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自由主義経済における國家干渉

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(1)

自 由 主 義 経 済 に お け る 國 家 干 渉

− マ ル バ ッ ハ の 所 論 と そ の 批 判

松 野 賢 吾

マ ン ダ ー ヴ イ ル は 十 八 世 紀 の 初 め '

﹁ 蜂 の 寓 話 ﹂   ( T h e F a b l e o f t h e B e e s )   と い う 一 書 を 公 に し て ︑ 個 人 の 私 利

私欲すなわち﹁個人の罪悪﹂は﹁公共の利益﹂となる所以を説いたのであるが︑︵註︶恐らくわこの書が︑自由主義

経済学の淵源をなすものであろうl︒その主張のように︑個人の利益と社会の利益とは︑自動的に合致するの傾向があ

るのか︑或は国家の干渉によって始めて調和するものであるか︑という問題は紺返し論争せられ来った︒個々の経済

政策の基礎によこたわるところのこの問題に対しては︑過去数百年間︑いろいろの解答が与えられ来ったのであって

極端なる自由主義者は︑すべての国家干渉を害意と考えており︑また自由主義者のうちに入れられない妥協者は若干

の程度の干渉の必要であることを確信する︒極端放完自由主義的立場はイヂオ︒ギー的信仰に近づくものであって︑

かかる立場の固持Lがたいことは︑経験と理論の教えるところである︒

註 マンダーヴイルのこの書の節一版は一七一四年に出たのであるが︑筆者の所蔵する一望三年版には︑﹁個人の罪悪すなわち

公 共 の 利 益 ﹂   ( 這 r i く a t e ≦ c e s ‑ P u b l i c k 出 石 n e f i t s ㌧

︺ と い う 副 題 が つ け ら れ て い る

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1929) しかし吾等は彼の所論に賛成し強い︒変づ第這'経済過程には︑不安定な均衡や摩擦等によっても匪らさ

るる若干の部面があって︑この部面に対しては'経済政策を遂行しなければ放らない︒現実においては︑均衡点の正

自由主義経濱における国家干渉

(2)

営 と 経 演

確に実現し得るような体系は存し得ないのであって︑多くの場所に沿いて均衡よりの離反がある筈である︒

第二に︑国家は新なる与件を附加するととによって︑干渉の部面を拡大する乙とがある︒例えば私経済の活動の背

後にある勤機を変更せしめるととにより︑或わ市場機構を通じて自勤的にその作用を伝播するととるの補助金の突付

によって︑干渉の部面を拡大する乙とがある︒経済過程は謂はば連立方程式であり︑国家干渉は乙の連立方程式を破

壊する乙とである︒私経済は連立方程式の破壊を︑自己の最佐官と信やる決心と国家の要求との衝突として感じとるで

あ ろ

う ︒

乙の衝突は︑若干の程度までは堪え得る︒乙の場合︑国家が経済過程を出来るだけ利用するか︑衝突を惹起せしめ

るかによって︑その経済政策は市場に協調するものとなるか︑然らざるものとたるか︑の区別を生やノるわけであるが

如何なる程度に国家の干渉は行わるべきであるか︑また国家干渉の利益が如何なる時点より害惑に転化するものであ

る か に ク い て は

︑ 明 瞭 な 解 答 が 与 え ら れ て い な い 口 .

個人的利益と社会的利益との完全なる合致は︑経済力主自然に放任する乙とによっては期待し得ないというのは︑

一定の経済的社会的条件の下においては︑利己心の限りなき追求は同時に社会的利益に最も広く役立クけれども︑他

の条件の下においては︑乙のニクの利益の白勤的なる調和は不可能であるという乙とである目

右のように考える場合︑然らば具体的に何が社会的利益と見らるべきであるかという問題が生宇る︒乙の問題に対

しても︑解答は時と場所とによって著しく具なるものであって︑乙の事実は社会的利益という概念の解釈が形式的に

も実質的にも︑その当時の政治的社会的なる権力によって決定せられるというととを示すものであるロ現実的に考察

すれば︑社会的利益という名に沿いて一定の経済政策的手段は要求せられ採用せられるものであるが︑乙の社会的利

益は貴挨]軍隊︑官僚の利益︑或は国家権力を掌握するととるの経済的社会的階級の利益︑例えば大帥主・企業者・

虫働者の利益と同意義となる︒

従って理論上︑主張せらるると乙ろの﹁社会的利益﹂は︑国民の大多数の利益を一不す表現であると同時に︑また指

導階級たる少数者の利益を示す表現でもある︒乙の少数者の階級は自己の特殊利益左国民的利益と誇称するわけであ

(3)

る口従って一一国の社会的利益に対しては多くの解釈︑例えぼ過去に・おいて支配したるととろの叉は現在に於て支配し

ククあると乙ろの︑或はまた将来支配し得るであろうととろの社会的集団や階級の解釈があり得るわけであるから︑

社会的利益という概念は︑多くの活保を附して︑そして意識的に相対的な表現を附してのみ︑経済政策的問題の科学

的研究の︑なかにとり入れるととが出来ると思う︒

と乙にはとの問題を深く検討したいとととして︑以下の解明に沿いて︑経済的なる﹁社会的利益﹂とは︑何れの階

綾も非経済的に基礎づけられたる特権を与えらるるととたく︑すべての国民に対する生産物の供給が恒常的持続的に

そして漸増的に増加する事実をいうものと解する︒吾等はかかる素杯的危決定を以て満足して長く︒

西欧民主え義国家に限定して考えて見ると︑自由主義と干渉主義というこつの立場の対立は全く消失したわけでは

ないけれども︑過去二十年の問に︑その固有の尖鋭さを失ったという乙とが出来るであろう︒それは特にアシグロサ

クソシとスカ Y ヂナピア諸国に当取り︑下イツに

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如いても最近は同一方向えの発展が見られる︒

一方に・おいては節度ある自由主義と極端なる自由主義との見解の差異があるとともに︑他方においては採用せらる

べき手段の適用範囲や強さに関する干渉主義者の見解もまた区えである︒しかし︑両方面の極端た︑る論者を除外して

考えてみるときは︑その問︑経済政策的干渉の相対的な合目的性と必然性とに関しては︑若干の一致点が次第に作り

出されているのである︒例えば︑アメリカの経済学者ク 1 パ 1 の﹁完全雇傭と経済安定に対する計画の若干内容﹂

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ても︑アメリカに・おいて現今︑自由主義者も干渉主義者もともに認めているととは︑全く自由たる市場経済が︑完全

