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体育の生活化の視点一「生活体育論」再考

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体育の生活化の視点一「生活体育論」再考 岡 本研二*

問題の所在

「生活科」の新設を伴う今回の学習指導要領の改訂では,体育においては,昭和52年度改訂時の方針 を基本的にひきっぎながらも,子供たちの心身の発達特性と運動の特性(楽しさ)との関わりをよりい

っそう明確にすることに目標が置かれている。さらに,低学年の「基本の運動」領域では,子供の生活 や欲求と密接に結びっいた「運動遊び」を中心にした,生涯スポーツへの基礎的教育を重視している。

従来の「楽しい体育」路線が, 「生涯体育」と学校体育の有機的な結合をめざす延長線上で完結してい こうとする所にその特徴をみることができる。

ここ10余年にわたる「楽しい体育」の成果は,なによりも競技スポーツの下請け的発想からくる技能 主義や能力の固定観にとらわれた競争主義によって生じる体育嫌いの子供に対し,様々な動機づけを開 発し,意欲的な学習をひきだそうとした点にある。しかし,現状をみると,運動の楽しさを身にっけた はずの子供たちが生活にまでこの力を転移させている状況は少なく,むしろ,極めて個人主義的な色彩 を帯びた,本能的な欲求充足のレヴェルにとどまっており,日常生活を切り開いていくような主体的な 能力形成に転化しえていないといえる。

今日の:遊びを喪失した子供たちの生活が,本来,発達上豊かな教育力を有している「生活」とどうい う関係にあるのか,今日の子供の置かれている生活環境や構造を深く探ることなしには,生涯体育に発 展していく学校体育の構築は不可能といえる。

本稿では,学校体育が子供の発達を形成する上で,子供の実生活といかに関わっていくべきか,っま り,体育の生活化の視点を考えてみたい。その際に,ひとっの示唆となるのは,戦後当初の「新教育」

下の生活体育をあぐる議論であり,とりわけ,佐々木賢太郎を中心にした紀南地方の教師たちの「生活 体育」の実践は,生活科をめぐる今日の状況にひとっの方向性を示しており,再認識される価値を有し ている。昭和20年代の状況とは大きな社会的変化はあれ,子供の発達と生活,教育の関係の本質がそこ にはうかがわれ,体育の今日的課題に対するひとっの回答になるであろう。

生活体育論の検討

1.生活体育の主張

       1)

岺Oの体育が「全体のために個の価値をゼロとし,全体を目的としての個を手段とするところ」のも ので, 「命令=服従関係をもって貫き,児童や青年の興味を無視し,生活から遊離した,鍛練による精 神主義を軸とする非合理的なもの?であったことに対する反省から,戦後いちはやく,児童に眼を向け

*茨城大学教育学部

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12      茨城大学教育学部教育研究所紀要第22号(1990)

る児童中心主義体育が提唱され,いわゆる, 「Vom Kinde Aus」思想に基づき,体育の原点を児童に 置くようになったことは評価されることであろう。これは必然的に児童の生活児童の欲求から問題を たて,現実社会における生活の意味問題点を主体的に解決していく子供を育てることを眼点に置いた

ものであり,前川峯雄が「教材を教師の立場で完結した体系として立てるよりも,児童の生活に即した 現実の問題を解決することに,その重点を置き,問題解決の能力を作るような方向をとらなければなら       3)

ネいであろう。」と述べていることにも示される。また,当時の生活教育の提唱の中で「観念から学ぶ        4}

フではなく,生活から学んで生活していく。」, 「教育を地域社会の生活要求にもとついて計画しよう とする生活教育運動が起こってくる。……学校の教育課程は民主的人間形成のたあの生活訓練を中心と

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オて編成されなければならない。」あるいは, 「学校においてこそ,子供の生活がすべてを支配する目 的となるのである。子供の成長を促進するあらゆる手段がそこに集中されている。学習?たしかに学習 は行なわれる。しかし,生活することが第一である。学習は生活することをとおして,また生活するこ        6)

ニの関連において行なわれる。」というような主張をとおして,生活と教育の結びっきを重視する動き が強まっていたことも戦後の教育の出発点として注目すべきであろう。

2.生活体育論の展開

コア・カリキュラム,生活単元学習のように生活と教育の結びっきを主張する教育論と体育も無縁で はなく,むしろ,系統学習を強調する1956年の学習指導要領の改訂時にすら,グループ学習を方法とす る問題解決学習が主流であったように,生活体育は活発に展開されたが,内容からみると三っに大別で

