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国 家 資 本 主 義

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国 家 資 本 主 義

去 ら民間

l

! ニ ン 国 家 独 占 資 本 主 義 論 の 考 察 の 準 備 と し

il

問題の所在

ll

l出来の国家独占資本主義研究の問題点

現代資本主義はマルクス経済学において通常国家独占資本主

義として把えられている︒国家独占資本主義の問題は現代のマ

ルクス経済学の中心的な研究課題の一つとされ︑戦後ヴァルガ

論争︑ツィ

l

シヤンク論争などをへ︑その具体的・現実的分析

もつみかさねられるなかで︑最近では︑フランス共産党の司国

( I )  

家独占資本主義﹄なども刊行されて︑ようやく理論としての体

系化がすすめられつつある︒

しかし︑他面では︑それにもかかわらず︑こんにちなお︑ゎ

i

ニンの国家資本主義論

雄 松

れわれは国家独占資本主義の基本問題について共通の理論的立

脚点とすべきものを必ずしもからえているとはいえないといっ

てよい︒ツィlシヤンク論争以後︑抽象的段階での論争の不毛

性への反省から︑国家独占資本主義にかかわる個別的・実証的

研究がおしすすめられてきているが︑そのような個別的・実証

的研究じたいが︑国家独占資本主義についての基礎的諸論点を

未決の問題として残したまま進められてきているという側面を

もっているだけに研究の今日的段階にあっては︑実証的研究の

いっそうの発展にとっても︑国家独占資本主義論における立脚

点︑基礎的諸論点の解明にとりくんでおくことが必要になって

一三

(2)

i

ニンの国家資本主義論

いるように思われる︒しかも︑最近︑現代資本主義の分析の

﹁概念的枠組﹂として国家独占資本主義に代えてE・マンデル

の﹁後期資本主義﹂論ゃ︑﹁組織資本主義﹂論の有効性を提起す

るという西ドイツのユルゲン・ゴッカやU・ヴエラーなどの社

(2

会判班活史学の動向もあり︑とくに後者に影響されて︑日本にお

いて

L

︑マルクス経済学の立場にたつと目されていた論者のう

ちから︑国家独占資本主義の概念について﹁廃棄宣言﹂が出さ

3)

れるなどの問題状況をみるとき︑まずもって国家独占資本主義

論の基礎を強固にかためておくことの必要性はさしせまった理

論的課題であると思われるのである︒

そして︑それにくわえて︑というよりもそれ以上に︑七

OI

七一年恐慌と七三年以降︑現在にわたる世界忍慌のなかで︑現

代国家独占資本主義││一九一一九年恐慌をきっかけとし︑第二

次世界大戦の戦時国家独占資本主義をへて形成・確立をみたと

される││がインフレに支えられた資本蓄積の矛盾を露呈さ

せ︑﹁インフレと恐慌のジレンマ﹂段階︑その怠味で﹁危機段

階﹂じ転入しつつあるといわれるこんにち︑現代資本主義が国

家独占資本主義として︑資本主義発展史に照らしても︑﹁高度

成長﹂的発展をなしえてきたのはなぜかという問題だけでな

く︑この﹁危機段階﹂の国家独占資本主義がこんごなお生き永

らえうるにしても︑これまで以上にその諸矛盾を激化させ︑新

しい社会体制日社会主義への移行にとっての客観的・主体的諸

条件を準備︑成熟させざるをえないという見通しのもとに︑現

一三

一六

代国家独占資本主義の運命という問題が改めて提起されてきて

いるだけに︑上記のような理論的課題の遂行は︑実践的意義に

おいても︑これまでとは異なる大きな質的重要性をになうもの

(4 ) 

