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「グリーン・ノウ物語」シリーズ :

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(1)

L M ・ボストン

「グリーン・ノウ物語」シリーズ :

文学ジャンルのパッチワーク*

キャサリン・バトラー著 田中美保子・香川由紀子(共訳)

シリーズ作品を書くことには様々な難しさがある。とりわけボストンの

「グリーン・ノウ物語」(“

Green Knowe

books

)シリーズのように、最初か ら計画されていたわけではなく、成功したため、もともとは独立した作品か らシリーズになったものはなおさらである。おそらく最もやっかいな問題 は、続編に前作との同一性と相違性という二つの相反するものが求められる ことをどう乗り越えるかであろう。シリーズの新作を手にとる読者は、ある 程度それが信頼できる「ブランド」作品であるため、そう思いがちである。

つまり読者は(『グリーン・ノウの煙突』(

The Chimneys of Green Knowe

1958

))の冒頭のトーリーのように)「まえとちがってしまっているのでは ないかしらと思って、不安でならな(い)」(亀井『煙突』

p. 6

)。一方、作者 は、自分も読者も飽きないように、パターン化するのを避ける道を探る。批 評家のベティーナ・クマリング=マイバウアーは「物語が反復される楽しさ は、設定やプロット、ジャンルの型の小さな変更から主要人物の性格設定に 至るまで、種々の変化によって補完される」と述べている(

Kümmerling-

Meibauer p. 171

)。本稿ではこの問題を「グリーン・ノウ」シリーズに照ら

*

訳者註: 本稿は、

Catherine Butler

著 “

The Green Knowe Books

̶

A Patchwork of

Genres

を翻訳したものである。原文は、科学研究費による基盤研究(

C

)「

Lucy

M. Boston

研究: 聴覚的感性と自然環境保護意識」プロジェクト(

2016–2018

の一環として、研究代表者の田中美保子が協力者の

Catherine Butler

氏に依頼 し、書き起こされた論文である。

(2)

して考えたい。特にシリーズを通して見られるジャンルの変遷をたどること により、ボストンの多才さと今まで明らかにされてこなかった技巧の様相を 浮き彫りにしたい。

* * *

ボストンは「グリーン・ノウ物語」で、シリーズであると意識させ続ける 多くの方法をつくり上げた。シリーズとしての同一性の要となるのは無論、

6

作品の舞台でありタイトルにもなっている館である。単なる舞台という以 上に、シリーズを通して様々な形で繰り返し現れる不安に対する心の拠り 所、という役を務める。グリーン・ノウはいくつもの歴史をその中に抱く場 所として描かれる。いわば時の貯蔵庫であり、物語と登場人物がほとんど自 由にその中を行き来することができる。グリーン・ノウは一族の名前である オールドノウと同義であり、世間から見捨てられ拒絶された者たちをかくま う箱舟である。それは激しい悪意や心ない侵入、共感できない時代の「改 良」精神といった、絶え間ない脅威の背景にあるものには抗いつつも、記憶 は保持し続けている。繰り返し登場する人物もいる。主には

6

作品中

5

品に登場するオールドノウ夫人だが、主要な役割を

4

作品で果たすトー リーと

3

作品で果たすピンもだ。他にも大勢が姿を現すか、もしくは、回想 や昔話、会話を通じて繰り返し登場する。例えば、『グリーン・ノウの川』

The River at Green Knowe

1959

))の主要人物の一人、アイダ・ビギンは次 作『グリーン・ノウのお客さま』(

The Stranger at Green Knowe

1961

))に 登場はしないが、彼女がピンとオールドノウ夫人に手紙を書いたことが描か れる。物語は夫人がアイダを招待する手紙を書く場面で締めくくられ、彼女 が近々現れることを示唆している。このような示唆的な「 鎖チェーン スティッチ 」がこ のシリーズにはよくみられる(「グリーン・ノウ物語」ならば、手芸のメタ ファーは避けられまい)。人物だけでなく物や場所を再登場させることで、

シリーズの世界の緊密さと堅固さが強調される。

(3)

* * *

設定、テーマ、登場人物という点で「グリーン・ノウ物語」の同一性を維 持しながら、ボストンが変化を取り入れていることも同等に重要な点であ る。シリーズ全

6

作全てに登場する人物はいない――実は『川』1には前作か ら引き続き登場する人物は一人もいないのだ。先にも述べたように、グリー ン・ノウが常に主要な舞台に据えられているが、作品が焦点をあてる所は、

その土地の中や周辺にある特定の場所、すなわち、館、川、庭、トーズラン ドの茂み、もつれ島へと移り変わる。そのほかに時間にも変化が取り入れら れている。言うまでもなく、作品は館の歴史上の様々な時代、主として現 代、

17

世紀後半と

18

世紀、そしてロジャー・ドルノーのいたノルマン征服 後の時代(他の時代もちらりと出てくるが。おそらく中石器時代までさかの ぼる)2と関わる。季節の変化も特徴の一つで、第

5

作までで、冬(『子ども たち』(

The Children of Green Knowe

1954

)))春(『煙突』)、夏(『川』

『お客さま』)、初秋(『魔女』

An Enemy at Green Knowe

1964

)))を辿るが、

ノルマンの少年ロジャー・ドルノーの視点で語られる最後の作品『石』(

The Stones of Green Knowe

1976

))では、

1

年かけて館が建てられるのに合わせ て、この季節の巡りが反復されている。さらに、巻が進むと描写される現代 の時も作品ごとに先へ進む。ボストンは概して年齢を明確に書かない(明確 に書く場合も一貫性がない)3が、『子どもたち』でグリーン・ノウに辿り着 いた小さな子どものトーリーと比べて、その後の作品で「もっと小さいこ ろ、ときどきここがこわくなったことがある」(亀井『魔女』

p. 139

)と書か

1簡潔にするためにタイトルを省略する。

2『川』に登場する牡鹿の角をつけた狩人のイメージは、

1948

年にヨークシャーの スターカーで発掘が開始された中石器時代の遺跡に発想を得たのではないかとロ ナルド・ハットン教授に助言をいただいた。

3例えばトーリーは『子どもたち』では

7

歳と書かれている(「トーリーは、まだ 七つだった」(

p. 38

))が、『煙突』ではその数か月後の設定なのに既に

9

(「トーリーは、まだほんの九歳なのだ」(

p. 29

))になっている。

(4)

