• 検索結果がありません。

温泉と万葉集 109 ゆ温 にきたつ ゆ 泉 熟田津の温泉 と言われていた 1),2) また かってこの周辺には温泉郡と呼ばれていた地域があった 2) 日本書紀 や 伊予国風土記逸文 によると, 景行天皇 仲哀天皇 神功皇后など多くの皇族方が行幸を行っており また 聖徳太子が病気療養のため 道後温泉

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "温泉と万葉集 109 ゆ温 にきたつ ゆ 泉 熟田津の温泉 と言われていた 1),2) また かってこの周辺には温泉郡と呼ばれていた地域があった 2) 日本書紀 や 伊予国風土記逸文 によると, 景行天皇 仲哀天皇 神功皇后など多くの皇族方が行幸を行っており また 聖徳太子が病気療養のため 道後温泉"

Copied!
10
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

温泉と万葉集

佐々木政一

海南医療センター外科

Review

The Hot-spring and Manyosyu

Masakazu SASAKI

Department of Surgery, Kainan Municipal Medical Center

抄 録 我が国に現存する最古の歌集で、古代の人々の暮らしぶりを今に伝える『万葉集』には、温泉地で 詠んだ、あるいはそれと関係する歌が少なからず見られる。 日本三古湯といわれる「道後温泉」、「白浜温泉」、「有馬温泉」も含まれ、その他に「伊香保温泉」、 「湯河原温泉」、「二ふ つ か日市いち温泉(福岡県)」の計 6 ケ所の温泉地である。 本稿ではこれら 6 ケ所の温泉地で詠まれた、あるいはその地と関連の深い万葉歌について歌碑とと もに紹介する。 キーワード:温泉、温泉地、万葉集、万葉歌、万葉歌碑

Ⅰ はじめに

万葉時代とは 629 年から 759 年にかけての約 130 年間をいう。万葉集は 8 世紀後半に大伴 家 やかもち 持を中心に編纂された我が国に現存する最古 の和歌集で、天皇、貴族から下級官僚、防人、 東 あずま 人 びと 、一般庶民に至るまでさまざまな身分の 人が詠んだ 20 巻、4500 余首からなる。 この中には温泉地と関連する歌も少なからず あり、日本三古湯と言われる「道後温泉」、「白 浜温泉」、「有馬温泉」も含まれ、その他に「伊 香保温泉」など 3 ヶ所の温泉地がある。 そこで本稿ではこれらの温泉地で色々な人々 に詠まれた、あるいは関連のある万葉歌につい て歌碑とともに紹介する。 なお、歌碑に刻まれた文字の中には白文(万 葉仮名)で書かれたものもあるが、本稿ではす べて読み下し文で統一した。

Ⅱ 万葉集に詠まれた歌と温泉地

1.道後温泉(愛媛県松山市道後湯之町) 道後温泉は約 3000 年の歴史を誇る日本国内 で最も古い温泉の一つで、古代には「伊予の (投稿受付日:2014 年 12 月 6 日,掲載決定日:2015 年 1 月 5 日) 海南医療センター外科 〒 642-0002 和歌山県海南市日方 1522-1 TEL:073-482-4521 FAX:073-482-9551

総説

(2)

