目 次
Ⅰ は じ め に
Ⅱ 危険の引受けの概要
1
.危険の引受けの概念2
.危険の引受けの類型3
.分類についての検討Ⅲ 危険の引受けの判例について
1
.ドイツの判例
2
.日本の判例3
.中国の判例Ⅳ 危険の引受けの理論的根拠についての検討
1
.被害者の同意論
2
.信頼原則論3
.社会相当性論4
.被害者の自己答責性論5
.共 犯 論Ⅴ 被害者による危険の引受けに対する被害者の同意 論の主張
1
.被害者の同意論の理論
2
.被害者の同意の対象と危険の引受けの対象
3 .被害者の同意と危険の引受けの同意における心
理的態度
4 .生命・身体に対する危険の同意の効果と危険の
引受け
Ⅵ 危険の引受けの成立条件
Ⅶ お わ り に
Ⅰ は じ め に
危険の引受けとは、被害者が危険にさらされる ことを予見しながら、予測される危険を自己の危 険として引受けたという場合における行為者の罪 責に関する刑法的問題である1)。被害者による危 険の引受けは主に過失犯の場合に問題となる。ド イツにおいて、メーメル河事件が危険の引受けの 問題として議論されてきた。日本の場合ではダー トトライアル同乗者死亡事件が盛んに論じられて
被害者による危険の引受けについて
蔡 玥
*要 旨
刑法において、被害者の態度犯は罪の成立に影響を与える。たとえば、刑法理論上の「被害者の同 意論」が広く認められている。故意犯の場合に被害者が自身の法益に対する侵害に同意があるため、
行為者の犯罪の成立が否定される場合も存在する。そうすると、過失犯の場合にどうなるかが問題だ と考える。危険の引受けの問題としては最初に現われた判例はドイツでのメーメル河事件である。日 本においては、「ダートトライアル同乗者死亡事件」を契機とし、危険の引受けが激しく議論されてい る。本論文は判例を契機とし、学説の争いや判例を分析し、被害者による危険の引受けを適用する様々 な問題に検討し、被害者の同意論の適用を主張する。
* サイ ゲツ 法学研究科刑事法専攻博士課程 後期課程
2020年10月 2
日 査読審査終了第
1
推薦査読者 只木 誠 第2
推薦査読者 鈴木 彰雄きた。これらの事件のように、被害者もしくは法 益主体は行為者の行為に対する態度を理由として 構成要件該当性の否定や違法性阻却により犯罪の 成立が否定された場合が存在する。したがって、
刑法においては、被害者の態度が重要な要素であ り、顧慮する価値があると考えられる。被害者の 同意論もその例の一つとして、一般的に知られて いる。すなわち、故意犯の場合において、被害者 が行為者の行為に対して、同意(承諾)を与えた ことによって(一定の場合)犯罪の成立を否定す る理論である。では、過失犯の場合はどう考える べきかが問題である。つまり、被害者もしくは法 益主体の態度が犯罪の成立に対してどのような影 響を与えるかが問題である。この問題を解決する ためには、まず、被害者による危険の引受けの原 点に戻り、危険の引受けの概念について検討すべ きである。その上で、被害者の同意論における違 法阻却の根拠について検討を加えることは重要だ と思われる。
Ⅱ 危険の引受けの概要
1
.危険の引受けの概念危険の引受けの問題が最初に現われた判例は、
ドイツでのメーメル河事件である。この事件を契 機に危険の引受けに関する議論が盛んになされる ようになった。危険の引受けの概念は、具体的な 規定がないため、判例や学説を通して形成されて きた概念である。その内容については学者によっ て異なる。たとえば、田中優輝は「他人の危険な 行為を通して自己の法益に危険が生じることを認 識しながらも、法益主体(被害者)がその行為の 実行を許し、それによって法益侵害結果が生じた 場合」2)と定義している。そのほかにも、塩谷毅は
「被害者が結果は発生しないであろうと思ってあえ て自らをその危険にさらしたところ、不幸にも結 果が発生してしまった場合」3)と定義している。各 学者は自己の定義を基礎に危険の引受けの内容を 以下のように分類する。
2
.危険の引受けの類型⑴ 三 分 法
まずは、吉田敏雄による三分法である。その内 容は以下のようになっている。その一は、狭義の 自発的自己危殆化である。その二は、他者の自発 的自己危殆化に関与する場合である。その三は合 意のある他者危殆化である。狭義の自発的自己危 殆化は被害者自身がそして被害者だけが、自己の 蒙る法益侵害と因果関係のある行為に出る場合で ある4)。たとえば、被害者が木にある果実を取ろ うとし、落下する可能性があるという危険を認識 しながら、木登りして果実を取って、自分の不注 意によって落下し、怪我をした場合である。この 場合については、もちろん、その行為が自発的な ものか他人によるものかを区別する必要があるが、
ここは、単なる被害者の自発的な行為だと考えて おり、本論文では検討しない。他者の自発的自己 危殆化に関与する場合は、被害者が、自ら意識的 に危険な行為に出、侵害の結果を蒙るが、第三者 の行為が被害者の侵害と物理的もしくは心理的な 因果関係がある場合である。吉田は例としてドイ ツのヘロイン注射事件を挙げている。それは、行 為者が被害者に自分用の注射器を貸し、被害者が それを使用したところ、死亡したという判例であ る。ドイツ連邦裁判所は、過失致死罪の成立を否 定した5)。合意のある他者危殆化は被害者に侵害 結果をもたらす行為が第三者によってなされるが、
被害者自身は意識的にこの危険に自ら身をさらす 場合である。すなわち、被害者は、危険に対して の同意があるが、侵害結果に対する同意が存在し ないという場合である。多く挙げられている例と してはメーメル河事件である。それは、被告人で ある渡し守は、増水している状況にもかかわらず、
被害者らの懇請に応えて渡河し、高波によって舟 が転覆して被害者らが死亡したという判例である。
ライヒ裁判所は過失致死罪の成立を否定した6)。
⑵ 行為の制定法的禁止の有無や行為によって 追求された目的の正当性などによる分類 ドイツの学者ヴェバーの行為の制定法的禁止の 有無や行為によって追求された目的の正当性など によっての類型化などが存在する。分類は以下の ようになっている。
⒜ 関与者が危険な態度でもって高く評価しう る目的を追求する事例である。たとえば医師 による手術などの場合である。
⒝ 関与者が、積極的に評価されうる目的を追 求するのではないが、明言された危殆化禁止 に違反するのでもない行為様態である。例え ばメーメル河事件である。
⒞ 一般の利益保護の観点から危険な行為が制 定法的禁止されている行為態様その一:道路 交通における違法態度から生じる危険に対す る同意が問題となる場合である。
⒟ 一般の利益保護の観点から危険な行為が制 定法的禁止されている行為態様その二:麻薬 の使用と結合した危険に対する同意が問題に なる場合である。
⒠ 危険を招くことは確かに未だ国家の法によ っては禁止されていないが、しかし団体の内 規によって禁止されている場合である。例え ば高度の能力を要求する競技スポーツにおけ るドーピングの場合である。
