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『 平 家 物 語 』 と 『 吾 妻 鏡 』

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『平家物語』と『吾妻鏡』 (清水) 二五 一、は じ め に   こ れ ま で も 繰 り 返 さ れ て い る こ と で あ る が、 『 平 家 物 語 』 な ど の 軍 記 物 語 は、 史 実 と し て の あ る で き ご と( 基 本 的 には戦争に関わるできごと)を叙述の基盤に据えながら、そこに編著者の立場や、成立や享受に関わった時代の様相 などの影響を受けた叙述意図、あるいは編纂意図の影響を受け、史実から大きく乖離した記事も併せ持つことを特徴 としている。

  したがって軍記物語研究においては史実との距離をはかり、そこから作品論を展開するという手法が採られること が多い。さらに、逆説的な言い方にはなるが、そうした史実との乖離をもたらした叙述意図や編纂意図を重視するな らば、その中にもまた、歴史や時代の変遷の真実の断面があるのではないか、というのも、筆者が持ち続けている見 通しである。 清   水    由   美   子 ﹃ 平 家 物 語 ﹄ と ﹃ 吾 妻 鏡 ﹄

│ │ 横 田 河 原 合 戦 記 事 を め ぐ っ て │ │

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二六   しかし、我々に「史実」を教えてくれる歴史史料にも、当然、誤りもあれば、筆者の立場の反映もある。一方、軍 記 物 語 に も、 多 く の 諸 本 が 存 在 し、 そ の 間 に は 見 逃 す こ と の で き な い 異 同 が あ る 場 合 が 多 い。 「 史 実 と の 距 離 を は か る」と言っても、そう簡単ではない。一つ一つの記事や史料を丹念に読み込むことでしか見えてこないものがあるの ではないか、と感じている。

  本稿で取り上げる『平家物語』の「横田河原合戦」記事も、そうした感を強く起こさせる一例である。これは、源 義 仲 の 関 わ っ た 戦 い の う ち で も、 『 平 家 物 語 』 が 描 く 最 初 の 本 格 的 な 戦 闘 で あ り、 相 手 は 越 後 の 城 氏 の も と に 集 ま っ た武士たちであった。

  この合戦を描く『平家物語』諸本の記事には、人名や日付の複雑な異同があり、また、この合戦について触れてい る『吾妻鏡』の記述との違いも大きいので、これまで多くの論考がありながら、史料との関係や諸本間の記事流動の 過程を見極めるのは困難であり、ほぼ不可能かとされているのが現状だ。すでに、議論が出尽くされている感も強い のだが、さらに読み込んでみると、これまで注目されてきた日付の問題や人名の問題の他にも、いくつかポイントが 見 え て く る よ う に 思 う。 例 え ば、 読 み 本 系 諸 本 が 長 々 と 語 る、 『 保 元 物 語 』 の 場 面 を 思 わ せ る よ う な 一 騎 打 ち の 戦 闘 シーンに登場する武士はどういった人物で、なぜ、彼らの命を懸けた戦いを詳しく書くのか。さらに、それを語り本 系諸本がばっさり削っているのはなぜか。延慶本などが触れる、兄のあとを継いで義仲と戦う弟が受けた天からの啓 示をどう考えたらいいのか。そうした『平家物語』諸本と『吾妻鏡』はどこでリンクしたのか、あるいはしていない のか。ただ単に、日付の一致、不一致や、人名の異同といった点で比較検討するだけで、両者の関係を考えるのは不 十分なのではないか、と考えるのである。

  本 稿 で は、 こ の 記 事 を め ぐ る こ れ ら の 疑 問 を 出 発 点 に、 『 平 家 物 語 』 の 諸 本 展 開 の 一 断 面、 さ ら に は『 平 家 物 語 』 と『吾妻鏡』の関係の一断面に迫ってみたい。

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『平家物語』と『吾妻鏡』 (清水) 二七 二、史実としての横田河原合戦   城 太 郎 資 長( 「 資 永 」「 助 長 」「 助 永 」 と も。 以 後、 本 稿 で は 引 用 を 除 い て「 資 長 」 で 統 一 す る ) は、 城 資 国 の 長 男 で あ り、 『 吾 妻 鏡 』 の 彼 の 死 亡 を 記 す 養 和 元 年( 一 一 八 一、 治 承 五 年 は 七 月 十 四 日 に 養 和 と 改 元 ) 九 月 三 日 条 に よ れ ば、母は清原武衡の娘だという。城氏は、桓武平氏維茂の子の繁茂が出羽城介となってから城氏を名乗る越後国の豪 族 だ と さ れ る

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。 そ の 資 長 が 義 仲 追 討 と い う 宣 旨 に よ っ て 甲 斐、 信 濃 に 出 陣 し た と い う 噂 が 流 れ た こ と は、 同 年 の 治承五年閏二月十七日条の『玉葉』によってわかる。

  同じく『玉葉』には、その一ヶ月後の三月十七日条に次のようにあって、その宣旨が、対頼朝として奥州の藤原秀 衡に下されたものと対になって資長に下されたものであること、秀衡の作戦は成功したらしいが、資長は病気によっ て突然死去したらしいこと、本当かどうかわからないと兼実も半信半疑といった状態だったこと、などがわかる。な お、平田俊春氏は、資長の宣旨拝領を閏二月二十三日とするが、史料にはこの日付は見いだせない

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…… 女 院 の 御 方 へ 参 り て 伝 へ 聞 く、 秀 平 は 頼 朝 を 責 め ん が 為、 軍 兵 二 万 余 騎、 白 河 の 関 の 外 に 出 で、 茲 に 因 て、 武蔵相模の武勇の輩、頼朝に背き了んぬ。仍て頼朝安房国城に帰住し了んぬと云々。 又越後城太郎助永病死し了 んぬと云々、但し此等事、信を取り難し、此の如くの浮説 、先々皆以て虚誕也、然而、後日真偽を存知せんが為 に、聞き及ぶに随ひて之を注す。

  ま た、 『 吉 記 』 も 治 承 五 年 六 月 二 十 七 日 条 の、 資 長 の 弟 四 郎 資 職( 「 助 職 」「 助 茂 」「 資 盛 」「 長 茂 」 と も。 以 後、 本 稿 で は 引 用 を 除 い て「 資 職 」 で 統 一 す る ) の 出 陣 の 記 事 の 中 で「 …… 風 聞 に 云 は く、 越 後 国 住 人 資 職〈 城 太 郎 資 永 弟、資永去春逝去〉信乃国に寄せ攻め、已に落ち了んぬと云々」とし、同年の閏二月から三月にかけての資長の急死

