火葬場観光における政治性の考察
―国際関係から観光地を読み解く―
Political Implication of Crematory Tourism through International Relations
宮﨑 友里* MIYAZAKI Yuri* Nepal has a crematory tourist spot in Pashupatinath temple, which is a Hindu famous temple and listed as world cultural heritage. The aim of this article is to answer why the crematory spot was also used as tourism attraction? To begin with, the article will point out the limitation of the preceding concept: Tourist Gaze. The concept cannot explain the reason why a certain area is formed as a tourist spot, as it only explains the condition of being a tourist spot. Afterwards, this article will focus on international relations aspect, especially Nepalese diplomacy analyzed with Soft Power theory. The article concludes that forming a crematory tourist spot is a measure for Nepal to perform diplomacy to India and international society.
キーワード:ネパール(Nepal)、国際関係(international relations)、ソフトパワー(soft power)、 まなざし論(tourist gaze) 1. はじめに (1) 背景 ネパールには火葬を観光する施設がある。この「も のめずらしい」観光地は、世界遺産に登録されてい るパシュパティナートという寺院内にある(1)。 パシュパティナート寺院は、ネパールの首都カトマ ンズの中心地から3 キロメートルほど東方に位置して いる。パシュパティナートはインド亜大陸に在るヒン ズー教の4 大聖地の一つに数えられており、ヒンズー 教徒の巡礼者がインドを含めネパール国内外から や って来る。また、パシュパティナートの一角にある 火葬場には世界各国からの観光客もやって来る。 パシュパティナートとは、主にヒンズー教のシ ヴ ァ神を祀る寺院本堂と火葬場を提供する施設と なっているが、寺院本堂はヒンズー教徒以外の立ち 入りが禁止されている。よって、ヒンズー教徒でな い観光客がパシュパティナート内で目的地とするの はほとんど火葬場に限定されていると考えられる。 (2) 目的 「まなざし論」に従えば、火葬場は非日常度が高い という点で観光地になり得る条件を満たすことは確 かだろう。しかし一般的に火葬場は「観光地」とし て成立し得るものなのだろうか。一般的には、観光 地には風光明媚な風景や美しい建造物などポジティ ブなイメージを持つものが想定される。稀にネガ テ ィブなイメージを持つものであっても、それが既 に「歴史」として受け入れられることで観光地とな る(2)。これに対して、火葬はポジティブなイメージ を持つとは考えられにくく、かつ目下で執り行われ ている儀式であり無臭の歴史として消化されていな い(3)。つまり通常は、火葬場は観光地として成立し 得ないものだと考えられる。 しかし実際には、パシュパティナートの火葬場は 観光地となっている。なぜ、この火葬場は観光地と して観光客に提供されているのだろうか。本稿は国 際関係論の視座を援用することでこの問いに答えよ うと試みるものである。 (3) 議論の流れ 第2 章では、観光地を読み解く手掛かりとして、 社会学者アーリーの「まなざし論」と国際政治学者 ナイの「ソフトパワー論」を紹介する。続く第3 章 では、まなざし論を用いてその有用性と限界性を検 討していく。パシュパティナートでの火葬場観光を 読み解く手掛かりとして、観光ガイドブックにおい *神戸大学大学院国際協力研究科博士後期課程 論 文 [観光研究]2017. 3 / Vol. 28 / No.2 日本観光研究学会機関誌 Journal of Japan Institute of Tourism Research
