• 検索結果がありません。

ペ ルー 「革命的」軍事政府 に よる工業化 とその挫折 - ヴ ェラス コの実験-

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "ペ ルー 「革命的」軍事政府 に よる工業化 とその挫折 - ヴ ェラス コの実験-"

Copied!
29
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

ペ ルー 「 革命的」軍事政府 に よる工業化 とその挫折

‑ ヴ ェラス コの実験‑

宝 福 則 子

は じめ に

1 99 0 年夏 に日系二世 アルベル ト・フジモ リが大統領選挙 に立候補 し、彼 の 政権 が発足 した。 そ して 1 9 91 年夏、極左ゲ リラ ・グループ 「セ ンデロ ・ル ミ ノソ」 ( 輝 ける道)がテロ行為 を起 こし、国際協力事業 団 ( J I CA) の 日本人職 員 を殺害 した。 これ らをきっか けに、 日本 のテレビ・ 新聞 ・ 雑誌 な どのマス ・

メデ ィアが、ペルーの社会問題、 とくにその抱 える対外債務 の累積問題 な ど をクローズ ・ア ップ し始 めた。現在 の第三世界が抱 える貧困や失業、 さらに 累積債務 な どのアクチ ュアル な問題 は、一 つの矛盾 なのであ り、 それ は、第 二次大戦後 のペルーの工業化 のプロセス と密接 に結 びついた構造転換 の試 み

の結果、現 れた ものである

ペルーの社会構造上 の問題 は、他 の多 くの発展途上国 と同様 に、 その植民 地時代 にさかのぼる。さ らに 1 8 21 年の独立後 のペルーで は、中央 と、地方の 軍人首領 が戦争 を起 こした。戦争 による経済 の不安定が、 この間題 を深化 し た。 しか し、 リマの中央政府 が全国支配 を確立 し、 グアノ ( 海鳥の糞 が堆積

した もので、肥料 として用い られ る)お よびサルベーター ・ブーム と、 これ らの天然資源 の輸 出によ り、経済 の安定化 を実現 し、全 国的な社会資本 の建 設 と国民軍創設へ向か う。 この試み は、お もにア ンデス越 えの鉄道建 設 によ

る膨大 な対外債務 、 そ してテ リー との太平洋戦争 ( 1 8 79 ‑1 8 83) によって決定 的 に挫折 し、東部領土の一部分や鉄道網、そ して勃興 しつつある繊維工業が、

債権 国の手 に渡 り、外 国の商社や銀行が、沿岸都市部 に根 をお ろす。寡頭層

が 、1 9 世紀末 に確立 し、「 飛 び地」的な近代的輸 出部 門 ( 砂糖 ・ 綿化、 ゴム等

(2)

のプランテー シ ョン) の創設 と資源 ( 金属、原油)の輸 出によって世界市場 への参入 に とりかか り 、2 0 世紀初頭 には外 国資本 によってさ らに強化 され、

地歩 を固めた。 この強力 な輸 出路線 は、都市部 にい くつかの限 られた 「 飛 び 地」的な近代 的成長部 門 を形成す る ことになったが、 その まわ りの民衆 は、

その恩恵 にあづか ることはなか った。大部分 の民衆が経済的 ・社会的 に統合 され ることな く、今 日に至 っている

この事実が、現在 の極端 に不均衡 な所 得配分や高失業率、 そ して国民総生産 の 3分 の 2を占める首都 リマへペルー 人 口の 3 分 の 1 が集 中す る とい う、 中央 中心的構造 に、反映 してい る0

ペルー はこれ まで民族的 ・政治的統合 をむな し く試 みて きたが、植民地時 代 か らのイ ンデ ィオ先住民 にたいす る抑圧 と差別、お よび 1 9 世紀末 に確立 し た農業寡頭層の支配 のために、共通 のアイデ ンテ ィティーが形成 されなか っ た。国家機 関、政党、労働組合、軍隊、官僚機構 、教会等の「 公的」なペルー にたい して、農民 ・都市大衆層お よび 自給 自足層や地方 の伝統 的な手工業者 層 の ような 「 非公 的」 ない しはマー ジナル ( 周辺部)なペルー は、対立 して いた ( H8 r mann1 9 9 1:1 9 7 f

)。

この対立が 、1 9 5 0 年代 か ら 6 0 年代 にか けて、

農村 にお ける蜂起等の社会的緊張 となって現れ 、6 0 年代 の為政者 に農業改革 を施行 させた。

1 9 6 8 年、ヴェラス コ将軍が軍事 クーデター によって政権 を掌握 し、旧来 の 伝統 的な社会構造 の転換 を目的 とし、農業改革 を施行 した。この農業改革 は、

さ らに工業化 の資金供給源 の創 出 とい う意 図 をもって、工業化 のための必然 の前提条件 として施行 された。

本稿 で は、 まず、構造転換 の対象 とされた伝統的農村構造、お よびヴェラ ス コ「 革命」の性格 とその農業改革 に触れ る

そして 、1 9 7 5 年 まで続 いたヴェ ラス コ政権下の工業化 の試 み、お よびその挫折 のプロセスを、軍事政権 の経 済政策 と支配層 内の個々の利害集団 との関係 を中心 に考察す る

1 .伝 統 的農 業構 造 と 6 0 年代 の社 会 的 緊 張 ‑ 「 革命 」 の 前提 条件

ペルーの伝統的農業構造 の特徴 は、 ラテ ィフンデ ィオ ( 大土地所有) とミ

(3)

ニ フンデ ィオ ( 零細農)の土地所有 の二極化 に見 られ る 。1 9 6 9 年の農業改革 以前 は 、 0. 9% の大地主 ( 1 0 0 ㌶以上)が農地 の 7 2. 6% を所有 し、 他方で 、 9 0. 7%

の農家 ( 9 ㌶以下)が農地 の 9. 1 % を所有 していた ( 宝福 1 9 8 3:5 6 )

大地主 はその所有地 を粗放農業で経営 し、機械、技術 お よび肥料 をほ とん ど投入 し ないため、生産性 も低 い。ア シェ ンダ ( 大農園)内の肥 沃 な土地 は自ら経営 し、他 の大部分 は小作地 として、周辺部 の ミニ フンデ ィオや土地 を もたない カ ンペ ジーノ ( 農民) に耕作 させ る

貨幣経済が強 く浸透 した地域で は、 と

くに 6 0 年代初期か らの労働組合 の圧力 によ り、 小作料が金銭で支払われ るよ うになった。 それ まで は、収穫物 の物納で あ り、他 にさまざまな義務 、例 え ば、地主耕作地用の農具の制作や補修、地主の収穫物 の運搬 か ら、地主の 自 宅 の家事 に至 るまで の奉仕義務 を負 っていた。 このア シェ ンダ と ミニ フ ン デ ィオか ら成 る複合体 の他 に、奥地へ追 いや られた高地地方 のイ ンデ ィオの 村落共同体が あ り、 これ らが典型的 な伝統的農村構造 をなす。最後 に挙 げた イ ンデ ィオ村落共 同体 は 、1 91 9 年 の憲法 によ り、法的 に農地 の部落別共 同所 有が保障 され 、1 9 6 9 年 の農業改革法 によって農民村落共 同体 と名称 を変 え ら れた。 しか し、 「ほ とん どの農民村落共 同体 は潅概化不可能 な山肌 に位置 し、

農地 はやせ て いて、一戸 の耕作地 が極端 に小 さい段々畑 に分 散 してい る」

( Gai t s c h1 9 7 6:1 9 ) 。 ここで は、 自給 自足経済が営 まれている。

「 40 年代 に労働組合が強化 され、ペノ p‑の農民や農業労働者 の政治宣伝活 動 のための基盤がつ くられた 」( MI R:1 01 )

これ に加 えて 1 9 5 0 年以降、農 村 か ら都市部への人 口移動 とマスメデ ィアの普及 によるコ ミュニケー シ ョン

の発達 によって、都市 の価値観が農村部 の住民 に、高地 の村や伝統的 アシェ ンダでの悲惨 な生活条件 について考 えるきっか けを与 えた。 とくに 1 9 5 2 年、

クス コ県 ラ ・コンヴェンシオ ンの大地主が、 コー ヒーの世界的 な需要 の伸 び

に ともない、 コー ヒー栽培 に適 した土壌 の小作地 を取 り上 げ、直接経営農 園

とし、労働条件 を厳 し くしようとした。この ことをきっか けに、小作農が 1 9 5 2

年 に最初 の農業労働組合 を結成 した。農民 の地方別 の闘争が 、1 9 5 2 年以降 は

伝統 的農業構造 の解体 を目的 とす る全 国的 に組織 された農民運動 に変 わ っ

(4)

た。1 952 年か ら 1 9 62 年 にか けて「 多 くの農業労働組合、お よびその地方連合 が創設 された

。 (1)

