広東東部?南語の連続変調(Tone sandhi)に関する 記述的、言語地理学的研究
著者 黄 綺?
著者別表示 Huang Qiye
雑誌名 博士論文要旨Abstract
学位授与番号 13301甲第4618号
学位名 博士(文学)
学位授与年月日 2017‑09‑26
URL http://hdl.handle.net/2297/00049682
様式 7(Form 7)
学 位 論 文 要 旨
Dissertation Abstract
学位請求論文題名
Dissertation Title広東東部閩南語の連読変調(Tone sandhi)に関する記述的、言語地理学的研究
(和訳または英訳)
Japanese or English TranslationA Descriptive and Geo-linguistic Study of Tone sandhi in South-Min Dialects of East Guangdong
人間社会環境学 専 攻
(Division)氏 名
(Name)黄 綺燁 主任指導教員氏名
(Primary Supervisor)岩田 礼
(注)学位論文要旨の表紙 Note: This is the cover page of the dissertation abstract.
Dissertation Abstract
South-Min Dialects is spoken not only in Fujian Province but also is spoken in East Guangdong, the area called Chaoshan. This paper aims at exploring synchronic and diachronic aspects of tonal phenomena, tone sandhi in particular, in Chaoshan dialects. For this purpose, the present author visited more than 100 localities in East Guangdong and recorded abundant relevant data.
In chapter 1, we introduce the previous research and mention the research purpose, with referring to geography, history and language distribution in this research area.
In chapter 2, we describe the features of monosyllabic tones and the types of tonal merger, and typologize the ‘tone value systems’. We also attempt to speculate the process of change in tone values by observing their geographical distribution. In this speculation, we refer to Hirayama’s hypothesis, which is referred to as
‘circular change of tone values’.
In chapter 3, we describe and typologize the patterns of tone sandhi by observing the correspondence between the tone category and the tone value. Like South Min dialects in Fujian, the tone sandhi in Chaoshan dialects is characterized by the categorical tone alternation and partial tonal chain-shift, which mainly occur in non-final positions of a phonological phrase without undergoing the constraints of the final unchanged tone. We propose the two typologies: one focuses on the type of tonal merger, and another focuses on the type of tonal value system. These two typologies are sketched on the map, and we speculate the process of the diachronic change.