⒡ 危険行為を禁止する制定法が存在しないに もかかわらず、良俗違反の評価を考慮される 場合である。たとえばエイズ事例である7)。
3
.分類についての検討多数の学者は様々な方法で危険の引受けを自己 危殆化と他者危殆化に区別している。ドイツの一 部の判例や一部の学者も危険の引受けを自己危殆 化と他者危殆化と分けている。しかしながら、筆 者は、このような区別方法が明らかではないと考 える。たとえば、ドイツの判例の場合においては、
行為支配論という正犯と共犯の基準で危険の引受
けを区別するという考え方がある。しかしながら、
すでに指摘されたように、危険の引受けは主に過 失犯の場合に問題となり、行為支配論が適用でき るか否かが疑問だと考える。そして、行為者と被 害者が共働的に支配する場合に、実際に発生した 侵害が誰の行為によるものなのかが確定し難いし、
どのような処理をすべきかも問題だと考える。さ らに、筆者は、上述した分類方法が、事例をカズ イスティックに分類するにすぎないのではないか と考える。統一的な基準の意義が明らかではない。
そもそも、本質的な相違点よりは、共通点が存在 すると考えられる。その内容としては、「第一に、
不法結果の発生が、行為者と被害者の不注意な態 度の相互作用による共働惹起であるとみられうる ということ、第二に、行為者においても、また被 害者においても、決して結果の発生を望んだので はなく、むしろ、結果の不発生が信じられ、危殆 されていたということ、第三に、したがって被害 者が過失的に結果発生に関与すること」8)である。
危険の引受けの問題を責任の段階で考慮すべきで はないと考えられる。筆者は、危険の引受けは過 失犯の場合において、被害者がその危険を認識し、
その危険を自ら引受けて、最終的に侵害の結果が 発生した場合と定義されることが可能だと考える。
この危険は、行為者によって発生する可能性もあ り、被害者によって発生する可能性も存在すると 考える。行為者がその危険を惹起するのかもしく は被害者がその危険を惹起するのかについて本質 的には差がないと思われる。なぜなら、単に自己 危殆化と他者危殆化を区別するだけで、実際の事 例にとっては参考の価値がないと考えるからであ る。そして、ヴェバーの行為の制定法的禁止の有 無や行為によって追求された目的の正当性などの 類型方法によって危険の引受けを区別することも 妥当ではないだろう。なぜなら、この区別方法に よると、道徳価値判断を刑法判断に入れ込む可能 性もあるため、最終的に処罰範囲が拡張されて被 害者の自己決定権が侵害される恐れがあると考え
るからである。
前述したように、日本やドイツの判例において、
危険の引受けの場合における行為者の犯罪成立の 判断については、被害者の態度が少しずつ考慮さ れるようになっているが、判例はどのように、危 険の引受けを判断するのか、また、被害者の態度 がその判断に対してどのような影響を与えるかに ついて検討すべきだと考える。次章では、主に日 本とドイツの判例を概観しながら、中国の判例も 検討していきたいと思う。
Ⅲ 危険の引受けの判例について 被害者による危険の引受けの判例について、よ く議論される典型的事例がメーメル河事件である。
この判例が注目されたのは法廷が最終的に被告人 を無罪にしたからである。この判例は今までの学 説や判例に対して重要な影響を与えている。日本 にもその判例に似たような判例が存在する。以下 では、各国の判例を分析していきたいと思う。
1
.ドイツの判例⑴ メーメル河事件(1923)
事実の概要は以下の通りである。「被告人である 渡し守は、嵐で増水しており渡河すれば生命に危 険のある状況で、渡河を望んだ乗客二人の懇請に 従い、小舟でメーメル河の渡河を試した。渡し守 は、渡河の危険性を予見し、その旨を乗客に伝え ていたが、乗客はそれを振り切ったのである。そ の結果、高波によって渡河は出来ず、小舟が転覆 し、乗客二人のみが死亡した」9)。
ライヒ裁判所は、「まず、危険な行為の実行は、
すでにそれ自体、それに内在する危険性だけの故 に義務違反性を含むわけではない、むしろ、その 行為は状況によっては義務適合的であり得る」10)。 さらに、「二人の乗客はともに意図された渡河の危 険性を被告人と同程度正確に理解していた成人で あった。被告人に二人の乗客に対する特別な監督 もしくは注意を義務づける事実は認められない。
被告人は渡河の企ての危険性について乗客を欺い たわけではなく、軽率な思い上がりから自己の個 人的な利益のために彼らの申し出に従ったわけで もない」11)として無罪判決を下した。
本事件が発生した当時に、「被害者の承諾」の法 理への直接の言及はなされず、もっぱら義務違反 性の検討がなされている12)。本事件において、制 定法的に嵐の中での渡河が禁止されておらず、被 害者らは渡河の危険を認識していた。被害者が渡 河の危険性の説明を受けたうえで、その渡河の危 険を自ら引受けて、最終的に法益の侵害が実現し た場合である。最初の危険の引受けによって犯罪 の成立を否定した事例として一般的に知られてい る。
⑵ オートバイ競争事件(1955)
事実の概要は以下となる。「二人は飲酒した後 で、被害者の方から被告人に夜のオートバイ競争 をしようと誘った。その発起人(被害者)は、軽 オートバイしか所有していなかったので、ハンデ をもらった。被害者は被告人のオートバイが追い 越しをしようとするのを妨げるためにジグザグ運 転し、その際に事故に遭い、死に至る傷害を負っ た」13)。
ドイツ連邦裁判所は以下のように判断した14)。 まず、いかなる正当化根拠もないため、被告人の 態度が違法であるとした。また、「共同危険行為に おいて、他人の過失的自傷への共働が義務違反的 であるとされるかは、事案の諸状況に依存すると され、その際には、特に『危険を明確に認識した 完全に答責的な合意、企ての動機や目的、万一の ために予防措置並びに不注意の程度と危険の大き さ』が考慮されるべきであるとしている」15)。 この事件において、裁判所の判断から、被害者 が自己答責的に行為したかどうかについて注目す べきであると考える16)。そして、ドイツ連邦裁判 所の判断によると、被害者が危険を明確に認識し た完全に答責的な合意であるかを考慮すべきであ るとしていた。被害者の合意が明らかである。し
たがって、被害者の態度も考慮されていたという ことも明らかである。
⑶ ヘロイン注射事件(1984)
事実の概要は以下の通りである。「被告人は、か つて習慣離脱治療を受けたこともあったが、犯行 時にはまた時々麻薬を使用するようになっていた。
彼は、ある日、彼より重度の麻薬使用者である友 人に会った。その友人は彼に、自分は一緒に注射 できるヘロインをもっていると告げた。そこで被 告人は、必要な三本の使い捨て注射器を調達し、