60 年代 には、高地 で広範 に行使 されていた上記 の類 の支配 状況 に抵抗 す る農民大衆 の闘争が増 え、農園の占拠が展開 された。「 1 962 年 に ラ ・コンヴェンシオ ンで ウ‑ゴ ・ブランコ ( Hu goBl a n c o ) の率 いる農民が アシェ ンダの地主 を追 い払 った時 に、農村部 にお ける農民革命家たちの運動 はその頂点 に達 した 」( Fi ns t e r e r 1 97 8:27) 。1 962 年 のブ ランコ逮捕後、軍 部 ・ 警察 の抑圧 に もかかわ らず、「 農地 を再 び獲得 しよう」 とい うスローガ ン

で、運動が さらに広が り、 しか も 1 965 年 にはパ ンパ ・デ ・ア ンタにまで波及 した ( Fuhr 1 987: 7 2 f f ) 。 この状況 は、以下 によって説明で きるであろう。す なわち、ペルーの輸 出部門寡頭層 は、何十年間 に もわた る天然資源 の乱採掘 ・ 輸 出 によって、 その支配 を確立 した。 この少数の寡頭層 は、 その活動 を、半 封建 的な生産関係 を特徴 とす る、非生産 的な伝統的農業寡頭層 の勢力圏外 に 限定 した。 こうす ることによって両寡頭層 は共存 し合 い、支配 関係 を固めて きた。しか し、ペルーが沿岸部 の砂糖等 の輸 出品増産 の目的で近代化 を進 め、

欧米工業国が、 この国 を単 なる資源供給 国 としてではな く、 自国の 「 市場」

と見 な した時 に、大土地所有 と結びついた社会形態が崩れたのだ。

50 年代 と60 年代 の激 しい農地 占拠、沿岸地域 の農業労働者 のス トライキ、

お よびキューバ の例 にな らったゲ リラ運動 と結 びついた、急進 的な変亭 を求 める勢力 をおさえ、この状況 を制御 す る方策 は、農業改革 による農地 の収用 ・ 再配分 によるしか ない、とい う見方が、米 国政府 内に も熟 して きた ( Ko r n be r ‑ ge r 198 8:83)

米国陸軍 の 19 65 年版 「 ペルー・ ハ ン ドブ ック」が、 この間の 状況 を説明す る。「プラ ド Pr a d o 政府、19 62‑1 96 3 の臨時軍事政府 とベ ラウン デ Be l a もnde ( 大統領)は、近代 的な警察力 を動員 し、 ある程度 まで は暴力 と

(1)La t e i name r i k aNa c hnl c ht e n ,So n d e r n u mme rPe r u 1 9 7 7 :6 6 ,1 9 6 3 年の時点 で、クスコ県、アヤクチョ県、プノ県で、1 5 0 0 の農業労働組合が組織 されていた。

クスコ県だけでも3 0 0, 0 0 0 0 人のアシェンダ ・村落共同体 ・無所有農民が農民運

動に参加 した。ー

(5)

無秩序 を制御 す るこ とがで きたが、恒常 的 に平穏 な状 態 は社会改革 と迅速 な 経済条件 の改善 によってのみ達成 され る とい うことは明 らかだ。 ( ‑・ 中略‑) 不安定 の主 な原因 は、 イ ンデ ィオが農村 の経済 的 ・社会 的生活 か ら分離 され た ことにある。 もし、大部分 のイ ンデ ィオが、 自分 の状況が改善 されない と 思 った ら、 イ ンデ ィオ集 団 は破壊分子 を育 て る温床 となるだ ろう

独 自の利 害 か ら行 動す るグルー プや左翼 の煽動者 たちは、行動原則 か らみて も、イ ン デ ィオ を自分 た ちの手 中 に入 れ、 自由に動 かす ように行動す るだ ろ う

労働 組合 とイ ンデ ィオか ら成 る農民 の連合体 は、 と くに良 く組織 されたペルー共 産党 に簡単 に操縦 され るで あろうし、 そ うなる と最 も破壊 的 な潜在能力 とな る。 ( ‑中略 ‑)他方でイ ンデ ィオ は、将来 、 その農地 占拠 の際 に、軍隊 に支 援 され るか もしれ ない。新兵や、その数 を増 す ばか りの若 い将校 も、社会 的 ・ 経済的 に充分 な権利 のない層 の出身 で あ る

」 (2)

農村部 の不穏 な状況 に うなが されて 、6 0 年代 にはペ レス ・ゴ ドイの臨時軍 事政権 ( 1 962‑63) と文民 出身 のベ ラウンデの政府 ( 19 63‑ 68) によ り、農業 改革法が施行 された。ペ レスの改革 の時点 で、地 方の労働組合が、事実上、

すで に伝 統的農業構造 の変革 に着手 していた。 しか し、 これ以外 の他 の地蟻 で は、法令 は、大地主 による妨害や外 国資本 ( 主 に米 国)所有地へ の例外措 置等 に よって実施 され なか った ( Mas t e r s on1 991:1 83 f )

0(3)

ベ ラウ ンデの改 革令 には、土地 の再配分 ・クレジ ッ ト供与 ・技術 コンサル タ ン ト ・商業化 に か んす る規定が含 まれていた。改革 に必要 とされた農地 は、収 用後 、土地無 所有 の農民や零細農、 イ ンデ ィオ村落共 同体 あ るいは協 同組合 に、配分 され ることになってお り、それ ゆえ、これ はペルーの農業史上、非常 に意味深か っ た。 しか しこれ も、農村寡頭層 の圧力 に屈 した、妥協 の産物 に終 わ った。 こ の改革法 に も、運用 に当た って多数 の例外規定 が設 け られ、改革措置が ほ と

(2)USAr my: Ar e aHandb o o kj T o rPe r u.1 9 6 5; J ul i oCot l e r : Cl a s e s ,e s t a do y na c i 6 ne ne lPe r i l .Li ma1 9 7 8 .P. 3 6 4 引用 より

(3) Pe r v i anTi me s ,2 7J ul y1 9 6 2 ,p. 1 . ;同上 3.Augus t1 9 6 2,p. 1 引用より

(6)

ん ど効力 を発揮 で きなか ったか らである ( Gai t s c h1 9 7 6:4 2 f )

0

「ほんのわず かな、 ほ とん どが非生産 的な、比較 的、規模 の大 きな地主の農地 のみが収用 された。 その際 に、 これ らの農 園で働 いていた農業労働者 は排除 され、農地 は生産 的な経営体 に転換 され るか、あるいは社会的な平和化 の戦略 にそって、

小農 に分配 された 。1 9 6 9 年の農業改革 まで に全耕作面積 の約 8% に当た る約 1, 5 0 0 万㌶が分配 された。この措置 は、農業 の近代化 に も基本的 な構造上 の欠 陥修正 に も寄与 しなか った。国民総生産 に占める農業 の割合 は 、1 9 6 0 年か ら 1 9 7 0 年 までに 6% 以上 も下が った

(

J

ans s e n/Rade mac he r1 9 7 6:3 9 4 )

2 . ヴ ェラス コ 「 革命 」 の性 格

ベ ラウンデ大統領 は、農地改革の実施 と、認可無 しにペルーで石油 を採掘 していた米 国の石油会社 I PC の国有化 を公約 していたが、 それ は守 られ な かった。農業改革 は当初 の達成 目標 を大幅 に下 回 り、ペルー全土 で農民 の農 地 占拠が起 こった。そ して、大統領が I PC と秘密協定 を結 んでいた ことが、

世間 に知 られた。遂 に、この時点 、1 9 6 8 年 1 0 月 3 日に、軍隊が クーデター を 起 こした。 クーデターの指導者 のフア ン ・ヴェラス コ ・アルヴ ァラ ド ( J uan Ve l as c oAl var ado) 将軍が、臨時政府 を樹立 した。臨時政府 は、 その最初 の 措置 としてタララの I PC 精油所 を占拠 し、国有化 した。閣僚 メ ンバー は、主 に軍部 の指導的な地位 にある若手 の将校 か ら成 り、農民やゲ リラ ・グループ の反乱 を鎮圧す るために動員 された際 に、農村 の社会問題 を知 り、抜本的な 改革 の必要性 を確信 していた者 たちであった ( Kor nbe r ge r1 9 8 8:8 4 ) 。 ピウ ラ出身の混血 のクーデター指導者、ベ ラス コの出 自 ・経歴 と政治的傾 向 は、

GAEM ( 高等軍事研究所)出身の、新 しい 「 革命的」思想傾 向 を もつ将校層 を代表 していた。 しか し、 ヴェラスコ と彼 の同調者 たちには、軍事機構 とそ の ヒエ ラル キーに敬意 をは らう、 とい う共通 の認識 があった。 そのため、彼 の第 1次内閣 には、政治的関心が、伝統的地主層や輸 出業者層の利害 と一致 している 「 古い世代」 の将軍たち も入閣 した ( Yo nOe r t z e n1 9 8 8:8 5 ) 。

「 革命政府 は、機会 あるごとに、民族的で、外国の影響や路線か ら離れた政

(7)

