〜大正15年7月の『香川新報』を手掛かりとして〜
山 本 珠 美
はじめに
Ⅰ 香川県下で開催された大学巡回講演の概要
Ⅱ 大学巡回講演の実態 おわりに
はじめに
本稿は、大正末期に全盛期を迎えた大学巡回講演について、巡回講演を受け入れた「地方」の視点から、
その実態を明らかにすることが目的である。
地方における学問の公衆への普及は、明治20〜30年代、主に帝国大学の卒業生からなる学士会が地方を 会場に実施した通俗学術講談会にはじまる(山本2009)。その後、明治44(1911)年に通俗教育調査委員 会が帝国大学・専門学校等の直轄学校に拡張事業を行うよう指示して以降、地方の各大学・学校がそれぞ れの地で通俗講演を実施するようになり、広がりを見せた。加えて、東京や関西圏の大学・学校による地 方への巡回講演も挙げられる。大学巡回講演は、早稲田大学の前身である東京専門学校が明治26(1893)
年以降定期的な行事として実施しているが、これは例外的に早い事例であり、管見の限り、早稲田大学雄 弁会の地方巡回講演をモデルに、明治末期以降、各高等教育機関の弁論部や県人会が中心的役割を担いな がら、学生を中心に、卒業生・教員等を交えて行われるようになったものである。本稿は、具体的にどの ような大学巡回講演が行われていたかを、大正末期の香川県に焦点を当てて論じる1)。
地方における学問の公衆への普及について、大学(学生)による地方講演に着目した先行研究として、
手打明敏、上田幸夫による、大正末期の山梨県で展開された東洋大学の大学拡張に関する論文がある(手 打1980、上田1989)。彼らの研究で明らかにされているように、大正末期には大学拡張は全盛期を迎えて おり、山梨県下では「確認できるものだけでも東洋大学以外に専修大学、早稲田大学、慶応大学、明治大 学、中央大学および立教大学の公開講座が計画され」(上田1989、p.137)という状況であった。本稿は、
香川県を例に取り上げることで、西日本でも同様の活動があったこと、関西圏の高等教育機関の具体的取 組例を明らかにすることができるだろう。
なお、本稿における大学の範囲であるが、大正8(1919)年大学令に基づく大学昇格前の高等教育機関 や大学予科をも考察対象として含むものとする。
Ⅰ 香川県下で開催された大学巡回講演の概要
Ⅰ−1 全体像
はじめに、大正15(1926)年7月(一部8月含む)に、具体的にどのような大学が香川県に巡回講演に やって来たのか、地元紙『香川新報』(香川県内で現在に至るまで大きなシェアを占め続けている『四国 新聞』の前身紙)の報道状況から確認してみよう。
表1は『香川新報』大正15年7月7日〜8月4日までの、大学巡回講演に関する記事一覧である。1ヶ
【表1】『香川新報』新聞記事一覧(大正15年7月7日〜8月4日)
月日 記事タイトル 大学名
7月7日 学風会の/巡回診療相談/と医学講演会 大阪医科大学
7月8日 通俗講演会/丸亀市で開く 大阪高等商業学校
7月9日 関大文芸部/文化講演会 関西大学
早大校講演会 早稲田大学
7月11日 大阪医科大学/講演と映画会/プログラム 大阪医科大学 7月13日 関大香川県人会/暑中休暇の三事業/七月下旬から八月/一日までの間
に於て 関西大学
陪審法模擬裁判/三十日市内大和座で/主催は関西大学校友会 関西大学 7月14日 診療と相談/講演と活写/丸亀の盛況 大阪医科大学
7月17日 【広告】早稲田大学巡回講演大会 早稲田大学
早稲田第一高等学院/辯論部巡回講演会/県下三箇所で開く 早稲田大学
7月19日 【広告】早稲田大学巡回講演大会 早稲田大学
第五回郷土巡回/文化講演会/関西大学香川県人会事業 関西大学 7月20日 【広告】関西大学香川県人会第五回郷土巡回文化講演会 関西大学
7月21日 【広告】東洋大学巡回講演大会 東洋大学
【広告】早稲田大学巡回講演大会 早稲田大学
【広告】関西大学香川県人会第五回郷土巡回文化講演会 関西大学 明治大学の/文化促進と時局批判/学術講演会日程 明治大学 7月22日 早稲田大学生の/血にもゆる熱弁/中止や注意もあった/本県公会堂に
おける/早大学院地方巡回講演 早稲田大学
丸亀の講演会 早稲田大学
7月23日 東大巡回講演 東洋大学
関西大学講演 関西大学
琴平町に/雄叫び/早大巡回講演 早稲田大学
7月24日 本社後援/東洋大学文化講演大会/愈明夕県公会堂で/高島米峰氏も出演 東洋大学 7月25日 純潔の血に燃ゆる/土庄町の講演会/関大文化の叫び 関西大学 7月26日 土庄町公会堂に/熱狂的快辯を揮ふ/関大郷土巡回文化講演会 関西大学 7月27日 関西大学香川県人会/文化講演会/津田町の盛況 関西大学 当市県公会堂で/飛龍昇天の雄叫び/東洋大学文化講演会の盛況 東洋大学 関大文芸部/地方演説会/八月一日/県公会堂で 関西大学 7月28日 郷土愛に燃ゆる/詫間村の大獅子吼/関西大学香川県人会 関西大学 高島米峰氏/丸亀市の熱辯/東洋大学文化講演会 東洋大学
洋大文化講演/善通寺町の盛況 東洋大学
7月29日 仁尾町で舌端/火を吐く熱辯を揮ふ/関大郷土巡回講演会 関西大学
【広告】明治大学文化講演大会 明治大学
7月30日 【広告】明治大学文化講演大会 明治大学
明大雄辯部来る/観音寺町に於ける獅子吼 明治大学
丸亀市の/明大講演会 明治大学
関西大学/第五回郷土巡回/文化講演大会 関西大学
陪審法/模擬裁判/卅日午后五時/大和座で公開 関西大学 8月1日 表誠館の/明大講演会盛況/各辯士熱論を揮ふ 明治大学
明大雄辯部/琴平の獅子吼 明治大学
8月4日 灼熱の舌端/炎帝も避易した/小豆郡青年雄弁大会況 関西大学
月間で記事33本と広告8本が掲載されている。報道されなかった大学もあるかもしれないが、香川県内で 講演活動を行った大学は全部で6校ある(大阪医科大学、大阪高等商業学校、早稲田大学、関西大学、東 洋大学、明治大学)。