その友人と飲食店のトイレに入り、その友人は『沸 騰した麻薬』を二本の注射器に満たして、一本を 被告人に渡した。その注射のあとすぐに、二人は 意識を失った。客の通報によって医師が駆け付け たとき、その友人はすでに死亡していた」17)。 ドイツ連邦裁判所は以下のように判断した。「自 己答責的に意欲され、実現された自殺あるいは自 傷は、殺人の罪あるいは傷害の罪の構成要件に該 当しない、何故なら、法律は他人の殺害あるいは 傷害だけを刑罰でもって威嚇しているからであ る」18)。「自殺あるいは自傷を導く自己答責的な自 己侵害行為を、過失的に誘致し、可能化し、もし くは促進する者は、故意による誘致、可能化、促 進が処罰されない場合には、処罰されえないので ある」19)。また、「意識的にそして自己答責的に自 己を危殆化する者が、結果発生に至らないであろ うということを期待し、もしくは信頼していたと いうことは、法的意義を持たない。彼は、危険な そのありえる射程範囲を見通した態度でもって、
危険実現の危険を引受けたのである」20)。故に、ド イツ連邦裁判所は被告人の過失致死による可罰性 を否定した。
この事件についてドイツ連邦裁判所の判断は、
自己答責性によるものであるということが明らか である21)。ドイツ連邦裁判所の判断によると、意 識的にそして自己答責的に自己を危殆化する者の 結果不発生の期待や信頼に対し、法的意味をもた ないが、危険なそのありうる射程範囲を見通した
態度が考慮されていたことは明確である。すなわ ち、被害者の態度が考慮されていたということが 明らかである。
2
.日本の判例⑴ 坂東三津五郎中毒死事件22)
事実の概要は以下の通りである。「被告人は調理 師のほか京都府のふぐ処理士の免許をもち、昭和 四一年頃から、京都市中京区で母親の経営する料 理店において、調理人として、ふぐなどを調理し 来客に提供する業務に従事していた者であるが、
昭和五〇年一月十五日午後八時四〇分頃、なじみ の客に伴われて来店した歌舞伎俳優の坂東三津五 郎(当時六八歳)に対し、とらふぐの肝臓数切れ
(重量にして十数グラム)を調理し、これを食べた 同人にふぐの中毒を起こさせ、これに基づく呼吸 筋麻痺により、翌十六日午前四時四〇分頃同市内 の診療所において、同人を窒息死させた」23)。 第一審の京都地裁において、被告人には業務上 過失致死罪、京都府ふぐ取り扱い条例七条、一三 条が適用され、禁固八ヶ月、執行猶予二年という 判決が下された。控訴審である大阪高裁において、
刑期の点がやや重すぎるとして破棄され、禁固四 ヶ月、執行猶予二年とされた。そして、上告が棄 却され、有罪が確定したのである。
第一審の京都地裁において、弁護人は「被害者 はいわゆる食通であり、ふぐの肝臓が危険である ことを十分に知っていながら敢えて食したのであ るから本人の責任であって被告人の過失責任は中 断される」24)と主張していた。これに対して、京都 地裁は「被害者は肝であることを十分承知し、し かもある程度肝についての知識を持って食してい ることがうかがわれるが、いかに被害者が食通で あったとはいえ、あくまでも客であって、京都に おいて現に長年ふぐ料理を商売としている被告人 の調理を信頼し、提供されたものを食するのは当 然の成り行きというべく、また被害者が肝を特に 強く希望したとも認め難い本件にあっては、右弁
護人の主張は、情状としては十分考慮すべき点で はあるけれども、被告人の過失責任を否定する論 拠とはなし得ない」25)とその主張を否定した。
そして、控訴審である大阪高裁において、弁護 人は、「被害者は本件の肝がふぐの肝であり、それ が有毒であることを認識しながら敢えて食したの であるから、その死亡は被害者自身の責任であっ て、被告人がとらふぐの肝料理を提供したことと 被害者がこれを食して中毒死したこととの因果関 係がない」26)と主張していた。これに対して、大阪 高裁は、「関係証拠によると、なるほど、当夜被害 者はふぐの肝料理が出されていることを十分承知 し、しかも、ある程度までふぐ毒についての知識 をもってこれを食したことが認められるけれども、
本件の場合、被害者はあくまでも客であるから、
料理店で料理として出されるものを安全に調理さ れていると信頼して食するのは当然のことと言わ なければならず、所論はとうてい採用できない」27)
とその主張を否定した。
また、最高裁において、弁護人は、「たとえ調理 してもそのように危険なふぐの有毒部分を他人に 提供(授与)してはならない注意義務は、却って 京都府ふぐ取り扱条例の規定が定めるとおり、ふ ぐの有毒部分を他人に提供又は授与することを差 控える限りで終わり(尽されることになり)、たと え被告人の如くそのような注意義務に反した者と いえども、その注意義務違反の責任はその限りに 留まるのであって、そのような明白な危険が現在 するに至った時その危険を回避すべき注意義務を 負う者は却って提供されたそのふぐの有毒部分の 料理品を食するか否かを自ら決定しうる者、すな わち現在するふぐの有毒部分の料理品の危険つき 認識のある者、これを本件についていえば中毒死 した守田俊郎その人であるといわねばならないの である」28)と主張していた。そして、「かくて原判 決判示の注意義務の見解から出発して法理を究め れば却って守田俊郎の本件中毒死は同人が自らに とって予見可能であり、かつ回避可能である現在
する危険を回避しなかった結果であって、かかる 場合被告人の刑責は京都府ふぐ取扱条例違反の限 りに留まり守田俊郎のふぐ毒中毒についてまで刑 責を問われるべきでないことは明白であるのであ る」29)という主張もしていた。しかしながら、最高 裁判所はこれに対するコメントはしなかった。
最終的に、最高裁判所は以下のように判断した。
「近時解明されてきたふぐの毒性、京都府における ふぐ取り扱いについての規定、府の行政指導に基 づくふぐ料理組合における講習等、原判決の判示 する諸事情のもとにおいては、京都府のふぐ処理 士資格を持つ被告人には本件とらふぐの肝料理を 提供することによって客がふぐ中毒症状を起こす ことにつき予見可能性があったものということが できる」30)として被告人に有罪判決を下した。
結局、判決では、被害者はその危険を認識しな がら、あえて危険源に接近した態度は「量刑事情」
の一つとして考慮されたにすぎなかったのである。
⑵ ダートトライアル同乗者死亡事件31)
事実の概要は以下の通りである。「被告人は、未 舗装道路をダートトライアルの経験者である被害 者を同乗させ、自動車で練習走行していた。その 練習中に、高速走行における減速不足等からハン ドルの自由を失い暴走し、急な下り坂カーブを曲 がり切れずに車両を防護柵の支柱に激突させた、
そして、その際に丸太の支柱が同乗者の胸に当た り、死亡した」32)。
千葉地方裁判所は、以下のように判断した。「本 件事故の原因となった被告人の運転方法及びこれ による被害者の死亡の結果は、同乗した被害者が 引受けていた危険の現実化というべき事態であり、