策 を追求す る、 とい うことを宣言 して きた。今 日、われわれ は この立場 を強 化 している

われわれ は民族主義者で あ り、革命家 である。われわれ は、ペ ルーの問題 をペルー式 に解決す るつ もりだ。 ( ‑中略‑・ )これ までの過去 にお いて何度 も公言 されて きた、構造改革 を約束 した し、これ を貫徹 す る0( ‑中 略‑)構造改革 とは社会 ・経済 システム をペルー に輸入す る、 とい うことで はない。 ( ‑中略‑) これ は、過激主義 の立場 で はな く、公正 の立場 なのだ。

民族革命 の意図 は建設す ることであ り、破壊 す ることで はない。 しか し、少 数者 のための建設 で はな く、大多数 のための建設 である

」( Ve l as co1 9 7 3:3 8 f f ) このヴェラス コ演説か ら簡単 に推察 で きるが、民族主義 の立場 にたった

「 資本主義」で も 「 共産主義」で もない、 とい うスローガ ンの下で、 あい まい な 「 第三 の道」 を説 く 「 革命的」政策 が展開 され る。

I PC の国有化 に続 いて、米国資本が所有す る諸鉱 山や、鉄道網 ( 英米資本)、

I TT 経営 の電話網、その他 の電気会社 や多数 の銀行 が次々 に国有化 された。

また腐敗 しきったプラ ド ・コンツェル ン ( 銀行、漁業加工工場、化学 ・繊維 工場等)や、 リマの魚粉工業、空港、近郊交通機関等、国内の資本家が経営 す る企業 も国営化 され、農業 ・漁業生産物 の流通販売 は、国営組織が引 き受 けることになった。

しか し、 これ らの措置 は、外 国資本 を絶対 に拒否 す る、 とい う思想か ら出 発 していたわ けで はない。国営化 された企業 の一部 は、気前の よい補償金 を 受 けた。 しか も、国営化 された多 くの企業 は、原料輸 出 に依存 してお り、経 済的 に非常 に不安定 な基盤 にあった。 さらに これ らの企業 は、以下 の ような 理 由によって、経営危機 の状態 にあった。つ ま り、漁業で は気候 の変動や乱 獲 による、 いわ しの不漁 に苦 しみ、セ ロ ・デ ・パ ス コ ・コーポレー シ ョンや マル コナ ・マイニ ング ・カ ンパ ニー等 の鉱 山で は施設が老朽化 したた め、早 急な投資 を要 していたに もかかわ らず、設備投資がなされなか った。 そのた め、生産量が停滞状態 にあった。他方、米 国のサ ウザ‑ ン・ ペルー・コツパー・

コーポレー シ ョンは、 クアホネ ( Cua j one) の銅鉱脈 を開発 す る用意 のあるこ

とを表明 したため、資産 を収用 され ることもな く、操業 をしっづ けた。米国

(8)

のオ クシデ ンタルお よびベル コ石油会社 は、新規 に政府 と開発 ・採掘契約 を 結 んだ。

混合経済 に支 えられた、「 第三 の道」を説 いた軍事政府 は、 けっして国家主 導型経済、 あるいは国有企業 による経済 を目指 したわ けではなか ったO団営 部 門、大民間企業、「 社会共益組合」( 従業員 の共同所有企業)、お よび民間小 企業が、 それぞれ に競合す る もの とされた。 もっ とも 「 社会共益」部門 は、

書類上でその存在 を主張す るのみで、数百人 の従業員 を抱 えるこの種 の企業 は、五指 で数 え挙 げ られ る ( Yo nOe r t z e n1 9 8 8:8 6

f)0

3 .農 業 改 革

1 9 6 9 年 6 月 2 3 日に公布 された農業改革法第 1 7 7 1 6 号( 4 ) は、ペ ルー社会 で 充分 に権利 を与 えられていない層の人々が、活発 に国家 の経済的発展 に関与 で きるた めには、ペルー社会 の社会 ・経済 ・文化構造 を変革す ることが必要 である、 とうた ってい る。 この 目的 と並び、政府 は、農業改革 によって、国 内市場 を拡大 し、国家的な規模 の迅速 な工業化 のための資本 を創 出す ること を意図 した。 この 目的 を実現す るために、 ヴェラス コ政府 は、以下 の措置 を とった。すなわち、大地主の伝統的な権力 を示威 的 に断つために、 まず沿岸 地域 の輸 出指向の砂糖生産 アグ リ ・ビジネス工業複合体 を収用 した。 これ ら

は、数 カ月後 には国家監督下 の生産協 同組合経営 に替 わ り、収用以前 のアシ ェ ンダに定住 していた労働者が、 その組合員 となった。外国 と緊密 に結 びつ いた伝統的な輸 出経済 エ リー ト甲利益 に反す る、 この予期せぬや り方 は、ベ ラウンデ政府で はまさに典型的であった妥協 を、軍事政権 が放棄す るつ もり で あることの意思表示 であった。 その他、ベ ラウンデ政府 の立法 と本質的 に 異 なる措置 としては、以下が挙 げ られ る

すなわち、県や郡単位 の農業改革 実施 を容易 にす る、中央集権 的な行政 システムの創設、例外規定 の排除、私

(4 )農業改革法の詳細については、宝福則子 : 1 9 8 3 を参照されたい

(9)

有農地 の最高経営単位規模 の引 き下 げ、収用農地 にたいす る補償金額 の引 き 下 げ等である。農地 の極端 に大規模 な所有形態 も、 きわ めて小規模 な所有形 態 も、いずれ も非経済的 と見 なされ、 この農業改革法 によって禁止 された。

「 農民村落共 同体」と農業協 同組合 に限って、つ ま り法人 にのみ、最高限度面 積 の所有権 を与 えた。政府 は、改革 当初 の混乱 による生産性 の下降 を避 ける ために、農地 の分散化 を避 けた。 さ らに、良 く機能 している旧経営体 の生産 形態 を維持 す る方向で、生産農業協 同組合 の育成 ・促進 に重点 をおいた。政 府 による技術指導や農業用公共融資 は、将来 にはイ ンデ ィオの農民村落共同 体 をも組 み入れ ることになっている社会共益農業組合 SAI S に、 まず優 先的

に供与 した ( Gai t s c h1 9 7 6:8 5 f f

) 。

ヴェラスコ政府 の農地改革 は、 これ までのラテ ン ・アメ リカで、 もっ とも 急進 的で あ り、専門家 の注 目を集 めた。 しか し、今 日で は失敗 した と見 なさ れね ばな らない。新 し く創設̲ Sれた協 同組合 は、「 農業債務 」 ( 20 年間 にわた る土地代金 の国家への分割払 い)の支払 いによって、 恒常的な資金不足 に陥 っ ている

農業改革 は、 まず迅速 な工業化 のための資金 を用意す ることを意図 していたので、有利 な利率の公共 クレジッ トのほ とん どが、沿岸部 にある外 貨獲得用 の輸 出指 向砂糖 プランテー シ ョン等の大経営体 に集 中 し、広範 な範 囲の少額融資援助 はな されなかった。 そのため、大部分 の農業組合 は、設備 投資がで きなか ったので、生産性が下降 した。 また、農地所有形態の構造転 換 も、失敗 に終 わ っている

村落共 同体 に配分 された農地 は、収用 された全 農地 のた った 1 0% である

小農、 日雇 いや季節労働者 も、ほ とん ど農地 を手 に入 れ る こともで きず、農業改革の恩恵 にあずかれなか った。 その結果、ペ ルーの広範 な地域 で 7 0 年代 中期 に、農地 占拠が起 こった。アンダウアイラス での農地 占拠で、農民 を指導 した リノ ・クインタニ リャ ( Li noQui nt ani l l a) は、農民の腹立 ちの理 由 ・原因 を以下 の ように挙 げてい る

「 農業改革の影響 を受 けたアシェ ンダでは、 農民 は農地 を自由に使用で きな

い。農民 は、農地 について も生産 について も決定 しない し、農地 を大衆 に役

立 て るた めに耕作 す るので はな く、資本主義的な国営企業 の利潤 を高 めるた

(10)

めに生産す るのだ。国営企業 の主な 目的 は、国民 の食料 を購 うことで はな く、

利潤だ。農地改革の本質 はここにある。大衆 の欲求 は満 た されない。農地 は、

技術者 と政府 の役人が決定す る。生産計画 はまった く彼 らに握 られている

市場への販売計画 もだ。農民 は自分 たちの生産物 の行方 については影響力 を もっていないか らだ

」 ( Qui nt a ni l l a1 9 8 1:8 1 f )

4 .工 業 改 革

前述 の とお り、軍事政府 は 、I P Cや原料工業、漁業工業や他 の主要 な工業 企業 を国有化 した。しか し、「これ らの伝統的な原料輸 出が不振 となった こと

に起 因 して、国内市場用の耐久消費財生産 の発展 をはか り、加工業 に必要 な 生産財 を保障す るた めに基礎工業 ( セメン ト、鉄鋼、化学、紙、硝子)の拡 大 に重点 をおいた ( Oe r t z e n1 9 8 8:8 8 )