温ゆ泉」、「熟にき田た つ津の温ゆ泉」と言われていた1),2) また、かってこの周辺には温泉郡と呼ばれてい た地域があった2) 『日本書紀』や『伊予国風土記逸文』による と,景行天皇、仲哀天皇、神功皇后など多くの 皇族方が行幸を行っており、また、聖徳太子が 病気療養のため、道後温泉に滞在したことも記 されている2) 1)「 後のちのをか岡もとの本みや宮に天あめの下した治めたまひし天てんわう皇の代みよ あめ とよ たから いかしひたらしひめ 日足媛天皇、譲位の後、後岡本 宮に即つきたまふ ぬかたの 田 王おほきみの歌 にき 田た津つに 船乗りせむと 月待てば しほ もかなひぬ 今は漕ぎ出いでな 巻 1−8」 ( 後 の 岡 本 宮 の 天 皇 の 御 代 天あめ豊とよたから財 重 いかしひたらし 日 足姫ひめ天皇、譲位の後、後岡本宮に即 位された 額田王の歌 熟田津で 船出しようと 月の出を待って いると 潮も幸い満ちて来た さあ今こそ 漕ぎ出そうぞ) 舒明天皇の岡本宮と区別するため、斉明天皇 の宮は後岡本宮と呼ばれる3) 唐、新羅軍の攻撃を受け、滅亡に瀕した百済 国救済のため、斉明 7 年(661 年)、救援軍は 難 なに 波わ津づ(大阪)を出発し、1 月 14 日に伊予国 熟田津の石いわ湯ゆの行あんぐう宮に立ち寄った。伊予で軍 備、水軍力の確保強化を終え、満を辞して熟田 津から九州の娜なの大おお津つ(現在の博多港)に向けて 軍船団が出航した。 その際に額田王が斉明天皇に代わり、渾身の 力を込めて鼓舞し、大号令の一声のもとに大軍 船団を動かすこの歌を詠んだ4),5) 歌碑:松山市護国神社・万葉苑(Fig. 1)を はじめ 5 基。 2)「 山部宿す く ね禰赤人が伊予の温ゆ泉に至りて作る歌 一首并あはせて短歌 すめろき 皇の 神の命みことの 敷きいます 国のこと ごと 湯はしも さはにあれども 島山の よろ しき国と こごしかも 伊予の高た か ね嶺の 射い狭ざ庭にはの 岡に立たして 歌思ひ 辞こと思ほ しし み湯の上への 木こ群むらを見れば 臣おみの木 も 生おひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変は らず 遠き代に 神かむさび行かむ 行いでましどころ幸処 巻 3−322 反歌 ももしきの 大宮人の 熟田津に 船乗りしけむ 年の知らなく 巻 3−323」 (山部宿禰赤人が伊予の温泉に行って作っ た歌一首と短歌 歴代の 天皇が お治めになっている 国 ごとに 温泉は たくさんあるが なかで も島も山も よい国として 険しい 伊予 の高嶺の 射い狭ざ庭にわの 岡に立たれて 歌を 案じ 言葉を練られた 温泉のほとりの 木立を見ると 臣おみの木も 新たに茂ってい る 鳴く鳥の 声も変わっていない 遠い 将来までも いよいよ神こうごう々しくなってゆく ことであろう 昔の行幸の跡は 反歌 (ももしきの) 大宮人が 熱田津で 船出 したという それはいつ頃のことだったの であろうか) 「敷きいます」はお治めになっている、「こご しかも」は険しい、「辞こと思ほしし」の「辞」は

Fig. 1 The stone monument inscribed with a manyoka by Okimi NUKATA in Dogo Spa

(3)