きる。

第一は,素朴な形で生活と体育の結びっきを主張する論である。梅根悟は「その生活化の方向は原則 的には他の場合と同様に,子供たちが常の生活の中で営んでおる常の生活活動をそのまま学校に持ち込 んで教材することである。がそれは他の場合とちがって体育の場合には極あて豊富な種類の,近代的な スポーツというものが控えているので,この生活化は比較的容易に行なわれるように見える。それらは,

すでに在来も体育のプログラムの一部と加えられていたし,特に課外活動として熱心に行なわれてきた ものである。……それを中心としていくことが,即ちスポーツ中心の体育カリキュラムにきりかえて行        7,

ュことが,学校体育の新教育化である。」として,合理的,科学的な近代学校体育の生活遊離性に批判 を加え,コミュニティ・スクールの主張に同調し,立論したものである。

第二は,前川峯雄を代表とする経験主義,児童中心主義の立場からの主張である。前川は,かっての

「生活即体育」あるいは「体育の生活化」の主張が生活と体育の分離を前提にしていることを批判し,

生活体育でいう生活はそれとは異なると,三っの点を主張した。第一に,子供たちがひとっの欲求体系 として衝動にねざし,欲求を満たしていくところの活動の連続として捉える。したがって生活でないも のをあたかも生活であるかのように生活化するというものではなく,もともと生活であるという点。第 二に,生活が体育の合理性によって規定されるのではなく,体育の合理性を生活が利用するという意味 をもつという主張である。「生活即体育という時には,生活を不合理のものとみ,これを体育の合理性       8)

ナ規定していこうとするのであるが,生活体育では生活を不合理なものとみない」とし,「生活体育は 子供たちの生活活動がそのまま体育としての意味をもっように指導することである1)」と規定した。

第三は,児童を中心にしながらも「衝動満足主義」に陥ることを避けなければならないという点。「生

活体育は,子供の生活を尊重し,その活動をかれら自身から出たものとして,その発動をどこまでも尊

重するのであるが,しかも体育といわれるからには,このような内から発動する活動にたいして,体育

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      10}

フ要求する立場の方へと,暗示や相談や助力によって向けることでなくてはならない。」

さて,第三の立場は, r体育の子rあ佐々木賢太郎に代表される「生活体育」の実践である。これは 戦前の生活綴方教育の遺産を継承し,体育学習において作文を書かせることを行ない,子供に生活をみ っあさせることにより,その矛盾を明らかにし,思考力や認識を形成するとともに,生活意欲を育て,

主体的に問題解決へと向かう力を発達させようとするものであった。これは,体力主義や技術主義を克 服することをめざし,子供の身体を歴史的,社会的存在として,その生活基盤との関係でとらえ,そこ から体育実践をスタートさせたものであった。それは「子供たちのからだをとおした叫びを聞き,それ を何よりも大切にし,子供たちの生活にくいこんで共に考え,共に研究する糧とするためにくっつる〉

ことを体育学習の中に取り入れることに努力した」ということにもうかがわれる。このような子供の生 活現実と深くきり結んだ生活体育の実践は,遊戯生活や運動生活という一分野に視野を限定することな く,現実の生活において生命や身体が守られていないという事実認識から出発し,それを守り,その尊 厳性を確立していくための道を体育学習の中で探求していくものであった点において,鋭い問題を投げ

かけている。

佐々木賢太郎の生活体育論

1.生命を大切にする体育

「健康を守り,育て,生命を大切にする教育」が体育の基本的なねらいであり,体そのものを学習の ねらい,素材として, 「(1)労働に直接つながる教科,(2)全面発達を期する学校教育の中で,最も身体的 活動と精神的(知的)認識の統一を必要としている教科=体育」と規定し,体育の独自性をからだつく りに置いている佐々木賢太郎の体育の構造は,とりわけ技術主義的な体育観によって,子供の主体性を 無視した技能重視や体力向上がもくろまれている時,極めて重要な意味をもっている。それは,また子 供の生存権健康権の上にたって,全人格の発展の見とおしの中で,現実の生活におけるからだの悲惨

さの矛盾を解決していける子供を育てようとしたものといえる。

「生命を大切にする体育」は,子供ひとりひとりの願いを基本にして,健康が阻害されている現状を いかに解決していくか,という課題にせまり,生活をきりひらいていく身体能力を形成するたδ6に,か らだそのものを直視させようとしたものであり,からだの解放=魂の解放→人間の解放をめざす「人権 尊重」の思想を内包している。また「本当のことをずばりと言える子供,そして考える子供,そして心 が美しくて体が強い子を作りたい。」,「現実の社会のもっている矛盾として平和の大切さこそ願い,