政 府 は 、1 9 7 0 年 7 月 2 8 日公 布 の工 業 改 革 法 に お い て 「 工 業 共 同体」

( Comuni dadi nd us t r i a l ) の育成 ・ 促進 を中核 にす えた。工業共 同体創設 の意 図 は、階級闘争 の克服 と社会 の平和化 にあった。 そ して最終 的 には、都市労 働者 の所得が向上 し、 また都市労働者が共 同決定権 を得 ることによって、政 府 の政策 を支持 させ ようと狙 った ( Wa c he ndo r f e r:9 2 f )

新労働法が公布 さ れ、従業員の雇用保護 と共 同経営決定権が強化 された。従業員数 5 人 ( 後 に

2 0 人)以上 の工業企業、 あるいは年間売上額一万 ソル以上 の工業企業 すべて に、「 工業共 同体」 ( 従業員 を成員 とす る法人)が組織 され ることとした。会 社 は年間利益 の 1 5 % を 「 工業共同体」の従業員用株式基金 に繰 り入 れ、 その 株式資本 に占め る割合 が 5 0% に達 して、労働者が対等 な共同決定権 を得 るま で続 ける もの とした。この期間、基金 の資金が 自企業 に再投資 され る場合 は、

無税 とされた 。5 0% を越 えて も、この 1 5% の同基金への繰 り入れ は続 け られ、

この資 金 が他 工 業 企 業 に投 資 され る場 合 は、同様 に無 税 とされ た ( Kt i ‑

c he ma nn1 9 8 8:2 1 2 f f ) 。しか し、この 目的 は、純粋 に計算上、達成で きなか っ

た。経営者が投資 を強化 し、同時 に会社総資本 を増額 した ら、年間利益が減

少 して しまい、株式 に占める割合が対等 になる時期 は、 その達成期 間が決 め

(11)

られていないため、任意 に引 き延 ばされ るか らである ( Mo nc l o a1 9 7 7:8 6 )

0

その他 に も、経営者 の 「 共 同決定権」実現 にたいす る妨害 は、枚挙 にい とま がなか った。例 えば、外 国企業 で は、従業員代表が参加 で きない ように、監 査会議が英語 でお こなわれた。ペルーか らまった く引 き上 げて しまった他 の 外国企業 は、ペルー国内の工場 を閉鎖 した。多 くの国内企業 は改革路線 にた い して慎重 な構 えをみせた。比較 的規模 の大 きな近代企業 ( 上記の生産部門) は、改革路線 によって起 こりうる自企業発展 のチ ャンスを見越 し、設備投資 を増加 して利益 の抑制 をはか り、従業員 の対等 な経営参加 を遅 らせた。他 の ほ とん どの企業 は、労働保護法施行 と、労働組合 の全般的な強化 に脅威 を感 じた。 とくに従業員数 6 人 か ら 2 0 人 の小企業 ( 労働組合 の結成が法的 に認 め られていない) は、 この共 同体 の労働組合化 を懸念 した

近代企業以外 の工 業経営者 は、投資抑制、企業拡散、帳簿操作等 によって抵抗 した ( Wa c he ndo r ‑ f e r:9 4 f ) 。

政府 が、 この工業改革 にか けた、投資活動 の強化 による経済の活性化、 そ して活性化 による全改革計画実施用の資金創 出、 とい う期待 は裏切 られた。

民間部 門か らの投資が ほ とん どない (とくに農業改革で期待 した、 旧地主の 補償金か ら工業投資‑の振替 えは無 に等 しか った)ため、国家 の投資参画が それ を埋 め合 わせた。国家 の直接投資 に占める割合 は 、1 9 6 8 年 の 3 0 % 弱か ら

1 9 7 4 年の 4 8 % に上昇 した。この改革 は、ついに工業経営者 の事実上 の投資 ス トップ とい う圧力 に屈 して 、1 9 7 7 年 に工業改革変更法が公布 され、最終的 に は、本質的な点 において後退 させ られた。政府が、国内外 の資本勢力 を規制 はしたが、資本主義構造 との どんな断絶 も避 けようとして、生産構造 には手 をつ けなかった結果 である。

投資 の推移 をみてみたい 。1 9 5 0 年か ら 1 9 6 7 年の間、年間投資率 は国民総生 産 の 2 0 ‑ 2 2 % であった。ベ ラウンデ政府 の経済 ・政治危機 のため、 この率 は

1 9 6 8 年 には 1 2. 5 % に落 ち込 んだ 。1 9 7 1 年 には再 び 1 3. 3 5 % に まで」二昇 し、

1 9 7 5 年 にほぼ 1 9 % に達 したが、この投資率 は、それ以前 の過去数年間 には通

常値 と見 なされていた数字 である

また、 ある歴史的な段階か ら、 このパー

(12)

セ ンテ‑ジに占める国家関与 の割合 と民間関与 の割合が変化 した 。 1 9 5 0 ‑ 1 9 6 8

年 の総投資 に占め る公共投資 の割合 は、わずか 2 2 % だ ったが 、1 9 7 5 年 には

5 4% に まで上昇 した。民間投資の割合 は、逆 に 7 8 % か ら 4 6 % に減少 した。政 府 はこの膨大 な国家投資の財源 を国際公共借款 に求 め、対外債務 を膨張 させ た

。(5)

「この増 えるばか りのクレジッ ト需要 は、対外債務 の原資 ・ 利 子支払 い に比例 し、 この支払 いは 3 5 % も増加 した。外的な要素 によるもの もある。輸 入品価格 の高騰 とともに、輸入 に依存 してい る基礎食料品への政府補助金総 額が増加 した上、工業生産財 も著 し く輸入 に依存 しているために、国庫か ら の投資支出 も増加 した。他方でペルーの輸 出品の国際価格が下落 し、 また税 収入 も下が る とい う具合だ った。 これ らすべてが、外貨流出の膨張す る条件

となった ( Mo nc l o a1 9 7 7:8 7 )

0

1 9 7 3 年 まで は、下層の民衆 に とって は、経済政策 のプラスの効果が感 じら れた。失業率 はい くらか下降 し、賃金 は上昇 した。食糧への政府補助金 は失 業者 の助 け となった 。7 0 年代初頭 にはや っ と発展 プロセスが始 まったか に思 えた。 そ して、今 日の視点か らみ る と、当時のペルーの大多数の民衆の物質 的な生活水準 は頂点 に達 してお り、以後、 その水準 は、今 日まで未だ回復 さ れていない、 とい うことが確認 されてい る ( vo nOe r t z e n1 9 8 8:8 7 f )

5 . ヴ ェラス コ政 権 の政 策 と各 支 配 グル ー プの 勢 力 関係

ヴェラスコの軍事政府 は、外 国資本 ( 金融お よびジ ョイ ン ト・ベ ンチ ャー 企業)、国内工業経営者、農産物輸 出業者、テクノクラー ト的方向 を目指す軍 部 と中間層出身者か らなる国家機構 を支 えに、野心的な工業改革政策 を推進 した。政府 は、原料 ・生産財工業 ( 拡大 された輸入代替工業)の発展 による

( 5)1 9 4 7 ‑ 6 7 年の間、先進国 ・発展途上国ともに、世界市場の拡張ダイナ ミックに 参加 していた 。1 9 6 9 年以降、先進国経済は停滞段階に入った。これにたいしてラ テン・アメリカは 1 9 7 0 ‑ 1 9 7 6 年まで経済が急成長 し 、1 9 8 0 年に成長が止 まった。

7 0 年代から 8 0 年代 までのラテン・アメリカ経済の異常な成長は、民間 ・公共の

対外債務の膨張 と無関係ではない ( Bo r t z1 9 8 7 :1 0 0 f ) 0

(13)

工業 の自律 的発展 を意図 したのだが、消費財生産 ( 単純 な輸入代替工業)の 不振 と、しか も外 国か らの技術 ・ 投資材 の供給 に依存 す ることになって しまっ た。 そのために、国際収支 は膨大 な赤字 を出 した。工業化 プロセスの結果 と して 、1 9 7 5 年 ・ 7 6 年以降 に金融 ・国際収支危機が表面化 したが、すでに 1 9 7 5

年初頭、国際金融機 関か らのクレジッ ト供与 が停止 されて、 ヴェラス コ政府 の経済問題 は深刻化 した。すでに 1 9 7 3 年以来、ス トライキが多発 していたの だが、 この経済危機が民衆 の不満 に油 をそそいだ 。1 9 7 5 年 2 月 に リマで起 こった暴動が軍隊 によって鎮圧 され、軍事政府 に対 す る社会全体 の信頼感 の 喪失が決定的 となった ( Ma s t e r s o n1 9 9 1:2 6 1 )

この ような状況下でヴェラ スコは統率力 を失 い、軍部 内の対立が顕在化 した。ここで は 、8 2 9 日のモ

ラレス ・ベルムデスのクーデターによる政権 引渡 しまでの、 ヴェラスコ政権 期 の経済政策 と支配 ・権力構造 との関連 を述べ る。 ここで概観 を得 るた めに