また、社会的相当性を欠くものではないといえる から、被告人の本件走行は違法性が阻却されるこ とになる」33)。
本事件において、弁護人は以下のように主張し ていた。「ダートトライアル競技のような走行をす る運転者に同乗することは、それによって生じる かもしれない危険性を自ら甘受し、自己の法益を
その限りで放棄しているのであって、自己決定権 の範疇の問題である」34)。また、ダートトライアル 競技は社会的にも穏当な自動車競技であり、一定 の危険性にもかかわらず、社会相当行為として是 認されている」35)と主張していた。千葉地方裁判所 は、「同乗者の側で、ダートトライアル走行の危険 性を認識しながら、技術の向上の目的で運転手が 暴走、転倒等の一定の危険を冒すことを予見しう る状況において、同乗していた者については、運 転者がある一定の運転方法をとることを容認した 上で、それに伴う危険を自己の危険として引受け たとみることができ、危険の現実化した事態につ いては違法性の阻却を認める根拠がある」36)とし た。そして、「死亡や重大な傷害についての意識は 薄いかもしれないが、それはコースや車両に対す る信頼から死亡等には至らないと期待しているに すぎず、直接的な原因となる転倒や衝突を予測し ているのであれば、死亡等の結果発生の危険をも 引受けたものと認める」37)。また、「スポーツ活動 においては、引受けた危険の中に死亡や重大な傷 害が含まれていても、必ずしも相当性を否定する ことはできない」38)、として上述したように被告人 に対して無罪を言い渡した。
これは、日本の判例として初めて「被害者の危 険の引受け」という概念が使用され、それによっ て違法性を阻却とした事件である。しかしながら、
判例は、被害者の危険の引受けを用いたが、違法 性を阻却する根拠は示さなかった。そして、用い た被害者の危険の引受けという概念に対する説明 も示さなかった。
3
.中国の判例⑴ 結氷した川面での運転事件39)
1999年のある日に被告人甲と被害者乙が一緒に 運転して、ある川の近くに遊びに来たが、野生の アヒルを見つけ、もっと近くでそれを見たいと思 った。そして、被告人甲が、車を降りて結氷した 川面を確認した後、彼は結氷した川面を車が安全
に通過するのに十分であると思い、結氷した川面 を車で渡りたいと考えた。しかし、二人が向かう 途中で結氷した川面が割れて、車が川に沈んでし まった。被告人甲は車から逃げて現場を離れ、被 害者乙が死亡した。
裁判所は、被告人甲に対し過失致死罪の判決を 言い渡した。裁判所は、被告人甲の過失行為が被 害者の死亡と直接的な因果関係があり、法益侵害 結果も予見すべきであると指摘した。しかし、被 害者乙も、車で結氷した川面を渡る危険を予見で きたが、あえて被告人甲と同乗して川を渡ろうと したことで被告人の民事賠償責任の減軽が認めら れた。
この事例では、裁判所は被害者が結氷した川面 を渡る危険を予見すべきであるとして、これによ り、被告人への民事賠償責任の減軽が認められた が、被告人の刑事責任への影響については言及さ れていない。事実関係からみると、一般的に危険 の引受けの事件としてみることができるが、判決 だけをみる限り、刑事責任の部分においては、考 慮されていないようにみえる。
⑵ 無免許船運転同乗事件40)
2002年
1
月16日の午後、無免許の被告人a
は、船主
b
から農業用の船を借りて、被害者であるc、
d、 e
の引っ越しを手伝おうとした。三人の被害者 は被告人a
が無免許運転と知りながらその船に同 乗した。被告人a
の運転している船が途中で反対 側にいた船に衝突し、船に乗っているa、b、c
を 川に落下させ、三人とも死亡してしまった。裁判所は、一方で、被告人
a
に交通事故罪を下 したが、三人の被害者にも落ち度があることを理 由に、被告人の民事責任が軽減されると言い渡し た。この事例では、被害者らが被告人
a
が無免許運 転と知りながらその船に同乗したことは、民事責 任に影響を与えたが、犯罪の成立には影響は及ぼ さなかった。⑶ 田
X
過失致死事件41)2005年
6
月に、被告の田X
と彼の妻が、違法的 に3
人目の子供を産んだことを理由として、輸卵 管結紮術を受けさせるため、計画生育公務担当に よって県の施設に連れて行かれた。6
月25日の午 前11時に、被告人の田X
は妻を結紮手術から逃が すために、職員に対して、妻が当該施設の3
階に あるトイレでシャワーを浴びてくると嘘をついた。職員を欺いた後、被告人の田
X
はまず、トイレで 木製の窓を開け、事前に用意したナイロンロープ で妻の胸を縛り、ロープを使って妻をトイレの窓 から吊って逃がそうとしたところ、ロープが途中 で切れたため、妻が3
階から落ち、その場で死亡 した。裁判所は、被告人の田
X
が妻を結紮手術から逃 がすために、ロープで妻を縛り、高いところから 降ろし、自分の行為が重大な結果をもたらすのを 予見すべきであるが、予見しなかったことで、妻 を死亡させた行為が過失致死罪に該当すると判示 し、犯行後の態度を考慮して執行猶予付き有期懲 役三年を言い渡した。ここでは、被告人が執行猶予とされているが、
上の事例と同様に、被害者の態度が考慮されなか った。
上述したように、ドイツや日本の場合において は、危険の引受けという理論を適用するようにな ってきた。その理論を適用するためには、危険の 引受けの根拠を検討すべきであると考える。
Ⅳ 危険の引受けの理論的根拠についての検討 危険の引受けの問題は、学界において激しく議 論されているが、ほとんど結論が同一であり、犯 罪が成立しないという判断となるのである。しか しながら、その理論的根拠は学者によって分かれ ている。現在においては、被害者の自己答責性論 が多数の学者に支持されている。そのほか、準同 意論、責任阻却論、信頼原則論、行為危険性否定 論や社会相当性論を主張する学者もいるが、最初
にこのような問題を解決するため取り入れられた 被害者の同意論が最も妥当だと考える。
1
.被害者の同意論⑴ 基本的主張
ドイツにおいては、ウルリッヒ・ヴェバーがこ の理論を支持している。彼は、「法益主体の不注意 な態度を結果に対する同意と解するのは不当な『擬 制』であるとした上で、しかし危険創出態度、す なわち危険行為のみへの同意が結果を正当化する 場合がある」42)としている。彼の見解は、被害者 の自己決定権を重視すべきという考えである。そ のほか、デリングも承諾の問題とする立場に立つ。
デリングは「個人的法益に対する犯罪に際して は、被害者の承諾は失わせる」43)と主張した。そ して、「過失犯に際しては、承諾により実行に移さ れた被害者の自律性を含めた、所為実行に実現さ れる価値が、過失致死に存在する無価値を上回る 場合に、例外的に承諾がその所為を正当化するの である」44)とした。デリングは被害者の自律性を 重視すべきという考えである。
