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国語教育のための考える文法 ― 「ある」「ない」 をめぐって ―

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

国語教育のための考える文法 ― 「ある」「ない」

をめぐって ―

著者 小谷 博泰

雑誌名 奈良教育大学教育研究所紀要

巻 18

ページ 1‑10

発行年 1982‑03‑23

その他のタイトル Grammar by Thinking for the Education of the Japanese Language ―Concerning the usage of 'aru' 'nai'

URL http://hdl.handle.net/10105/6518

(2)

国語教育のための考える文法}

 一「ある」 「ない」をめぐって一

小谷博泰舳

 (国語学教室)

     I 口語文法の種実のむつかしさ

 文法、特に日本語の口語文法は、一般的1こ言って、国語の授業の中でのきらわれものとなりが ちのようである。多くの生徒にとってもそうであるが、なによりもまず、良心的な多くの国語教 師にとってそうなのである。

 日本語の口語文法の授業がきらわれるのは、いくつもの理由があろうが、その一つとして、文 法学習用の教材として使われる文例が、つまらないということが考えられる。文法教育用にあっ

らえたような、無難なだけの、生きの悪い文章を見かける。少し生き生きとした文章を使うと、

学校文法では説明のつかないことが、いくつもいくつも出て来て、お手あげになったりする。そ ういう生きた文を分析できてこそ、役にたつ文法と言えるのだが、学校文法、特に口語文法は、

学校文法用にあつらえた標本のような文例しか、うまく分析できないという傾向がある。かの、

谷崎潤一郎ωが・日本の文法の大部分は西洋の模倣であり・習っても実際には役に立たないもの か、習わずとも自然に覚えられるものか、どちらかであると指摘した時代から50年近くたっては いるが、文法は、少なくとも学校文法は、来たに何ほども進歩していないよう1こ思われる。

 また、国語教師の学校文法に対する不信感も強い。これも、文法がきらわれる大きな原因であ ろ㌔大学の教職課程における国語科教育法の教科書でたとえば原田章之進一2〕は・r現状では日 本語の文法論的知識はまだ、全国の小学校で統一して教えられるほどに、確立され定説化された ものがない」 r私は今日の文法理論に不信の感を持つ。」と書かれている。一般の研究誌において は・口語文法に対する不信感を・もっとはっきり述べている場合がある。たとえば上村幸雄{3)は、

r東大の橋本進吉のあやまりのおおい学説」が、その弟子によって戦後の教科書にもちこまれ、

rその結果、ほとんどの人が文法というものの実用性に対して徹底した不信の念をもつにいたっ た。」とされる。そして「その結果、検定教科書から文法はほとんどすがたをけしてしまった。」

と述べておられる。このように、学校文法の不完全さから、心ある国語教師は、不信感をいだき ながら文法教育を行なわざるを樗ない実状にある。その結果、文法の授業と言えば、ある種の疑 いを知らぬ教師たちが、暗記力にたけた一部の生徒だけを相手に、知識注入主義による頭の調教 を行なう時間と化してしまった、と言えば言いすぎであろうか。

} Grammar by Think㎞g for the Education of the Japanese Language   −Concerning the usage of am  nai

舳Hiroyasu Kotani(Department of Japanese Language,Nara University of

   Education,Nara)

(3)

 しかも、従来なら、昭和26年の小学校学習指導要領国語科編(試案)で、r文法を体系や知識 として孤立させて学習させるべきではない」とされたことなどをもとに、口語文法の体系学習を 敬遠することも許されたが、現行の指導要領では、〔言語事項〕という項目が設けられ、文法指 導も避けて通ることはできなくなってきている。特に中学校では、学習指導要領作成協力者であ る山本槍{4〕も・「文法的な事項を主とする指導」の説明に・「語句に関する指導では・他の文章 や文に関しての指導と違って、いつも表現や理解の活動の中で扱いにくく、自然と取り立て指導 に傾斜が多くかけられてくる。それだけにまとまった知識として体系的に指導することになる。」

とされている。少なくとも中学校では、口語文法を体系的1こ教えねばならない状態にあると言え よう。にもかかわらず、文法学習の必要牲が、文法学習の可能性に結びつかないところに、国語 教師の悩みがあるのではなかろうか。昭和51年1月の日教組の教育研究全国集会の国語教育分科 会の報告15〕にも・ある中学から・文法を教えて生徒を文法嫌いにさせたという反省があったこと・

