奈良教育大学学術リポジトリNEAR
国語教育のための考える文法 ― 「ある」「ない」
をめぐって ―
著者 小谷 博泰
雑誌名 奈良教育大学教育研究所紀要
巻 18
ページ 1‑10
発行年 1982‑03‑23
その他のタイトル Grammar by Thinking for the Education of the Japanese Language ―Concerning the usage of 'aru' 'nai'
URL http://hdl.handle.net/10105/6518
国語教育のための考える文法}
一「ある」 「ない」をめぐって一
小谷博泰舳
(国語学教室)
I 口語文法の種実のむつかしさ
文法、特に日本語の口語文法は、一般的1こ言って、国語の授業の中でのきらわれものとなりが ちのようである。多くの生徒にとってもそうであるが、なによりもまず、良心的な多くの国語教 師にとってそうなのである。
日本語の口語文法の授業がきらわれるのは、いくつもの理由があろうが、その一つとして、文 法学習用の教材として使われる文例が、つまらないということが考えられる。文法教育用にあっ
らえたような、無難なだけの、生きの悪い文章を見かける。少し生き生きとした文章を使うと、
学校文法では説明のつかないことが、いくつもいくつも出て来て、お手あげになったりする。そ ういう生きた文を分析できてこそ、役にたつ文法と言えるのだが、学校文法、特に口語文法は、
学校文法用にあつらえた標本のような文例しか、うまく分析できないという傾向がある。かの、
谷崎潤一郎ωが・日本の文法の大部分は西洋の模倣であり・習っても実際には役に立たないもの か、習わずとも自然に覚えられるものか、どちらかであると指摘した時代から50年近くたっては いるが、文法は、少なくとも学校文法は、来たに何ほども進歩していないよう1こ思われる。
また、国語教師の学校文法に対する不信感も強い。これも、文法がきらわれる大きな原因であ ろ㌔大学の教職課程における国語科教育法の教科書でたとえば原田章之進一2〕は・r現状では日 本語の文法論的知識はまだ、全国の小学校で統一して教えられるほどに、確立され定説化された ものがない」 r私は今日の文法理論に不信の感を持つ。」と書かれている。一般の研究誌において は・口語文法に対する不信感を・もっとはっきり述べている場合がある。たとえば上村幸雄{3)は、
r東大の橋本進吉のあやまりのおおい学説」が、その弟子によって戦後の教科書にもちこまれ、
rその結果、ほとんどの人が文法というものの実用性に対して徹底した不信の念をもつにいたっ た。」とされる。そして「その結果、検定教科書から文法はほとんどすがたをけしてしまった。」
と述べておられる。このように、学校文法の不完全さから、心ある国語教師は、不信感をいだき ながら文法教育を行なわざるを樗ない実状にある。その結果、文法の授業と言えば、ある種の疑 いを知らぬ教師たちが、暗記力にたけた一部の生徒だけを相手に、知識注入主義による頭の調教 を行なう時間と化してしまった、と言えば言いすぎであろうか。
} Grammar by Think㎞g for the Education of the Japanese Language −Concerning the usage of am nai
舳Hiroyasu Kotani(Department of Japanese Language,Nara University of
Education,Nara)
しかも、従来なら、昭和26年の小学校学習指導要領国語科編(試案)で、r文法を体系や知識 として孤立させて学習させるべきではない」とされたことなどをもとに、口語文法の体系学習を 敬遠することも許されたが、現行の指導要領では、〔言語事項〕という項目が設けられ、文法指 導も避けて通ることはできなくなってきている。特に中学校では、学習指導要領作成協力者であ る山本槍{4〕も・「文法的な事項を主とする指導」の説明に・「語句に関する指導では・他の文章 や文に関しての指導と違って、いつも表現や理解の活動の中で扱いにくく、自然と取り立て指導 に傾斜が多くかけられてくる。それだけにまとまった知識として体系的に指導することになる。」
