憲法解釈 における二つのアプローチ (
1)‑ 原 意 主義 の 展 開 を 中心 に ‑
猪 股 弘 貴
1二三四五六
目 次
は じめに
グレイ教授の解釈的審査 と非解釈的審査
ブレス ト教授の原意主義 と非原意主義 (以上本号) ボーク元判事の原意主義
ペ l)一教授の原意主義 むすび
‑ は じめに
故 ア レキサ ンダー・M・ピッケル教授 は, 『最 も危険性が少ない統治部門 (The LeastDangerousBranch)』において1),司法審査が有す る 「反 多数決主義 とい
う乗 り越 え難 い壁 (counter‑majoritarl/andifficulty)」 について,次の ように 述べ ている2)。
「根本的な問題点は,司法審査がわが国の制度の中において反多数決主義の 力だ とい うことで ある。 この避 けて通 ることの出来 ない現実 を糊塗す る様 々 な方法が存在 している。マーシャルが採用 した方法 は次の ような ものであっ た。すなわち, 『人民』のため に,人民が限定 された政府の諸機 関に対 して命 じている制限を,強制 していることに言及す ることであった。そ して,それ以 1) A.BICKEL,THE LEAST DANGEROUSBRANCH(1962).
2) SeeM.PERRY,THECoNSTITUTION IN THECoURTS16‑7(1994).
〔45〕
来,この方法 は,あまた多 くの論者達 によって,全 く同様 の形態 において採用 されて きたのである。マーシャル 自身は,『フェデラ リス ト』第78編 において,
ノ
司法審査が,立法権 に対す る司法権 の優越性 を意味 してい るこ とを否定 した
「⊥ 言い換 えると,司法審査 が,選挙民 を代表 していない少数派 による,選挙 された多数派 に対す る抑制 を構成 してい るこ とを否定 した,‑ ミル トンに依 拠 していたのである。‑ ミル トンは次の ように述べ ている。『ただ,人民の権 力 こそ司法権 に対 して も立法権 に対 して も,優位 に立つべ きこ とを意味 して いるにす ぎない。すなわち,制定法 の形で表明 された立法部の意思が,憲法の 形で表 明された人民の意思 に反す るときには,判事 は,制定法 に よってではな く,憲法 によって支配 され るべ きであるとい うことを意味す るにす ぎない。』3)
しか しなが ら,か くのご とく使用 されている 『人民』とい う用語 は,抽象的な ものである。それには必ず しも意味がない とか,有害な ものであるとい うわけ ではないが,感情 に訴 えかける面 を常に有 した,非具象的な もの ‑ 連邦最 高裁 が立法部の行為や選挙で選ばれた行政部の活動 を違憲であ ると宣言す る
とき,今 ここにいる現実の人民の代表者達の意見 を妨 げているのであ り,多数 派の意思が勝 るためにではな く,それに反 して支配 を及ぼ してい るとい う現 実 を暖味にす る,抽象物 なのである。これ こそが,秘密のベール を剥が された, 現実 に起 きているこ となのである。 ・・‑‑‑ 司法審査 は非民主的であるとの非 難 をなさ しめ る所以なのであ、る。」 4)
もちろん,議会や大統領が民主的機 関であると言 って も,常にそれ らが 「人民」の 意思 を正確 に反映 している,と言 ってい るわけではない。機構の,制度の性格 と
して見 た場合,三権 の中で,立法府 と行政府 は,直接的に しろ間接的 に しろ,人 民か ら選挙で選 ばれた者か ら構成 されてお り,この意味で,この限 りで民主的だ とい うことである。それ に対 して,裁判官 をわれわれは選挙 で選んでいるわけで はないのであ り,この意味で,司法 は非民主的機関なのであ り,そこで行使 され 3) Aノ、ミル トン,∫.ジェィ,J.マデイソン (斎藤異 ・武則息見訳)ザ ・フェデラリ
ス ト(1991年)379頁参照。
4) A.BICKEL,SuPra‑note1at1617.
る司法 審査 も非民主的 だ とい うわ けで あ る5)。なお, ピ ッケル教授 自身 は,後 年 その立場 に変化 がみ られ た と言 われて い るが6), 「反 多数決 主義 とい う乗 り越 え 難 い壁 」が司法 審査 に伴 うに もかか わ らず,いわゆ る非原意 主義 を主張 したので あった。 とい うの は,司法 審査 には,社会 に とって有益 で あ り, しか も裁判所 が 引 き受 けなけれ ば達成 され得 ない役割 が存在 す るこ とか ら,す なわ ち,社 会 には 原理 (principle)と便 宜 (expediency)の両者 が必要 とされ るが,選挙 で選 ば れた公 務員 は,便 宜的,短期 的解決 を図 る受託者 と して は適任 で あ るの に対 し て,裁判 官 は,長期 的 に重要 な原理 を扱 うの ̲に,よ りふ さわ しい能 力 を有 してい るこ とか ら,裁判 官 に政策形 成 の役割 (policymaking role)を認 め る一 方 ,裁判 所 に証抑 的 で憤 重 な司法審査 の行使 を求 め たので あった7)0
ところで,今 日,ア メ リカ合衆 国 において は,ウ ォー レン・コー トの司法 積極 主義 を契機 と して,裁 判所 は司法 審査 を積 極 的 に行使 すべ きか香 か とい う問題 とと もに, また この 間題 と絡 んで, 憲法 解 釈8)方法 論 争 が盛 ん に展 開 され て い
5) このような見解に対 して,わが冨古手は最高裁判事の国民審査の制度があ り,民主的 コン トロールがなされ得 るとの反論が存在するか もしれない。しか し,国民審査の制 度は,解職制度 として理解 され,運用されてお り,民主制 との調和をはかるものでは あれ,司法の非民主的性格 を変えるものではない。一方,アメ リカ合衆国のい くつか の州 においては,裁判官 を選挙で選ぶ制度を採用 しているところが存在 している。こ の場合,確かに反多数決主義の問題はクリアで きて も,新たな問題,例 えば公正な裁 判が行われないということ,が生ずることが考えられる (兼子‑‑竹下守夫・裁判法
〔新版〕24真参照)。いずれにせ よ,アメ リカ合衆国およびわが国では,司法審査が 有する反多数決主義の問題 を避けて通ることはできないのである。
6 ) SeeR.BoRK,THE TEMPTINGOFAMERICA193(1990).