日本においては、林幹人がその理論を支持して いる。いわゆる、準同意論という理論である。彼 は以下のように主張している。すなわち、危険の 引受けの問題は、被害者の同意の延長線上にある ものとする。彼によると、被害者の同意との相違 は以下のようなことである。すなわち、「危険の引 受けの場合、被害者の認識している結果発生の可 能性はかなり低く、また、抽象的なものだという こと、しかも、被害者は結果発生を望んでおらず、
むしろ発生しないことを期待しているということ である」45)。すなわち、法益主体である被害者が法 益侵害について承諾を与えることにより、被害者 が結果発生の可能性を認識しているにもかかわら ず、被害者自身の意思により、自由にその危険に 同意したという事情があれば構成要件該当性は否 定される46)という主張である。
⑵ 検 討
この見解に対して、刑法において、故意犯の場 合には、被害者の同意論の適用が一般に認められ るが、過失犯の危険の引受けの場合における被害 者の同意論の適用は、議論になっている。ロクシ ンは、「死への被害者の同意が欠如しているという ことは、被害者が死の結末を考えていないか、も しくは死が発生しないだろうことを信じていると いうことから生じる」47)とする。すなわち、危険の 引受けの場合に、被害者は結果への同意がないた め、被害者の同意論は適用できない。また、ロク シンは、「同意の対象について、行為説は間違って おり、結果説が正当である。そして、注意義務違 反性は被害者の態度には依存しないのである。」48)。 とし、特に、準同意論に対して、「こうした見解の 根拠となっている危険に対する同意は結果に対す る同意を意味するという指摘は、一種の形式理論 であり、両者の間に存在する重要な差異を看過す るものであって、それは結局、実際上、行為を同 意の対象とする主張か、危険に対する同意を似て 結果に対する同意を擬制する主張に帰着するもの と思われる」49)としている。
本論文においては、被害者の同意論を危険の引 受けに適用できるかについて、主な問題は学者が 被害者の同意の理論、同意の対象、同意時の心理 態度及び死亡もしくは身体傷害への同意の効果に 関する異なった理解によるものだと考える。これ らの問題点を検討した上で、被害者の同意論を主 張する。具体的な検討は後で述べる。
2
.信頼原則論⑴ 基本的主張
深町晋也は主にこの理論を主張している。彼は、
信頼原則論により、危険の引受けの問題の解決を 図ろうとしている。なぜなら、「被害者の自律=自 己決定に基づく絶対的な犯罪成立阻却効果による ものより、むしろ、被害者と行為者との関係性に 着目して、いわば相対的な形で行為者の不可罰性
を基礎付けるものが多い」50)からである。深町は、
「ある危険な活動が結果発生・不発生に至るまでに は、様々な次元の危険増加的要素と危険減少的要 素とが組み合わさっているからである」51)という。
そして、「一定の危険減少的要素が一定の『経験 則』にまで高められた場合には、そのような経過 をたどって結果が発生することは極めて稀なこと であり、相当因果関係ないし客観的帰属関係を否 定する事となるのである」52)。「従って、そのよう な経験則を信頼した場合には、具体的事情におい てそのような経験則を破るような事実が具体的に 予見可能でない限り、もはや、ある程度高度の予 見可能性が存在するとはいえなくなるのである」53)
とする。
法益主体は、特別な事情がない限りは自己の法 益を保全する行動を取るものであるが、このよう な自己保全本能は、無条件で発動されるわけでは なく、まず法益主体の主観的認識に依存するので ある54)。法益主体が結果発生についての認識を有 している場合は被害者の同意論によって行為者の 不可罰性が導かれるのである55)。法益主体は結果 発生についての認識も危険についての認識も有し ていないが、危険の認識可能性は存在する場合に、
法益主体にとっては、自己の法益に危険が迫って いることについて認識するための契機が存在しな いことになるから、当然、自己保全本能を発動す るための契機についても存在しないことになる56)。
「この場合には、『法益主体は自己の法益を保護す る』との経験則が成立するための存在論的前提を およそ欠くことになるから、信頼の原則に依拠す ることも不可能である」57)。したがって、法益主体 が自己保全本能を発動するためには、自己の法益 に対して危険が生じていることを認識しているこ とが必要となり、その危険の認識が存在する限り、
経験則により自己を保護しうるときに、行為者に 対して過失犯程度としての予見可能性を肯定でき ない58)。
この見解によると、危険の引受けを以下のよう
に類型化しうる。
第一は、「行為者に比して、被害者の知識・経験 が優越しており、行為者としては、そのような被 害者が適切な危険コントロールを行うことにつき、
経験則として依拠し得る場合」59)である。例えば、
坂東三津五郎中毒死事件のような事例において、
被害者はふぐの毒性を認識しながら、行為者が「安 全に調理された」と思っている以上、自己にとっ て危険な行動を回避するための主観的契機は十分 には与えられてはいないため、行為者は、被害者 の自己保護についての経験則に依拠することは出 来ない60)。
第二は、「被害者に比して、確かに行為者が知 識・経験において優越しているが、被害者に対し て危険減少的な指示を与えたにも拘らず、被害者 が当該指示を遵守せず、その結果、被害者の法益 侵害が生じたような場合」61)である。例えば、朝鮮 あさがお茶事件62)である。「この場合には、『被害 者は自己を保護する』との経験則に依拠すること ができるので、行為者には具体的予見可能性は存 在しない」63)。
第三は、「行為者の私的領域に被害者がその許可 を得ずして侵入して、そこで侵害結果が発生した ような場合であり、すなわち、『行為者は自己を保 護する』との経験則には依拠し得ない場合」64)であ る。例えば、自分の別荘のガスレンジの調子がお かしいことを認識しながら、それを放置し、偶然 に別荘に侵入した泥棒がそれを使用して、ガス爆 発で死亡した場合である65)。この場合では、行為 者は「被害者が自己の私的領域に許可なく侵入し ない」という経験則に依拠し得るため、具体的予 見可能性がないとすべきである66)。
第四は、「『被害者が自己の生命に危険な救助を 行わない』との経験則に依拠し得る場合」67)であ る。たとえば、行為者が他人の住宅に放火したと ころ、火災現場に残されていた子供を助けるため に、被害者が火災現場に飛び込んだところ、煙に 巻かれて被害者が死亡した場合である68)。親子の
ような近親関係がある場合には、被害者において は、自己保全本能よりも強く救助本能が働くこと が決して稀ではないため、「被害者は自己の生命に 危険な救助を行わない」という経験則は直ちに依 拠しえないと思われる69)。一方で、救助者が消防 士や自衛隊員という場合は、訓練を受けているた め、危険に対して的確な判断を行い、可能な限り 危険減少的な行動を取ることができる70)。よって、
