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商
学の 生 徒
管理
中泉哲俊
一まえがき
藩学とい‑のは、江戸時代または明治初年(sE術群)に、藩士およびその子弟を警するために、藩主が藩費をも
って設立し経営した学校であって'武士の教育機関としてもっとも重要な地位を占めるものである。
本稿では'江戸時代の藩学において生徒の管理がどのよ‑に行なわれていたか'を考察したいと思‑。したがって
時代的にいえは'明治維新後に設立された藩学はおのずから除外されるわけである。
二藩学の教育目的
藩学の発達の輯型には'私塾型・家塾型・講堂型などがあげられるが'藩学はだいたい幕府の昌平坂学問所の発達1と同様な発達の径路をとったものであり、昌平坂学問所がその模範となっていた。とはいえ'三石諸侯が思い思いに
学制を布いたものであるから'全国の藩学に共通した法規がなく'こまかくみれば'教育の目的・教則・内容・方法
校舎の規模等に'おのずから千差万別あるをまぬがれない。
‑r..I しかし藩学の教育目的についてみれば、文武両道の修練を通じて仁義の徳に達するとい‑儒教精神を中核とする道2徳的人間形成が近世藩学教育の基本であったことは、疑‑余地のないところであろ‑。このよ‑な藩学における文武
兼修の教育方針は、校舎の配置からも察知できる。そのもっとも適切な例として、水戸藩弘道舘をあげることができ
ょ‑。同館教育の文武不岐主義は、建築物の配置、すなわち正庁を中央にして左右に文舘と武舘を対応的に並べてい34ることによっても、じゆ‑ぶん‑かがわれるであろ‑。であるが、石川謙博士が指摘するよ‑に、藩学の八五二二九
パーセントが設苦れた江戸時代後期(誘引頂」八六七)になると、撃警の重点は、江戸時代の初期‑期と異
なり、人間教養・人格陶冶とい‑点だけに局限しないで、学力培養・知識技能の授与乞い‑面をも幅ひろく坂り入れ
るよ‑に、人文的なものから実学的なものへと次第に変貌するにいたったのである。
これを要するに、時代の推移とともに、治遠の立場に立って治国安民の国士を養成しよ‑とする意図から、文武両
道を兼修し、しかも学問や武芸の末節にとらわれぬ、人格的にすぐれ、かつ藩国に有用な人材を育成することが、各
藩学にほぼ共通の教育理念であった、といってよかろ‑。
つぎにその具体例を二、三探ってみよ‑。会津日新舘令条に、
身を修め徳をなすは学問の要務なり常に章句の間に拘らず道の大体を会得し経済に心を委ね互に信義を以て切瑳し忠義を以て
本とし修身治国の道に志し大器をなさんことを務むべし(小川渉﹃会津藩教育考﹄二〇二百)
と諭し、彦限藩弘道舘錠に、
文を学ふの肝要は孝悌忠信の道を基として治国安民の旨に通達し国用に町立様叶相励事
武を講するの肝要は弓馬剣槍の芸を学ひ礼儀廉恥を基として武道専ら可致研究事(文部省、日本教育史資料'竜、三八九貢)
と定めている。ことに秋田藩明徳舘では、安政十二年九月二十九日学舘一同に対して、
学問ノ義ハ治国安民ノ根元ニテ風化ノ依テ生スル処二俣故御先代格別ノ思召ヲ以テ学舘御造営夫々被成御坂立候モ畢責国家有
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用ノ人才被成御教育度厚キ御趣意二候処近年学問ノ風大二衰へ専ラ句ヲ摘、、、章ヲ尋ネ異論ヲ好ミ奇説ヲ尚ヒ治乱興亡ノ何モノ
タルヲ弁へス候故少シク世務二渉レハ荘‑シテ風ヲ捕力如ク大言空論ヲ以テ豪傑ーヨヒ局宋劫執ヲ以テ方正卜心得候徒モ間々
有之様相聞得是皆風ヲ傷リ俗ヲ害スルノ根元ニテ右様ノ学風増長致侯テハ却テ治道ノ妨卜相成ル事二候是併ナカラ世道陵夷ノ