とされている。少なくとも中学校では、口語文法を体系的1こ教えねばならない状態にあると言え よう。にもかかわらず、文法学習の必要牲が、文法学習の可能性に結びつかないところに、国語 教師の悩みがあるのではなかろうか。昭和51年1月の日教組の教育研究全国集会の国語教育分科 会の報告15〕にも・ある中学から・文法を教えて生徒を文法嫌いにさせたという反省があったこと・
楽しい文法の授業ができないと悩んでいる教師、文法の重要性に気づいていても、指導にふみき れないでいる教師が多数いるらしい一ことが述べられている。
さて、私もこれまでに口語文法を7年間近く教えて来た。始めはある中学校で、2年生を対象 に、非常勤講師として、口語文法を4クラス毎週2時間ずつ、1年間に渡って担当したのだが、
全くの失敗に終った。次にある女子短期大学で1年間、その夜間部で1年間教えたが、中学校で の経験があったためか、心配したよりはうまくいったように思う。やはり、非常勤であった。
次に、奈良教育大学で口語文法を担当するようになって、今年で4年目である。当校での最初 のI年間は、優秀な学生だと聞いていたこともあって欲ばりすぎたのか、一部の学生を除く多く の学生から不評をかったようだ。あとで、この科目を選んで後悔したと言った学生もいた。2年 目でも、中学校で習うように、テキストを使っててきぱき解答を教えこむ授業を望む声もあった。
てごたえが感じられるようになったのは、3年目の凌半くらいからであろうか。4年目の今年は、
ようやく授業のしかたが見えてきたという気がしているが、それでも、たとえば今年度の後期の 前半、近代文学研究の講義を担当してみて、文学の授業に比べて文法の授業のやりにくさよと、
思わず歎息している次第だ。
それはともかく、今年度の授業で試みたことを手がかりに、文法教育について考えてみたいと 思う。本年度前期の学生のレポートに、「(中学生に)文法を教えるうえで、大切なことは、い かにして興味をもたせるか、また、文法はむずかしくないと思わせるかである(1回生H・T)」
とあったのは、もっともなことだが、文法はむずかしくないとは、教える私自身も言えない。私 の授業は、国語教師の卵として、まず口語文法のむずかしさを知ることから始まるようなものだ が、しかし彼らが中学校の教壇に立ったときには、中学生に口語文法はrむずかしくない」と思 わせ、口語文法をはっきりと「わからせる」ことが必要であろう。 「興味をもたせる」ことは、
口語文法の授業を受けている学生たちにも必要なことである。
そこで、今年度は最初の日に、導入のために学生たちに宿題を与えてみた。それは、中学校で 動詞の活用を教えるための文例を、各自が自分自身で見つけてくるという課題である。いわば、
将来彼等が国語教師になったときの、教材作成のための練習を行なったものである。その結果、
彼らは小説、童話、評論、新聞、漫画など、実に様々な資料から文例を集めてきた。
rごめんよ、泣かないで(r青い鳥』メーテルリンク・今西祐行訳)。かたくかたくだきあっ たまま、こえをあげて泣きました(rあんじゅとずし王』野長瀬正夫)。やだ〃泣くつもりなん てないのに……(rキャンディ恋歌』緒形もり)。泣けぱゆるしてもらえると思っているのか
(r七瀬ふたたび』筒井康隆)。」これは、1回生M・Sの作成したカードで、一部を省■多した。
こうして一人一枚ずつ書いて来させたカードを集めて、そのままプリント1こして配り、さらにそ のプリントをもとに、動詞の活用に関する中学生用の問題を作らせた。そして、その問題の中か
らいくつか選んでプリントし、それを使って全員にテストをした。
