56
4 章 分 子 軌 道 法
第
3章で近似的に多電子系のシュレーデインガ一方程式を解くための準備 ができた.この章では,多電子系のシュレーディンガ一方程式を解くための 近似法の一つである分子軌道法を勉強していこう第
3章で勉強した変分法 を用いることになる.分子軌道法は,現在の量子化学計算の基礎をなす方法 となっている.この章ではまず, 分子軌道法の基礎となっているボルンーオツ ペンハイマー近似と分子軌道の概念について説明する.分子軌道法といって も , 導入する近似のレベルによって計算の労力はまったく違うし,得られる 結果の信頼性もまちまちである .この章では,最も簡単な分子軌道法である ヒユツケル法を紹介する.さらに高度な分子軌道法に関しては,第
5章と第
6章で勉強することにしよう.
‑吾
4.1ポルンーオ ツベ ン ハ イ マ ー 近 似
原子核の質量は,電子と比べて
1800倍以上重い.原子核の運動は,電子の 運動と比べるとず、っと遅いだろう
.そのため,電子の運動に対して原子核の運動を固定させて考え ようというのが,ボルン ( B o r n )とオッペンハイマ ー
(Oppenheimer)によって導入された近似 である.この近似のことを ボルンー オッベンハイマー近似 と呼ぶ.ボルンー オッベンハイマ ー近似 は , しば しば 断 熱 近 似
(adiabaticapproximation)とも呼ばれる . ボルンーオッベンハイ マー近似を用いると
,原子・ 分子のシュレ ーデインガ一方程式
H1Jf = E1Jf
( 4 . 1 )
『化学の指針シリーズ量子化学~ (中嶋隆人著/裳華房)
~I 克2\ ぬ/ 克2\~~ ZA i ~ i . ~ ZAZRe2
Il = 2:A¥ (‑2M,,':, ¥7/) + 2: (‑‑i‑¥7/l ‑2:2: "'A" + 2: ~ + 2:よiー
A ." / . i¥ 2m
.
,/
i A riA t<i rij AくB RABは ,
電子に関する
シュレーデインガ一方程式
と
広lec民lce= Ee1ec凱lec
広 「 学 ( ‑ t j v f ) 一幹ぞ+ど
原子核に対するシュレ ーデインガ一方程式
(Ilnuc + E山)民国
=Enuc 1J!nuc~I 色2\~ ZAZRi
2i c=22i‑A¥ 」2MLvfi+z‑LL
A '/i / ' A~B RAB
(4.2)
(4.3) (
4
.4)(4.5) (4.6)
に分離して考える ことができる.立
lecと
Hnucはそれぞれ電子ハミルトン演
算子と原子核ハミルトン演算子である.
われわれが興味のある原子や分子中の電子の動き, つまり
,電子状態 (electronic state)を求めるためには,式
(4.3)の電子に関するシュレ ーデイ ンガ一方程式を解くことになる
.その際,系のエネルギーの安定性を考えるためには,原子核問の相
E作用項も
一緒に考えたほうが都合がいい
.原子核ハミルトン演算子の中の原子核問相互作用項を電子ハミルトン演算子のほう に移しておこう.
ぬ/ 事2\~~ ZAi ~ i ~ ZAZRe2
Ile = エ(-云~\7/)- 2:2:
竺乙+
2: ~ + 2: LJA"'11"¥ ,Lm i A riA i<j rij A<B I(AB
原子単位系で書くと,
~
I
1 \~ ~ ZA . ~ 1 . ~ ZAz' Ile=2:(一汗 汁 ‑2:2: "'A + 2: ~ + 2: "':''''11¥ ,L i A riA i<j rij A<B 1τAB
(4.7)
(4.
8
)となる これを電子ハミル ト ン演算子として
電子に関するシュレーデイ
ンガ一方程式
広 民
=Ee民
(4.9
)58 第4章 分 子 軌 道 法
を解くことで原子 ・ 分子の電子状態を計算することになる.
‑暑
4.2電 子 の ス ピ ン
分子軌道を導入する前に, 電子のスピン
(electronspin)につ いて説明し ておこう.電子のスピンは.
2.3節で説明した角運動量の特別な場合である . スピンの概念は,第
8章で述べる相対論的量子力学を使うと自然な形で導入 される. しかしながら,今取り扱っている非相対論の枠組みの中では,ス ピ ンは
adhocに取り扱わなければいけない.
量子論が誕生するよりも前に 磁場中の原子からの発光ビームが二つに分 裂している現象が知られていたゼーマン
(Zeeman)効果である.ゼーマ ン効果は電子 の自転に伴う磁気モーメントが原因であると考えられている.
電子のような電荷をもっ粒子が運動する場合には角運動量が付随する.これ が電子のスピンである .
一般の角運動量の場合と同様に スピン角運動量も次の二つの同時固有方 程式を満たす.