れる少年トーリーは、自信をつけただけでなく年齢にも重要な変化が明確に ある。

* * *

前作から引き継がれるものと変化するものを一つずつ挙げていけば大変な 長さになるが、ここで私は「グリーン・ノウ物語」シリーズを一本につな ぎ、同時に差別化する軸となるもの、つまりジャンルに注目したい。一連の 作品は、ゴーストストーリー、タイムスリップストーリー、島巡りの冒険も の、動物もの、黒魔術もの、タイムトラベルストーリーにまで及ぶ見事な ジャンルの幅の広さを見せる。これらのジャンルが重なり合い、引き出し合 う方法がある。まさに物語が重なり合い、登場人物や場所や物や出来事を引 き出し合うのと同様である。にもかかわらずそれらには全て異なる伝統的手 法と文学上の先例があり、様々な読み方を導き出す。以下では、ジャンルに おけるボストンの試みについて関連している幾つかの側面を探りたい。まず 読者(さらに登場人物)をひきつける方法として、ジャンルの曖昧さと不確 定さを用いている点について検討しよう。

* * *

幻想文学を読むうえでの「ためらい」の機能を述べた構造主義者の批評家 ツヴェタン・トドロフの研究はよく知られているが、ボストンの作品が、ト ドロフの述べる手法の非常に明確な例を備えているという理由だけでも、

「グリーン・ノウ物語」について詳述する価値はあるだろう。トドロフによ れば、幻想文学において「幻想」が機能するには特定の条件を要する。

まず、テクストは、登場人物の世界を実際の世界のように読者に考え させ、かつ、描かれる出来事の自然的な説明と超自然的な説明とのはざ まで読者にためらいを抱かせるものでなくてはならない。次に、このた めらいは登場人物も抱いている。したがって読者の役割はいわば登場人

(5)

物に委ねられ、ためらいが示されると同時に、それが作品のテーマの一 つになる――ただ単純な読み方をしている場合には、読者は登場人物を 自分と同一視する。第三に、読者はテクストに関して確固たる態度をと る。寓意的解釈も「詩的」な解釈もはねつけることだろう。

Todorov p. 33

『子どもたち』の読者は、たいていトーリーと共にグリーン・ノウとその住 人達に引き会わされ、トーリーの視点で読むように導かれる。トーリーに とって、また読者にとって、自分が見たことは本当に超自然的なものなのか という疑問はしばし疑わしく確信の持てない問題となる。「しかし少年には、

ひいおばあさんが、ほかの子たちがいるふりをする遊びを、じぶんとしてく れているのか、それともほんとに子どもたちがいると、じぶんとおなじよう に信じているのか、どちらだかよくわからなかった」(亀井『子どもたち』

p.

77

)。トドロフによれば、このためらいは、物語を

2

種類のジャンルの方向 性、すなわち、彼のいう怪奇(不思議な出来事に最終的に自然なこととして の説明がつく)か、驚異(超自然的なことを現実として認める)のうちのど ちらかの形をとって解消されていく。「怪奇」的に解消される手法は、トー リー(と読者たち)を冷やかしてなんとかして作品に引き込むのに用いられ る。例えばトーリーが幽霊馬フェステのために砂糖を置いてくる場面がある。

「おばあちゃん、フェステの馬小屋においといた角砂糖がね、二回も なくなっちゃったよ」

「きっとボギスがもらって、お茶に入れたのよ」と、おばあさんは 笑っていった。

トーリーの顔はくもった。いままで、そんなつまらない、ありきたり なことは頭にうかばなかったので、がっかりしてしまったのだ。

(亀井『子どもたち』

p. 102

(6)

時にはストーリーが「違う種類」の驚異物語に変わるおそれもある。超自 然的なものが温和でなくぞっとするものであるゴーストストーリーで、トー リーが本の上にすわりこみリネットが下からそれをひっぱろうとしているの を感じるときがそうである。「ふいにトーリーはこわくなって、とびあがる と、階段をかけおり、たよりになるひいおばあさんのいるところへとびこん でいった」(亀井『子どもたち』

p. 125

)。『子どもたち』のすばらしさの一つ は、物語の進行につれ主人公が次第に状況を理解していくのを、控えめに、

精妙に表現している点である(この点については、おとなの語り手が、見え ない子どものいる家を訪れるラドヤード・キプリングの短編「彼等」(“

They

1904

))が対比して想起される)。主人公が好奇心と答えを急ぎ過ぎない賢 さを合わせもつことに加えて、頃合いを間違えずやさしく語って聞かせるこ とがきわめて重要な要素となる。ここでは、オールドノウ夫人は何も訊かず に昼食を作ってやることでトーリーの怯えに応える。超自然的物語ではしば しばそうであるが、控え目であることがより多くを物語る。

* * *

リネットがトーリーをからかっているとすれば、それはボストンが読者を からかっているのである。語り手が主人公越しに「けれどもトーリーは、ま だ七つだったから、『ずっとまえ』といっても、七年よりもっとまえのこと だということしかわからなかった」(亀井『子どもたち』

p. 38

)と言うとき、

読者はトーリーよりも視野が広いとされている。そしておそらく世の中を もっと知っていると捉えられているために、トーリーよりも先に館の秘密に 触れることを許されるのだ。

ベッドにはいると、トーリーはパジャマのポケットにネズミを入れ て、なでながら、いった。

「ネズミ、ネズミ、生きものになれ。ネズミ、ネズミ、魔法にかかれ」

ネズミは、ポケットの中でぴくっとうごくと、チュウチュウ鳴いて、

(7)

ポケットからはいだし、トーリーの首すじをかけあがり、耳もとをくぐ りぬけ、しっぽでほおをたたいた。けれども、トーリーはもうねむりこ んでいた。 (亀井『子どもたち』

pp. 163–64

この場面はトーリーに彼の求める確信を与えるかに見える。しかし、トー リーはどんな反応をするだろうか、と待ち構えている読者をからかうように、

トーリーが何も気づいていないことが最後の文で明らかになる。読者は疑い ようのない館の魔法を目撃しても何も言えず、困惑したまま取り残される。

* * *

『子どもたち』では最終的に館の幽霊の存在が明らかになったため、後の 作品ではためらいに関して同じ方法に頼ることができなくなっている。これ が作品のジャンルの幅の拡張を誘発する要因の一つなのだろう。ボストン は、トドロフ的ためらいを組み込んだ第

