1 Ⅱ.為政者に着目した文化遺産の研究 吉祥院調査概要 光龍山吉祥院は、西川町の現存する寺院の中では最も古い文明年間(1469 年〜1486 年)に、寒河江の法 泉寺二世邑山珠忠和尚により開山された曹洞宗の寺院である。吉祥院のある西川町吉川は大江氏が下向した 際に最初に居城を置いた地であり、本寺は大江氏との繋がりが深い寺院である。堂宇は中興の祖とされる五 世鉄山心牛和尚により享保十八年(1733 年)に再建されるが、宝暦九年(1759 年)に焼失し、現在の堂宇 は六世和尚によって再建されたものである。 本堂の須弥壇には本尊の木造釈迦如来坐像を中央に木造十一面観音菩薩坐像と木造地蔵菩薩立像のઅ体が まつられている。その地蔵菩薩立像の台座には、発願者である大江氏の名前や造像の経緯とともに像の輸送 ルートが記される珍しい銘文が残されており、本寺の歴史を証明するものとして意味深いものである。ま た、本堂内には安中坊からの預かり品である大江廣元、親廣、多田仁綱の肖像彫刻が安置されている。他に も、地蔵菩薩像や観音像が数体ずつ安置され、吉川地区での地蔵信仰や観音信仰を示す遺品として興味深 い。 書画では、町の指定文化財「西国三拾三體観世音菩薩」笹島月山筆が保管されており、本堂内の奥の間に は「悲母観音」を始め「最上三十三観音菩薩」を描いた額や、四国八十八観音巡礼の記念札を貼り集めた奉 納額、巡礼絵馬などの作品が掛けられている。他にも大幅の「唐獅子図」や「菊図」、文字額などがあり、 須弥壇上部の欄間部分には水墨の「双竜図」が設置されている。 吉祥院 文化財悉皆調査リスト 仏像文化財 名 称 安置場所 ઃ 木造釈迦如来坐像 本堂 木造十一面観音菩薩坐像 本堂 અ 木造地蔵菩薩立像(ઃ) 本堂 આ 木造大江廣元坐像 本堂 ઇ 木造大江親廣坐像 本堂 ઈ 木造多田仁綱坐像 本堂 ઉ 木造千手観音菩薩立像 本堂 ઊ 木造地蔵菩薩立像() 本堂 ઋ 木造僧形立像 本堂 10 木造地蔵菩薩半跏像(ઃ) 本堂 11 木造地蔵菩薩半跏像() 本堂 12 木造地蔵菩薩立像(અ) 本堂 13 木造僧形坐像 本堂 14 木造聖観音菩薩立像 本堂 15 木造地蔵菩薩半跏像(અ) 本堂 16木造千手観音菩薩立像 本堂 17 木造十一面観音菩薩立像 本堂 18 木造地蔵菩薩立像(આ) 本堂 19 木造地蔵菩薩立像(ઇ) 本堂 20 木造地蔵菩薩立像(ઈ) 本堂 21 木造地蔵菩薩立像(ઉ) 本堂 22 木造地蔵菩薩立像(ઊ) 本堂 23 木造菩薩立像 本堂 24 木造開山・邑山珠忠坐像 位牌堂 書画文化財 名 称 保管場所 ઃ 西国三拾三體観世音菩薩 本堂 悲母観音 本堂 અ 唐獅子図 本堂 આ 俳額 本堂 ઇ 額 本堂 ઈ 四国八十八観世音菩薩 本堂 ઉ 最上三十三観音御詠歌 本堂 ઊ 摩訶般若波羅蜜多心経 本堂 ઋ 俳額 本堂 10 菊図 本堂 11 六道絵 本堂 12 涅槃図 本堂 13 釈迦三尊十六善神像 本堂 14 巡礼絵馬 本堂 15 最上三十三観音菩薩 本堂 16四字墨書 本堂 17 五字墨書 本堂 18 三字墨書(山号) 本堂 19 巡礼絵馬 本堂 20 双竜図 本堂 21 いろは歌屏風 本堂 22 飲中八仙歌(左)・俳画(右) 本堂 23 巡礼絵馬 本堂 24 他の収蔵作品 本堂
Ⅱ.為政者に着目した文化遺産の研究
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文化財悉皆調査
長坂一郎 半田正博 岡田 靖 大山龍顕
1. 調査概要①木造釈迦如来坐像 法 量(cm) 像高 29.2 耳張 7.2 腹奥 10.4 肘張(納衣上) 18.9 面長 5.7 面奥 7.7 坐奥 16.5 膝張 13.9 面幅 6.6 胸奥(右) 8.4 裳先出 4.9 膝高(左) 4.6 形 状 肉髻、螺髪、肉髻珠(水晶、赤)。髪際波形、白毫(水晶)、玉眼、耳朶貫通。三道。納衣、覆肩衣。納衣 は左肩を覆い右腋に回り、左肩に回り、右肩に少しかかる。法界定印を結ぶ。裙を着け、右足を上にして、 結跏趺坐する。台座は上から、蓮台、敷茄子、反花、框座(六方隈入で、背面部を直裁し、四方隈入とな る)。各漆箔。 品質・構造 ヒノキ材か。全面漆箔の為、構造は不明。両脚部(前膊半ばを含み)矧付。現状では台座との接合が堅 固。 保存状態 表面に埃汚れが付着し金箔の多くが剥落しているものの構造的には堅牢である。保存状態は比較的良好で あると言える。 所 見 現状の十一面観音坐像を納める厨子は像と厨子に寸法の不一致が見られるため一具ではない可能性が高 い。そして、現在十一面観音坐像を納める厨子は、釈迦如来坐像の台座底面と厨子内の跡が一致するため、 一具であると考えられる。したがって釈迦如来坐像の制作年代は、厨子銘の「享保六年」(1722 年)と考え られる。 銘 文(現十一面観音坐像の厨子銘) 【厨子右裏刻銘】 【厨子左側刻銘】 【厨子底板裏側墨書】 「施主 松田長兵衛」「為 雲頭了断 宝岳妙珠 菩提也」「當寺四世雲清代 享保六年 子八月吉日」 正面 左側面 厨子底面 ②木造十一面観音菩薩坐像 法 量(cm) 頂−顎 15.1 耳張 11.6 腹奥(肉身部) 18.5 肘張 29.0 面長 10.9 面奥 11.0 坐奥 27.1 膝張 36.4 面幅 9.0 胸奥(左) 14.0 裳先出 6.2 膝高(左) 7.8 2.調査報告
111 Ⅱ.為政者に着目した文化遺産の研究 形 状 菩薩形坐像。髻欠失(柄穴はなく、貼付するか)。地髪部毛筋彫り。天冠台彫出。地髪中央部に径 1.5㎝ の柄穴をઅか所、天冠台内側にઉか所穿つ。柄穴頭内部に貫通する。(柄穴は後補。したがって当初は頭頂 面のない聖観音像か)。髪際毛筋彫り。鬢髪耳に渡る。白毫(欠失)。玉眼嵌入。三道彫出。天衣は両肩を覆 い、左側は腋を通って右手首にかかり、外側に垂れる。右側は腋を通り、両脚部前面を渡り、左手首にかか り、外側に垂れる。条帛を付ける。裙、腰布(枚)を付け、結跏趺坐する。左手屈臂して前に出し、五指 を丸め持物をとる。右手屈臂して前に出し、掌を上に向けて膝上で五指を伸ばす。 品質・構造 木造。寄木造。ヒノキ材か。現状古色。頭部は面相部および耳半ばを通る線で矧ぎ付け。後頭部は左右二 材矧ぎ付け。差し首。体部は前後三材矧ぎ付け。内刳りを施す。左手は肩、手首矧ぎ付け。右手は肩、手首 矧ぎ付け。両手先矧ぎ付け。両脚部矧ぎ付け。裳先矧ぎ付け。天衣遊離部矧ぎ付け。胡粉下地。漆箔。頭髪 は群青彩。現状はその上に漆箔(後補)。頭部の頭頂面柄穴は後補(現状は頭部内に貫き、木片が頭部内に 落ちている)。後頭部左右材の矧ぎ目に小材を挟む(後補)。蓮台は五材製(中央四角板に周囲に四材を矧ぎ 付ける)。 保存状態 頭頂の髻、化仏の全てを欠失する。(頭頂に髻を矧ぎ付けた痕跡はなく、化仏差し込み穴も比較的新しい 造作であるため、後世に十一面観音像に改変された可能性も考えられる) 表面の金箔がほとんど剥落し、下地の漆塗膜が露出している。 所 見 天冠台を波状とし、髪際正面や後頭部の髪房を複雑にする点、天衣を両肩で大きく撓める所、裙の折り返 し部の両端部の撓め方を大きくする所など、いわゆる宋風彫刻の作風を見せる。ただし、①衣が厚くなる 所、②胸の肉われを表さない所、③毛筋が細く見開かない所、④毛筋彫りの形が鈍い所、⑤両外側に垂れる 天衣の端の形が過剰になる所などの特徴から、制作は江戸時代と推測される。 正面 背面 上面 底面 ③木造地蔵菩薩立像(ઃ) 法 量(cm) 像高 56.1 面幅 6.9 腹奥(衣上) 10.3 台座高 27.0 頂−顎 10.6 耳張 8.0 肘張 18.7 幅(下框座) 38.5 面奥 8.1 胸奥(右) 8.8 裾張 14.3 奥行(下框座) 27.9 形 状 円頂。白毫相。玉眼。耳朶不貫。三道。下着。衲衣。覆肩衣をつける。左手を屈臂して前に出し、蓮台付 宝珠をとる。右手を屈臂し、やや垂下して前に出し、五指をまとめて錫杖をとる。右足をやや前に出し、裙 をつけて立つ。台座は、蓮台、反花、六角障屏付受け座、天板底板を持つ六角敷茄子、底板付き下框座から なる。