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二八

を記している。

  『吉記』の記す、この弟の資職の出陣こそが、横田河原合戦であった。

『玉葉』は、以下の通りに詳述する。

…… 越 後 国 の 勇 士〈 城 太 郎 助 永 弟 助 職、 国 人 白 川 御 館 と 号 す と 云 々〉 、 信 濃 国 を 追 討 せ ん と 欲 し〈 故 禅 門 前 幕 下 等 の 命 に 依 る 也 〉、 六 月 一 三 四 両 日、 国 中 に 入 る と 雖 も、 敢 え て 相 い 防 ぐ 者 無 く、 殆 ど 降 を 請 ふ 輩 多 く、 僅 か に 城等に引き籠る者は攻落に煩ひ無かるべし。仍て各々勝ちに乗ずる思ひを成し、猶ほ散在の城等を襲い攻めんと 欲 す る の 間、 信 乃 源 氏 等、 三 手 に 分 か れ〈 キ ソ 党 一 手、 サ コ 党 一 手、 甲 斐 国 武 田 之 党 一 手、 〉 俄 に 時 を 作 り 攻 め 襲 ふ 間、 険 阻 に 疲 れ し 旅 軍 等、 一 矢 を 射 る に も 及 ば ず、 散 々 に 敗 乱 し 了 ん ぬ。 大 将 軍 助 職、 両 三 ヶ 所 疵 を 被 り、 甲 冑 を 脱 ぎ、 弓 箭 を 棄 て て、 僅 か 三 百 余 人 を 相 率 ゐ〈 元 勢 万 余 騎 と 云 々〉 、 本 国 に 逃 げ 脱 し 了 ん ぬ。 残 り 九 千 余 人、或いは伐ち取られ、或いは自ら険阻に落ちて命を終え、或いは山林に交はりて跡を暗くし、凡そ再び戦ふべ き力無しと云々。然る間、本国在庁の官人已下、宿意を遂ぐ為に助元を凌礫せんとする間、藍津の城に引き籠る 処、 秀 平 郎 従 を 遣 は し て 押 領 せ ん と 欲 す。 仍 て 佐 渡 国 に 逃 げ 去 り 了 ん ぬ。 其 の 時 相 伴 す る 所、 纔 に 四 五 十 人 と 云 々。 是 の 事、 前 治 部 卿 光 隆 卿〈 越 後 国 を 知 行 す る 人 也 〉、 今 日 慥 か な 説 と 称 し て、 院 に 於 い て 相 語 る 所 也 と 云々。 〔後聞く、佐渡国へ逃げ脱すは謬説也、本城に引き籠ると云々 〕 (治承五年七月一日条)

…人伝えて云はく、越後助職未だ死せず、勢又強くして滅せず、乃て源氏等、掠領するに似ると雖も、未だ入部 せずと云々。 (養和元年七月二十二日条)

  これらの『玉葉』 、『吉記』の記事を信ずる限り、横田河原での合戦は、治承五年の六月十三、四日頃だったことは 間違いないだろう。ただし、ここでは、先の『玉葉』の記事とは違って、その命令を出したのが、この年の閏二月に 亡 く な っ た 清 盛 と そ の 子 宗 盛 だ っ た と す る。 ま た、 資 職 が 敗 走 し て 越 後 に 逃 げ 帰 っ た に も か か わ ら ず、 越 後 の「 官

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『平家物語』と『吾妻鏡』 (清水) 二九 人」たちが「宿意を遂ぐ為に助元を凌礫せん」とした、というのは何を意味するのだろうか。さらに、対頼朝という こ と で、 故 資 長 と ペ ア で 任 命 さ れ た は ず の、 藤 原 秀 衡 が 追 い 打 ち を か け、 会 津 か ら 佐 渡 へ 追 放 し た と い う 噂 が 出 た が、 な か な か し ぶ と く 越 後 の 城 で 義 仲 の 攻 勢 を 防 い で い る と す る が、 秀 衡 と 城 氏 の 関 係 は ど う な の だ ろ う か。 『 平 家 物 語 』 で も、 の ち に 北 陸 道 を 攻 め 上 っ た 義 仲 に、 秀 衡 が 馬 を 贈 っ た と い う 記 事 も あ り

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、 義 仲、 城 氏、 奥 州 藤 原 氏 という三者の複雑な関係をうかがわせる。あるいは、今後、こうしたことの解明が、義仲についての史実や『平家物 語』における義仲像の読解の鍵を握っているのかもしれない。   そして、その約二ヶ月後、さらなる頼朝、義仲への攻撃を期待されてのことであろう、秀衡と資職が、それぞれ陸 奧国司、越後国司に任じられている。その間の京都の事情を記すのが、以下の『玉葉』の記事である。

…… 頭 弁 来 た り て、 院 の 仰 せ を 伝 へ て 云 は く〈 余 直 衣 を 着 し て 出 逢 ふ 也 〉、 関 東 の 賊 徒 猶 ほ 未 だ 追 討 に 及 ば ず、 余勢強大の故也。京都官兵を以て、輙く攻落し難きか。仍て陸奧の住人秀平を以て、彼の国の史判に任じらるべ き の 由、 前 の 大 将 申 し 行 ふ の 所 也。 件 の 国 は 素 よ り 大 略 虜 掠 せ し む。 然 か ら ば、 拝 任 す る に 何 事 の 有 る か、 如 何。 又 越 後 国 の 住 人 平 助 成、 宣 旨 に 依 り て、 信 濃 国 に 向 か ひ、 勢 少 な き に 依 り て 軍 に 敗 る る は、 全 く 過 怠 に 非 ず、志の及ぶ所、已に身命を惜しまず、忠節の至り、頗る恩賞有るべきか。且つ傍輩を励まさんが為也。しかれ ども其の法如何、忽ちに越州を賜はば、其の節を遂ぐる時如何、又、只今の如くは、大略敵軍の為に追い帰され 了 ん ぬ。 其 の 賞 孰 れ の 国 を 預 く る も、 頗 る 其 の 謂 は れ 無 し。 若 し く は 然 る べ き 京 官 を 任 じ ら る べ き か、 進 退 の 間、叡慮決し難し。宜しく計奏せらるべしと云々、 (養和元年八月六日条)