雇備に際して恒常的怠る経済均衡を保障し得たいとと︑そして古典的準則たる所謂﹁健全財政﹂は捨てらるべきであ

り︑むしろ財政え策と信用政策の手段が安定したる経済発展の実現のために著しく有功であるというととである︒

フライブルグの自由主義的経済学者オイグ γ も︑見えざる手が個人的利益と社会的利益との調和を無雑作に実現せ

しめるというレヅセ・フェール政策の主張を根本的誤謬であるとなし︑かかる目標に達するためには国家政策左必要

と す る 乙 と を 述 べ て い る ︒ ( ︑ 司 ・ 開

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自 由 主 義 経 済 に お け る 国 家 干 渉

(4)

経 営 と 経 済

四 若し市場機構の機能を有したいと乙ろの経済秩序は︑恐慌のたい経済発展を出現せしめ得ないものであり︑また均 等な所得分配と財産分配と社会的安全を保障し得ないものであるとすれば︑そして若し純粋の一般的競争の再現に向

けられたる秩序政策は︑必やノしも充分に合目的的友ものではないと云うととを認めるとすれば︑国家の行う経済政策

の方式と方法とを見出すととが重要な問題であると云はねばなら左い目との国家の行う経済政策に対しては若干の条

件が附せられねば怒らないロ

すなわち第一に出来るだけ市場に適合する干渉を行う乙とによって個人的利益と社会的利益との一致

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とれは市

場機構工り自動的には生じ友いーーを凡ての場合に実現するもので友ければ怒らや︑第二に有功怠る干渉を行わしめ るために政府に与えられたる権能が︑自制怠き専怒又は独裁に陥入ってはたらたい口吾等は乙のニクの前提条件のも

とに︑国家の行う経済政策の方法と可能性とを検討しようと思う︒先づマルパッハの論著﹁経済的国家干渉の問題﹂

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5 三

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を分析するととより出発するである

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( 一 一 )

スイスの経済学者マルパッハは干渉主義に関し︑また国家干渉行為より生やる随伴現象に関し︑経済的社会的考察 を試みて︑前記の意義に告ける経済の位置の問題を解決しようとしている︒マルパッハの功績は次の諸点に認められ ( る ︒ 1 )

国家干渉の不可避性を極めて明瞭に解説した乙と︒

( 2 )

干渉をイデオロギーより解放し︑干渉を一一種の手段と見て︑手段としての性質を明かにしたとと︒

( 3 )

干渉の危険と限界を詳細に示したとと︒

( 4

)

干渉の限界に対する判断の基準を明かにしたとと︒

( 5 )

干渉の問題を経済学的に取扱うには限界の存するととを示唆し︑とれを広い視野に沿いて論じたとと︒

(5)

︿

6 )

干渉に関与する者の倫理的態度の決定的重要性を明かにした乙と︒

以上マルパッハの功績として掲げたる諸点につき︑更に解明する︒

( 1 )

マルパッハは今日実際に沿いて︑資本主義国家においても

1 1

﹁自由企業﹂の原則を強調するアメリカに沿

いですらも││或る程度の干渉主義が認められているととを指示し︑﹁ある程度の国家干渉は不可避的に深く棋を張

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と結論している︒彼はとの不可避性の存する理由として︑個人と社会の相互的たる制約

性をあげ︑クぎの上うに説明する︒

﹁社会性と個人性とは︑五口等の生存の対極的基礎であって︑除去し得るものとは考え得ないと乙ろの構成的な基盤

であるロそして︑乙の故に個人より規定せられない生活発現状態はあり得ないように︑社会より規定せられない生活 発現状態もあり得たい︒従って多くの生活発現状態の一たる経済事象を個人性又は社会性の何れか一の見地の下にの

み考察する乙とは正道で注い﹂

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∞ ・

8 )

と口干渉と云う手段によって︑経済生活は自由と拘束との両極の聞

に・おいて︑個人と社会との機能的均衡が得色れる︒﹁乙の﹃中間的解決は﹄たとえその理論的被覆は不充分であり立

派ではないにしても︑吾等の社会的生存の内的本質より︑吾等に強要せられているのである﹂

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つぎに︑マルパッハはカ l テルを具体的実例として掲げ︑スイスのカ 1 テル調査の結呆にもとづき︑無制限怒る競

争が必然的に競争記排除する私的協定に導き︑乙の私的協定によって︑経済的に優越したる私的地位が濫用せられる

から︑必十国家干渉を生ぜしめると説明している︒日く﹁若しかりにカ 1 テルが怠ければ︑カ 1 テルの濫用はないで

あろうし︑カ l テルの濫用がなければ︑ヵ 1 テル法の制定のための政治的た意思も形成されないであろう﹂

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3 1 3 )

︒ カ

l テル法の制定につづいて生宇るものは︑その実施監督の手段である口たとえ私的カ 1 テルの成

立しない場合といえども︑今日のように資本が集約的に用引いられ一般的に販路の失われている時代に際しては︑無制

限な競争が行われ︑そのために結局︑国家干渉が必要となる︒

このことに関連して︑干渉の発展に取って決定的豆要性あるものとして︑不公正たる分配と週期的たる恐慌につい

自由主義経済における国家干渉

(6)

経 蛍 と 経 済

L..  /、

て述べている︒日く﹁生産せられたる財の介配せられないとと︑そして生産し得る財の生産せられ友い乙とが︑自由

たる資本主義的企業者経済の病的徴候である﹂

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・ 8 0 )

