16
章 原爆被爆者の精神的健康増進 と大学中根 允 文 、 今村 芳博 、 本 田 純 久 、 吉 武 和 康
1
節 原爆被爆者 をめぐる精神医学的問題1
.原爆被爆者 とライフサイクル第二次大戦末期 に相次いで投下 された原子爆弾 は、広島 ・長崎両市 を一瞬に して壊滅 にいた らしめた。多 くの被爆者 は肉親や親 しい人を失い、 自らも傷つ き、地域共同体 も崩壊 した。被爆 当時思春期、青年期 にあった彼 らの中には、
そ うした根元的な破壊 と喪失体験 か ら、それ まで獲得 して きたアイデ ンテ ィテ ィの喪失がおこった人 も多かった。そ こか らの身体的回復や都市の復興は、苦 難の道の りではあったが、一面ではその過程で個人の自己同一性再確立、家族 の再構築や地域共同体の再編成がなされた。
そ して現在、原子爆弾投下か ら半世紀以上 を過 ぎ、被爆者の平均年齢は
6 0
才 を越 え、身体的に も社会的に も大 きな変化 を迎 えつつある1)。原爆被爆が心的 外傷体験 となった人 も、そ うでない人に とって も、戦前戟後の足跡 を振 り返 り、今一度 自身のアイデ ンテ ィティや人生の意義 を確認す る時期にいたったと言 え よう。 そ して老化 による身体的変調や、子供の 自立 など家族成員の変化、退職 な ど社会的役割の変化 は、新 たな喪失体験 をもた らす。そのため原爆被爆者 は、
再び大 きなス トレス因に暴露 されつつあ り、 メンタルヘルス ・ケアのニーズが 高 まっている。
2
.精神的健康 に対す る意識悪性腫癌や白血病 をは じめ として、原爆が直接身体 に及ぼす影響 については これ まで多 くの調査 ・研究がなされ、一定の知見が得 られつつあ り、それに基 づいて医療福祉サー ビスの充実がはか られているのに対 して、原爆の精神的 ・ 心理的側面‑の影響 についての調査 はこれ まで数件行われただけで、系統だっ た もの とはな りえず、結果的に原爆被爆者のメ ンタルヘルス ・サー ビスの具体 的方策 も定 まらなかった。そ うした状況は、原爆や被爆者 をめ ぐる社会情勢の
‑2 01‑
の低 さも大 きな要因であった。近年、災害精神医学や、流行語 とまでなった外 傷後ス トレス症候群 ‑(PTSD)の概念の一般への浸透によって、大災害の被災 者 に対する 「こころのケア」の重要性が社会的に認知 されるようになった2)3)0
さらに海外 においては、チェルノブイリ原発事故 をはじ吟とする放射線災害被 災者への対応 などの要請か ら、 日本の被爆者の精神的健康について関心が よせ られるようになった。 このため、長崎大学医学部精神神経科学教室では、世界 保健機関
( Wor l dHea l t h. Or gani z a t i on)の研究協力機関 として、当事国の医
療者の研修 を受け入れ、指導的な役割 を負 うようになった。 まを当教華恥 ノ災 害精神医学の重要性 に早 くか ら注 目し、1 98 2
年の長崎大水害や19 91
年の雲仙普 賢岳災害の被災住民の精神的健康調査 と対応 を実施 して きた4)。被爆50周年を 迎える,にあた り、こうした経験 をもとに、原爆被爆が地域住民へ及ぼす心理社 会申 ・精神的影響 に?いて客観的に評価 し、今後の精神保健上の指針 となるよう
、1 99 4
年か ら約3
年間にわた り原爆被爆者のメンタルヘルス調査 を実施 して きた5).I本稿では、 これ までの調査 をふ りかえ りなが ら、一当大学 と協力機関によづ ,で 行われた被爆者の精神保健調査 を紹介する。
.2
節 これまでの被爆者に対する精神保健調査1.一被爆直後か ら数ヵ月間の精神的影響 に関す る調査 ‑