言葉のことで歌と同じ。「神さび行かむ」は 神々しくなっていくの意3) 「ももしきの」は大宮人に懸る枕詞。 「射い狭ざ庭にはの岡」は標高 70m ばかりの小丘であ るのに「伊予の高嶺の」という修飾語がついて いる。これは伊予の高嶺の名にふさわしい石鎚 山脈、高縄山塊の末端に射狭庭の岡が位置して いるからと考えられている3)。「臣の木」はモ ミの木(?)か5) 山部赤人のこの歌について、伊藤博氏はその 著書『萬葉集釋注』4)の中で「山部赤人が、い つ何用で伊予(愛媛県)に旅したかは明らかで ない。上司に率いられての公用の旅であったの であろう」と述べている。 舒明 11 年(639 年)、舒明天皇と皇后(後の 斉明天皇)が伊予の温ゆ湯へ行幸を行い、椹むくの木 と臣おみの木に稲穂をかけて、斑いかるが鳩と此し米め鳥とり(とも にアトリ科の小鳥)を養かったという話が伝わっ ており、長歌の「臣の木も 生ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変はらず」はこの行幸へ思いを 巡らせているである3),4)。反歌の「塾田津に 船乗りしけむ 年の知らなく」には斉明 7 年 (661 年)の新羅遠征の船出に想いを馳せ、本 当に年が解らないのではなく、上記 1)の額田 王の歌(巻 1-8)の一声によって、筑紫へと 船出していった一行の往時が遠い過去のこと で、それほどこの地の歴史が古く、輝かしい永 遠性を持っていることを讃美しているのであ る4) 歌碑:道後温泉本館、「神の湯」男湯湯釜 (Fig. 2) 2.白浜温泉(和歌山県西牟婁郡白浜町) 白浜温泉は『万葉集』ばかりでなく、『日本 書紀』や『続日本紀』にも「牟婁の温ゆ湯」、「紀 の温ゆ湯」として登場する。現在の「崎の湯」で ある6) 万葉時代に牟婁の温湯には 3 回の行幸が行わ れた7) ① 斉明天皇 4 年(658 年):斉明天皇、中大兄 皇子 この時、有間皇子事件が起こる。 ②持統天皇 4 年(690 年):持統天皇 ③大宝元年(701 年):持統太上天皇、文武天皇 1)「 紀の温ゆ泉に幸いでませる時に、額田王の作る歌 莫囂円隣之 大相七兄爪謁気 我が背子が い立たせりけむ 厳いつかし橿が本もと 巻 1−9」 (紀の温泉に行幸された時に、額田王が 作った歌 莫囂円隣之 大相七兄爪謁気 我が君が そばに立たれたという 神聖な橿かしの木の下 よ) 斉明 4 年(658 年)、斉明天皇が牟婁の温湯 へ行幸を行った際に同行した額田王が作った歌 である。 この歌は 4500 余首を数える万葉集中きって Fig. 2 The stone pot monument of hot-spring

inscribed with a manyoka by Akahito YAMABE in Dogo Spa

(4)

の難訓歌と言われている。その理由は第 1 句、 2 句の 12 文字にあり、30 種以上の訓みが試み られているが、1000 年このかたいまだに読み 解かれていないのである8) 「背子」は女性から見て夫や恋人のことをい うがここでは不詳。 歌碑:和歌山市西庄 木きのもと本八幡宮拝殿前 (Fig. 3) 2)「中なかつすめら皇命みこと、紀の温ゆ泉に往ゆく時の御み歌うた」 (中皇命が紀の温泉に行かれた時の御歌) ①「君が代も 我わが代も知るや 岩代の 岡の草根を いざ結びてな 巻 1−10」 (あなたのお命も 私の命もつかさどって いる この岩代の 岡の草を さあ結んで いきましょう) 作 者 の 中 皇 命 に つ い て は、 ① 斉 明 天 皇、 ②間はしひとの人皇ひめみこ女(斉明天皇の娘)、③ 倭やまとの大おおきさき后(中 大兄皇子の妻)などの諸説があるが、斉明天皇 が娘の間人皇女に代作させたとする説が有力で ある3),7) 「君」は男子に対する尊称で、ここでは中大 兄皇子をさす3) この時代、行路の平安を祈るため、国・郡な どの境界で手向けをして地霊を鎮め、草や木の 枝を結ぶ風習があった4) 歌碑:日高郡みなべ町 光照寺横 ②「我が背は 仮かりいほ作らす 草なくば 小松が下もとの 草を刈らさね 巻 1−11」 (わが君よ 仮の庵いおりをお作りになる 萱かやが ないなら あの小松の根元の 草でもお刈 りなさいよ) ここでの「我が背子」は中大兄皇子のことを いう3) ③「我が欲りし 野島は見せつ 底深き の浦の 珠たまそ拾ひりはぬ 巻 1−12」 (私が見たい見たいと思っていた 野島は (その美しい)景色を見せて下さいました しかし底の深い 阿古根の浦の 美しい珠 はまだ拾っていませんわ) 「野島」は御坊市名田町の野島、「阿古根の 浦」は不詳。 「珠たま」は「鰒あわび玉たま」とも言い、真珠のことをい う。 古代、珠(たま)といえば霊魂(たましい) に通じ霊的なものも意味していた。そしてこの 行幸の 5 ヶ月前に、斉明天皇が慈しんだ孫の 建 たけるの 皇み こ子(中大兄皇子の嫡男)が 8 歳で亡く なっている。このようなことも考えあわせれ ば、この歌の内実は建皇子の霊魂(たま)を深 い海の底に求めた祖母・斉明天皇の鎮魂の歌と も解釈できるのではなかろうか8) 歌碑:御坊市名田町野島 「はし長」駐車場 3)有間皇子 斉明 3 年(657 年)に有間皇子が病気を装っ て牟婁の温湯を訪れた。翌斉明 4 年(658 年) には斉明天皇と中大兄皇子が行幸を行い、この 時「有間皇子事件」がおこり、有間皇子は謀反 のかどで飛鳥から牟婁の温湯に護送される。牟 婁の温湯での詮議は不問に終わり、希望どおり Fig. 3 The stone monument inscribed with a