「消防士の活動においては、危険を的確に判断し、
それに応じて危険を回避する」という経験則が存 在し、経験則に依拠可能である71)。
⑵ 検 討
この見解に対しては、被害者は危険を認識しな がら、自己保全本能に基づく危険回避行動を取る としているが、被害者は自分では危険を十分制御 しえなくなっている状況が問題となっているので あるから、信頼の原則によると、行為者の可罰性 を制限できなくなる72)。
筆者は、危険の引受けのような事例を信頼の原 則で処理しようとしても、被害者自身は危険に身 をさらしており、被害者は事態を制御できず、事 実上、行為者の不処罰という解決は不可能となっ てしまうと考える。そのほか、実際の危険引受け の場合において、行為者が結果に対して予見可能 性がないことや行為者が自己保全本能に基づく危 険回避行動を取ったという説明が困難だと考える。
3
.社会相当性論⑴ 基本的主張
十河太郎は主にこの理論を主張している。十河 によると、「被害者が法益侵害そのものについては 承諾しておらず、単にその危険を認識しているに すぎない点で、いわゆる被害者の同意とは異な る」73)。よって、被害者の同意論により危険の引受 けの問題を解決するのは不可能である。
十河は、「ダートトライアル同乗者死亡事件のよ うな被告人の行為の違法性を判断するにあたって は、本件事故はダートトライアルというスポーツ
活動の際に起きた点に着目すべきではないか」74)と 指摘している。一般に、ボクシングや相撲などス ポーツは刑法三五条の正当業務行為に当たり、ス ポーツにおいて人の生命や身体に侵害を与えても、
正当業務行為といえる限り違法性を阻却するとさ れている75)。「被害者に危険の認識があった事例を 扱った判例のうち、スポーツ事故以外の判例は、
危険の引受けを単に情状の問題として考慮してい るにすぎないのに対して、スポーツ事故に関する 判例はいずれも、諸般の事情を総合的に判断し、
当該行為がスポーツとして正当行為ないし社会的 相当性といえるかどうかという観点から違法性阻 却に有無を検討している」76)。すなわち、「スポー ツ活動は、健康の維持・増強を図り、社会生活で の悩みや負担を軽減・解消し、社交的な側面で共 同生活を円滑に進めるなどの点で社会的に有意義 である。こうしたスポーツの有用性・必要性と、
該当行為の侵害結果発生の蓋然性とを比較衡量 し、許された危険の範囲内にある限りで違法性が 阻却される」77)。「スポーツは、医療行為ほどでは ないにしても、健康の維持・増進し、娯楽や社交 の手段となり、試合観戦の対象となるほど、プロ、
アマを通してその社会的有用性は決して小さくな いが、その性質上ある程度の法益侵害の危険を伴 うものであり、そのような危険な行為を全面的に 禁止すれば、スポーツは成り立たなくなってしま う」78)。したがって、たとえ被害者の予期しないよ うな法益侵害の結果が発生したとしても、そのス ポーツ行為がルールによって許される範囲内で行 われている限り、社会相当性を有する行為として 違法性阻却が認められると解すべきであり、被害 者がそのスポーツに伴う危険を認識せずに参加し ていた場合には社会相当性がないとすべきであ る79)。そのほか、奥村正雄もこの主張を支持して いる。奥村によると、被害者の危険の引受けは行 為者の違法性を阻却しないが、社会相当性の判断 要素として認められる。
⑵ 検 討
この見解に対して、筆者は、まず、法益が抽象 化される傾向があると考える。許された危険の法 理が適用されるのは、たとえば救急車が救急患者 の生命のために危険を侵して、疾走する場合とか、
列車運転転覆事故の際に医学生が応急の手当てを 求められて、できるだけのことをしたが死亡させ た場合などに限られるのであるから、スポーツ活 動の有する価値は生命や身体の安全ほど重大で具 体的なものではないため、スポーツ活動における 生命侵害について許された危険の法理を適用する ことができない80)。筆者は、スポーツ活動が、健 康の維持・増進、娯楽や社交の手段となり、試合 観戦の対象となるなど、プロ、アマを通してその 社会的有用性はあるが、その効果はいまだに抽象 的なものであり、説得力が十分でないと考える。
次に、「『社会相当性』という観点からの判断は、
そもそも非常に多義的な概念なので論者によって どのような意味で用いているのかが明らかでなく、
基準として非常に不明確であるという根本的な問 題がある」81)。「一応、当該行為が『歴史的に形成 されてきた社会生活秩序の枠内にあるかどうか』
つまり『日常的にごく普通に行われているような ものなのかどうか』という判断であると考えるな らば、たとえ被害者がそのスポーツに伴う危険を 正確に認識していなかったとしても、その行為が 社会的にあたり前に定着しており少なくとも著し いルール違反がなかったのならば、行為は社会的 相当ということになりえよう」82)。「その意味で、
行為者行為の社会的相当性判断にとって、『被害者 の危険の引受けが要件になる』というのは奇妙で あり、社会的相当性と危険認識がその要件になる ことをつなぐ説得的な論証が必要となるはずであ るが、そのような論証は見つけられないのであ る」83)。
そして、「このような場合に行為者行為が『社会 的相当』であるのは、『被害者の危険の引受け』と いう観点が重要であるからではなく、まさにそれ
が『スポーツ事故』であったからという点が重要 なのであろう」84)。
4
.被害者の自己答責性論⑴ 基本的主張
ドイツではライナー・ツァツィクがこの理論を 主張している。ツァツィクは、違法性の側から被 害者の自己答責性を論証する。ツァツィクによる と、「刑法的不法」は、個々人の人格性への攻撃、
つまり、個々人の現実の自由を縮減させることで ある85)。自分自身に対して向けられた行為として の自己侵害は「法」に特有な「各人格的な関連」
を欠いているから、刑法的な意味において、自分 の物の破壊は器物破損ではなく、自殺は殺害では ない86)。よって、被害者の自己答責は「意識的自 己侵害の事例」と「自己危殆化事例」に分けられ て、「意識的自己侵害の事例」において「意思」、
「行為」、「結果」の統一体を作り出したのは、被害 者自身であり、被害者が行為の中心であり、また その目標でもあり、被害者が、「意思、行為、結果 の統一体」を創出したという事情は、原則的に、
侵害事象に対する他人の答責を遮断するのであ る87)。自己危殆化事例の場合において、「意思、行 為、結果の統一体」は存在しないため、他人の答 責を遮断しない88)。そのほか、ウェヘルマンもこ の理論を支持している。彼は、「故意の自己侵害へ の関与の不可罰から過失的な自己危殆化への関与 の不可罰を演繹することが広く受け入れられてい ることは不思議ではない」とする89)。「自殺関与の 場合でも、自殺者の自由答責性がそれを誘発・促 進する第三者の可罰性を阻却するということが真 の根拠なのである。自己侵害への関与が被害者の 自己答責性によって不可罰なるならば、被害者だ けが自己答責的である自己危殆化への関与を処罰 するのは矛盾である」としている90)。
