奈良教育大学学術リポジトリNEAR
教育学部の学生実験への遺伝子操作技術の導入につ いての研究
著者 須田 紘太, 芝本 繁明
雑誌名 奈良教育大学教育研究所紀要
巻 27
ページ 35‑43
発行年 1991‑03‑01
その他のタイトル Studies on the Introduction of Techniques of Genetic Manipulation to the Practices for Students of Faculty of Education
URL http://hdl.handle.net/10105/6756
教育学部の学生実験への
遺伝子操作技術の導入についての研究*
須 田 紘 太・芝 本 繁 明‥
(生物学教室)
要旨:日本全国の国立大学教育学部の生物学教室に遺伝子操作技術の学生実験 への導入に関して、アンケート調査を行った。結果は、現在既に導入している
ところは極めて少なく(38校中5校)、導入の必要性を感じているところもあ まり多くの数には達しないことを示した(38校中8校)。一方、現状からみて、
その導入の不必要性を述べる解答(38校中13校)、どちらともいえないとする 解答(38校中12校)がかなり存在した。
本学の生物学教室においては、1989年度に初めてPOレベルにおいてその基 礎的技術のマニュアル作成と学生実験への導入を図った。
この小論においては、アンケート調査の結果および本学で実施された学生実 験の概要について述べる。
キーワード:遺伝子操作、アンケート、学生実験
はじめに
遺伝子操作技術の基礎が開発1)されて以来すでに約20年の歳月が流れた。この間、この技術の もつ将来への光明と危険性とが論議されつつ2)・3)、この技術は世界の生物学研究の広範な分野に 適用され、普及してきている。日本においても、実験指針の法制化により、生物学の基礎的、応 用的研究に広く導入され、大学における教育学部を除く生物系学生のための遺伝子操作技術を含 む実験も年々増加の一歩をたどる傾向にある。一方、教育学部の生物系学生のための実験におい ては、種々の理由から、この基礎的技術すらほとんど導入されていないように思われた。
しかし一方では、商業紙誌、テレビ等の一般メディアにおいてさえも遺伝子操作を中心とした 生物工学について多くが語られている今日、学校教育の現場においても、この技術の基礎を理解 する教育者の存在の必要性を痛感するのである。遺伝子操作の基礎技術はその理論自体は極めて 単純である。したがって、その抽象的理解は新しい専門用語になじみさえすれば容易であると恩
Studies on theIntroduction of Techniques of Genetic Manipulation to the Practices
for Students of Faculty of Education
‥Kohta SUDA and ShigeakiSHIBAMOTO(Biological Laboratory,Nara University of
Education)
われる。問題は具体的理解である。これには、具体的にその基礎的技術を伴う実験を経験するこ とが最も近道であろう。
この小論において、我々は、遺伝子操作技術の学生実験への導入に関して、日本の国立大学教 育学部における現状と、本学の生物学教室において学生実験に導入された実験系の概要について 報告し、実情、展望、限界等について若干の論議をするつもりである。
教育学部の学生実験への遺伝子操作技術の導入についての調査 1.調査の目的
国立大学教育学部において遺伝子操作技術を学生実験として取り入れる必要性の有無、現在の 取り入れの状況、近い将来における取り入れの予定の有無、実験室・実験装置等の設備・条件等 の整備状況を調査した。
2.調査の内容
設問1∴遺伝子操作技術の現在の学生実験への導入状況。
設問2.その学生実験への導入の必要性の有無。
設問3.近い将来における導入予定の有無。
設問4.実験室、実験装置等の設備、条件等の整備状況。
3.調査の形式
アンケート調査。1989年11月1日郵送により1989年11月30日を投函締切として回収、集計した。
4.調査の対象者
全国の国立大学教育学部の生物学教室主任または分子生物学担当教官。
5.回収率
母集団53校(49大学、北海道教育大学については5分校)、回収数38、回収率71.7%。
6.設問の意義および集計・解析
回収された38校について、先ず各設問についての集計を行い、その結果を図1Aに帯グラフと して示した。
(1)設問1では、現在学生実験に遺伝子操作技術を取り入れているか否か、もし取り入れて いるならば、その内容はどのようなものかをたずねた(その内容については自由解答とし た)。
現在取り入れているという解答は、5校であり大多数(33校)が現在、末だ取り入れ ていない。現在学生実験に取り入れている場合、その内容は、枯草菌のDNA抽出およ び形質転換実験、プラスミドDNAによる形質転換、プラスミドDNAの調整・精製・
アガロースゲル電気泳動、DNAの制限酵素処理・アガロースゲル電気泳動、Åファー ジを使用したAgtll系での連結・パッケージ、DNAの定量、タンパク質の定量、酸素 活性の測定等が挙げられた。
(2)設問2では、学生実験へ遺伝子操作技術を導入する必要を感じるか否かをたずねた(設
問1において、現在導入していないと回答した場合にのみ回答)。
既 導 入 末 導入
5 校 3 3 校
13.2 ‡ 86 .8 %
不必 要 ど ち ら とも い え な い 必 要
1 3 校 1 2 校 8 校
39 .4 鴛 35.4 % 24 .2 %
予 定 有 未 定
2 校 6 校
25.0 % 75.0 %
困 難 可 能 性 有
1 校 7 校
12.5 % 87 .5 %
既 導 入 末 導 入
4 校 9 校
3 0 .8 % 6 9 .2 %
1. ..