てパシュパティナートそれ自体が国際観光の文脈で どのようなまなざしを受けてきたのかを確認する。 第4 章では、ソフトパワー論を用いて火葬場の観光 地化を解釈する。第 5 章の結論部分ではパシュパ テ ィナートの火葬場観光について考察を加えるとと もに、本稿の理論的貢献について検討する。 2. 先行研究の検討 観光地になり得る条件を検討するための理論的視 座として、アーリーの「まなざし論」がある。アー リーは、観光地として機能するには「非日常度」が 高いことが必要であると指摘した。産業革命後にイ ギリスでは都会に労働者が集中したことを前提に、 海浜リゾートが市街地に住む労働者にとって、日常 空間とはかけ離れた非日常空間として受け入れられ たことによって、海浜リゾートが大衆観光として発 展したとアーリーは分析した(4)。また、時代が下る にしたがって、人々は居住空間においても喫茶店や テレビなどに非日常性を見出し、海浜リゾートは次 第に衰退していった。ところが、目新しい施設を提 供し続けて非日常性を創り続けた海浜リゾート地は 例外的に生き残ったことを明らかにした。ここから、 観光地たり得ることの条件として、日常の生活空間 とは異質なものが必要であることが導出される (Urry 19901))。つまり、アーリーのまなざし論を用 いると、観光地になり得るものを明らかにすること が出来る。 また、観光を政治性と関連付けて検討する場合、 観光はナイの提唱した「ソフトパワー(5)」に位置づ けられるものだと考えられる。ソフトパワーとは、 軍事や経済という強制的な国力に対して、政策や文 化といった魅力としての国力を指す。ソフトパワー 論は、そういった魅力だと映る要素が国際政治上、 重 要な役 割を 果たす と述 べたも ので ある(Nye 20042))。 ただ、ナイはソフトパワーで過去の国際関係を分 析してはいるものの、政府が意図的にソフトパワー を活用するとまでは述べていない。むしろ、それは 敬遠されるべきだと言う立場である。 しかし、国際観光客を対象とした観光立国化を進め る国家にとって、中央政府が観光を戦略的に活用しよ うとしていることは明らかであろう。本稿はこれまで の観光地の成立条件の射程では捉えきれないものが 観光地として成立する際に働く力学を、国際政治の理 論を援用することで明らかにするものである。 3. 観光地としてのパシュパティナート (1) パシュパティナートの変遷 ここで、パシュパティナートがこれまで観光地と してどのように説明されていたのかを観光ガイド ブ ックの記述を通して確認していきたい。資料には、 観光ガイドブックの中でも、代表的な位置づけにあ る「ロンリープラネット Lonely Planet(6)」をとり上 げる。表-1 はパシュパティナートと題した項目に おけるパシュパティナートの紹介記事が通時的にど う変化してきたのかを示したものである。 まず、パシュパティナートそれ自体の説明において、 国際的な文脈で説明されるようになっていることが 確認できる。1973 年の初版においては、パシュパティ ナートの説明はパシュパティナートそのものに終始 したものであり、他の要素に関してはボダナート以外 についてはほとんど言及されていなかった。しかし、 1985年の第5版ではパシュパティナートをインドのバ ラナシに相当するものだという説明がなされるよう になっている(7)。その後、1990 年出版のものにおいて は、パシュパティナートを訪れる観光客のことを、「観 光客」ではなく「西洋人 Westerners」という言葉で説 明している箇所さえある(8)。同時に、この「西洋人 Westerners」に対応するものとして、パシュパティナー トには多くの「インド人」であるヒンズー教徒が訪れ る場所であるとも説明されている(9)。 また火葬場と本堂の取り扱い方にも変化が確認で きる。第6 版では、「ヒンズー教徒以外は川岸に行く」 と明記されており、川岸での火葬観光について観光 客としての振る舞い方を諭すコラムまで登場してい る。また本堂について、1993 年の第 2 版から本堂の 項目においては祀られたナンディ像をイラスト付き で説明されていたが、1999 年の第 4 版ではそれはイ ラスト無しの説明書きに戻っている。 さらに、パシュパティナートの立地の説明文にお いても国際的な視点の導入が確認できる。1973 年の 初版から1985 年の第 5 版にかけては、ボダナートと いう近隣の寺院を引き合いに出して「ボダナートへ の途中」であると説明している(10)。しかしその後の 1990 年の初版では、説明書きが「カトマンズと空港 の間に立地」というものに変わっている(11)。その後
の出版物も、立地の説明には引き続き空港が言及さ れている。つまり、パシュパティナートとは寺院「ボ ダナート」に近いだけでなく、首都である「カトマ ンズ」と国際的な特色の強い「空港」にも地理的に 近いものとして記述されている。こうした立地に関 する説明書きが国際観光客の利便性に適うものへと 変化している点で、パシュパティナート観光には国 際的な視点が導入され強調されていると解釈できる。 つまり、現在では、「パシュパティナートはカトマ ンズと空港の間に位置しており、インドのバラナシ に相当するものである。そこを訪れる非ヒンズー教 徒である西洋人は敷地内の火葬場を訪問の目的地に しており、そこで火葬を観光する」ものとして認識 されているのである。 表-1 パシュパティナートの記述に関する変遷 出典)筆者作成。 出版年(版) パシュパティナート 寺院の記述の分量 アクセスに関する記述 記述に関する注目点 1973 年(初版) 1 ページ分未満 ボダナートへの途中 1975 年(第 2 版) 1 ページ分未満 ボダナートへの途中 1976 年(第 3 版) 1 ページ分未満 ボダナートへの途中 1978 年(第 4 版) 1 ページ分未満 ボダナートへの途中 1985 年(第 5 版) 1 ページ分未満 ボダナートへの途中 「インドのバラナシに対応するもの」 1990 年(初版) 3 ページ未満 ボダナートの南西で、空港 とカトマンズの間 敷地内の地図が登場。