品質・構造 ヒノキ。寄木造。玉眼。彩色。頭部は耳後ろおよび面相部で矧付ける三材製。内刳を施し、玉眼を嵌入す る。差し首。体部は肩上および胸上部で矧付ける三材製。内刳を施す。左手は肩から裾先を含んで矧付。前 膊部矧付。手先別材矧付。右手は肩以下矧付。手足矧付。両足先各矧付。光背は輪光部が四材からなり、柱 部は一材。 保存状態 全身に埃汚れが付着するが、構造、表面塗膜ともに保存状態は良好。 所 見 銘文から造像の詳細な由来が分かる稀有な例である。銘によれば宝永五年(1708 年)に、金仲山(吉川 安中坊の意)理教院(廣隆の別称)の依頼により、京寺町仏師光益によって造像され、羽黒山より月山を越 えて岩根沢へと至り、吉祥院に納められたとある。これは、吉祥院と安中坊(大江氏)との密接な繋がりを 証明する銘である。 銘 文 台座背面に朱漆で銘記 「宝永五子八月六日 勧化祥山丹瑞 講助力理教院」 「地蔵講人衆 金仲山 理教院母 理教院内 大沢 半四郎母 8垚兵工母 8朝右ェ門内 小原 吉兵へ母 8彦作母 8七蔵内 以上九人也」 台座底面銘記 「開眼導□(師?) 金仲山一雲院普感 勧化 当寺五世 丹瑞 講助力勧化 金仲山理教院祐賢 大沢 金仲山 理教院母 同 妻 同大沢 半四郎母 同所 喜三郎母 朝右ェ門母 造金□(弐?)両 仏師京寺町通下御霊前 法橋 光益 奉彫刻 宝永四年六月 理教院 祐賢上京之刻命仏軀誂訖 同五年八月朔日ニ 京□庄内羽黒山御預り 月山越ニ岩根沢□金仲山へ 御下着 同八月 十三日ニ 吉祥院眞仏者也」 正面 背面 左側面 ④木造大江廣元坐像・木造大江親廣坐像・木造多田仁綱坐像 法 量(cm)(廣元像。他の体も概ね近似値) 像高 15.2 袖張 17.3 足先奥 9.0 肘張 9.8 腹奥 5.2 形 状(廣元像) 冠をつける(巾子冠か)。彫眼、ひげ、額にしわ。束帯姿。左手は袖にくるみ、右手は腹前で笏(欠失) をとる。両足裏を合わせて前に出し座す。腹部に「(毛利紋)」。左袖と膝の間から後面に通ずる孔(太刀を
11 Ⅱ.為政者に着目した文化遺産の研究 入れるか)。 品質・構造(廣元像) ヒノキ材。頭体一材、丸彫り。彫眼。左手先、右肘先各別材矧付け。冑左袖別材矧付け。右大腿部先別材 矧付け。両脚部一材矧付け。古色。厨子内部は漆箔。外面黒漆塗り。扉内側に毛利紋。 保存状態(廣元像) 鼻頭、衣文の隆起部などに欠損が見られ、両足先のつま先部分を割損する。背面左腰部に小径の穴があ く。 所 見 本像は大江家にて保管されていた像であり、現在吉祥院で預かっている状態である。江戸時代の作か。 銘 文 各像の像背面に陰刻の銘 「大江廣元 法名覚阿 法師ノ像」「大江親廣 法名蓮阿 武者ノ像」「多田仁綱 法名源宥 法師ノ像」 木造大江廣元坐像 正面 木造大江廣元坐像 正面 木造大江廣元坐像 厨子入り 木造大江親廣坐像 正面 木造大江親廣坐像 正面 木造大江親廣坐像 厨子入り 木造多田仁綱坐像 正面 木造多田仁綱坐像 左側面 木造多田仁綱坐像 厨子入り
⑤吉祥院安置のその他の諸尊 木造地蔵菩薩立像 像高:62.1 木造地蔵菩薩立像 像高:74.6 木造地蔵菩薩半跏像 座高:38.2 木造地蔵菩薩半跏像 座高:32.4 木造地蔵菩薩立像 像高:25.5 木造地蔵菩薩半跏像 座高:15.6 木造地蔵菩薩立像 像高:12.5 木造地蔵菩薩立像 像高:19.0 木造地蔵菩薩立像 像高:30.3 木造地蔵菩薩立像 像高:13.5 木造地蔵菩薩立像 像高:13.5 木造千手観音菩薩立像 像高:36.5 木造聖観音菩薩立像 像高:15.5 木造十一面観音菩薩立像 像高:19.3 木造菩薩立像 像高:21.0 木造千手観音菩薩立像 像高:25.4 木造僧形坐像 像高:50.5 木造邑山珠忠坐像 像高:37.4 開山邑山珠忠位牌 全高:49.0
11 Ⅱ.為政者に着目した文化遺産の研究 ⑥西国三拾三體観世音菩薩(西川町指定文化財) 寸 法(cm) 本 紙 縦 174.1 横 87.4 全 体 縦 243.0 横 103.8 形態・材質技法 掛軸装三段仏画表具 絹本着色 内 箱 印籠蓋、桐材、中に添書有り 外 箱 落し蓋、塗箱 箱書きあり。「西国 三拾三體観世音菩薩」 作 者 笹島月山 箱内部に奉納時の添書あり。 「奉納 十代笹島長右衛門」 「奉納 笹島月山筆 西国三十三観音之図一軸 右 祖先累代菩提之為 昭和二十七年十一月一日 十代笹島長右衛門 吉祥院 十六世青山穿石殿」 保存状態 経年の劣化による浮き、折れ、擦れといった損傷が見られる。本紙中央に紙継ぎによる折れがある。肉身 部の胡粉は全体的に浮きが見られる。本紙中央横に紙継ぎによる折れ有。 ⑦悲母観音 寸 法(cm) 本 紙 縦 152.1 横 87.5 全 体 縦 231.2 横 95.0 形態・材質技法 掛軸装 三段表具 絹本着色 裏面に墨書あり。 「大正元年孟蘭盆月 現住青山迂禅代」 保存状態 画面表面の汚れ、上部に擦れた跡があり、裏打紙の継ぎ跡が画面 両端に上下に見られる。損傷や汚れは表具下部に集中しており、右 隅に巻癖による汚れ、左下には裏打紙からの浮きが見られる。軸棒 の裏側には破れた箇所も見られる。 ⑧巡礼絵馬 寸 法(cm) 本 紙 縦 34.0 横 50.1 全 体 縦 39.2 横 55.2 形態・材質技法 額装 紙本着色 縁 檜内面取り 厚み 2.9cm 見付 2.7cm
画面に記載あり。 *□部分は判読不能。 画面右下「□□堂□□七十一歳画」 画面上部の短冊内「伊藤じん 安部ふみ 工藤とめ 西村山郡 大字よし賀和 最上三十三所霊場 奉順禮南無大慈悲観世音菩薩為 奉納大正十三年旧十一月」 右端の巡礼者の持つ笠「最上順禮 大字吉川 川土居村 同行三人」 中央の巡礼者の笠(手前から右回り)「最上順禮 迷或三界城 悟故十方空 同行三人吉川村 本来無 東北 伺慮有南北」 保存状態 本紙全体が茶色く変色している。経年による劣化と思われる。本紙破損箇所は捲れあがっている。 ⑨巡礼絵馬 寸 法(cm) 本 紙 縦 80.5 横 180.8 全 体 縦 91.0 横 191.6 形態・材質技法 額装 紙本着色 縁 黒縁前丸 厚み 3.1cm、見付 5.5cm 画面に墨書あり。 画面右端に「明治三拾九丙午年 三月如意珠日」。 十五人目と最後尾の巡礼者の背中に 「天下泰平 奉順最上参拾参所南無大悲観世音 日月清明同行五十七人 西村山郡川□居村大字吉川 □□□□」(人名判読できず) 画面左下にも、先導(石崎真禅)世話人અ名(松田すき、荒木きく、伊藤□う)講中 54 名の名が記載さ れている。 保存状態 画面左下に虫のなめた跡がある。画面中央には補彩の跡や、本紙破損の修理跡が見られる。「奉納」の文 字は左〜右へと記されており、あとで記した可能性がある。部分的には剥落も見られる。 ⑩最上三十三観音菩薩 寸 法(cm) 本 紙 縦 119.2 横 133.3 全 体 縦 125.2 横 145.0 形態・材質技法 額装 紙本着色 縁 前丸 黒漆内面取り 厚み 3.8cm 見付ઉ cm 保存状態 本紙全体にシミと汚れが広がっており著しく目立つ。本紙も茶 褐色になっており変色している。左上部には大きな破損がある。 破損した本紙の下には文書が下張り文書が確認できる。骨にも変形が出ており、裏面にも大きな破損があ る。