各大学の講演日程は表2のとおりである。特に7月20日以降はほぼ連日開催されており、大学巡回講演 の競演と言って過言ではない状況である。ここで挙がった6校のうち、大阪高商・大阪医大以外の私立4 大学については、『香川新報』に広告が掲載されている(図1)。これらの広告から分かることは、①弁論 部が主催で県人会・校友会が後援しているパターン(早大・明大)と、県人会が主催者となっているパ ターン(関大・東洋大)があるものの、各大学とも香川県人会(または校友会)が主催あるいは後援をし ていること、②すべての巡回講演について香川新報社の後援となっていること、が挙げられる。なお、県 人会とは在学生のうちの同県出身者の集まり、校友会とは主に卒業生の同窓会組織である。広告の掲載が
【表2】巡回講演日程一覧
月日 開始時間 終了時間 大学名 内容 場所 会場 聴衆数
7月13日 午前9時 午前11時 大阪医科大学 診療相談 丸亀市 記念公会堂
午後1時 特別講演会 十二連隊将校
集会所
午後7時 講演・映画 記念公会堂
7月16日 午後6時30分 午後11時 大阪高等商業学校 通俗講演会 丸亀市 商工会楼上 400名 7月17日 午後1時 午後4時50分 大阪高等商業学校 通俗講演会 高松市 表誠館 900名 7月20日 午後7時 午後11時 早稲田大学 巡回講演大会 高松市 県公会堂 2-300名
7月21日 午後1時 早稲田大学 巡回講演大会 丸亀市 商工会楼上
午後7時 午後11時 早稲田大学 巡回講演大会 仲多度郡琴平町 金丸座 300名 7月23日 午後7時 午後11時 関西大学(香川県人会) 郷土巡回文化講演会 小豆郡土庄町 公会堂 500名 7月24日 午後7時 午後12時 関西大学(香川県人会) 郷土巡回文化講演会 大川郡津田町 公会堂 500名 7月25日 午後7時 午後11時30分 関西大学(香川県人会) 郷土巡回文化講演会 三豊郡詫間村 常盤座 1,000名 午後7時 午後10時30分 東洋大学 巡回講演大会 高松市 県公会堂 1,000名 7月26日 午前9時 東洋大学 巡回講演大会 三豊郡観音寺町 三豊高等女学校
午後3時 午後7時 東洋大学 巡回講演大会 仲多度郡善通寺町 議事堂 200名
午後7時 午後11時 東洋大学 巡回講演大会 丸亀市 記念公会堂
午後7時 午後11時 関西大学(香川県人会) 郷土巡回文化講演会 三豊郡仁尾町 覚城院 7月27日 午後2時 午後5時30分 明治大学 文化講演大会 三豊郡観音寺町 公会堂
(午後6時) (明治大学) (文化講演大会) (仲多度郡多度津町)
午後7時 関西大学(香川県人会) 郷土巡回文化講演会 三豊郡大野原村 小学校講堂 7月28日 午後7時 午後11時30分 明治大学 文化講演大会 丸亀市 記念公会堂 7月29日 午後7時 午後11時10分 明治大学 文化講演大会 仲多度郡琴平町 金丸座 7月30日 午後5時 関西大学(香川県人会) 陪審法模擬裁判 高松市 大和座
午後6時 午後11時 明治大学 文化講演大会 高松市 表誠館
8月1日 午後1時 午後8時
関西大学(香川県人会) 青年雄弁大会 小豆郡苗羽村 八幡座
午後6時 午後11時 関西大学(福島文芸部) 地方演説会 高松市 県公会堂 1,000名 出所:『香川新報』(大正15年7月7日〜8月4日)、『商海』66号、『千里山学報』42号、『大阪時事新報』(大正15年7月17日〜18日)。
※1)開始時間・終了時間および会場については、『香川新報』の広告・予告記事と、実施後の報告記事で異なる場合がある。ここ では報告記事に基づいて作成した。
※2)大阪高等商業学校、および8月1日の関西大学地方演説会(福島文芸部)については『香川新報』の記事が乏しいため、そ れぞれ『商海』『大阪時事新報』『千里山学報』の記事によった。
※3)7月27日の明治大学多度津町講演は、『香川新報』(7月21日)では予定されていたものの、7月30日の記事によると開催さ れず、観音寺町から直接丸亀市に向かった模様。
【図1】大学巡回講演広告一覧
上左:『香川新報』広告(早大、7月19日掲載)
上中:『香川新報』広告(関大、7月20日掲載)※1)
上右:『香川新報』広告(東洋大、7月21日掲載)
左:『香川新報』広告(明大、7月29日掲載)※2)
※1)この広告は、関西大学の実施した事業の一部のみである。のちに述べる陪審法 模擬裁判や青年雄弁大会についての広告はない。
※2)明治大学は県内4箇所で講演を開催しているが、この形式による広告は高松開 催時のもののみである(天神前表誠館は、県公会堂と並び、高松市内でしばしば 講演が行われていた会場である)。
【表3】巡回講演場所別分類表
市/郡 場所 回数 備考
市 高松市 6回 大阪高商、早大、東洋大、関大×2(県人会、福島文芸部)、明大 丸亀市 5回 大阪医大、大阪高商、早大、東洋大、明大
郡 三豊郡 5回 関大×3(詫間村、仁尾町、大野原村)、東洋大、明大(いずれも観音寺町)
仲多度郡 3回 明大(琴平町)、早大(琴平町)、東洋大(善通寺町)
小豆郡 2回 関大×2(土庄町、苗羽村)
大川郡 1回 関大(津田町)
ない大阪医大、大阪高商については、それぞれ講演部が主催であり、県人会組織との関係は不明であるも のの、県出身の各大学関係者(在学生・卒業生)が関与していたことは、香川新報の記事や各大学発行の 機関誌で判明している2)。香川新報社との関係は不詳だが、大阪高商の巡回講演については大阪の地元紙 大阪時事新報社の後援を受けており、同社記者が同行したり、取次店に出迎えられるなどしている3)。こ れらの巡回講演が、新聞社等の組織・団体のバックアップを受けつつ、県出身者を中心とした学生の力に よって成り立っていたことが分かる。
