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ブダペシュトを引き剥がす:眼に見える歴史と忘れ 去られた歴史

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Academic year: 2021

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ブダペシュトを引き剥がす:眼に見える歴史と忘れ 去られた歴史

著者 戸谷 浩

雑誌名 明治学院大学国際学部付属研究所研究所年報 =

Annual report of the Institute for International Studies

巻 21

ページ 97‑101

発行年 2018‑10‑01

その他のタイトル Lapozzuk Budapestet: Visible History and Forgotten History

URL http://hdl.handle.net/10723/00003498

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ブダペシュトを引き剥がす:

眼に見える歴史と忘れ去られた歴史

戸 谷 浩

街に歴史を見るということは、どういうことなのだろう?

昨今、東京でも「江戸ブーム」とやらで、古地図を載せた書籍がベストセラーになったり、目 の前の景色を何十年や何百年も巻き戻した風景を示してくれるアプリが人気だったりするようで ある。ただ、こうした「楽しみ」は好事家的な趣味や蘊蓄

う ん ち く

にはなっても、個人の歴史観や世界観 を直接揺さぶるものには、あまりつながってゆかないのではないだろうか。

やはり主体的に歴史観や世界観を定めようとするのであれば、眼前の眼に見える街の姿に加え て、多くの失われた街の景色や横顔を求め、探り、それらを突き合わせて、自身の歴史観・世界 観の形成に役立ててゆこうとする姿勢が重要であろう。その場所では、何が失われてしまい、何 が残されたのか、今は整然としているこの場所で、過去に何が行われたのか、どのような経緯や 議論があって、この場所はこの姿になったのか等々といった自問が、少なくとも、そこには必要 とされるのであろう。

フォーラムにおける報告では、こうした観点に立って、自身がかつて留学時代を過ごし、その 変遷の一端を身近に眺めてきたブダペシュトの街を事例として、眼に見える歴史と忘れ去られた 歴史の相克を提示することを試みた。

ブダペシュトには、まだ社会主義時代、ベルリンの壁の崩壊以前である19881月から翌89 年の8月まで、ハンガリー政府奨学金留学生として、ハンガリー科学アカデミーの歴史学研究所 に留学していた。その後も、少なくとも年に一度はブダペシュトの街に降り立ってはいたが、研 究の対象地が現在のルーマニア、スロヴァキア、クロアチアになったことや、そもそもヨーロッ パにいられる時間が限られるようになってきたために、特に近年は、ブダペシュトも「トランジ ットのための都市」「短期滞在しかしない都市」になってしまっていた。

しかし、2015 年以来、「シリア難民」のヨーロッパへの移動問題などで、現ハンガリーの政権 であるオルバーン政権の「強権」が問題とされたり、2016 年度にサバティカルとなったことも あり、改めてハンガリーという国家やブダペシュトという街を見直す機会を得ることになった。

その上で、これらを見直してみると、反EUで大衆迎合主義的な政権が支配する国家とされるハ ンガリーの首都ブダペシュトは、実は大きな変貌を遂げていたことが判った。

以下、ブダペシュトの街の風景の変貌から、歴史を考える事例をいくつか挙げてみたい。なお、

街の風景の変貌としては、「社会的変容」、「政治的変容」、そして「社会的・政治的変容」を示す と思われる事例を選んだつもりであるが、元より何が社会的で、何が政治的なのかの境界線は曖 昧かつ交錯しているものであるので、厳密な定義、カテゴリー分けということではないという点 だけ、申し添えておきたい。

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まず、ブダペシュトの市内で「社会的変容」を強く被った地区として、王城の丘とゲレールト の丘の間に位置するタバーンの事例を見てみたい。タバーンは、その地名がトルコ語起源であっ たり、かつては「セルビア人」を始めと

した南スラヴ人が多く住んでいたことも あって、ブダペシュトの中では「南」へ の志向を強く留める地区であった。

19 世紀後半には、さすがに南スラヴ 人だけが住む地区ではなかったが、周囲 の丘で栽培されたブドウを原料としたワ インを、安く気軽に出す居酒屋が多くひ しめく、エキゾチック・ノスタルジック と言えば聞こえは良いが、かなり雑然 とした、猥雑な一画になっていたよう である(図 1)。

しかし、21 世紀の今、そうした狭く ゴミゴミとしたタバーンは存在しない。

現在、その地にあるのは、広々とした公 園を思わせるような緑地帯である(図 2)。 なぜ下町やガード下を思わせるようなタ バーンが、緑地帯に変貌したのか。答え は、19世紀末から1930年代にかけて戦 われた開発論争にある。ある人々はタバ ーンに「未来」を見出して、ブダペシュ トが世界都市になるため、衛生上・交通 上の資質を高めるためには、前近代的で、

猥雑な街並みは一掃されるべきだと考え た。他方で、別の人々は、都市化の進む

ブダペシュトにおいて、タバーンこそが良き「過去」を保持している唯一の場所であるとして、

一掃はおろか、開発の手が伸びることすらにも反対であった。互いの綱引きの結果、タバーンは、

街並みが保全されるのでもなく、開発が敢行されるのでもなく、木々が生い茂る「現在」の姿に 落ち着いて、今に至っている。

現在の美しいとも言える緑地を眺め、鳥のさえずりを聞いているだけでは、この地に「未来」

を見た人びとの野心も、「過去」を見た人びとのノスタルジーも、いずれも理解すらできないで あろうし、論争の帰趨を知り、自らの歴史観を豊かにするきっかけすらも得られないであろう。

次に「政治的変容」の事例として、国会前広場であるコシュート広場に注目してみたい。この 広場の近年の様変わりは突出したものがある。2000 年に、それまで国民博物館内に展示されて いたハンガリー王冠が、国会内に移された。現在では、それを見学するための小奇麗な「ヴィジ 図 1 (出典:Tóth-Epstein, Elisabeth(hrsg.),

