陸軍短期現役軍医
私達は陸軍短期現役軍医(略して短現)に合格したが︑例年のような︑たった軍曹一ヶ月︑
見習士官一ヶ月の教育では︑立派な軍医は養成出来ない︑との理由で三ヶ月間の特別訓練期間
が加算されることになった︒それで直ぐ歩兵部隊に配属されず︑東京の早稲田にある早稲田大
学の第一高等学院を改造した臨時の兵舎に収容された︒名古屋以南の医専︑大学の五
OO
名 が
第二中隊と名づけられ︑一区隊五 O 名の十区隊が編成された︒身分は短期現役軍医採用予定者
と言うことであり︑ぽろの軍服が各人に与えられ︑帽子は出身学校の帽子をそのまま被らされ
た︒給料は学徒動員の身分であるということで︑文部省から出た︒
入隊したのは︑昭和十九年七月七日であった︒入隊後すぐ︑私達は営門を入ってすぐのとこ
ろにある広場に並び︑区隊長の検査を受けた︒その時︑第一区隊長が長崎医大出身の人で心強
く感じた︒私達長崎医科大学出身の者は第五区隊に入れられた︒その夜︑私と一緒に長崎から
東京に来た同級生の
O君が一晩に三回下痢をして︑翌日の八日から私達の区隊は赤痢患者を出
した区隊として︑荒縄を廊下に張られ︑他の区隊から隔離され︑食事も他の区隊の者が運んで
くれ︑防疫の実際を身を持って味わった︒
O君は上京の汽車の中にボタモチを持ってきており︑
静岡駅を過きる頃から汽車が駅に止まる度に網棚から風呂敷包みのボタモチの重箱を降ろし︑
臭いをかいで︑﹁まだ腐りかげていない﹂と言って︑網棚に一戻すのであった︒その頃の大学生は
角帽を被っていたので︑誰が見ても私達が学生だと分かるので︑その度に私は大変恥ずかしい
思いをした︒赤痢の潜伏期聞から考えて︑ボタモチが原因ではないが︑
O君がひどい下痢をし
たのは︑それと似たような感染経路があったのではなかろうか?
入隊後二︑二一目して学科試験があった︒軍人勅諭の出た年月日が書いであって︑何の日かと
いう問題が分からなかった︒身体検査もあり︑隔離期間終了後︑私は第
S区隊に正式に入り︑
十二人しか入らない小部屋
(A
部屋と名付ける)に起居することになった︒私達の隣には東か
ら西に校舎を抜ける幅三メートルくらいの廊下があり︑ その隣に同じ
S区隊の三八人が入る部
屋
(B
部屋と名付ける)があった︒私達の部屋は中央に長さ四メートル︑幅二メートルくらい
の大きな机を置き︑机の方に頭を向けて東に六人︑西に六人が起居した︒私は西の側の南から
二人目に寝ていた︒私の南隣は
D医専出で︑北隣は
K医専出の者であった︒
食事は人数に応じて受領掛りが出されるので︑私達の
A部 屋
か ら
は っ
一 日
に 一
回 出
た
から食事の受領掛りが出る時には︑私達の班に少し余分の主食(ご飯)を取り︑食器に固く盛
り付けた︒あとのご飯はかしゃもじ︒で良くかき回し空気を一杯いれて︑容積だけ大きくして
B
部屋に届けた︒両部屋で食事の分配が終わると︑食事を食べはじめるのであった︒
らは偵察口貝が来て︑ご飯の盛り付け方が同じかどうか︑公平に分配しているか目を光らせてい
た︒ご苦労なことである︒それくらい食糧事情が悪かったので︑私達は始終腹を減らしていた
何もかも不足していた︒今から考えると日本は確実に滅亡への道を歩んでいたのである︒煙
草も配給が少なくて辛かった思い出がある︒
O大学を出た
A予定者は要領が良くて︑入隊前に
家人と約束をして﹁煙草を止めました﹂と葉書に書いて出せば︑煙草が不足していることを意
味し︑家から煙草を送って貰うようにしていた︒私のような九州出身の田舎者には想像すら出
来ないかからくり︒で︑さす︑が︑都会の人はあか抜けしているわいと思った︒
四メートルくらい校舎より高い所にある運動場に一区隊から十区隊までこ 毎日朝礼があり︑
列横隊に並んだ︒並ぶのは早い者から並ぶので︑私はいつも急いで行ったが︑大抵どんじりの
方であった︒素早い奴がいるものである︒ある日︑私の並んだ列では一人多い︑ と取り締まり