表3は全22講演(大阪医大の丸亀市と関大の苗羽村は1回とカウント)を、場所別に分類したものであ る。香川県東部がやや弱いが、県全域にまたがっており、市部(高松市・丸亀市)が11回、郡部(三豊 郡、仲多度郡、小豆郡、大川郡)が11回と、市部と郡部での開催回数は拮抗している。高松市は大阪医大 以外の5校、丸亀市は関大以外の5校が訪問しており、この2都市は県外の大学が地方巡回講演を行うに あたって欠かせない都市であることが分かる。郡部は香川県西部に偏っているが、島嶼部(小豆島)でも 2回開催されている。
Ⅰ−2.香川県を訪れた大学
では、各大学ごとに巡回講演の様子をやや詳しくみてみよう。
Ⅰ−2−1.大阪高等商業学校
大阪高商(市立、のち大阪商科大学を経て、現在の大阪市立大学)講演部は、同校学友会誌『商海』各 号によれば、大正8年以来巡回講演を実施しており、香川県に来訪するのは大正11(1922)年に続き2度 目である(大正11年は徳島、丸亀、高松、松山)。このたびの巡回講演は、7月12日先発隊大阪出発、13 日本隊大阪出発、14日松山市、15日今治市、16日丸亀市、17日高松市、18日徳島市、19日帰阪という約1 週間の日程である。
「地方文化開発と経済事情 視察の重大使命を帯びて四国 地方巡回講演の途についた」4)
のは、永並教授(部長)、長 田教授、塩澤記者(大阪時事 新報社)、及び安田、渡瀬、
奥野(以上3年)、加納、久 保、西澤(以上2年)の6学 生、あわせて9名であった。
講演の具体的内容は表4の とおりである。
【表4】大阪高等商業学校講演部
日付・会場 演題 所属 弁士
7月16日
丸亀市 農村振興策に就いて 学生(2年) 西澤與志雄 本邦貿易政策一面観 学生(2年) 久保 武雄 吾失業並に人口問題と其解決策 学生(3年) 安田 勝利 新聞の社会的使命 記者 塩澤 元次
植民地問題私見 教授 長田 三郎
法律の本質 教授・部長 永並 豊吉 7月17日
高松市 開会之辞 学生(3年) 奥野 有 農業政策一面観 学生(2年) 久保 武雄 国際経済上に於ける我国の地位 学生(3年) 渡瀬 東洋 我国に於ける新聞紙の発達 記者 塩澤 元次
法の本質 教授・部長 永並 豊吉
植民地問題私見 教授 長田 三郎
出所:『商海』66号、昭和2年7月、pp.87-88.
Ⅰ−2−2.大阪医科大学
大阪医科大学(当時は府立、のち大阪帝国大学医学部を経て、現在の大阪大学大学院医学研究科・医学 部)では、大正15(1926)年7月、学風会講演部主催の四国巡回診療相談および医学講演会を開催した。
学風会とは「大阪医科大学学風会々則」によると「大阪医科大学ノ学風ヲ発揚スル」ことを目的とする、
教員、学生および卒業生からなる組織である(大阪医科大学編1924、p.250)。
このたびは香川県・愛媛県を巡回するもので、『香川新報』および『愛媛新報』によれば、出発日不詳、
7月13日丸亀市、14日移動日、15日松山市、16日帰阪という日程である。メンバーは、教員5名、学生4 名であった5)。
丸亀市で開催された一連の行事は大きく「診療相談」「丸亀医師倶楽部主催特別講演会」「通俗講演会・
映画」の3部からなる(表2参照、松山市もほぼ同様)。このうち、一般公衆を対象とした通俗講演会・
映画の具体的内容は表5のとおりである。
【表5】大阪医科大学学風会講演部
演題 所属 弁士
一、開会之辞 学生 澤 重光
二、映画日光と保津川二巻 説明者学生 松倉 豊治 三、講演腸チブスの話 講師医学博士 斧原勘太郎 四、映画恵みの光二巻 説明者学生 松倉 豊治 五、映画衛生劇明るき生へ三巻 説明者学生 藤井元四郎 六、講演トラホームの話 講師医学士 湖崎 清一 七、映画蚊の一生と疾病の伝播一巻 説明者学生 牧野利三郎 八、映画伝染病の病原体一巻 説明者学生 澤 重光 九、映画余興喜劇二巻 説明者学生 藤井元四郎
十、閉会之辞 学生 牧野利三郎
出所:『香川新報』大正15年7月11日.
Ⅰ−2−3.早稲田大学
早稲田大学と言えば、明治中後期以降、大学巡回講演を本格的に実施している大学である。総長・学長・
教員による巡回講話の他、明治43(1910)年5月に設置された校外教育部による地方講習会6)、さらに、
明治42(1909)年7月には雄弁会が地方巡回講演をはじめている。香川県にも明治44(1911)年3〜4月 に校外教育部が、明治45(1912)年7月には雄弁会が訪れ、講演を行っている。
この年、香川県を訪れたのは、早稲田大学第一高等学院の弁論部である。大正9(1920)年、早大が大 学令による大学に昇格するのに伴い、明治32(1899)年に創設されていた高等予科を大学予科として充実 するべく、早稲田大学早稲田高等学院と改めた。大正11(1922)年より中学校4年修了者対象の第一高等 学院(修業年限3年)、中学校卒業者対象の第二高等学院(修業年限2年)に分かれ7)、この体制が戦後 の学制改革まで続いた8)。
『香川新報』(7月17日)の報道によれば、15日に東京を出発し、静岡、浜松、名古屋、姫路、岡山各市 で講演を行った後、20日午後1時10分高松着の連絡船で高松に到着するという行程であった(20日高松 市、21日丸亀市、同日仲多度郡琴平町での講演終了後の予定は不詳)。メンバーの詳細は不明であるが、
教員1名、学生6〜9名だった模様である9)。
7月20日の高松市での講演プログラムは表6のとおりである。
【表6】早稲田大学第一高等学院弁論部
演題 所属 弁士
唯物論的歴史観と社会進化の必然性 (学生) 石田 久
社会制度の実在性に就いて (学生) 村上 栄郎
資本主義治下に於ける農村疲弊形態とその対策に就いて (学生) 小宅 巽
社会進化と婦人の啓蒙運動 (学生) 松本 佐一
一輪赤きカンナの花 (学生) 白石 大
小学教育に現はれたるミリタリズム的思想傾向に就いて (学生) 篠原 匡文
挨拶にかへて 主事・教授 小澤(名は不明)
出所:『香川新報』大正15年7月22日.