となっているように考えられるのである︒

ところで︑国家独占資本主義の解明において︑これまでレ

l

ニンの国家独占資本主義に関する諸論述がその立論にさいして

依拠され︑レ

i

ニンの国家独占資本主義そのものを論題とする

論稿もかなりみられるところであるが︑しかし︑これまでのレiニン国家独占資本主義についての諸研究には︑その考察方

法︑つまりそれへのアプローチの仕方と素材の扱い方の両面に

おいてかなり問題があったように思われるのである︒

まず︑アプローチの仕方の問題についていえば︑ひとつの傾

向として︑たとえばレオンチェアのように﹁レlニンが体系的な

(6

整ったマルクス主義の国家独占資本主義理論をつくりだした﹂

というレ

1

ニンの国家独占資本主義論を絶対化し︑盟小⁝典視する

傾向がみられるが︑しかしレlニンの国家独占資本主義論をす

でに体系的に完結したものとみることはできないと思われる︒

なぜなら︑事実において︑レ

l ‑

一ンのこれに関する諸論述は

二︑二一の論作がややまとまった叙述︑説明を考えているにして

もけっして﹁体系的に整った﹂ものとしては与えられていない

し︑そのうえ︑レlニンが対象とした国家独占資本主義は第一

次世界戦争における初期国家独占資本主義︑あるいはより正確

には総力戦という戦争経済のもとでの戦時国家独占資本主義で

(3)

あって︑それじたいとしては︑第一次世界大戦の終了とともに

いったん解体しており︑それとそのごに確立した現代国家独占

資本主義とでは︑その諸形態においてかなり大きな相違がみら

れるのであって︑研究対象の歴出入的限界をレlニン国家独占資

本主義論もまたまぬがれていないからである︒

だが︑しかし︑そうはいっても︑もう一つの傾向︑すなわ

ち︑レlニンの国家独占資本主義論が﹃帝国主義論﹄のように

理論体系として仕上げられたものではないということや︑それ

が﹁戦時国家独占資本主義論﹂であるということから︑発展し

た現代国家独占資本主義との共通性︑一般性をみず︑レl

ニン

国家独占資本主義論が現代国家独占資本主義の理解にとっても

ち主べき規準的意義をまで没却するという︑レ!ニン国家独占

資本主義論についての無視ないし過少評価の傾向も︑それはそ

(7

れでやはり︑いきすぎのそしりをまぬかれないであろう︒なぜ

なら︑残された諸論述から知りうるかぎりでも︑レlニンにと

って第一次世界戦争時における国家独占資本主義の形成は単純

に︑戦争経済と同一視され︑後者に解消されるべき一時的な

呉市事態とのみ考えられていたのではなく︑まさに﹃帝国主

義論﹄の理論的展開線にそう必然的発展として把握されてお

り︑またそのように理解されるべきものと考えられるからであ

また素材のとり扱い方についていえば︑これまでのレl る ︒

ニン

研究のうちには︑しばしば論者自身の国家独占資本主義につい

i

ニンの国家資本主義論 ての見解を裏付けるためにレ

i

ニンの諸論述について個々切り

離されてある部分のみが一面的に強‑調され︑他の部分が無視さ

れたり︑その論述がなされた時期の歴史的事情を顧慮せず強引

な解釈をおこなうという欠点もなくはなかったといってよい︒

しかし︑レ

l

ニンの国家独占資本主義論の上うに︑必ずしも体

系的論述としてのこされていないものについて︑相互の関連性

を無視した引用や援用をもって︑全容を推断するよ︑つな考察の

仕方をもってしては︑はじめからその考察の一面性はぬぐいえ

ないであろうし︑また︑その発エ一一口や諸論説について︑それがな

された各時期の具体的状況や諸条件を考慮したうえで︑そのい

われていることの実際の意味︑内容を吟味︑確定してゆくとい

うことなしにはレlニン国家独占資本主義論のアクチュアルな

全体像を把促することも︑もとよりのぞみえないであろう︒

ところで︑こうした考察方法の欠陥はレ

1

ニンの国家独占資

本主義論に関して︑引用ほされるが分析されることが少ないと

いう皮肉な状態をうみ︑その国家独占資本主義論における理論

的諸モメント︑とりわけそこで基本規定︑基本範畷とされてい

るものの検出とその理論的基本構造の総体的把握という研究課

題が本格的にとりくまれることをいちじるしく阻害してきたの

であって︑このことはなによりも︑こんにちにいたるもなお︑

そもそも国家独占資本主義とは何か︑少くともレ

i

ニンにおけ

る国家独占資本主義の概念内容はどのようなものであったのか

というオリジナルな根本問題についてさえ明瞭になっていると

一一

二七

(4)