  同 日 条 で は、 こ れ に 対 し て、 兼 実 が「 愚 案 及 び 難 し 」「 道 理 の 推 す 所 に 非 ず 」 と 返 事 し て い る が、 結 局 国 司 任 官 は 决定し、養和元年八月十四日の夜に除目が行われ、越前守に平親房が任じられたのとともに、秀衡と資職がそれぞれ 陸 奥 守 と 越 後 守 に な っ て い る。 兼 実 は、 「 天 下 の 恥、 何 事 か こ れ に 如 か ず や。 悲 し む べ し 」 と 感 想 を 書 き 付 け て い る

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三〇

し、 『吉記』の筆者吉田経房も同様の感慨を書き付けている。

  源 頼 義、 義 家 や、 為 義 の 例 を 見 る ま で も な く、 陸 奥 守 は 京 都 の 貴 族 に と っ て は 垂 涎 の ポ ス ト だ っ た で あ ろ う か ら、 藤原秀衡に与えることに抵抗があったのは当然だと推測できる。また、平氏の血を引く資職の当時の状況も、国司と して越後の国を治めるなどという状況からは程遠い。兼実や経房の不満は納得できよう。

  こ の あ と、 平 家 の 都 落 ち の 際 に 資 職 は 国 司 を 解 任 さ れ る。 そ の 後 の 彼 の 動 向 は よ く わ か ら な い。 鎌 倉 幕 府 成 立 後、 一旦は罪人として扱われたが、奥州合戦には参加、御家人に加えられるも、建仁元年(一二〇一)に幕府軍によって 追討されたことがわかっている。兄資長の嫡男の資盛、姉妹の板額御前が叛乱を起こしたこともよく知られている。

三、 『吾妻鏡』の記述

  一 方、 『 吾 妻 鏡 』 は、 養 和 元 年 八 月 十 三 日 条 に、 平 氏 の 申 請 に よ っ て、 秀 衡 に 頼 朝 追 討 の 宣 旨 が 出 た こ と を 述 べ な が ら、 同 時 に「 資 永 」 に 義 仲 追 討 の 宣 旨 が 出 た と す る。 さ ら に、 同 九 月 三 日 条 に は、 「 城 四 郎 」 と 号 し た「 資 永 」 が 出 陣 し よ う と し た が、 こ の 日 の 朝「 頓 滅 」 し た こ と を 記 し た 後 で、 「 是 天 譴 を 蒙 る か 」 と 書 き 加 え、 さ ら に、 彼 が 八 月十三日に「越後守」に任ぜられたことを含む出自を紹介している。

  一見してわかるように、この記事は、太郎資長と四郎資職を混同している。八月十三日の記事では「宣旨」により と し な が ら、 九 月 三 日 の 記 事 で、 八 月 十 三 日 に 国 司 に 任 命 さ れ た と す る こ と が、 そ の こ と を 示 し て い る と 言 え よ う。 その際に、この年の閏二月ころの資長頓死の事実を書き加えているのだろう。 「天譴」とするのは、 『吾妻鏡』の立場 から言って当然だと考えられる。

とを継いだ「城四郎永用」が義仲と戦ったとするのである。 を、翌寿永元年(一一八二、養和二年は五月二十七日に寿永と改元)秋のこととし、越後国司だった兄「資元」のあ   『 吾 妻 鏡 』 の、 横 田 河 原 合 戦 及 び 城 氏 に 関 す る 混 乱 は、 ま だ 続 く。 以 下 に あ げ る 記 事 の よ う に、 横 田 河 原 で の 合 戦

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『平家物語』と『吾妻鏡』 (清水) 三一   こ の「 永 用 」 に つ い て は、 「 資 職 」 と 同 一 人 物 だ と さ れ て お り

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「 弟 が 兄 も あ と を 継 い で 横 田 河 原 合 戦 を 戦 っ た 」 というストーリーは残ったことになる。

九月二十八日丙申、越後国城四郎永用、越後国小河庄赤谷に於て城郭を構ふ。剰へ妙見大菩薩を崇め奉り、源家 を呪詛し奉るの由、其の聞こえ有り。

十月九日丙子、 越後住人城四郎永用、兄資元〈当国守〉が跡を相継ぎ 、源家を射奉らんと欲す。仍て今日、木曽 冠者義仲北陸道の軍士等を引卒し、信濃国筑磨河の辺に於いて合戦を遂ぐ。晩に及びて永用敗走すと云々。

  九月二十八日条に見える「小河庄赤谷」について、 『日本歴史地名大系』は、 「中山村の南、加治川の上流飯豊川の 左 岸 に 位 置 し、 川 沿 い に 南 下 し て き た 会 津 街 道( 赤 谷 街 道 ) は 当 地 を 経 て 山 中 を 綱 木( 現 東 蒲 原 郡 三 川 村 ) に 向 か う」とし、また、ここで見られる城資職が築いた城について、 「川を挟んで東方、滝谷新田の要害山にあったという」 とする。義仲に敗れたあとで、いったん会津に逃げたとする『玉葉』の記事を裏付ける。

  し か し、 細 部 の 混 乱 は 別 と し て も、 『 吾 妻 鏡 』 の 記 事 の こ の 一 年 三 ヶ 月 ほ ど の 年 月 の 誤 差 は 重 要 で あ る。 こ の 赤 谷 と い う 地 名 を 記 し て い る 所 な ど を 見 る と、 『 吾 妻 鏡 』 の 筆 者 が、 城 氏 の 動 向 に 関 し て、 そ れ な り に 正 確 な 情 報 を 持 っ ていたと思われる(後述するように、笠原義直の動向なども『吾妻鏡』は把握していた)のに、なぜ、時期を後にず らしたのか。これも後に詳述するが、覚一本は、横田河原合戦を寿永元年九月九日とし、屋代本も同十一日とするな ど、 語 り 本 系『 平 家 物 語 』 は、 こ の『 吾 妻 鏡 』 の 記 述 に 近 い。 こ の こ と か ら、 覚 一 本 な ど と『 吾 妻 鏡 』、 あ る い は そ の 原 史 料 と の 関 係 を 推 測 す る 向 き も あ る。 平 田 俊 春 氏 は、 「 こ の 条 に お い て「 原 平 家 」 と『 吾 妻 鏡 』 の 関 係 は 密 接 で あ る が、 『 吾 妻 鏡 』 は 城 氏 関 係 の 誤 っ た 史 料 に よ り、 「 原 平 家 」 の 記 事 を 改 悪 し て い る と こ ろ が 多 い 」 と 述 べ