7) ピッケル教授 の憲法理論 ない しは司法審査理論 にふれてい る,わが国の文献 は枚挙 にい とまがないが, ここで は,田中英夫 ・法形成過程 (1987年)177真以 下 を挙 げてお く。
8) 法 の 「解釈」 とい う語 は多義的であ り, この ことはまた, この論争 を複雑 な もの にす るのである。後 に検 討す るように,ペ リー教授 は,interpretationと specificationに分 けて論 じてい る。 ここでは,差 し当たって,ボーク元判事 に 倣 って,法 (す なわち原理)の,導 出 (derivation),限定 (definition),お よ び通用 (application)の三場面 ‑ 明確 に三分割で きるもので はないが ‑
を包括す る概念 として,法 の 「解釈」 とい う語 を使用す るこ とにす る。SeeR.
BoRK,SuPranote6at146.
る9)。例 えば,解釈主義 (interpretivism)対非解釈主義 (noninterpretivism), この発展形態 としての,原意主義 (originalism)対非原意主義(nonoriginalism) の争いである10)。この論争の根底には,先に指摘 した,司法審査の「反多数決主 義 とい う乗 り越 え難 い壁」の問題が存在 している。なぜな らば,非原意主義 を正 当化す るためには,「反多数決主義の壁」を乗 り越 えるための理論 を提供す るこ とを迫 られるか らである。この ような論法 に対 しては,次の ような,宇佐美教授 か らの批判が存在 している。すなわち,「正文理論 (引用者注 ‑ これは原意主 義 と同義だ と思われる)に対 しては少な くとも次の批判が可能である。議論の余 地 ある権利 に依 る司法審査が仮に反民主的だ とすれば,明白な権利 に依 る審査 はなぜ反民主的でないのだろ うか.この理由は一見す るほど明 らかではない」11)
と。しか し,この ような考 え方は,問題の立て方 自体がそ もそ も誤 りなのである。
なぜな らば,原意主義者 は,憲法典 に拘束 された憲法解釈 を裁判官が採用す るな らば,それはもはや反民主的ではな くなる,と主張 しているのではないか らであ る。また,過去の多数派 による支配,それ故民主主義 と矛盾 しない,という観点 か ら原意主義 を正 当化 しようとす るもので もない (この ような原意主義の正 当 化の主張 もないわけではないが)。もし民主主義だけが近代国家の公理(axiom) だ とす るな らば,司法審査の存在 自体,それ と矛盾 した,否定 されるべ きもの と 言えよう。 しか し,そ うではない。多数派 といえども「憲法」に反 してほな らな い とい うこと,そ して,裁判所 は憲法 に反 していると考 えた場合,多数派の行為 を無効 とす る司法審査 を‑ 民主主義 と原理的 には反す るが ‑ 行使す るこ と,このことをも公理 としているのである(少な くともアメ リカ型の憲法 を採用 す る国においては)12)。ただ し,原意主義者 は,司法審査 は民主主義 に反 してい るが故に,そこで解釈 ・適用 され るべ き 「憲法」を,憲法起草者達お よび憲法批 9) この点についての重要な邦語文献として,於井茂記・司法審査と民主主義(1991年)
がある。
10) この論争に言及 している邦語文献は多数にのぼるが,猪股弘貴「司法と憲法上の政 策形成 (‑)・(二 ・完)」早稲田法学61巻2号・68巻3‑4号参照。
ll) 宇佐美誠 ・公共的決定としての法 (1993年)151頁。
准者達の意思の表 明 としての条文 ・原理 に限定すべ きであると主張 しているの である。宇佐美教授 はまた,「司法審査 は,明白な権利 のみに依 る審査 に範囲 を 局限され るべ きほ どに民主制か ら逸脱 した ものだ とは言 えない」 13)と述べ てい る。この ように宇佐美教授が述べ るのは,畢寛,民主制の捉 え方 に相違があるか らである。すなわち,宇佐美教授 は,民主制 をポピュ リズムによっては正 当化で きない とし,次の ような,内容 による正 当化 を̲試み る。「民主制 は,人々の集合 的意思の執行ではな く,また単な る公務員の選出 と委任 にす ぎないので もな く, む しろ結果価値追求権 と参加価値獲得権 とい う二つの権利 の制度化 で ある」14)
と言 うのである。 しか し,この二つの権利 の制度化 として ‑ これ らの権利が 重要であることは理解で きるが ‑ 民主制 を捉 えることは,不十分であると言 わざるを得 ないであろう。なぜ な ら,決定権が特定の人間あるいは集団に掌握 さ れているな らば,た とえこれ らの権利が保障 されてい るとして も,結局専制主義
となって しまう可能性が,少 な くとも理論的 には,残 されているか らである。民 主制 に とっては,決定方法の問題,すなわち選挙 を通 じての政策形成 と多数決主 義 という要素が不可欠なのである(もちろん,いわゆる直接民主主義 を排除す る
ものではない)。司法審査の 「反民主制 テーゼ」を拒否 す るこ とか ら出発す る, この ような議論 は,結局,成功 しない と言わざるを得 ないのではなかろ うか。憲 法解釈の方法,さらには司法審査の行使のあ り方 を考 えるについては,ピッケル 教授 の 「反多数決主義 とい う乗 り越 え難 い壁」が司法審査 に伴 うことを率直に認
めた上 で,立論すべ きであろ う。
わが国において も,これ まで憲法解釈方法論争 は存在 して きた。ここでこれ ま での足跡 を辿 る余裕 も能力 もないが,法学界全体の根底 に,法実証主義 と自然法 論 とい う二つの流 れが存在 してい るし,憲法 に限ってみて も,戦前の天皇機 関説
12) ポーク元判事は,後に検討するように,このことをMadisonianDilemmaと表 現 している。SeeR.BoRK,SuPranote6at139‑41.