然ラシムル所ニテアナカチ学者ノ罪ニモ有之間数侯条自今教導並学問ノ筋‑モ格別二相改メ追々有用ノ人才輩出致候義専務タ
ルへク候此旨舘中一同工厚ク可中間候也(同書'八四九貢)
と申し渡して、学問攻究の本末をあやまって治道の妨げとならぬよ‑、学風を大いに刷新すべきことをきびしく警告
している。
藩学生徒の訓練や管理が、上述のよ‑な教育の目的や方針からわりだされていたことは、おのずから明きらかであ
ろ‑。いったいに殺伐の気風のみなぎっていた時代のこととて、とくに生徒の管理については、各藩ともすこぶる困
難を感じていた。したがって、それだけこれが対策には苦心し、努力したのであった。管理の方法としては、通常つ
ぎのよ‑なものが用いられたよ‑である。
三管理の方法
l 出 席
荻生狙殊(1」1<B㌘)が﹃政談﹄で
学文ノコ‑'上ノ御世話ニテ昌平坂'高倉屋敷:テ儒者講釈スレドモ'御旗本ノ武士二聴人絶テ無シ'尺家中ノ士'医者、町
人ナド少々モ承ル'(巻四、滝本誠一編'日本経済叢書'巻三'五二四頁)
と指摘しているよ‑に,昌平坂聖堂は享保三年(一七一八)ごろ聴講者がきわめて少なかったために,将軍吉宗( 一六八四‑一七五
一)から叱責を‑けると、林大学頭信篤(L」1<S軍」)は出席強制策を献じた.ついで同六年吉宗が学問墓策につい
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て諮問したのに対して室鳩巣
なく地方においても、林子平
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」l<S計)三輪執斎(トムT(i,枇四)らもまた出席強制論を答申している。江戸だけで
七這三)は天明元年(一七八一)の上書で、同じく出席強制の意見を仙台藩当局墓
っている。しかしこれらの見解は単に出席強制の必要を論じただけであって、その実際的具体的方法までには説き
およはなかったのである。ところが広瀬淡窓(
1 話 正 六
)は天保十一年(1八四〇)に﹃達吉﹄を表して、その具体的方策をかなりくわしく述べた。
学 校 二 出 テ 学 フ 所 ノ 生 員 ハ . 諸 公 子 ヲ 始 ‑ シ テ 。 家 老 ヨ リ 歩 卒 迄 ノ 子 弟 。 十 才 ヨ リ 二 十 四 五 才 マ テ
。部 屋 栖 ノ 者 ハ .) 不 残 出 席
セ シ ム へ シ 。 教 官 ノ 上 ニ o 奉 行 l 人 ヲ 立 テ . 文 武 ノ 両 校 ヲ 併 七 掌 ラ シ ム へ シ . 是 ハ 至 ツ テ 重 任 ナ レ ハ . 家 老 ノ 内 ヨ リ 人 ヲ 択 ン
テ 命 ス へ シ 。 凡 国 中 家 老 ヨ ‑ 歩 卒 迄 ノ 子 弟 . 十 才 二 及 ヒ タ ラ ハ 。 父 兄 ヨ ‑ 奉 行 ノ 宅 二 携 行 キ 。 相 見 セ シ メ rJ 以 後 其 支 配 二 属 ス
へ シ 。 奉 行 ヨ ‑ 名 前 ヲ 帳 二 録 シ テ 。 上 二 達 シ O 其 人 生 長 シ テ 。 家 督 相 続 ス ル 二 至 ッ テ 。 始 メ テ 其 支 配 ヲ 離 シ 。 其 帳 ヲ 消 ス へ シ
(学制、
大分県日田郡教育会編'
淡窓全集、
中巻﹃迂言﹄三九頁)すなわち学令簿や学籍簿を備え、身分の如何を問わず十才から二十五才にいたるすべての子弟に対して、強制教育を5施すべきことをかれは主張している。そこには、他の人にみられなかった近代的な傾向さえ‑かがわれるのである。
上述のよ‑な出席強制論は、時勢のおもむくところ、ほ、ほ江戸初期にみられた、例えば荻生狙殊の説いたよ‑な出
席任意論を次第に抑制して、各藩にもおのずから波及し溶透するにいたったことは否定できないであろ‑.