平和を愛する子供に育てねばならぬ。」というように,子供を単に,欲求充足の生物的存在としてでは なく,矛盾を刻み込んだ身体を持っ社会的,歴史的存在としてとらえる児童観に立ち, 「子供を守る体 育を体育の最低線」とし,貧困によるからだの阻害,それによる差別等の問題を出発点に置いている。

「からだの悲惨さを見っけだし,それに立ち向かう実践力を育てていくという意味をこめていた。すな わち,ただ子供をからだづくりの対象(客体)としてとらえるのでなく,あくまでも子供をその主体と

      !2}

オていくことをめざすものであった。」,「子供の心身の解放と人間の変革をめざしたものであり,リ

アリズムとヒューマニズムが貫かれている。響と言われるように徹底した現実追求の姿勢と子供に対す

る愛情が貫かれている。

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14      茨城大学教育学部教育研究所紀要第22号(1990)

2.生活にねざした体育

「生活にねざした体育」あるいは「現実を直視すること」のように,佐々木の体育観の大きな柱であ る「生活」や「現実」が何を意味しているのか,を検討すると彼の生活体育の全体像が鮮明になる。

戦後の児童中心主義の生活体育論が,児童の運動生活や遊戯生活を中心に,遊戯,スポーツや社会機 能への適応を目標にした「現在の生活」を描いたのに対し,生活の基底となる生産・労働が取り上げら れ,過去→未来の歴史的,社会的発展過程に規定される「現実生活そのもの」に眼が向けられている点 が特徴的である。特に,からだを支える米さえ食べられない紀南の農村の悲惨な状況や「農村の家々が,

一般に粗食に追いこまれ,子供たちの魂がく食べたい〉と叫んでいる実態」, 「トレパンの買えない現 実」, 「都会,農村,日本国中に苦しい人がいる。なぜ貧乏なのか。白米,本が買えない原因。働く時 間を縮めて勉強や休み,睡眠がもっと取れるように」というように生活基盤が貧困によって奪われてい る現実が,子供のからだを貧困にしている事実にたって,からだづくりの教育が行なわれる必要性が指 摘されている。小関太郎の「はたらく大衆の生産が向上し,生活がまもられるようなところからでない

       14,

ニ真に健全な体育・スポーツも生まれないかと思われるくらいである。」という指摘や教科研の「体育       15,

ヘ,体をっくり,その体をきたえるためにやるが,その体こそ,働く体,生産に従事する体だ。」とい う生産のための体づくりは,体育と生産生活の結合を示している点で同様の認識にたつものであろう。

佐々木のいう「悲惨な現実」とはまず第一に,この生産生活の矛盾を指しており,さらに,この貧困 な生活環境が子供の体をむしばんでいる現実があげられる。そして,第二には,ここから生じる心の硬 化が問題とされる。 「体のみでなく,魂ともに,つまり人間そのものが打ちひしがれている,このいた ましい人間抑圧の現実」,「人は生まれながらにして平等である,と観念的に教えていることから脱し て,不平等な現実,そこから生ずる子供の悩みという具体的現実」と述べているように,体の阻害が,

集団を通して,あるいは遊びを通して,優越感一劣等感,能力主義的差別として,子供の心をも阻害し ている時,体育のからだづくりが生活の変革,心の解放一人間解放にまで向けられることを示している。

「体育の授業だけが体育教育だと考える考え方・見方は,体育の一面性をとりあげているだけであっ て,それをそのままでおしすすめれば,全生活から遊離して特殊化される憂いが少なくないように思う。

体育は生活体育にまで進まなければならぬ。体育は,子供の体そのものがどうなっているか,っまり人 間がどうなっているかを知ることによって生活体育となるのだ。」という中に彼の根本的な考え方をみ てとることができるが,それは,からだづくりの課題が教科の枠にとどまらず,人間形成の視野の中で 初めて可能になることを示唆しているのであり,城丸章夫の「教育としての体育の建設は,おそらくは       16,