と︒た長吾等にとって注目すべき彼の結論は次の

通りである︒日く﹁干渉の一初期の時代に沿いては︑政綱の上で市場経済的自由を誓約する政誌が常に存在し︑かかる

政窯の手に国家の決定的権力が帰した︒乙の権力は漸次的にのみ確実に︑そしてただ発展に規制せられたる︑従って

不可抗的怒る経済政策的・国家政策的・社会政策的勤機によって︑反対者の政綱に合致し︑又は反対者の政綱に接近

し︑しかも自己の政綱には矛盾すると乙ろの方策をとらざるを符ないようにたる﹂

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・ 5

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と ︒

しかしマルパッハは特に目新しいととを説いているわけでは左い︒それでもたゐ彼の所論は広い視野の下に種えの

理論を取り入れて・おり︑注目に位するものというととが出来る︒

( 2

)

若し干渉の不可避住が立証せられ︑そして他方︑実際の経済形成に沿いては︑極度の国家的指導は排除せら

れねば友ら友いとすれば︑不可避的干渉は如何なる程度であるべきかの問題が提起せられる︒干渉は理論上是認せら

れるという理由よりして︑自由喪失の危険の生やる限界点まで︑最大限の程度に干渉をひろげるととも出来るし︑ま

た干渉は理論上排除すべきものであるとの理由主りして︑﹁実際上︑不可避的なる﹂最小限の程度まで縮小するとと

も出来る︒しかし吾等は干渉は﹁理論上﹂好ましいものでも注く︑また呪うべきものでもなく︑寧ろ社会的生産物の

最大量という経済政策的窮極目標の達成の為の個人主義的市場経済

l l

云うまでもたく︑必要と認めらるる自由の最

小限が侵害せられ注い程度に・おいて!!と全く同様なる手段であるとの見地に立つ乙とが出来る︒乙の見地を捨てて

干渉の﹁手段性﹂を見夫うたらば︑干渉の問題に対する態度として︑それは偏狭であると一式はねばたらたい口

干渉は目標達成のために必要にして合目的的なる手段であるとする立場に従えば︑同一目標が他の方法によって︑

換言すれば個人の決定の自由を維持しクク︑到達され得る場合には︑干渉は喜んで放棄し得ると一式ばねば・ならたい︒

同一目標が他の方法によって到達され得ないとすれば︑或る範囲に沿いて︑社会的生産物の最大量の実現のために︑

個人の決定の自由を好んで犠牲にしたければたらたいわけである︒しかし干渉を手段として見る立場をとるとしても

(7)

手段としての特質左如何に判断するかに従って︑干渉は種々に評価せられるととになる

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マルパッハの特に明かにし℃いる点は︑第一に前記のように干渉は之左手段と見るべきであり︑従ってイデオロギ

ー的危見解は矛渉に対して無意味である

ζ

と︑第二に干渉は広い範囲に・おいて目的達成に必要なものであるから︑干

渉左手段と見る場合に・おいても︑出来るだけ広く之を排除するを可とすると一式うのではない乙と︑第三に干渉たる手

段を余りに強度に採用する時は︑自由を侵害する幣害を伴うのみならやノ︑目的を達成せしめざるに至る危険ある乙と

との三点である︒﹁国家干渉そのものは良やものでも惑いものでもなく︑単に生活方法を獲得するための便法にすぎ

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・ 53

と云うととが諒解せられたたらば︑問題は個人の創意と国家の決定と左混浴せしめる程度

如何という乙とに帰するわけである口之を明かにした乙とは︑たしかにマルパッハの功績である︒﹁五口等が自由と組

織との存在左信じ得るのみたらやノ︑全く理性的た方法でこの両者相互を調和せしめ得ることは︑現時の日えが証明し

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る ﹂

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︿ 3

) マルパッハは余りに強度の干渉より生十る危険を説いている︒日く﹁干渉が或る程度を越える時は︑行政施

設・監督施設・管理施設の誤導・摩擦・権限拡大によって︑そしてまた不合理な経営左希望により又は希望によらやノ

して奨励する乙とによって︑社会的生産物は減少する﹂

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ミ)と︒乙れに続いて︑干渉によって生 H

じたる分配の公正の増進も︑ある点左越えるときは︑経済の効率低下によって相殺せられ︑その結果︑との点以後︑

全経済はより好ましくゑいものとたるべき乙とを断定する︒更には︑﹁国民経済上(社会的な組織を危険︑ならしめ︑

又は撹乱すると乙ろの︑何等かの方法で成立する明白な不均衡を排除するために︑叉は斯る不均衡を回避するために )︑緊要でない干渉は停止せらるべきである︒何とたれば経済的与件の間に微妙なる相互依存の存する場合における 干渉は︑新なる不均衡を作り出すから︑そのために均衡の再現は促進せられるよりも︑寧ろ妨害せられるととがあり

得るからである﹂

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c ‑ u m

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∞仏)とも一式っている︒新なる不均衡が作り出さるる時は次第に広汎にわたる干渉が

必要となり︑結局︑計画経済にまで達するに至ると云うのであるの

自由主義経済における国家干渉

(8)

経.

営 と 経 済

久 、

また﹁干渉主義者は彼によって惹起せられたる与件の変化に対する反動の全体を決して予見し得るものではない白

乙の故に多分︑否恐らくは︑次第に新なる干渉を行うの余儀なきに至る︒従って西洋民主主義型左保持しようとする

国家は︑或る程度を越えては干渉を遂行すべきではたい﹂

( ω ‑ m

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・ 二 w ‑ g l g )

と一式い︑干渉をゆだねられたる国家

機関が︑﹁自由経済﹂の力を軽況して︑次第に新なる干渉を利用する傾向のあるととを述べている︒守

・ ‑ m o

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3 ∞

以上のように︑マルパッハは干渉より生やる危険にクいて警告を与えているけれども︑干渉が一定の限界内に維持 せらるる限り︑危険区域は回避せられ得る乙とを確信している︒ただ彼は干渉の限界を守る乙との困難を充分承知し

ているのである︒

( 4 )

マルパッハは国家干渉の行はれ得る限界をつぎの工うに説明している︒

(

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U H )