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、 冨 倉 徳 治 郎 氏 は、 逆 に「 語 り も の 系 は「 吾 妻 鏡 」( の 原 材 料 と な っ た も の ) に よ っ て 書 い た も の で あ る と 考 え ら れ そ う

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三二 である」とする

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。   ま た、 『 吾 妻 鏡 』 内 部 に こ の 改 変 の 理 由 を 探 ろ う と す る 論 考 も あ り、 た と え ば、 水 原 一 氏 は、 義 仲 の こ の 戦 い を 頼 朝のために戦ったものと印象づけようとする操作だとする

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  語 り 本 系『 平 家 物 語 』 の 改 変 意 図 や『 吾 妻 鏡 』 と『 平 家 物 語 』 の 関 係 に つ い て は 改 め て 取 り 上 げ る こ と と し、 『 吾 妻鏡』の記事の改編もしくは誤りについてもう少し検討を加えようと思う。

  ま ず、 す で に 書 き 下 し 文 で 紹 介 し た 記 事 も 含 め て、 『 吾 妻 鏡 』 で の、 横 田 河 原 合 戦 ま で の 義 仲 関 連 記 事 を 抜 き 出 し てみると、次のような流れになる。

治承四年九月七日条 義仲の出自・頼朝の挙兵に加わる意志・市原合戦参戦(市原は市村の誤りと考えられて いる。この戦いで、平家に味方する笠原義直が敗れ城長茂のもとに逃げる) 十月十三日条 亡父義賢のあとに倣って、上野国へ入る。 十二月二十四日条 上野国から退却。すでに頼朝の支配が及んでいたため。 養和元年八月十三日条 秀衡・資職に、それぞれ頼朝・義仲追討の宣旨が出る。平氏の申請による。 九月三日条 越後国司城四郎資職、信濃に進発しようとするが急死。天罰か。 九月四日条 義仲、上洛をめざし北陸道へ侵攻。先陣の根井太郎行親、越前国水津にいたり、平家軍 と戦闘。 寿永元年九月十五日条 義仲追討のために北陸道に発向した平家軍、帰京。 十月九日条 横田河原合戦

  こ れ を 見 て す ぐ に 気 が つ く の は、 『 玉 葉 』 な ど に よ れ ば 治 承 五 年 の 閏 二 月 こ ろ に、 秀 衡 と 資 長 に 下 さ れ た「 宣 旨 」 と そ の 直 後 の 資 長 急 死 が、 同 年( 養 和 元 年 ) の 八 月 十 三 日 に な っ て い る こ と で あ る( 傍 線 部 )。 し か も、 続 く 九 月 三

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『平家物語』と『吾妻鏡』 (清水) 三三 日条では、資職は「越後国司」と表記されている。これは、史実では横田河原の戦いのあとで、重ねての義仲追討を 目的に、資職が国司に任命された時期とほぼ一致する。つまり、最初に資長に宣旨が下され、その直後に彼が急死し た出来事が拔け落ち、戦いの後の国司任命と混同されてしまっているのである。しかし、その時には史実では義仲が す で に 越 前 に 達 し、 平 家 軍 と 対 峙 し て い る 状 況 だ っ た の で、 そ こ に 越 後 と 信 濃 の 境 で の 戦 闘 を お く わ け に は い か ず、 翌 寿 永 元 年 秋 に、 北 陸 道 に い た 平 家 軍 が 退 却 し た( 『 吾 妻 鏡 』 で は、 義 仲 の そ の 理 由 を、 表 向 き は 寒 さ の た め だ が 実 際は義仲の勢いに対抗できなかったからだ、と説明している)のを待って、再び千曲川河畔に戻って城氏と戦ったの だとして、整合性を取っているのだとは考えられないだろうか。   資長と資職という人名の混乱、また、常に秀衡と対に行われた、源氏追討のための宣旨と国司任命という似た状況 の混乱による誤りが、この編纂の際の改変の出発点にあるのだと思われる。   このように考えると、一つの間違いがきっかけとなったこの流れは、それなりに整っている。語り本系の『平家物 語』の簡単な記述に依拠したことで唐突に起こったことではないのだと考えられよう。

四、 『平家物語』読み本系諸本の記事

  読み本系『平家物語』の諸本の内容について、以下に簡単にまとめてみる。

四部本

  資長の義仲追討のきっかけ=記載無し   資長の死去( 「中風して失せぬ」とのみ)=記載無し   横田河原合戦   治承五年六月二十五日以前    戦ったのは次郎資職(四郎長茂と改名)

  資長・長茂の越後守就任=記載無し

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三四

  ※

  「治承五年六月二十五日」に届いた早馬の報告という形で、資長頓死と横田河原合戦が記される。

延慶本

  資長の義仲追討のきっかけ=国司任官(治承四年十二月二十五日の除目/治承五年二月二十三日に到来)

  資長の死去(天からの声によって中風になって死去)    治承五年閏二月二十四日   横田河原合戦   治承五年六月二十日~七月十四日    戦ったのは次郎資盛(四郎長茂と改名)

  次郎資盛(四郎長茂と改名)の越後守就任    養和元年八月二十五日

長門本

  資長の義仲追討のきっかけ=国司任官   資長の死去(天からの声の怪異の件はなし)    治承五年閏二月二十五日   横田河原合戦   治承五年六月二十日~七月十四日    戦ったのは長茂   四郎長茂の越後守就任    養和元年八月二十五日 ※   長門本では、巻十三の冒頭部分で、治承五年二月二十五日の長茂出陣が語られ、義仲の八幡宮参拝記事をはさ んで、合戦描写が続く。結局義仲の策謀によって敗北した長茂は出羽から会津に逃亡。その後、北陸道の武士が 義仲につき、それに対する処置として、同年八月二十五日に長茂の越後国司任官が、秀衡の陸奥守任官と同時に 行われる。その中で、兄の太郎資長の他界が明かされる。ただし、越後は実質的には義仲の支配下にあり、長茂 が統治する事は叶わなかったとする。

『源平盛衰記』 (以下、盛衰記)

  資長の義仲追討のきっかけ   ←   院庁下文

  横田河原合戦   治承五年六月二十五日/治承五年六月十四日    戦ったのは資職(四郎資長と改名)