爆心地か ら数百メー トルの近距離にあった当時の長崎医科大学は壊滅的破壊 を受けたため、被爆者 に対する最初の精神医学的調査6)は、九州大学の奥村 ら によって行われた (表
1)
。 彼 らが実施 した1945
年末の調査時点 というのは急 性期原爆症が収束に向か う時期であった。内容は被爆3
ケ月後に当時の国立大 村病院入院中であった192
名中50名 を無作為 に選び、病歴 をもとに精神神経症 状の推移 を調査 したものであった。1被災直後か ら2 ・3週間の早期 には、対象 者の多 くがいわゆる原爆症の一般放射線症状 を呈 していた。被爆の体顔が破局 的なものであることか ら、極端 な心因反応性の異常 ・(反応性精神病、、驚博神経 症等) を里す る者が予想 されていたが、・そ うした場面 に遭遇 した者はすでに死‑2 0 2‑
1 6
章 原爆 被爆 者 の精神 的健康増 進 と大学表
1 被爆後
3カ月以内の精神神経症状の推移 ( 人)
症 状/期間 早期 中期 後期
祁削棚柳臓馴弼脚馴欄欄航舶瑚鵬蛸 心意視qrtL 綿肺的感舶相場離村亀.L等 進失 0
3 5
17 4 1 7 1 6 1 3 5 14
15 9 5 5 1 2 7 4
14 5 2
413944171
12早期 :被爆後2‑3週 中期 :被爆後1カ月
後期 :
1945
年1 0
月以降 (被爆後2
カ月以降)(奥村 ら
、1 949
、著者改変)亡 していたせ いか、 ほ とん ど出会 うこ とな く、正確 な状 況 は把握で きなか った とされている
。この対象者 の うち明 らか な情緒昏迷 を来 した者が 3 例 に認 め ら れた。 また小児 に起立お よび葡旬運動不能の一例 を認めている。 1 ケ月後 にな る と身体 的回復 が得 られ るにつれ、「 頭痛 ・頭重
」「 心惇 克進
」「 耳鳴
」「 不定愁 訴
」「 抑 うつ感情
」「集 中困難
」「 焦燥 感」 とい った古典 的 に言 われ る神経衰弱 状態 の症状へ シフ トした 。2 ケ月以降は幾分 それ らの症状 が鎮静化 した ものの、
「 頭痛 ・頭重
」「 心惇 克進
」「 不定愁訴」 な どの症状 は残存 している
。この ように主 に身体 にあ らわれ る症状 は長期 間残存 し、それ 自体が ス トレッ サ ‑ とな り、被爆者 を苦 しめていた と考 え られ る。
1 203‑
前述の ように被爆 による身体お よび社会的な喪失体験 は、長期 間に渡 って被 爆者の精神的ス トレス因 となった。 こうした状況 は、
・ケロイ下受傷、悪性疾患雁息への不安 な ど身体 的要因
・胎内被爆小頭症児 とその家族の苦悩、遺伝への不安
・後障害 による生活 ・労働能力低下お よび医療費増大 に よる経済的困窮
・肉親の死亡、家屋 の喪失 な どによる家族解体、原爆孤児、原爆孤老の問題
・生 き残 った事での孤独 ・絶望 . ・罪悪感
・非被爆者か らの差別
表 2 原子爆弾被 災者の精神医学的調査
群 (n) I群
( 4, 269)
n群( 3, 028)
捻計( 7, 287)
神軽症堆疾患者
415( 9. 7%) 11 8( 3. 9%) 533( 7. 3%)
神経症類型
神経衰覇
93. 0%
不安神軽症
3. 9
反応性抑うつ 1. 2
ヒステリー1. 0
強迫神軽症
0. 5
器官神軽症
0. 5
% 2 . 8 8 8 8
43 . 0 0 0 0 3 9 ■◆ 1 . 2 . 1 9 6 1 3 . 3 1 0 0 1 . 9
主症状
感情刺激性
物忘れ 不眠 根気な し
短気 取 り越 し苦労
、憂曹 涙もろい
音、光に敏感
不安