In chapter 4, we discuss the process of diachronic change, eventually reconstructing the proto-values of each tone. In this speculation, we adopt both internal and external approaches: internal one refers to a cross-dialectal comparison of tones, and external one refers to geo-linguistic observation, which considers the influence of dialect contact. The reconstructed values of tones are also compared with those of South Min dialects distributing in Fujian.
Chapter 5 is the conclusions.
学位論文要旨
1. 閩南語は有力な漢語方言の一つであるが、従来研究が進んでいる福建省だけではなく、広東省 東部(以下は「潮汕地区」と呼ぶ)でも話されている。本論文は、潮汕地区における声調、特に連 読変調(Tone sandhi)現象について共時的な分布状態に基づき、歴史的変化を明らかにすること を目的とする。この問題を解明するため、筆者は潮汕地区の100地点の調査を実施し、言語地理学 的研究に堪えうる量の方言データを収集した。
2. 第一章は、従来の研究成果を紹介し、研究目的を述べた。また、研究地域の地理・歴史・言語 分布など諸状況にも言及した。閩南語には“連読変調”(Tone sandhi)と呼ばれる声調交替が存 在することが知られている(単に“変調”と呼ぶこともある)。“連読変調”とは、多音節の音声 単位(単語、複合語又はフレーズ)の中で声調が特定の規則に従って変化する現象である。閩南語 の連読変調は、従来より注目を集め、多くの研究があるが、潮汕地区についてはなお研究が少なく、
また多くが単一地点、少数地点の変調現象の記述にとどまり、特に農村地帯については研究が手薄 であった。
3. 第二章では潮汕地区の閩南語における基本声調について記述した。
基本声調とは、調類と調値から成るもので、単音節語で発話された場合に現れる高さ及びその変 動のパターンである。その違いによって意味を区別することができる。閩南語においては、末位音 節の声調は変調せず、基本調値(即ち基本声調の調値)と同一とみられる。
潮汕地区における基本声調の数は、6~8である。中古音(601年撰書の『切韻』から知られる 音韻体系)には4つの声調(平声、上声、去声、入声)があったが、後に声母の清濁(有声性)を条 件に分裂が生じ、濁音声母の消失に伴って8声調体系が生まれた。潮汕地区で8声調を有する方言 はこの状態を維持していると考えられる。清音声母に発する声調を陰調と呼び、濁音声母に発する 声調を陽調と呼ぶ。4つの陰調をT1、T3、T5、T7と表示し、4つの陽調をT2、T4、T6、T8と表示す る。7声調、6声調の体系は、いずれかの声調の対立が消失して、調類の合流が生起した結果であ る。
本章では、まず声調数によってⅠ型・Ⅱ型・Ⅲ型に分け、次に調類合流の状況によってⅡ型をⅡ
−1型・Ⅱ−2型・Ⅱ−3型・Ⅱ−4型に下位分類した。その上で、さらに調値の状況によってそれぞれの 類型を細分した。分類の結果は、表1の通りである。合流が起きた調類は当該欄を灰色にした。太 字は調値の顕著な差異を示す。(以下同じ)
表1 基本声調の類型 類型 地点
数
代表 地点
声調 数
T5 T4 T1 T6 T2 T3 T7 T8 陰去 陽上 陰平 陽去 陽平 陰上 陰入 陽入
Ⅰ-a 56 66 8 213 35 33 11 55 53 2 5
Ⅰ-b 3 83 8 213 35 33 31 55 53 2 5
Ⅰ-c 10 4 8 213 35 334 11 55 53 2 5
Ⅰ-d 2 89 8 213 35 334 33 55 53 2 5
Ⅰ-e 1 86 8 31 35 334 11 55 53 2 5
Ⅱ-1 4 68 7 213 35 33 33 55 53 2 5
Ⅱ-2 1 98 7 213 33 33 11 55 53 2 35
Ⅱ-3a 1 39 7 31 31 21 11 55 35 32 54
Ⅱ-3b 17 46 7 31 31 21 33 55 53 32 54