manyoka by Okimi NUKATA in Kinomoto Shrine

(5)

再び岩代の松を見たのも束の間、数日後には海 南市の藤白坂で絞殺されてしまう。時に皇子 19 歳。 ①「岩代の 浜松が枝を 引き結び ま幸さきくあらば またかへり見む 巻 2−141」 (岩代の 浜の松の枝を 引き結んで(神 に祈っていくが) 幸いにも無事であった なら またここに立ち寄ってこの松を見た いものだ) ②「家にあれば 筍に盛る飯いひを 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る 巻 2−142」 (都の家であれば 美しいお椀に盛って食 べられるのに 今は旅 しかも捕らわれの 身 椎の葉に盛って食べることよ) この 2 首は「有間皇子自みづから傷いたみて松が枝を結 ぶ歌二首」という題詞がついて、巻 2 の挽歌部 の冒頭に収められている3) 白良浜海水浴場の近くの白良ヶ丘公園には哀 悼をこめて「有間皇子之碑」が建てられ、裏面 にはこの 2 首が刻まれている。 歌碑:白浜町白良ヶ丘公園(Fig. 4) 4) 長ながいの忌いみ寸き意お吉き麻ま呂ろ 「風かざなし莫の 浜の白浪 いたづらに ここに寄り来る 見る人無しに 巻 9−1673」 (風のないはずの風莫の 浜に白波が む なしく 寄せてくる ともに見る人も無い のに) この歌は大宝元年(701 年)の行幸の折の作 である。 「風莫の浜」とは『紀路歌枕抄』によると、 波が静かで繋ぎ綱もいらないほど凪いだ浜で、 白浜町の綱つな不し ら ず知(桟橋)のことを言い、現在も その地名が残っている8) 風莫の浜に珍しく白波が立っている。しか し、一緒に見る人もいない旅の孤愁を歌う。 歌碑:白浜町綱不知(旧桟橋)(Fig. 5) 3.有馬温泉(兵庫県神戸市北区有馬町) 有馬の温ゆ湯は『摂津国風土記逸文』による と、蘇我馬子の時代に発見され、孝徳天皇(有 間皇子の父)は付近の山に材をとって行あんぐう宮を造 営したと伝えている7) 1)「 つのくに津にして作る しなが鳥 猪ゐ な名野を来れば 有ありやま

Fig. 4 The stone monument inscribed with Arimanomiko in Sirahama Spa

Fig. 5 The stone monument inscribed with a manyoka by Okimaro NAGAINOIMIKI in Sirahama Spa

(6)