│ 什 = s ( s
+1 )
1i2iI
(4.10)l
szi = ms1iiI ( 4 . 1 1 )
固有関数 r は 82とれの同時固有関数である• s
と
msはそれぞれスピン量子 数 とスピン磁気量子数 と呼ばれる.スピン角運動量 の場合は
m, として 二 つの値 し か取りえないことがわかっている.つまり
sと
m, は,
1
S
ニ互
m s = ± t
(4.12) (4.13)
ということになる
m=+1γ2 .~対応する固有関数
rを
αms=‑jに対 応する固有関数
rを
Fで表すのが通例である.つまり,スピンには αスピ
ンと
Fスピンの
2種類がある.
‑暑
4.3分 子 軌 道
ボルンーオ ッ ペンハイマー近似を用いることで,原子核と電子の運動を分 離することができた.原子や分子の電子状態を求めるためには,式
(4.9)の 電子に関するシュレーデインガ 一方程式を解けばいい 原子核と電子という 多粒子の問題から,電子のみに着目した問題を解けばいいことになったわけ である. しかしながら,それでもなお,多電子系に対する方程式を解く必要 が残る.これまでみてきたように.
3体以上のシュレーデインガ一方程式の 解は厳密に求めることができない.さらに何らかの近似が必要である
その近似が分子軌道
(molecularorbita ,lMO)の導入である.分子軌道は,
一つの電子の座標
Tだけを含む
1電子軌道関数である.これを
ψ(,)と 書 こう . ここで,電子の座標
Tは位置の座標
fのほかに . 4 . 2 節で説明した電 子スピンの座標
ωを含んで、いる.スピンには
αスピンと日スピンがあるから,分子軌道
ψ(, )を空間部分
ψ( r ) と 二つのスピン部分にわけで書 くと,
{
ゆ ( r ) α ( ω )
ψ(
,
)=1 ~:.:::-: (4.14) lゅ( r )
s(ω)となる .ゆ ( r )のことを空間軌道
(spaceorbital)という.これに対し,スピ ン関数を含んだ
ψ(r)のことを スピン軌道
(spinorbital)という . あとで空 間軌道を使ったり,スピン軌道を使ったりするので,この違いはよく理解し ておこう
分子軌道は実在のものではない.人聞が考え出した概念にすぎない. しか
しながら,分子軌道に基づく分子軌道法は化学を理解するために大いに役
立って き た 第
7章でみるように,フロンテイア軌道理論はその代表である.
60 第4
章 分 子 軌 道 法
1a, 2a,
4a, 1 b2 5a,
1 b, 2b2 2b,
図
4.1ホルムアルデヒド
(CH20)分子の分子軌道 ホルムアルデヒドは
C2v対称性で あり,図中の
a,.b,. b2は軌道の対称性を表す (章末コラム参照) .
図
4.1は,ホルムアルデ ヒド
(CH20)分子の分子軌道を図示したものであ
る.原子軌道の場合と同じで,分子軌道も正と負の位相をもっていることが わかる.原子の場合の ような 高い対称性はもっていないが,分子の形に沿っ て対称的な形をしている.また,分子軌道は分子全体に広がっていることも わかるだろう.
‑吾
4.4ヒ ユ ツ ケ ル 分 子 軌 道 法
分子軌道法の中で,最も簡単な方法は ヒュッケル
(Huckel)分子軌道法 で
ある.分子中の
σ電子と
π電子のうち
,σ電子 は計算の対象から外して, 共
役結合に関与する
π電子 のみを考慮する方法である. 1 9 3 0年代にヒュ ッケ ルによ って提案されて以来,共役炭化水素分子の問題に広く適用されて,そ の解釈に大きな影響を与えた.
今,電子シ ュレーデ インガ一方程式から
σ電子部分を除くことができて ,
n個の
π電子からなる 電子シ ュレーデ イン ガ一方程式
fJ
π
,f,1Jπ
=Eπ
,1Jfπ ( 4 . 1 5 )
が得られたとしよう
. Eπは
π電子エネルギーであり ,
7Jf. は
π電子の全波動
関数である • 1主
πは
π電子 に対する 電子ハミルトン演算子で,
/ il /¥ ,.!!., ~ ZA . ,.!!., 1 fJ" = ~ r ‑~ 1 ‑~! uA + !: ~
¥ ,L/ i A riA i<j rij
( 4 . 1 6 )
で与えられる.ヒユッケル法では,電子ハ ミルトン演算子
flπを
1電子のハ
ミルト ン演算子 五の和として表す.
fJ,π =~ 五(i) (4.17
)
ここで
iは電子に対する番号を表している .ヒュ ッ
ケル法を解く際に, 1電 子ハミル トン演算子五がどんな形をしているかを知っている必要 はない.
あとで説明するように,五に関する積分は単なるパラメータとしてのみ現れ る.ヒユ ツ ケル法では ,全波動関数民をスピン軌道
ψzの積として近似する.