誓 5‑ ・ 。 3‑ ・ 9 34 ・ 9 3‑ ・ 2 2‑ ・ 5 慧 ー 慧 馴 31
・。24 ・ 6 霊 16
・ー完
I群 :被爆ii役に原爆症の症状を皇t.,た群 Il群 :同時期に度爆丘の症状を蓋 しなかった群
‑ 2 04‑
(仁志
川、築城ら 、1 961 、改変)
1 6
章 原爆被爆者の精神 的健康増進 と大学等の生活基盤の脆弱性や重大 な心理社会的影響 により加速 され、た とえ身体的 回復、生活上の復興がなされて も、再 び生活の破綻 ・心理的喪失 を繰 り返 して いった といわれる7)0
この時期の精神的健康調査が
1 9 5 6
年 に行 われている8)。表2
は長崎大学の仁 志川 らの報告で、当時の被爆者検診受診者7,287名 につ いて、被爆直後 に原爆 症 を認めた群 と認めなかった群の神経症的症状 を比較 している。 前者で9.7%、
後者で3.
9%、全体で7 . 3%が神経症 と診断 されている
。 診断基準 と分類法の違 いか ら現在 この結果 をその まま適用す ることはで きず、 また当時の神経症の一 般人口に対す る頻度が不明であるが、その症候の様相 はある程度推測可能であ る。 特徴 的なのは、前記 した1 9 4 5
年の調査結果 と同様 もしくはそれ以上に、神 経衰弱状態 とされる症状が多 く見 られた とい うことである。こうした神経症的症状 をもつ一部の被爆者 には脳波異常 を認め、被爆 による 脳器質的障害の可能性 も示唆 された9)が、その後の調査 は衰退 し、行政的 ・組 織 的な対応 も行われていなかった。
3
節 現在の被爆者の精神健康状態1.被爆者検診受診者の精神保健調査
今 日、被爆者は高齢化 による新 たな身体的 ・社会的環境の変化 にさらされつ つある。 こうした状況 に鑑み、当教室では、長崎大学医学部原爆後障害研究施 設内科、長崎原爆対策協議会 との共同研究 として、被爆者検診受診者 を対象 と した精神保健調査 を
3
年間にわたって実施 して きた。以下 にその概要 と結果の 一部 を紹介す る。1 9 9 4
年1
0月か ら1 9 9 6
年8
月までに、長崎原爆健康管理セ ンターで被爆者検診 を受診 した長崎市在住の被爆者お よび被爆二世の うち同意の得 られた者 を対象 と した。対象者の抽 出は二段 階法 を採用 し、Gol dber g
が開発 した全般健康調 査表( GHQ‑ 1 2)
を行い、その得点分布 によ り二次調査対象者 を選 出 した。二 次調査 は、GHQ‑3 0
お よびWHOによる統合 国際診断面接( CI D
I) を実施 した。そ の後 、 三次 調査 と して精神 科 医 の面接 に よる精 神 科 的臨床 診 断
( I CD
‑1 0/DCR)
が付 された。被爆二世 に対 しては、第一次調査のみ実施 した。‑ 205‑
そのうち二次、三次調査 とも完遂で きた対象者は2
2 6
名であった。GHQ‑1 2
にお いては、12
点満点中4
点以上の高得点者には、精神的問題を持つ可能性が高い とされている。一次調査では、7,67 0
人の対象者中、9.3%
が高得点 を占めてい%
G H Q e !'項 目 得 点
H8 6 4 2 0 ■ ■ ■ ● 0 0 0 0
〜2. 0km 2. 1‑3. 0km 3. 1‑km
p<0.01(男:p=0.15
,女 :
p<0.05) 図1
被爆距離別GHQl 12
項 目得点高
得 点 者 割
合因2
01
18 6
42. 0
た。図
1
は、GHQl1 2
の高得点者割合 と・平均得点 を示す。被爆距離別にこの得 点 を比較すると、近距離被爆群の方が平均得点が高 く、高得点者の頻度 も多か った。 この結果は、爆心地 に近いほど被爆者の身体的 ・社会的喪失の程度が重 篤であった事 を浮彫 にしているもの と考えられる。二次面接対象者251名の うち