1

巻の状況をまるごと復元する「再 設定」という立場をとらない。しかし、部分的にはこのすぐれた仕掛けを後 の多くの場面で再び用いている。『煙突』は、トーリーが「ひいおばあちゃ んは、ぼくがまだ小さいので、いっしょになって信じているふりをして、遊 んでくれただけなのかしら?」(亀井『煙突』

p. 7

)と心配するところから始 まる。例えば、後に、オールドノウ夫人は、館の昔の住人について語る話の 中にトーリー自身を加え、キルトのみでなく話にも刺繍をほどこすように脚 色を加えている印象を与える。物語の一角に自分の登場を認めたトーリーは 叫ぶ。「この話は、ぼくのことをいっているんだね!」「とんでもない!」

オールドノウ夫人は「からかうように」応じる(亀井『煙突』

p. 186

)。幽霊 や魔法は本物かもしれないが、現実か、巧みな物語に織り込まれた即興の労 作か、明確な境界線を見分けるのは難しい。また、『魔女』では、最初はメ ラニー・パワーズがオールドノウ夫人を惑わせるのに用いる方法が、ピンや トーリーが信じたように魔法なのか、オールドノウ夫人の最初の仮説どおり に催眠術なのかはっきりしない(亀井『魔女』

p. 115

)。催眠術と魔法の区

(8)

別の曖昧さは、文学上の描写によく見られる特徴であるが(

Butler 2005

)、

ここではある程度のためらいを生むために利用される。これは物語のジャン ルの型とも関連してくる。読んでいるのは、平気で悪事を働く単なる学者の 物語なのか、黒魔術の物語なのか。物語の結びで、メラニー・パワーズは

「主なる悪魔にも捨てられ」(亀井『魔女』

pp. 226–27

)、疑問は解消する。

* * *

ボストンの描く登場人物自身が表す幻想、恐怖、希望は、しばしばジャン ルに関連している。これらの感覚が呼び起こされるのはたいていグリーン・

ノウを初めて見たときだが、彼らの反応の多様さによって、そこにひそむ ジャンルの幅の広さが強調される。『子どもたち』のトーリーは、押し寄せ る水に当然のことながらノアの箱舟を思い浮かべるが、ひいおばあさんが魔 女だとしたらと考える余裕もある(亀井『子どもたち』

p. 18

)。確かに、

トーリーは自分をとりまく状況を理解するための手段として物語のジャンル の知識を使っており、「本で読むお城みたいに、この中でいろんなことが起 こる?」(亀井『子どもたち』

p. 25

)と尋ねる。『川』には冒頭に「グリム童 話に出てくるような」(亀井『川』

p. 8

)家という記述があるが、訪れた

3

の子どもはそれぞれ異なる視点で館を見つめている。ピンは仏教の道場、オ スカーは十字軍のお城、アイダはラプンツェルの塔、というように(亀井

『川』

p. 15

)。館がまだ建設中の『石』においてさえ、ノルマン人の少年ロ

ジャーは物語の可能性を巧みに操っている。「牢屋にはいったような気分に なったり、とても安全な場所にいる気持ちになったりした。なにをして遊ん でいるかによって、そのどちらにもなるのだった」(亀井『石』

p. 5

)。

* * *

「グリーン・ノウ」シリーズの物語は、常に現実との複雑な対話の中にあ る。現実が強い想像力による存在へと導かれることが繰り返し示唆される。

「おばあちゃんの話で変わっているのはね、そのこまごました話が、みんな

(9)

ずっとむかしのことばかりなのに、ちゃんといまほんとうになってしまうこ となんだ」(亀井『魔女』

p. 17

)。『川』でオスカーは、人生が想像したこと をなぞろうとすることに哲学的な支えを与えようとする。現実が人間の心の 力によって形を作られるもの、もしかしたら生み出されさえするものだとほ のめかすのだ。「ぼくのおとうさんがよくいってたけど、この世の中でほん とうのものはただ人間の考えだけなんだって。どんなものでも、だれかがそ れを考えなかったら、ぜんぜんないのとおなじなんだ。(中略)だから、も しピンがうたうさかながいるというのなら、なんとかして聞いてみようよ。

そう思わない?」(亀井『川』

p. 19

)それぞれの話は状況に応じて中心の人 びとの本質と要求を映し出す。トーリーは仲間との交流や家族を望み、グ リーン・ノウの家族の幽霊たちがそれに応える。『川』では追放された子ど もたちが島から島へと訪ねるうちに隔絶された存在に出会い、このことを

『お客さま』でオールドノウ夫人が次のようにふり返る。「ここに来る人ひと りひとりにいつもちがったことが起こる。ピンはあんなに遠いところから やって来るんだから、きっととても変わった冒険をひきおこすでしょう」(亀 井『お客さま』

p. 87

)。グリーン・ノウは人に何かを与え得る館なのだ。

* * *

このように共鳴しやすく柔軟性があるにもかかわらず、一つひとつの作品 が「基盤」となるジャンルを持っているのを確認することができる。それは 即興や混成によるものであるとしても、精巧に作られている。シリーズ第

1

巻の『子どもたち』は、ゴーストストーリーである。

17

世紀のオールドノ ウの記述が多く挿まれているにもかかわらず、中心となるストーリーは現代 から動かない。

17

世紀の子どもたちは自分たちがもう死んでいることを 知っている。オールドノウ夫人もどうしても言わなければならないときはた めらいながらその言葉を口にする(亀井『子どもたち』

p. 120

)。シリーズ に移行する『煙突』では、物語のジャンルがタイムスリップストーリーへと 一新している。菅谷(

2017

)が述べるように、物語の冒頭ちかくでオール

(10)

