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雑誌名 東西南北

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報告2 世界のモンゴル人 : モンゴル的ディアスポ ラの現在(和光大学モンゴル学術調査団報告)

著者 ユ ヒョヂョン

雑誌名 東西南北

巻 1998

ページ 148‑152

発行年 1998‑03‑20

URL http://id.nii.ac.jp/1073/00003693/

(2)

報冑世界のモンゴル人

人間関係学科のユです︒﹁世界のモンゴル

人lモンゴル的ディアスポラの現在﹂とい

う題で︑モンゴル人と呼ばれる︑またはモン

ゴル系と分類される︑あるいはみずからをそ

のような系統のものとして意識する人びとの︑

民族としての生活とそれにかかわる諸状況を

理解していくために︑必要と思われる基礎的

事項について概略的にお話ししたいと思いま

す︒

まず︑モンゴル人の居住地域は︑モンゴル

国と︑その北方にあるロシア︑そしてその南

の中華人民共和国の三つの国に大きく分れま

す︒中国とロシアにおいては︑モンゴル人が

多民族国家のなかの少数民族として居住して

いるのにたいして︑モンゴル国においては︑

逆に多数民族として人口の圧倒的な部分を占

めており︑世界のモンゴル諸族の精神的中心

として意識されることが多いといえます︒

モンゴル国は︑﹁外モンゴル﹂または﹁外

蒙古﹂と呼ばれることもありますが︑これは

その南の地域を指す﹁内蒙古﹂︑または﹁内 モンゴル﹂という呼び方とともに︑中国の立 場からみた名称でありまして︑どちらかとす れば当のモンゴル人自身はあまり好ましく思 わない呼び方だといえます︒かれらは︑﹁内﹂ ﹁外﹂のモンゴルをそれぞれ﹁南﹂﹁北﹂モン ゴルと呼び︑区別しています︒この状況は︑ 中国人が︑まもなくおとずれる香港にたいす るイギリスの植民地支配の終結と中国への復 帰を︑けっして﹁返還﹂といわずに︵中国へ の︶﹁復帰﹂または﹁回帰﹂と呼んでいる状 況と似ているといえます︒

北モンゴル︑つまりモンゴル国には合計約

二二○万人のモンゴル人が住んでいますが︑

その部族的構成からすればハルハ︵部族︶と

呼ばれる人びとがもっとも多く︑全体の七割

を占めています︒モンゴル国︑またはモンゴ

ル共和国という現在の国名は︑一九九二年一

月に︑それまでのモンゴル人民共和国を改め

たもので︑この変更は︑それまで社会主義的

国際関係という建前のもとで︑あるいはそれ

を盾にした形でのソ連の支配のもとで︑民族 ユヒョヂョン人間関係学部助教授 モンゴル的ディアスポラの現在

的なものが抑圧されていた状況からの脱却と

いう大きな変化を象徴するものということが

できます︒

つぎにロシアには︑モンゴル国のすぐ北の

地域に︑バイカル湖を東からかこむ形で形成

されているブリヤート共和国と︑遠くカスピ

海沿岸︑ヴォルガ河のほとりにあるカルムイ

ク共和国の二つの共和国を中心にそれぞれブ

リヤート人︵四二万一○○○人︑八九年︶︑

カルムイク人︵一七万四○○○人︶と呼ばれ

るモンゴル系の民族がいます︒この内︑前者

のブリヤート人は︑一九五七年まではブリヤ

ート・モンゴル人と呼ばれ︑またその居住地

域も︑自治共和国の名称も︑言語もブリヤー

ト・モンゴル︑ブリヤート・モンゴル自治共

和国︑ブリヤート・モンゴル語と呼ばれてい

ましたが︑五八年にこれらすべてから﹁モン

ゴル﹂が取られ︑今日に至っています︒ペレ

ストロイカのなかでブリヤートにおいても五

八年にとられたこの措置の不当性を指摘し︑

﹁モンゴル﹂を取り戻そうと動きがあらわれ︑

‑ 1 "

(3)