11 Ⅱ.為政者に着目した文化遺産の研究 ⑪双竜図 寸 法(cm) 本 紙 縦 50.7 横 211.5 全 体 縦 57.8 横 219.0 形態・材質技法 障壁画 紙本墨画 保存状態 須弥壇上部の欄間部分に設置されていた。表面にビニールが掛けられて保護されていた。しかし、固定の 為のマスキングの糊が変質し、縁に付着していた。本紙は全体に茶色く変色している。部分的な欠損や水シ ミは全体に渡って点在している。修理跡がある。印があるが判読不明。 ⑫仏涅槃図 寸 法(cm) 本 紙 縦 132.4 横 94.8 全 体 縦 229.0 横 121.9 形態・材質技法 掛軸装 三段仏画表具 紙本着色 裏面に墨書あり。 「吉祥院什物 當寺十五世 穿石代 維持昭和廿二稔大聖涅槃之日 再調装 表具師 松田 巳作 氏 表具費 一金 三伯圓也」 ⑬釈迦三尊十六善神像 寸 法(cm) 本 紙 縦 116.6 横 58.5 全 体 縦 190.0 横 73.3 形態・材質技法 掛軸装 仏二段表具 絹本着色 画面右下に銘と落款あり。 「明治丁酉春七十歳玉斎謹画(白文印)」 備 考 「明治丁酉」は明治四十年(1908)。「玉斎」は他の作品にも見られる。 ⑭俳額 寸 法(cm) 本 紙 縦 46.0 横 160.3 全 体 縦 64.3 横 181.0 形態・材質技法 額装 絹本着色 墨書 縁 前丸 黒だが面取りは朱 厚み 3.8cm 見付ઉ cm 銘と落款あり。 「安政 六年」「玉斎(朱文印)」がある。
吉祥院文化財悉皆調査 まとめ 吉祥院文化財調査では、仏像文化財、書画文化財を中心に悉皆調査を行った。その結果を以下にまとめ る。 まず仏像文化財では、本堂須弥壇上に本尊木造釈迦如来坐像、木造菩薩形坐像、木造地蔵菩薩立像が安置 されている。 釈迦如来坐像は、現在釈迦像を納める厨子が現在菩薩形立像を収める厨子と入れ替わっていることが本調 査によって判明し、厨子の墨書銘によれば享保六年(1722 年)に造立されたことがわかった。一方の釈迦 如来坐像の厨子は、寸法的に菩薩形坐像が収まる大きさではないため、厨子に書かれた墨書銘は菩薩像の造 立を示すものではなかった。また、寺内に現釈迦像厨子に適当な大きさの尊像が見当たらなかった。そのた め、菩薩形坐像の制作年代を証明する銘はないこととなったが、造形様式的に見て江戸時代に造立されたも のと推測した。 地蔵菩薩立像は調査報告で示したように、台座に大量の墨書による銘文が残されている。銘文には発願者 (理教院)、制作者(法橋光益)、制作年代(宝永五年(1708 年))とともに、本像造像から吉祥院にいたる までの輸送経路が記載されていた。これらの銘文の内容は資料性な価値が高く、本像の造形的秀逸さを含め て文化財的価値が極めて高い像であると言える。また、本堂右隅にまつられる木造千手観音菩薩立像の厨子 にも、吉祥院の名が明記される銘文が見られた。このような所蔵する寺院の名称が明記されている仏像は、 動産である仏像が造立当初から寺院に収められている事実を証明するものとして、今後歴史的検証を行って いく際の基準作例として位置付けていきたいと考える。 また吉祥院には、大江氏の末裔が所蔵されている大江廣元、大江親廣、多田仁綱のઅ体の肖像彫刻が委託 されている。このઅ体は造形様式的に見て江戸時代の制作と思われるが、大江氏の肖像を伝える貴重な文化 財であると言える。 以上のように、文明年間(1469 年〜1486 年)に寒河江の法泉寺の末寺として開山された吉祥院は、室町 時代以降の大江氏と深い関係があることが仏像文化財から証明された。しかし、大江氏本家は戦国時代に最 上義光によって滅ぼされたため、江戸時代に造像された吉祥院の諸仏は辛うじて命脈を保った大江氏の末裔 によって、先祖の菩提を弔うためなどの目的で奉納されたものであると推測される。また、同寺には一カ寺 に所蔵されるには特筆して数の多い 12 体もの地蔵菩薩像が安置されており、先の須弥壇上の地蔵菩薩立像 に地蔵講衆の銘があることから、江戸年間に大江氏もしくは吉川地区において地蔵信仰が盛んであったこと が感じ取れる。 今後、江戸時代の大江氏の活動や吉川地区での信仰形態について、他の寺院の調査を踏まえてより深い調 査研究活動を進めていきたい。 続いて書画文化財では、掛軸ઇ件、額 15 件、屏風ઋ件、障壁画ઃ件、絵馬અ件を調査した。 作品年代は比較的新しく、詳細に作品の変遷を辿れている訳ではないが、巡礼絵馬から最上三十三観音巡 礼に関する作品など、近世末から近、現代へと、寺院の変遷と共に地域の信仰の移り変わりを表した作品が 所蔵されている。 笹島月山筆・西国三十三體観世音菩薩は西川町指定文化財となっており、地元で活躍していた笹島月山が 明治四十年に描いている。以前は実際に法要の際に掛けていた事もあるということで、信仰と作品との密接 さが最近まで続いていることが伺い知れる。また、作者は分からないものの大幅の悲母観音が所蔵されてお り、裏面には奉納された大正元年の年号が記されている。作者は明らかではないものの、年代や状況から笹 島月山の可能性が高い。悲母観音は狩野芳崖の重要文化財が下敷きにある事は間違いないもののやや改変さ れた図様となっている。しかし、ほぼ同様の構図の作品が東京の寺院にも所蔵されている事が確認されてい る。一見して筆致等の描写が異なる事から別々の作者であると考えられるが、山形の笹島月山と東京の寺院 を結ぶ接点は東京美術学校や当時の流行にあると推測する。笹島月山の作品は相当数が町内にあるといい、 以前町内で展示を行った事もあるとはいうものの、地元でもいまだ知られていない事が多く、今後調査が進 み実態が明らかになる事で、地元での笹島月山の活動が明らかになるだけでなく、地域の作家活動から当時 の画家の動向の一端を知るという点からも興味深い作品となっている。 西国三十三體観世音菩薩、悲母観音共に、現在損傷が目立ち始めているため、作品を修復する機会へと繋 ぐことも念頭に置きつつ、その作品背景と地域との関わりの調査を深め、調査研究の成果を地域の方と共有 することで地域文化遺産として受け継いでいけるように活動を行うことが重要と考えている 他に見られた作家名としては、「玉齊」銘の作品がઅ点確認された。これは笹島月山とは別の作家と考え 3. 文化財悉皆調査まとめ