学問が個人の教養として学ばれ、教育の理想が中国の古代に求められ、儒学が中心教科であった江戸前期において
ほ、藩学へ出席して講釈を聴聞することは、比較的個人の自由に任せられていた。が中期になると、学問がよ‑やく
実学的傾向をおびるよ‑になり、さらに幕末に近づくにつれて、文数政策と経済政策との関係が次第に密着するとと6もに、各藩当局の態度が真剣になり、学問は個人的修養のためであることはもとより、藩の財政・経済を打開するた
めの基磐として藩学を設け、教科も実用的な算術・洋学・医学・天文学等が重視されるよ‑になってくると、各藩府
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は、藩士の藩学や道場への出席に関して、従来の無関心な態度をすててきびしい干渉をはじめ、種々の方法を設けて
出席を強制し、家督相続の一要件とさへするにいたったのである、藩学への出欠勤惰が、やがて家督相続、他家への7養嗣の際の選考基準とさへなるにいたったのであるから、子弟の生涯を支配し、一家の浮沈を左右する重大な問題で
あったわけである。
藩当局の右のよ‑な方針は、生徒の学習年限の定めかたによっても‑かがい知られる。藩学の学習年限は疋して
いたわけではなく、まちまちであった。七、八才で入学し、十四、五才で退学するところが、l殻に多かったよ‑で
ある。しかし和歌山藩学習館のよ‑に三十才(禁完以)、福山藩誠之舘・津藩有造舘・萩薄明倫舘などのよ‑に四
十才、丸亀藩明倫舘のよ‑に四十九才まで勤仕のかたわら出席の責任を荷なわせ、文武の修業に勉励させたところも
あった。なかでも会津藩日新舘では、文化十三年(一八一六)四月十七日の達に、
三十五才以上之諸生文武之芸術御定格に至り侯者は'諸芸出席勝手次第、雑然学問は終身之業等閑に可相心得筋に無之へ殊更
高禄之者は'不怠可致修行事(小川渉﹃会津藩教育考﹄三五百)
と述べてあるよ‑に、一応三十五才までを出席年令としてあるが、定格にいたらなければ、出席年令を過ぎても勝手
に通学することを許さなかった。また彦張藩弘道舘では、学習期限を十五才以上三十才以下と定めてあるが、
若シ此定年中二武芸ノ免許ヲ得サル者ハ冠年三十才以上二重ルモ随意ヲ許ルサス免許ヲ得ルヲ待チテ之ヲ許ス(文部省、日本教育史資料'竜、三八
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十貝)と規制し、本人の勝手を許さない方針であった。このよ‑に、藩国有用の人材を育成するとい‑建前えから、文武の
修業は藩士「終身之業」であり、藩学は藩士一生の文武修業場であると考えられたので、高令にいたるまで出席が強
制され'身分の高い武士ほど高い教養が要求されたのである。
それでは子弟の出席に関して、各藩学は具体的にどのよ‑な頼り扱い方をしていただろ‑か。宮津藩礼譲舘のよう
に出席すると単に係りに届け出させたところや、米沢藩興譲舘・高島藩長善舘・津藩有造舘・豊橋薄暗習舘のよ‑に
各自の名札をかけさせたところや、熊本薄暗習舘・松江藩修道舘・神戸藩教倫堂・佐賀藩弘道舘・柳川藩伝習舘・佐
倉藩成徳書院・前橋藩博喰堂・鯖江藩進徳舘等のよ‑に出席簿を設けたところや、弘前藩稽古舘・蓮他藩成章舘のよ
‑に名札をかけさせた‑えさらに出席簿に記入させたところなどさまざまであって一様ではなかった。例えば蓮他藩
成幸舘では、
通学生ハ木片ノ表面二姓名ヲ記シ子テ定タル所二掛ケ置ク=裏面ヲ以テス謂絹針讃軒"鎧畑朝昼夕三回ノ出席二時々必ス自
己ノ名標翻起シ其位置l函ケ置生徒輪番ヲ以テ出席簿二点入シ話術謂毎日句読師二差出スヲ例‑ス(文部省'前掲書'参ーl八〇1‑1八一頁)8と規制し、また熊本薄暗習舘では勘合簿を設け、「毎日坐班ニハ朱圏ヲ印シ、虚拡ニハ黒圏ヲ印」して、「諸生ノ勤9惰作軽ヲ録」する方法をとっていた。
いずれにせよ、つねに目付や司監が生徒の出欠や勤惰の状況をきびしく調査して藩主もしくは上司に上申し、精勤
者には相当の賞詞か賞品かを与えて奨励し怠惰者にはしかるべき罰を加えたことには、変わりがなかった。例えは二
本松藩敬業舘では、
年中無欠席ノ生徒へハ必翌年正月十一日ヲ以テ賞与ア‑(前掲書、毒、六九二頁)
と定めて、二、三年欠席しない者に対しても物品を与え、笠間薄暗習舘でも、
生徒一年間上枝一目モ僻息ナキ者ハ学業ノ優劣ヲ間ハス年末賞金ヲ与フ(同書'三六四頁)
定めであった、鶴牧藩修来館では、学内に監察掛をおいて生徒の勤惰を厳重に調査する方法をとっていた。
出席ノ度数勤情ヲ改メ之レニ貰誉‑シテ金銀或ハ書籍半紙等ヲ与フ同上ノ勤惰勉強ヲ視察スル者ハ監察掛ナ‑校中ノ諸帳簿ヲ
監察役所二坂立調済ノ上其出席度数勉情等生徒迄悉皆姓名書ヲ以テ老職へ進達ス老職ハ之レヲ検査シテ其相違ナキヲ証明シ滞
主二進メテ賞与ノ格ヲ定ム(同書'二四五頁)