1 J f
,π = ψl伊2・・・ψ ( 4 .18
) n 電子系 に対する電子の シュ
レーデイ ンガ一方程式を解くことは,一つの電
子に着目した次の固有方程式を解くことに帰着できる.1h(
何=附 │ ( 4 . 1 9 )
εg
は軌道エネルギーである.式 ( 4 . 1 7 ) ,式 ( 4 .
18) ,式 ( 4 . 1 9 )を式 ( 4 . 1 5 ) に 代入してみるとわかるように ,
Eπとんの聞には ,
│ E π = μ i
I( 4 . 2 0 )
62 第4章 分 子 軌 道 法
の関係が成り立つ .
niは
z番目の分子軌道に入 っている電子の数を示し .電 子占有数
(electronoccupation number)と呼ばれる
.nzは
ni= 0.1 .
2とい う値をとる.式
(4.20)の関係からわかるように,全系の
π電子エネルギー は電子が占有している分子軌道の
1電子エネルギーの和で与えられる.式
(4.19)
の固有方程式の両辺に,分子軌道
ψaの複素共役をかけて積分すると,
J
CP;五(i)同
=εiJ
cp;cpid,
(4.21)となる .
1電子ハミル ト ン演算子
hはスピンに依存しないから,スピン部分 をスピン関数の規格化条件を使って積分してしまって,空間軌道
ψsの表現 に直すと,
J
rt;五 ( i )
rti dri = eiJ
rt; rti dri (4.22)である .
ヒュ ッケル法では炭素原子あたり 一つ の
π電子を考え,これらの
π原子 軌道
χpの線形結合によって分子軌道
φを構成する
伶 =
L: CPiχp (4.23)Cpi
は 分子軌道係数
(molecularorbital coefficient) である • nは
π電子の数 であり,炭素原子の数でもある .第
3章で説明した変分法を適用して,分子 軌道係数
Cpiに関しエネルギーを最小にすることで分子軌道を決定する.
会
;=op=12n (4.24)式
(4.22)に式
(4.23)の分子軌道を代入して,展開係数である分子軌道係数
Cpiで両辺を微分すればいい .次の形の行列方程式を解くことになる.
HC = SCe (4.25) H
はハミルトン行列 ,
Sは重なり行列と呼ばれ,それぞれの行列の要素は,
H向
= J 以
χqdr (4.26)5pq =
J ぬ
qdr (4.27)で与えられる
Cは分子軌道係数を要素としている行列であり,
eは軌道エ ネルギーを要素とする対角行列である .式
(4.25)を解くことは,次の永年 方程式を解くことと同じである.
Hll ‑e511 H21 ‑ e521
H 12 ε512 H 22 ε522
H ln
一
ε51n Hふ一
ε52n民
1‑ e5nlH
ム
‑e5n21 0Hnn ‑ e5nn
ヒユツケル法では,この永年方程式に含まれる積分
H同を
Hpq =α(p = qの場合)
(4.28)
Hpq = s (p ‑=1= qで、原子p
と
qが隣接する場合)
I (4.29) Hpq = 0 (p ‑=1= qで、原子pと
qが隣接しない場合)
とする
.αと点はそれぞれ, クーロ ン積分
(Coulombintegral ) と 共鴫積分
(resonance integral)と呼ばれる.これらの二つの積分は,両方ともマイナ スの値である.クーロン積分と共鳴積分は, 二つの炭素聞の距離によらず一 定のパラメータである .隣接していない炭素聞の相互作用は無視する . ま た,重なり積分
S阿は単位行列として近似する .式で書くと,
5pq = 1 (p = q
の場合)
5pq = 0 (p手q
の場合) ( 4 . 3 0 )
である.このようにヒュッケル法では多くの大胆な近似を導入する .それに
もかかわらず, ヒュッケル法を解くことでさまざまな有用な情報を引き出す
ことが可能で、ある .
64 第4章 分子軌 道 法
実際に解いてみるほうがわかりやすい ヒユツケル法を使って,エチレン の電子状態を決定してみよう.エチレンは, 二つの
π電子をもっ最も単純な 共役炭素分子である.分子軌道は,二つの
π原子軌道の線形結合
ゆ =
Cχ 1 1 + Cχ2 (4.31)で表される.変分法から得られた式
(4.28)の永年方程式に対し,式
(4.29)と式
(4.30)のヒユ ツ ケル近似を使うと,
│ 一戸
F α‑e I= 0となる.このまま解いてもいいが,
(4.32)
(4.33)
とおくと見通しがいい.永年方程式は,
1 1 1 1 = 0 叫
1 A
のように書 くことができる.式
(4.34)の行列式を展開すると,
A2 ‑1 = 0 (4.35)
である.行列式の計算の仕方に関しては .
9.2.5項に詳しく示しである .式
(4.35)
を解くと ,永年方程式の解は,
え =
: i :
1となる.軌道係数を決めるためには,変分条件から得られる式
AC十C2= 0C1 +
AC
2 =0 と規格直交条件
C/+ C/ = 1
を使う.結局,エチレンの分子軌道と軌道エネルギーは,
(4.36)
(4.37) (4.38)
(4.39)
1 . 1