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『平家物語』と『吾妻鏡』 (清水) 三五   資長の越後守就任    養和元年八月二十五日   資長の死去(天からの声によって中風になって死去)    養和元年九月四日   ※   盛衰記では、資職が資永と改名し、院の下文によって兵を集めて義仲と横田河原で戦うが、敗北して越後を義 仲 に 明 け 渡 し、 出 羽 の 金 沢 と い う と こ ろ ま で 退 却、 改 め て 義 仲 に 相 対 す る た め に 朝 廷 か ら 越 後 守 に 任 じ ら れ、 信州に向けて進発しようとしていたときに頓死し、弟の助茂が、それを六波羅に早馬で知らせる、という内容 となっている。

  ※   資長の兵動員は「六月二十五日」とするが、合戦に関しては「治承五年六月十四日」とするなど齟齬がある。

  冒頭でも述べたように、読み本系の諸本の記事も、特に城氏兄弟が入れ替わる盛衰記など、複雑で、先後関係や流 動を追うのは困難であるが、注目すべきと思われる点をいくつかあげてみたい。

  まず、先行研究でも重ねて指摘されているが、読み本系の各諸本とも横田河原合戦の日時だけは治承五年の六月下 旬と大まかに一致していて、さらにすでに述べたような『玉葉』などの記述と一致している。史実に沿っていると考 えてよい。ただし、横田河原合戦前の、秀衡と資長の国司任官は史実にはなく、宣旨による命令のみである。

  次に、右には示し得なかったが、読み本系の諸本は、いずれも戦の様子を描く合戦描写を持つ。大まかな流れを延 慶本(章段名は「城四郎与木曾合戦事」 )を例にまとめると、次のような内容である。

  城四郎長茂は出羽の兵まで駆り集めて六万騎で、信濃へ出立する。兵を三手に分け、千隈越えに浜の小平太率 いる一万騎、殖田越に津張庄司宗親率いる一万騎、大手に長茂を大将として四万騎。越後国府から横田河原に到 着 し た 大 手 軍 は、 笠 原 平 五、 尾 津 平 四 郎、 富 部 ノ 三 郎、 閑 妻 ノ 六 郎、 風 間 ノ 橘 五、 家 子 に は 立 河 次 部、 渋 川 三 郎、久志太郎、冠者将軍、郎等ニハ相津ノ乗湛房、其子平新大夫、奥山権守、子息藤新大夫、坂東別当、黒別当 等という布陣であった。対する義仲方は、信濃と上野から動員した二千騎で白鳥河原に陣取る。上野国からは木

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三六 角 六 郎、 佐 井 七 郎、 瀬 下 四 郎、 桃 井 ノ 五 郎、 信 濃 か ら は 根 津 次 郎、 同 三 郎、 海 野 矢 平 四 郎、 小 室 太 郎、 注 同 次 郎、同三郎、志賀七郎、同八郎、桜井太郎、同次郎、野沢太郎、臼田太郎、平沢次郎、千野太郎、諏訪二郎、手 塚 別 当、 手 塚 太 郎 等 と い っ た 面 々 だ っ た。 義 仲 は 自 軍 の 不 利 を 確 認 し て、 八 幡 宮( 武 久 堅 氏

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に よ れ ば、 筑 摩 川西岸の武水分神社)に願書を納める。

  義 仲 軍 の 先 制 を 受 け た 資 職 側 か ら 笠 原 平 五 頼 真 が 名 乗 り を 挙 げ、 敵 軍 の 兵 多 勢 を 討 ち 取 り、 資 職 の 前 に も ど り、褒められる。この笠原平五は、すでに述べたとおり、義仲の最初の戦闘である、いわゆる市原合戦で義仲に 敗れ、城氏方に逃げ込んだ信濃国の住人である。

  義仲方から佐井七郎が進み出たのに対し、信濃国住人富部三郎家俊が相対する。この家俊は、保元の乱で敗れ た平家弘の孫であった。この対決で富部三郎は討ち取られる。

  次に、富部三郎の郎等の杵淵小源太重光という兵が、その時は富部に表向きは勘当されて越後へ同道せずに信 濃にとどまっていたが、主の死を知り参戦、佐井七郎を討つ。しかし、佐井の家臣たちに囲まれて、太刀を口に 含み、逆さまに馬から落ちて死ぬ(この死に方は、 「木曽最期」での今井四郎と同じで注目される) 。   そこへ、井上九郎光盛の、赤旗を差して資職軍を油断させて近づき、深く攻め入るという作戦により、義仲軍 が大勝利をおさめ、資職らは敗走する。

  こ の 戦 い に 参 加 し た 各 陣 営 の 武 士 に つ い て は、 武 久 氏 の 論 考 に 詳 し い 調 査 や 考 察 が あ り

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、 参 考 に な る。 武 久 氏 は、たとえば、最初に名乗りを挙げた笠原のことばには「城四郎に賭けるしかなかった最後の決戦に、潔くあろうと す る 覚 悟 が 滲 み 出 て い る 」 と し、 富 部 三 郎 に つ い て も「 「 信 濃 ノ 住 人 」 と し て、 か つ て の 領 地 奪 回 の た め に、 城 四 郎 の木曽攻めに参戦したことは間違いない」とする。さらに、富部三郎が城氏方に加わる際に、義仲に従うふりをして いた杵淵重光についても、江戸時代まで杵淵村として名を残した更級郡の有力豪族であり、この重光の壮絶な死に様 も長く語り伝えられていたのではないかとし、横田河原合戦の本質を、義仲に敗れて領地を失った信濃平氏たちの領

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『平家物語』と『吾妻鏡』 (清水) 三七 地奪回の戦いだったと位置づける。   この指摘は重要である。延慶本などが語る城氏方の武士は、みな、信濃国の領地を奪われたり、保元の乱で敗れた 父祖の思いを負っていたり、厳しい情勢の中でも主との絆を守り続けていたり、譲れないそれぞれの物語を抱えて決 死の戦いの中で死んでいったのである。   城資職にしても、この敗戦で越後国を実質的に失っている。直後に越後守に任命されても、おそらく会津に逃げた ま ま、 実 質 的 に は 何 も で き な か っ た の だ ろ う。 延 慶 本 も「 越 後 国 ハ 木 曽 押 領 シ テ、 長 茂 ヲ 追 討 シ テ 国 務 ニ モ 不 及 ケ リ」 (巻六・廿七「城四郎越後国ノ国司ニ任ル事」 )とする。