こうした作業を行なったことの効果は、はっきりとはわからない。色々と資料をあさって、い っしょうけんめい文例を集めた者にとっては、効果はあり、将来のための勉強ともなったと思う が、中にはただめんどくさいと思っただけの学生もいたかも知れない。国語学は、実際に自分で めんどうな作業をしてみないと、興味がわかないものであり、そのための手始めとして課した作 業であったが、あるいはもっと良い方法があるかも知れない。
さて、文法に限らず、国語学の学習のための動機づけとして考えられることの一つが、具体的 に資料をあつかうことだとすれば、次に考えられることは、それを分析し、整理し、あるいは総 合し、体系化することであろう。ことばの法則の裏付けとなる理論を探求することである。もっ とも、文法体系を求めることは、急にはできるものではない。「文法に関する論というものは、
たとえ部分的な細い点について論ずるとしても、それはその人その人の体系を背後において展開 しなければならない」とは本位田重美16〕のことばであり・文法教育にたずさわる多くの者がいだ く思いでもあろう。学校で、文法教育を行なうためには、教師がそれぞれに、自分の文法体系を 確立しておく必要があ乱しかし、それはおいそれとできることではない。だが、せめて、こと ばや文に関する、様々の事がらについて、自分で問題点を見つけ、それなりに分析するだけの能 力は養っておかねばなるまい。
さきほど、口語文法の授業において、最近、てごたえが感じられるようになったと述べたが、
てごたえとは第一に、学生がみずから質問を発するようになったことである。文法というと、暗 記科目と考え、運転免許のために交通法規を覚えるような意識で、ただ機械的に解答を丸暗記し ょうといった、受け身の態度から、みずから問題点を見つけ、時には一部の学生ではあるが、授 業中に問いを進んで投げかけるというような、主体的な学習態度へと変わって来たことである。
学生からの素朴な質問に私が答えられないこともいく度があったが、そこまで、ようやくながら 授業が発展するようになったのは、うれしいことである。次に、後期になってから、前期の授業 で学生から投げかけられた質問をもとに行なった授業の一部を紹介してみる。
2.考える文法の授業例
「あらず」とrなし」は古典ですから、むつかしいので、<板書、あらへん ない〉この違い
はどうやろ。これは、関西出身のかた、関西に住んでおられるかたは、ふだん使っとることばや
から、出てくると思うんやけど、教室1こ来ると頭が切り変わってしまって、rどう違うんかなあ」
言われると、わからないいうことがありますね。
どう違うんでしょうか、「あらへん」と「ない」は。
言葉で説明するとむつかしくなる。関西弁を知らないかた、東京や九州から来て関西弁を知ら ないかたには、実際の物とか事で示すのがてっとりばやい。
どうして説明したらいいかな……これを利用しましょうか。(教卓の上の辞書を取り上げて)
ここに、辞書がある。これが「ある」ですね。<板書〉「ある」という動詞、 rある」ですね。
ちょっと二一チエさん、あずかっといてくれますか。
で、ま、僕が外から、この教室に入って来たとしますね。(笑い)
辞書がないんで、さがすとしますね。
ここら見ていくと……あらへん。(笑い)
ここもあらへん。 (笑い)
やっぱりあらへん。……で、ない!となるわけです。 (大笑い)
「ない」やね。 (笑い)
さがしまわって……あった。あった。……「ある」やなくて「あった。」
「あらへん」と「ない」の違い、わかりました?僕い)
ふだん使っているのやけど、<板書〉「あらへん」のさす意味と、<板書〉「ない」のさす意 味と<板書、 あらへん 、と ない 、をマルで囲み、重なる部分に斜線〉重なっている部分がず
いぶん大きいんで、区別がつきにくいんですね。
我々はみな、二重言語で話しておりますので・・・…二重いうかな、家へ帰ってしゃべるときには 方言でしゃべる。標準語でしゃべったら、気持わるがられますね。ところが、物を書くときには、