夕霧立ちぬ 宿やどりはなくて 作者不詳 巻 7−1140」 ( 摂津での作 (しなが鳥) 猪名野をはるばるやって来る と 有間山に 夕霧が立ってきた 泊るべ き所もないのに) 「摂つのくに津」とは現在の大阪府北部と兵庫県東南 部にあたる4),9) 「しなが鳥」は猪名にかかる枕詞。かいつぶ りの古名9) 「猪名野」は兵庫県の伊丹・尼崎・川西の各 市から、大阪府の池田・豊中両市に及ぶ猪名川 周辺の平野部をいう3),9),10) 「有間山」は現在の六甲山。 日が暮れて道遠い旅愁を嘆いた歌である。 歌碑:尼崎市椎堂 猪名川自然公園(Fig. 6) をはじめ 3 基。 2)「 七年乙いつがい、大おほともの伴坂さかのうへのいらつめ上 郎 女、尼あまぐわんの死し に しことを悲嘆して作る歌一首并あはせて短歌 たくづのの 新し ら ぎ羅の国ゆ 人ひとごとを 良しと 聞かして 問ひ放くる 親う が ら族兄はらがら弟 なき 国に 渡り来まして 大おほきみ君の 敷きます国 に うちひさす 都みやこしみみに 里さといへ家は さ はにあれども いかさまに 思ひけめかも つれもなき 佐さ ほ保の山やまに 泣く子なす 慕ひ来まして しきたへの 家をも造り あらたまの 年の緒長く 住まひつつ い まししものを 生ける者ひと 死ぬといふこと に 免まぬかれぬ ものにしあれば 頼めりし 人のことごと 草くさまくら 旅なる間あひだに 佐保川 を 朝あさかは渡り 春か す が日野を そがひに見つつ あしひきの 山辺をさして 夕ゆふやみ闇と 隠かく ましぬれ 言はむすべ せむすべ知らに たもとほり ただひとりして 白たへの ころも 干さず 嘆きつつ 我が泣く涙 有 間山 雲くもたなびき 雨に降りきや 巻 3−460 反歌 とど め得ぬ 命いのちにしあれば しきたへの 家ゆは出でて 雲隠がくりにき 巻 3−461」 (天平 7 年、大伴坂上郎女が、尼理り願がんの死 を悲嘆して作った歌一首と短歌 (たくづのの) 新羅の国から 人の噂に 住みよい国だとお聞きになって 話し合う 親兄弟とて いないこの国に 渡って来ら れて 天皇の 治められる国に (うちひ さす) 都でもぎっしりと 里や家は た くさんあるのに どのように 思われたの か 縁もない 佐保の山辺に (泣く子な す) 慕って来られて (しきたへの) 家 まで造り (あらたまの) 年月長く 住み 続けて いらっしゃったのに 生きている ものは 死ぬという道理から 逃のがれられな い も の で あ る か ら 頼 り に し て い た 人々が皆 (草枕) 旅に出ている間に 佐 保川を 朝に渡り 春日野を かなたに見 ながら (あしひきの) 山辺をさして 夕 闇に紛れて 隠れてしまわれたので 言い よ う も し よ う も な く て お ろ お ろ と たった一人で 白い喪服の 袖も乾かない ほど 嘆き続けて 流すわたしの涙は 有 馬山に 雲となってかかり 雨となって 降ったでしょうか 反歌 Fig. 6 The stone monument inscribed with a

manyoka by unknown author in Inagawa Natural Park

(7)