学生(この取り締まり学生は一週間交替で皆がなった)が言っており︑後ろの列(区隊)では
一人足りない︑と言ぃ︑何一遍も番号を掛け直していた︒私は馬鹿な奴がいて所属区隊を間違っ
て並んでいるのだろうと︑軽く考えていた︒中々数が合わない︒
0区隊と
S区隊の取り締まり
学生は困り果てている︒私は誰がそんなことをしているのか︑と思って並んでいた︒フト靴を
見ると私は編上靴を履いているのに︑横の者も後ろの者を営内靴である︒昨晩の点呼の時︑私
達は明日の朝礼には一編上靴を履いていくように︑班付きの下士官の
H伍長に言われた︒後ろに
並んでいる民隊を見れば全員が編上靴を履いている︒きすれば謝れるは我なりしかと思い︑直
ぐ後ろの区隊に飛んでいった︒後から
H伍長に﹁松山が悪くありました﹂と謝ったら︑﹁今後︑
注意せい﹂と言われた︒これは今から想像すると相当な減点に値する︑ひどい︑しくじりであっ
私達は水は飲んではいけない︑湯を飲むようにと言われていたが︑五 OO 人の学生に対して た
直径一メートル︑深さ五 0 センチメートル位の︑いうなれば五右衛門風呂の半分の深さの鉄製
の湯沸かしで湯を沸かしているだけであった︒算術で簡単に計算しても足りるはずがない︒私
達は一応は湯を汲みに行くが︑大抵は水道の水を飲食用のバケツで汲んできてガプガプ飲み︑
余った水は棄てて知らぬ顔をしていた︒
南方戦線で︑ある部隊が師団軍医部長の検閲を受けた後︑厨(陸軍で便所のこと)が非常に
奇麗であると讃められ︑他部隊の模範だと言われたそうだ︒他部隊の軍医がどうして清潔に保
つことができたか︑尋ねたら︑模範と言われた部隊の軍医が﹁誰にも使用させなかった﹂と答
えたそうだ︒まことに簡にして要を得ている軍隊ならではの話である︒さもありなんと私は思
う︒一八部隊でも似て非なるが同じような泥縄的な検閲向けの作為が行われたことがあるから
である︒入浴時に兵隊が使う湯桶の内側に前日︑底から六センチメートルのあたりにペンキで
青く幅一センチメートルの線を引き︑検閲の時︑部隊長が﹁水の節約の為︑湯桶にこのように
印を付けております﹂と言った︒私はおかしかったが笑いを噛み殺した︒
陸軍では兵舎の裏側に廊があるが︑ハエの発生を防ぐために周のガラス窓には墨で真っ黒に
の れ ん
塗った紙を張り︑闘の出入り口には藁蝿の暖簾をぶら下げていた︒ハエは暗い場所を嫌うとい
う理由からである︒私の部隊では隊長の命令で大便所の中に一升桝くらいの木箱を置き︑その
中に石灰を入れ︑排便後に木片でその石灰を便槽ないに撒くようにしていたが︑これもにわか
仕事で木箱を作り︑検閲に間に合い︑文句を言われることもなく済んだ︒
このようにハエに対しては︑深甚の注意を払っているのに︑私が炊事場の外を見てみると︑
俵に詰めた炊事の廃棄物に山のようにハエのウジが湧いていて︑驚いた︒注意して熱湯をかけ
てすぐウジを殺させたが︑軍隊にはこのような思いもよらない弱点があることが分かった︒
戦後︑私はいろいろな戦記を読み漁ったが︑面白い文に出会ったことがしばしばあった︒ア
メリカ軍は南方戦線で日本兵を捕虜にしようとする時は︑﹁臭いを探せ﹂と言う言葉があったそ
う だ
日本人は排便の際︑部隊から離れたところで︑他人に見られないようにして排湘行為をする ︒
ので排便の臭いを追って行けば︑捕虜にすることが出来るのだそうだ︒
日本は結局戦争に惨敗したが︑私は︑負けたのは負けただけの理由があったような気がして
ならない︒国力(人的資源︑物的資源︑生産︑技術力等) の違いもさることながら︑
号 の
読 解
力 ︑
ガダルカナル島の戦争時におけるコーストウォッチャ
l
(
ラバウルからガダルカ
ナル島にいたる各島にいた無線機を持ったスパイ)の活躍︑凡帳面な日本兵が丹念に書き綴っ
た日記の翻訳による軍隊の動き方の解明など︑日本を知る手掛かりを豊富に持ち︑それを活用
した︒﹁敵を知り︑己を知れば︑百戦危ふからず﹂という諺通りの戦争をアメリカ軍はしてい
る︒﹁日本は勝てるはずがなかった﹂と私は最近しみじみ思う︒