川岸の項目の登 場。ツーリストの撮影許可されている こと記載。「西洋人 Westerners」は本堂 には入れないと記載。インドから多く の信者来ると記載。 1993 年(第 2 版) 4 ページ未満 ボダナートの南西で、空港 とカトマンズの間 ツーリストへの撮影態度への注意喚起 の記述あり。本堂についての項目でイ ラスト付きの説明書きとなる。 1996 年(第 3 版) 4 ページ未満 ボダナートの南西で、空港 とカトマンズの間 1999 年(第 4 版) 4 ページ未満 ボダナートの南西で、空港 とカトマンズの間 本堂についての項目でイラスト付きで なくなる。 2001 年(第 5 版) 3 ページ未満 ボダナートの南西で、空港 とカトマンズの間 2003 年(第 6 版) 3 ページ未満 ボダナートの南西で、空港 とカトマンズの間 入場料は 250 ルピー。地図に料金所が 登場。ヒンズー教徒以外は川岸に行く。 ここは死生観を考えるのにパワフルな 場所。「Respect for the Dead」という コラムがこの第 6 版のみ登場。 2006 年(第 7 版) 3 ページ未満 カトマンズの東で、空港か らも遠くない 半日観光。カトマンズ盆地にある寺院 の中でパシュパティナートが最低価 格。クーデター後王族 10 名がここで火 葬ことが記載。 2009 年(第 8 版) 4 ページ未満 空港の滑走路のすぐそば 入場料はヒンズー教徒も 250 ルピー課 せられることが記載。 2012 年(第 9 版) 4 ページ未満 空港の滑走路のすぐそば
以上より、観光ガイドブックにおけるパシュパ テ ィナートの説明書きを通時的に確認することで、 火葬場が国際観光客の「観光地」として認識されて いく変遷を確認できた。このように観光地としての パシュパティナートへ向けられたまなざしが、国際 的な文脈でものめずらしく非日常度の高い火葬場に 焦点をあてていく事実は、確かにアーリーのまなざ し論が指摘する通りである。 パシュパティナートは従来より巡礼地としてヒン ズー教徒に評価されるものであったが、それに加え て、火葬場が「観光地」としての意味合いを強めて いったことが確認できた。 (2) 観光地としての意味を読み解く:まなざし論に よる解釈 ではここでもう一度、世界遺産にまでなったパ シ ュパティナートにおける火葬場がなぜ観光地と なったのかについて考察していきたい。 パシュパティナートは寺院本堂と火葬場等を含ん だヒンズー教の複合施設であるが、そこでの主なも のは寺院本堂と火葬場となっている。アーリーのま なざし論を用いてこの寺院本堂と火葬場を解釈して みよう。まず、インドから来たヒンズー教徒にとっ て、パシュパティナート寺院は「聖地」であること から、非日常的空間である。しかし川辺で遺体を燃 すことはヒンズー教徒にとっては特別な風景ではな い(橋本 2005: 291-2923))。よって、パシュパティナ ー トを流れるバグマティ川で行われている火葬はイン ドからやって来た巡礼者にとって特別に見る対象と はならないと考えられる。 対照的に、巡礼者ではない観光客にとって、聖地 である寺院本堂と火葬場は非日常度の高い場所とな る。但し、観光客の寺院本堂への参拝は禁止されて おり、パシュパティナートの敷地内で特別に見る対 象となるのはほとんど火葬のみだと考えられる。一 般的に、火葬場は部外者が立ち入れないものであり、 親族や近しい者たちによって行われるものである。 とするならば、火葬場はパシュパティナートを訪れ る観光客にとって唯一の、見ることの適う非日常度 が高い場所となる。ゆえに観光客にとってパシュパ ティナートの火葬場はパシュパティナートを代表す る非日常空間として映ると考えられる。 すなわち、アーリーのまなざし論を用いて、この パシュパティナートを読み解くと、巡礼者の非日常 性は寺院本堂に認められ、観光客の非日常性は火葬 場に認められる。換言すると、実質的に本堂はヒン ズー教徒に提供され、火葬場は観光客に提供されて るものとなっている。確かに、パシュパティナート の料金所は火葬場周辺に立ち入る直前に設置されて いる(Finlay et al. 2003: 167(6))。この点からも、パシ ュ パティナートの「観光地らしさ」が火葬場に求めら れていることが寺院側と観光客側で共有されている と推察される。 しかし、このように巡礼者と観光客の居所が寺院 本堂と火葬場に、まるで棲み分けられているかのよ うな現象は巡礼者と観光客の非日常性の違いに基づ く「まなざし」の違いと、ヒンズー教徒以外に本堂 参拝を禁止する規則のみに起因するものだろうか。 それだけでないだろう。世界遺産となったことは、 パシュパティナートの門戸がヒンズー教徒だけでな く観光客にも大々的に開放されたことを意味すると 考えられる。というのも、世界遺産は原則的に遺産 保有国の政府自らがユネスコに登録申請を行わねば ならない(12)。よって、ネパール政府はパシュパティ ナートを国際社会に提供する考えを持っていたと考 えるのが妥当であろう。とするならば、なぜネパー ル政府は国際社会を対象とした観光整備を行わなけ ればならなかったのだろうか。 