留められない 寿命のことゆえ (しきた えの) 家を出て行き 雲に隠れてしまわ れた) 「たくづのの」は新羅に、「うちひさす」は 宮・都に、「泣く子なす」は慕うに、「しきたへ の」は家に、「あらたまの」は年または月など に、それぞれ懸る枕詞。同様に「草枕」は旅、 「あしひきの」は山に懸る枕詞3) 「しみみに」は隙間なく、「雲隠る」は死の敬 避表現3) 左注によると、新羅から単身渡来し帰化した 理願という尼が急病で亡くなった。大納言大伴 安麻呂卿の館で数十年間世話をしていた石川 命 みようぶ 婦(坂上郎女の母)は病気保養のため、有馬 温泉に行っていて野辺送りに出ることができな かった。そこで、坂上郎女が葬送を済ませ た3) 人の死を「生ける者 死ぬといふことに 免 れぬ ものにしあれば」と、「生者必滅」とい う仏教的無常観の挽歌として有馬温泉に居る命 婦に贈ったのである3),9) 4.伊香保温泉(群馬県渋川市伊香保町) 伊香保の名は今では伊香保町の町名として 残っているだけであるが、万葉時代には榛名山 一帯を指していた。 伊香保温泉の発見は約 1300 年前の万葉時代 と言われている1) 特筆すべきは万葉集巻 14 の東あずま歌うたの中に、伊 香保を歌った歌が 9 首も含まれていることであ る。しかし当時、伊香保は都から遠く、方言や 訛りで詠まれた難解な語句の歌が多く、現代語 訳は群馬県渋川伊香保温泉観光協会発行の『伊 香保温泉 句碑めぐり 万葉歌碑めぐり』11) 地元出身の故宮澤智子著『伊香保の万葉集』12) と歌碑の横に建てられている解説文を参考にし た。 また、9 首すべてが伊香保町内に歌碑として 建立されている。 1)「伊香保ろに あま雲いつぎ かぬまづく 人とおたはふ いざねしめとら 作者不詳 巻 14−3409」 (伊香保の山に 入道雲がつぎつぎに湧き 上がり 雷鳴も轟き(かぬまづく) 人も 騒いで(おたはふ) その方に気を取られ ている そういう時だからさあ一緒に寝さ せろよ…… なぁお前) 「伊香保ろ」は榛名山のこと4) 歌碑:ロープウェイ見晴駅 2)「伊香保ろの そひの榛はりはら原 嶺ねもころに 奥をなかねそ まさかしよかば 作者不詳 巻 14−3410」 (伊香保の山の 山岸(そい)にある榛はりの 林が 山岸から嶺の方まで同じように続い ているのだから 私達の将来だってあまり 先のことまで考えることはないよ 今さえ よければいいじゃないか……) 「榛はり」はハンノキの古名、「奥」は将来、未 来3) 歌碑:県立森林公園管理棟前 3)「伊香保ろの 八や尺さかの堰ゐ塞でに 立つ虹のじの あらは ろまでも さ寝をさ寝てば 作者不詳 巻 14−3414」 (伊香保の山裾にある 八尺もある大きな 水門(堰い提で)からほとばしる水しぶきに 朝日が当たって虹が はっきりと見えるよ うになるまで お前と一緒に寝ていられた らどんなに楽しいだろう 是非そうしたい ものだなぁ なぁお前) 「虹のじ」はにじの古形、あるいは東国訛り。「さ 寝をさ寝」は幾夜も続けて寝ること3) 万葉集中、虹を詠みこんだ歌はこの 1 首のみ である14) 歌碑:①伊香保神社 ②水沢観音駐車場(Fig. 7) ③水沢観音万葉植物園 4)「上かみつ毛け野の 伊香保の沼に 植うゑ小こ な水葱ぎ かく恋ひむとや 種たね求めけむ

(8)

作者不詳 巻 14−3415」 (上毛野の 伊香保の沼に 植えた子水葱 の成長が こんなに待ち遠しいものなら いっそのこと子水葱の種など植えるのでは なかった(今の苦しみのもとになっている 恋い焦がれの種など始めから求めるのでは なかった 何と苦しいことか)) 「伊香保の沼」とは榛名湖のこと4) 「小こ水な葱ぎ」は湖沼に自生するみずあおい科の 1 年草で、その葉柄は食用にする。うら若い女 性の譬えとして使われる3) 歌碑:湯元飲泉所横 5)「伊香保せよ なかなかしけに 思ひどろ くまこそしつと 忘れせなふも 作者不詳 巻 14−3419」 (伊香保にいる背の君よ あなたはこの頃 私の所のなかなかし(仲子=妹いも)に 大変 想いをかけていなさるようですが 私は何 時かあなたと一緒に寝たことがある この ことだけは決して忘れないですからね…… くやしい) 歌碑:伊香保公民館下 6)「伊香保嶺ねに 雷かみな鳴りそね 吾わが上へには ゆゑ はなけども 児こらによりてぞ 作者不詳 巻 14−3421」 (伊香保の嶺から 発生する雷様よ 怖い 音をして鳴らないでおくれ 俺には 何の ことはないけれど 俺の好きなあの娘が怖 がるから……) 歌碑:水沢観音境内 7)「伊香保風 吹く日吹かぬ日 ありといへど 吾あが恋のみし 時なかりけり 作者不詳 巻 14−3422」 (伊香保の山から吹いてくるあの猛烈な 空っ風だって 吹いたり吹かなかったりす る日が あります しかし 私があなたを 想う心には そんなことはありません(来 る日も来る日も四六時中あなたのことばか り想い続けているのです)) この風は上州名物の空っ風である。 歌碑:石段下 旧ハワイ王国公使別邸横 8)「上かみつ毛け野の 伊香保の嶺ねろに 降ろ雪よきの 行き過ぎかてぬ 妹いもが家いへのあたり 作者不詳 巻 14−3423」 (上毛野の 伊香保の嶺に 降る雪が 通 り過ぎないで降り続けているように 俺 だってあの娘の家の近くは簡単には通り過 ぎられないでいるんだよ(あの娘が好きだ から)) 「降ろ雪よき」は降るゆきの訛り2) 歌碑:長峰公園 9)「伊香保ろの そひの榛はりはら原 吾わが衣きぬに つき寄らしもよ ひたへと思へば 作者不詳 巻 14−3435」 (伊香保の山の 山沿いにある榛原の榛の 実は 私の着物に とても染めつけ具合が 良い(合性が良い) これは私の着物が一ひと 重え物だから(私のあなたを想う気持ちに裏 表の二重の心がないから)) 「ひたへ」は一ひと重えの訛り3) 一重の衣は裏がないので、自分が相手をひた すら想っていることをにおわせている。 歌碑:文学の小径(Fig. 8) Fig. 7 The stone monument inscribed with a