干渉が批判的なる程度に達するのは︑社会的に好ましい購買力の分配という利益が︑つぎの三つの理由工り生やる

幣害によって相殺せらるる場合である口

A

︑生産手段の非合目的的なる組合せ

B ︑︐適度の与件変化 c

︑購買力の分配の新なる不均衡 また他の個所に‑おいて︑マルパッハは干渉の﹁過度﹂は︑限界経営が保護せられ過ぎる場合に生十ると述べてい る ︒

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・ ︒ ‑ w m ・

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マルパッハはまた︑干渉という手段を評価するための基準として︑﹁見通し可能の程度﹂と﹁市場撹乱の程度﹂と

を提唱しており︑クぎのように一式う︒﹁干渉官庁は人為的なる与件変化の他の経済与件に及ぼす作用を洞察し得たい

と一式うととの是認せられねばならない程に︑干渉が市場活動に深く侵入する場合︑干渉は見通しがつかないわけであ

って︑そして可能的な市場撹乱に関して︑特に悪性のものとなる﹂会

・ ‑ m

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印 ・ 区 l M

ごと︒乙の場合︑容易に﹁与

件の混乱﹂が生じ︑干渉は﹁危険な事柄﹂となるというのである@しかし彼はかかる基準が﹁なお可なり陵昧であ

(9)

る ﹂

( 1

5

z g m m w E

巳 宮

E) 乙とを認容している︒

マルパッハも︑最も好ましい干渉の程度が如何なる時点にあるかの問題は得決していない︒﹁それは時間の経過に

クれて︑そして生涯を通じて始めて解答の供せらるると乙ろの問題である﹂

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・ 5 0 )

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( 5

) 右の謂はぽ﹁幾何学的位置﹂に対して充足せらるべき条件は︑社会的生産物を︑﹁最適度にするとと﹂

( 切 る ℃

B 立

F R g m h J

である︒との﹁最適度にするとと﹂は﹁最大量にするとと﹂(=富良

‑ E R g m R )

に対立するも

ので︑純経済的に成立するものではない︒﹁最適度にするととは︑その経済外的(例えば・::政治的・社会的・心理

的・倫理宗教的)測定標準を適度に︑そして矯正的に齢的しクク︑::・社会的生産物を出来るだけ最大の分量にする

ととを意味する﹂

( ω

・ ・ h w 0

m ‑ H 2 3 0

従って﹁最適度にするとと﹂の中には︑公正と考えらるる分配が含まれ︑なけ

ればならないのであっで︑五口等が前に窮局目標として示したる社会的生産物の最大化と︑分配の公正とを綜合したる

概念である︒若しとの概念に分配の公正を包合せしめない時は︑社会的緊張が現われて︑現存の状態を維持し得︑ない

ようになるであろう.

かく考えて見ると︑﹁最適度にする﹂と一氏う概念は基寛︑再び純然たる﹁最大化﹂の概念に帰着する︒乙とに所謂

最大化は︑国民の公正えの欲求並びにその他の欲求に齢的を払う乙とによって長期に豆りて持続すると乙ろの最大化 を意味するのであり︑従って経済外的要素が考慮せられねばならない︒若し関与する凡ての要素を独立たる成分とし

て取扱うとすれば︑とのような簡単友規準を掲げる乙とは出来ないのであって v とれらの成分の可能的な総合の全部

を格づけし評価するととによってのみ測定せられ得るのである︒生産量の大さは多くの成分のうちの一の成分に過ぎ ない︒特に経済外的要素は重要但しなければならたい︒﹁最適度にする乙と﹂は︑﹁結局経済的にもまた合目的的で

あ る

﹂ ( ω

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‑ p

・ m ・

MMH)

ととろの一の状態に到達するために︑適当た方法をとるととであり︑そして凡ての経済外

的目標を考慮に入れての設も好ましい状態を実現するととである︒

干渉の遂行にあたり如何に経済外的事情の重要であるかにクいて︑ マルパッハは干渉の機関を検討する場合に明か

自由主義経済における国家干渉

大 』

(10)

経 蛍 と 経 済

にしている︒役はかかる機関にクいて社会学的考察を試み︑機関の﹁自律性﹂

( 3 E m g ‑ m 2 2 N

E の F r o ‑

E)

すなわち

独立的なる影響力を示唆している︒彼は経済事象は官吏に依存するものとして云う﹁乙の官吏は主として権力の中心

とたり来った︒何とたれば官吏のみが︑国家の委任に沿いて人為的に影響を与うべき事象の技術を知っているからで

ある﹂な・ ω ・ ︒

‑ w ω

・ ︒ ω ) と ︒ 乙乙に干渉のための干渉の行わるる危険︑換言すれぼ干渉機関が自己の仕事欲を満足せしめる為に不必要に干渉を 遂行し︑干渉を次第に拡大して行く危険が生ヂる︒マルパッハは﹁外観的には議会より生宇るととるの多くの規則や

要請は官庁に沿いて作られるもの

( E

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0 2 2 = )

で あ

る ﹂

( ω

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・ o ・ u

・ m 83 となし︑特に専門的に有能た官

吏が︑却って︑干渉を行うととを好む傾向あるととを指摘し︑﹁官僚が専門的に有能であればある程︑国家干渉が自 由と比較して過重となる方向に天秤が傾く﹂会

・ ‑ m o

・ 二 凶 ・

53 と云っている︒

( 6 )

右に述べたように︑干渉のための干渉の行わるる危険に関連して︑マルパッハは干渉を遂行する人々の倫理 的心意の重要性を論じている︒彼に従えば干渉的行動は﹁高き倫理的観念を有する人えのみに﹂委ねられねば友らな い︒﹁若しそうしなければ︑専惑の危険︑従って権利政闘の危険や︑所得形成(特に階級間の所得の釣合)工り生ヂ

る不正なる作用を生やる危険が成立する﹂守・ 0

‑ w ω ・ ︒

・ ∞ ω )

