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まえがき(アラビア海の文化誌 / アラビア海東域の 港湾都市をめぐる文化・民族複合の実態調査編)

雑誌名 東西南北 別冊04

巻 04

ページ 4‑6

発行年 2002‑12‑15

URL http://id.nii.ac.jp/1073/00004409/

(2)

私たちのプロジェクトは︑﹁アラビア海東城の港湾都市をめぐる文化・民族複合の実態調査﹂と

題している︒本プロジェクトでは︑海路による交易を媒介にして種々の文化・民族が集積させてき

た︑アラビア海東域の沿海都市における文化・民族複合に注目し︑学際的な考察を通してその実態

を解明しようとする︒これらの地域では︑特にポルトガルの進出がヨーロッパ世界とインド世界と

の直接的な交易と文化接触を生じさせ︑今日のコスモポリタニズムにつながる文化・民族の融合や

対立の諸関係をつくりだしてきたといえよう︒二○○一年度は︑ヨーロッパ人がもたらした文化の

変容と継承︑他の諸文化との融合︑受容︑対立などの諸関係について︑主に宗教と生活文化をめぐ

って︑観察と聞き書きによる予備的な実地調査を行なった︒

調査は︑インド・スリランカ・グループ︵澁谷利雄︑スワン・ワジラチャリャ︑川島耕司︶とイ

ラン・グループ︵村山和之︑山内和也︑前田たつひこ︶に分けて実施した︒

澁谷は︑スリランカのコロンボ近郊のジャーエラで︑クリスマスの見聞を行なった︒ポルトガル

人の布教活動により一六世紀からキリスト教が定着している︒とりわけ西部沿海地方の漁民に多く

みられる︒仏教の伝統のなかで殺生が否定的にみなされてきたために︑漁民の多くが改宗したとい

われている︒その後オランダ︑イギリスの支配が続くが︑今日に至るまでキリスト教徒のほとんど

はカトリックである︒ちなみにジャーエラのジャーとはジャワを指している︒オランダ時代に当地

ではジャワ人を投入して運河を掘ったことに由来するのだという︒

キリスト教徒は全人口の七・六パーセントを占めており︑そのうちシンハラ語を母語とする者は スリランカ・インド・グループは︑一

二週間にわたって実施調査を行なった︒

まえがき

二○○一年一二月下旬から二○○二年一月初旬にかけて︑約

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(3)

民族的にはシンハラ人とされている︒シンハラ人は七○パーセントを占める多数民族で︑そのほと

んどは仏教徒である︒キリスト教徒の民族的アイデンティティの危うさが想像できる︒

川島は︑インド南部のケーララ州で︑クリスマスをめぐるキリスト教とヒンドゥー社会のかかわ

りをテーマにして取り組んだ︒ケーララでは早くも三世紀ころからシリア派キリスト教徒が独自の

社会を形成していた︒これに加えて︑一六世紀に進出したポルトガル人が布教したため︑今日キリ

スト教徒は州人口の二○パーセント以上に上る︒今回はポルトガルの拠点であったコチを主に見聞

概してケーララでは長年にわたって︑反キリスト教運動はなかったのだが︑近年のヒンドゥー至

上主義の台頭によりいくぶん変化が生じている︒一九九九年にクリスマス集会に対する襲撃や︑ペ

ンテコスタル教会への放火などの暴力行為が報告されている︒

ワジラチャリャは︑スリランカのマレー系コミュニティの実態調査に取り組んだ︒その多くはオ

ランダ植民地時代︵一七〜一八世紀︶に傭兵や労働力として現在のマレーシアやインドネシア方面

から導入された人びとの子孫である︒今日のセンサスによれば︑全人口の○・三二パーセントを占

めている︒一九六○年代ころまでマレー語の新聞が発行されていたが︑英語使用者が増加したり︑

シンハラ人やタミル人との結婚が増えたことにより︑マレー語使用者は減少している︒かつてはコ

ロンボのスレイブ・アイランド地区に多く集住していたが︑その後各地に散住している︒そうした

なかで唯一︑南部のキリンダにマレー人漁民社会が存続しており︑興味深い︒最近は︑現在多数あ

る小規模な互助的なマレー人組織を統括しようとする動きがみられる︒シンハラ︑タミル間の抗争

と多民族社会での競合のなかで︑イスラーム教を軸にマレー人としてのアイデンティティを再構築

した︒

前述のジャーエラを初めとして︑コロンボ市内のジャーワッタ通りやマレー通り︑ジャフナ半島

のチャーワー・カッチェーリ︵チャーワーはジャワに由来する︑という説がある︶など︑オランダ

の植民地支配とマレー・コミュニティの存在は︑スリランカの文化・社会に深く刻まれている︒同

様に︑ポルトガル語に由来する人名や生活語奨︑カトリックの存在は︑ポルトガルの関与の深さを しようとするものである︒

(4)

今回の調査からは︑対象地域にはキリスト教など定着したヨーロッパ文化︑またはその深い影響

はみられなかった︒海岸線などにポルトガル時代の要塞が残り︑各地に彼らに導入されたアフリカ

系黒人の子孫がみられ︑イギリス時代の商館建築にわずかにヨーロッパ的デザインがうかがわれる

程度である︒こうしたなかで︑オマーン湾沿岸のマクラーン地域で興味深い伝承を採集することが

できた︒ポルトガル人と戦って名誉の死を遂げたバローチ民族の英雄を称える民俗芸能である︒

ヨーロッパ﹂をキーワードとした今回の調査からは︑ペルシア湾交易の長い歴史においては︑

一時的に勢力を維持したにすぎないヨーロッパ文化の影響力の弱さと︑イラン文化の豊かさや強さ

が対照的にみてとれた︒今後の展望としては︑イラン南東部からパキスタン南西部への踏査を通し

て︑アラビア海沿岸文化ベルトを追究したいと考えている︒

﹇本プロジェクトにはこのほか︑前田耕作︑川添修司︑松枝到︑佐川信子が参加した︒﹈ 行なった︒ イラン調査グループは︑アラビア海からオマーン湾そしてペルシア湾沿岸地域に点在する港湾都

市を対象に︑ポルトガルを初めとするヨーロッパ諸国との文化接触の痕跡を確認するべく行動した︒

参加者は︑村山和之︵民俗文化︶︑山内和也︵考古︑言語︶︑前田たつひこ︵歴史︑宗教︶で︑二○

○二年二月〜三月にかけて三週間にわたって調査に従事した︒陸路でペルシア湾最奥のフゼスター

ン州都アフワーズから︑湾の出入り口にあたるホルムズガーン州都バンダレ・アッバースまでの港

湾都市を探訪した︒イスラーム時代を含む旧来の都市遺跡の記録作業から始まり︑要塞や湾岸特有

の宗教施設︵聖廟︑墓地︶を含めた建造物とともに︑文献・図像・衣装・楽器・遺物などの収集を まざまざと示している︒インドやスリランカの港湾都市を取り上げる場合︑依然としてヨーロッパとの文化接触の考察は不可欠というべきである︒

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