﹃栄花物語﹄における為平親王像
‑その叙述の特色‑
川田康幸
1 ㌧ 序
本論では﹃栄花物語﹄の中に記された'村上天皇の四宮・言m式部卿為平親王像の叙述の特色について考察を加えた。註一為平親王については'安和の変に言及した山中裕氏の論文に詳しい。氏は為平親王の立太子をはばんだ原因は'高明の
女と為平親王が結婚したことにあるとみている。為平親王が立太子をすれば'藤原氏の人々が「上昇しっつある藤原氏
の勢力が'再び源氏に奪われてしまうであろうことを恐れたことは当然である」と心配した点にあるとみている。そし
てその底流には'小野宮流の実勅と'九条流の師輔の1族の対立があったという.この実頬と手を組んだのが師声で註二ある。山口博氏も、ほぼ同様な考えを述べている。為平親王の立太子を阻止し'併せて左大臣源高明を排斥したのが安
和の変であろう。安和の変の原因を論ずれば、為平親王の置かれていた立場を少なからず論じなければならないのであ
る。本論ではこの強烈な印象を与える安和の変にとらわれず'﹃栄花物語﹄の語るところの為平親王に関する'叙述内
容の検討に主眼を置きたい。註三註EZ為平親王は天暦六年(九五二)に誕生し、十四歳の康保二年(九六五)八月二十七日に元服Lt三品に叙された。五
註五十九歳となった寛弘七年(一〇一〇)十月十日に出家、同年十一月七日にその生涯を閉じている。註六﹃栄花物語﹄の中で、為平親王について言及する箇所は'松村博司氏が分けた節の数を基準にして数えると'二十ヶ
所の多きに亘っている。また﹃栄花物語﹄全四十巻の内、巻一「月の宴」から、巻三十九「布引の滝」までという、ほ
ぼ全巻に亘って広く語られているのである。だがその中心は巻一「月の宴」である。巻一「月の宴」では十三ヶ所'全
体の六十五パーセントの数(箇所)を占めている。そこでは他の巻には無い‑らいの質・員ともに'非常に沢山のスペ
ー
スを割いて'為平親王に関する叙述がなされている。それに比べると'残余の巻二「花山たづぬる中納言」や巻三「さ
まざまのよろこび」、巻十一「つぼみ花」'巻十四「あさみどり」'巻二十四「わかばえ」'あるいは巻三十九「布引の滝」
の諸巻では、質・塁ともに貧弱である。巻二以下の諸巻では為平親王が叙述内容の中心を占めてはいない.そこでは為
平親王の子孫を語る場面で、htjの祖が1品式部卿であったと遡及するにすぎないのである。巻二以降ではその各節で叙
述される人物の血筋の良さ、非常に高貴な家の出であると語る場合に、引き合いに出されるのである。﹃栄花物語﹄の為平親王関連の記述は、巻1にある.そこでは'村上天皇'安子、師輔等が深‑慈しみ育て、将来の
立太子をと考えられていたのが為平親王である。その将来の栄光が約束されていた為平親王は'周囲の祝福を受け源高
明の女と結婚する。だがその後'外祖父・師輔'そして母・中宮安子'続いて父・村上天皇を亡くし悲嘆に‑れる。追
い打ちをかける如く'次の皇太子は為平親王ではな‑、その同母弟の守平親王に決定。その最後の仕上げが安和の変'
源高明の左降という順で展開されている。そこには将来の約束された若き親王が祝福された結婚をする。だが栄光の人
生は結婚まで。その後は次々と後見を失って、ついには失意の人となった'悲劇的人生が非常に効果的に語られている
のである。
そこで本論では'この為平親王を主人公とした貴人の悲劇が'﹃栄花物語﹄の中で、どのように造型され、構成され
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ていったのかを検討したい。そしてその叙述の特色を明らかにしてみたい。﹃栄花物語﹄での特色を検討する前に、まず為平親王の生い立ちから身てゆきたい。
二㌧村上天皇の掌中の珠
為平親王は先述した如‑、天暦六年(九五二)に誕生している。父帝・村上天皇は即位して七年目、二十七歳。母・
安子にとっては承子内親王'意平親王に次ぐ三番目の子であった。兄・意平親王はその二年前、天暦四年(九五〇)五