レlニンの国家資本主義論

はいえない理論的状況に集約的にあらわれているといえよう︒

たしかに国家独占資本主義の概念︑いわゆる﹁本質規定﹂に

関して︑これまで﹁国家の独占体への従属﹂説(スターリン﹃ソ

同盟における社会主義の経済的諮問題﹄﹀や﹁国家と独占体のゆ着﹂

説(ソ連﹃経済学教科書﹄第二版)︑また﹁生産関係の社会化﹂説

(

1

γF

﹁国

家独

占資

本主

義の

若干

の理

論的

諮問

題に

つい

て﹂

等)などが提唱され︑批判・反批判がくりひろげられてきた︒

そして︑それらの諸説は︑多かれ少なかれ︑レ

i

ニンの国家独

占資本主義についての諸論説に関連・関説して提起されていた

が︑しかし︑それらは必ずしもレlニンがそもそも国家独占資

本主義の概念︑あるいは﹁本質規定﹂とみなしうるものをどう

把握していたかについて︑立ちいって分析︑吟味しての立論と

はいいえない問題性を共有していたように思われる︒

しかし︑﹁国家独占資本主義﹂という用語を科学的概念とし

てはじめてもちいたのがレ│ニンであったことからすれば︑い

ちとその国家独占資本主義論における基本規定︑範鴎の検出と

理論的基本構造がどういうものであったかという課題にとりく

んでおくことは︑レ

i

ニツ国家独占資本主義論の意義︑および

限界点をどう判断するにせよ︑現代国家独占資本主義論にとっ

ての立脚点︑理論的基礎をかためるという理論的課題において

も︑不可欠の基本的検討事項であるといわれなければならない

であ

ろう

そこでわれわれはレ

i

ニンの国家独占資本主義についての諸

/¥ 

規定をできるだけ包括的に掘り起こし︑そのさい前述の弊をさ

けるため︑それら諸規定を相互の連関性において︑かっその歴

史的背景︑諸事実を考慮してとりあげ︑その意味︑合意をあき

ちかにしてゆくなかで︑前述の︑いわばレ

1

ニン国家独占資本

主義論の再構成ともいうべき課題にとりくんでみたいと思うの

であるが︑しかしそのためにはいかなる問題の考察手続きをと

り︑どのような検討点︑問題点をとりあげることによって︑こ

の課題じ近接していったらよいであろうか︒課題への近接度は

問題設定のいかんに制約されると考えられるので︑つぎにとの

点の試図についてややくわしくのべておこう︒

まず︑問題の考察手続きに関していえば︑﹃帝国主義論﹄執

筆以後︑レlニンが国家独占資本主義論をあらたに展開︑成熟

させるまでには︑ひとつの理論的発展過程があったとみなされ

るが︑一般にあるものの概念をうるには︑それがもっとも成熟

した段階を考察対象としてとり上げることが正しい方法だとす

れば︑レ

i

ニンの国家独占資本主義論についても︑レl

ニン

国家独占資本主義認識ができるだけ成熟した段階を中心にとり

あっか︑コことが必要であり︑また︑そのような仕方によっての

み問題があきらかにされると考えられる︒

そこで︑われわれも︑第一次世界大戦末期にレ

l

ニンは︑事

実上︑国家独占資本主義の認識に到達し︑そこですでに国家独

占資本主義の特質とされる諸現象を指摘しているとしても︑理

論的成熟の新しい段階を画す一九一七年四月(限露瞬間)以降︑す

(5)