ドノウ夫人が過去の子どもたちを「幽霊(

ghost

)」と呼ぶのを避け、「ほか の人たち(

the others

)」と呼ぶことからジャンルが転換したことは明らかで ある。シリーズのあとの作品でも一貫して「ほかの人たち」が使われる。

ゴーストストーリーでは常に生ける者と死せる者の間は不均衡であり、した がって現在と過去も不均衡である。必ず現在が優位に扱われ、「幽霊」は、

全てをひっくるめた「ほかの人たち」ではなく「異なる時代の人(

the Oth- er

)」とはっきり位置づけられる。これとは対照的にタイムスリップファン タジーでは、異なる時代の子どもたちが各々の時代の観点ではみな生きてい る。物語中で

18

世紀を生きるスーザンとジェイコブがトーリーにとって

「ほかの人たち」であるなら、無論トーリーも彼らにとってそうである。こ の文脈でオールドノウ夫人は、様々な時代の人たちの声がテープに録れるか もしれないと思い巡らせ、館では全ての時代が同時に存在する必要があるこ とを示唆する。「みんなが、いちどに、がやがやいいだすかもしれない。め ずらしい『歴史的パーティー』になるわ」(亀井『煙突』

p. 292

)。

* * *

ゴーストストーリーからタイムスリップファンタジーへの移行はある程度 の物語と形而上の「目くらまし」が必要で、「グリーン・ノウ物語」シリー ズの時間の帳尻を合わせようと批判的に読むと、理屈っぽくなり、異なる種 類のジャンルの素材を縫い合わせるボストンの手腕が見失われてしまう

Cameron, Buckalew

)。こうしたジャンル変遷はまた、戦後児童文学がジャ

ンルの方向性の多様化に敏感であったことを示す。最も初期のタイムスリッ プファンタジーの古典アリソン・アトリーの『時の旅人』(

A Traveller in

Time

1939

))は

20

年以上も前に出版されているが、『煙突』は(同じ年に

出版されたフィリッパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』(

Tom

ʼ

s Midnight

Garden

1958

))と共に)、このジャンルとしてのタイムスリップストーリー

の流行が続く時代の初めのひと針目となった。この要因の一つは、現在とい う時代の冴えない貧しさや「現代人」の自然に対する残虐さの代わりに、理

(11)

想化された過去たちが現れるタイムスリップものの度量の大きさにあったと 言えようが、これについては後述する。作品を歴史、場所、自己啓発への関 心と結びつけた結果、タイムスリップストーリーはこの時代の本に対する批 評にも応え得るようになった(

Carpenter pp. 217–18

)。彼らの魔法はしばし ば主人公の感情のあり方(孤独、悲しみ、憧れが典型的)や舞台の性質に触 発されるが、魔法や古い昔であることのために、時間がほつれ、曲がってし まう。タイムスリップストーリーは伝統的なゴーストストーリーより柔軟性 のあるジャンルで、物語の可能性や入り口がいくつもある。形而上学的な難 解な言葉は必要ない。「グリーン・ノウ」シリーズにおいてタイムスリップ は、スーザンが最後の作品で口にしているように、天候と同じくらい自分で は決められない必然のものである。「とてもあてにならないの。雨のしずく が、あなたの顔に当たるか、当たらないか、といったようなものよ。運しだ いなのね」(亀井『石』

p. 114

)。

* * *

『煙突』は、『子どもたち』でも使われた構造を用いている。現代の物語の 中に、オールドノウ夫人によって語られる館の昔の住人の話が散りばめられ ており、彼らにつながるものをトーリーが見つけるとそこから話が進められ ていく。前作のパッチワーク的性質が、この第

2

巻では実体をもって現れて いる。オールドノウ夫人は古いキルトを繕うのに用いる布に、一族の一人ひ とりが身に着けていたものを用いているからだ。しかし、『煙突』では、ま た別の動機によって、トーリーは次々に一族ゆかりのものを発見していく。

それによりこの作品は、他の人気のあるジャンル、宝探し譚に位置づけられ ることになる。具体的に言えば、一族の失われた財産を探すタイプの宝探し 譚である。消えたオールドノウの財産の話を聞いて、トーリーはこの手の ジャンルにつきものの遊びを現実のものにしてしまう(その逆もある)。

トービーとアレクサンダーとリネットの絵をおばあさんが売って、ふたりの 存在を館から消してしまう結末にならないように、「探偵になって、どこか

(12)

にかくれているはずの宝石をさが(す)」(亀井『煙突』

p. 32

)。

* * *

このような試みは「グリーン・ノウ」以前の児童文学にも見られる。中で も、消えた一族の財宝がエルフリダとエドレッド姉弟を駆り立てるイーディ ス・ネズビットの早期のタイムトラベルストーリー、『アーデン城の宝物』

The House of Arden

1908

))は傑出している。アーデン家は、幼い主人公 たちの叔母が部屋を間貸しせざるを得ないほど落ちぶれてしまったが、タイ ムトラベルによって、それを立て直す財宝を歴史を超えて探しに行くことが 可能になる。より馴染みのあるものとしては、『煙突』の

3

年前に出版され、

グリーン・ノウを流れる川の支流の一つを舞台とするフィリッパ・ピアスの 処女作『ハヤ号セイ川をいく』(

Minnow on the Say

1955

))も、消えた財 宝探しを物語の中核に据えている。ここではコドリング一家がイーストアン グリアからバーミンガムに引っ越さねばならないという心配がある(バーミ ンガムは、不運にも、戦後児童文学の中で、神秘的なものがないありふれた 日常の代喩として用いられている)。このような物語の中で宝探しの目的は 決して裕福になることではなく、家を再興もしくは維持することにある。

『煙突』では物語の最後で「真珠、ダイヤモンド、ルビー、イヤリング、腕 輪、ブローチ」(亀井『煙突』

p. 289

)が見つかるが、彼らの発見は、探偵小 説における殺人事件の解決や恋愛小説における結婚と同じくらい不可欠で得 心のいく結末なのである。

* * *

『煙突』の挿話形式の下地となっている構造の原則をオールドノウ夫人の パッチワークが定めているとしたら、『川』ではグリーン・ノウを流れる川 に浮かぶ離れ小島――主人公の子どもたち、アイダ、オスカー、ピンが作品 を通して辿る――がその原則を定めている。航海冒険譚は、古くは聖ブレン ダンやオデュッセウスの伝説(訳者注: 中世初期アイルランドの聖者ブレン

(13)

ダンと、ホメロスの『オデュッセイア』の主人公オデュッセウス)にさかの ぼり、『川』に数年先だって出版された

C

S

・ルイスの『朝びらき丸 東の 海へ』(

The Voyage of the Dawn Treader

1952

))(訳者注:「ナルニア国物語」

(“

The Chronicles of Narnia

”)シ リ ー ズ の

3

作 目)