ここでパシュパティナートと関連付けて参照した いのが、インドのバラナシである。インドはネパー ルと同様に、欧米のカウンター・カルチャーのまな ざしが向けられてきた国であり、かつ南アジア圏に おいて強大な影響力を保持している国である。その インドにおけるバラナシはヒンズー教の火葬場とし て広く知られてきた。但し、バラナシは現在に至る まで世界遺産登録がなされていない。ここから、イ ンド政府はバラナシを国際社会に提供しようという 意向をネパール政府と同程度に強くは持っていな か ったと推論できる。誤解を恐れずに言えば、イン ドはバラナシを国際社会に提供する必要性に欠けて いたのである。 まなざし論で明らかにできるのは、観光地である ための条件であり、観光地として整備された意図や 社会情勢は読み取れない。まなざし論に依拠すると 見えてこないそれらの要素が、観光地の形成に影響 しているとするならば、それは見過ごせないもので あろう。次章ではソフトパワー論を分析視角として
国際関係上の政治性に着目しながら火葬場観光を読 み解いていきたい。 4. 観光地とする意図を読み解く:ソフトパワー論 を分析視角として ネパールは数多くの土侯国がひしめき合う状態が 長く続き、統一されたのは1769 年であった。しかし、 19 世紀になって実権を握るようになった宰相は、ネ パールを前近代的な状況に置くことにイギリス政府 と共通の利益を見出し、ネパールを鎖国状態に置い た。ネパールは鎖国状態を長く続けており、当時に 外交関係を持ったのはほとんど英領インドのみで あ った。その後ネパールが国際社会へと復帰したの は第二次世界大戦終了後である。本章では、国際社 会への復帰以降におけるネパール政府の外交方策を 分析することで、火葬場を観光利用することになっ たいきさつについて考察を行う。 (1) 国際社会におけるネパール 従来、ネパールの国際的地位は不安定なもので あ った。英領インドの時代からそうした状況であっ たが、インド独立後はより一層ネパールの独立性は 脅かされていた。 地理的状況からも明らかな通り、ネパールはイン ドに頼らざるを得ない状況であり、この二国間の関 係性は強固なものであった。特にインドがイギリス から独立した後は、ネパールとインドとの関係は「特 殊関係」と称されるほど強固なものとなっていた(13)。 その一方で、イギリスが退いた後のヒマラヤ地域に おいて、ネパールをはじめとするブータンやシッキ ムなど弱小国はインドの脅威に晒されていた。イン ドはネパールの「独立の擁護者である以上にネパー ルの脅威(浦野 1988: 1104))」だったのである。 こうした状況下で、ネパールは隣国インドという 脅威からの救済策を国際社会に求めた(14)。しかし、 国力、経済力、軍事力や地理的状況から見ても、ネ パールはインドを敵に回すことは全く得策ではな か った。そこで重要となった方策は、インドとの良 好な関係を保ちながら国際社会との関係を築くとい うものであった。 他方でインドも、インドを介したものに限っては、 ネパールの国際社会への進出を積極的にサポートし ていた(15)。手始めにネパールは 1950 年代にインド 率いる非同盟勢力の一員として活動するようになっ た。その後、ネパールは1955 年には念願であった国 連加盟を実現させた(浦野 1984: 32195))。この時、 ネパールの国連加盟をサポートしてくれたのは、他 ならぬ非同盟諸国であった(Shrestha 2000: 1456))。 つまり、ネパールはインドに取り入る形で国連加盟 を成功させたのである。 このように、ネパールは国際社会へと進出したこ とで数多くの国と外交関係を結ぶことが出来た。但 し重要なことは、当初のネパールの国際社会への進 出は依然としてインドの強力な影響下で行われてい たことである。 しかしその後、ネパールのインド離れの動きが顕 著になった。1955 年の 3 月にネパールのトリブヴァ ン国王が死去し、皇太子マヘンドラが国王に就任し た。国王の代替わりによって国際社会におけるネ パ ールの役割観が変わったとローズは分析する (Rose 1971: 2077))。インドとネパールの特殊関係が 10 年近く続く中で、マヘンドラ統治時代になるとネ パール政府はインドに偏重した外交関係を修正する ために外交多角化を目指すと正式に表明した(Rose 1971: 209)。マヘンドラは、隣国インドに対抗する 手段として国際社会との外交を行うことを強調した (Rose 1971: 217)(16)。 以上のように、ネパールはインドという脅威から の救済策を国際社会に求めつつも、インドを味方に 付ける形で国際社会に進出したのである。すなわち、 ネパールが国際社会との関係を築くためには、自国 をインドに関連付けて行動する必要性がであったこ とを意味する。 このような外交方策は、観光というソフトパワー 戦略の面でも観察できるのだろうか。次節で確認し ていこう。 (2) ソフトパワーとしての観光 1) 国際社会に対するアピール インドとの関係を維持させつつも国際社会との関 係を発展させたいという状況下で、ネパールは国連 内での活動を始めた。その活動は多分野に及んだが、 それらの内の一つが観光分野であった(17)。 観光分野での活動の中でも注目すべきが、1979 年 の世界遺産登録である(18)。1978 年から登録の始まっ たユネスコの世界遺産だが、登録が始まってから 2 年目という極めて早い段階で、ネパールは世界文化 遺産の登録を成功させている(19)。