Ⅱ-4a 1 91 7 213 35 33 11 55 55 2 5
Ⅱ-4b 1 81 7 213 35 33 31 55 55 2 5
Ⅲ-a 2 92 6 213 33 33 33 35 53 2 5
Ⅲ-b 1 26 6 213 33 33 33 35 53 32 5 声調調値の違いは、近年の音声変化によって生じた差異であり、それより調類の合流は本質的な 差異である。Ⅱ型の各下位類型は、一般にⅠ型からⅢ型への変化する過程で生じた過渡的な類型で あると考えられるが、調値変化からみると、合流が多く生起した類型は、かならず新しい類型であ るわけではない。調類合流が生起する原因は、特定の条件下において、一つの声調調値が変化する ことによって異なる声調調値の対立が消失したためである。いったい、声調調値の変化が始まる動 機は何だろうか。もともと潮汕地区の声調はどうような姿であろうか。
これらの問題を解明するため、合流の状況を考慮しながら、調値に着目して各声調の変化過程を 推定した。推定の方法は、地理的分布による推定の方法及び内的再構の方法の二種である。
地理的分布による推定の根拠は、隣接分布の原則、周辺分布(ABA分布)の原則とする(柴田武 1969)。
内的再構の方法は、主に地域内に各地点は同一調類に関する調値(古調値)は環境によって異な る基本調値と変調調値が変化してきたとの仮定に立って、古調値から基本調値・変調調値への変化 過程の再構を試みる。このような再構法を提唱したのは平山久雄氏である(平山1974など)。
上述した二つの方法にしたがって各声調の古調値から基本調値に至る変化過程を推定した。下記 はその結果である。
平声 上声 去声 入声
陰調 T1[33] T3[35] T5[31] T7[2]
陽調 T2[35] T4[33] T6[31] T8[35]
4. 第三章では潮汕地区の閩南語における連読変調について記述した。
福建省の閩南語と同じように、潮汕方言の連読変調には以下の三つの特徴がある。
(1)末位音節では変調せず、非末位音節で変調する。また、非末位の変調は末位の声調の影響を 受けない、つまり、音声的な文脈の制約がない(context-free)。
(2)主に範疇的な(categorical)声調交替をする。但し、一部の声調は声調交替に関与せず、新し い調値が実現する場合もある。
(3)声調交替には二形態がある。一つはA→B→C…のような連鎖式交替(chain shift)であり、も う一つはA, B→C又はA, B→Bのような声調中和である。中和とは、二つ以上の音素の対立がある条 件の下で消失することであり、通時的な合流の結果である。潮汕方言では、中和の出力(output) がA, B→Cのように入力(input)と異なる場合と、A, B→Bのように入力のいずれかと一致する場合 がある。
本章は、主に二音節語における非末位音節の連読変調について検討した。
調類の合流に着目した一次分類は、まず「陰調(T1,T3,T5,T7)が声調合流に参与するかどうか。」
によってA型とB・C型に分け、「陰調が声調合流に参与する場合、T3またはT5が声調合流に参与す
るかどうか。」によってB型が析出され、A型、B型、C型という三類型に分けられる。また「具体的 な合流状況」によってそれぞれの類型を細分した。
調値を考慮した二次分類は、調値に着目し、A-2型とC-1型、この二つの地点数が多い類型がそれ ぞれ4種と3種に下位分類される。
調類の合流に着目した一次分類と調値に着目した二次分類の結果を総合すると、表2の通りであ る。括弧内は少数の調値を示す。チルダ(~)は、出現頻度に大差のない二調値を示す。スラッシ ュ(/)は二つの異なる調値がことを表す。
表2 連読変調の総合分類 類型 地点
数
T4 T1 T6 T2 T5 T3 T7 T8 陽上 陰平 陽去 陽平 陰去 陰上 陰入 陽入 A-0 6 21 33~34 11 213 53 35 5 2 A-1 6 21 34(33) 213 213 53 35 5 2 A-2a 33 21 33(34) 11 11 53 35 5 2 A-2b 3 21 33 11 11 53 213 5 2 A-2c 13 21 33 11 11 55 35 5 2 A-2d 11 21 33 11 11 55 53(31) 54 32/54
B-1 1 21 33 11 55 55 31 54 32 B-2 2 21 33 33 55 55 31 54 32/54 B-3 2 21 33 33 53 55 53 54 32/54 B-4 1 33 33 33 31 55 31 5 2 C-1a 1 21 33 33 11 53 35 5 2 C-1b 10 21 33 33 11(53) 55 35 5 2 C-1c 2 21 33 33 11 55 31 54 32/54