13) 宇佐美 ・前掲 注11・151頁。
14) 同上 ・242真。
論争15)も憲法解釈方法論争の側面 を有 していた と言 えるのであ る。戦後 の解釈
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方法論争 として登場 したのは,解釈 は 「認識」か 「実践」か とい う解釈性質論争 であった16)。この論争 自体が持つ重要性 を否定す るものではない し,そこか ら学 ぶべ きもの も少な くない。とはいえ,周知の ように,日本国憲法 においては;逮 憲審査制が採用 され,わが国の権利保障のあ り方は,裁判所,とりわけ最高裁判 所の憲法判断のあ り方に大 きく左右 され ることになった。従 って,憲法解釈方法 論 は,裁判官が,憲法問題 として取 り上 げ,それ にいかに対処すべ きか を究明す るこ とに比重 を移すべ きこ とになる。ところが,この点 についての,またこの よ うな観 点か らのわが国での検討は,必ず しも十分 になされて きた とは言 えない
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状態であると思われ る(もちろん,憲法訴訟論の飛躍的発展 を過少評価す るもの ではない)。ここに一つの例 を挙 げてみ よう。近時の人権諭の重要課題の一つ と
して,いわゆ る 「新 しい人権」の問題が存在 し,プ ライバ シーの権利 をは じめ と して,環境権, さらには自己決定権等が提唱 されている。 しか し, これ らの「権 利」を主張す る論者達 は,‑それぞれの 「権利」が現代社会 においていかに重要で あるかの主張 ‑ その点だけを取 出 してみ る とそれ な りの説得 力 を有 す る場 合 もあるとはいえ‑ には熱心であって も,それが憲法解釈 として成立 し得 る のか,先に述べた 「反多数決主義の壁」を乗 り越 えることがで きるのかについて の検討 は,必ず しも十分 にな されて きているわけではないのである。 もちろん, 権利 内容 についての さらな る詰めや, これ らの権利主張が私人 に向け られてい
るものが多いことか ら,憲法の私人間適用の理論 との整合性 を,いかに図 るか も 究明 されなければな らない。
15) 美農部博士の天皇機関説は,今から振 り返ってみると,確かに明治憲法の解釈 とし ては逸脱する面を有 していたが,近代憲法 としてあるべき民主主義の公理には沿う ものであったことが忘れられてはならない。その意味で支持 し得るものである。この 点,明治憲法 と日本貫憲法とを同列に扱い,天皇機関説を唱えた美農部学説を支持す るとともに,また自然法論や国際法規の遵守から,日本国憲法でも自由な憲法解釈が 正 しいとの,北岡教授の見解には賛同できない。北岡伸一・政党政治の再生(1995年) 87頁以下参照。
16) この論争に関わる,あるいは関する文献は多数にのぼるが,ここでは,碧海純一・
法学における理論 と実践 (1975年)を挙げておく。
この新 しい人権論の検討 との関わ りで,権利 のあ り方の多様性 の問題 につ い て一言 してお きたい17)。というのは,わが国では権利 は,とりわけ国に対す る権 利 は,すべ て 日本国憲法 に遡 る,ない しは源 を発す ると考 え られがちだか らであ る。確か に,憲法 に位置付 け られ得 るな らば,その権利 は国の最高法規 とな り, また重みが増す ことも事実である。しか し,憲法上の権利 は,ただそれだ けで「反
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多数決主義の壁」を乗 り越 えることが可能なのに対 して,憲法上の権利であるべ
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きだ との主張だけで, この壁 を乗 り越 えるこ とがで きるとは考 え られ ないので ある。 この ように考 えて くると,戦略の問題 として も,実際のあ り方 として も, 権利 はすべて憲法上の もの として考 えるのではな く,多様 なあ り方の検討が必
要であ り,また有用であると思われ る。すなわち,理念 としての権利,憲法 とし ての権利,お よび法 としての権利 とい う分類である18)。ここで詳述す ることはで
きないが,以下,これ らの権利 の相違 について説明 してみ よう。憲法上の権利 は, 裁判所 による違憲立法審査権の行使の対象 とな ることによって,原則 として,権 利侵害の状態の回復が可能 となる。これ に対 して,理念 としての権利 は,憲法典 に明確 な根拠 を兄 い出す ことはで きないが,その社会 に とって有用だ と(その主 張者 に)思 われ,立法の指針 とな るべ きだ と (その主張者 に)思われ る権利の こ とである。そ して,後述す る,法 としての権利 として,民主過程 を通 じて実現 さ れ るこ とが可能 となる。ただ し,裁判官 は,この権利 を援用 して判断す ることはな いのである。 これに対 して,憲法 としての権利 は,憲法起草者達お よび批准者 17) この点の主張は,ペ リー教授のconstitutionalstrategyとstatutorystrategyと
の区別から示唆を得ている (SeeM .PERRY,SuPllanote2at17‑20)O もちろん, このような権利分類の試み も,仮説の域 を出るものではない。
18) ここで使用する 「権利」を 「人権」 と置換えて も同 じである。 ここで権利 と したのは,わが国では人権 は前国家的権利 として説明され,それによると 「法 としての人権」はこのような考え方 と矛盾す るとの指摘が予想 されるので人権 とせずに権利 とした。なお, 自然法思想が立憲主義の形成にとって果た した歴 史的役割 を決 して軽視するものではないが,それをその まま現行憲法の解釈 に 持ち込むことはで きない と思われる。ただ し, もし憲法起草者達および批准者 達が 自然法 を憲法条項の中に原理化 し,裁判官に新たな権利の創造を委ねてい たとす るならば,話は別である。