※1)琴平町では、登場順は変わるものの、登壇者は同じである。丸亀市は詳細な報告記事がないため不明。
Ⅰ−2−4.関西大学
大正15年7月に香川県を訪れた6大学のうち、最も幅広く活動したのは関西大学であろう。
関大の地方巡回講演には、学友会によるものと各地の県人会が独自に行うものの2種類があった10)。両 者が重なることもあり、大正15年の香川県では、県人会主催事業が7月23日から8月1日まで、学友会福 島文芸部地方講演が8月1日に実施されている。
関大香川県人会は『香川新報』および『千里山学報』によれば、大正13(1924)年6月5日に設立され、
巡回講演は第一回(大正13年7月30日〜8月4日)、第二回(大正14年1月3〜6日)、第三回(大正14年 4月2〜6日)、第四回(大正14年8月3〜12日)と過去4回実施されている。巡回講演は今回で五回目 ということになる。
大正15年の香川県人会は、①郷土巡回文化講演会(23日小豆郡土庄町、24日大川郡津田町、25日三豊郡 詫間村、26日三豊郡仁尾町、27日三豊郡大野原村の計5カ所)に加え、②陪審法模擬裁判(7月30日高松
【表7】関西大学香川県人会
演題 所属 弁士
開会の辞 大学部予科 中石 淸一
普選実施後に於ける国民の覚悟 (不明) 竹原 恒雄 平和より見たる欧州列強 専門部法科 松原 又一 大正維新に直面して現代青年の奮起を促す 専門部商科 眞鍋 義弘 現代婦人の社会的地位を論す 専門部商科 信原 照男
時代と社会科学 法文学部独法科 尾崎 米一
社会と国家との関係 法文学部英法科 清水 政秀
挨拶 法文学部英法科 藪下 益治
後援の辞 土庄町青年団長 三崎屋義治
普選と無産階級 大学部予科 中石 淸一
現代社会世相を論して法律の民衆化を高唱す 専門部法科 福田 繁芳 立憲政治の本質を論す 法文学部英法科 樫本 信夫
現代世相雑感 校友 藪下吟次郎
閉会の辞 法文学部英法科 清水 政秀
出所:『香川新報』大正15年7月26日.
※1) 表は23日土庄町のプログラムであり、他会場では若干の相異がある。(仁尾町、大野原村では藪下益治が参加していない。校 友は土庄町・津田町は藪下吟次郎、詫間村不明、仁尾町・大野原村では白川千代治。尾崎米一の演題は仁尾町・大野原村で は農村教育に関して、土庄町では挨拶の藪下益治は津田町では「陪審法に就て」という演題で講演、等。)
※2) 松原又一は、Ⅱ章で引用する津田町では「杉原又一」など、記事によって名前が統一されていないため、原文とおりとしたが、
演題から考え同一人物であることは間違いない。
市)、③青年雄弁大会(8月1日小豆郡安田村)の3つの事業を開催した。巡回講演は学生10名(および 校友2名)で行っており、他と異なり教員の参加はない(後述するように明大も教員の参加はない)。7 月23日に土庄町で開催された講演プログラムは表7のとおりである。
陪審法模擬裁判については、卒業生からなる校友会香川支部と香川県人会とが協力して、模擬裁判公開 実演「事件殺人罪(嬰児殺し)」と講演によって、2年後(昭和3年)に導入が控えている陪審法の普及 を図ろうとしたものである。配役は表8のとおりであるが11)、学生は法科の学生たち、校友は現役の弁護 士から県会市会議員まで及んでいる12)。肝心の陪審員は「校友の大柏高松市助役を初め県会市会議員中の 校友を選出並びに学生後援新聞社が当」たるということである(『香川新報』7月13日)。公演当日の報道 によれば、午後5時開演、入場料は金三十銭で、「素破らしい人気」とのことであった(『香川新報』7月 30日)。
もう一つの事業、青年弁論大会は『香川新報』(8月4日)によると「関西大学香川県人会主催の第一 回小豆郡青年雄弁大会」と報じられており、はじめての事業であったことが分かる。昼夜二回開催された 本大会は、関大の学生と地元青年が出演し、交流を図ったものと思われる。
【表8】陪審法模擬裁判配役一覧
配役 所属 氏名
裁判長 前検事弁護士 藪下吟次郎 陪席 弁護士 白川千代治
学生 尾崎米一(法文学部独法科)
検事 弁護士 大西愛三郎、藤本保一、未定
学生 樫本信夫(法文学部英法科)、清水政秀(法文学部英法科)
陪審長 公証人 大西敏弘
書記 学生 福田繁芳(専門部法科)
出所:『香川新報』大正15年7月13日.
【表9】関西大学福島文芸部
演題 所属 弁士
開会之辞 経済科・委員 西野 甚藏
人間性への教育 商科 嵐 勝歳
人類愛の墓石に直面して 法科 正井 善三
新政治運動と労農問題 経済科 星野 武二
法律上より見たる妻の地位 法科 眞鍋 靜雄
社会改造運動に於ける先駆者の功績 経済科 松井 廣
科学的社会主義の理論 経済科 瀬戸 健助
挨拶 経済科・文芸部長 芦田 文一
普選の扉を押開民衆の力 法科 島田 三郎
近代思想が資本主義的法律学に及ぼしつゝある影響に就いて 法科 大島 守吉
民族的大団結を高唱す 商科 田中 久雄
文学と社会生活 文科 藤本 浩一
閉会の辞 商科・委員 高部 和男
(教援)政治の経済的基礎 講師 辰巳 經世
(教援)労働立法に就て 講師 武田藏之助
未定 校友 数名
出所:『香川新報』大正15年7月27日.