なわち︑レlニンが国家独占資本主義という言葉をはじめて用

い︑それを科学的概念として確立したロシア社会民主労働党

(ポリシェヴィキ派)の第七回全国協議会以降の諸論説を主要素

材として分析︑検討する手続きをとることにする︒

ところで︑考察手続き︑素材のとり上げ方をこのようにた

て︑上記の基本規定︑範瞬︑および理論的基本構造の検討とい

う課題が要請するところを亨えるとき

l

まなレ

i

ニン国家独

占資本主義誌の視座からする戦後国家独占資本主義論争におけ

る基礎的諸論点への照明ということをも考慮に入れるなら

11

i

われわれは検討点︑ないし問題群として︑つぎのような諸点が

提起され︑解明されなければならないと考える︒

すなわち︑その第一の検討点は︑国家資本主義︑国家的独占

等の概念をどのように理解するかであり︑レlニンの理論的展

閉じひきつけて問題をたてるなら︑さしあたって一七年四月︑

すなわち国家独占資本主義の概念が確立された以降︑これらの

諸概念が用いられているばあいの概念内容をどう理解したらよ

いかという問題である︒

ミの点︑とくに︑国家資本主義の概念が問題となるのは︑レ

lニンはそれ以前﹁世界資本主義の前進﹂現象の一つとして国

家資本主義をあげ︑ときに国家資本主義を国家独占資本主義に

あたるもののようにのべているが︑しかし他方では四月以降じ

おいても︑国家資本主義という用語を国家独占資本主義とはや

や異なって用いている論述もあり︑したがってそのさいの意味

レlニンの国家資本主義論 をあきらかにしておく必要があるからである︒

これに関しては︑これまでの国家独占資本主義の概念や本質

をめぐる論議では︑一七年四月以前の国家資本主義といういい

方は︑同月以降国家独占資本主義とよばれるに至ったという論

断ですまされ︑ではこの︑四月以降においても︑依然としても

ちいられているその場合の国家資本主義とはどういうものかと

いう問題には注意がむけられず︑無造作に国家資本主義と国家

独占資不主義とが同一視されてきている︒

しかし︑この類似する両概念の一方の国家資本主義の吟味︑

およびレlニンにおいて国家独占資本主義が問題にされるばあ

い関説されている国家的独占︑国家資本主義的独占の概念規定

の問題は︑国家独占資本主義の概念を問題にする以上︑避けて

通れない出発点的意義をもっ問題であり︑またこれらの概念に

かかわる混乱が︑国家独占資本主義論の理論的前進にとってひ

とつのネックになっているとも思われるだけに︑まずもって明

証されておくべきであろう︒

第二の検討点は︑国家独占資本主義は独占資本主義とどのよ

うな諸点で異なるのか︑あるいは︑帝国主義段階の一定の発展

様相を国家独占資本主義として規定する積極的根拠はどこにあ

るのかという問題である︒この問題はいうまでもなく︑レ

1

ン国家独占資本主義論の核心的内内向を明らかにすることであっ

て︑また︑これまでの国家独占資本主義論争においても︑国家

独占資本主義の﹁本質規定﹂の問題として碁本的論点となった

一一

二九

(6)