私にとって一番不思議であったのは真珠湾にいた日本の潜水艦が何故︑ミッドウエ
にアメリカの航空母艦の動静に気が付かなかったかということであった︒近頃になってやっと
日本の近くの海の温度とハワイ近辺の海の温度が違っていて︑そのために︑
軍艦のスクリュウ音の︑海の深部に向かう屈折角度が異なり︑アメリカ軍艦が日本の潜水艦の
真 ト
L
を通っても発見されなかったらしい︒こうなると︑物理学の問題となり︑そういう点でも 分 か っ た こ と は ︑
日本が劣っていたことになる︒
私達が医大三年の時︑耳鼻科の教授が﹁日本の陸海軍の軍医は欧米の医学を尊重して日本の
医学を軽視する﹂と嘆いていたが︑あらゆるところに敗戦に至る前兆があったのである︒耳鼻
科の教授はニスダグムス(眼球振蓋)の権威であったが︑彼の学説を‑認めてくれない︑とこぼ
日本の軍医は誰も認めなかったらしい︒ していた︒航空医学的に有意義であったらしいが︑
ある病理の教授は﹁他の分野のことは知りませんが︑病理学に関する限り︑日本は欧米に劣
ります﹂と一言ったそうだ︒こういう先見の明のある人が沢山︑日本の政治の第一線にいてくれ
日本は存亡の危機に至らずにすんだのではないかと私は思う︒
た ら
話を一戻す︒私が軍医学校に入校して一番感心したのは︑講堂に集められて︑中隊長の 少佐
K︑
から﹁将校とは何か﹂と言う質問があった時︑誰かが一人手を挙げて﹁軍隊のか禎幹︒であり
ます﹂と答えた時であった︒私はか禎幹︒と言う言葉すら知らなかった︒中学校から大学まで
十一年間︑軍事教練を受けて来たのに︑ついぞ︑そのような言葉は聞かなかった︒物知りもい
る も
の で
あ る
︒
私達の授業は北側にある本館の二階で
O区隊と
S区隊が一緒になって受けた︒その頃︑サイ
パン島が玉砕し︑東篠内閣が辞職した︒私は少し日本は分が悪いなあとは思ったが︑負けると
は思っていなかった︒
授業は︑夏の暑いさなか休みなく続けられた︒衛生学を教える区隊長が
状を知らない教官が作り上げたものだ﹂と軍医学校の食事表を持ってきて︑それを机の上にた
たき付けて怒ったが︑今になってみると︑その区隊長の話を何一つ覚えていない︒ある区隊長 ﹁陸軍の衛生学は現
はサルモ︑ネラの話をしてくれたが︑ それも遠い記憶の彼方に消し飛んで︑何も残っていない︒
あの時の医学知識がほとんど記憶にないのはどうしたことであろうか?ただ︑将校として
どうあるべきか︑どういう態度をとるべきかは︑その時︑身につけたような気がする︒
面白いことがあった︒私達は新しい毛布を六枚貰っていた︒しかし︑季節は夏である︒
長の言うようにすると︑起床時︑毛布を畳むのに面倒である︒四枚の毛布は畳んだままにして
上の二枚の毛布だけ被って寝た︒起床時の手聞が大分はぶけた︒
B部屋の三八人もそ
お い
て ︑
うして寝ていたらしい︒
あ る
朝 ︑
H
伍長がやってきて︑彼の言い付け通りに毛布を縦︑横にして寝具を作っていない
のをみて怒った︒言わなくてもよいのに︑﹁
A部屋の者に教えられました﹂と
B部 屋
の
えたから騒ぎは大きくなった︒
H伍長は私達の
A部屋に来て︑﹁俺がちゃんと毛布の畳み方を教
えたのに︑あんないい加減な畳み方を
B部屋に誰が教えたんだ﹂と言って︑﹁教えた者は申しで
ろ﹂と私達を責めた︒そう言われでも私には教えた覚えがない︒皆も黙っている︒怪請なので
あ ろ
う ︒
H
伍長は﹁誰かいるはずだ︑一言口わないのなら︑そのまま立っていろ﹂と言い︑室外に
出ていった︒私達はわけが分からぬまま気をつけの姿勢で立たされた︒二十分過ぎただろうか︑
班付きの一等兵の
Yがやって来た︒﹁お前達は馬鹿や︑ そういう時は︑誰か一人が出て行って︑
自分がしましたというんや﹂と大阪弁で教えてくれた︒
Yは大阪の連隊の兵隊である︒軒目くし
て
H伍長が来た︒私も含めて十二人全員が﹁私がしました﹂と申し出た︒中には泣いている者
も あ
っ た
︒
H