11 Ⅱ.為政者に着目した文化遺産の研究 られ、釈迦三尊十六善神像には「明治丁酉春 七十歳 玉齊謹画(印)」とある。額や龍の障壁画など、地 域で活躍していた事が伺えるものの、詳細は未だ不明で、今後の課題となっている。 吉祥院には他にも絵馬や俳額が多く奉納されている。多くの作品で損傷が見られるものの、それら全てが 修復されることはむずかしい。折れや本紙が裏打ち紙から剥離するなど、長期的には作品を本格的に解体し て修復する事は必要と思われるが、当面は現状から悪化しないような保存管理方法が必要となっている。 保存環境は、ご住職が本堂と棟続きの庫裡にお住いになっていることから、清掃、管理ともに行き届いて いるため、安置されている文化財の状態に大きな問題はないと言える。しかし、環境の良さによって損傷が 最小限に抑えられているとはいえ、経年劣化によって生じた表面彩色の剥落などが見られる。今後、必要に 応じて修復処置などを講じることも視野に入れて保存活動を行っていきたい。
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Ⅱ.為政者に着目した文化遺産の研究
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1 .はじめに (1)巨海院の歴史 ɹେߐொࠨ͔ΒԆͼΔόΠύεΛࢁखʹ͔ͬͨେߐொަྲྀηϯλʔۙ͘ʹݐͭڊႢɺమғࢁڊւ ӃɻڊւӃͷཱఆ͔ͱͳ͍ͬͯͳ͍͕ɺதੈࠒਅݴफͷࣉӃͰࣲڮʢפՏߐࢢʣͷམীࣉࢁʹ͋ͬ ͨͱΘΔɻͦͷޙɺೆே࣌ʹେߐݩ࣌ʢେߐפՏߐࢯ ʣʹΑͬͯݐ͞Εͨچ१ࢁ ʢࠨʣʹҠస͞Εͨͱ͞Ε͍ͯΔɻ͞Βʹͦͷޙͷઓࠃ࣌ͷఱจ ʢʣʹɺ৽ঙਸ਼Ӣࣉޒੈ ࡾޫଘୢʹΑΓݱࡏʹҠస͞Εɺಎफͱͯ͋͠Βͨʹ։ࢁ͞Εͨɻ ɹߐށ࣌ʹೖΔͱࠨʹञҪ࣍ʢʙʣΛൡओͱ͢Δࠨൡʢʙʣཱ͕ൡ͠ɺ१ࢁ Λഇͯ͠৽ͨʹখ࣫Λݐઃͯ͠ɺΛத৺ͱͨ͠ொͭ͘Γ͕ߦΘΕΔɻ࣍ɺڊւӃΛӬ ʢʣʹݩෑΑΓͷʹҠసͯ͠ఏࣉͱͨ͠ɻͦͷͨΊɺڊւӃʹ࣍ͷุͱҐ͕͋Δɻ ɹࢠͷͳ͔ͬͨ࣍ͷࢮޙɺࠨൡഇ͞ΕɺຊՈͰ͋ΔԬൡʹٵऩ͞ΕͯɺࠨԬൡओञҪউ ʹΑͬͯ౷࣏͞ΕΔ͜ͱͱͳΔɻͦͯ͠উ͕ਖ਼อ ʢʣʹ͢ΔͱɺԬൡࢠɾ͕ܧ͗ɺ ࡾஉɾ߃ࢧൡͱͯ͠দࢁʢञాࢢʣઍੴɺࠨ ສ ઍੴͷܭ ສੴΛৡΓड͚ͯՈ͠ɺদࢁൡΛ ཱൡ͢ΔɻদࢁൡञҪՈɺҎޙນ·ͰͷീʹΘͨͬͯদࢁʹڌΛஔ͖ɺࠨ ͔Βઃஔ͞ ΕͨॴʹΑͬͯ౷࣏ͨ͠ɻ ɹจ ʢʣʹນͷࣉӃ౷੍Λड͚ΔͱɺڊւӃॴࣉͰ͋ΔԬ૯ԺࣉԼͱͯ͠෭ૐͷཱ Λड͚ɺେߐொͷԼࣉӃʢઘࣉɺߴদࣉɺࣉɺେࣉɺণࣉɺޫӃɺদӃɺޫݯࣉɺਗ਼ ٱࣉʣΛ·ͱΊͨɻ 表 1 平成 23 年度調査一覧
Ⅱ.為政者に着目した文化遺産の研究
大
の文化財悉皆調査
長坂一郎 半田正博 岡田 靖 大山龍顕 大
長田
1 (2)平成 23 年度調査研究概要 ɹڊւӃۙੈʹࠨൡञҪՈͷఏࣉͱͯ͠ઃཱ͞ΕɺͦͷޙদࢁൡञҪՈͷ൳ޢॸຽͷࢧ࣋ΛूΊ ͳ͕Βൃల͠ɺݱʹ͓͍ͯେߐொͷத৺తͳࣉӃͱͯ͠ଘࡏ͍ͯ͠Δɻͦͷྺ࢙େߐொ࢙Λ͡Ίͱ ͢ΔઌߦݚڀʹΑͬͯௐࠪ͞ΕɺڊւӃʹॴଂ͞ΕΔʑͷѲ͋Δఔͳ͞Ε͍ͯΔɻ·ͨɺڊւӃͷ લॅ৬Ͱ͋Δނߴࢁ๏ࢯେߐொͷจԽࡒอޢҕһΛΊɺʰେߐொͷဠ૾ʱʰେߐொͷࢣʱʰେߐொͷ ֆഅʱͳͲͷௐ࣮ࠪફʹΑΓɺେߐொͷจԽࡒཧղʹଟେͳߩݙΛ͞Εͨɻฏ ͷຊηϯλʔͷௐࠪ ݚڀͰɺͦΕΒͷઌߦݚڀΛج൫ͱͨ͠͏͑Ͱɺ૯߹తͳࢹͰͷҬจԽҨ࢈อޢͷ؍͔ΒɺڊւӃ ʹΘΔ૾ྨʢ૾ɾࢣ૾ɾҐɾֹͳͲʣɺॻըྨʢֻ࣠ɾሯ෩ɾԨֆɾֆഅɾݹจॻɾࣸਅɾۙ ֆըͳͲʣɺݐஙʢࢁʣͷ࠶ௐࠪΛ࣮ફͨ͠ɻௐࠪɺڊւӃͷେ໊Ոͷఏࣉͱͯ͠ͷྺ࢙తഎܠとจ ԽҨ࢈ͷؔੑΛ୳ΔͱͱʹɺಉҬͷจԽతڌͱͯ͠ͷҙٛʹ͍ͭͯ୳ٻ͢Δ͜ͱʹओ؟ΛఆΊͨɻ ͦΕʹΑΓɺڊւӃͷจԽҨ࢈ҙٛͷ͞ΒͳΔఈ্͛ΛਤΔͱͱʹɺ࣮ફతͳจԽҨ࢈อޢͷਐలΛ ࢹʹೖΕͨ׆ಈΛߦͬͨɻʢԬాʣ 2 .仏像類について ɹڊւӃͷ૾ྨͷௐࠪɺຊಊʢຊಊɾ։ಊɾҐಊͳͲʣʹ҆ஔ͞Ε͍ͯΔ૾ɺࢣ૾ɺҐɺֹ ͳͲͷશͯΛରͱ࣮ͯ͠ફͨ͠ɻௐࠪΛߦͬͨ૾ྨͷத͔ΒɺઌߦݚڀʹরΒ͠ͳ͕Βௐࠪ༰Λਫ਼ࠪ ͠ɺڊւӃʹ҆ஔ͞Ε͍ͯΔ૾ྨͷҙຯʹ͍ͭͯߟͨ݁͠ՌΛҎԼʹใࠂ͢Δɻ (1)本尊釈迦如来三尊像について ɹڊւӃຊಊͷதԝਢஃͷஃ্ʹɺຊࣉͷຊଚͰ͋Δऍՠདྷࡾଚ૾͕҆ஔ͞Ε͍ͯΔɻڊւӃಎ फʹଐ͢ΔࣉӃͰ͋ΔͨΊɺऍՠདྷࡾଚ૾͕҆ஔ͞Ε͍ͯΔ͜ͱଟ͘ͷಎफࣉӃͷ௨ྫʹଇ͢Δͷ Ͱ͋Δɻࠓճऍՠདྷࡾଚ૾ͷௐࠪΛ࣮ફͨ݁͠Ռɺऍՠདྷ࠱૾ͷ૾ఈʹจ͕ه͞Ε͍ͯΔ͜ͱ͕֬ ೝ͞Εͨɻͦ͜ʹҎԼͷΑ͏ͳจ͕ه͞Ε͍ͯΔʢਤ ʣɻ ɹจɿʮไدਐɹେҪᖒ༢ɹେࣉɹ๏ҹརւɹࠨɹླ啼٢ɹླӈɹڗอेҰಫޕळेʯ ɹ͜ΕʹΑΓɺऍՠདྷ࠱૾͕ڗอ 年ʢʣʹେҪେࣉͷૐཿ๏ҹརւʹΑͬͯൃئ͞Εɺࠨ ͷླਗ਼٢ͱླӈͷدਐʹΑͬͯ像͞Εͨ͜ͱ͕໌Β͔ͱͳͬͨɻ·ͨɺҐಊʹརւͷҐ͕ ·ͭΒΕ͓ͯΓɺಉҐʹࢪओླਗ਼٢ɺརւʹΑΓऍՠࡾଚͷ૾ʹدे྆ͱه͞Ε͍ͯΔɻ ɹจʹهࡌ͞Ε͍ͯΔʮେҪᖒେࣉʯɺݱࡏͷࢁܗݝଜࢁ܊ொେҪʹ໌࣏ظͷਆલ· Ͱଘࡏͨۚ͠৭ࢁେࣉͷ͜ͱͰ͋Δɻ໌࣏ظͷਆޙɺݱࡏ౬఼ࢁਆࣾͱͳ͍ͬͯΔେࣉɺߐ ށ࣌·Ͱ౬఼ࢁΛ৴ڼ͢Δਅݴफʹଐ͢ΔେࣉӃͰ͋Γɺશࠃ͔Βͷࢀܮऀ͕ࢁܗݝͷஔࣀҬ͓Αͼ ࠨܦ༝͔Β౬఼ࢁࢸΔϧʔτͷڌͱͯ͠େ͍ʹӫ͑ͨྺ࢙Λͭɻརւͦͷେࣉͷॅ৬ΛͭͱΊ ͨਓͰɺઌͷ྄ւɺޙͷ྄շͱͱʹԆๅ 年ʢʣʹমࣦͨ͠େࣉͷ෮ڵʹਚྗͨ͠ࡾૐͷҰ ਓͱͯ͠ΒΕɺڗอ ʢࡀʣʹ͢Δ·Ͱͷ ؒʹͬͯ׆༂ͨ͠ɻઌͷ྄ւͷΑΓେ ࣉॅ৬࣊Ըࣉͷ຺݂ʢࢣఋʣ͕ܧ͙͜ͱͱͳͬͨͨΊɺརւ·ͨ࣊Ըࣉͷग़Ͱ͋Δɻ·ͨɺརւࠨ ͷླՈͷग़Ͱ͋Δ͜ͱ͕ΒΕɺҐऍՠ૾จʹ͋Δླਗ਼٢ʹ͋ͨΔͱࢥΘΕΔɻͭ· Γऍՠࡾଚ૾ɺརւ͕ग़ࣗͨ͠ླՈͷஇՈࣉͰ͋ΔڊւӃʹدਐͨ͠ͷͰ͋ΔͱͱͱʹɺརւΛ௨ ͨ͠େࣉͱڊւӃͷؔΛࣔ͢ͷͱͯ͠ڵຯਂ͍ɻ A.本尊「木造釈迦如来坐像」・「木造普賢菩薩騎象像」・「木造文殊菩薩騎獅子像」 A-1.「木造釈迦如来坐像」(図 1) ๏ྔʢ୯Ґᶲʣɿ ɹ૯ߴʢޫഎઌʙ࠲ఈʣ ໘෯ ࠱Ԟ ɹ૾ߴ ໘Ԟ ীઌग़ ɹࡍߴɹ ڳްʢӈʣ ޫഎશߴɹ ɹʕֺ ෲް ޫഎશ෯ɹ ɹ໘ ගு ࠲૯ߴɹ ɹࣖு කுɹ ෯࠷େɹ
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1 6 (2)位牌と祖師像について ɹڊւӃҐಊʹɺຊࣉΛఏࣉͱͨ͠ࠨൡൡओञҪ࣍ͷ߽ᇋͳҐʢਤ ʣͱদࢁൡྺൡओͷռ ໊Λهͨ͠Ґʢਤ ʣ͕·ͭΒΕ͍ͯΔɻ ɹञҪ࣍ࠨൡͷൡओͰ͋ΓɺڊւӃΛఏࣉͱͨ͜͠ͱطʹड़ͨͱ͓ΓͰ͋ΔɻڊւӃʹΒΕ ͍ͯΔञҪ࣍Ґ໊ՈͰ͋ΔࠨञҪՈͷൡओʹ;͞Θ͍߽͠՚ͳҙঊ͕͋͠ΒΘΕͨҐͰɺߐށॳ ظͷٕۚज़Λࣔ͢ͷͱͯ͠ॏཁͰ͋Δɻ ɹࠨൡ࣍ʹੈܧ͕͗ͳ͔ͬͨͨΊʹҰͰऴΘΓΛࠂ͛Δ͕ɺࠨҰ࣌తʹԬൡʹٵऩ͞Εͨ ޙɺঙͷদࢁͱࠨΛؚΊͨ ສੴͷদࢁൡͱͯ͠࠶ͼཱ͠ɺञҪ߃Λൡͱͯ͠Ҏ߱ ʹͬͯ ౷࣏͞ΕΔ͜ͱͱͳΔɻদࢁൡञҪՈͷࠨʹ͓͚ΔఏࣉࡢຊηϯλʔͰௐࠪΛ࣮ફͨ͠๏քࣉͰ ͋Δ͕ɺ࣍ͷఏࣉͰ͋ΔڊւӃʹରͯ͠൳ޢΛܧଓ͍ͯͨ͜͠ͱ͕ɺಉࣉʹ·ͭΒΕΔদࢁྺൡओ ͷҐ͔ΒӐ͍Δ͜ͱ͕Ͱ͖Δɻ 図 6 酒井直次位牌 図 7 松山歴代藩主の位牌 ɹڊւӃҐಊʹɺಎफͱͯ͠։ࢁҎདྷͷҰੈ͔Βೋेޒੈ·Ͱͷྺॅ৬ͷҐ͕·ͭΒΕ͍ͯΔɻ ͦΕΒͷҐʹੜલͷޭ͕ӄࠁ·ͨगͰه͞Εͨͷ͕͋ΓɺͦΕΒ͔Βྺ࢙ࢿྉతͳใ ΛಘΔ͜ͱ͕Ͱ͖ΔɻͦͷΑ͏ͳҐʹه͞ΕͨใઌߦݚڀʹΑͬͯಘΒΕΔใΛ·ͱΊΔͱɺڊւ Ӄͷྺॅ৬ͷมભҎԼͷΑ͏ʹͳΔɻ 図 8 巨海院一世三光存辰位牌 図 9 巨海院十二世機山活全位牌 図 10 巨海院十七世活山路勇位牌 ɹҐಊʹɺҐͱͱʹʮಓݩષࢣʯʮৗࡁେࢣʯʮࡾޫଘୢʯʮػࢁ׆શʯʮᤈߦ๏ӡʯମͷࢣ૾͕ ·ͭΒΕ͍ͯΔɻ ɹಓݩષࢣಎफͷ։Ͱ͋Γɺৗࡁષࢣಎफୈ࢛ੈʢҰൠʹᘫࢁષࢣͱݺΕΔʣͰ͋Δ͕ɺͦ ΕΒͷࢣ૾ಓݩΛߴɺᘫࢁΛଠͱͯ͠ಎफͷଟ͘ࣉӃͰ·ͭΒΕ͍ͯΔɻڊւӃͷಓݩષࢣ૾ʹ