楽しい文法の授業ができないと悩んでいる教師、文法の重要性に気づいていても、指導にふみき れないでいる教師が多数いるらしい一ことが述べられている。

 さて、私もこれまでに口語文法を7年間近く教えて来た。始めはある中学校で、2年生を対象 に、非常勤講師として、口語文法を4クラス毎週2時間ずつ、1年間に渡って担当したのだが、

全くの失敗に終った。次にある女子短期大学で1年間、その夜間部で1年間教えたが、中学校で の経験があったためか、心配したよりはうまくいったように思う。やはり、非常勤であった。

 次に、奈良教育大学で口語文法を担当するようになって、今年で4年目である。当校での最初 のI年間は、優秀な学生だと聞いていたこともあって欲ばりすぎたのか、一部の学生を除く多く の学生から不評をかったようだ。あとで、この科目を選んで後悔したと言った学生もいた。2年 目でも、中学校で習うように、テキストを使っててきぱき解答を教えこむ授業を望む声もあった。

てごたえが感じられるようになったのは、3年目の凌半くらいからであろうか。4年目の今年は、

ようやく授業のしかたが見えてきたという気がしているが、それでも、たとえば今年度の後期の 前半、近代文学研究の講義を担当してみて、文学の授業に比べて文法の授業のやりにくさよと、

思わず歎息している次第だ。

 それはともかく、今年度の授業で試みたことを手がかりに、文法教育について考えてみたいと 思う。本年度前期の学生のレポートに、「(中学生に)文法を教えるうえで、大切なことは、い かにして興味をもたせるか、また、文法はむずかしくないと思わせるかである(1回生H・T)」

とあったのは、もっともなことだが、文法はむずかしくないとは、教える私自身も言えない。私 の授業は、国語教師の卵として、まず口語文法のむずかしさを知ることから始まるようなものだ が、しかし彼らが中学校の教壇に立ったときには、中学生に口語文法はrむずかしくない」と思 わせ、口語文法をはっきりと「わからせる」ことが必要であろう。 「興味をもたせる」ことは、

口語文法の授業を受けている学生たちにも必要なことである。

 そこで、今年度は最初の日に、導入のために学生たちに宿題を与えてみた。それは、中学校で 動詞の活用を教えるための文例を、各自が自分自身で見つけてくるという課題である。いわば、

将来彼等が国語教師になったときの、教材作成のための練習を行なったものである。その結果、

(4)

彼らは小説、童話、評論、新聞、漫画など、実に様々な資料から文例を集めてきた。

 rごめんよ、泣かないで(r青い鳥』メーテルリンク・今西祐行訳)。かたくかたくだきあっ たまま、こえをあげて泣きました(rあんじゅとずし王』野長瀬正夫)。やだ〃泣くつもりなん てないのに……(rキャンディ恋歌』緒形もり)。泣けぱゆるしてもらえると思っているのか

(r七瀬ふたたび』筒井康隆)。」これは、1回生M・Sの作成したカードで、一部を省■多した。

こうして一人一枚ずつ書いて来させたカードを集めて、そのままプリント1こして配り、さらにそ のプリントをもとに、動詞の活用に関する中学生用の問題を作らせた。そして、その問題の中か

らいくつか選んでプリントし、それを使って全員にテストをした。

 こうした作業を行なったことの効果は、はっきりとはわからない。色々と資料をあさって、い っしょうけんめい文例を集めた者にとっては、効果はあり、将来のための勉強ともなったと思う が、中にはただめんどくさいと思っただけの学生もいたかも知れない。国語学は、実際に自分で めんどうな作業をしてみないと、興味がわかないものであり、そのための手始めとして課した作 業であったが、あるいはもっと良い方法があるかも知れない。

 さて、文法に限らず、国語学の学習のための動機づけとして考えられることの一つが、具体的 に資料をあつかうことだとすれば、次に考えられることは、それを分析し、整理し、あるいは総 合し、体系化することであろう。ことばの法則の裏付けとなる理論を探求することである。もっ とも、文法体系を求めることは、急にはできるものではない。「文法に関する論というものは、

たとえ部分的な細い点について論ずるとしても、それはその人その人の体系を背後において展開 しなければならない」とは本位田重美16〕のことばであり・文法教育にたずさわる多くの者がいだ く思いでもあろう。学校で、文法教育を行なうためには、教師がそれぞれに、自分の文法体系を 確立しておく必要があ乱しかし、それはおいそれとできることではない。だが、せめて、こと ばや文に関する、様々の事がらについて、自分で問題点を見つけ、それなりに分析するだけの能 力は養っておかねばなるまい。