レ!ニンの国家資本主義論

ものである︒すでにふれた﹁従属﹂説︑﹁ゆ着﹂説︑﹁生産関係

の社会化﹂説等にしても︑この問題にこたえるべく提起された

わけであるが︑われわれは第一の検討点を受け︑国家資本主

義︑国家的独占と鼠家独占資本主義との区別と関連如何の問題

を手がかりに︑レ

i

ニンにおいて国家独占資本主義は︑どのよ

うな基本的諮特質H諸標識をもつがゆえに独占資本主義から成

長転化したものと把握されるにいたったのかという問題視角か

らその解明に近づいてみたいと考える︒

このような国E家独占資本主義の基本的諸特質目諸標識という

視角から問題追究をおこなうのは︑ほかでもなく︑レ

l

ニシ

身このような視角から独占資本主義と国家独占資本主義との区

別をおこなっているとみなされるからであるが︑!それだけでな

く︑上記のような課題じたいが︑このようなメルクマールの精

確な確定をもってはじめてこたえられる性質のものと考えられ

るか

らで

ある

もちろん︑このような視角はこれまでの諸説においてもそれ

なりに採られてきたところであって︑別段︑新しいわけではな

いが︑しかし︑レlニンじたいじ却してそもそも何をもって基

本的諸特質"諸標識としていたのかという視角か︑りする国家独

占資本主義の概念の総括的検討と確定ということは︑国家独占

資本主義論にとって︑それが元来もつ本質的意義にくらべる

と︑すでにのべたように︑これまでの諸説によってじゅうぶん

尽されているとはとうていいえないのであって︑なお国家独占

一四

O

資本主義論の理論的基礎をかためるという課題にとって︑もっ

とも大きなテlマとなっているといわざるをえないのである︒

ところで︑この問題追究には︑レlニンの記述のたんなる理

論的整認ではすまない別種の困難もめる︒それは︑レ

I

ニシ

詩論述では︑国家独占資本主義の基本的諸特質H諸標識とみら

れるものについて︑眼前の諸事実として指帰されるにとどま

り︑その実体的諮姿態と内容が詳論されていないところから︑

それらの諸特質u諸標識が経済過程︑国民経済においてもつ現

宍的意議︑さらには︑これら諸特質u諸標識の内的な相互関連

の構造も一見してわかるというように開示されているとはいえ

ないという問題である︒この点は︑すくなくともレ

1

ニンがそ

の﹁模範﹂とみなしているドイツの戦時国家独占資本主義の諸

姿態をさぐるなかで具体的に再把握することなしには遣しえな

いところであり︑これまで︑レlニン国家独占資本主義の概念

把握が遅滞してきたことの原因のうちには︑このような問題意

識からする実証的・歴史的解明がほとんどなされてこなかった

こともあずかっていると思われるのである︒

第二一の検討点は︑﹃帝国主義論﹄と以上の手順で考察された

国家独占資本主義論との相互関係︑理論的継承関係をどのよう

に把えるべきかという問題である︒周知のようにレiニンは帝

国主義を付独占資本主義︑口容生的な︑または腐敗しつつある

資本主義︑日死滅しつつある︑過渡的な資本主義という﹁三と

おりの特殊性﹂をもつものとしてとらえ︑これら三つの諸規定

(7)

の総括により︑その﹁できるだけ正確で完全な定義﹂が与えら

れるとしているが︑この三つの特殊性と国家独占資本主義とが

どのような関係にあるかということである︒このうち︑主とし

て第一規定に関連してこれまでにも独占資本主義の国家独占資

本主義の移行︑転化をもたらした契機︑根机ーはなにかとい︑っ︑

国家独占資本主義への移行の必然性の問題︑および国家独占資

本主義は﹁段階としての帝国主義﹂とどのような関連にあるの

か︑いいかえれば同情国主義論﹄の﹁射程﹂外にある別の段階

なのか︑帝国主義におけるひとつの発展傾向なのか︑または帝

国主義段婚における小段階・亜段階をなすとすべきなのかとい

ういわゆる段階規定の問題が論じられてきている︒しかし︑こ

れらの問題をレlニン白身どう解していたか︑あるいはレ

1

ンの国家独占資本主義理解からすればどう把握すべきかという

点では︑第二の検討点が明確にされてこなかった限りでは︑諸

論者の国家独占資本主義論においてどう解されているかは別に

して︑こたえようのない問題であって︑その意味では︑なお解

明されるべき論点をなしているといわなければならないのであ

第二規定︑第三規定に関しては︑前者においては︑国家独占 る ︒

資本主義は独占資本主義に対し︑寄生性︑腐朽性にどのよう

な新しいモメント︑諸形態をもたらすことになるかという問題

が︑第三規定との関係では︑とくに︑国家独占資本主義が社会

主義の直接的な物質的基礎を準備するといわれるとき︑その

i

ニンの国家資本主義論 ﹁直接的な物質的基礎﹂とは正確には何についていわれているのか︑またいかなる意味でそのようにいうことができるのかという問題があきらかにされるべきであろう︒

第四の検討点は︑国家独占資本主義論と現代国家独占賢本主

義との関連をどのようにとらえるべきかという問題である︒こ

れは︑レlニンが第一次世界大戦における戦待国家独占資本主

義の経験から検出した基本的諮特質が現代国家独占資本主義の

もとにあってどう把握されるべきかという︑いわばレ│ニン国

家独占資本主義論の特殊性と一般性の問題で︑それ自体精細な

具体的・歴史的分析をまって答えられるべき独自の課題である

とともに︑最終的に国E家独占資本主義の研究がそこに指向すべ

き根本的課題であり︑小論では︑ただ大綱的にのみ︑その同一

性および相違点がふれられるにとどまろう︒

なお︑レ

l

ニンの国家独占資本主義論は︑ヨーロッパ革命の

展開という実践意識に裏付けられ︑ツインメルワルド左派には

じまり︑第三インターナショナルの結成に結J夫する革命運動と

の関連において形成されたものとみなしうるが︑そのヨーロッ

パ革命の発端︑ロシア革命はロシア戦時国家独占資本主義のも

とでの経済的崩壊の危機と結びついたものであったとはいえ︑

国家独占資本主義下の︑インフレーション下の革命という側面

をももっているといえる︒この意味で二月革命から一

O

月革命

にいたるレ

1

ニンの﹁四月テーゼ﹂﹁さしせまる破局︑それ

といかにたたかうか﹂等にしめされている﹁芋命的民主主義国

(8)