標準語で書いとるわけですね。それから、教室へ来てしゃべっとる場合には、気持わるいと思い ながらも、標準語、もどき(笑い)、と言いますか、そういう言葉でしゃべっている。そこで方 言の意味と言われても、急に聞かれても出てこない。
標準語だと、どうなるのか。標準語だと、これが、「あらへん」がどうなっとるんか……「あ らへん」は使わないですね。標準語でやったらどうなるのか、もう一ぺん見てみましょう。関西 弁とどう違うか、最初から見てみましょう。
ここに辞書がある。
rある」かな?(rある」のアクセントを、標準語アクセントに直す)
標準語だと「ある」ですね。
「ある」から始まりますが、ええと、さがすとすると、(笑い)
まあ、こうやって来て、ここにないとなると、さがすとすると、
・ない。 (笑い)
ここにもない。 (笑い)
ない。 (笑い)
それから、本を出してもらいまして、 「あった」ということになります。標準語だと、そうい
うことになります。
関西弁の場合と、<板書〉標準語の場合と、違うわけなんですが、どこが違うんか、 rあらへ ん」とrない」では、どこが違うんかな。……どう恩います。……教室へ来ると、標準語で考え るくせがついているので、ちょっとわかりにくい、……と思うんですが、文法的意味ですね、ど んなふうにちごたやろ。
・だいたい、もやもやとわかるんですが、それを言葉に出すとなると、非常にむつかしくな ってくるな。ええと……論文となると、こういうのはちゃんと説明つかんとあかんのですが、ナ ルワさん(4回生)、どうですか、直観で……
(ナルワーええと、rあらへん」というのはrあるだろう」と思っているけれども、自分は あると思っているけれども、ないときに、「あらへん」であって、「ない」というのは、半分あ きらめというか、そんな感じでrない」と思っている方が強いときに、「ない」というんだと思 います。)
ええと、可能性の問題がな。rあらへん」と言うとるうちは、あるかな、どうかな、という気 があるというわけですね。 「ない」となると、これは、ええと、どうでした、あきらめの方が出 てくるということですか。ええと、 「あらへん」の間は、あるんかな、どうかな、ということを たしかめていって、rあらへん」ということになる。「ない」という場合には、そういう、ある かどうかという問題から、一歩しりぞいた、いうような感じですかね。そういったことが言える と思うんですが。……詩人的な直観でとらえると、そういったことが分析されて来ると思います
ね。
あの、先週、動詞と形容詞の違い言うたように、形容詞は静的で、動詞の場合は動的だという ようなことが、一つ言えるんですが、同じ現象をとらえるにも、いろんな見方ができまして、論 文を書くような場合には、どう解釈するかによって、同じ事実からいろんな論を立てることがで きるわけですね。
で、普通、動詞の場合<板書>こんなことも言われています。 rある」「あらへん」「あった」
みな動詞関係ですが、動詞いうのは<板書しながら〉客観的、具体的、個別的・・一これは言われ ていること、というより、僕が考えたこともまざっているのですが、いま、ナルワさんが言うて
くれたように「あらへん」いう場合には、ちゃんと物が具体的に存在する、そういうことが前提 になって、それを打消したのが、「あらへん」ですね。
形容詞の場合は反対でして<板書しながら〉主観的というのか、主情的というのか、抽象的、
一般的・…・・こんなふうに対比させたら、ちょっと強引に対比させたみたいな感じですけど、この 二つ、形容詞と動詞の違いが出てくるんじゃないかなあと患います。 「あらへん」いうのは、実 際1ここの机の中に物があるかな、あの机の中に物があるかなと、具体的にさがしていって、それ を打消した場合に起こるのが、rあらへん」ですね。「ない」の場合は、ただ一般的に存在する か存在しないかって、存在しない方をさしておりまして、こちらの方が全体的というか、一般的 な感じがしますね。
こういうことは言いやすいんですが、そしたらなんで、関東人は、標準語は、「ない」があっ
てrあらへん」がないのか、というと、社会言語的というか、言語生活的というか、あるいは思