Pe a s e に依拠 して、 ヴェラス コ期 の支酉己・権 力層 の時期 区分 を してみた い

( Pe a s e1 9 7 9:7 ) 0

〔 第一期〕 ( 1 9 6 8 ‑ 1 9 7 0 ) は 、6 0 年代初頭 か らのペルー軍部将校 の 「 土着化」

派お よび 「ラジカル化」派 に代表 され る。「 土着化」派 とは、「 体制 の番犬」

としての伝統 的な職能機能 に深 く根 ざ した、軍隊内部 の、保守的な傾 向 をも つ勢力である。「ラジカル化」派 は、 それ にたい して改革的 な考 え方 をそなえ てい る勢力である。後者 の考 え方 は、反寡頭政策 ( 農業改革) と民族主義的 立場 に立 った、外国資本へ の対応 ( I PCの国営化)に具体化 された。「ラジカ ル化」派 の勢力 は、かな りの程度で クーデターに参加 した に もかかわ らず、

政府 内で は下位 の地位 に甘 ん じた ( Ke r bus c h1 9 7 6:3 2 f f;Pe a s e ′ 1 9 7 9:4 5 f f&2 2 8 f f )

で はあるが、「 革命」プロセスが進 むにつれて、彼 らは軍部 と政 府 内で勢力 を増 し、次第 に意思 を貫徹 で きるようになった ( Phi l i p1 9 7 8:9 2 )

0

〔 第二期 〕( 1 9 7 0 ‑ 1 9 7 4 ) の中心点 には、 ヴェラスコを中心 とす る将校 グルー

プ と、政府 内で リベ ラル派資本家の利害 を代表 した者 たちの間 にお ける闘争

(14)

が ある 。1 9 6 8 ‑1 9 7 6 年の閣僚歴任者 の うち 、6 0 % が陸軍所属で ある。この闘争 は、主 として政策路線 をめ ぐるものであ り、 リベ ラル派 の閣僚辞任で終わ っ た ( Pal me r1 9 7 5:1 0 5 )

〔 第三期 〕( 1 9 7 4 ‑ 1 9 7 5 ) の特徴 は、国民運動への対応 にかんす る論議である。

この論議 は、「ミシオ ン 」 ( Mi s i 6n) として知 られ るグループが、進歩 的軍人 に勝利 して終わ る。 その政策 は、資本家、 とくに大工業 ・輸 出企業 の利害 を 代表 し、権威主義的で民衆 に敵対 し、政治化 した被支配層 にきび し く対応す る。 このグループは、 ヴェラスコを引 きつ け、第一期か ら第三期 までの全期 を通 じて政治的主導権 を握 ることに成功 した ( Peas e1 9 7 9:1 4 5 f f ) 0

以下で、寡頭層支配 の解体 と軍部 の政策路線 の形成 を叙述す る。ここで は、

新 しい開発計画 の構築への出発点 と、 政府 の考 え方、国家機構 を基本的 に担 っ ているグループ ( 軍部、官僚、テクノクラー ト) の行動 を中心 に考察す る

展開 されていた政策路線 については、 5.2. で述べ る

ここで重要 なの は、

工業家 グループ と国家間の関係、 な らびに国家 の 自立性 と、工業家 グループ が国家へ与 える影響 である

もうひ とつの重要 な点 は、始動 しはじめた国民 運動である。国家 は、支配 を保 つた めに、支配層 と被支配層間の仲介者 とし

て機能 した。

5 . 1 .暴勇 講支配の解体 と国家機構 の機能 5.1.1. 寡頭層の破壊

第一期 で は、軍事政府 はペルーの寡頭層 の経済的支配基盤 を破壊す ること に集 中 した。 この 目的のために 、1 9 6 9 年 に、農業改革法が公布 され、即刻施 行 された。 数十年 にわた り主導権 をにぎっていた農業輸 出業者 グループ と「 不 良地主」 寡頭層の二大 グループが、農業 における経済支配 の基盤 を奪われた。

これ と並行 して、第三番 目の寡頭層 グループである金融 グループ も、政府が

金融機関への支配 をさ らに強化 したので、弱体化 された。

(15)

5.1.2. 対外政策

政府 の初期 目標 は、少 な くとも政治宣伝 的 には、外 国資本 にたいす る 「 反 帝国主義的」な政策 であった。クーデター後 の最初 の措置が、米国企業 の I PC の無償 国営化で あった ( Ho f ma nn1 9 7 8:1 0 9 )

これが、その後何年 に もわた

る米国 との補償 問題 と主権原則 にかんす る対立 を引 き起 こす原因であった。

このセ ンセー シ ョナルな措置 に続 き、 軍事政府 は 1 9 7 0 年 に工業改革法 を公布 し、輸入代替工業化 の発展モデル にな らって、戦略上、重要 と見 な した工業 部 門 ( 鉄鋼 ・石油化学 ・肥料 ・製紙 ・セメ ン ト)や原料 ・輸 出入 ・金融部 門 の企業 を国有化 した。 これ に並行 して、加工業部門 ・原料部門 ( 石油 ・鉱 山) にお ける外国企業 の活動 ( ペルー資本が、将来的 には過半数 を占めることが 条件等) を規制 する法律が、制定 された ( Wa c he ndo r f e r1 9 8 9:8 4 )

0

これ に加 えて、政府 は、米 国 との対決路線 を国際的な枠組 の中に組 み込 ん だ。社会主義諸 国 との外交関係 の導入、 それ による貿易相手 国の多様化、活 発 な第三世界政治 と、 アンデス諸国や米州機構 内での南米地域統合化への努 力 は、 この関連 でみ られ る

この ような努力 に もかかわ らず、鉱 山開発用の巨額 な資金 を、貿易 ・借款 政策的な理 由か ら米国 に依存 す る、とい うペルーの体質 は変わ らなか った

。(6)

1 9 7 4 年 にメルカ ド・グ リー ン協定が結 ばれ、米国系企業 の収用資産補償 問題 について合意が達成 された。 これ によって、貿易 は活性化 し、再 びペルー に 米 国か ら借款が供与 され、外国金融機関か らの投資が強化 された

。(7)

5.1.3. ペルー軍部 の特徴

空軍 ・海軍 の将校 は中間層上層部 出身者、陸軍 の将校 は農村部 の中間層 出

(6 )ワシントンの圧力をかける手段は 、1 9 7 2年 まで、借款ス トップだけではなかっ たO世界銀行や米州開発銀行 ( I BD) のような国際金融機関に干渉 して、ペルー 向けソフト・ローン ( 条件がゆるい)の供与 を阻んだ。

(7) 1 9 7 1年か ら 76 年 までに対外債務が 3 倍 にな り 、30 億米 ドル以上 に膨れた

( Wa c he n d o r f e r1 9 8 9 :3 2 5 ;Ba n c oCe n t r a l eRe s e r va s1 9 7 8 引用 より) 0

(16)

身者 か ら編成 されている。だか らヴェラス コ時代 には、空海軍 は、 と くに海 軍 は、伝統的な支配層 と緊密 な関係 にあ り、改革政策 にたい して保守的 にブ レーキをか ける役 目を果 た した。陸軍将校 グループは、農村 の社会問題 に精 通 し、この間題 にかんす る感性 も敏感 な ことか ら、 改革的 に考 えるようになっ

た。だか ら、空軍 と海軍 出身の閣僚 の 6 分 の 1 のみが、「 左翼」と見 なされ る が、陸軍 出身閣僚 の 3 分 の 1 は 「 左翼」 と見 なされ る ( Pal me r 1 9 7 5:1 0 5 ) 0

しか し、 この割合 は恒常的でない。 どち らか とい うと、常 に揺れてい る。 こ の揺れ は、前述 の三期間 を通 して、各時期毎 に軍部 内の派閥間の摩擦 によっ て起 こった、政治ダイナ ミックに規定 された 。Pe a s e によると、政府幹部 は相 互 に比較 的親密 な関係 にあ り、比較的 まとまって、軍部外 か らの影響 を受 け ることな く、政策 を決定す ることがで きた。 ヴェラスコは決定的 な役割 を果 た し、 さまざまな傾 向を もつ者たちのなかで、「中立的 な審判員」の役割 を演 じたが、かれの在任 中最後 の時期 には、 はっき りと 「ミシオ ン」派 を支持 し た。

5.1.4. 行政機構

軍部 は、改革 を迅速 に実施 す るために、政府お よび行政機構 を近代化 し、

拡張 した。閣僚 の数 は、これ までの 1 2 人 か ら 2 2 人 に増 え、内 9 閣僚が社会 ・ 経済問題関連担 当相であった ( Wa c he ndo r f e r 1 9 8 9:7 5 ) 。行政機構 は、改革 措置 の法案作成や遂行等、実務的な作業 を仕上 げる際 に、その影響力 を増 し、