※1)『香川新報』(7月27日)の予告記事に掲載されていたが、『千里山学報』42号(大正15年9月15日)で出演が確認できていな い弁士は、表から除外した。
※2)『香川新報』と『千里山学報』の記載が異なる場合は、明らかな間違いを除き、タイトルは『香川新報』を、所属と名前は『千 里山学報』によった。ただし藤本浩一のタイトルは『香川新報』では未定だったため、『千里山学報』による。
県人会事業とは別に行われた福島文芸部の夏期地方公演は、『千里山学報』42号(大正15年9月15日)
によると、7月28日大阪出発、29日別府市、30日移動日、31日松山市、8月1日高松市、2日帰阪という 日程である。メンバーは教員4名と学生14名、高松市での公演プログラムは、表9のとおりである13)。
Ⅰ−2−5.東洋大学
『東洋大学百年史通史編Ⅰ』は、大正後期から昭和初期にかけておこなわれた東洋大学の大学開放活動 について、「大学主催による夏期大学等の開催」と「学生主催による夏期大学等の開催」に分けて論じて いる(東洋大学1993、pp.884-891)。管見の限り、戦前の大学拡張・大学開放について大学主催/学生主 催に分けて論じているのは東洋大だけである。
学生主催のものについては、東洋大を会場とする夏期大学に加え、地方で夏期休暇中県人会を中心に行 われていた。大正15年夏には香川県人会の巡回講演以外にも、青森県夏季講習会(青森県人会・三戸郡教 育会主催、八戸高等小学校)、夏季婦人講演会(長野県人会有志主催、長野市・須坂町)、厚木文化講演会
(神奈川県人会主催、厚木小学校)、峡中夏期大学(山梨県人会主催、甲府中学校)の開催が計画されてい た(同上、pp.887-888)。中でも山梨県人会の活動は盛んであり、大正12年から昭和2年まで継続して実 施された峡中夏期大学はかなりの盛況であったという(手打1980、上田1989)。
大正15年前後の香川県人会の活動については不明だが、これら他県の動きに刺激されたことはあったか もしれない。校友会長の高島米峰と学生(記事で確認されたのは3名)は、県下4カ所で巡回講演を行っ ている(25日高松市、26日観音寺町、善通寺町、丸亀市)。25日に高松市で実施した講演プログラムは表 10のとおりである。
【表10】東洋大学香川県人会
演題 所属 弁士
現代世相を如何に見る乎 (学生) 筒井 松雄 現代文化と創造文化 (学生) 須藤 巽 郷土文化の為めに (学生) 青山 宜紀 男子問題か婦人問題か 校友会長 高島 米峰
出所:『香川新報』大正15年7月27日.
※1)表は25日高松市のプログラムであり、他会場は若干相異がある。(丸亀市では筒井の講演タイトルが
「人類増加と食料問題」へ、高島が「現代思想と環境」へと変更。善通寺町では須藤登壇せず、等。)
ところで、東洋大学の講演会における目玉は、なんと言っても高島米峰14)である。『香川新報』(7月24 日)において「文化評論界の権威として夙に世人周知の大思想家」と紹介された高島の講演に対しては、
同じ記事で「氏一流の辛辣な舌鋒は必ずや両性問題に於ける社会の伝統的偏見誤謬を喝破して新しき道徳 を高唱され、そのユーモアに富む皮肉警句はグサリと聴衆の肺肝をえぐり夏なほ寒き感あらしめるであら う」と、読者の期待を煽るものとなっている。
果たして、当日はどうだったのだろうか。7月27日には、次のような報告記事が掲載されている。
高島米峰氏、急霰の如き拍手に迎へられて登壇、「男子問題か婦人問題か」と題して、時代思潮は伝 統的男性中心思想の破壊と共に女性の自覚自由平等思想が熾烈となりつゝあるを説き、両性の天賦の 特性には心身両方面とも相異あるがその本質は対等なることを説明し、マイベターハーフ「私のより よき半身」と西欧の諺を引例し「弱き者よ汝の名は女なり、されど母性は強し」と母性の尊とさを讃
美して、近時望ましい婦人参政権も男性に対抗する意味でなく大切な子供の教育者としての母性の環 境を保護し向上せしめる為めには婦人代議士も必要であると力張し、話間に交へる氏一流のユーモア に富む風刺諧謔に一千有余の聴衆は只もう酔へるが如く狂喜し満足して、午後十時半盛会裡に閉会し た。
講演は期待に背かないものであったことが伺える。
Ⅰ−2−6.明治大学
明治大学雄弁部は名古屋、奈良、和歌山を経て、四国四県を回り、最後に香川県を訪問した。『香川新 報』(7月30日)によれば、7月26日に今治より観音寺町に到着、27日から30日までの間に県内4カ所(27 日三豊郡観音寺町、28日丸亀市、29日仲多度郡琴平町、30日高松市)で巡回講演を行った。メンバーは学 生7名と思われる。27日に観音寺町で実施した講演プログラムは表11のとおりである。
明大の巡回講演で目を惹くのは、後に第66代内閣総理大臣となる三木武夫の名前である。明治40
(1907)年3月生まれであるから、大正15年7月当時19歳、その年の4月に明治大学専門部商科に入学し た三木は、郷里徳島市出身の長尾新九郎15)の誘いを受けて雄弁部に入部したという。『香川新報』(7月21 日)の記事で予告されていた弁士・演題一覧に三木の名前はないのだが、その後の実施報告記事によれ ば、少なくとも観音寺町と高松市で、それぞれ「社会制度改善に関する人間性」「人間性と社会改造の基 調」というタイトルで演説している(丸亀市、琴平町での登壇はなかった模様)。若かりし頃の三木が何 を語ったのか気になるところであるが、この時の明大雄弁部の地方演説会については小西徳應編『三木武 夫研究』で言及されており、若干ではあるが演説の内容が伺える。
三木が明大に入学、そして雄弁部に入部して間もない大正十五年七月十一日、同部は夏期遊説に出発 した。同日は名古屋市で説演会を催した。その後、奈良市・和歌山市とまわり、十五日には大阪市よ り船で郷里の徳島市に渡り、千秋閣において県下青年および学生雄弁大会が開催された。この大会は 懸賞がかけられていた。同大会において三木らは所感を述べたり、講評をしている。その後、県内の 撫養町・富岡町・池田町・さらに高知県や香川県にも及んだ。この遊説における三木の演題は「人間 性と社会改造の基調」として、「今日の資本主義社会は即ち人間性の然らしむる所獲得欲の結果なり
(中略)人間本能に対してこれを善導し自由に活動せしむることなり」云々といったこと、あるいは
【表11】明治大学雄弁部
演題 所属 弁士
開会の辞 県人会代表 青 安郎
社会制度改善に関する人間性 専門部商科 三木 武夫 立憲政治の本質を論ず (不明) 小田 政一 現代文化の危機と普選 専門部法科 長尾新九郎 自由主義史を論じて国民生活の改造に及ぶ (不明) 中 助松 デモクラシー史と普選の意義 法学部 高本 毅
出所:『香川新報』大正15年7月30日.