日本においては、塩谷毅がこの理論を主張して いる。塩谷によると、危険の引受けにおいては、
危険行為の実行と結果の発生に対して行為者と被
害者が過失的に共働したという点が特徴的であ る91)。「刑法は、法益保持をその第一の目標とする 社会的な制度であるが、法益保持のためには、行 為者が法益を侵害しないだけではなく、法益主体 である被害者もみだりに法益を危殆化しないこと を法によって期待されている」92)。彼によると、「パ ターナリスムティックにではなく自由主義的に構 成された法秩序においては、法益を保持し危殆化 しないことの第一次的な管轄は、法益主体である 被害者自身に向けられているという意味での『被 害者の優先的答責性』という観点」93)が重要であ る。そして、「被害者が単に攻撃が向けられる客体 として存在するだけの通常の場合と異なり、被害 者が特別な様態で行為者と結果発生に向けて共働 する場合には、ある一定の条件のもとにおいて、
生じた結果は第一次的に被害者自身の仕業であっ たと考えられる」94)。また、被害者の自己答責性が 認められるためには、以下のような三つの要件が 必要であるとする。
まずは、危険認識である。塩谷によると、「主観 的要件として、最終的には結果が発生しないだろ うとその可能性を内心で打ち消したにせよ、その 危険行為が問題となっている特定の構成要件的結 果に結びつきうることの表象がいったんは被害者 にあって、なおそれでも任意に危険に接近してい ったという意味での危険認識が必要である(意識 的な危険引受)」95)。たとえ被害者が軽い傷害の危 険性を認識していても、死亡という結果までには 至らなかった場合に被害者は死という危険を引受 けていたとはいえないのである。「被害者が責任を 持って決断するためには、自分がどのような種類 のどの程度の危険にさらされているのかを正確に 分かっていたことが前提とされるというべきであ る」96)。
次に、自己答責能力である。危険認識という要 件を前提に、自己の法益に対する危険判断に関し て必要な弁別能力と制御能力が被害者に存在した こと(自己答責能力の存在)が必要である97)。
さらに、自己答責的(積極的な)態度である。
「客観的な要件として被害者が単に成り行きに身を 任せ、行為者の手に自らを委ねたというのではな く、少なくとも行為者と同程度以上に結果発生に 対して積極的な態度を示したことが、彼の自己答 責性を認定するための条件とされるべきであ る」98)。
そのほか、松生光生、増田豊、山中敬一等も、
被害者の自己答責性論による解決方法を支持して いる。
⑵ 検 討
この見解に対して、筆者は、被害者の自己答責 性論と被害者の同意論は、実質的に差がそれほど 大きくないと考える。まず、被害者の自己答責性 論の基礎根拠が明確ではないと考える。被害者の 自己答責性論を支持している学者はよく自分の行 為に対して責任を負うべきであるということで危 険の引受けの問題を解決しようとしている。しか し、なぜ人は自己の行為に責任を負うかと問われ るときに、個人の自由だと答えている。ここでの 個人の自由は憲法上の権利ではないか。そうであ れば被害者の同意論が主張している自己決定権と の区別は何の差があるかが問題である。これに対 して、学者等は説明していないのである。被害者 の自己答責性論を支持している学者が提出してい る自己答責性の成立要件からみると、実質上にお いて、被害者の同意論との相違が大きく存在しな いのである。したがって、側面からみると自己答 責性の論理の根拠は自己決定権であるといえよう。
つまり、自己決定権は自己答責性の前提と根拠と なる。そうすると、なぜ同じく自己決定権を根拠 とする被害者の同意論が危険の引受けを解決でき ないのに対して、逆に被害者の自己答責性論が危 険の引受けを解決できるのかが問題である。被害 者の自己答責性論は、被害者の同意論を否定した 上での主張であるが、実際のところ、その根拠の 差は大きくないと考えられる。被害者の同意論と いう明確的な理論を使わず、あえて被害者の自己
答責性論を適用する理由がないというべきである。
被害者の同意論の根拠は、自己決定権であること が、一般的に認められている。これに対して、自 己答責性論の根拠は自己決定権であるとはっきり 主張する論者が存在しないといえるのである。
そして、学者の被害者の同意論に対する批判は 同じく被害者の自己答責性論に対する批判にも適 用しうるのである。たとえば、被害者が行為と結 果の両方の認識がある限りにおいて自己決定権が 実現する。この問題について自己答責性論も実質 的に同様である。すなわち、いわゆる自分が自己 の行為に対して責任を負うべき場合には、前提条 件としては、行為者が自分の行為と結果を認識し なければならないのである。もし結果に対する認 容がないとすれば、同様に完全な責任を問うこと ができないのである。刑法は被害者の生命に対し て処分する権利を制限していることが一般的に認 められている。被害者の同意論による危険の引受 けの問題を解決できないなら、同様に自己答責性 論による危険の引受けの解決も不可能である。
5
.共 犯 論⑴ 基本的主張
張明楷(中国)は主にこの理論を主張している。
張は上述したような理論は危険の引受けの問題を 解決しえないと考えており、共犯論だけが危険の 引受けの問題を解決しうると考える。この主張に よると、共犯と同様に、危険の引受けも、被害者 と行為者が共同に結果を発生させたのである。す なわち、危険の引受けにも正犯と共犯が存在する。
直接的に結果を発生させた者が正犯であり、他人 より間接的に結果を発生させた者が共犯である。
すなわち、正犯と共犯の判断基準で自己危殆化と 他者危殆化を区別する立場である。被害者が結果 発生を支配するときに、被害者が正犯であり、行 為者が結果発生を支配するときに、行為者は正犯 である。共犯の場合において、共犯の従属性原理 によって、正犯の行為が構成要件に該当するか、
違法な行為であるかを判断する。被害者の過失に より自己に重傷また死亡を与えた場合において、
被害者の行為は構成要件に該当しないし、違法性 も有しないのである。したがって、共犯の従属性 原理により、その行為に関与した行為者の行為は、
犯罪にならない。しかしながら、被害者と行為者 が共同して結果を発生させた場合においては、自 己危殆化とすべきであり、行為者の行為が犯罪を 成立することを否定すべきである。すなわち、一 部実行全部責任の原則が適用できないのである。