達によって憲法典の中に原理化 された権利であ り,裁判官はこれに照 らして憲 法判断すべ きことになる。ここで注意 を喚起 してお きたいのは,憲法 としての権ノJ 利 には,表現の 自由や信教の 自由 というように,憲法 に明記 されているものに限 定 されず,例 えば,知 る権利,とりわけ報道の 自由の ように表現の 自由の前提 を な している権利,さらには,通信の秘密や住居の不可侵か ら帰納 され る,プ ライ バ シーの権利 も,憲法 としての権利 と見倣すことがで きるということである。ま た,もし土井教授の ように,日本国憲法13条の幸福追求権の原意 として,それ を 個別の権利 として発展す ることを後の世代 に委ねている規定, と解す るこ とが で きるとす るな らば,理念 としての権利 は,憲法 としての権利 となる場合 もある ということになろう19)。ただ し,この土井説 を受け入れることがで きるか否かに ついては,日本国憲法の歴史的検証が必要 とされ ることか ら,ここで論ず ること は不可能であ り,後の検討課題 としたい。さらに,これ まで憲法学においては, あまり重視 されてこなかった,法 としての権利が存在 している。ここで言 う「法」
には,いわゆる形式的意味の法律 は もちろんのこと,条約や条例,さらには慣習 法 も含 まれる。今 日,国際人権規約や子 どもの権利条約等,条約 による権利保障 は,ます ますその重要性 を増 してお り,また,条例 による環境保護や情報公開の 促進 に も過小評価 してはな らない ものがある。
この ように,権利のあ り方の多様性 に言及 し,強調 したことか ら察せ られたで あろうように,私見では,それは未だ仮説の域 を出るものではないが,原意主義 が妥当であると考 えている。本稿 において,私見 を披涯す るまでには至 ってお ら ず,またそれを目的 とす るもので もないが,差 し当たってこの ような結論 に至 っ た理由を簡略に述べてお くと,次の通 りである。すなわち,非原意主義 には,そ れを正当化す るだけの理 由を兄 い出すことが,少な くとも今の ところ,で きない ということである。非原意主義は,憲法典 に原理化 された規範以外の ものを持 ち 出すことになるわけであるが,それ らは 「反多数決主義の壁」を乗 り越 えるだけ 19) 土井真一 「憲法解釈における憲法制定者意思の意義 (‑)・(二)・(≡)・(四・完)」
法学論叢131巻1号1頁・131巻3号1頁・131巻5号1頁・131巻6号1真以下参照。
の,十分説得力のある理論 を提供 しているとは思 われないのである。例 えば,非 原意主義者が, しば しばその根拠 とす る哲学 として‑ その哲学ない しは法哲 学 としての価値 を論ず る能力 を持 ち合わせているわけではないが ‑ ,ロール ズ教授の正義論が存在 している20)。 しか し, ロールズ教授の原初状態 (original position)はあ くまでフィクシ ョンであ り, またそこで全員一致で選択 され る各
原理か ら,具体的憲法上の権利 を導出す るこ とがで きるとは思 われないので あ る21)。ただ し,ロール ズ教授の理論の根底にあるマイノ リテ ィーの保護 とい う点 に象徴 され る, リベ ラル な思考法 には共感 し得 る面が あるこ とを付 け加 えてお
く22)0
ここで,解釈方法論 を二つ に分 けて考 える見解 を検 討 してお きたい。すなわ ち,「憲法解釈」と憲法以下の 「法解釈」との二つ に分 ける見解である。 「憲法解 釈」においては, 「反多数決主義 とい う乗 り越 え難 い壁」が存在す ることか ら, 解釈方法論 として,原意主義 を採用すべ きことになる。ただ し,原意 として,バ ーガー教授の ように狭 く,それ を憲法制定者達の意図 (originalintent)と考 え るべ きではない し,そ もそ も意図 を探 るという,ほ とん ど不可能なこ とを強いて いるものであ り妥当ではない23).原意 としては,ボーク元判事の ように,憲法起 草者達お よび批准者達が憲法化 した原理 (principle)を考 えるべ きである。‑
20) ∫.RAWLS,ATHEORYOFJusTICE(1971).邦訳 として, ジョン ・ロールズ (矢 島釣次監訳)・正義論 (1979年).SeeJ.RAWLS,PouTICALLIBERALISM (1993). 21) 寺崎唆輔他編 ・正義諭の諸相 (1988年)290頁以下 (内井忽七執筆),板本百
大‑長尾龍一編 ・正義 と無秩序 (1990年)184頁以下 (奥井克美執筆)参照o SeeM .PERRY,M oRALITY,PoLITICS,ANI)LAW (1988)57‑63.
22) 「リベラル」あるいは 「保守」 という言葉は多義的である。 とりわけ,わが 国においてはそうである。本稿では,アメ リカでの使用例 に倣 っている。そこ で も,両者の対立軸は暖味に,あるいは新たな動 きがみ られるとはいえ,この 両者が20世紀アメ リカの社会 ・政治思想の大 きな流れを形成 して きたことは間 違いない。佐々木毅 ・アメ リカの保守 とリベラル (1984年)参照。
23) SeeR.BERGER,GovERNMENTBY JUDICIARY(1977).バーガー教授の憲法解釈 方法論 について,野坂泰司「最近の合衆国における『憲法解釈』論争の一断面」・
現代国家 と憲法の原理 (1983年)213真以下参照。
方,「法解釈」においては,裁判官のいわゆる法創造作用が承認 され,柔軟な解 釈方法 を採用す ることが許容 され る(もちろん,刑法 の ように,国民の権利保護 のために,ない しは罪刑法定主義の要請か ら,原意主義類似 の解釈方法 によるべ き法分野 も存在す るこ とを付 け加 えてお く)。なぜ な らば,「法解釈」においては, 裁判官が 自由な解釈方法 を用 いて も,民主主義 には反 しないか らである。裁判官 が憲法解釈 として提示 し,違憲 とした場合,それ を改めるには,憲法 を改正す る のが唯一残 された手段であるの に対 して (もちろん,裁判所が 自ら判例変更す る 場合 は別 である),「法解釈」として提示 された場合 には,法律や条例 を改正 して 対処す ることが可能である(条約の場合 はそれ程容易ではないが)。この ように, 裁判官が,例 えばマイノ リテ ィーを保護す るために, 自由な法解釈 を展開す る, さらには法的権利 を創造す ることは,何 ら反民主主義的ではないのであ り,私見 においては,む しろ望 ま しい場合 もあるのである。なお,原意主義者の代表 と目 されているボーク元判事 は,後述す るように,この ような二分法 を採用す るもの ではな く,「憲法解釈」, 「法解釈」を問わず,原意主義 を採用すべ きことを主張