 さきほど、口語文法の授業において、最近、てごたえが感じられるようになったと述べたが、

てごたえとは第一に、学生がみずから質問を発するようになったことである。文法というと、暗 記科目と考え、運転免許のために交通法規を覚えるような意識で、ただ機械的に解答を丸暗記し ょうといった、受け身の態度から、みずから問題点を見つけ、時には一部の学生ではあるが、授 業中に問いを進んで投げかけるというような、主体的な学習態度へと変わって来たことである。

学生からの素朴な質問に私が答えられないこともいく度があったが、そこまで、ようやくながら 授業が発展するようになったのは、うれしいことである。次に、後期になってから、前期の授業 で学生から投げかけられた質問をもとに行なった授業の一部を紹介してみる。

     2.考える文法の授業例

 「あらず」とrなし」は古典ですから、むつかしいので、<板書、あらへん ない〉この違い

はどうやろ。これは、関西出身のかた、関西に住んでおられるかたは、ふだん使っとることばや

から、出てくると思うんやけど、教室1こ来ると頭が切り変わってしまって、rどう違うんかなあ」

(5)

言われると、わからないいうことがありますね。

 どう違うんでしょうか、「あらへん」と「ない」は。

 言葉で説明するとむつかしくなる。関西弁を知らないかた、東京や九州から来て関西弁を知ら ないかたには、実際の物とか事で示すのがてっとりばやい。

 どうして説明したらいいかな……これを利用しましょうか。(教卓の上の辞書を取り上げて)

ここに、辞書がある。これが「ある」ですね。<板書〉「ある」という動詞、 rある」ですね。

ちょっと二一チエさん、あずかっといてくれますか。

 で、ま、僕が外から、この教室に入って来たとしますね。(笑い)

 辞書がないんで、さがすとしますね。

 ここら見ていくと……あらへん。(笑い)

 ここもあらへん。 (笑い)

 やっぱりあらへん。……で、ない!となるわけです。 (大笑い)

 「ない」やね。 (笑い)

 さがしまわって……あった。あった。……「ある」やなくて「あった。」

 「あらへん」と「ない」の違い、わかりました?僕い)

 ふだん使っているのやけど、<板書〉「あらへん」のさす意味と、<板書〉「ない」のさす意 味と<板書、 あらへん 、と ない 、をマルで囲み、重なる部分に斜線〉重なっている部分がず

いぶん大きいんで、区別がつきにくいんですね。

 我々はみな、二重言語で話しておりますので・・・…二重いうかな、家へ帰ってしゃべるときには 方言でしゃべる。標準語でしゃべったら、気持わるがられますね。ところが、物を書くときには、

標準語で書いとるわけですね。それから、教室へ来てしゃべっとる場合には、気持わるいと思い ながらも、標準語、もどき(笑い)、と言いますか、そういう言葉でしゃべっている。そこで方 言の意味と言われても、急に聞かれても出てこない。

 標準語だと、どうなるのか。標準語だと、これが、「あらへん」がどうなっとるんか……「あ らへん」は使わないですね。標準語でやったらどうなるのか、もう一ぺん見てみましょう。関西 弁とどう違うか、最初から見てみましょう。

 ここに辞書がある。

  rある」かな?(rある」のアクセントを、標準語アクセントに直す)

 標準語だと「ある」ですね。

  「ある」から始まりますが、ええと、さがすとすると、(笑い)

 まあ、こうやって来て、ここにないとなると、さがすとすると、

   ・ない。 (笑い)

 ここにもない。 (笑い)

 ない。 (笑い)

 それから、本を出してもらいまして、 「あった」ということになります。標準語だと、そうい

うことになります。

(6)

 関西弁の場合と、<板書〉標準語の場合と、違うわけなんですが、どこが違うんか、 rあらへ ん」とrない」では、どこが違うんかな。……どう恩います。……教室へ来ると、標準語で考え るくせがついているので、ちょっとわかりにくい、……と思うんですが、文法的意味ですね、ど んなふうにちごたやろ。