議会にもそれが提案されましたが︑すでにロ

シア人が多数派になっている同共和国の最高

会議はこれを否決しました︒

話が前後しますが︑いまのブリヤート地域

がロシア領に編入されたのは︑一七世紀終わ

りころで︑そしてその南の地域︑つまり南北

霞 霊 義

モンゴルが数十年の時差をおいて清朝の支配

下に入ったのは︑それより少し早い一七世紀

前半から後半にかけての時期です︒﹁内﹂﹁外﹂

の区別は︑この清朝支配下への編入の時差に

ちなんだものでして︑これとも関連して両地

域の間には支配のあり方においても違いがあ

りました︒いまのモンゴル国は︑この内︑北

の部分Ⅱ﹁外蒙古﹂が︑一九二年のモンゴ

ルの自治宣言からはじまる一連のプロセスを

経て︑一九二一年に独立したものです︒ここ

で重要なことは︑モンゴル人ないしモンゴル

系諸族が︑今日のように︑中国︑ロシア︑モ

ンゴル国などに分かれているのは︑モンゴル

人自身の意志によるものではなかったという

ことであります︒モンゴル高原を取り巻く大

国や大きな民族の関与がなかったら︑かれら

は︑他の諸民族の例のごとく︑統一に向けて

の行動をつづけてきたはずです︒

一方︑カルムイクは︑部族的には︑ハルハ︑

ブリヤート︑それに中国内蒙古自治区に多い

チャハルとともにモンゴル人のいわゆる四大

部族とされるオイラートーlこの部族は中国

の新彊ウイグル自治区とそれと隣接している

各省に集住していますがlの血を引く人び とで︑一六三○年頃に清朝の支配を逃れてい まのところに移動し︑その一四○年後︑再び もとのところに戻る際︑戻れずに残された人 びとの子孫たちです︒そのとき戻った人びと の子孫がいま新彊ウイグル自治区の最北端の ホボクサイル草原にすんでいる人びとで︑し たがって︑この人びととカルムイク人とはオ イラートのなかでももっとも近い関係にあり ます︒またカルムイク人は︑第二次世界大戦 中の一九四三年に︑ソ連と敵対していたドイ ツに協力したことにたいする懲罰として︑中 央アジア︑シベリアに民族まるごと強制移住 させられ︑五○年代に復権されてもとの居住 地に戻ったという体験をしています︒近年︑ 民族の自由の拡大︑民族生活の再生のなかで 同胞の新弱ウイグルのオイラート・モンゴル 人との再会︑交流も活発に行なわれていると 聞いています︒

中国は︑一九九○年段階で四八○万の﹁モ

ンゴル族﹂がいるモンゴル人最大の居住国で

す︒しかも中国には︑現在﹁モンゴル族﹂で

はなく︑ちがう民族として識別されている︑

つまりそれぞれ別個の民族として分類されて

いるいくつかのモンゴル系またはモンゴル語

I 4 9 ‑

(4)

系の集団があり︑それらを加えるとモンゴル

人またはモンゴル系の人びとの数はさらに大

きくなります︒

中国内モンゴル族の最大の集住地域は︑モ

ンゴル国との接壌地域にある内蒙古自治区

︵中国建国二年前の一九四七年に成立︶であ

りまして︑ここに三三八万人のモンゴル族が

います.しかしこの数は︑自治区全体の人口

の一四%を占めるにすぎず︑また全体として

漢族との混住地域が多いことなどから︑民族

の自治区域にもかかわらずモンゴル族の民族

としての生活は容易でない状況にあるといえ

ます︒こうした状況は改革・開放の進展︑市

場経済化によっていっそう加速化され︑草原

から農耕地または都市部への移動︑漢語習得

の必要性の増大などによる民族語教育機会の

減少といった︑いわゆる漢化が急ピッチで進

んでいるように思われます︒もとより︑こう

したことはひとり内蒙古自治区にかぎらず︑

他の省のモンゴル族さらには少数民族一般に

たいしてもいえることであり︑市場経済化の

なかでの少数民族の民族生活のありようとい

う大きな問題を提起しているといえます︒ち

なみに︑内蒙古自治区は︑一九六○年代半ば からのいわゆる文化大革命の期間中の約一○ 年間︑その面積の半分以上を︑同自治区を囲 んでいる五つの省に切り取られ︑その後回復 した経緯があります︒