と一式う回全た他の個所に沿いて﹁指導経済は大なる程度

に責任と権力とを少数者の手中に握らせるのであるから︑乙の少数者の精神と︑精神の基礎は︑第一次的な国民経済

︐的・社会的潜勢力となるととは︑たしかに争うの余地はない﹂ 2

・ 何 回

‑ w ω ・ ︒

・ 3

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一 民

っ て

い る

乙の精神の基礎が何処に告かるべきであるかという此の場合当然生子ぺき問題︑換一一一口ずれば必要とせらるるととろ

の精神は如何なる源泉よりして供時らるべきものであるかと一式う問題に対して︑マルパッハは︑結局そのためには宗

教的基礎づけが必要であると枠合えている︒との点について信仰やほ操より生十る倫理で﹁充令﹂であると考えるにし

ても︑或は合理的な哲学的精神を基礎とする倫理︑従って理性に対する普遍妥当性という要請より生やる倫理が﹁必

要﹂であると考えるにしても︑とにかく倫理が干渉経済に司おいて特に重要たる役割をなすものであり︑そして今日の

(11)

倫理水準は干渉が充分に機能を果たすための前提とせらるべきほどに適当な程度に達していないという点に・おいて︑

彼の言を正しいとせざるを待ないのである︒

吾等は以上掲げたる諸点在マルパッハの功績として見るものである︒マルパッハは干渉の問題を偏見にとらわるる ととなく︑冷静に考察しており︑従って理性的な研究者の疑うべからざる点︑すなわち今日干渉なくしては国民経済 は立ちゆかないものであるけれども︑干渉には大たる危険がともたい︑乙の危険を回避するととは著しく困難た問題

であると云う乙とを明かにしている︒しかしマルパッハの研究に‑おいては︑干渉の概念が簡単に取扱われており︑乙

の点に疑問があるようである︒吾等は以下の考察に沿いて︑干渉の概念より論を進めるであろう︒

( 一 ‑ 一

) 経済に関する国家の凡ての規制を国家干渉と名づけるのであるが︑マルパッハの定義は次の通りである.﹁国家干 渉とは︑市場力の自由に活動する中に沿いて︑乙の市場力を一部分訂正しクク干渉し︑かくして生産又は分配︑或は

との両者主共 ι 変化せしめると乙ろの国家並に国家の委任したる行政官庁や組織のとる手段を一式うロただしとの手段

は私的な企業者括勤の代りに国家による︑すなわち国家の規制する︑広汎なる計画経済を︑そして私有財産の代りに

原則として集産的財産を・おくととの必要であるようた程度と主義に達したいものである︒かかる経済政策的手段を自

覚的に︑そして繰返して用いるととを干渉主義と呼ぶ﹂(ωh・ 0 ・ w

m ・勾)(註)一般的に採用せらるる定義と具たる

点は集産的財産とむすびクく所の﹁全部干渉﹂?"吋

o E E g 2 2

︒ ロ 2

E )

は除外せられていると云う点にある︒マル

パッハは手段の種類にクいては何も一去っていない口従って経済に影響を及ぼす手段は財政え策的たると貨幣政策的た

ると社会政策的たるとを問は十︑すべて包合せられるのである︒

註 ︑ マ ル パ ッ ハ に よ れ ば ︑ 現 代 に お け る 干 渉 は 先 づ 第 一 に 一 居 佑 政 策 ( 長 気 政 策 ) 的 目 的 を 遂 行 す る も の で あ り ︑ 一 躍 佑 の 大 さ の 変 化

につれて︑生産と分回もまた次第に変化するのであるから︑長気政策的問機は生産政策的・分配政策的動機に包摂せられ得るわけ

である︒勿論︑完全雇佑ということは︑心理的・博愛的な盟由よりしても達成しようと努力せられるものであって︑単に生産政策

自由主義経済における国家干渉

(12)

経 営 と 経

的 ・ 分 国 政 策 的 理 由 の み よ り 努 力 せ ら る る も の で は な い ︒

( 冨

ω 円 げ 印 ︒

y ω

‑ m

・ o ・ ‑

・ m ω

・ 司

ロ 凹

凹 ロ

o Z

(

) )

一 一

右のように定義せられたる干渉の概念は日常の語法と合致するであろうか?乙の疑問にたいしては恐らく否定的な

解答を与え︑なければならないであろうロ通常の語法に従えば︑干渉という観念は︑散在住と非体系住と応急性との要

素を有するようである︒若しそうだとすれば︑干渉とは予想せられ︑なかった損害を回避するととであり︑一時的な禰

縫策を講やるととであり︑症状に対して治療を施すととである︒故に干渉経済は︑やや通俗的た表現を用うれば︑従

来のしきたり通りにグ一フグ一フ続けて行く経済である︒かく表現する時は︑干渉又は干渉主義なる誇は︑若干の憎悪を

伴うものとなる︒

若し干渉の概念をマルパッハのように一般的に規定しようとすれば︑とのように応急的にして関連性のない場合と︑

国家が経済に対して体系的に作用を及ぼす場合と︑との両者が含まれるととになる︒しかし今やとのこクの場合は明

瞭に区別する乙とが出来︑乙のこっの場合に対して異なった称呼を用うべきであろう︒吾等は前者を非体系的干渉︑

後者を体系的干渉と呼びたいと思う︒(註)︒

註 ︑ 本 来 の 語 義 よ り 云 え ば ︑ 干 ︑ 渉 な る 語 は ︑ 専 ら 非 体 系 的 干 渉 に 対 し て の み 用 う べ き . も の で ︑ こ れ に 対 し て ﹁ 国 家 に よ る 経 済 操

﹂ デ

ヒ 2

2 r z 三 円

Z 与え

g m H 2 2 2

ロ ぬ

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と 云

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う な

用 語

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べ き

で あ

ろ う

口 干渉に対する批判は︑非体系的干渉を問題とするか︑体系的干渉を問題とするかに従って著しく具ってくる︒干渉 に対する具論の多くは︑非体系的干渉の場合に対して認められるのであって︑経済学者は時々の判断に従って変化す