  ・だいたい、もやもやとわかるんですが、それを言葉に出すとなると、非常にむつかしくな ってくるな。ええと……論文となると、こういうのはちゃんと説明つかんとあかんのですが、ナ ルワさん(4回生)、どうですか、直観で……

 (ナルワーええと、rあらへん」というのはrあるだろう」と思っているけれども、自分は あると思っているけれども、ないときに、「あらへん」であって、「ない」というのは、半分あ きらめというか、そんな感じでrない」と思っている方が強いときに、「ない」というんだと思 います。)

 ええと、可能性の問題がな。rあらへん」と言うとるうちは、あるかな、どうかな、という気 があるというわけですね。 「ない」となると、これは、ええと、どうでした、あきらめの方が出 てくるということですか。ええと、 「あらへん」の間は、あるんかな、どうかな、ということを たしかめていって、rあらへん」ということになる。「ない」という場合には、そういう、ある かどうかという問題から、一歩しりぞいた、いうような感じですかね。そういったことが言える と思うんですが。……詩人的な直観でとらえると、そういったことが分析されて来ると思います

ね。

 あの、先週、動詞と形容詞の違い言うたように、形容詞は静的で、動詞の場合は動的だという ようなことが、一つ言えるんですが、同じ現象をとらえるにも、いろんな見方ができまして、論 文を書くような場合には、どう解釈するかによって、同じ事実からいろんな論を立てることがで きるわけですね。

 で、普通、動詞の場合<板書>こんなことも言われています。 rある」「あらへん」「あった」

みな動詞関係ですが、動詞いうのは<板書しながら〉客観的、具体的、個別的・・一これは言われ ていること、というより、僕が考えたこともまざっているのですが、いま、ナルワさんが言うて

くれたように「あらへん」いう場合には、ちゃんと物が具体的に存在する、そういうことが前提 になって、それを打消したのが、「あらへん」ですね。

 形容詞の場合は反対でして<板書しながら〉主観的というのか、主情的というのか、抽象的、

一般的・…・・こんなふうに対比させたら、ちょっと強引に対比させたみたいな感じですけど、この 二つ、形容詞と動詞の違いが出てくるんじゃないかなあと患います。 「あらへん」いうのは、実 際1ここの机の中に物があるかな、あの机の中に物があるかなと、具体的にさがしていって、それ を打消した場合に起こるのが、rあらへん」ですね。「ない」の場合は、ただ一般的に存在する か存在しないかって、存在しない方をさしておりまして、こちらの方が全体的というか、一般的 な感じがしますね。

 こういうことは言いやすいんですが、そしたらなんで、関東人は、標準語は、「ない」があっ

てrあらへん」がないのか、というと、社会言語的というか、言語生活的というか、あるいは思

(7)

想的に、関東人と関西人の違いというのが問題になってきますね。ま、関東人は観念的で、関西 人は具体的だというようなことが言われているのと、関係があるかも知れません。

 ただ、ていねいの言い方<板書をしながら〉敬語を使うと、「ある」の打消は「ない」ですが、

「ある」をていねいにすると、なんですか。ええと、カラサワさん(1回生)。(カラサワー あります。)「あります」ですね。<板書〉……の打消しは。(カラサワーありません。)<板 書〉ついでですから、もっとていねいに言って、「ございます」の打消しは何ですか。(カラサ

ワーございません。)<板書〉

 この打消しの場合は、関西弁でも関東弁でも「ないです」とは言わないですね。どういうわけ か、「ないです」とか「ないでございます」という言いかたをしないで、動詞をそのまま打消す

ということになっております。これもなんでですかねえ。面白い問題なんですが、一般的な文の 中ではrある」とrない」が対比してんのに、対話の中では、rあります」の打消しがrありま せん」になるというのは面白いことですが、ま、問題をひろげて行げば、「あらず」と「なし」

の違いだけでも、こういういろんなことが出てくるわけです。

 で、小学校課程のかたは、小学校で教えんならんことに、打消しと<板書〉、反対語<板書〉

の違いいうのがありますね。これは文法的にも、語彙論からも教えんならんことやと思うんです が、打消しと反対語ではどう違うんかなあ。

 ええと、具体的に、形容詞、一つ出してもらいましょうか。イクマさん(二回生)。(一イクマ ーはい。)形容詞の例を一つ出して下さい。 (イクマー悲しい)この打消しは(一悲しく ない)悲しくない<板書〉、反対語は(一うれしい)、うれしい<板書〉。で、この打消しと 反対語はどう違うのか。僕に説明せえ言われても、うまいことよう説明せんのですけれども、小 学校なんかで、こういうこと教えんならんですねえ。小学生というのは、「悲しい」の反対語は