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1 8 C.「木造活全倚像」(図 13) ๏ྔʢ୯Ґᶲʣɿ ɹ૯ߴ ໘Ԟ ගு ɹ࠱ߴ ࣖு කு ɹ ôֺ ڳްʢࠨʣ ࠱ԞʢӈකԞʣ ɹ໘෯ ෲް ਨԼ෦ਖ਼໘ɹߴɿ ࣭ߏɿ ɹɻدɻ࠼৭ɻۄ؟ɻࠩۗ͠ɻ ɹ಄෦Ұࡐɻ͜Ί͔ΈͰ໘૬෦ͷΈΛഠɻମ෦Ұࡐ ɻؙூΓɻႡΓͳ͠ɻਖ਼໘྆ਨԼ෦Ұࡐഠɻࠨख લ෦͔Βᦻ֎ଆʹ͔͚ͯɺখࡐΛޒࡐഠ͚Δɻӈख ্֎ଆʹҰࡐɺલ෦ʹ֎ೋࡐɺᦻ෦ʹ֎ଆখࡐࡾ ࡐΛഠ͚Δɻ྆खटઌ֤ࠩ͠ࠐΈɻ྆۹ઌ֤ഠɻ จɿ ɹʮੈதڵঘɹ๏ఋࢠɹ౦ઘे࢛ੈ˘˘˘ɹ ɹ౦ઘेޒੈ༐˘˘ʢঘʣɹઘੈີಓঘɹ ɹߴদे࢛ੈେढ़্ɹઘेੈྑ˘্ɹ ɹਗ਼ٱेޒੈଠݡ্ɹਗ਼ٱेੈશ্ོɹ ɹจԽ࢛ӎे݄˘ೋʯ ɹ˞จԽ ʢʣɻਓͷఋࢠʹΑΓݐཱɻ ॴݟɿ ɹ׆શ်૾ɺઌߦݚڀͰྛ࣏࡞ͷ࡞Ͱ͋Δͱਪఆ͞Εͯ ͍Δɻ͔͠͠ɺ׆શ૾ʹ੍࡞ऀΛه͢จ͕ͳ͍ͨΊɺ จ͔Β੍࡞ऀΛஅఆ͢Δ͜ͱͰ͖ͳ͍ɻͨͩ͠ɺ จʹ੍࡞Λࣔ͢จԽ 年ʢʣͷ͕͋ΔͨΊʹ ेཏ૾ͷલʹ੍࡞͞Ε͍ͯΔ͜ͱ͕Θ͔Γɺ࣏࡞ͱ ׆શ͕ਂ͍ަΛಘ͍ͯͨ͜ͱ౿·͑ͯߟ͑Εɺຊ૾ ͷ࡞ऀ͕࣏࡞Ͱ͋ΔՄೳੑߴ͍ͱߟ͑ΒΕΔɻ (3)江戸で制作された仏像について ɹڊւӃʹଟ͘ͷ૾͕҆ஔ͞Ε͍ͯΔ͕ɺͦͷதͰ૾ʹจ͕͋ΓɺߐށͰ੍࡞͞Εͨ͜ͱΛࣔ͢ ૾͕ ଘࡏ͢Δ͜ͱ͕Θ͔ͬͨɻۚඏཏେݖݱ૾ɺ໌ ʢʣͷ͕͋ΔͨΊɺদࢁൡͷ࣏ੈ࣌ ʹ像͞Εͨ͜ͱʹͳΔɻҰํͷหࡒఱ܈૾ɺߐށࡐொͷ͕͋ΔͷΈͰɺ೦ͳ͕Βจ͔Β੍ ࡞Λಛఆ͢Δ͜ͱ͕Ͱ͖ͳ͍͕ɺ૾ͷ༷ࣜతͳ؍͔Βɺߐށ࣌தظࠒ͔Βޙظࠒͷ૾Ͱͳ͍͔ ͱਪଌ͞ΕΔɻ ɹۚඏཏେݖݱ૾੍͕࡞͞ΕͨɺদࢁൡࡾൡओञҪٳͷ࣏ੈʹ͋ͨΔɻٳນͷཁ৬Ͱ͋Δ ऀ൪ʢক܉ͷऔΓ࣍͗ʣߐށͷͷؙɺޙʹຊؙͷएدʢதͷ࣍੮ʹ͋ͨΓɺضຊΛ౷ׅ͢ Δ৬ʣΛΊͨਓͰ͋ΔɻٳদࢁൡञҪՈͷఏࣉͰ͋Δ๏քࣉͱͱʹલൡͰ͋ΔࠨൡञҪՈ ఏࣉͰ͋ΔڊւӃʹࢀܮͨ͠ه͕͋Γɺ྆ࣉΛ൳ޢ͍ͯͨ͜͠ͱ͕Ӑ͍ΕΔɻۚඏཏ૾͕دਐ͞Ε ͨ໌ ɺٳ͕ߐށຊؙͷएدΛΊ͍ͯͨ࣌ظͰ͋Δɻ·ͨۚඏཏେݖݱɺसӡΛकޢ͢Δ ਆͱͯ͠ߐށ࣌ʹ͘৴ڼ͞Εɺ࠷্ͱલધͷसӡͰࡒΛಘ͍ͯͨদࢁൡʹͱͬͯۚඏཏݖݱͷ৴ڼ ॏཁͰ͋ͬͨͱਪଌͰ͖Δɻ͜ΕΒͷ͜ͱΛ౿·͑ͯߟ͢Δͱɺߐށͱਂ͍ؔΘΓ͕͋ͬͨञҪٳ ͕ɺसӡͷकޢਆͰ͋Δۚඏཏେݖݱ૾ͷ૾ʹؔ༩ͨ͠Մೳੑߟ͑ΒΕΔͰ͋Ζ͏ɻ ɹ·ͨۚඏཏେݖݱ૾ͱฒྻ͞Ε͍ͯΔਥࢠೖΓหࡒఱेޒಐࢠ૾ɺਫʹؔΘΔਆͱͯ͠ɺ·ͨಙ ਆɺࡒๅਆͱͯ͠ߐށ࣌ʹ͘৴ڼ͞Εͨଚ૾Ͱ͋Γɺۚඏཏେݖݱͱಉ༷ʹࠨͷ࣌ͷจԽΛࣔ͢ ͷͰ͋Δͱ͍͑Δɻͦͯ͠หࡒఱΛ·ͭΔ఼ࣾۃ࠼৭ʹ࠼ΒΕ߽ͨᇋͳΓͰɺ૾ʹଟ͘ͷࡒྗ͕ඞཁ ͱ͞Εͨ͜ͱ૾ʹ͘ͳ͍ɻ 図 13 活全倚像
A.「木造金毘羅大権現倚像」(図 15) ๏ྔʢ୯Ґᶲʣɿ ɹ૯ߴʢ࠲ʙʣ ໘෯ ගு ɹ૾ߴ ໘Ԟ ு ɹ ôֺ ࣖு ઌ։͖ʢ֎ʣ ɹ໘ ڳްʢதʣ Ԟ ෲް ઌ։͖ʢʣ ࣭ߏɿ ɹɻҰ͔ɻࠩ͠टɻۄ؟ɻ࠼৭ɻۚటɻ࣫ഩɻႡΛࢪ͢ɻۄ؟Λቕೖ͢Δɻ ɹද໘ృບ͕݈ৗͷͨΊഠ͕͗֬ೝͰ͖ͳ͍͕ɺମ෦ҰࡐͰႡΓͳ͍ͱࢥΘΕΔɻ จɿ ɹʮ໌ೋԵಫɹޒ݄ेɹߐށɹࣳޱொɹେࢣ๏ڮܚࢁɹफ˘ʯ ɹ˞໌ ʢʣ 図 14 金毘羅大権現像厨子 図 15 金毘羅大権現倚像 図 16 金毘羅大権現像台座底部の銘文 B.「木造弁財天群像」(図 18) ࣭ߏɿ ɹͷ͖ࠜͭͷ߽ᇋͳਥࢠʹेޒಐࢠͱͱʹදݱ͞Εͨหࡒఱ܈૾ɻหࡒఱ୯ମͰਥࢠதԝʹઃ ஔ͞Εͨਥࢠʹ·ͭΒΕ͍ͯΔɻ ɹหࡒఱ૾ਥࢠʹݻఆ͞Ε͍ͯΔͨΊ֬ೝ͕Ͱ͖ͳ͔͕ͬͨɺߏҰͰ͋ΔͱࢥΘΕΔɻ ɹ੍࡞ߐށ࣌Ͱ͋Ζ͏ɻ จɿ ɹʮߐށᕆሲሲፂொɹئओɹҏੈ٢ฌӴʯ 図 17 弁財天厨子 図 18 厨子入り弁財天坐像 図 19 弁財天厨子背面の銘文
1 ( )林家仏師による造像と巨海院との関係 巨海院には前章で述べた左沢原町仏師林家の造像による仏像が多数安置されている。先行研究 によれ ば、「十六羅漢像」、「弘法大師坐像」、「遊行弘法大師」、「西国三十三観音像」、「活全像」、「六地蔵菩薩立像」 が林家一族の手による造像であると推定されている。今回の調査による銘文の確認により制作者が林家であ ると断定できた仏像は「十六羅漢像」、「弘法大師坐像」、「遊行弘法大師」の 3 件であり、他の仏像は、銘文 からは林家の造像であることの特定はできなかった。ではまず今回の調査で銘文が確認できた 3 件について 概説したい。 現在本堂の右の間に安置されている十六羅漢像は以前には山門内に安置されており、数体の像の台座の角 にみられる加工痕が山門安置の事実を示している。現状では十六体ともに全体に近年の塗り直しが施されて いるために像容が不鮮明となっているが、台座に記された墨書により、嘉永元年に林家仏師初代治作によっ て造像されたことがわかる。本像の詳細については(pp.22∼23)を参照されたい。 遊行弘法大師立像は、台座裏に記された墨書から、明治 24 年(1891)に林家仏師四代治郎兵衛によって 造像されたことがわかる。施主人は原町の松田末吉と横町の大塚吉女であり、左沢における庶民の弘法信仰 を今に伝える作例である。 弘法大師坐像は、台座裏に記された墨書により明治 18 年(1885)に造像されたことがわかる。本像は明 治 18 年に発願された新四国八十八箇所霊場に関係するもので、最上三十三観音霊場と重なる地域に広がっ て造像された弘法大師坐像のうちの一体である。他にも類型の弘法大師坐像が、昨年度本センターで調査し た大江町の法界寺や寒河江市永源寺、鮭川村庭月観音などに安置されていることが確認されている。本像に は制作者の銘は記載されていないが、本像の作者は他の例や明治 18 年の造像から林家仏師四代治郎兵衛の 作とみて間違いない。 次に「西国三十三観音像」について考察したい。「西国三十三観音像」は、先行研究によれば造形様式的 に林家仏師二代文作の作であると推定されている1。しかし、本像には墨書がないために文作の作であるこ とを確定する根拠が希薄である。