ると・乙ろの国家規制によって訴弄せらるるようた体系怠き経済過程を考える場合不安を感宇るがために︑経済学発生

以来︑専怒的な国家干渉によって撹乱せられない経済︑従って体系化せられたる合理的経済を考案

L ょうと苦心し来

った︒古典派経済学者は純個人的な決定に基礎をゐく個人主義的市場経済に沿いて自動的た均衡運動と適合運動とが 生じ︑訟のづから最大の合理性と公正とが実現すると云う論証をたすことによって︑解決し得るものと信じた︒貨幣 制度もまた自動主義に委ねられた︒ただ国家の財政的活動のみが経済に対して国家の及ぼす影響として残されたる唯

一の可能性であったけれども︑その当時除︑戦争の場合を除いては︑極めて小なる重要性を有するに過ぎなかったの

(13)

であるから︑乙れを無祝寸る乙とが出来た︒かかる構想はたしかに広汎に実現したけれども︑かかる経済に沿いては

その重要た点に沿いて欠陥が見出され︑幻滅の悲哀となった︒

と乙において︑如何にして組織が正しい機能を発揮し︑何等の撹乱も現はれないように修正せられ得るか︑換言す

れば如何にして例えば分配に対する一時的干渉によって︑﹁自動的機械﹂が摩擦たく機能を発揮し得るようた環境が

創造せられ得るかーが研究せられねばならなかった︒しかし︑かかる環境を作り出すととは︑一見して考えらるるより

も︑より困難である︒正しく桔成せられていさえすれば充分に機能を果たすものと考えられているととろの自由市場

的なる﹁完全機桔﹂(=︿︒

= E R E E ω B 5 E )

という理念は︑今日に沿いては︑新自由主義の理念のうちに引き続い て生存しているけれども︑しかし実験は行はれ得るものではないのであるから︑修正せられ又は再結成せられたる桜 構の機能に関する証明は︑今日に至るまで提供せられてわいたい︒けだし国家干渉は次第に多く行はるるに至ったの みならや¥今日の国家財政は経済過程を著しく左右するほどに大なる領域を占めるに至ったからである︒しかし実験

を行うまでもなく︑撹誌なき過程の運行し得る程に巧妙なぜ γ マイ仕掛を有すると乙ろの組織の可能でない乙とは︑

吾等は理論的演緯によって看破し得る筈である︒資本主義的独占を排除するために財産の分配を更新しても完全な分 配の公正を継続的にもたらす乙とは出来ないであろうし︑また今日の景気論の教えているように︑一時的な予防対策

は定期的に繰り返して現はるると乙ろの恐慌や不景気を防止し得ないであろう︒

若し市場機構の過程と障害を修正すると乙ろの国家の場当り的な干渉︑従って﹁体系なき﹂経済事象に満足し得た

いとすれば︑市場機桔のうち︑訟のづから規制せられ得ない部分に関して︑国家が﹁舵をとる﹂すなわち操舵するよ

うた桔想をとるととによって解決し得ないものであるうか?比喰的に説明すれば︑例えば自動車は自由に放置されやノ

して︑若し整濠の中にあるならば︑適当な挺子によってその整濠より引き出されて︑その後は合理的な速さを以て道 路に添うて動かされるようた︑一部分国家に操舵せらるる機構をとるとすれば︑大部分自動的に機能し︑若干の点に

・おいてのみ操舵︑すなわち恒常的体系的な規制を必要とする乙ととなるであろう白若しとの操舵が正しい接点におい

て行はるる時は︑恐らくわ障害左排除するための修正的た干渉は不必要と友り︑そして自動的に作用する力は出来る

自由主義経済における国家干渉

(14)

経 営 と 経 済

だけ広汎に利用せられて︑市場経済の撹誌を生︑ぜしめたいとととたる︒

( 四

)

経験の示すととろによれば︑国家の干渉と統制とは殆んど自動的に分量と強度とを増加し︑一般的訟手段から次第

に特殊的危手段に移行し︑最初は一時的たものと考えられた手段が︑いクの間にか恒久化する傾向がある︒その結果

元来︑干渉的経済政策の目標は個人の利益と社会の利益との調和を実現し︑企業者の創意︑私有財産制度・泊費選択

の自由・自由競争を出来るだけ軽度に妨害するととにあったにもかかわらや︑かかる目標に反するの危険が生やるの

である︒このように経済が計画化する危険の存すると共に︑次に注意を要する乙とは︑恒常的た経済の安定を目的と︐

する政策は︑手段の迅速性と弾力性を必要とするというととであるロとの要求の充足は﹁古典的﹂自由主義者の供し

た条件の下に沿いては著しく困難なととである︒乙の事実の中に︑干渉主義が経済的には

1

少くとも古ロ何百ロに 1

おいては

i l

自由主義的経済秩序の基盤を勤揺せしめ︑政治的には民主え義的国家組織を次第に骨抜きとするの矛盾

が見られるのである︒

右の経済が計画化する恐ありと云う点を考察するに当り︑吾等は先づ︑との場合︑経済指導の如何たる方式が好ま

しくないものと考えられるかを決定して長乙うと思うロ全部的詐画経済又は中央管理経済と呼ばれる経済に沿いては

生産や泊費の領域に長ける凡ての種類の特殊的干渉又は統制︑農業・工業・商業の何れを︑何処で︑如何にして︑と

一式う問題に対する官僚的な決定︑人的労働を含む生産要素の自由及活動の抑制又は排除︑価格と所得の凍結等の一切

の手段によって︑個人の経済活動を直接に︑そして個々に︑指導するととが試みられるのである︒然るに︑ととに謂

うととるの干渉は︑一般的︑間接的︑量的干渉に限定せられ︑従って価格公定や原料割当を行うものではたく︑また

浜本や労働力を用うる場合に質的の制限や管理を行うものでもなく︑そしてまた各個人に帰する各種消費財の分量左

官僚的に決定しようとするのでもたい︒寧ろそれは貨幣的友金需要を供給に合致せしめ︑一切の生産要素の起用せら

るる場合に経済的均衡が生守るように泊費と投突の絶対量と︑との両者の釣合を成立せしめるととに限定せられる︒

(15)