「悲しくない」と言いましたり、「遠い」の反対語聞いたら、 r遠くない」という打消しを持っ てきたりする。

 「ある」の反対語が「ない」で、「ある」の打消しが「あらず」ですね。そういう、打消しと 反対語はどう違うのか、これはどう思います。小学校の先生は、えらいもんだと思うんですが、

こういうことはを小学生にもわかるようにちゃんと説明してのけるという偉さですね。僕なんか、

なかなか、皆さんにもよう説明せんのですが、もし小学生に説明するとしたら、どう説明します

か。

 一以上、長々と引用して恐縮であるが、今年度(昭和56年)の10月に、口語文法の時間に、

 「国語教育のための考える文法」という題のもとに行なった授業の一部分である。前期の授業中 に、学生に自由に質問をさせたところ、いくつか答えに窮するような問題がでた。その一つに、

 「あらず」と「なし」はどう違うのか、というのがあって、後期のはじめにそれを取り上げたも のである。

 上記の授業の補足をすると、私は「ない」の丁寧は「ありません」で、「ないです」とは言わ

ない、と話しているが、甲南大学の大学院生である柳沢勤君とこの問題について話し合ったとこ

ろ、彼は「ないです」という言い方もするとのこと。「形容詞十です」の形については授業中に

(8)

4回生のS・Iから疑問が出され、彼自身がレポートにまとめている。 「赤いのです」 r赤いで すよ」はよいが、彼自身の言語感覚からすると、r赤いです」には違和感を感じてしまう。それ は、r赤いだ」という言い方の不自然さから来るのであろうといった結論である。この「赤いで す」という言い方は、もとは間違いとされていたのが、今は文部省にも認められ、一般にも使わ れているが、まだ個人によっては、使わなかったり、違和感が残っていたり、いわゆる「ことば のゆれ」の名残を持つ言い方だと言えよう。ことばのゆれについては、「起きれる」「食べれる」

という言い方を認めるかどうかも前期に課題となり、レポートでは三人が容認するとの意見を、

一一

lが容認しない側に立つ意見を述べていた。これらは、ディスカッション形式の授業をするの にちょうどよい課題なのだが、まだ、その機会がないままに終っている。

 「思いません」 「思いませんです」「思わないです」 「思いませんでした」 「思わなかったで す」など、どの言い方が使われるか、あるいは使われないか、言葉のゆれに関する問題として、

気になるところで、rないです」についても改めて調べてみる必要があろう。

 また、授業の引用部分の終りに疑問を投げかけている形容詞の反対語については、小学校2年 生のr言語事項」の教材17jにrはんたいのことば」というのが出てい乱そこでは・たとえばr新 しい」の反対語として「古い」を答えさせる。その際、助動詞のrない」をつけた形は、反対の 意味にならないから、言わない理由を教える、といった指導が行なわれるようになっている。

     3. 「ある」 「ない」に関するレポートをもとに

 この授業のきっかけとなった、古典のrあらず」と「なし」の違いについては、この問題の提 出者でもある2回生の二.人の学生が、l1月に授業ですばらしい報告を行なったが、それを後期の

レポートとして、まとめてもらうことになっている。そのうちに彼女たちに公表してもらいたい と思っている。国語学という学問ジャンルは、学部の学生でも学会で発表するだけの研究をする 可能性のあるジャンルで、現にそうした論文が、学界の通説として公認されている例もいくつか ある。言語学という学問の、おもしろいところでもあり、こわいところでもある。

 さて、前期に自由課題として、学生にレポートを課したところ、思わぬ成果があり、いくつも の創造的な調べや考えが見られたが、その中で「ある」「ない」に関するものを紹介しておく。

これらは、先に引用した私の授業のために、何ほどかの参考になったレポートである。

  たとえば、「きのう欠席者があったか。」という間いに対して、肯定の答えとしては「あっ   た」と必ず過去形で答え、「ある」とは言わない。それに対して否定の答えではrなかった」

  と過去形で言うこともできるし、「ない」とも言える。これは、動詞と形容詞との認識のし   かたによるものである。同じ存在を表わす語ながら、「ある」は時間中における変化である   から、動詞として表現されるのである。またrない」ということの変化は無でなくなること、