  このように考えると、延慶本のみが持つ、注目すべき一文がある。それは、資職が信濃に向けて出立しようとする 場面にある次のような記述である。

…… 信 濃 ヘ 越 ト 出 立 ケ ル ガ、 「 先 業 有

限、 不

可 期

明 日

ヲ 」 呼 テ、 雲 ノ 中 ヘ 入 ニ ケ リ。 人 多 是 ヲ 聞 ザ リ ケ レ ドモ、長茂即時ヲカヘズ打立、六万余騎ヲ三手ニ分ツ。

  長 門 本 で は、 「 先 業 有 限。 あ す を こ す べ か ら ず 」 と い う 資 職( 長 茂 ) が 呼 ば わ っ た こ と ば に な っ て い る が、 延 慶 本 の記述は、兄の城太郎資長が天の声を聞いて死に追いやられた次のシーンを連想させるものである。

…… 資 長、 朝 恩 忝 キ 事 ヲ 悦 テ、 義 仲 追 討 ノ 為 ニ、 同 廿 四 日 暁 ニ、 五 千 余 騎 ニ テ 打 立 之 処 ニ、 雲 ノ 上 中 ニ 音 ア テ、 「 日 本 第 一 ノ 大 伽 藍、 聖 武 天 皇 ノ 御 願 東 大 寺 ノ 廬 舎 那 焼 タ ル 大 政 入 道 ノ 方 人 ス ル 者、 只 今 召 取 ム ヤ 」 ト 訇 ル 音 シ ケ リ。 是 ヲ 聞 ケ ル 時 ヨ リ、 城 太 郎 中 風 ニ 逢、 遍 身 ス ク ミ、 手 モ ツ ヤ 〳〵 ハ タ ラ カ ネ バ、 思 フ 事 ヲ 状 ニ 書 ヲ カ ス。 舌 ス ク ミ テ フ ラ レ ネ バ、 思 ノ 如 ク モ 云 ヲ カ ズ。 男 子 三 人、 女 子 一 人 有 ケ レ ド モ 一 言 ノ 遺 言 ニ モ 不

及、 其 日 ノ 酉 時計ニ死ニケリ。怖シナムド云ハカリナシ。

(14)

三八

(延慶本・巻六・十九「秀衡資長等ニ可追討源氏由事」 )

  この二つの雲の上からの声をどう考えたらいいだろうか。佐々木紀一氏は、 「本来、 「横田河原合戦」に置かれてゐ た資長怪死記事が、史実に合はせて(閏)二月に動かされた後の処置によるもの」とされる。佐々木氏の論は、城氏 関 連 記 事 全 体 の 構 成 の 流 動 を 追 っ た 中 で の 説 で あ っ て、 こ こ だ け 切 り 取 っ て 判 断 す る わ け に は い か な い の で あ る が、 その前提として、延慶本で資職が聞いた声の意味を、彼の早死を予告するもの、天罰を示すものと考えるのはどうで あろうか。

  「先業」は、

『日本国語大辞典』によれば「仏語。先の世に行なった善悪の業因。前業。宿業」 、『仏教語大辞典』も 「 前 世 で 行 っ た 善 悪 の 行 為 」 と 説 明 す る。 そ の ま ま だ と 意 味 が 取 り づ ら い が、 「「 先 業 」 の 結 果 と し て、 今 与 え ら れ て いる命、寿命」とでもいった意味でとるべきではないだろうか。そうすると「兄のように、いつ命が尽きてしまうか わからない。明日を待つべきではない。すぐに出立せよ」という解釈が導かれてくる。笠原平五らの覚悟にも通じる 不退転の決意表明なのではないかと思うのである。

  延 慶 本 で、 そ れ が、 資 長 を 襲 っ た 声 と 同 じ よ う に「 雲 の 上 」 か ら 聞 こ え、 そ れ も 資 職 一 人 の 耳 に 届 い た と い う の は、もちろん資長怪死の場面と関係があるだろう。そこから連想したか、または兄の啓示を示唆するか。いずれにし ても、それを聞いた資職がすぐに出立し、しかもその後、雲上の声の結果としての怪異が描かれないこと、長門本も 資職の自らを奮起すことばとなっているところを見れば、兄資長の場合とは違うと判断すべきであろう。

  このように、延慶本の描く横田河原合戦の場面は、源平の戦いに巻き込まれた地方の武士たちの、おのれの領地と 生 命 を 賭 し た 命 が け の 戦 の 記 述 と し て 書 か れ て い る の で あ る。 そ し て、 資 職 方 の 敗 戦 の 理 由 を、 「 城 四 郎 ハ 大 勢 ナ リ ケレドモ、皆駈武者共ニテ手勢ノ者ハ少カリケリ。木曾ハ僅ニ無勢ナリケレドモ、或ハ源氏ノ末葉、或ハ年来思付タ ル郎等共ナレバ、一味同心ニテ、入替〳〵」戦ったからだと説明するのである。資長の死を、平家に味方したための 天からの制裁だとはしつつも、資職のもとで戦った武士たちの戦いの意味を延慶本はわかっているのだ。それが延慶

(15)

『平家物語』と『吾妻鏡』 (清水) 三九 本の論理なのである。それは、都の貴族たちの日記とも、のちの鎌倉幕府の記録とも異なる、物語としての描き方な のだと思う。長門本や盛衰記も同様である。

五、 『平家物語』語り本系諸本の記事

  一方、語り本系の『平家物語』諸本ではどうであろうか。覚一本では、次の通りである。

覚一本 資長の義仲追討のきっかけ=国司任官(治承五年二月一日) 資長の死去(天の声の翌日出立した資長を再び黒雲が覆い、落馬して死去) =治承五年六月十六日 四郎助持(長持と改名)の越後守就任(寿永元年五月二十四日) 横田河原合戦   寿永元年九月九日    戦ったのは四郎資持(長持)と改名   屋代本も、ほぼ同様だが、横田河原合戦の日付は、寿永元年(二八二)九月十一日とする。やはり、問題となるの は 合 戦 が 行 わ れ た の が、 実 際 の 戦 い の 翌 年 の 寿 永 元 年 で あ る と す る こ と だ ろ う。 寿 永 元 年 十 月 九 日 と す る『 吾 妻 鏡 』 と 一 ヶ 月 違 い で あ る。 こ れ に つ い て、 学 術 文 庫 本『 平 家 物 語( 六 )』 ( 講 談 社 ) の 解 説 は、 「 状 況 の 進 展 を 作 品 展 開 の 軸として叙述していく構想の上でつぎの宗盛昇進の批判に直結するための虚構」と説明する。 『公卿補任』によれば、 宗盛の権大納言還任は、同年の九月四日、その十月三日には内大臣になっている。