月二十四日に丹後守藤原遠規宅で誕生している。二ケ月後の七月十五日には親王'同二十三日には外祖父・右大臣師輔註七第において'早々と立太子の儀が執り行われた。機械に包まれた状態であったろう。誠に脆弱な'いたいけない様子で
あったろうと推定される。だが志平親王立太子の喜びの消えぬうちに'翌天暦五年(九五一)七月二五日に'姉一宮の註八承子内親王が天逝する。幼さ東宮・意平親王の上に暗雲がただよったのである。東宮の成育に両親や'とりわけ外祖父・
師輔の不安はいかばかり募ったかと推測される。
そのような折りの二人HZ)の男皇子の誕生である.両親や師輔の喜びは単なる二人目の誕生を喜ぶ以上の'1人深く強
‑胸を打つ感動を伴った喜びであったろうと思われる。この様な周囲の喜びに満ちた'待ちに待った二人目の男皇子の
誕生ではあったが'為平親王の親王宣下や著袴の儀の執行された年月日等は不明である。兄弟の例を参考にすれば'誕
生した天暦六年の内に(誕生が年末に近ければ翌年とも考えられるが)'早々に行われたであろう。また三歳になった
年には著袴の儀が執り行われたと思われる。また親王家の別当には、師輔の子息が任命されたと思われる。﹃九暦﹄の天徳三年(九五九)十一月二十六日の記事に、(藤原安子)(安子内親王)
后腹男女親王別嘗宣旨事'紺鯛訪・(守平親王)
と ' 資 子 内 親 王 や 守 平 親 王 家 の 別 当 に 、 外 祖 父 ・ 師 輔 の 子 息 が 任 命 さ れ て い る 。 為 平 親 王 家 の 別 当 等 に つ い て の 子 細 は 註 九 不 明 で あ る が 、 師 輔 の 多 勢 の 子 息 達 の 内 で も ' 安 子 と 同 腹 で あ る 伊 ヂ ' 兼 通 ' 兼 家 '
忠君の中 の 1 人 で は な か っ た か .
為 平 親 王 は ' 東 宮 ・ 意 平 親 王 の 若 し 万 1 の 時 が あ っ た 場 合 、 直 ち に 次 の 東 宮 に 立 つ 可 能 性 の 一 番 高 か っ た 人 物 で あ る .
安 子 腹 の 長 姉 ・ 承 子 内 親 王 は 四 歳 で 天 逝 し て い る 。 ま た 村 上 天 皇 の 兄 ・ 保 明 親 王 は ' 二 十 一 歳 の 若 さ で 即 位 す る こ と も 註 十 な く ' 東 宮 の 地 位 の ま ま で 病 没 し て
いる。ま た 東 宮 ・ 保 明 親 王 の 病 没 を 受 け て 立 太 子 し た 保 明 親 王 の 息 ・ 慶 頼 王 も ' 即 証 十 一 系 図 Ⅰ 参 照 位 の 日 を 迎 え る こ と も 無 く 、 五 歳 で 天 逝 し て
いるのである。醍醐 天 皇 の 皇 太 子 が 三 年 の 間 に 二 人 も 亡 く な っ た の は 、 わ
ず か 三 十 年 ば か り 前 の 事 件 で あ っ た 。 当 時 の 人 々 に と っ て は 記 憶 に 生 々 し い 、 怖 し く も あ っ た 出 来 事 で あ っ た 。 師 輔 に
と っ て は 、 い く ら 厳 重 に 為 平 親 王 を 守 護 し て も t L 過 ぎ る こ と は な か っ た の で あ る 。 為 平 親 王 家 の 別 当 に は 、 こ の よ う
な 状 況 を 考 え 合 わ せ る と ' 安 子 と 同 腹 の 子 息 の 一 人 が 任 命 さ れ た と 考 え る 方 が 合 理 的 で あ ろ う 。 そ し て 実 際 の 差 配 は 師
輔 そ の 人 が 振 っ て い た の で は な い か 。 為 平 親 王 の 後 見 に は ' 東 宮 の 外 祖 父 で 右 大 臣 で も あ る 師 輔 が 厳 然 と 控 え ' 目 を 光