してい る。
原意主義 は,わが国では,ボーク元判事の名 とともに語 られ,この ことによっ て,それはすなわち保守主義であると理解 され る傾向にある。確かに,原意主義 の主唱者であるボーク元判事が保守主義者で あるこ とに違 いはない24)。 まさに そのことが理由の一つ となって (他 に,ウォーターゲー ト事件 において,当時 ボ ークはSolicitorGeneralを勤めていたが,その立場で,特別検察官であった, わが国 において もよく知 られているアーチボル ト・コックス教授 をその職 か ら 解 いたこと等が,影響 したか と思 われ る),1982年, レーガ ン大統領 による連邦 最高裁判所判事の指名の承認が,民主党の議員が多数 を占めていた上 院 におい て,拒否 されたのであった25)。しか し,ボー ク元判事の理論 お よびその背景 を的 24) この点について,君島東彦 「現代アメ リカの保守主義憲法理論‑ ボーク判事指
名問題を契機に考える‑ 」早稲田法学会誌41巻203頁参照。
25) この点について,例えば,山田卓生「ボーク判事指名釆認拒否問題」ジュリス ト898
号41頁以下参照。
確 にスケ ッチ している,君島教授 も述べているように,原意主義 は憲法実証主義 と言 えようが,「自然法論 に して も法実証主義 に して も,特定の政治的傾向 と論 理必然的に結び付 くわけではない」26)のである。つ まり,原意主義が,即保守主 義ではないのである。憲法問題,より正確 に表現す ると,憲法 問題 として取上 げ, 裁判官が介入する余地 を少 な くするには違 いない とはいえ,原意主義は保守主 義の思想 と直接結び付 くものではないのである。このことは,もちろん,どの よ
うな原意主義か とい うこと, またどの ような脈絡 において主張 され るかに もよ るが,私見 においては,原意主義 は,社会 に串いて司法が活動す る領域 をある程 度狭め る点 と道徳懐疑主義の点 を除けば,それ 自体特定の政治的内容 を持つ も のではないのである。司法が積極的に も消極的に も,また保守に もリベ ラルにも な り得 る立場なのである。この ように考 えて くると,タイ トル において,二つの アプ ロ‑チ とした とはいえ,原意主義 と非原意主義 とは,裁判官の解釈態度 しだ いでは,実際は,かな り接近 して くるものであると言えよう。
繰 り返 しになるが,私見では,基本的には原意主義が妥当す ると考 えている。
なぜ な らば,非原意主義 を根拠付 ける理論が,少な くとも今の ところは,見 当た らないか らである。この ような立場 に対 しては,多 くの批判,さらには非難が存 在す ることであろう。まず予想 され るのは,この ような立場 は,解釈の正 当性 に こだわるあまり,権利保障の面 をないが しろに しているとの指摘である。この主 張は,憲法の第一の課題 は権利保障であって,権力分立 はそのための手段 にす ぎ ないに も関わ らず,原意主義者 は,目的 と手段 を取違 えているとの主張に も通 じ るものがある。これに対す る一応の解答 は,次の ようになるであろ う。すなわち, 権利保障は,先に も述べた ように,「法解釈」によって積極的に実現す ることも
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可能であ り,政治的主張 としてな らば ともか く,憲法理論 としては,憲法 に託 さ れ権利以外は,rightanswerを提供す る理論が,少な くとも今の ところ,存在
しない と考 える (また,た とえrightanswerが存在す るとして も,それを裁判 官が発見で きる保証 はない)以上,民主過程 による解決 によるべ きであると。
26) 君 島 ・前掲 注24・215真。
次 に考 え られ るのは,多数決主義,あるいは民主過程 と言 って も,少 な くともわ が国では機 能 してお らず, その前提が成立 していないのではないか との主張で ある。なるほど,わが国の政治 は,これ まで,実は国民 によって選挙で選ばれた ので はない官僚 に よって支配 されて きた とい うこ と, これ は周知の事 実で あ り27),これ を良 しとす る風潮 さえ存在 していた。また,政治 に民意が反映 されて いないのではないか との指摘 は,多 くの論者 に よってな されて きてい るところ である。これ らの事実が,権利 ない しは人権 とい う形での主張が活発 にな され, 司法 に期待 を寄せ させている (寄せ ざるを得ない),背景の一つ をな しているの である。しか し,この ような政治の状態 は,日本国憲法が想定 しているものでは ない。これは変 えられ るべ きものであ り,あ り得べ き状態では,や は り原意主義 が妥当す ると言 えるのである。この ような主張は,あま りに も非現実的な見解 な のか もしれない。む しろ,現実 を直視 した上で,いわば緊急 ‑ む しろ慢性状 態 と言 った方が正確 であろうが ‑ 避難的にで も,裁判所 による社会の変革 を 是認すべ きなのか もしれない。しか し,私見 においては,この ような見解 も非現 実的であ り,わが国の司法が,憲法 を武器 として,積極的 に社会変革 を志す とは 思 えないのである。最後 に, 日本国憲法 においては,憲法 の制定過程 か らみて, 原意主義 を採用す ることはで きない との批判が存在 し得 よう。この見解 は,「む すび」 において取上 げ,検討す ることに したい。
憲法解釈の方法論 は,これ までふれて きた,原意主義 と非原意主義 に限 られ る わけではない28)。方法論争が活発なアメ リカ合衆国においては,これ らの方法論 以外 に,法の経済分析29),批判的法学研究30),さらには共和主義憲法理論31)等, 27) この点について,例えば,山口二郎 「現代日本の政官関係」・現代 日本政官関係の
形成過程 (1995年)151頁以下参照。
28) See,e.g.,S.BRISONANDW.SINNOTTIARMSTRONG,CoNTEMPORARYPERI spECTIVESONCoNSTITUTIONALINTERPRETATION(1993).