さきほども申しましたように︑中国には

﹁モンゴル族﹂以外に五つのモンゴル系ない

しモンゴルと関係の深い民族︑より正確にい

えばモンゴル語系のことばを使っている民族

があります︒これらの諸民族は︑甘粛省︑青

海省の西北地方︵東郷Ⅱトンシャン︑土Iト

ゥ︑保安Ⅱボウナン︑裕固Ⅱユーグ各族︶と

内蒙古自治区の東北部と黒龍江省︵達斡爾I

ダフール族︶に集住しています︒これらの諸

民族は︑モンゴル語系に属することばを使っ

ている共通点をもっている一方︑生業︑宗教︑

住居生活などにおいてはモンゴル族またはモ

ンゴル高原のモンゴル人のそれらとは異なる

様相を示すものも多く︑なかには色目人の末

商とされる東郷族の例のように出自そのもの

がモンゴル系でない集団もあります︒おそら

くこれらの点が︑中国当局がこれらの人びと

をそれぞれ個別の民族として識別Ⅱ認定する

有力な根拠となったと思います.といって︑

識別作業は簡単ではなく︑ダフール族のよう に︑モンゴル族の支族かそれとも別個の民族 なのかをめぐって複雑な議論が行なわれたケ ースもあります︒この議論は︑ある意味では いまもつづいているといえます︒ちなみに︑ モンゴル国などではこれらの集団も一律モン ゴル人として見なされているようで︑日本の ほとんどのモンゴル研究者もこの捉え方をし ています︒

このような集団の形成には︑広大な地域に

およんだモンゴル帝国の広がり方および崩壊

のしかたが深くかかわっているといわれます︒

つまり︑優れた機動性をもって︑広域にひろ

がったモンゴル人が︑その過程で各地の異民

族を自分たちのなかに組み入れ︑同化させた

結果として︑または当のモンゴル人自身が︑

展開した地域にそのまま定着したり︑または

逆に戦争に敗れて逃走し︑その地に定着した

結果︑このような﹁飛び地の捨て子﹂が生れ

たものと考えられています︒アフガニスタン

の奥地に約三千人がいて︑同じくモンゴル語

系のことばのモゴール語を使っていると伝え

られるモゴール族や︑モンゴル草原から遠く

離れた中国の雲南︑四川両省の六〜七万のモ

ンゴル族の場合も同様の状況が生んだものと

‑ I 5 0

(5)

いわれています︒ただし後者の内かなりの部

分は︑モンゴル人の末商としての意識はとも

かく︑言語︑名前︑その他のほぼすべての面

においてモンゴルらしきものはほとんど残し

ておらず︑それゆえつい最近まで漢族その他

の民族として識別されていました︒それが︑

八○年代に自らの申請によってモンゴル族と

して﹁再発見﹂され︑モンゴル族への族籍変

更が認められたユニークなケースです︒それ

以来︑モンゴルらしさを取り戻すための取り

組みが精力的に行なわれているといわれます︒

このモンゴルらしさの取り戻しには︑内蒙

古自治区を中心とした中国内の他の地方のモ

ンゴル族からの協力が大きな力となっている

ようですが︑もとよりこうしたモンゴル人ど

うしの交流と協力︑または︑その中心的な内

容をなすモンゴルらしさの再生︑回復のため

の努力は︑この例に限るものではない︒こう

した動きは︑いままで申しましたモンゴル系

またはモンゴル語系の諸民族集団ほぼ全体に

わたって見られる共通したものといえます︒

必ずしもうまく行っているとはいえません

が︑モンゴル国におけるモンゴル文字復活運

動や︑ラマ教再生運動に象徴されるモンゴル 的要素︑モンゴルらしさの再生︑回復のため の運動はわりとよく知られています︒文字復 活運動の促進のために中国のモンゴル人のな かから教師を招聰しようとする計画もあった ようです︒同様の動きはプリヤートやカルム イクにもあり︑この内︑ブリヤートでは一時 モンゴル国への編入を求める動きさえあらわ れたといわれます︒