ら せ て い た の で あ る 。 た だ し 、 為 平 親 王 の 誕 生 か ら ' 立 親 王 ' 別 当 の 任 命 ' 著 袴 の 儀 と い っ た ' 幼 少 期 に 言 及 し た 記 事
は 見 当 た ら な い 。 ﹃ 日 本 紀 略 ﹄ 等 は こ の 辺 の 記 録 が 抜 け 落 ち て い る の で あ る 。
天 徳 四 年 (九 六
〇)三 月 十 九 日 に 、 為 平 親 王 は 初 め て 御 註 孝 経 の 手 解 を 、 右 中 弁 菅 原 文 時 よ り 受 け て い る 。 こ の 日 の
﹃ 日 本 紀 略 ﹄ の 記 事 は 注 目 さ れ る 。 そ れ は '
今 日 ' 第 四 島 中 親 王 於 二飛 香 合 一初 受 二御 註 孝 揮 於 右 中 弁 菅 原 文 時 lO 有 二詩 宴 一。
と 、 為 平 親 王 の 読 書 始 め が 行 わ れ た 殿 舎 が 飛 香 舎 ・ 藤 壷 で あ っ た と 記 さ れ て い る 点 で あ る 。 飛 番 会 は 当 時 母 后 の 御 所 で 註 十 二
あった.外 祖 父 ・ 師 輔 の 庇 護 の も と ' 順 風 満 帆 な 幸 せ な 為 平 親 王 で あ っ た 。 だ が 同 年 五 月 四 日 に ' 外 祖 父 の 「 一 く る し 註 十 三 き 二 」 と 言 わ れ た 右 大 臣 師 輔 が 、 五 十 三 歳 の 働 卦 盛 り で 尭 去 し て し
まう.為 平 親 王 に と っ て は l 番 心 強 い 後 盾 を 失 っ た
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︹系図
Ⅰ
︺(m 〜 SS )
保明親王
東宮在位︹別〜9‑3︺
在位(9‑3Is)︹9‑0‑響
在位(9‑6
‑
967)
︹9‑6‑ 5 )
村上 天
皇忠平
‑
師輔安子
立后(9‑7
‑
a)
︹讐 慶頼王(9‑1‑響・天逝(五歳)︹9‑3‑9‑5︺・東宮在位立后
昌子内親王(9‑0Is)︹附]
承子内親王(9‑8‑9‑1)・天逝(四歳)
在位
冷泉
天
皇(9‑0 ‑
i)(9‑7‑響為平親王(9‑2‑1‑1
0
)輔子内親王(9‑3‑ss)
資子内親王(9‑5‑1‑15)
在位
円融天皇(9‑9‑臥)︹9‑9
‑ 9‑7
︺遺子親王(9‑4
‑
響の で あ る 。
琵十四
応 和 四 年 (九 六 四 ) 正 月 二 日 に は ' 為 平 親 王 は 東 宮 ・ 意 平 親 王 と 共 に 、 父 ・ 村 上 天 皇 に 拝 謁 し 匁 を 賜 っ
ている。そ の
一 ケ 月 後 の 二 月 五 日 に は 、 外 祖 父 師 輔 の 同 腹 の 弟 ・ 中 納 言 師 氏 以 下 多 ‑ の 陪 従 を 従 え て ' 北 野 に お い て 子 の 日 の 遊 び が
盛 大 に 催 さ れ た 。 ﹃ 日 本 紀 略 」 に '
第 四 烏 平 親 王 自 二禁 中 l出 二北 野 ]. 有 二子 日 之 興 一。 中 納 言 師 氏 以 下 多 以 陪 従 。 供 二鷹 犬 等 l。
と 記 さ れ て お り 、 中 納 言 以 下 の 人 々 を 従 え た 得 意 顔 の 為 平 親 王 が 思 い 浮 か ば な い だ ろ う か 。 子 の 日 遊 び を 設 定 し ' 中 納
言 以 下 の 陪 従 を 従 え る と い う 、 為 平 親 王 の 面 目 躍 如 た る 機 会 を 設 定 し た の は ' 当 然 ' 父 ・ 村 上 天 皇 で あ り 、 母 ・ 安 子 で
あ っ た ろ う 。 こ の 為 平 親 王 の 「子 の 日 の 遊 び 」 は F栄 花 物 語 ﹄ や t F大 鏡 ﹄ の 「師 輔 伝 」 に 詳 し ‑ 記 さ れ て い る の を み
て も ' 華 や か で 多 く の 人 々 の 耳 目 を ひ く も の で あ っ た と 思 わ れ る 。