▼ . . °
. . . t
不 必 要 ど ち ら と も い え な い 必 要
1 校 4 校 4 校
1 1 . 1 罵 44 . 4 %
日. .. ° ▼ ̄
44 .4 %
°°.............‥....‥.−.°t
予定有 未定
1 校 3 校
25.0 篤 75.0 %
可能性有 4 校 1∝l X
区= アンケート調査の結果
Aは回収された38校すべてについての集計結査を示し、Bは特別教科教員養成課程
(理科)および総合科学・基礎科学課程等で生物学・生命科学の課程をもっ教育学部13 校についての集計結果を示す。
必要性を感じるという回答は8校、必要性を感じないという回答は13校で前者をうわ まわるが、どちらともいえないという回答が12校も存在した。
(3)設問3では、現在学生実験へ遺伝子操作技術を導入していなくても近い将来導入する予 定を持っか否かをたずねた(設問2において必要性を感じると回答した場合にのみ回答、
導入の予定がある場合にはその内容を自由回答)。
導入予定があるという回答は2校、導入は未定という回答は6校であったが、導入予 定がないという回答は一つもなかった。
導入が予定されている内容には、植物生材料(葉、根端、茎頂、菌糸)からのDNA の抽出(Eppendorf centrifugeによるフェノール抽出)、制限酵素によるDNAの切断
(えDNA、抽出DNAの利用)、生材料DNAのRFLPのSouthern blottingとrDNA の分子交雑による碓認、その他DNAのcloningやsequencing等が挙げられた。
(4)設問4では、学生実験へ遺伝子操作技術を導入するため必要な装置、器具、設備等の条 件が整っているか否か、また整っていない場合、整えていくことが可能か否かをたずねた
(設問3において、導入の予定がある、または未定と回答した場合にのみ回答、ただし、
この調査では、設問3の回答はすべてこの範疇に属した)。
整っているという回答は一つもなかったが、困難という回答をよせた1校を除けば他 の7校はすべて可能性を有すると回答している。
遺伝子操作技術を学生実験に取り入れる必要性を感じない、または近い将来に取り入れる予 定がないとする理由には、主に、実験装置、器具、設備等の不備や時間的な問題、また、分子 生物学や遺伝学を専門とする教官がいないため充分な講義が行えないため実験だけ行っても充 分な教育効果が期待できない等が挙げられている。特に多かったのは、小学校・中学校教員養 成課程までしか持たない教育学部ではカリキュラムの問題等からも制約を受けるし、遺伝子等 の知識を扱うのは高等学校からであること等からかなり否定的な意見もみられるし、取り入れ ては行きたいのだが実際問題として不可能であるとするところがほとんどであった。
上記の点を考慮して、調査結果を特別教科教員養成課程(理科)および総合科学・基礎科学 課程等で生物学・生命科学の課程をもっ教育学部13校に限って解析を進めた。結果を図1Bに 示す。
設問1については、現在既に何らかの形で遺伝子操作技術を取り入れているという回答は4 校であり、設問2については、必要性をかんじるとするもの4校、どちらともいえないとする もの4校であり、不必要としたものはわずかに1校であった。設問3については、近い将来取 り入れる予定があるという回答は1校、未定という回答は3校であり、取り入れる予定はない とする回答は1校もなく、設問4については、4校全てが、実験室、実験装置等の設備、条件 等を整えられると回答している。
奈良教育大学生物学教室の学生実験への導入例
本学生物学教室では、毎年、9科目・9単位の実験・実習(生物学実験、動物学実験I、Ⅱ、
Ⅲ、植物学実験I、Ⅱ、Ⅲ、野外実習I、Ⅲ)を5人の専任教官によって展開している(野外実 習I、Ⅱにおいては非常勤講師の応援をあおいでいる)。1989年度に、遺伝子操作の基礎技術が 導入されたのは特別教科教員養成課程(理科)の生物専攻学生(定員5名)の必修単位である植 物学実験Ⅲの全実験回数の約%をなす4過(回)の実験においてだった(後期に展開、受講生は