合意による他者危殆化の場合、原則として、犯罪 の成立を妨げる事由が存在しない。ただし例外の 場合として被害者の自己法益に対する侵害の間接 正犯である場合、すなわち行為者は共犯の従属性 原理により、被害者が行為者に対する強制的な行 為、あるいは被害者が危険行為に対する優越的な 知識で因果の流れを支配した場合において、被害 者の行為は構成要件該当性が阻却されることによ り、行為者の可罰性を排除することができる99)。
⑵ 検 討
この見解に対して、まず、被害者と行為者の間 に共犯が成立することは納得できないと思われる。
なぜなら、刑法の制定と実施は法益保護を目的と し、この目的を実現するために、刑法は、他人か ら被害者の法益を侵害する行為に刑罰を与えるの である。すなわち、刑法の規制する対象は行為者 を中心にして展開しているが、被害者は保護の対 象である。その逆ではないのである。
次に、過失犯の場合に、正犯と共犯を区別する ことは合理的な考え方ではないのである。共犯論 で行為者の行為の犯罪成立を否定するためには、
制限的正犯概念を用いることを前提としなければ ならないのである。しかしながら、過失犯の場合 で制限的正犯概念を適用するには問題が存在する。
そして、被害者と行為者は共に結果を発生させ た場合には対応できないのである。いわゆる共同 正犯の場合には、どのような方法で処理すべきで あるかが問題である。張はこの場合について、自
己危殆化への関与とすべきだと考え、行為者の行 為の犯罪成立を否定する。しかしながら、なぜこ の共同正犯の場合を自己危殆化への関与とするの かは、説明が不十分だと思われる。
上述したように、様々な理論から、被害者によ る危険の引受けの問題を解決しようとしている。
最初にこの被害者による危険の引受けの問題を解 決しようとしているのは被害者の同意論である。
そして、被害者の同意論が危険の引受けに適用で きないという見解が出た後に、各学者が様々な論 理によりこの問題を解決しようとしている。被害 者の同意論は被害者による危険の引受けの問題に 対して十分に解答を用意できるかという問題に対 して、筆者は肯定的に考える。以下において検討 していきたいと思う。
Ⅴ 被害者による危険の引受けに対する被害者の 同意論の主張
被害者の同意論は最初に被害者による危険の引 受けの問題を解決しようとした理論であり、危険 の引受けの問題に適用できるか、また、ほかの理 論に批判されたように、被害者の同意論は、危険 の引受けに適用できないか。すなわち、被害者の 同意の理論は、故意犯に限られているため、被害 者による危険の引受けのような場合には、ほかの 根拠が必要とされるか。そのような問題に対して、
まず、被害者の同意論の理論根拠と同意の対象、
同意における被害者の心理的態度、さらに、生命・
身体に対する危険と同意の効果を検討すべきであ る。このよう問題を検討したうえで、被害者によ る危険の引受けを検討する。
1
.被害者の同意論の理論⑴ 被害者の同意論の理論的根拠
一般的に、被害者の同意は、法益主体にとって 処分可能な個人的法益に関する同意である。被害 者の同意によって行為の違法性を阻却する説明と
しては、大きく以下のような三つの見解が存在す る100)。一つ目は、社会相当性論である。すなわち、
被害者の同意があり社会的に相当な行為と認めら れる場合は違法性が阻却するという見解101)である。
二つ目は、法益放棄論である。すなわち、被害者 が法益の保護を放棄した場合には、法益の法益性 また要保護性が欠けると解する見解102)である。三 つ目は、利益衡量論である。すなわち、法益を自 由に処分するという自己決定が法益保護の利益に 優越すると解する理論103)である。
本論文において示したように被害者の同意のあ る場合には、まず、一つの側面として、法益主体 が自分の利益を放棄したとみなし、法益保護の目 的としての刑法という手段を用いる必要が失われ る一面がある。そして、法益に対する侵害の同意 そのものは法益の具体化である。なぜなら、法益 主体が自分の法益を支配できないのならば、完全 な法益とはいえないからである。被害者の承諾に よる犯罪成立の否定の実質的な根本思想は「個人 の自己決定権尊重の思想」である104)。「日本国憲 法その一三条において、個人は『個人として尊重』
されるとしているが、この個人としての尊重の理 念から個人の『個性の尊重』の理念が派生する。
個人の自己決定は、個人の個性の主張を意味して おり、それゆえ個人主義的世界観のもとではそれ 自体に重要性が認められる」105)。「ある人が自己に のみ属する法益について他人に処分を許した場合、
行為者がその法益を侵害したとしても、それは法 益主体の意思にかなう行為なのであり、法益を侵 害したという『マイナス』は法益主体の意思にか なうという『プラス』によって補完され、正当化 される」106)。刑法は被害者が自分自身の法益を支 配することを尊重すべきであり、すなわち法益主 体の自由を尊重することである。ここでの法益主 体の自由は自己決定権の一部だと考える。刑法の 存在する理由は、国民の自由を保障することであ る。ここでの自由は自己決定であり、独立・外部 の制約なしで、自分の行為に対して決定をするこ
とである。したがって、被害者の同意論の理論根 拠は憲法上で、よく議論され、かつ、一般的に認 められる自己決定権にある。
⑵ 被害者による危険の引受けにおいての自己 決定権の存在について
上述したように、被害者の同意論の理論根拠は 自己決定権である。そこで被害者の引受けにおい て、被害者の自己決定権が存在するかが問題であ る。結論からいうと、肯定すべきであろう。なぜ ならば、刑法の存在する理由は人々の自由を保障 することである。もし危険の引受けにおいて、自 己決定権があるとしたら、刑法がそれに対して干 渉することは刑法の存在する理由に反することに なる。それだけではなく、平等原則にも反するこ とになるのである。つまり、故意犯の場合におい て、被害者の同意に自己決定権が存在する。もし 危険の引受けにも自己決定権が存在するなら、前 者は違法性を阻却するとしたら、後者も同様に評 価すべきである。
危険の引受けにおいて、被害者の自己決定権が あるかが問題である。被害者による危険の引受け に被害者の同意論を適用しえないと思っている学 者は以下のような理由でその適用を否定する。す なわち、被害者の同意に自己決定権がある理由と しては、危険の実現意思が存在するからである107)。 一方で、危険の引受けにおいては、その危険の実 現意思が存在しないため、自己決定があるとは言 えないのである108)。すなわち、被害者の同意の場 合において、自己決定が存在する理由としては、
被害者が結果を認識し、そして、その結果を実現 する意思があるからである。一方、危険の引受け の場合においては、被害者は単に行為の危険を認 識し、そして、その結果を実現する意思がないの である。したがって、自己決定権の実現ではない と考える109)。
自己決定は法益主体の自由意思の客観的表現で あり、法益主体の行為によって自己の自由を決定 し、そして実現することである。自由は否定的な