先行研究では光背の彫り口や台座の彩色の様相が他の林家作例と類似する 点を文作の作とする根拠としているが、これらの特徴は江戸時代後期頃の作例に多くみられる特徴であるた め、林家の作であるとする根拠としてはやや希薄であるといわざるを得ない。しかし、地域的な背景は推測 すれば、林家の造像である可能性も十分考えられるため、今後研究を重ねることで本像の作者や制作年代に ついての見解を深めていきたい。 もう一点の六地蔵菩薩像については、今回の調査によって新たな見解が得られたため、次節にて述べるこ ととする。 法量(単位㎝): 像高(坐高)45 . 6 裾張 26 . 1 坐奥 26 . 1 品質構造: 木製。一木造。内刳りなし。玉眼。泥地彩色仕上げ。 銘文: 「□ 明治十八年 旧七月十五日 □」 ※明治 18 年(1885) 法量(単位㎝): 像高 37 . 8 肘張 14 . 1 腹厚 8 . 6 品質構造: 木製。差し首。玉眼。体幹部の構造不明。泥地彩色仕上げ。 銘文: 「仏師職 原町 林治郎兵衛 明治二十四年旧二月□日 施主人 原町 松田末吉 横町 大塚吉女」 ※明治 24 年(1891) 弘法大師坐像と銘文 遊行弘法大師像と銘文
三十三観音像 第一番 三十三観音像 第二番 三十三観音像 第三番 三十三観音像 第四番 三十三観音像 第五番 三十三観音像 第六番 ∼三十三番 ( )六地蔵菩薩立像への新知見 巨海院開祖堂には六地蔵菩薩像が安置されている。本像は六道を行き来し人々の霊魂を救う六地蔵信仰に 基づく仏像であり、奉納当時の左沢の信仰背景を窺い知ることができる尊像である。 本像は調査の結果、造像銘を確認することができなかったため、正確な造像年代を確定することはできな い。先行研究注 1では 6 体一具として左沢原町仏師林治作による造像で、江戸時代後期頃の制作であると推 測されていた。しかし、今回の調査の結果、六体の地蔵像の各像の寸法、構造が異なっていることが判明 し、分類すると 3 つのタイプが存在することがわかった。 江戸時代においては造仏の分業化が確立し、群像表現を行う時には複数の仏師による造形性の違いが表れ る例も多くみられる。先に紹介した巨海院に安置される十六羅漢像も、林治作の銘がある一方で他の人物名 が記載されていないにもかかわらず明らかに造形性が異なる像が見られ、複数人が造像に関わったことが推 測される。本六地蔵もまた、異なる 3 つのタイプごとに造形性の違いが確認でき、複数人によって造像され たことが推測できる。しかし、同系統ごとに 3 体、2 体、1 体の割合で分類することができる点や、各タイ プの差異が構造的、寸法的な違いに及ぶ点が特徴点としてあげられる。江戸時代の群像表現の造像に複数人 が関わり造形性が異なる事例が多いことは既に述べたとおりであるが、構造や寸法が本像のように不規則に 異なることはあまり類を見ない。以上の点を造形的な差異を含めて考察すると、本六地蔵は一工房によって 造像されたのではなく、別々に造像された地蔵像を寄せ集めて六地蔵としてまつった可能性が高いと推測さ れる。また、すくなくとも本像のこれらのタイプ差と造形様式的な比較検証の結果では、本像の制作者が先 行研究での見解の林治作の制作とする推測を認め難い状況にあることと言えるだろう。
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(6)安置仏像からみる地域での信仰 ɹڊւӃಎफͷࣉӃͰ͋Γɺຊଚͷऍՠདྷࡾଚ૾ҐಊʹΒΕ͍ͯΔࢣ૾܈ͳͲɺफʹਂ͍ ؔΘΓΛ࣋ͭ૾͕·ͭΒΕ͍ͯΔɻ͔͠͠ɺલઅʹ͓͍ͯड़ͨ։ಊͷࠃࡾेࡾ؍Ի૾ɺ߂๏େࢣ ૾ɺଂࡵཱ૾ͳͲɺफʹؔ͢Δͱ͍͏ΑΓҬͷ৴ڼʹࠜͨ҆͟͠ஔͰ͋ΔͱࢥΘΕɺͦ ΕͧΕͷ૾ͷഎܠʹࠃࡾेࡾ؍Ի৴ڼɺ࢛ࠃീेീ͔ॴ৴ڼΛؚΉ߂๏େࢣ৴ڼɺଂ৴ڼͳͲͷ৴ ڼ͕ɺ੍࡞࣌ͷࠨҬʹོ͓͍ͯͰ͋ͬͨ͜ͱΛӐ͍Δ͜ͱ͕Ͱ͖Δɻ ɹͦΕΒͷ૾ͷଞʹɺڊւӃʹҬ৴ڼʹࠜͯ͟͠像͞Εͨͱਪଌ͞ΕΔ૾͕ଟ҆͘ஔ͞Εͯ ͍ΔɻͦΕΒɺ։ಊʹ҆ஔ͞Ε͍ͯΔᮠຐ࠱૾ʢਤ ʣɺຊಊʹ҆ஔ͞Ε͍ͯΔۚඏཏେݖݱ૾ʢਤ ʣɾหࡒఱ܈૾ʢਤ ʣɾळ༿େݖݱཱ૾ʢਤ ʣɾҴՙ૾ʢਤ ʣɾ੨໘ۚ߶ཱ૾ʢਤ ʣͳͲͰ͋Δɻ ɹᮠຐ૾ᮠຐ৴ڼʹج͖ͮɺଂ৴ڼͱͱʹऀͷڙཆ͕৴ڼͷഎܠʹ͋Δͱਪଌ͞ΕΔɻᮠຐ૾ ʹ૾ͷԑىΛࣔ͢จ͕ه͞Ε͍ͯͳ͍ͨΊɺͦͷ੍࡞Λ֬ఆ͢Δ͜ͱͰ͖ͳ͍͕ɺܗ༷ࣜత ʹݟͯߐށ࣌தظ͔Βޙظࠒͷ࡞Ͱ͋Δͱਪଌ͢ΔɻҰํɺۚඏཏେݖݱւӡɺसӡͷकޢਆͱ͞ΕΔ ͨΊɺߐށ࣌࣌ͷࠨ͕सӡʹΑͬͯӫ͑ͨ͜ͱΛى͢Εɺۚඏཏ৴ڼ͕ಞ͔ͬͨͰ͋Ζ͏͜ͱ ༰қʹ૾͕ͭ͘Ͱ͋Ζ͏ɻळ༿େݖݱՐ෬ͤͷਆͱͯ͠ΒΕɺՐࣄΛڪΕͨߐށ࣌ͷࢢ֗ʹ͓͍ ͯ͘৴ڼ͞Εͨଚ૾Ͱ͋Δɻ·ͨ੨໘ۚ߶ͷ৴ڼ߀ਃ৴ڼͱಉٛͰ͋ΓɺΓߐށ࣌ͷॸຽʹಞ ͘৴ڼ͞ΕͨɻҴՙചͷਆͱͯ͠ߐށ࣌ʹ͘৴ڼ͞Εɺࠨ͕ۀࢢͱͯ͠ӫ͑ͨྺ࢙Λײ͡Δ ͜ͱ͕Ͱ͖Δɻ ɹ·ͨڊւӃʹ҆ஔ͞Ε͍ͯΔڏۭଂࡵ࠱૾ʢਤ ʣɺখখொʹؔ͠ɺࢣఆேͷ࡞Ͱ͋Δͱ ঝ͞Ε͍ͯΔ ɻຊ૾ڊւӃ͕ಎफʹվफ͢ΔલͷਅݴफࣉӃ࣌ͷຊଚͰ͋ͬͨͱ͍ΘΕ͍ͯΔɻ ͜ͷঝʹΑΕຊ૾ͷ૾ฏ҆࣌ͱ͍͏͜ͱʹͳΔ͕ɺܗ༷ࣜతʹΈͯͦͷஅఆ͍͠ɻڏۭଂ ࡵ૾ɺݱࡏᗅͼ͔ͳ০͕ࢪ͞ΕͨਥࢠʹೲΊΒΕͯຊಊͷؒͷஃ্ʹ·ͭΒΕ͓ͯΓɺݹ৭Λఄ͠ ͨଚ༰Λࣔ͠ͳ͕ΒࠓͰಞ͍৴ڼΛड͚͍ͯΔɻ ɹڊւӃʹ͜ͷΑ͏ʹफΛ͑ͨॸຽ৴ڼʹ͕ؔਂ͍ଟछଟ༷ͳ૾͕҆ஔ͞Ε͍ͯΔɻ͔ͦ͠Ε Βͷ૾ͷܗ͍ͣΕलҳͰɺଟֹͷدਐΛड͚ͯ造૾͞Εͨ͜ͱ͕Ӑ͍ΕΔɻ͜ΕΒͷଘࡏɺڊ ւӃ͕ञҪՈͷఏࣉͱͯ͠ͷଘࡏͱͱʹɺࠨͷॸຽͷத৺తͳ৴ڼڌͰ͋ͬͨ͜ͱΛޠΔͷͰ ͋Δͱ͍͑ΔͷͰͳ͔Ζ͏͔ɻ ɹ͜ΕΒͱผʹɺڊւӃͷॴલͷ࿓Լʹᰃବఱཱ૾ʢਤ ʣ͕·ͭΒΕ͍ͯΔɻᰃବఱ૾ຊͷ ષफͰਥૐΛकΔޢ๏ਆͱͯ͠ΒΕΔଘࡏͰ͋ΔɻڊւӃͷᰃବఱ૾ܗతʹಛචͯ͠लҳ Ͱɺܗత༷͔ࣜΒݟͯߐށ࣌ॳظࠒͷ੍࡞Ͱ͋Δͱਪ͞ΕΔɻ 図 39 青面金剛立像 像高:22 . 6㎝ 一木造。彩色。 図 38 秋葉大権現立像 像高(足先∼頂):25 . 2㎝ 一木造。彩色。 図 37 閻魔坐像 像高(冠頂部まで):72 . 2㎝ 寄木造。ヒノキか。玉眼。彩色。差し首。
1 図 42 韋駄天立像 像高:38 . 5(現状)㎝ 寄木造。彩色。玉眼。差首。 図 41 虚空蔵菩薩坐像 像高:13 . 8㎝ 一木造。表面は古色を呈す。 図 40 稲荷像 最大高:10 . 5㎝ 寄木造。彩色。 (7)仏像類調査のまとめ ɹڊւӃʹҎ্ͷΑ͏ʹଟ͘ͷ૾͕҆ஔ͞Ε͍ͯΔ͕ɺͦͷͷʹ૾͕ه͞Εͨͷ͕ଘࡏ͢ Δ͜ͱ͕Θ͔ͬͨɻʹΑΕɺ੍࡞ͷଟ͕͘ߐށ࣌தظ͔Βޙظʹ͔͚ͯͷ૾Ͱ͋ͬͨɻ·ͨɺ ߐށͰ੍࡞͞Εͨ૾͕ɺࠨݪொྛՈࢣʹΑͬͯ૾͞Εͨͷ͕͋ͬͨɻࠨͰͷڊւӃͷ Ґஔ͚͔ͮΒɺञҪՈ͕ͦͷʹେ͖͘د༩͍ͯͨ͠ͷͱਪଌ͞Ε͕ͨɺ҆ஔ૾͔Β֬ೝ͞Εͨ૾ ʹञҪՈʹؔ͢Δهड़΄ͱΜͲݟΒΕͳ͔ͬͨɻ͔͠͠ɺڊւӃʹ҆ஔ͞Ε͍ͯΔ૾͍ͣΕल࡞ ͕ଟ͘ɺͦͷ૾ʹଟ͘ͷඅ༻͕ඞཁͰ͋ͬͨͱਪଌͰ͖Δ͜ͱ͔ΒɺڊւӃͷॾେ໊Ո͘͠େߐ ொҬͷ໊࢜ΒͷدਐʹΑΔͷͰ͋ͬͨͷͰͱਪ͢Δɻ·ͨɺ૾ͷ࣌ظ͕ॏͳΔͷ͕ଟ͘ଘࡏ͢ ΔͨΊɺͦΕΒྺͷزਓ͔ͷॅ৬ͷʹ૾͞ΕͨͷͰ͋ΔͱࢥΘΕΔɻ ɹࠓޙɺۙੈʹ͓͚Δେ໊Ոఏࣉͱͯ͠ͷڊւӃͷׂʹ͍ͭͯ୳ٻ͢Δͱͱʹɺʹ͓͚Δྺ ॅ৬ͷ׆ಈߐށͱͷ͓ؔΑͼྛՈࢣͱͷؔΘΓʹ͍ͭͯपลࣉӃͷௐࠪΛؚΊͨݚڀΛਐΊͭͭɺ Ҭʹ͓͚ΔڊւӃͷҐஔ͚ͮͱҙٛʹ͓͚ΔݟղΛਂΊ͍ͯ͘͜ͱͰɺҬจԽҨ࢈Ձͷ࠶ೝࣝͷ্Λ ਤ͍͖͍ͬͯͨɻʢԬాʣ