具体的には︑とれは一方に沿いてはイシプレ 1

シ ョ

γ とデフレ 1 ショシとの傾向を排除し︑他方に沿いては失業の排

除左意味する︒現実に沿いては︑独占的な企業を今日の経済企一活より完全に除去し得ないという乙とより出発するの

であるから︑国家は独占企業の活動や計画を監督し︑その活動や計画が経済政策や社会政策の最高目標と明かに矛盾

する場合に︑之を変更せしめ‑なければならたい︒国際貿易に対しては︑絶えや管理を行う乙とが必要であるロただし

と乙に管理と一式うのは︑一般に今日行はれている割当や為替管理のような市場外的方法を考えているのではたくして

商品の輸出と輸入に対じて単に監督を行い︑他方︑国際的資本移動に対しては︑資本所有者と投機家との自由なる判 断に任せられではならないととを指称する口最後に︑所得と財産とのより均等な分配が︑一般に利潤・最低賃銀・者 修抑制の決定によって︑そして市場価格機構の効果を自由に発揮せしめるととによって︑更にはまた租税政策によっ

てその結果を矯正する乙とによって到達せられる工うに努力しなければならない︒

かかる干渉主義の主なる手段としては︑信用的性質のものと︑財政的予算的性質のものとである.しかし干渉的な 財政え策の重点を︑信用政策的・貨幣政策的手段に沿くか如何かの点は姑くとれを措くとして︑財政え策は社会政策

的・商業政策的手段による補足を欠ぐととを得ないと云うととを忘れてわならないロ

第一次大戦後︑例えばホ 1 トレイ︑その他多くの学者は︑広く信用政策的並びに利子政策的手段によって経済上・

社会上好ましい方法で経済生活に対して作用を及ぼす乙・とが出来るという極めて楽観的な見解を有し︑かかる見解が

支配的であったが︑三十年代に入クてからとの見解は変化して︑信用政策と利子政策とによって︑貨幣萱に影響を与

える乙と︑従って国民所得の形成を左右するととは殆んど重要性を失って︑との両政策は﹁財政唱え策﹂の補足的手段

として考えらるるようになった︒今や財政え策と信用政策の両者は各え全体の一部をなし︑その調和的な協力と共働

とによって︑有効なる干渉的経済政策の実現のための前提をかたち作るものとして取扱わるるに至った︒

干渉的経済政策は国民予算︿

Z ω

口 ︒

ロ 巳

‑ Z

m

o H

)

の方法によって︑消費と投資のための国家と個人の支出と国際上

の支払とを見積り︑乙の見積りを基礎として現在の状態に対する判断をなし︑乙れ工り誘導せらるべき社会的生産物

の大さ忙対する将来の見込にクいての構図を作成する︒

自由主義経済における国家干渉

一 五

(16)

と 経 済

一 六

若し国家が全国民経済の状態と支配的傾向に対する診断を基礎として︑イ γ フレ1シヨ γ とヂプレ1シヨシとを共

に免かれ︑そして国民所得の増加を保障しようとするならば︑国家は国内の金需要と全供給︑輸出と輸入︑貯蓄と投

資との不均等を財政え策的・信用政策的危手段によって均等化するととが出来る︒具体的にわ次の諸点に注意しなけ

れ ば 友 ら 怠 い

︒ ノ

ハ A

)

乙の点に関して先づ第一に︑国家経費の大さと種類とが注目せられる︒その前面に立クものは公共建築費で

あって︑公共建築費は早くより可なりの役割を果たしたのであるが︑しかし決定的な景気政策的意義は官会吏の数が

今日のように注目すべき程度に達したる後︑大なるものとなった︒投資と泊費の目的に役立つととるの補助金も効果

的である︒補助金の効果は︑それが適当な時点に司おいて迅速に︑そして必要な程度に・おいて生じ︑その結果︑不景気

に上る個人需要の不足を補填し︑又はイシフレ

1

ヨ Y Y による過剰を削減し得る乙とにある︒

( B )

次ぎには租税政策が重要である︒租税は原則として牧結的作用を鷲らすものである︑から︑泊費性向を不変な

るものと仮定すれば︑他の事情にして同一なる限り︑租税の引上又は引下は有効需要の減少又は増加を生ぜしめる.

伝治之左越えて租税政策は︑負担の重点を一の租税より他の租税え転位せしめる乙とによって︑また或は免除や特別

加算をなす乙とによって︑消費と貯蓄との割合を左右し︑現実の国民経済的要求に従って︑個人の消費を任意的危貨

幣資本形成の有利になるように︑又はその不利になるように変化せしめる乙とが出来る︒乙れとともに︑貨幣資本と

実質資本の形成に直接影響するよう左手段をとるととが出来る.かかる手段として採用せらるる租税として所得税・

法人税・取引高税がある︒けだしこれらの租税は︑普通性・包括性を有し︑今日各国の租税体系に沿いて最も重要な

地位を占めるからである︒なべて乙れ等の場合︑租税負担の量的並びに質的な変化が適当な時点と必要な大さにおい

て︑迅速に生やるととが決定的に重要である︒な沿注意すべきととは︑かかる租税政策が国民経済の実情に従って︑

そして国庫的要求とは無関係に︑行はれねぽ友ら友いというととである︒

( C )

景気政策にもとづく可動的危経費政策と牧入政策とは︑必然的に予算不足と予算過剰に導き︑従って公債の

分量を変化せしめる︒乙の他に公債は直接に一般的経済政策や社会政策に利用せられる.何となれば公債によって生

(17)

やる作用にとっては︑その総額如何︑如何たる詮金によって応慕せられたか︑債権普段如何友る階級の人えか等︑

その他利子・期間・償還条件が問題とたるからである︒︐

多くの国家︑特にアメリカにおけるように︑公債が確定利子附負債の大部分を占めている場合に拾いては︑公債が

存在するという乙とだけで(その変化を不問に附するとしても)︑貨幣体系と信用体系とが犬たる影響を受けるとと

は勿論である︒乙の影響は公債が如何友る分量に沿いて︑そして如何段る条件のもとに売買せられるか︑そして本来

の債権者の投資性向が利子又は相場の変動に対して如何友る反応を呈するかによって定まる.