29) この点についての邦語文献 として,例 えば,川浜昇 「『法 と経済学』と法解釈 の関係 について (‑)・(二)・(≡)・(四 ・完)」民商法雑誌108巻6号22頁・109 巻1号 1頁 ・109巻 2号 1真 ・109巻3号 1頁参照。
30) この点についての邦語文献 として,例 えば,D.ケア リス編 (松浦好治‑桧井 茂記編訳)・政治 としての法 (1990年)参照。
様 々な立場か らの主張がなされて きている。しか し,これ らすべての方法論 をこ こで論 じ,扱 うことはで きない。本稿 において,原意主義か非原意主義か という 問題 を取上 げ,検討す るのは,これ まで論争 され,またこれか らも論 じ続 け られ るであろう,自然法論対法実証主義 とい う,法学の永遠のテーマ に通 じるもので あ り, さらに,アメ リカ合衆国で議論 されてい る実体的デュー・プ ロセス論,わ が国での新 しい人権論 を挙 げるまで もな く,非常に有益 な方法論争であると思 われ るか らである。ただ し,既 に述べた ように,それ らの木目違 とともに,それ ら のあ り様 によっては,接近 し得 ることも見逃 されてはな らない。
本稿 においては,まず,原意主義対非原意主義の論争の先駆 となる,解釈的司 法審査 と非解釈的司法審査 を論 じた,グ レイ教授の見解 を検討 し‑ グレイ教 授 自身は非解釈主義者であるが ‑ ,次に,この議論 を,原意主義 と非原意主 義 に発展 させ たブ レス ト教授 の主張 を取上 げ‑ ブ レス ト教授 自身 は非原意 主義 に組みす るが ‑ ,さらに原意主義の主唱者 と目されているボーク元判事 の主張 を検討 し,最後 に,その立場 を原意主義‑ とシフ トさせ た,ぺ リ‑教授の 見解 を検討 しようとす るものである.この ように,本稿 は,論争のほんの一端 に ふれているに過 ぎない ものであ り,原意主義 を語 るには欠かせ ない論者達,例 え ば,バ ーガー教授や イ リイ教授32)の主張 を‑ 別稿 においてふれたことが あ るとはいえ33)‑ 取 上げていない。本稿の 目的は,私見 といえる もの を形成す るための,習作 とい う面があることを,お断 りしておかなければな らない。
31) この点についての邦語文献として,例えば,大沢秀介・アメ リカの政治と憲法(1992 年)参照。
32) SeeJ.ELY,DEMOCRACYAND DISTRUST(1980).邦訳 として, ジョン・H ・イ リイ (佐藤幸治‑於井茂記訳)・民主主義 と司法審査 (1990年)0
33) 猪股弘貴「アメ リカにおける『福祉権』と憲法解釈」・社会国家の憲法理論(1995 年)135頁以下参照。
= グ レイ教授の解釈的審査 と非解釈的審査
憲法解釈論争 をわか り易 く定式化 させたのが,グ レイ教授であった。小論 とは いえ,その後多 くの論者 によって参照 され ることになる,「われわれは不文恵法 を持 っているのであろうか (DoWeHavean Unu)rittenConstitutionP)」 に おいて,司法審査 を純粋解釈モデル (pureinterpritivemodel) と非解釈的司 法審査 (noninterpritivejudicialreview)に二分 したのである34)。 この ような 発想 を生んだ,グ レイ教授の問題意識 は次の ような ものであった。
「法律の合憲性 を審査す るについて,わが国の裁判官は, これ らの法律が, 成文の合衆国憲法か ら引 き出された規範 と衝突 してい るか どうかの決定 にの み,限定 されるべ きなのであろうか。それ とも,これ らの どこを見渡 して も兄 い出すことので きない, 自由や公正の諸原理 を用いることが許 され るのであ ろうか。この間題 は,司法審査 自体の正当性の問題 を除けば,おそ らく最 も重 要な憲法 問題であろう。」 35)
この間題 は,長い間憲法学者や裁判官の注意 を引 くことはなかったが,重要な例 外 として,ブ ラック最高裁判事が存在 している。グレイ教授 は,フラ ック最高裁 判事 を,次の ように評 している。「彼の長い,また注 目すべ き裁判官生活 を通 し
て,彼の憲法学の中で問い続 けられたテーマは,憲法典 に忠実な司法審査が必要 であ り,成文憲法典の明示的な命令以外の根拠 に基づ く原理 には,正 当性がない ということであった」 36)と。 この ような見解 において,批判の的 とされるのが, 平等保護の分野における 「基本的利益 (fundamentalinterest)」 と,プ ライバ
シーの権利である。今 日,ブラック最高裁判事の ような立場 に賛同す る者 も現れ るようになって きているとして,ボーク元判事,リンデ教授,お よびイ リイ教授 の見解 を鳥轍 している37)。そ して,この ような司法審査のあ り方 を,グ レイ教授 は,純粋解釈 モデル と名付 けるわけである。この立場 は,実際強力であ り,明快 34) Grey,DoWeHaveanUnu)rittenConstitutionP,27STAN.LREV.703(1975). 35) 〟.
36) Ld.
であるという。なぜ な らば,これまでの憲法 についての考 え方 に深 く根差す もの であ り,なかんず く,マ‑ベ リー対マデ イソン事件38)において築かれた司法審査 の理論であるといえるか らである。この見解の主な利点は,司法審査が非民主的 であるとの批判 に答 え得 るこ とである。「純粋解釈モデルの下 においては‑
裁判所が受けの よい法律や実務 を違憲・無効 とするにつ き,その結果 として生ず る公衆の抗議 に対 して,常に応 え得 るか らである。『われわれがそれ をしたので はない‑ あなたがたが したのだ』と。法律や実務 によって侵 されて きた原理 を,人民が選択 し,それを基本的な もの として意図 し,裁判官が解釈 し適用す る ために,それを憲法典 に書 き込んだのである。人民の命令 を解釈す る仕事 は,必 ず しも単純で機械的な ものではない。ブラック最高裁判事や彼の同調者達 を『機 械的法学』という通 り名で非難す るのは正 しくない。そうではな く,この営みは 基本的に解釈の一つ,すなわち新事実に対す る固定 された,拘束力のある諸規範
の適用なのである。」 39)
ところが,個人の権利の領域 に限ってみて も,多 くの重要な憲法原理は,司法 審査 についての純粋解釈 モデルの立場か らは正 当化 され得ない ものである。純 粋解釈モデル を採用す ることの帰結は,次の ようになる。第一 に,実体的デュー・
プ ロセスを終蔦 させ ることにな り,連邦政府が明白な人種差別 をす ることを,憲 法 問題 としては,手 をこまねいていなければな らないことになる。というのは, 平等保護 によって諸州 に対 して向けられている禁止 を,修正第5条のデュー・プ
ロセス条項の中に読み込むことは,法文上,正 当化 され得ないことになるか らで ある。第二 に,州 に人権宣言を適用 させ ることが,正 当化 され得な くなる。第三 に,平等保護条項 の下で,「厳格 な審査 (strictscrutiny)」を要求す ることにな る,「基本的利益」のすべては,放棄 されなければな らないことになる。 とりわ け,選挙権および選挙過程‑の参加の諸利益 に関わる諸原理は,支持 され得な く なる。第四に,州 による人種差別 を禁止 している多 くの法律が,その まま存続
37) Ld.at705.