※1)表は27日の観音寺町のプログラムであり、他会場は若干相異がある。(観音寺町、高松市では三木がトップバッターだが、丸 亀市と琴平町では三木の登壇は確認できない、タイトルが異なる、等。ただし、小田以下4名は同じである。)
「社会制度と人間の本能性」として「人間は獲得の本能を有する、凡そ社会制度は此本能を無視する 事は出来ない」といったことを論じた(鈴木2010、p.110)。
Ⅱ 大学巡回講演の実態
Ⅱ−1.関西大学津田町講演の記事
この章では、さらに詳しく当時の大学巡回講演の特徴を探るため、7月24日に津田町で開催された関西 大学香川県人会主催第五回郷土巡回文化講演会に関する『香川新報』の記事(7月27日)を見てみよう。
これは、大学巡回講演の様子を伝える数多くの記事の中でも、当時の大学巡回講演がどのようなもので あったかを最も詳細に語っている。
関西大学香川県人会 文化講演会 津田町の盛況
関西大学香川県人会主催の第五回郷土巡回文化講演会の第二日目は、既報の如く廿四日午後七時か ら、津田町公会堂に於て開催、①同地に於ては斯る学生の講演は最初の事とて大いに人気を呼び、熱 心なる聴衆続々として参集し、遠く鶴羽、松尾村等より来れる者もあり、その数約五百名、 ②中に数 十名の妙齢の婦人を交へ一段の景気を添へた。
定刻、幹事清水君の簡単なる開会之辞に次で、杉原又一、信原照夫、眞鍋義弘交々立ちて独特の雄 弁を振ひ、①ʼ先ず聴衆をして感動せしむ。次に尾崎米一君、時代と社会科学の題下に社会科学の必然 性と其研究の必要を叫び、次に福田繁芳君、現代世相を論じて悲痛なる叫びを挙ぐるや、③言偶々に 政治の実際問題に触れたりとて臨官席より注意あり、更に論旨を進めて法律の民衆化を高唱して降壇 す。次に藪下益治君、④陪審法に就てと題して陪審法制定の由来より其の運用方法に至る迄三十分に 亘りて縷々説述し、①ʼ聴衆に多大の感銘を与へた。
更に司会者会長樫本信夫君立ちて、⑤挨拶を兼ねて関西大学の現状を紹介し、香川県人会設立の趣 旨より過去三ケ年に於ける血のにじむ奮闘の歴史を述べ、現今の盛大を語り、是に関連して同地出身 前会長徳竹要君の功績を推賞し、最後に④ʼ政治教育普及法律の民衆化の緊要なる旨を述べ、今期講演 会開催の大眼目も亦是に在りと絶叫して降壇す。
次に⑥大川中学卒業生を代表し尾山了三氏の後援の辞あり後、同地出身の竹原恒雄君、三本松町出 身中石清一君、相次で④”普通選挙の本質と是が実施に関する国民の覚悟を述べ、殊に普通選挙により て救うべき無産大衆覚醒を促すところあり。次に清水政秀君、社会と国家との関係と題して、学生弁 論界の花形たるの名に叛かず雄弁を以て悠容逼らず巧妙なる例証を示して両者の関係を説き、①ʼ聴衆 賞賛の裡に降壇するや、最後に⑦校友前検事弁護士藪下吟次郎氏、其の堂々たる体躯を壇上に現し先 ず聴衆を一睨するや、一言も聴き漏らさじとして満堂緊張す。氏は現代世相に関して大いに論議され る筈なりしも、時間の都合上主として農林問題に就き其の根本的解決策として世の学者政治家の説き 及ばざる境地に就き其のがい博なる研究の結果を発表し、①ʼ聴衆をして手に汗握らしめ満堂割るゝ計 りの大拍手の裡に降壇す。更に幹事藪下君、悲痛なる句■を以て閉会の辞を述ぶるや、将に立たんと せん聴衆も再び席に返り、最後迄緊張し同君亦先輩徳竹君の徳を賞へて⑧散会したのは午後十二時前 なり。折しも十五夜の月は栗林公園は老松に懸かり宿所に急ぐ若人の上に幸多かれと祈るが如き観が あった。(■は判読不明文字。以下同様。)
Ⅱ−2.大学巡回講演の特徴
数字・下線・ゴチック体で現した箇所について、以下、順番に説明する。(括弧内は会場と新聞記事の 日付、以下同様。)
①盛況
大学巡回講演の特徴の第一として挙げられるのは、各地で大盛況だったことであろう。
とりわけ、今回が五回目の巡回講演会となる関大県人会は、津田町以外の4会場においても大賑わいで あったことは、「同町は第一回講演会の時等しく第一声を挙げた土地として前人気すばらしく、定刻前す でに数十名の聴衆あり。中石君の開会の辞に始まり半に到ると、既に聴衆は場にあふれ、無慮五百名を算 した」(土庄町、7月25日)、「熟練せる宣伝の効果もあるが、開会前既に会場に殺到せる者二百余名、一 刻より一刻と其の数を増し階上階下たちまちにして人を以て埋め尽し身動きさへ出来ず、聴衆実に一千余 名、同地未だ見ざるの盛会であった」(詫間村、7月28日)、「開会前から聴衆は純心無垢の若人の雄叫を 聞かんとして犇々とおし寄せ、さしも広き殿堂も立錐の余地も無き盛況を呈した」(仁尾町、7月29日)、
「満場溢るゝばかりの盛会であった」(大野原村、7月30日)と伝えられている。もちろん、単に多数の人 が来場したというだけでなく、「若人の熱弁に酔へる聴衆」(土庄町、7月25日)、「群る聴衆に終始異常の 感銘を与へ」(仁尾町、7月29日)と、聴衆の熱狂ぶりも各地で報じられている。
他大学も似たような状況であり、当時我が国の雄弁家の一人に挙げられる高島米峰を擁する東洋大の盛 況ぶりは「聴衆は陸続として詰めかけ、さしもに広き公会堂も瞬時にして高松市内のあらゆる有識階級の 紳士淑女をもってみたされたかの如き観」があり、高島の演説には「一千有余の聴衆は只もう酔へるが如 く狂喜し」(高松市、7月27日)と伝えられている。
このような状況は、明治20〜30年代に学士会が通俗学術講談会を巡回実施したときの会場の様子と酷似 しており(山本2009)、大正末期においても未だ大学巡回講演が社会から大いに期待されていたことが伺 われる。
②女性聴衆
女性の聴衆を殊更に報じているのも当時の特徴の一つである。上記引用記事以外にも、「皆時代に自覚 せんとする熱心なる人々であって、社会進化と婦人の啓蒙運動を聞かんとて、若き婦人の膝押進めたるさ まも見えた」(早大、高松市、7月22日)、「当夜は高松に於ける総ゆる知識階級を網羅し、殊に多数夫人 の聴衆ありしは注目すべきである」(明大、高松市、8月1日)と、報じられている。大学令によって女 性は一部を除き高等教育機関からほぼ排除されていたが16)、そのような中にあって、学問に触れたい女性 にとっては、大学巡回講演は貴重な機会であった。