Lenander p. 47

参照)。島の不思議を訪ねる物語として、『川』はこうした

豊かな物語の伝統を汲んでいる。そしてこのジャンルは、リアリズムとファ ンタジーの境界が次第に崩れていく点が『川』に似ている、フィリップ・プ ルマンの『美しき野生号』(未訳)(

La Belle Sauvage

2017

))(訳者注:「ラ イラの冒険」(“

His Dark Materials

”)シリーズ三部作の前日譚)など現代の 作品の中で成長し続けている。『川』は夏にグリーン・ノウを訪れた全く新 しい登場人物たちを描く。オールドノウ夫人とトーリーは脇に退き、「ほか の人たち」はオールドノウ夫人の一番よい家具と共にしまい込まれているよ うだ(決してふざけてこう書いているわけではない。館の昔の住人は彼らの 絵が飾られているときに姿を見せるということが『煙突』でほのめかされて いる)。「登場人物」を一新して始めることでジャンルもまた刷新される。

『川』はファンタジーではあるが、その不可思議さは、主人公たちも「グ リーン・ノウ」をよく知る読者も、その巻に描かれた分だけしか見ることが できない。館の幽霊について前もって知っていることは、ここでは役に立た ないのだ。

* * *

まず、子どもたちが川を旅するうちに出会う存在は、魔法の力を持つとは 言えない。ロンドンのバスの運転手だったが、川に浮かぶ島で世捨て人の生 活を始め、木の上の簡素な小屋に住み、生の魚を食べて暮らす男と物語の早 い段階で出会う。このようなことは信じがたいが、もしかしたらあり得るの では、という思いが行き交う。彼自身の口から出るのも、暮らし方が引き起 こす現実問題が中心で、超自然現象を呼び起こすものではない。冒険の中で 魔法のような現象が読者にはっきり示されるのは、唯一子どもたちが月明か

(14)

りの下で羽の生えた馬に出会うときだけである。その少し後で、オスカーが カヤネズミくらいの大きさに縮んでしまったとき、残りの疑問は全て取り除 かれる。しかしこの時でさえ、子どもたちは思ったより驚いてはいない。メ ンドルゾーン(

2008

)の言葉を借りて言えば、『川』は「識閾のファンタ ジー」(

Mendlesohn pp. 182–245

)である。つまり、平凡な日常律の世界で 奇怪な出来事が起き、一方主人公たちはそれをためらいもなく受け入れる。

したがって彼らの反応は読者のそれとはかけ離れたものになる。よく引き合 いに出されるのは、アーミテージ一家を描くジョーン・エイキンの最初の短 編「とんでもない月曜日」(“

Yes, but Today is Tuesday

1941

))4

Mendlesohn

pp. 191–94

参照)だろう。サセックスに住む、いかにも典型的な中流階級の

一家が、とある火曜日の朝にユニコーンが庭の芝生を食んでいるのに気づい て驚く。ただし、驚いたのは、奇怪な出来事は月曜にしか起こらないものだ と思っているからである。識閾のファンタジーでは、奇怪な出来事が奇怪な ものとして認識されるが、メンドルゾーンによれば「描写のトーンは(中 略)無感動なものになりうる」(

Mendlesohn p.xxiii

)。同様に『川』では、

子どもたちが川に浮かぶ瓶を見つけて開け、中の手紙が

17

世紀の牧師が書 いたものだとわかっても、アイダは興味をそそられはするが驚きはしない。

「手紙だわ。あたしのいったとおりでしょ」(亀井『川』

p. 183

5

* * *

『川』ではファンタジーの境界性に作品の舞台やテーマ、つまり流れる川 と居場所をなくした子どもたち、世捨て人、つかの間の住人といった登場人 物が見事に関連付けられている。次作の『お客さま』も、ピンと逃げ出した

4この作品は

1930

代後半に初放送されたが、出版は

1953

年で、エイキンの短編 集『望んだものすべて』(未訳)

All You've Ever Wanted and Other Stories

1953

))

に収められた。

5しかしながら、最も古いボトルメッセージは、

2018

年に発見されたわずか

132

年前のものである(“

Oldest message in a bottle found on Western Australia

beach.

”(

BBC

))。

(15)

ゴリラ、ハンノーとの関係に焦点を当て、この重要な事項を引き継いでい る。『お客さま』でボストンは再び大胆にもジャンル的に冒険をしている。

シリーズの中で唯一、この作品には魔法や超自然現象が登場しない。ロンド ン動物園のゴリラ、ガイを見て創作意欲をかきたてられたボストンは、「彼 をなだめて物語を引き出」6そうと時間をかけた。ゲーツヘッドにあるセブ ン・ストーリーズ・アーカイブで保管されている様々な草稿からは、ボスト ンが、ゴリラへの関心を、ハンティンドンシャーの古いマナーハウスの物語 と結びつけようと表現手法や物語の型を探っていたことがわかる。7最初の 草稿は、距離を置きドキュメンタリー風にゴリラの生育地コンゴを記述する ことから始めている。次では、読者に感情移入してもらえるよう表現し、読 者はジャングル上空を飛行機で飛ぶ想像の旅に誘われる。

3

稿目(と後に出 版された版)のみ、ジャングルの住民の一人が「物語の主人公」(亀井『お 客さま』

p. 5

)とわかるものとなっており、読者の注意は(対照的に)、物理 的にも想像上でも、コンゴとグリーン・ノウの間の距離へと向けられる。物 語はその空間をつなごうとするかに見える。

* * *

出版された内容を見ればわかるように、『お客さま』の冒頭は、長い序文 で、子どものハンノーがジャングルで暮らし、やがて捕まる様子が、限定的 に擬人化を用いハンノーから距離をとったかたちで解説的に第三者の語りに より描かれる。ヘンリー・ウィリアムスンの自然−歴史小説『かわうそタル カ』(

Tarka the Otter

1927

))を彷彿とさせる手法である。たった

30

ページ で場面はイングランドに、そして主な視点を担う登場人物はピンに切り替わ る。読者が再びハンノーの心の内に関与することはない。ピンやオールドノ

6

1959

1

7

の ヒ ラ リ ー・ボ ー ン へ の手 紙(

Seven Stories Archives, HB/02/05 f.2

)。ガイからハンノーの連想については

HB/02/06

1961

]参照。

7

Seven Stories Archives, LMB/01/04/02/01

LMB/01/04/03/01 f1

LMB/01/04/04/01

f1

参照。

(16)