フ育を子供の生活指導とむすびっけることから始まる。」という見解も同じ方向性を指し示している。

以上のように,佐々木がとらえた生活が,当時,支配的であった経験主義に基づく体育論が対象にし た牧歌的な運動生活の次元ではなく,子供の「最底辺」の現実であったが,それは同時に,貧困の悲惨 さという特殊性にとどまることなく,ひとりたりとも切り捨てないという思想を根底に据えていたとい える。 「劣等感と体の貧困の原因を大切にし,みんなの問題にしたい。」, 「私たちは体育の生活現実 から出発する。子供たちの体をとおした叫びを何よりも大切にし,その現実に対して教育をすることこ そ,子供たちを本当に積極的にする本道だと考える。」

3.生活をきりひらく体育 1)集団による体の解放

佐々木の実践には,常に,「みんなの力」やなかま集団が問題とされている。

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「ひとりひとりを大切にする」←→「なかまを大切にする」思想は,個人の全面発達を保障する上で,集 団的な保障と相互理解に支えられてこそ発展する。個人の体と心の疎外は,個人主義的偏見や能力主義 的差別の許される集団内では拡大されるが「人間どおしが教えあい,学びあい,よろこび悲しみを共 にする→共同の運命観」 「個人の悩みを共通にして,その問題を解決する」集団においては,自己変革 や現実の改革の力強い媒介となる。

戦後の「グループ学習法」に基づく小集団をとおしての教育は,個人の集合体としての集団を手段化 したものであり,集団の質や方向性が問われなかったきらいがあるが,佐々木は,「功利的な体を作る のではなく,集団的な体,っまり人間をつくること」を求め, 「おくれた友だちに心をくばる仲間のこ とを集団と呼びたい。オレはオレ,あいっはあいっという考え方に強く反対したい。」とする。そして,

「体のこと,栄養のこと,金のこと,勝敗のこと,チームワークのことを考えあっていく仲間」をっく ることによって心身の解放と連帯感を育てようとした。

2)科学的な身体認識の形成

佐々木は技術主義に反対する。 「技術の中にこそ子供の魂の喪失と,盲目へのみちを命じているので はなかろうか。技術が人間を殺してしまったり,子供をめくらに,無批判な子供に,人間性のとぼしい 子供にしてしまわないだろうか。」と。そして,体育の独自性をからだづくりに求める。それゆえ「問 題解決学習であり,系統性,教科の科学性を無視している1ηという批判の声も聞かれる。しかし, 「科 学しよう」を授業のスローガンにしているように,生活をきりひらく体育の実践上その意味を軽視して

いるわけではない。ただ,「人間が技術を作っている」ことに常に眼点を置き,技術を人間がいかに主 体化していくのか,という問題提起をしているといえる。

「鉄棒の上手下手が一番大切でなく,その技術の中での科学的な,そして生活的な見方と実践とが人 間をっくる上で大事なことだと教えることが大切となる。」と述べる科学的な見方と生活的な見方の統 一こそ生活に生きて働く力となるであろう。

さて,実際の身体形成身体活動を可能にする認識にっいて,佐々木は(D自分の体や仲間の体の認識

(2)体のおかれている現実の生活の認識(3)より健康な体をっくるたあの保鰭衛生生理的側面の認識

(4)スポーツの技術・ルールの認識等を必要不可欠なものとして挙げている。また,この認識の深化のた あに次の方法を用いている。

ひとっは,体の機能の直視である。様々な体の働きの学習の中で常に,からだをみっあさせ認識を高 ある努力を払っている。「人間の手は実はすばらしい生産の用具なのだ。このすばらしい道具にしっか りと握られた鉄棒これにっながって,全身体で受ける感覚,それから大脳中枢における反射運動,こ うして認識と思考の反復こそ,鉄棒で正しく教えることのできるものである。」

ふたつあは,「生きた直感」をつづることである。生きた直感や「五感の正しい反射」と呼ぶ素朴な 疑問や感動,っまり感性的認識から生活変革の理論的,知的認識への到達の方法としてっつる方法を用 いたことである。これは,「身体の技術の方法とともに,内的なものへの柔軟性→子どもたちの気持を 外に出す」ものであり「心をやわらげ,体をほぐしていく」心身両面の解放をねらったものである。

第三は,「なぜな学習」「確かめる学習」による身体形成。「なぜな(なぜ)学習」は,q)どんなこ

とを行なったか,(2)どんなことがおこったか,(3)なぜそうなったか,(4)では,どのようにしようか,(5)

そのためにもっと良い方法は何か,というように,ものの見っけだし方ものの感じ方,考え方への展

開の中で事雲を探求し,創造力を培い,さらに,実践の中で「確かめる学習」へとっながり,現実に鋭

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16      茨城大学教育学部教育研究所紀要第22号(1990)