明治13(1880)年に公布された集会条例では特に女性をターゲットにした条文は存在しなかったものの、
後継の明治23(1890)年の集会及政社法第4条では「現役及召集中ニ係ル予備後備ノ陸海軍軍人警察官官 立公立私立学校ノ教員学生生徒未成年者及女子ハ0 0 0政談集会ニ会同スルコトヲ得ス」と女性の政談集会への 参加禁止が明文化された。(圏点はいずれも山本による。以下同様。)このことは、女性は政談演説には参 加できないが、学術講演会ならば参加可能であることを意味するものでもあった。(なお、同条文は、明 治33(1900)年の治安警察法にも引き継がれたが17)、平塚雷鳥らによる反対運動により大正11(1922)年 に廃止されている。)学術を標榜する講演会への女性の参加は以前より禁止されていた訳ではなかったの だが、にもかかわらず女性聴衆について特別に言及されているのは、「女に学問は必要ない」という風潮
の中、新聞記者にとって女性聴衆の存在が珍しく映ったためか、あるいは、婦人参政権運動が盛り上がり を見せる中、政治・社会問題への女性の関心の高まりに注目したか、そのいずれかであろう。
③臨席警官
臨席警官は当時の講演会にはつきものであった。集会条例は警察官が集会に臨席し、解散権を持つこと を取り決めたが(第5〜6条)、後継の集会及政社法(第9条、第13条)、治安警察法(第8〜11条)でも 同様であった。
関大の講演では、津田町での「注意」しか報じられていないが、講演そのものに対し中止の命令が下さ れることもあった。関大以外では、例えば、「松本氏は過去の内閣を攻撃して臨監の警官から注意を受け0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0、 石田氏は思想問題に触れて中止を命ぜられ0 0 0 0 0 0 0」(早大、高松市、7月22日)、「須藤巽君登壇、「現代文化と創 造文化」と題し日本現代の文化は翻訳文化であり模倣文化でありブルジョア文化であると説破し、ブル ジョア文化の副産物として生じたる醜悪なる社会の種々相を指摘痛罵して聴衆の溜飲を下げ、臨席警官の0 0 0 0 0
「注意0 0」あって0 0 0」(東洋大、高松市、7月27日)、「青山宜紀君(中略)「吾人は彼の汗水にまみれて働く労 働者の惨苦を見る時現代の教育制度を根本より改革云々」と絶叫せんとする刹那、臨席警官より0 0 0 0 0 0「弁士中0 0 0 止0」の声あり止むなく降壇0 0 0 0 0 0 0 0 0 0」(同前)と、注意を受けたり、演説中止を命じられることがしばしば見られた。
④政治意識啓発の使命感
そもそも大学巡回講演の目的は何だろうか、ということを考えるに、一般公衆の「政治意識の啓発」が あったと考えられる。
関大県人会は「今回は特に政治教育普及並に法律の民衆化0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0を眼目として主として是等の問題につき純学 術的講演会を催す」(7月19日)と報じられているが、医学講演会に特化した大阪医科大学を除く5大学 の演題を見ると、大正12(1923)年に制定され昭和3(1928)年に施行を控えた陪審法、あるいは大正14
(1925)年普通選挙法成立といった当時の時代状況を反映して、巡回講演が市民の立法・司法への関心を 高めることを主たる目的としていたことが伺える。そこには、「学生は社会の指導階級であらねばならぬ」
という学生の使命感も垣間見える18)。
加えて、特に県人会主催の場合は郷土への貢献という思いも強く、「郷土文化の開発に貢献せん」(東洋 大、7月24日)、「郷土文化開発と青年諸君の奮起を促す為め」(関大、7月25日)、「燃ゆるが如き郷土愛 の発露より」(関大、7月28日)と、「郷土」という言葉が散見される。事実、例えば琴平町は「因に同町 では本夏既に高松高商早稲田高■栄と今回明大とを迎へた訳で、地方に於ける文化の開拓も■蓋しかゝる 屡々の試みによって助成されるであらう」(明大、8月1日)と報じられ、地元の高松高等商業学校の拡 張事業19)とあわせて、地域文化の発展に貢献するとの認識であった。
⑤大学紹介
私立大学による巡回講演の嚆矢である早大の巡回講演と言えば、「寄付金集め」の色彩が伴うもので あった。資金と経営の問題は、私立大学にとって「宿命的な課題」(天野2009a、p.87)と言われるように、
財政基盤の乏しい私立校にとっては寄付金は学校整備に必要不可欠であり、学校宣伝を兼ねた巡回講演は 各地における校友会開催とセットで行われ、同時に資金集めの手段となっていた20)。とはいえ、明治末期 における早大の巡回講演は①校外教育部による地方講習会、②総長・学長・教員による巡回講話、③雄弁 会の巡回講演の3本立てとなっていて、本稿で論じている巡回講演のモデルの一つと言って良いであろう
③雄弁会の巡回講演は、学生が主体となっているためか、表立って寄付金問題には言及していないようで あったし、この大正15年の巡回講演にあたってもどの程度資金集めの使命を帯びていたかは不明である21)。 むしろ、この時代にあっては、原敬内閣の高等教育拡張政策に基づいて制定された「大学令」の影響を 考慮する必要があると思われる。大正7(1918)年公布、翌大正8(1919)年施行の大学令によって、従 来は専門学校令に基づいて設置されていた公立・私立の「名称のみの大学」が、相次いで「正式な大学」
として認可された。その結果、大学数は徐々に増え、大学令以前の5大学(東京、京都、東北、九州、北 海道の帝国大学)から、大正15年には37校となっている。そのような中、昇格した学校は新しく「大学」
となった自らをアピールする必要があったし、一方でこれから昇格をめざす学校にとっては、自らが「大 学」たるに相応しいことを訴えることが不可欠だった。