C-2 8 33 33 33 11(53) 55 35 5 2 C-3 1 33 33 33 33 55 35 5 2 さらに、変調調値によって一次分類を行うと、「下降調をとるのはT5かT3か。」という分類基準 によってa、b、cという三つの類型に分けることができ、T5とT3という二本の等語線が現れる。
さらに、上述した各類型を地図に反映させ、それぞれの地理的分布によって通時的な変化過程を 推定した。初歩的推定の結果は以下の通りである。
このような推定は主に調類合流を注目し、調値に関する考察は少ない。また、一部の類型は地点
数が少なくて判断できないため、地理的分布のみによる推定は不充分である。そのため、調値に着 目して各声調調値の変化過程を推定することが必要である。この部分は第四章で検討する。
潮汕方言が他の閩南語方言と異なる特質として、末位音節においても変調が起きることがある。
本章ではさらにその変調規則を検討するとともに、三音節以上の多音節語の変調も記述した。二音 節語における末位音節の変調は潮汕全域に認められるが、地域差は少ない。また、多音節語では、
末位音節以外のすべての音節が基本的に二音節語の変調規則に従って変調する。
5.第四章では、変化の内的要因と外的要因の両側面から、諸類型の通時的な声調変化の過程を検討 した。
内的要因について、第二章で述べたように、地理的分布による推定の方法及び内的再構の方法に 拠って、変調調値の変化過程を推定した。同時に古調値を再構した。また、第二章で検討した基本 調値の推定を加え、全体的に古調値から現代調値(基本調値と変調調値)に至る変化過程を検討し た。
検討結果は以下の表3である。「*」は筆者が再構成された古調値を示すものである。太字は変 調調値を示し、斜体の数字は過渡的段階に想定される調値を示す。なお、非斜体の数字はすべて現 存する調値である。
表3 古調値から現代調値に至る変化
声調 * Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅴ
T1 33
33 334
33 31 21 33 34
T2 11
11 35 55
11 33 55 53 31
11 213
T3 35
35 55 53
35 55 53 31 35 33 213
T4 21 21 33 35 31 21 33
T5 55 55 53 31 213 55 53
T6 31
31 33 11 31 11 33 31 11 213
T7 5 5 2 32
5 54 32
T8 35
35 5 54
35 5 2
35 5 54 32
以上の再構成された古調値はなお問題を含む。すなわちT2[*11]・T4[*21]・T6[*31]の古調値が近 すぎることである。そのため、方言間比較の方法を導入し、古調値体系を検証しながら調整した。
方言間比較の方法とは、調値再構のため、近縁方言間の比較から始めて古い段階に遡る方法であ る。(平山1974)変調調値より、基本調値は変化が多く生起した。その原因は、基本調値は末位音 節に分布し、「末位音节由于和后面的音节结合得较松,或者后面没有别的音节,所以在它的后半部 分发音运动之弱化(声带松弛,呼气量减少等)比较显著。」 (末位音節は後接音節との結合度が 弱い、または後接音節がないため、その後半部の調音は著しい強さの弱まり(声帯の緊張度が低い、
呼気量が減少したなど)を伴い。)この説を敷衍すれば、古調値>変調調値>基本調値というよう な変化過程を想定することができると思われる。
仮に上述した仮定が成立するとすれば、同一地点における基本調値と変調調値の相互関係に従っ て古調値を再構成でき、古調値からそれぞれに基本調値・変調調値への変化過程も推定できる。そ のため、潮汕地区の4代表地点の調値(基本調値と変調調値)を取り上げて考察する。考察の結果 は以下のようである。
平声 上声 去声 入声
陰調 T1[*33] T3[*35] T5[*55] T7[*5]
陽調 T2[*13] T4[*11] T6[*31] T8[*13]
潮汕地区における古調値は四声八調であり、これは古代の四声が声母の清濁を条件にそれぞれ二 つに分裂したことを反映している。その後、潮汕方言においては、他の閩南語方言と同様、有声子 音が無声化した。各調類の調値を観察すると、あらゆる陰調は同声の陽調よりピッチが高いのは顕 著な特徴である。たとえば、陰平のT1[*33]は陽平のT2[*13]よりピッチが高い。
陰入(T7)古調値・陽入(T8)古調値は、それぞれに非入声である陰去(T5)古調値・陽平(T2)
古調値と同一声調素に該当した。これも平山(1974)の解釈と一致した。