38) Marburyv.Madison,5U.S.(ICranch)137(1803). 39) Grey,suPllanote34,at705‑06.
し得 るのか,重大 な疑義が存在す る。例 えば,州 による人種的分離のいかなる形 態 をも,平等保護条項が禁止す ることを意図 していると読む ことがで きるのか 疑問であ り,同等な施設利用が可能 とされている限 り,分離す ることが許 され る のではないか との問題が生ずる。最後 に,社会的価値の変化 とともに人権条項の 適用 を発達 させ,展開させ ることを諦めなければならないことになる。例 えば, 残虐で異常な刑罰 を禁止 している修正第8条,修正第1条,修正第4条,および 貧 困な者 に対す る弁護人依頼権 を保障 している修正第6条 をめ ぐって,近時展 開 されて きた諸原理 を擁護 し得 るのか,疑 問が残 ることになる。以上の ように, 純粋解釈 モデル を単純 に,一貫 して適用す るな らば,確立 された憲法原理 を,劇 的に解消 させ ることを余儀無 くさせ るこ とにな る, とグ レイ教授 は述べ るので ある40)0
しか し,保守派 は,一旦受 け入れた慣行 を急激 に変えることを求め る,いかな る抽象的な前提 をも採用す ることに蕗蹟す るであろうし,リベラル派 は,基本的 人権 を擁護す る裁判所 の権 能が大幅 に減少す ることに恐 れ をなす こ とであろ う。グレイ教授 は,これ らの不快な結果 を回避す るためにも,非解釈的審査 を採 用す ることを支持す ると言 うのである。とはいえ,法典や歴史 に合意 されている 諸規範 を超 えた憲法裁判 を容認す るためには,積極的な正当化が要求 され る。グ レイ教授 は,この間題が進むべ きい くつかの段階を示唆 し,その進むべ き方向の ための ヒン トを与 えようとしている。まず第一 に,憲法典や憲法史か らの実質的 指針な しに,裁判官が基本的人権 を定義 し,強行す る大 きな力を持つ ことが,質 明で思慮深 い ものであるか どうか ということである。この点は,これ までの司法 審査の長い間の行使の実際の帰結 を,いかに評価すべ きかにかかる。また,機関 としての能力や,裁判官の一般的傾向についての議論 も,この点に関係す る。次 に,一般論 として,法典 による指針 な しに,基本権 を定義 し,強行す ることが, 本質的に司法の役割 としてふさわ しいかが問われなければな らない。 この点で
グレイ教授 は,立法の一形態 として,事件 ごとの判決 を通 じてコモ ン・ローを発 40) Seeid.at710114.
展 させ る,伝統的な司法の役割 に注 目す る。コモ ン・ロー と意法規範 とでは,法 的段階に違いがあるとはいえ,コモン・ローを発展 させ ることと,事件 を通 じて 憲法規範 を発展 させ ることには,機能的類似性が認め られ るとい う。非解釈的審 査の正当性 を検討す る,第三の レベルの問題 として,法源 (lawfulauthority)
の問題がある。た とえ非解釈的司法審査が,幾人かの観察者の 目には,良い結果 をもた らしているように見 えているとして も,また,本質的に司法 に馴染 まない わけではない として も,合衆国憲法の下において,わが国の裁判官 に,非解釈的 司法審査 という大 きな権能を行使す ることを認めているか否 か とい う,問題 が 残 ると言 うのである。この間題 に対 して,グレイ教授 は,以下の ような,当座の 解答 を示 している。
「合衆国憲法 を制定 した世代 に,『自然法』を保護 し,政治的遵守事項 とし ての通常の実定法 に優先す る, 『高次法』の概念が,広 く共有 され,深 く浸透
していた.アメ リカ立憲主義の本質的な要素は,自然法の中のい くつかの原理 を,成文の形態 に‑ すなわち実定法 に‑ 置換 えたことにあった。しか し, 同時に,成文憲法 によって,高次法 を完全には法典化 し得ない ということが, 一般 に認め られていた。従 って,アメ リカ憲法の制定 において,高次法である, 不文の,しか しなが らなお拘束力のある諸原哩が残 されているということが, 広 く受 け入れ られていたのである。修正第9条 は,連邦政府 における,この様
な考 え方の,法文 としての表現なのである。」 41)
グレイ教授 によると,不文の,高次法 としての諸原理が,憲法上の地位 を得てい るとの原意が,黙示的に,存在 しているというのである。司法 は,成文憲法の命 令 を強行す る権能 を持つだけではな く,不文の 自然権 をも,憲法上の制約 として 強行 し得 る, と主張す るのである42)。
以上が,グレイ教授の主張の概要である。このグレイ教授の論文が書かれた当 時,アメ リカの憲法学 においては,司法審査制 自体の正当性の問題 と,司法積極 41) 〟.at716.
42) Seeid.at716‑17.
