ
る。 ・
〔教材単元学習叉は教材学習〕
生活単元学習のように一つの興味に集中して綜合的な学習を行うことは,子ども達が楽 しく積極的に学習するので,学習効果が高くなるのは勿論のことであるが一方,その学習 内容を精しくみるならば,それは往々にして,教科としての一貫性に欠けていたりするも
のである。例え要素表で教える点を押えていっても,どうしてもその単元の生活面に出て こない面も多々あるわけである。更にドリルを必要とする読み,書き,算数では,どうし ても,興味だけではなく,場合によっては,相当,押しつけ気味に叩き込んでいくやり方 も必要なことがあることを認めないわけにはいかない。しかし乍ら,教材単元学習という 意味は,無味乾燥な教科内容を生活の場に戻して実感的な興味をもたせて,学習を行う意 味であるから,その中には,このような訓練学習の意味は含まれないわけである。むし ろ,それをいうなら,そのまN教材学習というべきであろう。その意味で,教材学習は,
生活単元学習の落ちこぼれを拾って学習を完結するもの,或いは最終的に,まとめたり,
重要な点を再びドリルする必要を見出した場合,置かれるものである。例えば,音楽,図 工,体育等技能的なものは,勿論生活単元学習や作業単元に組み込まれようが,器楽合奏 の練習とか,鉄棒,マット運動は,教材学習として訓練した方がよいと思われる。
〔日常生活指導〕
日常生活的な行動については,前述の生活単元学習,作業単元学習において押えられて いくのであるが,領域表,要素表の内容をすべてこれらの単元学習だけで押えきれるもの ではない。日常習慣的な行事は,特殊学級においては基本的な最も大切な学習活動である ことは前述した通りである。即ち,普通児と精神薄弱児の明瞭な相違はこの日常の習慣的 身辺の生活が充分に行われているかどうにか鼠っている。このような例えば,衣服の着 脱,洗面手洗い,排泄,食事,清潔,ことば使い,礼儀,時間を守る,きまりを守る等集 団生活をする以上必要なことがらは,日常のあらゆる場面で,いろいろな機会に反復指導 されなければならないものである。指導の場として,朝礼,朝の話し会い,清潔検査,給 食,掃除,係当番等毎日の生活の中で一定の時間にしつように反復指導を加えることが臼 常生活指導において最も大切なこと
である。何故なら,こうして得た躾は 人間として社会生活を送るため極めて 大切なことがらであるからである。
〔各指導方法の組み合せ〕
以上,生活単元学習,作業(単元)
学習,教材単元学習,日常生活指導の 特殊学級の4指導法の学習比率は,各 人によって夫々異るのであるが,その 一応の目安として,次の三校の場合を 示すと,右の図の通りである。
華習方法学校斜
生単元学習
作業学習
教材単元学習
日常生活指導
東京教育大附属
大塚養護学校
小学校35 %
15
25
25
中学校
25 %
35
25
15
鹿児島県
小学校 中学校
}60%
20
20
20 %
40
30
10
参
考 文
献 日本教育大学協会選定 教育課程文部省 小学校学習指導要領 日本教職員組合 新教育課程の批判 文部省 養護学校学習指導要領精神薄弱児編 文部省 同上解説
城戸幡太郎他 体系教育心理学科辞典 久保田正入・寺田 晃 精神薄弱児
西谷三四郎 普通学校における特殊学級の指導
三木安正編 精神薄弱児実践講座(1)山柴 邑智 精神薄弱児講座 (2)㈲
精神薄弱児研究 特集「特殊教育課程をめぐって」1967年6月号 精神薄弱児研究 特集「指導計画」1968年3月号
精神薄弱児研究 特集「教育課程の研究」1968年6月号
東京教育大学教育学部附属大塚養護学校「教育課程」昭和40年10月
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