レlニンの国家資本主義論 家﹂のもとでの経済政策︑過渡的経済綱領と︑この期間のロシ アと戦略的課題を同じくしていたドイツ一一月革命後のいわゆ

る﹁社会化﹂綱領H運動との比較検討︑およびレ

i

ニシの過渡

的経済綱領の思想が現代国家独占資本主義のもとでのいわゆる

﹁先進国革命﹂においてめざされるべき経済政策︑過渡的経済

綱領いいとってもちうると思われる変革的意義の評価という問題

も︑国家独占資本主義下の革命としての側而におけるロシア革

命の特殊性と一般性の問題として検討一謀題とされてよいであろ

︑ つノ ︒

以よ︑われわれの研究課題に求められている問題設定を︑諸

検討点︑問題群の提示というかたちでーーー同時に研究の基本構

成をむしめす形であきらかにしてきたので︑いご︑上記の検討 点の解明に入ってゆくことにするが︑われわれのこの小論はし

かし︑ニつの意味で︑すなわち論点の文献的︑実証的吟味にお

いてさらに探求がなされなければならないという点で︑ならび

にレ

lニン国家独占資本主義論の諸範除︑諸規定︑理論的基本

線として再構成されるものは︑われわれなりにレ

iニンの見解

をそれ自身に即して理解するよう傾注した結果にもとづく帰結 で︑これまでの﹁従属﹂説︑﹁ゆ主説︑辺整関係の社会化﹂

説その他と大きく異なる理論的構造をもっているが︑なお︑大

方の御批判︑御教一示によって訂正されるべき問題点を内包して

と考えられるという意味でも︑ひとつの覚書にとどまるもので

ある︒なお︑今回はとりあえず︑第一の検討点をとりあげるこ

ととしたい︒

1

)

フラ

γス共産党中央委員会経済部︑﹃エコノミー・ェ・ポリテ

lp﹄誌﹃毘家独占資本主義lマルクス主義政治経済学概論﹄

(大

島雄

一他

訳︑

新日

本出

版社

﹀︒

( 2 )

マン

デル

につ

いて

は﹃

印目

出片

付与

一E

UE

﹄5

(一

九七

二年

﹀︒

ルゲ

γ・コッカ﹁組織資本主義か凶家独占資本主義かl

概念

につ

ての前書きi﹂Q現代の理論﹄七六年四月号︑氷沼宗治訳)︒また

第一次世界大戦時のドイツ戦時国家独占資本主義の評価にかかわる

同様の問題提起については︑コッカの著書﹃百包括口問

2 0 ‑ z

n 宮 内 同

︼吉

一可

山ぬ

同 1

02 HR VO

NE

ω口F

WZ OH UE

‑H SE (一

九七

三年

)

において︑とくにその一一八1

一 二

0ページ等でなされている︒な

お︑このような西ドイツにおける﹁組織資本主義﹂諭をめぐる研究

動向

につ

いて

は︑

大野

笑二

﹁﹃

組織

出民

本主

義﹄

論の

問題

点﹂

(﹃

思想

一九

七六

年一

O月

号﹀

がく

わし

い︒

( 3 )

すでに正村公宏氏が一九六六年に国家独占資本主義概念の放

棄を提唱しているが(﹁国家独占資本主投論の再検討﹂﹃現代の理

論﹄六六年三月号)︑こんかい︑玉員長曲川氏もまた﹁われわれは国

家独占資本主義なる概念にまつわる好ましくない歴史的倍音から自

由になり︑この概念に随伴する教浬問答的見方を排除して︑われわ

れ白身の未来形成可能領域を正当に見定めるために︑今後はこの概

念の

使用

を止

めよ

うと

思う

﹂︿

﹁国

家独

占資

本主

義論

の根

本的

反省

(﹃現代の環論円七六年一月号︑七Oi七一ページ)と﹁宣言﹂さ

れて︑代わって﹁現代資本主義﹂なる﹁中立的な用語﹂に置き変え

るこ

とを

提議

して

いる

(9)

( 4 )

現在の戦後最大の世界恐慌

ι

の関連での産業循環といわゆる

﹁構造的危機﹂との抱え方については︑ふじゅうぶんではあるが︑

拙稿﹁現代恐慌と恐慌H

循環

論争

Q経済評論﹄七六年四月号)︒

( 5 )