  覚一本は、横田河原合戦の顛末を述べた後で、九月十六日の大納言還任、十月三日の内大臣昇進、さらに翌寿永二 年二月の宗盛の従一位昇進及び兵乱の責任をとっての内大臣辞任を述べ、日本中が平家に背を向けたと語って、巻六 を閉じている。

(16)

四〇   冨倉徳治郎氏は、この点について、以下のように述べて覚一本の操作を指摘する。

…… 事 実、 寿 永 元 年 に は、 何 ら 述 ぶ べ き 事 件 が な い の で、 こ の 寿 永 元 年 九 月 頃 の 怪 異 に 続 い て「 横 田 河 原 合 戦 」 をも九月九日の事として記すことは、ある意味では好都合であっただろう。語り本作者は、これより前「飛脚到 来 」 の 章 で、 清 盛 死 去 の 前、 刻 々 に 迫 る 反 平 家 運 動 の 高 ま り を 描 い て い る が、 そ こ で は 越 後 国 の 事 件 に つ い て は、 単 に「 ( 養

(ママ)

和 元 年 ) 二 月 一 日、 越 後 国 住 人 城 太 郎 助 長 越 後 守 に 任 ず。 こ れ は 木 曽 追 討 せ ら れ ん ず る は か り こ と と ぞ 聞 え し。 」 と 記 し て、 河 内 国 の 情 勢、 九 州 の 情 勢、 四 国 の 情 勢 と 並 べ 記 す に と ど め、 清 盛 死 後 に 至 っ て 急 劇に傾斜していく平家の運命を描くに当って、この「横田河原合戦」を(寿永元年のこととして)用いた叙述方 法には巧妙な作者の史実変改を認めてよいであろうと思う

10

  こ の 指 摘 の 通 り、 覚 一 本 は 資 長 の 国 司 任 官 の 情 報 を、 そ の 急 死 記 事 と 離 し て 清 盛 死 去 の 前 に 記 し て い る。 た だ し、 物語の流れを追う限り、怪異とそれによる急死記事は寿永元年九月ではなく治承五年の六月である。したがって、覚 一本の流れでは、資長の怪死と横田河原合戦のあいだに、一年以上の空白ができることになり、そこをどう考えるか 疑 問 は 残 る も の の、 以 仁 王 ら の 蜂 起、 義 仲、 頼 朝 の 挙 兵 と 続 い た 治 承 四 年、 高 倉 院 や 清 盛 の 死 去 が あ っ た 治 承 五 年 ( 養 和 元 年 ) に 比 較 し て、 養 和 二 年( 寿 永 元 年 ) に 大 き な 出 来 事 が 無 い の は 確 か で、 そ こ に こ の 合 戦 の 話 を 移 す、 と いうことはねらいとして頷ける。

  ま た、 こ う し た 語 り 本 系 諸 本 の 一 連 の 日 付 の『 吾 妻 鏡 』 と の 一 致 か ら、 『 吾 妻 鏡 』 が こ れ ら の『 平 家 物 語 』 諸 本 に 依 拠 し て い る の だ と す る 説 も あ る が、 『 吾 妻 鏡 』 の 誤 り に つ い て の、 筆 者 の 推 測 は 既 に 述 べ た 通 り で あ る。 そ う す る と、むしろ、冨倉氏の推測には反するようであるが、覚一本が『吾妻鏡』によって、合戦の日付を変更した可能性も 否定できない。

  読み本系で展開される、戦いの描写についてはどうであろうか。覚一本では次のようにあって、城氏方に信濃から

(17)

『平家物語』と『吾妻鏡』 (清水) 四一 の武士が加わっていることは述べられず、越後・出羽・会津の武士たちで構成された部隊であるとする。

  同九月二日、城四郎長茂、木曾追討の為に、越後・出羽、相津四郡の兵共を引率して、都合其勢四万余騎、木 曾追討の為に、信濃国へ発向す。同九日、当国横田河原に陣をとる。木曾は依田城に有けるが、是を聞いて依田 城 を 出 で て、 三 千 余 騎 で 馳 向。 信 乃 源 氏 井 上 九 郎 光 盛 が は か り 事 に …… 中 略 …… 越 後 の 勢 共 是 を 見 て、 「 敵 な ん 十 万 騎 有 ら ん。 い か ゞ せ ん 」 と い ろ を 失 ひ、 あ わ て ふ た め き、 或 は 川 に お ッ ぱ め ら れ、 或 は 悪 所 に お ひ 落 さ れ、 たすかるものはすくなう、討たるゝものぞおほかりける。城四郎がたのみきッたる越後の山の太郎・相津の乗丹 房なンどいふ聞ゆる兵共、そこにてみな討たれぬ。我身手おひ、からき命いきつゝ、川につたうて越後国へ引し りぞく。

  も は や 笠 原 平 五 ら の 名 は な く、 「 山 の 太 郎 」 と い う 系 譜 未 詳 の 人 物 と、 会 津 恵 日 寺 の 僧 と し て 名 が 残 る 乗 丹 房 の 活 躍 が 記 さ れ る こ と と な る。 学 術 文 庫 本 の 解 説 に 依 れ ば、 乗 丹 房 は 城 氏 の 一 族 だ と の こ と で あ る。 読 み 本 系 が 描 い た、 領地を取り戻すための信濃の武士たちの戦いは捨て去られ、義仲方の井上九郎の策略の面白さが前面に出た叙述であ る。

  このように見てくると、語り本系の、物語全体を見通した構成と、地方の武士の戦いの記憶などは切り捨てる叙述 の論理が見えてくるように思われるのである。

六、 『平家物語』と『吾妻鏡』

  ここまで、 『吾妻鏡』 、『平家物語』読み本系諸本、 『平家物語』語り本系諸本の叙述の内容や、その依って立つ論理 を 推 測 し て き た。 そ れ ぞ れ が、 独 自 の 事 情 や 全 体 の 叙 述 意 図 に 基 づ い て 叙 述 を 展 開 し て き た こ と が 説 明 で き た と 思

(18)

四二

う。 し か し、 『 平 家 物 語 』 諸 本 と『 吾 妻 鏡 』 が、 全 く 接 点 を 持 た ず に 成 立 し た と 考 え る の は、 や は り 難 し い。 お 互 い の複雑な成立の過程のどこかで接点を持ったはずである。それがどの段階で、どのように影響し合ったのか、今、そ れを推測するのは困難なことだが、最後にポイントとなるであろう点を整理しておきたい。