(9)

5.湯河原温泉(神奈川県足柄下郡湯河原町) 湯河原温泉には役えんの行者発見説、行基による 発見説、二見加賀之助重行発見説など、複数の 開湯伝説がある14)。開湯は約 1300 年前と言わ れている14) 「足あしがり柄の 土と ひ肥の河か内ふちに 出いづる湯の 世にもたよらに 子ろが言わなくに 作者不詳 巻 14−3368」 (足柄の 土肥の谷間に 湧き出る湯のよ うに ほんのちょっとでも揺らぐ気持ちを あの娘は言ったわけでもないのに(私は心 配だ)) 温泉のコンコンと湧出している様子を詠った ものは、万葉集中この 1 首のみである。 「足あし柄がり」は足あし柄がらの訛り、「土と肥ひ」は湯河原一帯 の旧名15)、「河ふち」は上流の谷あいの平地3) 自分が想いを寄せている女性が、温泉の湯煙 のように他の男性に揺らぎはしないかと、いつ も不安な気持ちに駆られている男性の歌であ る。 この「河内に出づる湯」のところが湯河原温 泉発祥の地か?。 歌碑:湯河原町万葉公園(Fig. 9) 6.二ふ つ か日市いち温泉(福岡県筑紫野市武蔵) 「 帥そち大おほとも伴卿きやう、次すき田たの温ゆ泉に宿り、鶴たづの音ねを聞 きて作る歌一首 湯の原に 鳴く芦あし田た鶴づは わがごとく いも に恋こふれや 時わかず鳴く 巻 6−961」 (太だざいの宰師そち大伴卿が次田の温泉に泊って、鶴 の鳴き声を聞いて作った歌一首 湯の原に 鳴く葦辺の鶴は 私のように 妻を恋い慕うからか 時の区別もなく鳴い ている) 「時わかず」は絶え間なくの意2) 二日市温泉の開湯は約 1300 年前の奈良時代 で、古くは「吹すき田た温泉」と呼ばれていた16) 歴史上の記録で「次田温泉」が現れてくるの は、大伴旅人が詠んだこの歌が初めてで、大宰 府遺跡の南、2km ばかりの地にある15) 神亀 4 年(727 年)の暮れ、大伴旅人は大宰 府の師そち(長官)として筑紫に赴任した。筑紫行 きに伴った妻大伴郎いらつめ女は不幸にも翌年の 4 月に 亡くなった。亡き妻を恋い偲び、深く悲しい自 分の境遇を、湯の原で泣く鶴の声に託して詠ん だ歌である3),17) 歌碑:筑紫野市パープルホテル二日市前 (Fig. 10)