  すなわち「ある」に変化すること以外にありえないから、時間的経過をこえ、静止的で変化   しないものととらえて表わす形容詞のかたちをとったものだといえる。 (2回生K・T)

これは、文法書で勉強した上で、「ある」「ない」の違いについて記述したもののようで、r続

日本文法講座』のr文法各論編・動詞」(金田一春彦)によったとのことである。

(9)

「ない」と言った方が、「あらぬ」と言うより、ストレートな感じがして分りやすかったの かも知れない。たとえば「好きではない」という言葉と、「嫌い」というのは同じ意味を表 すだろうか。「好き」の反対は確かに「嫌い」であるが、「好きではない」と言うと、r嫌

い」よりはやわらかくなるような気がする。そして、より幅のある意味が生れると思う。

図のように、両極にr好き」と「嫌い」を置くと、その問がr嫌い」に向って、ずっと、r好 きではない」の領域になる。これと同じことが、「あらぬ」と「ない」にも言えるのかも知 れない。

好  →    嫌   好きではない

き     →  い

  つまり、図のように、rあらぬ」というのは、rある」からrない」に向っての領域だ。し   かしrある」とかrない」とかは存在を表すものである。ゆえに、「あらぬ」である領域は、

  はなはだ分りにくいことにな乱それで「あらぬ」が消えていったのではなかろうか。

      (1回生J・K)

このレポートは、引用部分の前に、まず、「あらぬ」の残存例として、rあらぬ思い」rあらぬ 所」などの例をあげた上で、論じたものである。養護課程の学生が書いたものであるが、自由に

自分で考えて、独創的に考えだしたようであ孔

 ところで、上のレポートを私なりに補って、r近い」と「遠い」を例に、同じように図示する と、次のa図のようになる九このr近い」とr遠い」の聞には、r近くもなく遠くもない」と いう領域が存在する。しかし、rある」と「ない」では、その中間の「あるでもなく、ないでも ない」という部分は、b図のように現実には存在しない。しかし、心理的には、認識の問題とし て、C図のように中間部分が存在するかも知れない。なお、「あらぬうわさ」 rあらぬ疑い」な どと使われるrあらぬ」は、 rあるべきではない」rよくない」などの意味に転化してしまって いるので、ここでは使わなかった。

近近くはない遠

い遠くはない い ・}・に

 このようなことから考えると、あるいは物ごとをストレートに表現したがる関東人と、娩出に 表現したがる関西人との気質の違いが、関西弁のrあらへん」という言い方にかかわっているか

も知れない。関西では、一般的には、rあらん(あらぬ)」という形は使われず、しいて使うと すれば「ない」が代用される。 「おらん」の腕曲表現が「おらへん」であるように、 「ない」の 腕曲表現に当たるのがrあらへん」となる。もっとも、 rおらん」 r咲かん」r降らん」といっ た言い方は、ぞんざいな感じがし、rおらへん」r咲かへん」「降らへん」(地域によっては、

「おれへん」 「咲けへん」 「降れへん」等の言い方をする)が、普通の言い方となっている。た

だし、自分の能力による不可能を表わす場合は、「よう行かん」「よう泳がん」となる。状況に

(10)

よる不可能を表わす場合は、r行かれへん」r泳がれへん」とrへん」を使うのが普通で、この

「へん」は、すでに腕曲態というより、一般態(普通表現)となっているように思われる。また、

関西地域語における「ない」は、一面では標準語意識をともなって使われることもあろう。ここ では、rあらへん」rない」の分析そのものを目的とはしていないので、授業で述べたこと以外 にも色々な要素が考えられることを提示して、後日の課題としたい。

 また、反対語について、図aのような図示のしかたは、「高い一低い」「よい一悪い」「す ぐれている一劣っている」のような場合には有効であるが、対応しあう語がたくさんある場合

「白い_黒い一赤い……」、また、形容詞でも自己の感情を表わす語r悲しい、さびしい、

楽しい、うれしい」は対応関係が複雑になってうまく行かない。また、r広める一狭める」と いった、単なる動詞どうしの場合、その打消しは行為の停止を示すことになって、やはりa図の ようには表わせない。

 上記の学生は、 r文法はあまり好きではない。上に書いたことも勝手に考えているから、正し く考えているかどうか、自信がない。ゴチャゴチャと、いろいろ考えていると、おもしろ味が全 くないわけではないのだと思えるようになった。」とレポートの終りに反省を加えているが、な かなか創造的な考察だと思う。