  ここで詳述する余裕はないが、これまでの『平家物語』と『吾妻鏡』の関係に関して積みかさねられてきた研究史 においては、前者が後者の編纂資料の一つであったという見方が多い。したがって、この横田河原合戦の記事につい て も、 そ の 前 提 に 立 つ 考 察 が 見 受 け ら れ、 「 原 平 家 」 を 城 氏 関 連 の 誤 っ た 資 料 か ら 改 悪 し た、 ま た は、 人 名 の 混 乱 の 形がもっとも『吾妻鏡』に近い盛衰記に、そうした「原平家」の面影を見ようとする説、などがある。

  し か し、 先 に 述 べ た よ う に、 『 吾 妻 鏡 』 の 記 事 の 誤 り に つ い て は、 そ の 内 部 の 事 情 と し て 説 明 で き る よ う に 思 う の で、 盛 衰 記 や 覚 一 本 の よ う な も の に よ っ て 現 存 の『 吾 妻 鏡 』 の 記 事 が 成 立 し た と は 考 え ら れ ず、 逆 に、 『 吾 妻 鏡 』 の 誤りを、語り本系諸本や盛衰記がそれぞれ独自に受けついだとするほうが、蓋然性が高いのではないかと考えるので ある。

  た だ し、 そ の よ う に 考 え て も、 解 決 さ れ な い 点 は 残 る。 一 点 目 は、 『 平 家 物 語 』 諸 本 と『 吾 妻 鏡 』 の い ず れ も が 持 つ、 資 長( 混 乱 で 資 職 と す る も の も あ る が ) の 急 死 を、 「 天 譴 」( 『 吾 妻 鏡 』) と 見 る 見 方 で あ る。 延 慶 本 は、 「 日 本 第 一ノ大伽藍、聖武天皇ノ御願東大寺ノ廬舎那焼タル大政入道ノ方人スル者、只今召取ムヤ」という声が雲の上から聞 こえ、それを聞いた資長が中風になって死んだ、とする。 この時点では、朝敵は義仲である。 『玉葉』などでは、資 長 の 急 死 に つ い て 触 れ て は い る が、 そ れ が 天 罰 だ と す る 記 述 は な い。 『 吾 妻 鏡 』 が 延 慶 本 の ご と き『 平 家 物 語 』 の 記 述 に よ っ て「 天 譴 」 と 記 し た か。 し か し、 日 付 や 人 名 な ど は 史 実 に 沿 っ て い る 延 慶 本 の よ う な 記 述 を 参 照 し な が ら、 この部分のみを取り入れるということがあるだろうか。あるいは、延慶本が、日時等は都の貴族の日記を参照にして 記述しつつ、この『吾妻鏡』の見方を参考にしたか。

  二点目は、 『平家物語』諸本のいずれもが、最初の資長に対する宣旨を、国司任官と誤っていることである。 『吾妻 鏡』において、合戦のあとに下された国司任官が、一度目の宣旨と混同されて、それが合戦の日時にまで影響を及ぼ

(19)

『平家物語』と『吾妻鏡』 (清水) 四三 して誤った記事につながったことはすでに述べた。 『吾妻鏡』の筆者の錯覚に、 『平家物語』諸本の誤りが影響してい る可能性はあるか。   以上、解決できない疑問は残ったものの、横田河原合戦記事は、 『平家物語』諸本、 『吾妻鏡』のそれぞれの本質や 流動の過程を考える上で、非常に有効な材料を提供してくれていることは確認できたかと思う。   冒 頭 で も 述 べ た よ う に、 『 平 家 物 語 』 と『 吾 妻 鏡 』 の 関 係 は、 両 者 の 異 本 の 多 さ や 複 雑 な 成 立 の 過 程 か ら、 先 後 関 係や依拠関係を論ずることの難しさは明らかである。個別の記事に関して、それぞれの叙述の意図や全体の中での位 置づけを確認しながら、両者の関係を考察するという作業を積みかさねていくことしかないのではないかと実感して いる。この論考がその一つとなるならば幸いである。

   注 (

1

)  『平家物語大事典』 (東京書籍、二〇一〇、この項、日下力)など。

2

)  『 平 家 物 語 の 批 判 的 研 究・ 下 』( 国 書 刊 行 会、 一 九 九 〇 ) 第 八 篇

( の関係」 」。   「   吾 妻 鏡 と 平 家 物 語 の 関 係 第 四 章「 「 原 平 家 」 と 吾 妻 鏡

3

)  巻七「倶梨伽羅落」 。

4

)  浅香年木『治承・寿永の内乱論序説』 (法政大学出版会、一九八一)など。

5

)  注(

2

)に同じ。

6

)  『平家物語研究』 (角川書店、一九六四)第二章

  「平家物語の成長」

。 (

7

)  「歴史の中の木曽義仲 ─ 延慶本平家物語の史実度に触れて」 (『延慶本平家物語考証二』 (一九九三、新典社) )。

( 四巻四号、二〇〇三・三、のち、 『平家物語・木曽義仲の光芒』世界思想社、二〇一二) 。

8

)  「 横 田 河 原 合 戦 の 義 仲 造 形 ─ 「 武 水 分 神 社 ・ 八 幡 宮 大 本 堂 」 か ら の 発 進 」( 関 西 学 院 大 学 日 本 文 学 会 『 日 本 文 藝 研 究 』 五 十

9

)  注(

7

)に同じ。

10

)  注(

6

)に同じ。

(20)

四四

※   引 用 本 文 は 以 下 の 通 り。 た だ し、 一 部、 私 意 に よ っ て 書 き 下 し た り、 濁 点 や 句 読 点 を 補 っ た り 表 記 を 変 え た り し た。 又、 年 号などの誤りを訂正した箇所もある。

    『玉葉』国書刊行会/『吉記』史料大成/『吾妻鏡』国史大系

    延慶本『平家物語』   汲古書院『校訂延慶本平家物語』シリーズ

    長門本『平家物語』   勉誠出版『長門本平家物語』

    『源平盛衰記』   三弥井書店『中世の文学』シリーズ

    四部合戦状本『平家物語』   有精堂『訓読四部合戦状平家物語』

    覚一本『平家物語』   岩波書店   新古典文学大系

参照

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