帝 よ り の 勅 の 下 賜 ' 多 ‑ の 公 卿 ・ 殿 上 人 を 従 え た 「子 の 日 の 遊 び 」。 こ れ 等 は 為 平 親 王 に 対 す る 村 上 天 皇 と 中 宮 安 子
の ' 強 く 深 い 愛 情 ・ 恩 寵 を 世 間 の 人 々 に 示 し た こ と に な る の で は な い か 。 世 間 の 耳 目 を 集 め た 「子 の 日 の 遊 び 」 の 華 や
か さ を 見 聞 し た 人 々 は ' そ こ に 父 帝 と 母 后 の 強 い 意 向 を 感 じ ず に は い ら れ な か っ た の で は な い か 。 父 母 の 強 い 意 志 が あ っ
た れ ば こ そ の 「子 の 日 の 遊 び 」 が 盛 会 な の で あ る 。 だ が 、 こ の 様 な 面 目 を 施 す 機 会 に 恵 ま れ た 為 平 親 王 の 身 の 上 に ' 暗 証 十 五 ‑ て 重 苦 し い 不 幸 が 襲 い か か る の で あ る 。 そ れ は 母 ・ 中 宮 安 子 の 崩 御 と い う 形 を と っ て ' 突 然 に 現 出 し た の で あ る 。 妹 ・
遺 子 内 親 王 の 誕 生 と い う ' 祝 福 す べ き 機 会 が ' 同 時 に 母 の 命 を 奪 っ て し ま っ た の で あ る 。
中 宮 ・ 安 子 の 崩 御 と は 何 を 意 味 す る か 。 為 平 親 王 や 村 上 天 皇 の 衝 撃 の 大 き さ は 言 を 侯 た な い 。 そ れ と 同 時 に 安 子 の 兄
弟 ・ 九 条 流 の 人 々 の シ ョ ッ ク の 大 き さ も 如 何 ば か り か 。 あ る い は 母 を 亡 く し た 為 平 親 王 よ り 、 九 条 流 の 人 々 の シ ョ ッ ク ・
混 乱 の 方 が 大 き か っ た か も し れ な い 。 為 平 親 王 に と っ て は 藤 原 氏 ' 特 に 母 を 通 じ て の 九 条 流 の 人 々 と の 、 大 切 な 紐 帯 が
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雲散霧消してしまったと言える。中宮の存在があったからこそ'九条流の師輔の子息達の栄達が保証されていたのであ
る。中宮が亡くなれば'彼らは小野宮流の、時の太政大臣であった実類や、小一条流の村上天皇の女御・芳子の父'右
大臣師戸といった'同族内の他流の人々との間に生ずる乳蝶に、直接坑してゆかねばならなくなったのではないか。九
条流の伊デや兼通あるいは兼家にとって'東宮・意平親王を守り立ててゆ‑のに、精力の大半を注ぐ必要が生じた。為
平親王に対して従前割いていた精力が、半減せざるを得ない状況になったとも考えられる。
外祖父と母后を失った為平親王にとって、無条件で頼れるのは'今や村上天皇のみになったと言っても過言ではない。
このことは、父帝が一番よく認識していたとも推測できる。こうした為平親王の将来を憂え心配した父帝の配慮であろ
う.母后の死によって藤原氏との太い紐帯に、労りの出だした為平親王に対して'翌年の康保二年(九六五)の正月二
十九日に、父の恩寵によるものであろう、巡給とは異なる毎年預ることのできる'別給を賜ることとなった。﹃除目大
成抄」に'
売品馬平親王
右右大臣宣'拳勅、件親王宜毎年別給諸国目蓋人'史生童入省'
康保二年正月二十九日大外記兼主税樽助備後樺介御船宿禰伝説奉
毎年'諸国の目一人と史生一人分の'別給を賜ることが記されている0註十六親王に賜る給は「巡年に当たった年に給せられるのであって'毎年'賜るものではなかった」のである。この康保二
年の別給は'為平親王に対する特別待遇'殊遇と言える。父帝の為平親王に対する「ふりがたき」思いが充分にうかが
えるのではないか。