5名、2グループを編成、1990年度は9名、3グループを予定)。
この導入に先立ち、導入すべき実験について我々は多くの問題を検討した。
(1)遺伝子操作技術をその原理において理解するための実験であること。
(2)「組換えDNA実験指針」の枠外(POレベル)の実験であること。
(3)危険性が少なく、また汚染防止の教育的指導が行えること。
(4)他の実験とのバランスから4〜5週(回)の実験とすること。
(5)個々の実験は出来るかぎり短時間で終わること。
以上の観点から、我々は、遺伝子操作のために最も広く使用されてきたhostAVeCtOr系である 大腸菌HBlOlとプラスミドpBR322の系を使用し、形質転換体の選択法および形質転換体中の プラスミドDNAの存在の確認法に重点をおいた実験を導入することにし、MolecularCloning4)、
最新遺伝子操作実験実用ハンドブック5)、既に同種の実験を導入していた奈良県立医科大学・進 学課程の生物学実験Ⅱのプロトコールを参考にして、4過分の詳細なマニュアルを作成した。
導入された実験の概略は以下のとおりである。
(第1週)入DNAの制限酵素消化とアガロースゲル電気泳動
この実験はそれ自体の意義と同時にあらゆる意味において後々の実験の基礎を形成する。
即ち、安全ピペットおよびチップ、エッペンドルフチューブ、フラッシュ遠心器の使用法に 始まり、DNAおよび制限酵素の取り扱い方、アガロースゲルの作成法およびその電気泳動 法、臭化エチジュウムの取り扱い方およびイルミネイターの発する近紫外線に対する注意、
ポラロイドカメラによるDNA・臭化エチジュウムの発光の撮影といった学生が初めて経験 する試薬、器具、装置を使用して、マニュアルおよび指導者(教官)の指示どおりに作業し なければならないからである。
この実験では、A DNA(約2.3FLg)のEcoRI(約20ユニット)、Hind血つ約12ユニッ ト)および両者の二重消化による試料(ここでは反応液はすべてEcoRIバッファーを使用、
反応混合液の用量は10〟l、反応時間は60分であった)を臭化エチジュウム(1〝g/ml)
を含む条件でミニ電気泳動装置によりアガロースゲル電気泳動(約30分)を行ない、イルミ ネイクー上でポラロイドカメラによる写真撮影を行った。結果を図2Aに示す。この写真よ りマニュアル上に記されているA DNAの制限酵素地図から各バンドの塩基対数を求めさせ、
泳動距離との関係を片対数グラフ用紙にプロットさせた(図2日)。
(第2週)プラスミドによる大腸菌の形質転換
この実験では、ほぼ常法に基づき塩化カルシュウム処理した大腸菌HBlOl株にプラスミ ドpBR322DNAのそれぞれ0、5、10、20、50、100ngを加えアンピシリン(50〟g/
ml)、テトラサイクリン(10〟g/ml)を同時に含むLbrothプレートに塗布し、翌日コロ ニーの計測の後、形質転換体数とDNA量との関係をグラフに措かせた(図3)。形質転換 体の頻度は最大約10 ̄6を示した。また次週の実験のために数個の形質転換体を単離させた。
(第3週)形質転換体からのプラスミドDNAの抽出
この実験では、前述の形質転換実験で得た形質転換体のアンピシリンを含むL−brothによ
る培養を用いて、SmallASCale preparation法で各グループは二つの形質転換体からプラス
図2A 制限措素消化したADNAの電気泳動の結果
各レーンは、1.未消化、2.EcoRl消化、3.HindⅢ消化、4.EcoRlとHindm の二重消化試料を示す。
2 3 4
DISTANCE NIGFtATED tclり
図2B 区12Aの写真から求められたDNA断片の大きさと泳動距離との関係
各印は、○:EcoRI消化、△:Hind皿消化、●EeoRIとHindmの二重消化試料を
示す。
0 0
0 0
3 l