重要 な機能 を果た した。行政機関職員 の量 的な拡大( 8 ) は、質的な向上 を ともな い、テクノクラー トの数 も増加 した。ベ ラウンデ政権下 の開発指 向のテクノ クラー トは、改革 の徹底 的な実施 を目指す、民族主義的なラジカル派の路線 に同調 した。 この ことは、ベ ラウンデ政府で不満 をためていた改革派が急進

(8 )その数は 2 2 9, 0 0 0 人 ( 1 9 6 3 ) から 5 7 7, 0 0 0 人 ( 1 9 7 7 ) に増加 した ( Ge r ma n 孟1 9 7 7 :

3 6 ) 。しか も Co t l e r は 1 9 7 0 年から 1 9 7 7年 までに 3 0 0, 0 0 0 人か ら 6 7 0, 0 0 0 人へ と

二倍に増加 しているという ( Co t l e r 1 9 7 8 :5 5 ) 0

(17)

化 した ことや、 ラジカル派が、社会進歩党 ( MSP) 等 の改革諸政党 の党 員 ( Sal az arBondy や To r geBr avo 等)や他 の諸集団の個々人 ( 6 0 年代 のゲ リ ラ運動 の指導者 である HugoNe i r a や He c t o rBe j ar 等)を取 り込 んだ こと、

とも関連 してい る。 これ らの個々人 は、国民動員機構 ( SI NAMOS) 等の政 府機関や他 の公共機関、国営企業 の顧問 として採用 された り、管理職 の役職 を任 された。 テクノクラー トは、政府や行政機関、国営企業 で重要度 を増 し たが、彼 らが固有 の立場 を代表す ることはな く、政府 の軍幹部 に支配 されて いた ( Ft i r s t1 9 81:1 2 5;Al be r t i1 9 7 7: 1 8 f f ) 。

軍部が手が けた、行政 ・公共機関の近代化 ( 経済活動 や開発計画 の担 当局 I NC 等、調整 す る各省 の機能別専 門化)は、国家機構 の軍部化 と同 じ意味 を

もつ ものであった。軍部 の影響 は、政府 お よび行政 の上級職 と中級職 にきわ めて強 く浸透 した。閣僚や大統領顧 問委員会 ( COAP) だ けで はな く、次官や 主要な国営企業 の経営監督 をまか され る大 臣の顧 問 に至 るまで、軍部 が人事 を決定 した。 これ に加 えて、地方次元 の多 くの権 限が、地方師団の司令官 に 集 中 した。すなわち、市長 ・知事 は彼 らに支配 され、彼 らが地方の開発委員 会や ほ とん どの地方 SI NAMOS 事務所 の権域 を掌握 した ( Pe as e1 9 7 9:2 2 9

f f ) 0

5.1.5. 政策決定機構

軍支配 で重要 なの は、軍部 による行政 ・政府 の人事権 よ りも、国家機構 内 で形成 された政策決定構造 だ 。 Sc u汀ah は、政策決定 にたず さわ る 3 大 グルー プ を挙 げてい る

COAP 、各省、 そ して最後 の グループ は、必 要 に応 じて COAP あるいは各省 の諮問 を受 ける経済学者、弁護士、エ ンジニア、農業学 者等の専門家や知識人 と、特定 の政治的勢力 を代表す る ( た とえば工業経営 者)民間の個人 や組織 である。 これ らの 3 グループを交 えて行 う軍部 の政策 決定 のプロセスには、四つのタイプが ある。

第 一 の タイ プー大統領 や その側 近 の COAP 顧 問 の指 示 に よ り、事 実上 は

COAP で討議 され、決定 された政策 が、形式上 の閣議 を経 て、法令化 され る

(18)

第二 のタイプ‑個 々の省か らの提議が、他 の政府機関や民間機関の代表者 を 参加 させず に、 COAP あるいは大統領 に決定用 に送 られ る。

第三 のタイプー法律が最終的 に条文化 され る前 に、各省 が主導 し 、COAP や 他 の政府機関や専門家 と協議 した後 に、決定 され る

「限定付協 同調整」とい

える

第 四のタイプー 「 真 の意味 での調整」を行 った後 に政策が決定 され る。つ ま り、

上記 3 大 グループや、広範 な公衆 あ るい は利 害集 団全体 の意見 の調整 をは か った後 の決定 である。

Sc ur r a h による と、ヴェラスコ政府で は、ほ とん どの改革政策決定 に民間人 は直接関与せず、強い中央集権 的な決定が なされた ( 第一お よび第二 のタイ プ)。軍部 は、最初 の数年間 は、潜在 的な反対勢力が予期 され る場合 には、政 府 内に官僚 と民間人 を取 り込 める態勢 を とった ( Sc u r r a h1 9 8 0:9 0 f f )

つ ま

り、官僚 や民間人 の支持、 あ るいは中立的な行動 によって、政府 の政策 を正 当化す るためである

ここで は、民間人 は、ア リバ イ作 りの道具 にされた と い うわ けである

第四のタイプの意味の調整 は、 ほ とん ど行 われなか った。

上記 の分類 は、政策決定 の際の主 な要素 を体系化 はす るが、急進的 な 「 革 命」基本方針 と具体 的な改革措置 の間の不一致や矛盾 を説明す るもので はな い。 この矛盾 と不一致 は、既述 の、 あい まいな 「 第三 の道」 とい う基本方針 か ら生 じた ものである

また、 この不一致や矛盾 の大小 は、基本方針 のほ こ ろびを繕 うために、必要 に応 じて招請 され、改革措置の理論付 けや条文化 に たず さわ った、民間テクノクラー トの活動 に、強 く影響 された。 このテクノ クラー トの選択 ・編成 ・育成 も、政府 内の軍幹部 の影響力が強 く現れ、軍部 内の政治路線が異 なる諸勢力間の力関係 を反映 してい る

軍幹部 の政策決定 をめ ぐる権力闘争 は、漸次、政府や行政機 関のすべての次元 に現れた0

5.1.6. 国家機構 と諸 グループの関係

軍部 で権力闘争が行われている間、改革 の急進化 を恐れた経済支配層の さ

まざまなグループは、政府 ・行政機 関の中で 自分 たちの影響力 を行使 す るた

(19)

めに、イ ンフォーマルなルー トを探 しはじめた。閣僚 へ影響 を与 えて、改革 が引 き起 こした政府 内の不一致 を深化 させ、 しか も閣僚 を自分たちのグルー プの利益代表 にしようとした。 この具体例 として第一期 目の ことだが、予告 した農地改革 の変更 を目的 として、輸 出業者 とマス ・メデ ィアが農業相ベ ナ ヴィデス ( Be na vi de s ) を起用 した ことが ある

2 週間後 に農相が辞任 し、改 革法が議決 され、 この試 みは失敗 した。第二期 目に も同 じような試 みが行 わ れた。今 回は、早急 に解決すべ き問題 を抱 えた、利害が一致す る農業寡頭層 の諸 グループが連合 した。農業改革法 の公布後 に創設 された農業経営者協会

( SNA) が、協 同組合 の設立 によって私有財産 の保全 に脅威 を感 じた、北部海 岸地域 の中小地主 と連合 した ( CP 1:7 8 & 8 9 f f;Pe as e1 9 7 7e t. al:9 8 f f )

0

しか し、政府 内にお ける 「ヴェラスコ主義

の浸透が、農業改革 の徹底的 な 実施 につなが り、 この連合 を深 く敗北 させた。

同様 に、この時期 の軍部政策計画が仕上 が る段階で、工業経営者協会 ( SN I ) が、新 しい工業化政策 の導入 に抵抗反応 を示 した。 これ に起 因 して軍部 と工 業経営者 グループが衝突 し、 それが政府 内の人事 に も反映 した。 この第二期 の衝突 は、 ラジカル派のデ レピアニ ( Del l e pi an i )か ら、 ヒメネス ・デ ・ル シ オ ( J i me ne sdeLuc i o) への、工業相交替劇 とい う結果 となった. ヒメネス は、工 業 経 営者 に友好 的 で、妥協 と仲介 の労 を とる用意 が あった ( Pe as e 1 9 7 9:9 5)

この結果、次の筆三選 には、政府 は、大工業家 にたい しては順応 的 に、そして政治化 し闘争的な労働組合 に対 して は抑圧的 な政策 を展 開 した。

国内工業経営者 グループ、 あるいはその一部分 は、国内資本家陣営総体 の 調整 のかなめ として、政治 プロセスに重大 な影響力 をもっていた。寡頭層 の 権力が大幅 に破壊 され、社会 ・経済構造 の近代化 と統合化が進 み、最初 の影 響が生 じた。都市部 の新興工業経営者 は、諸条件 の変化 に適応 した。そ して、

政治 の場で主導的な地位 を得 るた めに、政府 の政策 にたい して組織的かつ統

一的な対応策 を考 えはじめた。 この新興工業経営者 グループは、 リベ ラル な

性格 を もっていて、反寡頭的な立場 か ら、 ひそか に初期 の軍事政府 の措置 を

支持 した。 しか し、改革が強力 に推進 され、彼 らの利害が危機 にさらされた

(20)