九三年九月にウランバートルで開かれた第

一回世界モンゴル人大会は︑民族としての自

己の再生にかけるモンゴル人たちの意気込み

がいかに熱いものなのかを示すと同時に︑し

かしその前途がけっして楽観できるものでは

ないことを物語っていると思います︒

﹃朝日新聞﹄の報道︵九三年九月一四日付け︶

によりますと︑﹁世界各地に散らばって住ん

でいるモンゴル族の代表が一三日⁝⁝﹃世界

モンゴル族大会﹄を開いた︒大会には民族服

に身を包んだオチルバト大統領らが出席し︑

ジンギスカンの生まれた故郷に帰ってきたモ

ンゴル族を歓迎するとともに︑世界のモンゴ

ル族の団結と協力を訴えた︒ロシアのブリヤ

ート︑トーワ各共和国から公式代表団が参加

したのをはじめ︑米︑仏︑インド︑ネパール︑ 台湾などから各地のモンゴル族組織の代表が 参加した︒微妙な関係にある中国の内モンゴ ル自治区からは正式代表団は来ず︑個人の代 表が参加した︒﹂とあります.また︑この大 会を予告した同じく﹃朝日新聞﹄の四月七日 付けは︑﹁経済・文化・言語などでの交流を 強める﹂この大会は︑モンゴルの民間団体が 企画したもので︑﹁中国・内モンゴルでのモ ンゴル系住民への人権・民主化運動抑圧など も重要なテーマになる見通し﹂だと報じてい ました︒中国からの正式代表団が参加しなか ったあるいはできなかったのも︑また第二回 大会がいまだに開かれないのも︑おそらくこ の辺に最大の理由があると思われます︒

こうした状況をめぐっては︑民族生活また

は国家と民族の複雑な関係についてのそれぞ

れ異なった立場からのさまざまな意見︑評価

があると思います︒しかし︑仮にモンゴル人

たちのある動きが︑ある国の安定と統合を脅

かしかねないものとして否定的に捉えられる

ことはあっても︑それまで国境の壁によって

引き裂かれ︑互いの安否を確認することすら

ままならなかった諸民族の同胞どうしが︑交

流を再開し︑助け合おうとする動きそのもの

I5I

(6)

報告3

私は美術や宗教の歴史が担当ですので︑今

日は﹁草原のなかの象徴図像﹂という題で︑

とくにウランバートルに関わりながら︑現在

のモンゴル国についてお話ししたいと考えて

います︒

さて︑ウランバートルという名前は﹁赤い

英雄﹂という意味です︒これは一九二四年に

制定された名前で︑まだ五︑六○年しかたっ

ていないような非常に若い名前です︒モンゴ

ルが独立して採択された名前がウランバート

ルでした︒チンギス・ハーンがモンゴル草原

から現在のウィーンあたりまで走り抜け︑非

常に大きな国家をつくった時代は一三世紀で

すから︑その流れから見るとごく短い時間が

ウランバートルという世界の時間です︒ までもが危険視され︑否定的に捉えられては ならないと思います︒それとは逆に︑そうし た離散民族をめぐる状況を理解し︑必要な手 助けを可能なかぎり行なっていく姿勢こそ︑ 求められているといえましょう︒

草原のなかの象徴図像

この都市はユーラシア大陸のど真ん中に位

置しています︒海はありません︒三方を山に

囲まれ︑そして南は広大なゴビ砂漠が中国と

の国境を形づくっています︒山もあり︑川も

あり︑また草原もあり︑砂漠もあり︑大変複

雑な地勢を持っています︒現在︑ウランバー

トルにはいくつも博物館がありますが︑一番

の売り物は恐竜の巨大な骨でした︒そういう

意味では︑人間以前からこの世界は大きな生

き物の動き回る世界であったということがわ

かります︒

そして︑遊牧の時代が大変長いです︒国家

としてモンゴルとして立ち上がる以前から︑

この土地には数多くの民族が生きていました.

いわゆるステップの世界︑草原の惜臣非という ディアスポラとしてのモンゴル系またはモ ンゴル語系諸民族の歴史と現状は︑私たちに モンゴル人とは何か︑さらには民族とは何か という複雑で難しい問題をあらためてなげか けるとともに︑モンゴル系諸民族を含めて諸

ウランバートル

松枝到

ものが︑ロシアのパイカル湖のほとりからは

るかヨーロッパのふもとまで広がっています︒

ゴビ砂漠の南に天山山脈があります︒その

山脈とヒマラヤ山脈の間の一帯を抜けていく

キャラバンルートがシルクロードというわけ

ですけれども︑さらに北︑天山山脈の向こう

側に大きなステップ・ルートがあって︑古代

から人びとはその道を歩いていたたことがわ

かります︒例えば突厭と呼ばれる人びとがい

ました︒突駁というのは︑おそらくはトルコ

を意味するチュルクということばから由来し

ていますが︑現在のトルコ人は︑出身がパイ

カル湖のほとりであったと言われています︒

それが数千年かけてパイカル湖のほとりから

ゆるゆると西へ移動し︑現在の地中海の面す 民族の今後の民族としてのあり方やそれと関 連したさまざまな模索が︑けっしてそれらお のおのの民族だけの問題だけではないという ことを物語っているように思います︒

人間関係学部教授

‑ I 5 2

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