レ1ユソの国家独占資本主義論を主たるテーマとしている

か︑まとまったかたちでふれている文献で邦訳のある代表的な外国

語文献としてはアルズマ=ヤン﹁レlュγと国家独占資本主義﹂

(佐藤昇編﹃国家独占資本主義と経済循環﹄所収︑合同出版社)︑

レオンチェア﹁国家独占資本主義の特徴づけについて﹂(向上所収)

ベヴズネル﹁レiュγの国家独占資本主義論﹂(﹃世界経済と国際関

係﹄第一一集﹀等︒

日本における研究としては長沢英市(宇佐美誠次郎)﹁国家資本

主義小論﹂会評論﹄一九四八年五月号﹀︑古川十蔵﹁国家資本主義

論における若干の誤謬﹂(﹃人民評論﹄四八年一一月号て宇佐美載

次郎﹁国家資本主義の理論と現実﹂(﹃経済学研究﹄第二号︑プ九四

八年二一月)︑井上晴丸・宇佐美誠次郎﹃危機における日本資本主

義の構造﹄ハ一九五一年︑岩波書広て島恭彦司現代の国家と財政の

理論

﹄(

一九

六O年︑一三書房﹀︑今井則義﹃日本の国家独占資本主

義﹄

ハ一

九六

O年︑合同出版社﹀︑飯田貫一﹁国家独占資本主義の理

論的諸問題﹂(法政大学﹃法学志林﹄第六O巻第三︑四号︑一九六

古一年﹀︑内田穣士口﹁国家独占資本主義論の形成と展開︿1

﹀﹂

(﹃

富山

大経済論集﹄第一O巻第一号︑一九六四年)︑南克己﹁﹃帝国主義

論﹄と国家独占資本主義│国家独占資本主義論への序説﹂Q土地制

度史学﹄第二三号︑一九六四年)︑池上惇﹃国家独占資本主義論﹄

︿一

九六

笠年

︑有

斐閣

)︑

小林

晃﹁

lz

γ

国家独占資本主義論﹂(﹃唯

物史観﹄第九号︑一九七O年)︑福田善乙︑玉置雄次郎﹁レlニγの

l

ニ ン の 国 家 資 本 主 義 論

国家独市資本主義論﹂(﹃社会科学論集﹄‑九七O年)︑大内力﹃国

家独占資木主義﹄こ九七O年︑東大出版)︑弁汲卓一﹃国家独占資

本主義論﹄(一九七一年︑日本評論社﹀︑角谷登志雄﹃現代帝国主義

と企業﹄ハ一九七三年︑汐文社)等がある︒最近では︑森岡孝こ﹁国

家独占資本主義論の方法﹂︿経済科学通信﹄七三年五月v︑﹁国家独

占資本主義論と現代資本主義分析﹂ハ岡︑七六年九月)がある︒

このうち︑戦後最初にレIニγに即して国家独占資本主義論を構

成してゆく研究方向をすすめたものとして︑宇佐美氏の誇論著はい

まなお示唆するところが多い︒

(6

ν

オンチェフ︑前掃︑八一ページ︒

( 7 )

たとえば島恭彦氏前掲︒とくに大内力氏は︑つぎのようにま

でいわれる︒﹁もともと国家独占資本主義という概念はレ

iz

γ

由来するものであり︑レ1ニγが第一次大戦中から戦後にかけて︑

当時の交戦諸国︑なかんずくドイツの状態を念頭におきつつ︑それ

を特徴づけるためにこの用語を使ったことが出発点となっていると

みていい︒ただレ1ェγのばあいにはその指摘はいかにも断片的で

あり︑かつ首尾一貫性を欠いていた︒またそれはとうぜんのことな

がら︑戦時経済という現実に密着した形で説かれていた︒あるいみ

ではこのことが︑従来のマルグス経済学の国家独占資本主義論を混

乱させる原因となったのであり︑レIニγとしてはやむをえないこ

とであったとしても︑われわれの理論の発展のためには災いをなし

たといっていいであろう﹂ハ前掲︑士一ページYすなわち︑災い

なるかな︑レiニン国家独占資本主義論というわけである︒

( 8 )