( D

)

現今に・おける貨幣政策と信用政策の窮極の目標は︑為替相場の維持よりも貨幣の購買力の安定というととに

ある︒とのととは具論のないととであるが︑との目標のために用いらるる手段の合理性と有効性とに関しては︑見解

の一般的一致左見ない︒乙の点については既に久しく︑古い割引政策以外に公開市場政策・最低準備政策・質的信用

統制政策・高率適用制度・支払準備制度が大なり小たりの重要性左有し来った︒近代の経験は︑次のごつの乙とを明

かにした D 一は︑乙れに関して何処に沿いても常に利用し得るような一般的準則は見出されたいというとと︑こは︑

質的信用統制すなわち選択的信用統制は根本に・おいて此処に謂うととろの型の干渉主義の精神と合致し訟いものであ

るが︑乙の点は姑く之を措くとして︑量的統制の補完として若干の有効性を有するという乙とである︒

乙の第二の点は宛かも個唱えの租税の相対的な反イシフレシヨシ的作用よりも︑むしろ租税増徴政策の抑制的な全作

用の方が重要であるのに類似する︒将来における一般的利子政策は︑最近数十年の聞に行はれたもの工りも︑エり可

動性を有するであろうことが期待せられるむしかしされぼとて︑﹁利子は他のものと同様に価格であり従って一切の

経済政策的又は財政え策的動機を有すると乙ろの国家干渉を課せらるべきではたく︑その可動性を回復せしめるとと

によって︑訟のづから生産要素の正しい分配と最大の利用を保障し得る﹂と論結するのは誤謬であると思う.

( E )

最後に財政え策と信用政策とは︑社会政策的目標のためにも利用せられ得るととを附記して治かねばたらた

い︒乙の点にクき一般にわ租税による干渉のみが考えられ︑周知のようにワグネルが印象的に論じているのであるが

租税体系の桔成によって︑競争経済にゐける分配過程の結果を︑より均等︑なる方向に若干矯正し得るととは明かであ

自 由 主 義 経 済 に お け る 国 家 干 渉

(18)

経 営 と 経 治

る︒しかし︑かかる社会政策的動機 r もとづく所得﹁均等化﹂の政策は︑一定の限界を有するものであって︑之を過

度に行うときは︑現代の経済秩序の基盤を著しく危険にするものである︒そして租税の経済的︑社会的作用にとって

は︑その徴牧というとと以外に︑その牧入の使途が重要である乙とが無視されては︑ならない︒突に今日公正怒る所得

分配と社会的な安全は︑先づ第一に︑補助金︑その他乙れに類する経費政策的手段によクて実現するものである︒

︿

F

)

な訟中央銀行の地位にクいて三一一一目して訟く︒中央銀行に対して広汎なる自主性左与えるととは好ましい乙と

であって︑かくする乙とによクて生ヂる長所は︑それが無雑作に信用政策と利子政策とに必要注迅速性と弾力性とを

保障するという点にある︒そして中央銀行は他の経済指導者よりも伝統的に﹁保守的に﹂考えるのが一般であって︑

従ってイ Y

プ レ

1 シヨシを遂行しようとする努力に対して完全なる制動機となるものである︒

しかし中央銀行の幣害も亦ある.全経済の景気状態を基礎として政府の行う政策が︑中央銀行の醇践的た態度によ

って妨害せらるる場合が考えられるのであって︑中央銀行は自らを﹁貨幣の番人﹂と考え︑利子引上の貨幣資本形成

に対して有する重要性を過大評価し︑利子引上の公債投作に対して及ぼす幣害を軽視する傾向がある︒他方に・おいて

イシプレ1シヨシ的景気に対してブレーキをかけるための手段として︑弾力性ある利子政策が如何に重要注る役割を

呆たすものであるかにクいて充分に理解されていない乙とがある︒乙の問に沿いて充分に組織的た解決を見出すとと

が︑有効な干渉的経済政策の最も重要なる課題である︒

以上のような﹁体系的﹂干渉の場合を考察する時は︑干渉や干渉主義に関連して提起せらるる諸問題に対して異な

った判断が下されるであろう︒見通しが出来ないと一式う危険や市場撹乱の危険は︑全部的たる操舵による干渉の場合

には設平現われない︒しかしかかる干渉は個人の活劫の自由を余りにも排除し︑政府による計画経済の臭味を有する

という非難在生ぜしめないであろうか 7 否︑決してそうではない︒かかる全部的操舵は正しく行わるる時は︑個人の

自由を最大にする可能性を有するものである︒何となれば此の方法は︑ただ与件を変化せしめるととによって︑間接

的にのみ個人に対して作用主及ぼすものであり︑直接的に市場事象に介入するものではなく︑また命令や禁止を諒す

(19)

るものでは友いからである.促進と抑制の体系における軽度の挺子的注力は好ましい方法で方向を変化せしめるに充

分であるう︒

以上のように︑最小限度の挺子に依って︑全経済に対する有効注操従方策をとるととは︑容認せられねばたら怠い

のであって︑之を実現しようとする努力を捨てて︑

{J

非体系的干渉﹂を以て満足してはゑらない.社会的危力を軌道 に乗せるととを夢想ゑりとする宿命主義も︑誤まれる立場である︒人間を制度の中に押し入れるべきではないとた し︑従って﹁社会的技術﹂を試みるべきではないと考える人があるとすれば︑その人は自由主義経済すら︑否︑正に

自由主義経済乙そ︑かかる﹁社会的技術﹂を作り出すものであるととを忘却したものである︒・スミスの一式うが如き︑

﹁見えざる手﹂に導かるると乙ろの個人主義的市場経済は︑摂理による調和と一式う思想が背後にあって︑神の欲する

自然的状態として偽装されているのであるから︑たしかに一の社会技術的観念に外ならないであろう.

以上述べたるととろは︑マルパッハに・おいては︑余りに簡単に取り扱はれているから︑特に強調すべき{側面であ

る︒しかし︑吾等の考察はマルパッハの功績を削減するものでは友く︑むしろ︑彼の所論に対する補完をなすもので

あ る

自由主義経済における国家干渉

参照

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