ここで看過できないのは、世界遺産の中でも文化 遺産は、各時点での政治的な意図が反映されたもの となりやすい点である。世界遺産に長く携わってき たプレスイールは、文化遺産の領域は「アイデン テ ィティ戦略が最も強力に示される領域(プレス イ ール 1995: 1118))」であると述べ、ネパールのパ シュパティナートを構成要素に含む「カトマンズ盆 地」の登録もその戦略に起因する文化遺産の一つに 分類している(プレスイール 1995: 123)。 つまり、世界遺産に申請することはネパール政府 が「よく考慮の上(プレスイール 1995: 111)」で行 っ たことであり、それはアイデンティティ戦略の一助 としても機能する内容であったと考えられる。 こうした実情は、世界遺産登録が開始された当初 に登録を成功させた国には、比較的小国が目立つこ とからも窺い知ることができる。例えば、1978 年に はエチオピア、エクアドル、ポーランド、セネガル など、その翌年1979 年に関してもチュニジアやガテ マラやガーナなど小国が世界遺産登録を行ってい る(20)。プレスイールの指摘の通り、小国にとって世 界遺産登録は重要なのだと推察される。 確かに、世界遺産条約の特徴について田中はこう 指摘する。世界遺産条約とは規制を加える条約とは 違い、「国家や地域の誇りや威信を提供する(田中 2012: 739))」ものである。この指摘に従えば、小国 ネパールにとって世界遺産登録は国家の誇りらしき 何かを得る手段であったと理解できる。 また、観光客誘致においてインド市場への依存を 減らす必要があった点からも(Department of Tourism 1972: 24210))、ネパール政府にとってインド以外の国 際観光客に訴え得るような観光地が必要であった。 世界遺産の登録は国際社会へとアピールする手段で あり、ひいては観光客のインド市場への依存度を和 らげることを期待できるものである。 つまりネパール政府はパシュパティナートを世界 遺産化することで、パシュパティナートの価値を従 来より認識していたヒンズー教圏に対してだけでな く、国際社会に対してもアピールしたのだと考えら れる。とするならば、ネパール政府は自国の文化的 重要性を国際社会に対して強調する意味をパシュパ ティナートに持たせていたと解釈できる。 2) インドに対するアピール その一方で、ネパール政府はパシュパティナート に対して「観光地」としての整備を行うと同時に、 「聖地」としての整備も行った。パシュパティナート に国際社会とインドの双方を念頭に置いた整備を施 したのである。聖地としての整備は観光地としての 整備とほとんど時期を同じくして行われた。パシュ パティナートが 1979 年に世界遺産として登録され た後、パシュパティナートとその周辺地域の整備を 担当する機関が設立され、パシュパティナートの「改 善」作業が行なわれた(21)。アクセルによれば、それ はインドからの巡礼者を念頭に置いたパシュパティ ナートの再構築であった。アクセルは、パシュパ テ ィナートはヒンズー教圏に普遍的な巡礼地とい うよりも国家の象徴へと変容したと指摘する(Axel 2011: 14111))。 アクセルとプレスイールの指摘に従うとするなら ば、ネパール政府は自国の宗教的重要性をインドに 対して強調する意味をパシュパティナートに持たせ ていたと解釈できる。 (3) 小括 ネパール政府はインドと国際社会の双方を念頭に 置いた外交を行っていた。外交方針と同様に、パ シ ュパティナートについてもインドと国際社会の 双方に対して各々整備していたことが確認できた。 パシュパティナートという一つの寺院を用いて、 インドに対してはヒンズー教の聖地としての宗教的 優位性を示し、国際社会に対しては世界遺産である 観光地としての文化的優位性を示すことが可能と な っているのである。つまりこの寺院はインドと国 際社会の双方に対して自国の存在をアピールできる ものとしての意味を持つのであり、そこに至る過程 にネパール政府の戦略性が確認できた。 パシュパティナートにはネパールの外交方策が端 的に表れていた。火葬場はインドに取り入る形で国 際社会に自国の魅力を発信する役割を担うという点 で、ソフトパワーとしての意味を持つものであった と解釈できる。 5. 結論 本稿では、火葬場がなぜ観光地になったのかとい う問いに対して、まなざし論での限界を踏まえた上 で、ソフトパワーの視点から分析を試みた。その結 果、火葬場が観光地として成立したのは、ネパール 政府が国際社会に自国の存在をアピールしつつも、