 授業に対する感想をレポートに付記した者は、ほかにも何人かいたが、次の例は「ある」rな い」にも触れているので、代表的なものとして紹介しておく。

  口語文法という授業の登録をしたときは、まあ文法だったら、中学高校でもかなり勉強して   ぎだし、そんなに難しくないんじゃないかなあと思っていた。しかし、それは大きな間違い   だったようだ。文法は、本を暗記すればよいというものでないことが、よくわかった。教科   書の上では解決できない問題がたくさんあるようだ。たとえば、以前は、存在の動詞rある」

  の否定形が、形容詞「ない」であることに対して、疑問なんてもっていなかった。それが、

  大学の授業で、 rなぜか」と聞かれると、どうしてもわからなかった。このようなことが他   にもいっぱいあった。       (1回生M・N)

 以上、rある」 rない」を課題とする授業をもとに、文法教育の目的や方法について考察しよ うとした。動詞rある」の反対語は形容詞rない」である。 rある」の打消しもrない」である。

よく知られている、わかり切ったことではあるが、いざrなぜか」と問われると、答えようがな い。自然現象とは違って、人間の営みによる諸々の現象を説明する答えは、一つとは限らない。

いくとおりもの解釈ができ、しかもはっきりとは答えられないのが、人間の営みがもたらす諸々 の現象だとも言えよう。そうした、はっきりとしないものを、なおかつ追求し、一つずつ答えて 行こうとする姿勢は、どの分野であっても、創造性につながる大切なものであろう。そうした創 造的探求心の育成は、今の受験体制下の教育においては、最も欠けているものではある。

 さて、生徒には、暗記力にすぐれた者もあれば、推理カに、あるいは分析力に、あるいは直観

カにすぐれた者もある。感受性の豊かな者もあれば、行動することによって学んで行くといった

タイプもあろう。文法教育は、生徒の様々な個性に応じた、多様な反応を引きだすものでありた

いと思うが、そのような教育方法の研究は、口語文法に関してはほとんどなされていない。前述

(11)

したような、学校文法自体の遅れもあって、その教育法は国語教青の中でも、最も遅れている、

いや、ほとんど着手されていない部分と言えようか。注入主義に傾いた、教師がどう教え込むか ということのための参考書はわずかながらあっても、生徒がどう反応するか、生徒が何に動機づ けられ、何に疑問を持ち、文法的知識、文法的思考を何にどう生かすか、といった、教材研究の 土台になる生徒研究について、少なくとも体系的に論じたものは未だないのではなかろうか。そ

うした研究を呼び起こすための一石を、この稿によって投じることができれば幸いだと思う。

 私も、4年間の口語文法の授業を振り返ってみて、ようやく今、文法教育の出発点にたどりつ いたという気がする。この11月には、形容動詞を品詞として認めるかどうかという問題から、時 彼文法について、ほんの少しではあるが触れてみた。学校文法とは全く違う観点からも、文やこ とばの法則をとらえることができるのを知った彼らが、どんな反応を示すか、後期のレポートが 楽しみである。

      引  用  文  献 ω 谷崎潤一郎r文章読本』昭和9年

12〕原田章之進「文法 A小学校」(全国大学国語教育学会編r国語科教育学研究』昭和50年  4月)

13〕上村幸雄rわたしたちは日本語の文法をならいませんでした(1)」 (r言語生活』326  号昭和54年2月)

(41寺本直彦、瀬戸仁編『改訂中学校学習指導要領の展開(国語科編)』昭和52年8月 15〕 r日教組25次日高教22次 教育研究全国集会・国語分科会報告」(児童言語研究会編r国  語の授業』14号 昭和51年4月)

(61本位田重美『国語文法論への道』昭和50年12月

171野地潤家、瀬川栄志編『授業に生きる教材研究 小学校国語科2年』昭和56年9月

参照

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48 一

外国語・第二言語として日本語を 4 学ぶ必要がある。(7)のような学習者は

本稿はこの領土拡張あるいは植民地経営という事象を当時それにかかわった

とを反映しての、解説部分への記載であると考えられる。

 中国語では、“ 外国语 ” は音節数が多いだけに、大学名やその機関名に使

自分の考えをもち、考えを深められる生徒を育てる中学校国語科の学習指導