潮汕地区における声調は主に内的要因が働くことによって変化が進むが、外的要因の作用も考慮 しなければならない。外的要因は、主に方言接触である。
広東東部の閩南語は、孤立な存在ではなく、福建南部の閩南語と隣接し、両地区は古代から移民、
商売など交流が頻繁であり、地縁上・文化上、親密な関係がある。地理的には連続しており、また 同じく閩南語に属するため、接触を回避することは不可能である。
そのため、同じく閩南語に属する福建南部及び台湾における六地点(以下「泉漳グループ」と呼 ぶ)の連読変調を取り上げ、この両地区の共通点を見いだし、方言接触の観点から潮汕方言の連読 変調の変化過程を考察した。
潮汕地区に最も多いである基本声調のⅠ-a型と連読変調のA-2a型を比べると、泉漳グループの閩 南語は共通点が少ない。但し、潮汕地区では少数類型である基本声調のⅢ型に着目すると、以下の ような一致がある。
Ⅲ型は厦門方言・泉州方言と比べると、基本声調は厦門方言との一致性が高いが、連読変調は泉 州方言との一致性が高い。
基本声調 変調調値
T3 T5 T6 T1 T2 T3 T4 T5 T6 厦門 53 21 22 22 22 44 21 53 21 泉州 55 41 41 33 22 24 22 55 22
潮汕Ⅲ型 53 213 33 33 11 35 21 55 11/33 Ⅲ型は、いずれも中心部から遠く離れた地域にあり、福建南部と直接的には隣接していない。潮 汕地区にある他の地点に比べ、泉漳グループとの一致性が非常に高いのは、偶然ではなく、方言接 触による結果であると思われる。方言接触と言えば、潮汕地区の各地域はいずれも福建から移住し たが、移住の時間の先後によって異なる下位方言が接触して変化が生起した。この問題を解明する ためには、さらに潮汕地区の声調データを収集する必要があるだろう。
6.第五章は全文の結論である。各章のまとめのほか、未解決の問題点及び今後の研究方向なども本 章で説明した。
㊞
学位論文審査報告書
平成29年 7 月 11 日
1 論文提出者
金沢大学大学院人間社会環境研究科 専 攻 人間社会環境学 氏 名 黄 綺燁
2 学位論文題目(外国語の場合は,和訳を付記すること。)
広東東部閩南語の連読変調
(Tone sandhi)に関する記述的、言語地理学的研究
3 審査結果
判 定(いずれかに○印) 合 格 ・ 不合格
授与学位(いずれかに○印) 博士( 社会環境学・文学・法学・経済学・学術 )
4 学位論文審査委員
委員長 岩田 礼 委 員 新田 哲夫 委 員 加藤 和夫 委 員 高山 知明 委 員 上田 望 委 員
(学位論文審査委員全員の審査により判定した。)
5 論文審査の結果の要旨
閩南語は、福建省南部及び台湾、海南島などで話される漢語方言として知られている。福建 省南部や台湾で話される閩南語については、研究がよく進んでおり、現在では理論言語学の素 材ともなっている。
本論文が扱った方言は、著者の出身地である広東省東部、潮州・汕頭地域で話される潮汕方 言と呼ばれる閩南語の下位方言グループである。潮汕方言についても近年は研究が進んできて いるが、福建省南部や台湾の方言に比べると研究量は少ない。特に一般音韻論の領域で注目を 集めているtone sandhiと呼ばれる声調交替の現象については、福建省南部とはかなり異なる 特徴が報告されているが、従来の研究対象は市街地域に限られ、周辺の農村地域を含む全体像 は明らかにされてこなかった。
声調の記述は、通常、単音節におけるピッチの高さと変動を観察することで、いくつの声調 カテゴリーがあるかという“調類”とそれに対応した“調値”を定める。後者を“基本調値”
と呼ぶ。次に、二音節以上の単語やフレーズにおける声調実現が基本声調と一致するか否かと
いうsandhi(連声)の現象を観察する。基本調値と違いがある場合は“変調調値”と呼ぶ。
閩南語のtone sandhiは、末位音節の声調が変調せず、非末位音節の声調が A→B→C のよう に連鎖式に変調すること、また北京語の3声変調などとは異なり、後続声調の影響を受けない ことが知られている。このような声調の音声的観察は、正しく聞き取り記録するための修練と 技術、及び長時間の調査を遂行する忍耐力も必要である。本論文の著者は、言語地理学の研究 を志して来日し、本研究科に入学したので、もともと語彙を素材とした研究を進める考えもあ り、現にゴキブリの中国語方言を題材とした論文を在学中に執筆し、中国で出版された論文集 に掲載されている(「漢語方言“蟑螂“一詞的地理分布研究」)。言語地理学の目的は、言語特徴の 地理的分布を観察することで、言語変化の過程を推定し、言語史を再構成することである。し かし、言語地理学の素材は一般に単語又は形態成分であり、音韻特徴は素材になりにくいとい われている。この点、当初は本人に迷いもあったが、tone sandhiの研究を通じて、言語地理 学的なアプローチの検証を目指すこととなった。