インドとも良好な関係を維持する必要があった、当 時の国際関係が非常に重要な役割を果たしたことが 分かった。一方で、火葬場は国際観光客にとっても のめずらしく、他方で寺院本堂はインドからの巡礼 者に対して神聖なものであった。それ故に、ネパー ル政府はパシュパティナートを整備し観光拠点化し た。だからこそ、火葬場という常識的に観光地にな り得ない場所は、ネパール政府によって敢えて政策 的に観光地化されたのである。 観光学において、アーリーの「まなざし論」に寄 与する研究が多くある。ただ、まなざし論では観光 地の持つ意味は検証できても、観光地化した意図や その政治性の検証は難しい。観光地を読み解くうえ で国際関係が決定的に重要であったことは、ソフト パワー論に代表される国際関係論的視座が極めて有 用であることを意味している。 謝辞:査読者の方々から有益なコメントを賜りました。こ こに謝意を表します。 【補注】 (1) 1979 年に「カトマンズ盆地」として合計 7 つの施設 が世界遺産に登録された。パシュパティナートはそ の中の一つとして登録されている。7 つとは、カト マンズ王宮広場、パタン王宮広場、バクタプル王宮 広場、スワヤンブナート、ボダナート、チャングナ ラヤン、そしてパシュパティナートである。このう ち、スワンヤンブナートとボダナートは仏教の寺院 であり、チャングナラヤンとパシュパティナートは ヒンズー教の寺院である。チャングナラヤンが歴史 的建築物として評価されていることに対して、パ シ ュパティナートはヒンズー教の寺院として格式の 高い寺院として評価されている(ユネスコHP 参照 < http://whc.unesco.org/en/list/121/>12))。 (2) 例えば、戊辰戦争のおり白虎隊の遺体は埋葬さえ許 されなかったが、その後白虎隊の墓が観光地となっ たのは白虎隊の物語が日本の「歴史」として享受さ れるようになったからであると田中は指摘している (田中 201013))。さらに荻野は特定の集団に受け入れ られていたモノが「歴史」として他者に共有されて いくことが文化遺産の根源であると説明している (荻野 200214))。つまり、ネガティブなイメージを持 つものであっても特定の背景下の異端なものとして ではなく、全体的に共有し得るものは「歴史」と評 され、それは観光地となる可能性を持つ。 (3) ミイラや刑務所などが「遺産化」される時、荻野は 「無臭の透明な空間」に作り替えられていくのだと指 摘した(荻野 2002: 6-7)。 (4) その他、労働環境の改善としての休暇制度の整備や 交通の発展を挙げている(Urry 1990)。 (5) ナイのソフトパワー論は魅力ある文化を国際的に 「普遍的」価値を持つものとして扱うと青木は指摘す る(青木2011:21615))。これに対して、文化力とは地 域の文化に光を当ててその地域の魅力として活かす という点で、ソフトパワーとは相容れない概念であ る。本稿で議論の対象とする世界遺産化という国際 的制度の活用についてはソフトパワーを通すとより 観察しやすいものとなるだろう。
(6) Bindloss, Joe, Trent Holden & Bradley Mayhew (2009): Nepal, Lonely Planet Publications, 8th edition
Finlay, Hugh., Tony Wheelr & Richard Everist (1996): Nepal: a Lonely Planet travel survival kit, Lonely Planet Publications, 3rd edition
―(1999): Nepal, Lonely Planet Publications, 4th edition
―(2001): Nepal, Lonely Planet Publications, 5th edition
Mayhew, Bradley, Lindsay Brown & Wanda Vivequin (2003): Nepal, Lonely Planet Publications, 6th edition ―, Joe Bindloss & Stan Armington (2006): Nepal, Lonely Planet Publications, 7th edition
―, Lindsay Brown & Trent Holden (2012): Nepal, Lonely Planet Publications, 9th edithion
Prakash, Raj A. (1973): Nepal on two dollars a Day: A guide for the tourist, Prakash A Raj, 1st edition
―(1975): Nepal on $4 a Day, R.C. Joshi, 2nd edition
―(1976): Nepal: A Traveller's Guide, Lonely Planet Publications, 3rd edition
―(1978): Kathmandu & the Kingdom of Nepal, Lonely Planet Publications, 4th edition
―(1985): Kathmandu & the Kingdom of Nepal, Lonely Planet Publications, 5th edition
Wheeler, Tony, Richard Everist (1990):Nepal: A Travel Survival Kit, Lonely Planet Publications, 1st edition ―, Richard Everist (1993): Lonely Planet Nepal,