大正15年に香川県を来訪した6大学のうち、大阪医大(大正8年昇格)、早大(大正9年)、明大(大正 9年)、関大(大正11年)は既に大学に昇格を果たしていたが、大阪高商、東洋大は昇格運動の真っ直中 であった22)。大阪高商の前年大正14(1925)年の山陰地方における巡回講演のために制作した小冊子23)に は、教員の論文とともに「梅鉢の歴史―本校の沿革―」という短文が掲載されている。そこには「大正九 年研究科新設され大学昇格の準備とゝのひ、学生定員も大正四年の三百五十名は十年既に千百名となり名 実共に商科大学として毫もはづかしからざる状態となった0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0のである。」(大阪高商講演部1925、p.27)と、
自己アピールすることを忘れていない。
講演会の中で直接大学の現状を紹介することがどの程度あったのか、関大津田町講演以外『香川新報』
では明らかとは言い難いが、講演会を行うこと自体が大学宣伝となっていたことは間違いない。
⑥地元の歓迎
次項に述べるように、香川県出身あるいは在住の校友(卒業生)は、時には自ら弁士として登壇するな ど積極的な支援を行うが、それだけでなく地元の、時には相当の地位にある有力者の協力を得ていること も、特徴の一つである。引用記事にあるように講演に際して挨拶を頂戴することは、関大の土庄町会場で の土庄町青年団長三崎屋義治氏の「後援の辞」や(7月26日)、早大の琴平町講演にあたって開会の辞を 綾歌銀行琴平支店長安達賢氏が述べる(7月23日)などがある。
他にも、大阪医大の丸亀医師倶楽部主催特別講演会の終了後に同倶楽部が歓迎を兼ねた晩餐会を行った り(7月7日)、東洋大では「高松市婦人会長たる当市長石原氏夫人まつ子女史は当講演会に賛助あり、
当夜自ら茶器その他の必要品を持参しいろ 斡旋の労をとった」(7月27日)という。
また、大阪高商の巡回講演については『香川新報』の記事は極めて少ないものの、『商海』66号によれば、
講演会場である丸亀に到着した際は「丸亀駅頭に丸亀市議船橋勝太氏および時事新報取次店一同に出迎へ られ」たとあり、さらに「特に丸亀連隊志願兵中隊は本会の為に夜間外出すら許され」(p.87)という扱 いであったという。高松市での講演に際しては、同じ高等商業学校の誼ということであろう、「我部の壮 挙に特に高松高商講演部が賛意を表せられ、部員を差向けられたことは深く感謝する次第である」(同、
p.88)と報告されている。
⑦校友の協力
校友・県人は母校の学生に協力を惜しまなかった。
上記記事に引用した藪下吟次郎氏は、明治20(1887)年小豆郡土庄町生まれ、明治39(1906)年私立関 西大学専門科法律学科を卒業し、大正5(1916)年に判検事登用試験と弁護士試験に合格、しばらく検事
として各地の地方裁判所に勤めていたが、大正10(1921)年退官し、大阪に法律事務所を開いたとのこと である24)。今回の巡回講演においては、報道で確認できる限り、津田町以外にも土庄町で登壇し、さらに 陪審法模擬裁判では裁判長役を演じている。関大では同じく校友の白川千代治氏(明治27(1894)年豊田 郡和田村生まれ、大正11(1922)年法律学科卒、弁護士・香川県会議員)25)も、巡回講演では仁尾町、大 野原村で登壇し、陪審法模擬裁判では陪席役を演じている。
大阪医大については、『香川新報』(7月14日)の記事中に「大阪医科大学出身の本村丸亀中央病院内科 医長は早朝から診療所に出張し医科大学の各博士連に援助し、且又医科大学出身に関係ある丸亀白井病院 では特に自動車を出して斡旋に努めて居た。」とある。大阪高商については、『商海』66号(p.88)に「閉 会後、先輩牧野嘉兵衛、阿部、大山、坪田、窪川、夏目の諸先輩に案内せられて栗林公園、物産館を見物 し」たり、「夜は前記諸先輩が一行の為に慰労宴を催」すとの記載が見られる。
早大では「校友会を代表して小田本社長が開会の辞をのべ」(高松市、7月22日)、東洋大では「重信嵩 雄君は本県三豊郡の出身、大正十二年同大学印哲科卒業、目下報知新聞の記者として東都の操觚界に活躍 せる新人である。君も亦手八丁口八丁の敏腕家なれば当夜の雄弁振は吾人の最も期待する処である。」(7 月24日)と紹介されている26)。
明大の講演に際しては、熱の入った宣伝が行われたようで、「琴平町に於ける県人は既に母校雄弁部の 来琴につき熱烈なる好意を持ち、十日間に亘り遺憾なき宣伝広告を尽くした結果、一度明大来るの宣伝自 動車町内を通過するや各戸毎に明大だ と迎へられた」(琴平町、8月1日)という有様であった。講 演終了後は明大香川県人会主催の招宴に臨んだという(高松市、8月1日)。
⑧閉会時間
夜、相当遅い時間まで講演が続いていたことも、特徴として挙げて良いのではないだろうか。津田町で の関西大学講演は午後7時〜午後12時ととりわけ遅かったのは事実であるが、その他報道されている限り において、午前や午後早い時間に開始するものは除き、夜6〜7時に開始する講演会だと、11時過ぎまで 続くことは普通のことであったようだ(表2参照)。
おわりに
大正期には、当時の政治社会の動向や思想文化の風潮である「大正デモクラシー」を背景に、大学拡張 運動が展開されていた。その一形態としての大学巡回講演においては、教員だけでなく学生もその主要な 部分を担っていたが、一般公衆は学生の講演だからといって見下すどころか、むしろ学生の講演を求めて いた。「系統的に精神文化の洗礼を受けつゝある若人達のフレッシュな雄叫び」(東洋大、7月24日)、「純 心無垢の若人の雄叫を聞かん」(関大、7月29日)と、学生のフレッシュさや純真さに期待が集まり、巡 回講演は各地で熱狂をもって迎えられたのである。
本稿では大正15年7月の香川県の事例を取り上げたが、これが全国的動向とどのように関連するのか、
そして、以後この熱狂はなぜ衰退してしまうのか、今後の課題としたい。
[付記]
原則として、旧仮名遣いは新仮名遣いに改めた。