.書画類について ( )はじめに 大江町では昨年度は左沢の法界寺について悉皆調査を行ったが、調査対象である巨海院もまた江戸時代に 左沢を領地としていた松山藩の藩主酒井家の菩提寺として隆盛した。町史にも度々記されている地域の古拙 として様々な文化財を有した地域史の要であることは既に明らかである。しかし、巨海院文書をはじめとし て、所蔵作品の詳細や保存状態などには未確認の部分が多い。また、地域の中心的な寺社には近世以前の資 料が集約する可能性が高く、地域の文化遺産を効率的に保存する場所として他の地域にも共通する課題があ ると考えられる。一定量の資料を有する地域史の要として有効な保存継承方法を考案することができれば、 集約的な地域文化財の保存にも寄与するものと考える。 そこで、本調査では巨海院に所在する書画作品調査を悉皆的に行い、所在作品と状態についての調査研究 結果から有効な作品の保存方法に繋げることを目的としている。 作品は時間経過と社会の変化に伴い当初の関係性が変化するため、作品の背景から地域との関係性を再認 識して価値を見出すことも保存継承の動機づけとして重要な意味を持つ。そのため、状態調査に合わせて、 作品の背景を明らかにすることで、大江町に所在する書画作品の文化財としての価値を明らかにすることが テーマ 1 の目指すところである。 ( )所蔵作品の概要 平成23年度の調査範囲は位牌堂と本堂、経蔵に併設した坐禅堂に所蔵する作品の調査を行った。対象とし た作品は掛軸、障壁画(屏風、襖)、絵馬、写真、近代絵画である。なかには大江町史に所在が記されてい る作品も見られ、様々な作品が所蔵されている。調査作品の一部ではあるが、本文中に挙げる作品の概要を 文書についても所在の確認を始めることができたことは地域文化遺産調査の進展を示すものだが、それぞれ の概要の報告にとどめることとする。 (表
1 6 ①押絵絵馬「船中安全」 本堂内に掲げられている絵馬である。画面には帆をはり、波を かき分ける船に三人の舟子が描かれている(図 43)。描かれてい る舟は小鵜飼船といい、最上川舟運に用いられた船である。川船 を題材とする絵馬は県内に三枚が確認されている7が、本作品の ように布地や萱などをコラージュして表現する押絵の技法ではな く、本作品は表現としても特徴的な作品となっている。 画面右上部付箋には「金比羅大権現 明治十九年 旧三月十日 船中安全」とあり、裏面中央には「船中安全 奉納金比羅山大 権現 左澤村 願主 菊地清治」(図 44)とある。 小鵜飼舟は宝暦年間に最上川に取り入れられた川船で、積載量 は40から50俵と小さいものの舟足が速いことで活躍した(図45)。 明治に入り酒田や大石田への舟の運航が解禁になると小鵜飼船 による船運が活況を呈したことで、それまでの舟持ちから独立し て運送業を行う者も現れた。奉納者である菊池清治は、登せ荷問 屋であった佐藤永四郎の舟乗子として船主船頭をしていた菊池菊 治の子で、菊治が明治に入り独立したのちに代替わりをして引き 継ぎ、20年代には船持ちとして運送業を行った。明治に入ると 江戸期に主体だった上流への航行から、下流の長崎、大石田、 酒田行が主流となり、明治 10 年代から 30 年代は最上川舟運の最 盛期といわれる時期を迎え、奉納年である明治 19 年(1886)はま さに活況のただ中にあったといえる4。 奉納されている金毘羅山大権現は海上交通の守り神として知ら れ、最上川舟運や船荷の無事を願って県内各所で信仰されている。船人は危険と隣り合わせであるため、信 仰心も篤く、元屋敷の波切不動尊や大明神山の稲荷神社にも参詣したという。小鵜飼船にも遭難の危険は多 く、明治 20 年 8 月 30 日の『出羽新聞』には小鵜飼舟が石に当たり破舟した遭難事故が報じられている。画 面中の三人の舟乗は一人が舳先で進行方向を見据え、残る二人も帆を注意しながら櫓を構えて荒い波へと向 かっている。船中安全を祈願して絵馬を奉納した背景には、新興の船持ちとして運送に乗り出した菊池菊治 の跡を受け、二代目として活況を呈する舟運業に邁進しようという菊池清治の意気込みのような願いも見て 取ることができる。 用いられている押絵の技法は羽子板などの技法として一般に知られている。押絵による絵馬については定 かではないものの、調査した絵馬には 5 点の押絵による絵馬が確認された。(図 46)押絵の技法は山形に限 らず様々な地域で見ることができるが、山形では江戸後期から明治期にかけて押絵も盛んであったといい、 押絵による押絵雛などが制作されたりもした注 3。押絵の職人も多数いたと推測されるものの、奉納されてい る押絵絵馬に小型の絵馬が多くみられたことなどから手作りして奉納していた可能性もあったと推測する。 巨海院の奉納絵馬の中には、女性が裁縫を習う裁縫絵馬も奉納されている(図 47)。裁縫絵馬は女性が裁縫 の技術向上を願って各地で奉納された。巨海院には特別大きな裁縫絵馬が所蔵されていたわけではないもの の、明治 35 年 5 月 8 日の記載がある裁縫教室の古写真などが複数枚奉納されていた(図 48)。裁縫教室は
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1 8 書をもとにすると思われる史料がたびたび見られるものの、これまで調査や目録作成なども行われたことが ない注 4ため、平成23年度調査に着手したことは大きな前進となっている。巨海院文書の目録作成は地域の 中心寺院調査に共通する課題があると思われるため、調査と保護の連携を試みる意味でも重要である。巨海 院文書には明和 7 年(1770)以降は各年代の住職による日記がそろっているだけでなく、町の近世、近代史 を紐解く上でも貴重であることは間違いなく、平成24年度以降も引き続き調査研究に取り組みたい。また、 現在の保管状態は先代住職の高山法彦氏により修理されており冊子などは比較的損傷は少ない。但し、文書 類と虫やカビなどの微生物による被害への対策は必要となっている。 ④障壁画 巨海院に所蔵されている作品には地域で活躍した画家の作品も見ることができる。以下に、調査した作品 と作者について報告することとする。 a . 襖絵「竹林七賢図」 本堂右奥の書院の襖に紙本墨画により「竹林七賢図」が描かれている(図 53)。襖八面に及ぶ大画面に水 流脇の竹林に遊ぶ七賢を墨により描いた作品(図 54)で、作者は東根出身の狩野永耕応信となっている。 作者の青山栄耕応信は文化 14 年(1817)に東根六田の庄屋青山雲四郎の長男として生まれ、幼名を揆一と いい、幼少より絵を好み、上山藩の絵師丸野清耕の門に入り、丸野家の養子となった。清耕の死後は江戸へ 出て、中橋狩野家の狩野永真立信の門人となり修行を重ね慶応 4 年(1868)に狩野性を許され、狩野永耕往 信と号した。郷里に帰った後も制作を続け、明治 12 年(1879)没した。代表作には県指定文化財となって いる「紅花図屏風」がある。『大江町史』では本作品と同町内の個人蔵の「布袋図」、「紅花図屏風」に同じ 印が用いられていると指摘している。 『日本書画便覧』「狩野派系図」飯田米輝著に勝川正信の弟子に応信という名称がある。この応信は橋本雅 邦の兄弟弟子にあたり、下村観山・川合玉堂からみると叔父分にあたる15。 b . 襖絵「紅白牡丹図」 本堂書院の襖六面を用いて岩場に咲く大輪の紅白牡丹が描かれている。裏面には「竹林七賢図」が描かれ ている(図 55)。 作者の北洲(本名、佐藤宇平)は天保 3 年(1832)仙台に生まれた。経歴には不明な点が多く、日本全国