想的に、関東人と関西人の違いというのが問題になってきますね。ま、関東人は観念的で、関西 人は具体的だというようなことが言われているのと、関係があるかも知れません。
ただ、ていねいの言い方<板書をしながら〉敬語を使うと、「ある」の打消は「ない」ですが、
「ある」をていねいにすると、なんですか。ええと、カラサワさん(1回生)。(カラサワー あります。)「あります」ですね。<板書〉……の打消しは。(カラサワーありません。)<板 書〉ついでですから、もっとていねいに言って、「ございます」の打消しは何ですか。(カラサ
ワーございません。)<板書〉
この打消しの場合は、関西弁でも関東弁でも「ないです」とは言わないですね。どういうわけ か、「ないです」とか「ないでございます」という言いかたをしないで、動詞をそのまま打消す
ということになっております。これもなんでですかねえ。面白い問題なんですが、一般的な文の 中ではrある」とrない」が対比してんのに、対話の中では、rあります」の打消しがrありま せん」になるというのは面白いことですが、ま、問題をひろげて行げば、「あらず」と「なし」
の違いだけでも、こういういろんなことが出てくるわけです。
で、小学校課程のかたは、小学校で教えんならんことに、打消しと<板書〉、反対語<板書〉
の違いいうのがありますね。これは文法的にも、語彙論からも教えんならんことやと思うんです が、打消しと反対語ではどう違うんかなあ。
ええと、具体的に、形容詞、一つ出してもらいましょうか。イクマさん(二回生)。(一イクマ ーはい。)形容詞の例を一つ出して下さい。 (イクマー悲しい)この打消しは(一悲しく ない)悲しくない<板書〉、反対語は(一うれしい)、うれしい<板書〉。で、この打消しと 反対語はどう違うのか。僕に説明せえ言われても、うまいことよう説明せんのですけれども、小 学校なんかで、こういうこと教えんならんですねえ。小学生というのは、「悲しい」の反対語は
「悲しくない」と言いましたり、「遠い」の反対語聞いたら、 r遠くない」という打消しを持っ てきたりする。
「ある」の反対語が「ない」で、「ある」の打消しが「あらず」ですね。そういう、打消しと 反対語はどう違うのか、これはどう思います。小学校の先生は、えらいもんだと思うんですが、
こういうことはを小学生にもわかるようにちゃんと説明してのけるという偉さですね。僕なんか、
なかなか、皆さんにもよう説明せんのですが、もし小学生に説明するとしたら、どう説明します
か。
一以上、長々と引用して恐縮であるが、今年度(昭和56年)の10月に、口語文法の時間に、
「国語教育のための考える文法」という題のもとに行なった授業の一部分である。前期の授業中 に、学生に自由に質問をさせたところ、いくつか答えに窮するような問題がでた。その一つに、
「あらず」と「なし」はどう違うのか、というのがあって、後期のはじめにそれを取り上げたも のである。
上記の授業の補足をすると、私は「ない」の丁寧は「ありません」で、「ないです」とは言わ
ない、と話しているが、甲南大学の大学院生である柳沢勤君とこの問題について話し合ったとこ
ろ、彼は「ないです」という言い方もするとのこと。「形容詞十です」の形については授業中に
4回生のS・Iから疑問が出され、彼自身がレポートにまとめている。 「赤いのです」 r赤いで すよ」はよいが、彼自身の言語感覚からすると、r赤いです」には違和感を感じてしまう。それ は、r赤いだ」という言い方の不自然さから来るのであろうといった結論である。この「赤いで す」という言い方は、もとは間違いとされていたのが、今は文部省にも認められ、一般にも使わ れているが、まだ個人によっては、使わなかったり、違和感が残っていたり、いわゆる「ことば のゆれ」の名残を持つ言い方だと言えよう。ことばのゆれについては、「起きれる」「食べれる」
という言い方を認めるかどうかも前期に課題となり、レポートでは三人が容認するとの意見を、
一一