主義か消極主義かの問題 に焦点が当て られていたのであるが, この論文の出現 は,憲法解釈の問題 ない しは司法審査の際の権威 あるいは根拠の問題 に目を向
ノ
けさせ ることとなった点で,重要な ものであった。そ して,そこで提示 された純 粋解釈モデル (解釈的司法審査)と非解釈的司法審査の二分法 は,その後,イ リ
イ教授 によって,それぞれ 「解釈主義」 と 「非解釈主義」 という形で展開され, 激 しい論争へ と発展 してい くのである。その ような契機 となった点で,グレイ教 授の功績 には大 なるものがあった と言 えるであろう。ただ し,その主張内容 につ いては,疑 問を感 じさせ られる箇所がある。というのは,グレイ教授 は,自説 と
して,非解釈的司法審査 を正当 とし,裁判官は,不文憲法 としての 自然権 をその 際の判断の源 とすべ きであると主張 している。この ように,グレイ教授の立論の 根底には自然法論が存在 している。 しか し,ここには,いわゆる「自然主義のフ アラシー (naturalisticfallacy)」が存在 し, 自己の理想 とす るもの を実は憲法 と称 しているにす ぎないのではないか との批判 を免れ得ず,グ レイ教授が この 間題 を克服 しているとは思われないのである。また,グレイ教授 は,憲法起草者 達あるいは批准者達が,裁判官が 自然法 を援用す ることを,承認 していたことを その立論の根拠 としている。しか し,この ことが,歴史的事実 として正 しいのか については,疑問が残 る。グレイ教授 は,歴史的事実に照 らして,このことを立 証 しなければな らないのに,単に推測で述べ ているに過 ぎない と言 えるのでは なかろうか。従 って,グ レイ教授の立論 は,支持 を得 るには不十分である,と言 わざるを得ないのである。なお,もしグレイ教授の採用す る前提,すなわち,憲 法の制定者達の多 くが,その後の憲法の発展 を,裁判官達 に委ねていたことが歴 史的事実であ り,合衆国憲法修正第9条がその ことを意味 しているとす るな ら ば,原意主義 において も,不文憲法ない しは自然権 を裁判官は援用す ることが正 当であると主張す ることが可能 とな り,原意主義 と非原意主義の論争は解消 し, ほ とん ど意味 をなさな くなると言って よいであろう。しか し,このことの論証 に 十分成功 しているとは思われないのである。
三 ブ レス ト教授の原意主義 と非原意主義
憲法解釈論争 を原意主義 と非原意主義 に二分 した噂矢 は,ブ レス ト教授であ った43)。それ までは,既 に述べ たように,解釈主義対非解釈主義 として議論 され ていた。ブ レス ト教授が,解釈主義 に代 えて原意主義 とい う造語 を提示 したの は,憲法上の意思決定のほ とん どすべては,解釈 を伴 うものだか らである。問題 は,何が解釈 されるのか ということであ り,原意主義 という用語法 は,先例や社 会的価値 とは区別 された もの としての,法典やその歴史の解釈 をす ることを示 すために使用 されている。憲法判断は常に解釈 によって示 され るものであ り,論 争 を解釈主義対非解釈主義 として二分す るよりも,何 を解釈す るのかに着 目し て,原意主義対非原意主義 とした方が妥当であ り,論争 も明確 になると言 えよ う。ブ レス ト教授の この論文の出現後 は,多 くの論者 によって,原意主義,非原 意主義 という用語法が使用 されているのである。
さて,ブ レス ト教授 によると,原意主義 とは,「合衆国憲法の法典,あるいは 制定者達の意図に,拘束力のある権威 を与 えるところの,憲法訴訟のアプ ロー チ」44)である。 この立場は,マーシャル最高裁長官が,マ‑ベ リー対マデ イソン 事件 において合衆国憲法の成文性の重要性 に言及 して以来,あれや これやの形
において,アメ リカ憲法の伝統 として継受 されて きた ものである。原意主義が, 最 も広 く受 け入れ られている理由は,合衆国憲法 は,国の最高法規であるという
ことである。合衆国憲法 は,主権 を有す る合衆国市民の意思であ り,解釈者の仕 事は,これ らの意思 を確定す ることである。より便宜的な支持理 由としては,法 典や原意 に忠実であることは,判断者の裁量 を制約 し,合衆国憲法が時の経過 を 超 えて,一貫 して解釈 されるの を保障す ることがで きるということにある。これ に対 して,非原意主義 とは,「法典やその歴史に,一応は重要性 を認め るが,そ 43) Brest,TheMisconceived(htestjTortheOn.ginalUnderstanding,60B.U.L.
REV.204(1980). 44) Id.
れ らを権威 あるもの,あるいは拘束的な もの としては扱わない」45)立場のことで ある。ブ レス ト教授 は,この うちの非原意主義 を支持す るのであるが,原意主義 を詳細 に分析 し,検討 してお り,そこには多 くの重要な指摘 も含 まれているの で, まずその点の検討か ら始め ることに しよう。
ブ レス ト教授 によると,原意主義には,基本的に,三つの方法論が存在す ると いう。すなわち,法典主義 (textualism),意図主義 (intentionalism),統治機 関の構造お よび関係か らの推論 (inferencefrom thestructureandrelation‑
shipsofgovernmentinstitutions)である。法典主義は,法規範 における言語 を,主要な,ない しは排他的な法源 とするものである。なぜ な らば,成文法典の みが憲法上の義務 を課 し得 るという,明確 な,超法規的原理が存在す るか らであ り,また,制定者達 は,合衆国憲法が法典主義者の規範 に従 って解釈 されるべ き ことを意図 したか らであ り,さらに,規定の正文は,制定者達の意図 を知 るため の,最 も正確 な道 しるべ となるか らである。そ して,法典主義の模範 となる解釈 手法 は,いわゆる 「明白な意味のルール (plainmeaningrule)」 と呼ばれ るも のである46)。法典の明白な意味 とは,法典が使用 されている状況の下で,「英語 を話す通常人」が理解する意味のことである。ここでは二種類の状況が関連 して いる。すなわち,言落 上の文脈 と社会的文脈である。言語上の文脈 は,語葉や構 文 ・文法 に関わる。これに対 して,社会的文脈 は,規定が仕 えようとしたであろ う諸 目的の,共有 された理解 に関わる。一方,意図主義は,規定 を制定 した者達 の意図を確定す ることによって,その規定 を解釈す るというものである。法典 は,しば しば,制定者達の意図 を知 るための有用な手掛か りとなるものではある けれ ども,法典がその他の拠 り所 に勝 る地位 を占め るとい うものではない。な お,法典主義者は,制定者達特有の言語の使用法 にこだわ らないのみな らず,刺 定者達の主観的 目的に も関心がないのである。さらに,ブ レス ト教授の言 う,構 造および関係か らの推論の立場 (構造主義)にふれておこう。 これは,チャール 45) 〟.at205.
46) SeeSturgesv,Crowningsshield,17U.S.(4Wheat.)202‑03(1819).