ウ夫人はロンドン動物園から逃げ出したハンノーのニュースを新聞やラジオ で追っているが、このあとハンノーはほとんど登場しないのだ。ハンノーが 再び登場する時も、外からやってきた、強い力をもつ「お客さま」としてピ ンや他の人間の視点から描かれる。ハンノーが主人公であるとしても、その 存在は、間接的にピンが自分の孤独や淋しさをその中に見出せる生き物であ り、読者が直接視点を共有するようなものではない。

* * *

ハンノーがグリーン・ノウの世界へ入り込んだことは、偶然以上のことか もしれない(彼はピンの存在を何となく感じ取ったのだろうか? グリー ン・ノウが自ら彼に避難場所を提供したのだろうか?)。ところが、それは

3

作における幻想的な手法とは全く異なる(皮肉にも、グリーン・ノウの 幽霊たちに長年親しんでいるオールドノウ夫人が、トーズランドの森にゴリ ラがいる可能性について「あんまりとっぴなこと」(亀井『お客さま』

p.

174

)と述べている)。ジャンルの移行はピン自身にも反映されている。ハ ンノーに夢中になることで、ピンの頭からは『川』で描かれた昨夏の思い出 が遠ざかっている。例えば、オールドノウ夫人が空飛ぶ馬について話す際 も、彼はほとんど関心を見せない。

「えっ、空飛ぶ馬を知ってるんですか?」

ピンはそのことはほとんどわすれていた。あれは一年まえのことなのだ。

オールドノウ夫人はいった。

「どの子も空飛ぶ馬を持ってるわ。それにね、アイダがそのことを書 いてきたの」 (亀井『お客さま』

p. 158

「どの子も空飛ぶ馬を持ってるわ」子どもたちが以前出会ったものを再び 暗喩的に登場させることで、オールドノウ夫人は、トドロフが幻想文学につ ける

3

つ目の条件、つまり不思議な出来事に対する「『詩的』な解釈」の回

(17)

避に背いている(

Todorov p. 33

)。『お客さま』では『川』での不思議な出来 事がはっきりと否定されているわけではないが、「わきぜりふ」のようにひ そやかに語られるのみで、ハンノーが経験する、今までとは全く異なる出来 事が物語の手綱を握っている。「三人いっしょにいれば、一人でするのとは ぜんぜんちがったことをするものよ」(亀井『お客さま』

p. 96

)とオールド ノウ夫人は言う。開放的で親しみやすい不思議な冒険の連続は

1

年前のピ ンにはふさわしかったかもしれない。しかし自己完結した孤独の中に隔離さ れた今のピンにはハンノーが必要なのだ。

* * *

『お客さま』の

3

年後に出版された『魔女』では、グリーン・ノウに起こ り得る不思議な出来事が再び描かれる。館を脅かすものはたびたび登場して きたがこれまでは作品の主役ではなかった。しかしここでメラニー・パワー ズ博士という姿をとって舞台の中央に出てくる。初めは単に館に過剰な興味 を持ち、人の領域に踏み込んでくる学者に見えたが、次第に黒魔術を使う魔 女としての姿を現す(彼女の名前のギリシャ語の語源は無論「ダークパワー

(邪悪な力)」を示している)。『魔女』で書かれる魔法の種類は前

4

作とは 違っている。前の作品では魔法は主として館に内在する力であった。『お客 さま』では習得するものでもある。魔法には使い方とルールがあり、勝利す るためにはそれらを学ばなければならないのだ。

* * *

児童文学における魔術の描き方の点からみると、メラニー・パワーズは過 渡期の姿をしている。『お客さま』が出版された

1964

年には、魔女はお伽 話の森に住む老婆のように描かれるわけでは決してなかった。もっと現代的 な姿がこのイメージに取って代わったが、(主に笑いを狙った)例外は多少 あるものの、魔女はたいてい未だ悪意に満ちた存在だった。魔術崇拝 ニューサイエンスに刺激を受けた魔法の登場まではもう

20

年待たねばなら

(18)

ない。ジョン・メースフィールドの書くシルヴィア・ダイジー・パウンサー

(『夜中出あるくものたち』(

The Midnight Folk

1927

))と『喜びの箱』(

The Box of Delights

1935

))に登場する)は、現代風の魔女の初期の例で、魔術 使いであると同時に家庭教師としても働いている。しかし、よりメラニー・

パワーズに近い姿を持つのはアラン・ガーナーのデビュー作であるファンタ ジー小説『ブリジンガメンの魔法の宝石』(

The Weirdstone of Brisingamen

1906

))に登場するセリーナ・プレイスである。メラニー同様、セリーナ も(無礼で風変わりではあるが)現代風の女性で、主人公の子どもたちにラ テン語の呪文で魔法をかけるより先に、車に乗って初めて姿を現す(

Brisin-

gamen pp. 22–24

)。「どこのどんな人ごみの中でもだれにも気づかれないで

歩けそうな人」(亀井『魔女』

p. 57

)。メラニー・パワーズはこの系統に属 する。

* * *

オールドノウ夫人は無論グリーン・ノウの魔法に深く通じているが、この 作品では彼女が直感的に得た館とのつながりを、受け入れ尊重するべき力で なく悪用する手段としてメラニーが学問的に習得する魔法と暗黙のうちに対 抗させている。両者の対比は初めのやりとりで明確になる。メラニーはオー ルドノウ夫人に尋ねる。「そういうこと、ご研究なさったんですか?」「あな たにむかって、そうですなどとは申せませんわ。わたくしは博士さまではな いんですもの」(亀井『魔女』

p. 71

)。正式に学んだことはないと認めてい るが、グリーン・ノウには「魔法に関係したもの」(亀井『魔女』

p. 72

)が たくさんあり、オールドノウ夫人は魔法の知識を身につけた手ごわい相手で ある。そのうえ運よく館に滞在している学者の助けを借りることもできる。

メラニーが館の所有権と家具を手に入れようと画策し、次々と魔法で攻撃を しかけるとき、このような習得が必要であることがはっきりする。作品の中 盤の章は魔法の対決が描かれる。魔法の戦いでもあり機知の戦いでもある。

それぞれの手に適切に対抗しなければならず、(オールドノウ夫人が言うよ

(19)