時 に、 その路線 を政府 との対立路線 へ と変 えた。 とくに、機能 を拡大 した軍 部が、彼 らの影響力 と活動範 囲 を狭 めるほ ど、 その経済支配 を強化 している

ことに抵抗 した。新興工業経営者 は、 自分 たちの活動 を支持 し、促進す る、

開発促進派 の国家 を好 みはしたが、勝手 に外 国資本 と直接関係 を結ぶ ような 国家 には背 を向 けた。 この資本家陣営総体 として は、政治的 には自由主義体 制 と立憲国家 を指 向す る立場 を とり、政党 の認可 と自由選挙 の実施 を方針 に かか げた。

新興 ・伝統的工業経営者 グループの利害が一致 し、両者 の連合体 は、政府 への影響力 を行使 し、部分的 には政府 の政策 を緩和 す る結果 となった。 その 要求 と批判 をさ らに印象づ けるために、新興 の リベ ラル派工業経営者 は、 こ の段 階でマス ・メデ ィア ( 伝統的な新聞) を世論形成 に動員 した。 その際、

政治闘争 をイデオ ロギー化 した。つ ま り彼 らは、 この闘争 で私有財産 の保護 を要求 し、大 臣や大統領 の顧 問 に共産主義者 のぬれ ぎぬを着せ、あたか も「 西 洋キ リス ト教文化」の擁護者 であるかの ような印象 を与 えた ( Peas e1 979:

80 & 1 04)

0

政府 とリベ ラル派工業経営者 間で起 こった、政策路線 をめ ぐる対立 は、軍 部 内の 「リベ ラル派」 と 「ヴェラス コ派」 の激 しい論議 の末、 「リベ ラル派」

が敗北 して決着 した ( Qui j ano1 975:4)

政府 内での闘争 は、リベ ラル派 の海 軍 出身の大 臣ヴ ァルガス ・カバ レロ ( Var gasCabal l er o)の辞任 と海軍 との 断絶 とい う結果で一時的 に終わ り、政府 と経営者 グループ間の対立 は、1974 年の新聞の国営化 に終わ った

。(9)

(9) 「ヴェラスコ派」は、政府内で多数派を占めていた。 このグループは、さらに 開発指向のテクノクラー トと民族主義のテクノクラー トから構成されていた。 両 者は、民間の国内・ 外国企業の扱いにおいて意見を異にした。前者は外国資本導 入の優遇措置を強化することを唱え、後者 は国家資本主義の強化 を主張 した。

1 9 7 1年 1 1月、ラジオ局が完全に、またテレビ局は部分的に国営化された( CPl : 3 2 9 f f )

0

1 9 7 0 年 3 月にはすでにマヌエル ・ウオ リャ ( Ma nue lUl l oa)の日刊紙

「 エクスプレソ 」( Expr e s o)が国営化された ( CPl :1 4 9)

(21)

「ヴェラスコ派」の主張の貫徹 と軍部 の改革路線 の漸次強化 が、 この時期 の 成果 であった。 しか し、政府 内の緊張 と矛盾が明 らか に表われた。 とくに、

矛盾す る改革政策 は、 ラジカル派 の革命基本方針 ( 政府幹部 による改革法 の 議決) と改革措置の具体案間の不一致 に現れた。改革政策 の具体化 に際 して は、民間テクノクラー トと中級 ・下級職 官僚が影響力 をもち、 この影響が さ らにさまざまな委員会や民間経済 に波及 した。

5 . 2 .工業経営者 グル ープ ‑ 政府 の政策 ‑の協力 と対立

6 0 年代 に進 め られていた近代化が、ヴェラス コ政権期 にはさらに強力 に進 め られ、都市工業 の活動 を促進す ることに重点 がおかれたo その結果、工業 生産が平均以上 に成長 した。国内総生産 に占める工業生産 の割合 は 、1 9 68 年 の 23. 6% か ら 1 9 7 5 年 の 26. 2% に上昇 した ( βCP 1 9 79:64 ) 。この成長 は、工 業経営者 に とって経済的な基盤 の強化 となったので、国家 と良好 な関係 を結 ぶ ことがで きた。 しか し、両者 の関係 は、非常 に議論 の余地 があるので、 こ の期間 ( 1 9 6 8‑ 1 97 5 ) の政治 ・経済 ダイナ ミックが検証 されねばな らない。

大規模 な投資促進 の刺激が、資本 の生産条件 を著 し く改善 し、実際 に経営 者 の利潤 を強力 に上昇 させた。 しか し、工業化政策計画の中で見込 まれてい

た に もかかわ らず、工業家 は主要 な投資家 としては登場 しなかった ( Fi t z ge r ‑ al d 1 97 9:1 58; Por t oc ar r e r o 1 98 0:8 9)

工業経営者 は、工業部門への新規 の投資 をほ とん どせず、 その利潤所得 を他 の部 門 (とくに住宅地購買や債券 購買等 の投機 的投資)へ投資 した。 また、労資対立 の融和 を意図 して、新 し

く創設 された工業共 同体が、 その摩擦 を調整す る とい う機能 も果た さなか っ た。 しか も、工業共 同体 の導入後 は、経営者 のサボタージュに反発 す る労働 者 との摩擦が増 えた。新 しい発展モデル ( 工業共同体)が その 目的 を果た さ ず、不成功 に終 わ ったのは、国家 と工業経営者 の異質 な考 え方 にあった、 と 思われ る。 とくに、経済 における国家 の役割 りと政策決定 プロセスへの社会 諸勢力 の参加 について、考 え方が異 な りす ぎた。

近代 的・ダイナ ミックな企業 グループは 、6 0 年代末 に SNI の指導部 を引 き

(22)

継 ぎ、当時 は、農業改革、国家 の経済への比較 的強力 な影響力の行使、国家 による直接的 な計画の遂行等 について、肯定的 な意見 を述べた。軍事政府が 最初 に とった措置 は、工業経営者 の これ らの構想 と全 く一致 していた。工業 経営者 の利害 には大幅 に手がつ けられない まま、 しか も軍部 は、有名 な工業 家 を、数人政府 の要職 に任用 した ( CP l:8 1;Al be r t i1 9 7 7:4 6 ) 。 この段 階 では、両者 の関係 は良好で あった ( CP 1:8 5 & 1 4 1

) 。

工業改革 と工業共同体 の導入が予告 された時点 になって はじめて 、SNI 内 において、政府への批判 の声が強 まった。 この批半掴ま 、SNI 指導部 の交替 に まで発展 し、近代的 ・ダ イナ ミックな大工業 グループか ら成 る指導部が退陣 し、伝統的な工業経営者 が SNI を主導 した。この SNI の新主導 グループは 、 SNI 加盟企業 の過半数 を 代表 していたが 、SNI の利害が政府 の政策 に充分 に反映 していない と考 えて いた。

工業改革 の導入 に よって工業経営者 グループの内部 分解 の プ ロセスが始 まった。

中小工業経営者 は、工業改革 によって不利 にな る と感 じた ( K m i j t 1 9 8 0:1 2 4

f f ) 。ただで さえ限 られた余剰が、利潤分配制度 によって減少 させ られ、また、

家父長的 ( 多 くが親族会社)な労働管理が、経営参加 によって問題化 され る ことを危供 した こと、 による

中小工業経営者 は、工業化政策 にたい して、

まず投資 ス トライキ ・ボイ コッ トで答 え、政府 の改革措置変更 を引 き起 こせ なかった時点で、政府 と完全 に対立す る路線 に走 った。

大工業経営者 は、 とくに近代的な、部分的 には独 占的な成長工業 ( ゴム、化 学、金属)の大工業経営者 は、再投資促進用の刺激政策 と他 の 「 奨励政策」

を利用 し、労働者 の経営参加 に も柔軟 な態度 を示 した。 と くに輸 出指向工業 で は外 国 ・一 国内企業 ともに、 また輸 出部門関連工業 も、軍部 の政策路線 には 肯定的な態度 を示 した ( Ft i r s t1 9 8 1:2 2 3 ) 0

指導部交替後 、SNI は、大幅 に伝統 的部門 ( 例 えば食料品)に固 まってい

る中小工業 の代弁者 に変貌 し、政府 を批判す る一方で、政府 との対話 の制度

化 を求 めた。政府側 は 、SNI の要求 を受 け入れず、その政策計画 に固執 し、

(23)

政治的主導権 を握 ったが、 この間、近代的工業経営者 をさらに起用 し続 け、

工業経営者 との意思 を疎通 しようとして、 SNI 以外 の他 のルー ト ( CADE) を探 した。しか も、新 し く形成 された SNI 内の輸 出工業 グループ とも接触 し

た 。

その間 に工業改革の影響が 、SNI 内部 の利害対立 をさらに強 めた。工業改 革 に盛 り込 まれていた促進措置が、第一 に独 占的な近代 的成長工業 に有利 に なったか らだ ( Ki mmi g1 9 7 8:1 1 0 f )