く切りこむリアリズムの教育を要求するものである。

四番目は,遊びの中の自主性,科学性の発見である。 「私は,子供の作り出したあそびの中に子供の 体の創造につながる人間の創造ということを考えなければならぬと思うのです。」

生活体育論の検討の今日的意義

本稿の目的は,戦後初期に展開された「生活体育論」を再び検討することによって,今日の「生活科」

を内容とする教育の再編の動向に,ひとっの問題提起を行なうことにあった。とはいえ,今回の低学年

「社会科」の解体ともいうべき「生活科」の導入の背景と戦前の軍国主義教育の払拭を前提とし,アメ リカの教育政策の影響下, 「民主主義」を志向した新教育を短絡的に結びつけたり,対比することは,

極めて乱暴な見方であろう。しかし,戦後教育のシンボルともいうべき「社会科」の解体によって,子 供の社会科学的認識の形成をどうするのか,また科学的,学問体系に根づかない,どちらかといえば方 法概念である「生活」を,いかにして教えていくのか,という疑問が生じる。そして,このことこそ,

戦後教育史上,新教育のプラグマチズム批判として,すでに決着がっいた問題ではなかったのか,とさ え思えるのである。しかし,今日あらためて教育と生活の関係がクローズアップされ,そこで,「生活 と教育の結合」をめざし,新教育の克服のために実践をっみあげていった先人の努力を教訓化する必要 があるであろう。

前述したように体育の生活化を求めた生活体育の展開は,主として前川峯雄らの経験主義体育に収 束していった。そして,科学の系統性を主張する論者や民族教育の立場からも,やがて批判を受けてい

く結果となったが,特に,中森孜郎の指摘は,今日の状況に鋭くコミットするものとして注目される。

「新教育論者たちの主張する体育は,徹底した個人中心主義,児童中心主義,生活至上主義の立場に 立っもので,体育の目標目的は,本来的には個人のものである,として個々の子供の現在の生活にお ける身体活動の要求や興味や要望を充足させることに指導の第一原理をおき,教材の系統的指導を排し た。……新体育の主張のあらすじを追ってくると,体育の目的は,子供の現在の遊びとスポーツの生活 そのものにあり,余暇善用のための体育という,アメリカ的な実用主義に陥らないわけにはいかないし,

また,体育が民主的人間関係を育てるための単なる手段とならないわけにはいかない。つまり,そこに は身体とその能力の発達をはかる,身体の教育という基本的観点や,労働への準備という観点が全く欠 如している。……また科学的思考と子供の欲求を背反的な関係において捉えたところに新体育を子供の 欲求が質的に高め育てられるべきものと考えず,生物学的な次元でしか捉えられなかった弱点をあらわ

      18)

ノ示している。」

最初に述べたように,今日の「楽しい体育」は,運動の意欲を喪失した現代の子供たちに対し,様々

な動機づけで運動欲求を掘りおこす工夫を教師たちに求めているが,ともすれば,子供の本能的な欲求

を充すことに迎合している感がある。また,個人の欲求と集団が対立的な,あるいは便宜的な関係とな

っており,その意味においても,プラグマチックな運動観や生活観を,子供の認識の変革を通して,克

服していこうとした佐々木賢太郎の「生活体育」の実践は,今日的な意義を有しているといえる。

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引 用 文 献

1),2)中森孜郎「体育教科の本質と課題」 r現代教育学』14(岩波書店,1962),p.180 3)昭和28年度「小学校学習指導要領体育科篇」

4)国分一太郎「女教師への手紙」 r生活学校』 (1946)

5)城戸幡太郎「生活教育とコミュニティ・スクール」r教育』(1948)

6)J.デューイr学校と社会』(宮原誠一訳) (岩波書店,1957)

7)梅沢悟「生活教育と体育」r学校体育』(1948)pp.1Hα

8),9)岡津守彦編r教育課程各論』7(東京大学出版会,1969)p。440 10)前川峯雄「生活体育の立場」r学校体育』(1950)pp.8−12.

11)佐々木賢太郎r体育の子』 (新評論1956)

12),13)中森孜郎「国民のための保健体育の創造」 r教育』(1971)pp.48−49.

14)小関太郎r教育』(1954)pp.29.

15)教育科学研究会第一回大会岩手集会報告 16)城丸章夫「国民教育の課題」r教育』(1965)

17)川口智久ほか「体育にどうとりくむか」r生活教育』(1961)

18)中森孜郎「体育教科の本質と課題」pp.180−181.

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