うに)同じ手は二度と使えない(亀井『魔女』

p. 168

)。魔法の対決には、

古くは『タリエシンの書』に出てくるケリドウェンがグウィオンを追いかけ る話(訳者注:このウェールズの神話は、グウィオンという少年が仕えてい た女神のケリドウェンから逃れようとする話である。野ウサギ、魚、鳥に変 身しながら逃れるグウィオンを、ケリドウェンは、猟犬、カワウソ、鷹と順 に変身しながら追いかける。最後に一粒の小麦となったグウィオンを雌鳥と なったケリドウェンが食べてしまう)があるが、児童文学では

T

H

・ホワ イトの『永遠の王−アーサー王の書(上)』

The Sword in the Stone

1938

))

で書かれるマダム・ミムとマーリンの対決の表現がよく知られており、両者 の奇怪な戦術は闘いに喜劇的要素を添えている。メラニー・パワーズの攻撃 はあまりにも悪意に満ちて不快で、滑稽さが感じられない。だが、館を守る 者たちの才智と結束力と、攻撃はいつまでも続かないという事実により、物 語(つまり館)が悪意のせいで重苦しくなることはない。

* * *

しかしながら、『魔女』では恐怖が常に見え隠れする。ボストンはホ ラー・フィクションに作家らしい興味を持ち、

M

R

・ジェイムズ(

1862–

1936

)(

Lloyd Parry pp.vi-vii

)の伝統を受け継ぐゴーストストーリーを数多 く著している。「グリーン・ノウ物語」でも、『子どもたち』の早い段階で、

不思議な力を扱う際に魔法から恐怖へと瞬時に移行する手腕が発揮されてい る。作品中の超自然的なものはたいていは好意的だが(グリーン・ノアの木 を除いて)、それでも子どもの幽霊たちは幼いトーリーを怖がらせる。主人 公がより年長の『魔女』では、ボストンのジェイムズ流描写はやや強まる。

邪悪なヴォーゲル博士についての、ダークパワーと愚かにも契約を結んだ

17

世紀の魔術師というオールドノウ夫人の説明は、同じように思慮のない 学者が出てくるジェイムズの作品をいくつか想起させるが、明確に書かれた 恐怖よりさらに印象深いのは、二人の作家の手腕によって慣れ親しんだ場所 や経験が揺るがされていく様が描かれることである。例えば、『川』でピン

(20)

が神秘的な冒険を体験したグリーン・ノウの月明かりの庭は、おどろおどろ しい空間に変わってしまう。「なにかが、影からさっとのびてまたひっこん でいったようだ」「四つんばいになっているかと思うと、つっ立っているよ うにも見えた」(亀井『魔女』

p. 84

)。ジェイムズの古典的ゴーストストー リー、『銅版画』(

The Mezzotint

1904

))の芝生を這う影を連想させるこの 存在は、姿が見えないときには、より不吉な感じを庭に与える。

ポープ氏の小屋の窓に顔がひらべったくあらわれてから、少年たちは 夜の庭に出るのがこわくなっていた。こんなことはいままでになかった ことで、じぶんでも腹が立った。グリーン・ノウは、内も外もかれらの ものであって、夜でも昼でも自由に行き来できるところのはずだ。(中 略)それなのに、そして月の光に照らされた屋外は夢のように美しかっ たのに、ふたりとも、外に出て遊ぶようなことはもうしようとしなかっ

た。 (亀井『魔女』

p. 139

ボストンは後に

M

R

・ジェイムズ流のゴーストストーリー「晩鐘」(未 訳)(“

Curfew

1967

))でこの部分を練り直して書いている。ここでは、お となの語り手によって少年時代の恐ろしい体験が語られる。

陽の光が輝く

9

月の天気、キダチヨモギやラベンダーの香り、黒く斑 になって散りかけた黄葉を覚えている。しかし、庭は恐ろしいものが出 る場所になってしまった。もうくつろいで日向ぼっこをすることも、昔 のように大地や野原、木々や空がみんな自分たちのものだと感じること もない。決して近づけないひときわ暗い片隅があって、かくれんぼをす るときもそこに隠れたり探しに行ったりしようとは誰も思わなかった。

(“

Curfew

p. 67

光の加減や文調だけで、愛し慣れ親しんできた場所を恐怖に満ちた場所に

(21)

変えてしまう。登場人物やプロットといったわかりやすい構成要素に手を加 えずとも、ちょっとした手法によってジャンルの移行に成功している。

* * *

『魔女』の出版から「グリーン・ノウ物語」シリーズの最終巻『石』

1976

の出版までは

12

年が経過している。『石』は、第

1

巻と第

2

巻の特徴であ る時間に焦点を置いたファンタジーに立ち戻っている。現代を歴史上に「初 期設定」して優遇することをしないのは『煙突』の特徴でもあったが、ここ では、館を最初に建てた人の息子ロジャー・ドルノーを主人公に据えたこと でその意味合いがより強まっている。『煙突』と違い、『石』はタイムスリッ プというよりタイムトラベルの物語である。ロジャーの未来への旅は(少な くとも最初の旅以降は)目的があってコントロールされており、(スーザン の言う)“

chancy

”「あてにならない」(亀井『石』

p. 114

)わけではない。

イーディス・ネズビットの『魔よけ物語――続・砂の妖精』(

The Story of the Amulet

1906

))の魔除け、あるいはヒルダ・ルイスの『とぶ船』(

The Ship that Flew

1939

))の船のように、未来へ行くためにロジャーが石の椅 子に熱心に請い、命じることで旅の中身が具体的になる。「ぼくたちを、

トービーのところに行かせてください」(『石』

p. 84

)。

* * *

ボストンがロジャーの視点を用いたことにより、現在から「遠ざかった」

光景が、そして、グリーン・ノウの歴史上で光が当たらなかった時代の光景 が、必然的に記述されることとなった。ロジャーは

17

世紀、

18

世紀、そし

20

世紀を訪れ、リネットやトーリーからも束の間の訪問を受ける。リン ダ・ホールはイギリスのタイムスリップ小説、とりわけ第二次大戦後のもの は、「現代的なものがはびこっていくこと」への抗議の手段として用いられ ると論じているが(

Hall, p. 154

)、寒々しい

20

世紀の風景に対するロジャー の否定的な反応にもその論拠を見ることができる(亀井『石』

p. 142–45

(22)