父帝の為平親王に対する経済的な厚い配慮のもと、同年八月二十七日に'十四歳になっていた為平親王は元服する。
そ し て 三 品 に 叙 さ れ た 。
烏 平 親 王 加 二元 服 l. 叙 二 三 品 一. 加 冠 大 納 言 高 明 O 理 髪 戒 人 頭 延 光 朝 臣 。 親 王 以 下 参 入 。 輔 子 内 親 王 始 弄 。
(閑昭和略」)加 冠 の 大 役 は 村 上 天 皇 の 異 母 兄 ・ 醍 醐 源 氏 の 源 高 明 が 勤 め ' 理 髪 は 同 じ く 醍 醐 源 氏 の 源 延 光 が 勤 め て い る 。 こ の こ と は
注 目 に 価 す る 。 ﹃公 卿 補 任 ﹄ の 康 保 二 年 の 条 に よ れ ば 、 右 大 臣 の 席 が 欠 け て お り ' 大 納 言 源 高 明 は ' 左 大 臣 藤 原 実 額 の
席 次 に 次 ぐ ' 公 卿 で は 次 席 と い う 高 い 地 位 に い た 。 だ が 左 大 臣 は 加 冠 の 役 に は 就 か な か っ た 。 公 卿 席 次 で い え ば 次 席 の '
村 上 天 皇 の 異 母 兄 ・ 醍 醐 源 氏 の 重 鎮 が 加 冠 の 役 を 勤 め た の で あ る 。 理 髪 の 役 に も 同 じ ‑ 醍 醐 源 氏 ・ 村 上 天 皇 の 甥 が あ て
ら れ た 。
兄 の 東 宮 意 平 親 王 の 場 合 は ' 憲 平 親 王 が 既 に 東 宮 に な っ て い た 点 も あ り ' 加 冠 は 左 大 臣 藤 原 実 額 ' 理 髪 は 参 議 藤 原 朝 註 十 七 忠 で あ
った。 弟 の 円 融 天 皇 の 場 合 は 在 位 中 の こ と で も あ り ' 加 冠 は 摂 政 太 政 大 臣 伊 デ が ' 理 髪 は 左 大 臣 源 兼 明 が 奉 仕 し 註 十 八 て い る 。 兄 と 弟 が 元 服 し た 時 点 は 、 兄 が 村 上 天 皇 の 皇 太 子 で あ り 、 弟 は 天 皇 在 位 中 で あ っ た の で 、 一 概 に 比 較 し て 論 ず
る の も 如 何 か と 思 わ れ る が 、 為 平 親 王 の 元 服 に は 藤 原 氏 の 公 卿 ・ 殿 上 人 が 一 人 も 加 わ っ て い な い 。 こ の こ と は 、 村 上 天
皇 が 為 平 親 王 の 将 来 を ' 醍 醐 源 氏 に 託 さ ざ る を 得 な か っ た 状 況 に 置 か れ て い た の で は な い か 。 故 母 ・ 中 宮 安 子 の 兄 弟 に
託 せ な い 何 か が あ っ た の で は な い か と も 思 わ せ る 。 糟 糠 の 妻 ・ 安 子 を 亡 ‑ L t 気 力 の 衰 え た 村 上 天 皇 を 尻 目 に 、 藤 原 氏
の 内 証 ・ 暗 闘 が 激 し さ を 加 え て い た と も 考 え ら れ る 。 と す れ ば 火 中 の 栗 に な り か ね な い 為 平 親 王 の 元 服 に ' わ ざ わ ざ ロ
を は さ む 余 裕 が ' 藤 原 氏 の 九 条 流 の 若 い 人 々 に 無 か っ た の か も 知 れ な い 。
外 祖 父 師 輔 ' 母 安 子 は 既 に 亡 き 人 で あ る . 伯 父 伊 戸 は 参 議 の 席 に は い た が ' 康 保 二 年 (九 六 五 ) の 席 次 は ' 下 か ら 三
番 目 と い う 状 況 で あ る 。 小 野 宮 流 の 実 額 は 左 大 臣 ' 小 l 条 流 の 師 デ は 大 納 言 、 九 条 流 の 長 兄 伊 デ は 参 議 で し か な か っ た O
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