O山王∝OJ S山︼ZOJOU JO∝山田三つN
50 100 AMOUNTOF DNAADDED(nl)
図3 形質転換実験の結果
縦軸はアンピシリン・テトラサイクリン含有プレート上に再生細胞懸葡液0.1mlが形 成したコロニー数を示し、横軸は反応混液に添加されたDNA量を示す。
ミドDNAの抽出を行った(対照実験として、プラスミドを持たないHBlOl株においても同様 な操作を行った)。ここでは、学生は新たにエッペンドルフ用遠心器(10,000rpm)、RNアーゼ の使用等を経験することになる。調整したDNAは次の実験のために冷凍庫に保存した。
(第4過)抽出したDNAの制限酵素消化とアガロースゲル電気泳動
この実験では、前回の実験で調整した形質転換体のDNAの2試料をHincII(約15ユニッ
ト)で消化した後、対照として、それぞれの未消化試料および未消化のHBlOl株の試料と
ともに電気泳動を行った。尚、分子量マーカーとしては、A DNAのEcoRIとHindnIの
二重消化した試料を用いた。結果を図4に示す。結果からHincⅡ消化によって得られた二
つの断片の大きさを求めさせ、形質転換体中のプラスミドDNAがpBR322であることを確
認させた。
図4 制限酵素消化した形質転換体中のプラスミドDNAの電気泳動の結果 各レーンは、1.人DNAのEcoRl・HindⅢの二重消化試料、2.プラスミドを含 まないHBlOlからの未消化試料、3、5.形質転換体からの未消化試料、4、6.形 質転換体からのHincⅡ消化試料を示す。
結語にかえて
前述したアンケート調査の結果にみられるように、現在の時点においては、遺伝子操作に関す る実験を学生実験に導入している教育学部は少数であり、近い将来に導入する計画をもっている ところもまた少数である。このことは、多くの場合、教育学部における人員的、物質的、時間的 限界に基づいていると考えられる。しかし、遺伝子操作技術の基礎が開発されて後既に約20年を 経過し、その技術は多くの生物学の研究に、さらには産業界にも導入されている今日、退伝子操 作についての基礎的知識を身につけることは、少なくとも理科または生物を担当する教員にとっ ては、必要なことであろう。我々は、基本的には、遺伝子操作の技術者や研究者の養成を目指す ものではない。その技術の基礎的知識を身につけた教員の養成を目指すものである。したがって、
今回、本学の学生実験に導入された実験も極めて基礎的かつ初歩的なものであり、現時点におい ては、人員的、物質的、時間的限界からこの程度のものとせざるを得なかった。導入された実験、
作成されたマニュアルにも多くの改良の余地がある。またさらに別の実験をつけ加える必要も感 じられる。我々の願いは、この種の実験を通じて、学生たちが生物についての新たな視点を開い てくれること、新しい時代の生物学教育のあり方を考察してくれることである。
謝 辞
この小論を終えるにあたり、アンケート調査に協力してドさった全国の教育学部生物学教室の
教官諸氏に、大腸菌HBlOlおよびプラスミドpBR322の提供と実験に関する多くの助言をいた
だいた奈良県立医科大学生物学教室の大西武雄教授と井原誠博士に深く感謝します。また今回の 植物学実験Ⅲを受講し、この実験導入のたたき台となってくれた奈良教育大学の学生諸君に感謝
します。
引 用 文 献
1)Cohen,S.N.:The manipulation of genes.Scientific American233′24−33(1975)
2)Cooke,R∴遺伝子操作一自然への新たな挑戦一 牧野賢治訳 東京化学同人(1978)
3)Rogers,M∴遺伝子操作の幕あけ 渡辺 格・中村桂子訳 紀伊国屋書店(1978)
4)Sambrook,J.,E.F.Fritschand T.Maniatis:Molecularcloning:alaboratorymanual,
2nd ed‥Cold Spring Harbor Laboratory Press(1989)