Butler and O

ʼ

Donovan pp. 175–77

も参照)。しかし「シュエップス飲料会 社」と書かれた金属の蓋付きの瓶という現代の宝物が捨てられているのを見 つけて、ロジャーの衝撃は和らげられる。ロジャーは「すばらしい宝物で、

どんなにお金を出しても惜しくないようなめずらしいもの」だと考える(亀

井『石』

pp. 148–49

)。つまり、おそらくこの作品で重要なのは、過去への

愛着よりも、持続と変化、古きものと新しきものの間の大いなる相互作用の 感覚だろう。トーリーにとってはグリーン・ノウの塔は古い昔のものであ り、ロジャーにとっては前衛的な意匠のものである。ロジャーが建物の未来 を見ているのに対し、年老いた彼の祖母はサクソン人の過去を見ている。聖 クリストファーの像は、彫られていく瞬間――これにはロジャーが立ち会っ ている――も、風雨にさらされツタに覆われていく様子も描写される。タイ ムトラベルによって可視化される時の視点のからくりを読者も考えるように なる。これこそが、このジャンルの特性なのである。

* * *

しかし、時を超越する手掛かりも描かれている。シリーズのクライマック スとなっているこの作品では、「めずらしい『歴史的パーティー』になるわ」

(亀井『煙突』

p. 292

)と『煙突』でオールドノウ夫人が言ったことが本当に 起き、ロジャー、スーザン、ジェイコブ、トーリーと

17

世紀のオールドノ ウ家の子どもたちが、グリーン・ノウの庭のブナの木の下に一堂に会する

(亀井『石』

pp. 155–60

)。場面設定は名目上は

20

世紀だが、実質的には時 間の外側で起きており、オールドノウ夫人自身――グリーン・ノウの年老い た女主人ではなく若き日の彼女――が加わることでその印象は強くなる。

「トービーとおなじ年つきで、おなじくらい美しく、長いきれいな髪の毛を していた」(亀井『石』

p. 158

)。

C

S

・ルイスの「ナルニア国物語」シリー ズの最終巻『さいごの戦い』(

The Last Battle

1956

))でも、歴代の主人公 た ち が集う。こ の作品を読ん だ者は、『魔術師の お い』(

The Magician

ʼ

s

Nephew

1955

))の主人公で年老いたディゴリーとポリーが同じように再び

(23)

若い姿を見せることを思い出すだろう。「この人でさえもふけこんではいな いで、頭には白髪がなく、頬にはしわがありません」(瀬田『さいごの戦い』

p. 205

)。ルイス作品に見られる宗教的含意(彼らはこの世で命を落とし、

天国に足を踏み入れようとしている)は『石』にはないが、この演出によっ てブナの木の下の集いは時の普通の侵食とは無縁の場となった。

* * *

この幸せな解釈は終章で遮られる。タイムトラベルのからくりをもつ石の 椅子が掘り起こされて博物館へ運ばれ、トーリーの過去へ行く力が失われて しまうことを読者は知る(ロジャーが未来に行くことはできるが)。先に述 べたように、グリーン・ノウに及ぶ外部からの脅威がシリーズを通しての テーマで、それは着々と浮かび上がってくる。ペトロネーラの呪い、

18

紀のマリア・オールドノウの安直な「改良」、『お客さま』の捜索隊や見物人 と『魔女』のメラニー・パワーズの闖入が、グリーン・ノウとて、決して時 や外界から侵食されない場所ではないというイメージを徐々に植えつけてい く。『魔女』でオールドノウ夫人はこう語る。

「この家はいつも敵がねらっているし、護衛も必要なんです。保存協 会やなんかがいくらあったって、わたしたちが見張って守ることをやめ たら、この家はもう五年とここに建っていないでしょう。こんなに長い あいだ建ちつづけてきたこと、そのことに、いらいらしている人だって いるんです。もう古すぎる、そういって片づけちゃうんですよ。」

(亀井『魔女』

p. 41

この脅威は『石』の終わりに突然現れる重機によってさらに強まり、トー リーのロジャーへの言葉の中で改めて表現される。「ぼくのおばあさんも、

ぼくも、それを避けるように、できるだけのことはしているんだよ。おばあ さんは、人生の毎日毎日を、グリーン・ノウのために戦っているんだ」(亀

(24)

井『石』

pp. 171–72

)。既に指摘したように、過去が攻撃を受けるという志 向は戦後のイギリスファンタジー文学に共通するが、事物を本来の場所から 取り出し博物館という不毛で価値を弁えない環境に置くという表現で明確に 比喩することは、とりわけ

1970

年代に見られる特徴である。『石』の出版年 だけでも、ナンシー・ボンドの『竪琴の弦』(未訳)(

A String in the Harp

1976

))(訳者注:ウェールズを舞台にしたファンタジー作品)の例を挙げ ることができる。この物語では、タリエシンの時代に出入りすることができ る中世の竪琴がウェールズの村ボルスから、国立博物館へ持っていかれそう になる。テレビドラマ『ストーンズ』8はストーンヘンジを「精密な強化ガラ スのレプリカに置き換えて、本物をよく監視できるようにハイドパークへ移

そう」(

Christopher

)という観光庁長官の軽薄な企画を描く。ボストンの眼

差しは過去に向けられてきたかもしれないが、このような方法を用いること で、ファンタジー児童文学のジャンルとテーマという点では、彼女は最先端 に立っていたと言える。

* * *

本稿では、ボストンが「グリーン・ノウ」シリーズで取り組んだジャンル の多様性に注目してきた。これはある程度、彼女の作品が内包し、ほのめか し、あるいは取り入れているジャンルの範囲から判断できる。グリーン・ノ ウの館が歴史の流れの影響を受けていないように見えるのと同じく、「グ リーン・ノウ」シリーズも、ある意味では児童文学の主流から離れた孤島で あると考えられがちである。しかしどちらも誤った解釈である。このシリー ズは、グリーン・ノウが時の経過の中に埋もれていくこと、時の脅威を受け やすいことを声高に主張しているのだ。既に述べたように、それは他の作家 の作品との不断の対話にも見られる。特に、ボストンは児童文学のジャンル

8脚本家は「マルコム・クリストファー」である。マルコム・ブラッドベリーとク リストファー・ビグズビーの共同筆名である。

参照

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