Lonely Planet Publications, 2nd edition (7) 「バグマティ川はガンジス川のように聖なる川であ る。インドのバラナシのように火葬するガートがあ る。(Prakash 1985: 59)」 (8) 「西洋人は本堂に入ることは許されていないが、川岸 に は 沢 山 見 る べ き も の が あ る 。(Wheeler and Everist1990: 206)」 (9) 「パシュパティナートはネパールにおける最も重要 なヒンズー教の寺院であるというだけではなく、イ ンド亜大陸におけるシヴァ神を祀る寺院の一つとし て毎年インドのいたる所から信者が訪れている。 (Wheeler and Everist 1990: 206)」
(10) 例えば、1973 年出版物では、「ここへ向かう最適な 方法はボダナート行のバスへ乗ることだ。」、1976 年 出版物では「ボダナートへの道中に位置している」 と記される。その他出版物は以下の通り。(Prakash 1973: 50),(Prakash 1975: 65),(Prakash 1976: 90), (rakash 1978: 100),(Prakash1985: 59). (11) 「カトマンズと空港の間であり、ボダナートの少し南 西に位置する。(Wheeler and Everist 1990: 205)」その 他出版物は以下の通り。(wheeler and Everist 1993: 242),(Finlay et al.1996: 227),(Finlay et al.1999: 229), (Finlay et al.2001: 232),(Mayhew et al.2003: 167), (Mayhew et al.2006: 166),(Bindloss et al.2009: 170), (Mayhew et al.2012: 115). (12) 唯一の例外として、「エルサレムの旧市街地とその城 壁群」はヨルダンが国際情勢を考慮して申請してい る。 (13) 西澤(198516))、佐伯(200717))、などに詳しい。例 えば、ネパールは貿易においてインドを通過せざる を得ない経済的要因や、チベットへの中国の圧力に 端を発する外交課題についてインドと協議する必要 性があった(1950 年条約)政治的要因が挙げられる。 (14) Khanal(196418))に詳しい。ラナ政権の終盤から外 交多角化を始めており(Rose 1971: 201)、ラナ政権 終了後もインドの暴徒に対してネパールは国際世論 の同情を求めている(浦野 1988: 90)。 (15) ネパールはインドへの偏重した外交関係を改善しよ うと独自に外交多角化を進めたのだが(1948 年にア メリカと国交を結んだことを端緒にして 1964 年 4 月 ま で に 37 か国と国交を結んだ(神原 1967: 67-6919))、こうした外交方針はインドからの支持を 得られなかったという背景がある(Rose 1971: 202)。 (16) カナルは中立的な政策がネパールを国際社会の中で 自らを役立たせる手段であると指摘しており、これ より当時ネパールは国際社会で身を立てる手段を模 索していたことが読み取れる(Khanal 1964: 7)。 (17) Shrestha(197420))はネパールが活躍した分野に植民 地差別反対運動、安全保障、社会経済、内陸国の通 商打開運動を挙げている。またネパール軍が積極的 に参加している国連平和維持活動が 1988 年にノー ベル平和賞を受賞している。 (18) ネパールは、1974 年から 1979 年の間ユネスコ委員 会メンバーであった(Lohani 1996: 316-31821))。ユネ スコには国連加盟の1955 年よりも前の 1953 年に加 盟している(Unesco 1998: 322))。ネパールはユネス コから識字率向上事業を始めとして教育の面におい て援助を受けており、世論の関心はそこに向いてい たことが新聞記事からも読み取れる。というのも、 1960 年代においては、ユネスコの活動内容に関する 新聞記事では教育分野が分量を割いて説明されてい るが、1970 年代になるとユネスコの説明に建築物の 保護や文化面に関する記述の分量が増えてくる。例 えばNepal Times23) 1965 年 1 月 1 日付記事、The Rising Nepal 24)1966 年 8 月 28 日付記事、1966 年 8 月 29 日 付記事、1979 年 2 月 6 日付記事など。 (19) 1979 年にネパール政府は自然遺産としてサガルマ ータ国立公園と、文化遺産としてカトマンズ盆地を 登録した。 (20) ユネスコ HP 参照<http://whc.unesco.org/pg.cfm?cid= 31&mode=table>25) (21) ビレンドラ国王がパシュパティ地域改修・改善委員 会Pashupati Area Renovation Committee(PARC)を設 立し、ネパール政府は1981 年にパシュパティナート のマスタープランMaster Plan for Pashupati Area を発 表した。このマスタープランではパシュパティナー トを巡礼地として価値を上げることが目的に据えら れた。この後、パシュパティナート周辺では歩行者 道路の整備や住民の立ち退きが行われた(Axel 2011: 127)。その数年後にビレンドラ国王はパシュパティ 地域開発信託Pashupati Area Development Trust(PADT) を設立し、この機関がパシュパティナートをインド 人観光客・巡礼者向けに再構築したことをアクセル は明らかにしている。PADT も PARC と同様にパシ ュ パティナートをヒンズー教の聖地として価値を高め るために活動した結果、パシュパティナートとその