著者は、研究科入学後の2年間で、現地における1ヶ月~1ヶ月半の長期調査を3回と2週 間程度の調査を1回実施した。その結果、潮汕地域内の100地点について、声調に関する詳細 なデータを独力で収集した。調査地点密度は結果的に、当該地域の中心部である潮州市や汕頭 で高く、西部の汕尾市で低いというアンバランスがあるが、これは後者の治安状態が悪く、長 期間の滞在に適さなかったためである。調査は中国における方言調査で通常行われている単語 読み上げ式ではなく、主に日常語彙によって構成される180項目の質問票によって自然な発話 を引き出すよう工夫されている。
本論文の第一章は、調査地域の概要と先行研究及び調査の経緯を紹介した後、研究の目的を 述べている。
第二章では基本声調の記述と分析を行っている。まず調類の数と合流状況に着目して一次分 類を行ったのち、調値の差異に着目して下位分類を行い、分類の結果を地図に示した。また、
地理的分布の観察を通じて、各類型の通時的関係を考察した。さらに各調類について、調値の 差異を地図に示し、言語地理学の解釈原則を適用することで、各調類の古調値とそこから現代
の調値に至る変化の過程を推定した。一部、根拠を欠くため推定が不可能な部分もあるため、
仮の結論と位置付けられる。次章での検討と突き合わせて第四章で調整が図られる。
第三章では、変調調値の記述と分析を行っている。潮汕方言のtone sandhiは、他の閩南語 方言と同様に、末位音節の声調が変調せず、非末位音節が後続声調の影響を受けることなく A→B→C のように、連鎖式に変調する。しかし他の閩南語方言と異なり、変調では調類合流が 生起した結果、A, B →A のような中和現象が多く、またその結果、調値の平板化傾向が著し い。この章では基本声調と同様の手順で、まず調類の合流状況に着目して一次分類を行ったの ち、調値の差異に着目して下位分類を行い、分類の結果を地図に示した。次に、T3、T5 とい う二つの声調に着目し、「下降調で発音されるのはいずれか?」という調値変化において重要 な特徴を等語線の形式で地図に書き込んだ。これらの作業に基づき、変調調値について各調類 の古調値とそこから現代の調値に至る変化の過程を推定した。
本章では、他に潮汕方言独自の特徴を記述している。それは末位音節の声調が特定の声調の 後で変調することであり、これは他の閩南語方言には見られない特徴である。
第四章では、第二章と第三章でそれぞれ得られた声調調値変化に関する仮の結論を総合し、
さらに方言間比較の方法によって推定された調値に調整を加えて、各調類について再構成され た古調値を示し、そこから基本調値と変調調値の各類型に至る変化の過程を説明している。再 構成された古調値と調値変化の過程に関する推定は、中国語の調値変化に関してほとんど唯一 の仮説というべき平山久雄氏の「還流説」とよく一致している。
以上が本論文の概要であるが、審査委員会ではいくつかの指摘がなされた。まず、現象が複 雑なだけに論証のプロセスにも改善の余地があること。例えば「内的再構」という方法は、本 来、基本調値と変調調値を比較する作業を一方言から積み上げることで古調値を推定するもの であるが、そのような丹念な作業は省略されている。また、「方言接触」の問題をいきなり移 民による外部方言からの影響として論じているが、調査地域内部の事実に基づいて方言接触の 実態を明らかにする余地があること。一方、本論文がお手本とした平山久雄氏の方法は、古調 値から基本調値と変調調値への変化が合理的に説明されることを推定の根拠としており、いわ ば演繹的な結論の提示であるため、中国その他の研究者からの批判がある(但し、代案は示さ れていない)。この点、本論文が声調調類と調値の地理的分布に基づく補完的な根拠を示すの はアドバンテージである。今後、論証のプロセスを工夫することで国際的な評価にも堪えうる 研究に発展する余地が十分にある。また、100地点に上る調査資料は、それ自体が価値を有す る。例えば、同地域を対象とした呉芳氏の「粵東閩語前後鼻音韻尾類型研究」は斯界で高い評 価を受けた研究で、調査地点が160にも上るが、素材は鼻音韻尾(-m,-n,-ng)のみである。
本論文の著者が収集したtone sandhiのデータは、それより汎用性が高い。
本論文の著者は、2013年10月の来日後に日本語の勉強を本格的に開始したが、その後の進 歩はめざましく、本論文は日本語の軽微な誤用がみられるものの、全体として学術論文として ふさわしい書きぶりとなっている。
以上の理由によって、本論文が本研究科の博士学位論文として十分に水準に達したものであ ることを審査委員全員一致により認めた。