Fig. 8 The stone monument inscribed with a manyoka by unknown author in Ikaho Spa (2)

Fig. 9 The stone monument inscribed with a manyoka by unknown author in Yugawara Spa

(10)

Ⅲ おわりに

万葉集に登場する温泉地 6 ケ所と、それと関 係のある万葉歌を歌碑を交えて紹介した。 引用文献 1)野口冬人:全国温泉大事典.旅行読売出版社, 東京,1998 2)「道後温泉」編集委員会編:道後温泉増補版. 松山,1982 3)「萬葉集①,②,③」新編日本古典文学全集. 小学館,東京,1996 4)伊藤 博:萬葉集釋注①,②,③,④,⑤, ⑦.集英社,東京,2005 5)中西 進企画 下田 忠:万葉の歌 10 人と 風土 中国・四国.保育社,東京,1986 6)紀泉楽太郎:温泉博士・紀泉楽太郎の紀州の 温泉 ちょっとひと風呂.有限会社アガサス, 和歌山,2001 7)中西 進企画 村瀬憲夫:万葉の歌 9 人と 風土 和歌山.保育社,東京,1986 8)佐々木政一:紀伊国万葉歌碑散歩.新和歌山 新報社,和歌山,1998 9)中西 進企画 神野富一:万葉の歌 6 人と 風土 兵庫.保育社,東京,1986 10)犬養 孝,山内英正:犬養 孝 万葉歌碑. (財)野間教育研究所,東京,1999 11)一般社団法人 渋川伊香保温泉協会:伊香保 温泉 句碑めぐり 万葉歌碑めぐり.渋川, 2012 12)富澤智子:伊香保の万葉集.万葉書房,千葉, 2000 13)中西 進企画 渡部和雄:万葉の歌 14 人と 風土 中部・関東北部・東北.保育社,東京, 1986 14)湯河原町観光課:ゆがわらのおはなし.1981 15)石川理夫:湯河原温泉 いい湯のはなし. NPO 法人湯河原げんき隊,湯河原,2014 16)筑紫野市史編さん委員会:筑紫野市史 上巻. 筑紫野,1999 17)中西 進企画 林田正男:万葉の歌 11 人と 風土 九州.保育社,東京,1986 協力 愛媛県松山市 護国神社・万葉苑 愛媛県松山市 道後温泉本館 群馬県渋川市 渋川伊香保温泉観光協会 神奈川県足柄下郡湯河原町 湯河原町観光課 福岡県筑紫野市 歴史資料館

Fig. 10 The stone monument inscribed with a manyoka by Tabito OTOMO in Futukaiti Spa

Fig.  1 The  stone  monument  inscribed  with  a  manyoka by Okimi NUKATA in Dogo Spa
Fig.  4 The  stone  monument  inscribed  with  Arimanomiko in Sirahama Spa
Fig.  9 The  stone  monument  inscribed  with  a  manyoka by unknown author in Yugawara Spa
Fig.  10 The  stone  monument  inscribed  with  a  manyoka by Tabito OTOMO in Futukaiti Spa

参照

関連したドキュメント

子どもたちは、全5回のプログラムで学習したこと を思い出しながら、 「昔の人は霧ヶ峰に何をしにきてい

を行っている市民の割合は全体の 11.9%と低いものの、 「以前やっていた(9.5%) 」 「機会があれば

親子で美容院にい くことが念願の夢 だった母。スタッフ とのふれあいや、心 遣いが嬉しくて、涙 が溢れて止まらな

   遠くに住んでいる、家に入られることに抵抗感があるなどの 療養中の子どもへの直接支援の難しさを、 IT という手段を使えば

賠償請求が認められている︒ 強姦罪の改正をめぐる状況について顕著な変化はない︒

単に,南北を指す磁石くらいはあったのではないかと思

下山にはいり、ABさんの名案でロープでつ ながれた子供たちには笑ってしまいました。つ

大村 その場合に、なぜ成り立たなくなったのか ということ、つまりあの図式でいうと基本的には S1 という 場