この措置 は、集 中化 の傾 向 を固定化す る一方で 、1 9 7 2 年か ら 7 3 年 にか けて、小規模工業 の企業解体 を引 き起 こした た め、小工業 の抗議運動が激 し くなった。 この運動 は、小工業特別委員会設 立 か ら発生 し、 SNI の議長 団へ その代 表 を送 る選挙 の時 に最高潮 に達 した ( Ki mmi g1 9 7 8:1 4 0 )

0

SNI の新指導部 は、工業改革の 「 抜本 的な改正」と政 府 との直接的な協 同 とい う要求 をかかげて、改革政策 に強 い態度でのぞみ、

政府 は これ に答 えて、新指導部 の公的認可 を剥奪 した ( Pe as e1 9 7 9:9 7 )

他 面 でペルーの経営者 の一部分 は、 まさに早々 と 「 ペルー革命」 と折 り合 い を つ け始 めた。 これ は、 とくに この転換 の体制順応 的な性格 を見分 けた独 占グ ループであ り 、SNI に背 を向 け 、1 9 7 3 年 に独 自の団体 である ADEX( 輸 出工 業経営者連盟) を創立 した ( Dur and1 9 8 2:6 8 f f;Wi l s1 9 7 9:2 7 9 )

0

このように工業家 の公的団体 と緊張関係 にある状況で、政府 はさらに、 ダ イナ ミックで 「 進歩的 な」工業企業 の方へ接近 した。 こうして事実上 は政府 の一部分 と、協 同の用意 のある輸 出工業経営者 グループ ( ADEX に集 中)と の関係が制度化 された ( Al be r t i1 9 7 7:6 3 f f ) 。国家 とこの工業家間の対話 のた めの重要 なフォー ラム として、ペルー企業経営研究所 ( I PAE) が組織 した、

民間 ・ 国営企業経営者年次総会 CADE( PC 2:4 4 8 f f ) が発足 した.この CADE は、労働者 の経営参加 にはなん らの支障 も感 じない、工業経営者 グループ内 の、実利主義的な者た ちの寄せ集 めである

この「 近代的 な」 部 門 は、 CADE

を通 じた協 同 によって、政府への影響力 を保証 された。 この影響力 は、 けっ

して過小評価 すべ きで はない。改革派テクノクラー トの官僚 も、他の資本家

も、部分的 には、政治 ・ 経済上 の勢力ではあったが、この時期 には独 占グルー

(24)

プが、経済的 に優勢 な勢力 であ り、よ り大 きな影響力 を保 っていた とい える

この進展 と平行 して、SNI への中小地主 ・工業経 営者 、他 の職業集 団 ( 例 えば弁護士) の結集 ・連合 に成功 した工業連合 は、政府 のすべての政策 にた い して攻勢 に出た。 その際、新 聞 を拠 り所 に した ( CP 2:548)

リベ ラル派 のブル ジ ョワジー は、 ヴェラス コの政権掌握後、 は じめて、一致 団結 して反 応 し、軍部 の政策構想 のすべて を問題 視 した。彼 らは、 国家 の支配圏が拡大 し、労働者 の政治化が強 まるばか りで ある ことを、集 中的 に批判 し、政府が 政策立案 プ ロジェク トか ら民間人 を閉 め出す ことを非難 した。 だか ら総遠挙 実施 による民間人 の政府政策立案へ の参加 ( CP 3:843)

(10)

と、政治化 した労 働者 への厳 しい対応 を要求 した。 と くに労資関係 の融和 をはか るために導入 された ( 経営参加 の)工業共 同体 が その 目的 を達成 しなか った ことを、大 き な理 由 として挙 げた。

政府 は この要求 を考 慮 す る こ ともな く、特 定 の企 業 家 グルー プ とのイ ン フォーマル な関係 を保 ちつつ、政策計画 を遂行 し、 この時期全体 を通 じて、

主導権 を保持 した。 この ことは、国営化、SI NAMOSの創設、社会共益企業 導入 の ようなセ ンセー シ ョナル な措置 や、 また反対 勢力 の活動 や批半胴こたい す る厳 しい反応 に表れた

。(ll)

独 占企業 グルー プが妥協 す る用意 は、す で に初 めか ら軍部 の計画 との完全 な一致 に基 づいていたわ けで はない。工業部 門改 革 の実践 には、もともと矛盾が あった。( 1 2 )っ ま り、政府 は、工業資本 の近代 的

( 1 0 )AP ( 人民行動党)書記長のア リアス ・ステラ ( Ar i asSt e l l a)

APRA党首 のアヤ ・デ ・ラ ・トーレも 1 97 4 年春に民主的体制 と選挙の実施 を要求 した。 こ れは、 これ らの政党が SNI の背後 に控 えていた ことを意味する ( CP 3:8 3 6 f&

8 43; Pea s e 1 9 7 9:1 2 0) 。 これによって AP の指導者は閉め出された。

( l l )1 9 7 3 年に SNI 会長 ドゥアルテ ( Duha r t e) が旅行か ら帰った際に入国を禁止さ れた 。1 9 7 4 年には反対派の新聞のい くつかが国営化 された。同様 にこの年、政府 内の リベラルな資本家を代表する大臣カバ レロ ( Ca bal l e r o)が、内閣か ら閉め 出された。

( 1 2) この工業グループの政府 との意見の相違については 、1 9 7 2年の CADEにおけ

るヴェラスコ対 ピアッザ ( Pi az z a) の論争 を参照 ( CP 2:4 50 f f )。労働者の規律

化 については ( Ki mmi g 1 97 8:1 4 2) を参照

(25)

部 門 には、有利 な再生産条件 を与 え、労働者 には、工業企業 の生産手段 を所 有 させ ようとした。政府 は、社会共益部 門 を優先部 門 に指名 し、公共部門 を 恒 常的 に拡大 した。工業部 門 の独 占グループ を代表す る経営者 たち は、 中小

の経営者 が頑 固 に 「 伝統的な特権」 にしが みつ こうとす るの とは異 な り、改 革政策 の根本 的 な変更 に固執 しなか った。彼 らは、国営部 門の創設 と経営参 加 の工業共 同体 の導入 を逆戻 りさせ られ ない もの として受入れ はした。 しか し、改革政策 の 「ユー トピア的な」要素 ( 例 えば社会共益企業 に与 え られた 優 先権) の除去 や、改革 のルール ( 程度 ・規準) の明 白な定義化 を迫 り、 ま た、労働者 の規律化 のための、 さ らに強力 な国家介入 を要求 した。

閣内か らリベ ラル派 を閉 め出 した後、「ミシオ ン」として知 られ る政府 内の 軍人 グループが、これ らの諸要求 のほ とん どを自分 た ちの構想 に取 り入れた。

と くに、国民運動 にた いす る強硬 な対応 と、生産 と生産性 の重要性 を強調 し た。

(13)

経済政策 と支配 ・権 力構造 との関連 につ いては、以下 の ような結論 が導 き だ され る

‑ ヴェラス コ政権 以前 の、対外発展期 の農産物輸 出 グルー プ も、ヴ ェラス コ政権 下 の国内市場指 向の発展段 階期 の工業 グル ープ も、抑圧 的 あるいは権 威 主義的 な政権 下 でのみ政治 ・経済勢力 ブ ロ ック内で、経済的 に主導的地位

を占めるグループ として、社会 の政治的主導権 を行使 す るこ とがで きた。

‑ 両時期 の相違 は、寡頭制支配 にお ける農産物輸 出 グルー プが、政府 の政 策決定 に強 い影響力 を行使 したのにたい して、工業 グループは、かな りの度 合 いで、 ヴェラス コの改革主義的軍事政府 の主導権 に従 う方向 を とった点 に

( 1 3)ここでは 1 97 5 年 ー 2 月 1 日に、首相 として内閣を組閣 し、同時に生産関連各省

の調整役 を引き受 けたモラレス ・ベルムデス ( Mo r a l e sBe r ma d e z ) の演 じた役

割に注 目しなければならないだろう。この事実は、モラレスによる軍事政権の第

二段階における経済政策の連続性 にかんして重要だ。

参照

関連したドキュメント

 しかしながら,地に落ちたとはいえ,東アジアの「奇跡」的成長は,発展 途上国のなかでは突出しており,そこでの国家

76)) により導入された新しい都市団体が、近代的地

ともわからず,この世のものともあの世のものとも鼠り知れないwitchesの出

突然そのようなところに現れたことに驚いたので す。しかも、密教儀礼であればマンダラ制作儀礼

(( .  entrenchment のであって、それ自体は質的な手段( )ではない。 カナダ憲法では憲法上の人権を といい、

 しかしながら、東北地方太平洋沖地震により、当社設備が大きな 影響を受けたことで、これまでの事業運営の抜本的な見直しが不

その目的は,洛中各所にある寺社,武家,公家などの土地所有権を調査したうえ

としても極少数である︒そしてこのような区分は困難で相対的かつ不明確な区分となりがちである︒したがってその