84
名 に、何 らかの精神科診断が兄いだされた。全般性不安障害や身体表現性障害 といった神経症圏の疾患が多 く、あわせて約
2
割 を占めていた。気分障害の うつ病圏が約1
割でそれに次いだ。226
名の三次面接者の うち、約4
割 にあたる97
名に診断が付 された。気分障 害は13. 7 %
み られ、軽症か ら中等症 うつ病が多かった。神経症圏は23 . 9 %にみ ら
れ、身体表現性障害が多かった。これ ら二次、三次面接の結果か ら、サ ンプリングの方法を逆算 して一次面接
‑2 0 6‑
1 6
章 原爆被爆者 の精神 的健康増進 と大学対象者 における精神障害の有病率 を推定する と、約1
1 . 6 %か ら 1 9. 6%と推定 され
る。 一般人口における全ての精神障害の有病率 を調査 した報告 はないが、 この 値 は一般 よりやや高い数値である と考え られる。 また、神経症圏の症状が多い とい う結果は、仁志川 らの調査で報告 されているような、神経衰弱様の訴え と の共通性 を感 じさせ る。 す なわち被爆者 は被爆後数十年 を経過 した今 も、「疲 れやすい」「体調がす ぐれない」 な どの不定愁訴や不安、不眠な どに悩 まされ 続 けているようだ。2
.被爆時の状況 と現在の精神健康状態 との関連1 997
年8
月に 自記式質問紙 を上記対象者 (一部 の重複事例 を除 く7, 591
名) に郵送 し、被爆時の状況や、被爆か ら調査時点 までの社会経済因子、生活習慣 を調査 した。その結果、4,890
名か らの回答が得 られた。原爆 で肉親 ・知人 を 亡 くした人、2km以内の近距離被爆者、被爆直後 に身体 的急性期症状がみ ら
れた人、 これ まで被爆 の後遺症 と考 え られる症状が見 られた人な どに、GHQ‑
1 2
が高得点であった。この ように、原爆被爆か ら半世紀 を経て もなお、その心的外傷体験や被爆着 をめ ぐる社会的因子が、被災者の精神的健康 に影響 を及ぼ している可能性が示 された。
4
節 調査結果の被爆者への還元い うまで もな く、医療研究においては調査対象者へのインフォーム ド・コン セ ン トとプライバ シーの保護、結果 ・情報の対象者への還元、調査結果 をふ ま えた各種 医療サー ビスの改善 と提供がなされるべ きである。 当教室 と共同研究 施設では、調査結果 を対象 となった被爆者‑報告す ることと、 メンタルヘルス についての意識啓発の 目的で1
9 97
年10
月か ら3
回にわたって 「こころの健康」と題 して講演会 を開催 し、多数の被爆者の参加 をいただいた。 さらにマスコ ミ への広報 を行 うとともに、長崎県 との共同事業 として精神保健パ ンフ レッ ト10) を作成 し、長崎県内の被爆者83,
340
名に配布 した。19 98
年度か らは個別の精神 保健相談実施 を計画 している。 こうした調査対象者のみな らず、全被爆者 に対‑207 ‑
政に働 きかけてい くことも必要であろう
。参考文献
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ors in H irosh im a an d N ag asak i. T h e m ed ic a l ba s i s f
orr adi a t i o na c c i de ntp
rep ar ed n ess.E Isevi er,A m sterd am ,3: 15 5 63.,1 9 91 .
‑ 208 ‑