いたるところを歩いたといわれるが詳細は定かではない。鉄船と同じ鉄翁に学んだといわれている。(『寒河 江地方の文人墨客』)4鉄翁没年の明治 4 年(1871)には 29 歳であった。もし、絵を習っていると、最晩年 の弟子ということになる。 襖絵の画風を見ると(図 56)、画面右端の壁面と草 の描写には九州南画の大家であった鉄翁の描写に連な る気配は感じるが、本作のみでは定かではない。左沢 に作品が多く残っているといい今後の課題である。左 沢における北洲の活動で注目すべきは二件隣に住んで いた金子仙エ門家に絵を教えたことにある。左沢で近 1959))といった画家を育てている4。 c . 屏風 地域の中心寺院である巨海院には屏風の作品も収蔵されており、調査により 6 隻確認した。明治期以降と 思われる六曲屏風となっており、一双に揃うと思われる屏風もあった。今回は六曲屏風二隻を紹介して巨海 院住職で画家としても活躍した鉄船について報告することとする。明治 2 年(1869)、明治 3 年(1870)の 墨書のある木箱に収納された屏風二隻には、黄茶色地の和紙に砂子を撒いて台紙とし、一扇ずつ紙本墨画の 四君子と山水画が張られている(図 57)。この 2 隻の屏風は形式もそろっており、本来六曲一双として制作 されていると考える。画面上部には画題か自賛が墨書により記されているが判読はできていない。 鉄船は巨海院十九世土田全明の画号で、三泉道生(寒河江市)土田新三郎家(恒雄家)の生まれである。 幼名は勇之進といい、菩提寺である三泉長泉寺 10 世得宗太賢の弟子になり全明となった。越後の華亭より 絵を学び華岳と号したと『巨海院文書』にあるという。長泉寺十一世となり、元治元年(1864)に巨海院に 転住した。明治 6 年(1873)渋江真福寺に移り明治 12 年(1879)66 才で亡くなった。鉄船という号は蔓延 元年(1860)に肥前長崎の南画の大家鉄翁祖仙からもらった画号である。鉄翁は 72 歳。鉄船は 47 歳であっ た。先述した北洲と共に、鉄船もまた多くの弟子を育てており、柿本鉄堂(1838∼1897)、岡田墨斎(1827 ∼1885)、菅井邑岳、大久保月船といった村山地方で活躍した画家は鉄船の弟子にあたる4。 また、鉄船の弟子にあたる柿本鉄堂の六曲屏風も確認することができた。表面の「山水図」の周囲に裂を ることから本来は六曲一双屏風であると考えられるが、対の一隻は山水ではなく「竹林図」としている。 損傷があまりにもひどく、六曲すべてを展開することは困難を極め、文中の画像はコンピュータ上で画像を 繋いで作成した。全体を確認すると、入江の左側にうねる山脈を描き、手前の岩場の道を左奥に抜けながら 右奥へ空間のつながりを臨む広大な画面構成となっている。画面右上部に賛が記されているが内容は不明で ある。 六曲屏風の裏面には一扇ずつに漢詩が記されている(図 59)。やはり損傷が著しい。漢詩の銘に「苦洞」 曲屏風があ
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図 58 六曲屏風「山水図」 図 57 六曲屏風「四君子・山水画」
図 60 屏風「飲中八仙歌」 図 59 六曲屏風裏面
とある。苦洞という人物の詳細は定かではないものの、平成22年度調査を行った西川町の吉祥院にもやはり 「苦洞」の銘がある漢詩が記されていた(図 60)。そちらは二曲屏風の左扇に漢詩を張り、右扇に歌と俳画 が描かれている。俳画の作者などは判明していないが、悉皆調査による地域間の創作活動の実態究明の一端 であると考える。 左沢にて活躍した画家には巨海路勇があげられる。享和元年(1801)越後村上近くの出身で、巨海院十二 世機山活全の弟子となり 28 歳にして荻野、長泉寺の住職になった。当時「松濤」と号して山水の絵を描き、 また、仏画を描くにあたって線を表すのに悉曇文字を使い、それに彩色をして仕上げた。特に紅花から取っ た赤を用いることが巧みであったと町史には記されている。 天保 9 年(1838)37 歳で巨海院に転住し、安政 4 年(1857)57 歳の時、再び荻野長泉寺に隠遁した際 描いた長泉寺所蔵の「普賢菩薩像」には、自分で仏像を描くことを覚えたこと(自覚画仏像)や弘化 4 年 (1847)に肥前長崎の春徳寺を訪ね、鉄翁禅師に会い、中国の書画を見たことが書いてあると『大江町史』 にある。その時鉄翁の絵を求め、それが巨海院に蔵されている4というが今回の調査では確認できなかっ た。長崎で鉄翁に会った弘化 4 年は路勇 46 歳、鉄翁 58 歳となっている。 明治 26 年(1893)に山形市旅篭町永昌堂で印刷した(図 61)の「山形懸村山四郡書画先生貴名概略」4を 見ると、既に鉄船は古人であり、柿本鐡堂を筆頭に、佐藤北洲、滝川三霞の名前が見られ、地域で活躍した 画家の一端を知ることができる。 巨海院住職である路勇や鉄船が書画において残した足跡が大きいのは言うまでもないが、明治期の左沢の 書画を考える上で、佐藤北洲を合わせた三者ともが関わりがあった長崎春徳寺の鉄翁祖門の果たした意味は 大きい。 鉄翁祖門は十九世紀九州長崎の南画界に君臨した三筆の筆頭格で寛政 3 年(1791)2 月 10 日長崎銀屋町 に生まれた。通説では父は日高勘右衛門とされるが、野母の漁師の子といった異説もある。11 歳のとき春 徳寺 13 世玄翁和尚の仏弟子となり、唐絵目利で長崎漢画系洋風画家の石崎融思に絵を学んだ。 次に、28 才の時、来朝清人の江稼思に中国南宋文人画を学んだ。さらに、三筆として活躍していた 48 才 の天保 9 年(1838)に、画友の木下逸雲と ともに清人南画家陸逸舟氏と師友関係を結 んだ。 蘭竹画を得意とし、四君子第一の蘭画に かけては、右に出る者はいなかったといわ れる。 木下逸雲とは深く交友し、田能村竹田と も親交を深めていた。長崎三筆の一人逸雲 翁は、太素軒時代の鉄翁晩年の傑作を讃え、 孫の瓊江を弟子入りさせている。 弘 化 3 年(1846)56 歳 の 頃 に は 京・ 大 阪・江戸に遊び、春徳寺に続く雲龍寺太素 軒時代は画禅三昧の生活を送り神品の墨蘭 竹画や四季山水、六枚折金屏風四君子図な どを描いたという。最晩年は春徳寺合併の 太素軒に移り、明治 4 年(1871)に入寂し た。81 歳18。 町史によれば路勇は弘化 4 年、鉄翁 57 才 の頃に肥前長崎の春徳寺を訪ね、鉄翁禅師 のに会っており、鉄船は蔓延元年(1860) に画号をもらっている。鉄翁は 72 歳。鉄船 は 47 歳であった。佐藤北洲については鉄翁 と出会った時期は定かではない4。