Historische Enzyklopädie von Budapest, Bp., 1974, S. 360)

図 2 (筆者撮影、2016年)

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ター・センター」が新設されている。か つてはいなかった衛兵が、ハンガリー国 旗の脇に不動の姿勢で立っていたり、衛 兵交代をしたりする姿も新規なものであ る。

有名な 1956 年のハンガリー事件の際 に、何者かの機銃掃射によって多くの人 びとの命が失われた現場でもあるコシュ ート広場の「聖地化」も進んでいる。か つて広場に個別にいくつか置かれていた 記念碑や碑文は、現在まとめられ、半地 下の記念施設になっている。

一言で言えば、ナショナルな場として の度合いを強めているコシュート広場の 北の部分に置かれているのが、広場の名 の由来でもあるコシュート・ラヨシュの 彫像である。1848年革命の英雄であるコ シュートを中心とした群像も、近年、修 復を終えたばかりである(図 3)。だが、

修復以前の像は、もちろん同じコシュー トを中心とした群像ではあったが現在の ものとはまったく異なる姿をしたもので あった。

修復前のコシュート像は、社会主義時 代の 1952 年に建立されたもので、「コシ ュートは社会主義者か」と思わせるよう な、民衆や兵士を従え、凛々しく彼方を 指さす姿となっていた(図 4)。ただ、こ の1952 年のコシュート像も実は「改修」

の産物であって、最初のコシュート像は、

戦間期の1927年に建てられていた(図 5)。 権威主義体制を確立していたと言われる 摂政ホルティの全盛期に当たる時代であ る。

従って、今回の「修復」は、ナショナ ルな色彩を強める現オルバーン政権に言 わせれば、「オリジナル」への回帰であ

図 3 (筆者撮影、2016年)

図 4

図 5 (図4, 5出典:Gerő, András, Public Space in Budapest:The History of Kossuth Square, Boulder, 2009, Photographs

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り、特段政治的な意図が混在するものではないとの主張になる。事の真相は語られないであろう し、私たちがことさらそれに捕われる必要もないであろう。より重要なのは、現政権が何を「オ リジナル」と見なしているのかという事実を見失わないことと、現在の広場の風景がどのような 意図の下に改装されつつあるのかについては、理解しておくべきであろう。

現在の哲学者のように、憂いを帯びたコシュート像の表情は、単純に芸術的な観点からだけで はなく、政治的な観点から読み解かれてこその、コシュート広場、「政治」と「権力」の広場な のである。眼に見える歴史のみならず、忘れ去られた歴史の重要性を強調する所以である。

最後に「社会的・政治的変容」の例と 考えられる東駅の光景の変貌を取り上げ たい。体制転換後、25 年近くにわたっ て、ずっと改築や工事が施されてきてい たと言っても過言でないブダペシュトの 東駅が、私たちに与えたもっとも鮮烈な 映像は、何と言っても、2015 年の夏か ら秋にかけて、ドイツを中心とした西 欧への移住を求めて殺到した「シリア 難民」の人々が、国境越えの難しさや 交通手段の途絶などの理由から東駅に、

数百人規模で滞留していた風景であろ う(図 6)。

確かにこの一時点の映像だけで判断す るならば、ブダペシュト市民の日常さえ も麻痺させかねない混乱と不衛生で、政 権がこれ以上の「難民」の流入を食い止 めるべく、南部国境にフェンスを張り巡 らせることの正当性を納得させるのに足 るものであるようにも見える。また、同 じ合点は、2015 年の混乱が収束した後 の、地下鉄の新線である4号線も開通し、

諸般の工事も完了した小奇麗で、都会 的な新装なった東駅の現在

からも、導 き 出 す こ と が で き る の か も し れ な い

(図 7)。

しかし、ハンガリーの歴史が「亡命・移民・難民」に満ち溢れた歴史であったことや(蜂起や 革命の国民的英雄の多くは国外に亡命したし、19 世紀末の北米への多数の移民、1956 年に国外 に逃れたハンガリー人の実数をことさら挙げる必要もないであろう)、わずか30年ほどの個人的 なハンガリーとの関わりにおいても、東駅に「難民」の人々が集まり、雨露をしのごうとしてい 図 6 (出典:戸谷浩『ブダペシュトを引

き剥がす――深層のハンガリー史 へ』彩流社、2017年、129頁)

図 7 (筆者撮影、2016年)

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る姿を目撃することは、一度や二度では ない。1988 年~1989 年のトランシルヴ ァニア地方を中心としたルーマニアか らの「難民」、1989年夏の東ドイツから の「難民」、そして 1990 年代前半の旧 ユーゴスラヴィアからの「難民」の姿 は、筆者自身も間近で眼にしてきたも のである(図 8)。

「難民」に対してどのような感情を抱 くのかや、政府の「難民」政策に賛同す るのか、反対するのかという次元とは別 に、まずはブダペシュトと「難民」の関

わりの歴史や、東駅と「難民」の過去の関わりを知ることが肝要であり、知ればこその思いもあ るのではないかと考える。

分かり易さだけ、眼に見えるものだけで、即断的・刹那的に人々を惹きつけようとする、いわ ゆる「大衆迎合主義」と言われる政治手法が跋扈する現在であればこそ、「大衆」である私たち 一人一人が立ち止まり、確固とした歴史観や世界観を持つように努めることは、望ましさを越え た義務ですらあるのかもしれない。

<参考文献>

戸谷浩『ブダペシュトを引き剥がす――深層のハンガリー史へ』彩流社、2017

図 8 (出典:前掲拙著、129頁)

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図 2  (筆者撮影、 2016 年)

参照

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