周辺地域を「神聖な場所」から「行政の領域」に変 容させたとアクセルは述べている(Axel 2011)。
【引用・参考文献】
1) Urry, John (1990): The Tourist Gaze: Leisure and Travel in Contemporary Societies, London, Sage Publications 2) Nye, Joseph S., Jr. (2004): Soft power: the means to
success in world politics, New York: Public Affairs 3) 橋本泰元(2005):通過儀礼(橋本泰元,宮本久義, 山下博司「ヒンドゥー教の事典」,廣済堂),pp.283-293 4) 浦野起央(1988):小国ネパールの外交政策:中国と インドの狭間で,東洋研究,(88),pp.63-118 5) 浦野起央編著(1984):資料体系アジア・アフリカ国 際関係政治社会史,第5 巻アジア・アフリカ(第三世 界)Ⅲe,パピルス出版,p.3219
6) Shrestha, Hari Prasad & Dipendra Purush Dhakal (2000): Tourism in Nepal : marketing challenges, Nirala
7) Rose, Leo E. (1971): Nepal: Strategy for Survival. Berkeley: University of California Press
8) プレスイール,レオン著,吉田鋼市訳(1995):世界 遺産条約の二〇年,建築史学,(24),pp.98-125 9) 田中俊徳(2012):世界遺産条約の特徴と動向・国内
実施,新世代法政策学研究,(18),pp.45-78 10) Department of Tourism (1972): Nepal Tourism Master
Plan, HMG of Nepal
11) Axel, Michaels (2011): To Whom does the Pashupatinath Temple of Nepal Belong?, Pfaff-Czarnecka, Joanna & Gérard Toffin (ed.) The Politics of Belonging in the
Himalayas: Local Attachments and Boundary Dynamics, Sage Publications, pp.125-143
12) UNESCO: World Heritage List, 英語, http://whc.unesco. org/en/list/121/, 2016.05.12 13) 田中悟(2010):会津という神話:「二つの戦後」をめ ぐる「死者の政治学」,ミネルヴァ書房 14) 荻野昌弘編(2002):文化遺産の社会学:ルーブル美 術館から原爆ドームまで,新曜社 15) 青木保(2011):「文化力」の時代,岩波新書 16) 西澤憲一郎(1985):ネパールの歴史:対インド関係 を中心に,勁草書房 17) 佐伯和彦(2003):ネパール全史,明石書店
18) Khanal, Yadu Nath. (1964): Background of Nepal's foreign policy, Dept. of Publicity & Broadcasting, Ministry of National Guidance, HMG
19) 神原達(1967):ネパールの歴史と社会<Ⅲ>,外務 省調査月報,8(1),pp.53-74
20) Shrestha, Sita (1974): Nepal and the United Nations. Sindhu Publications
21) Lohani, Mohan Prasad, Damber Bir Thapa & United Nations Association of Nepal (ed.)(1996): Nepal and the United Nations, 1956-1996. United Nations Association of Nepal 22) Unesco (1998): Unesco in Nepal. UNESCO
23) 新聞 Nepal Times(1965 年 1 月 1 日)
24) 新聞 The Rising Nepal(1966 年 8 月 28 日,1966 年 8 月29 日,1979 年 2 月 6 日)
25) UNESCO : World Heritage List, 英語, http://whc.unesco. org/pg.cfm?cid=31&mode=table, 2015.09.17