レl

死後の︑国家独占資本主義研究の底迷には様々の原‑一γ

因があると恩われるが︑こんにちの時点からみるとき︑当初は第一

一一

四三

(10)

レl ニンの国家資本主義論

次世界大戦時の戦時国家独占資本主義の解体という客観的事態があ

るとしても︑マルFス経済学においてその後の国家独占資本主義の

発展にたいしてほとんど注意が払われてこなかったことの歴史的背

景としては︑レlニγ理論の最高の解釈者U

﹁教

師﹂

とさ

れて

いた

スタ

1p

γ

に総じて国家独占資本主義についての問題認識が欠如し

ていたこと(たとえば﹃レlユソ主義の基礎﹄やスタ1リソ﹃ソ

党史﹄日﹃ソヴ品ト同盟共産党ハボルシエヴィキ)史﹄には国家独占

資本主義への言及はなく︑ロシア革命の歴史的・社会的根拠論では

﹁半拙植民地的従属﹂説をとっている)︑国家独占資本主義的諮現象

にそれなりに着目して理論構成をおこなっていたブハ

19

γ

の国

資本主義トラスト論やヒルアァl

ディ

γグの﹁組織された資本主

義﹂論が︑国内市場における﹁競争消滅﹂論︑﹁無恐慌的発展﹂の

理論︑超階級的国家論等︑その理論の一面性と誤謬から二九年世界

恐慌とファシズムの拾頭のなかで現実に破産したことがあり︑また

一般的な理論的傾向としては︑三0年代以降︑全般的危機論の一方

的強調により現代資本主義│1国家独占資本主義に対する歴史的・

理論的分析をおきかえてゆく傾向︑とくに﹁資本主義のもとにおけ

る国家をもっぱら現存制度をまもる組織︑税金を徴収し︑軍事力を

組織する装置とだけみ﹂﹁本来の意味の経済はあまりブルジョア国

家にかかわりがない﹂(レオソチェフ前掲︑九四│九五ページ)と

いう国家論の単純化(これらはヴアルガ論争等を﹁不毛な論争﹂に

堕さしめた要因でもあったが﹀等が指摘できる︒しかし︑レ1

ニン

国家独占資本主義論の分析的・総括的研究があまりなされてこなか

ったことのうちには︑本文であげたような考察方法︑ひいては研究

方法上の問題点も影響するところ少なくはなかったと思われる︒

一四

i

ニ ン の 国 家 資 本 主 義 論 さて︑それでは︑国家資本主義等をどのように理解すべきか

というレlニγ

国家独占資本主義論におけるいわば先決的解決 事項ともいうべき第一の検討点からはじめよう︒

国家資本主義の用語はレ

l

ニンの諸著作はもとより﹁コミン テルン綱領﹂などにもみえるところの︑マルクス経済学におい てひとつの基本的概念としての意義をもつものであるが︑その 概念内容はけっして明確になっているとはいえない︒通常国家 資本主義は﹁国家が資本主義的諸関係を全面的に組織化し税制

する制度﹂(石田興平﹁国家資本﹂﹃経済学大辞典﹄第一巻)とされ︑

わが国のほとんどの論者もほぼこれと類似の把え方をしている が︑しかし︑このような規定では︑一こうした﹁制度﹂なるも のの実体的把援にあたって︑どうとでも解されるあいまいさを 脱しえず︑いくたの混乱を生ぜざるをえないのであって︑ぞの

1

)

五確な理論的規定が必要とされていろ︒

そして︑これにはこれまでレ

l

ニツのいう国家資本主義の意 味内容がそもそもどういうものであったかについて︑それ自体 として検討されてこなかったこともあずかっていると思われる

ので︑さしあたり︑レl

ニンにあって国家資本主義が国家独占 資本主義の概念確立以降どのように杷握されていたか︑また一

O

月革命後︑いわゆる﹁過渡期﹂において国家資本主義がどの

(11)

ようなものと考えられていたかという二つの側商からその内容

を検討し︑それらのうえにたって国家資本主義についての一般

的規定を確定してゆき︑さらじレlニンによってしばしば用い

られ︑レ

i

ニシ国家独占資本主義論の検討にとってやはり欠か

すことのできない国家的独占の概念と国家資本主義とがどのよ

うな関連にあるかという二つの問題を吟味するという仕方で第

( 2 )  

一の検討点にこたえてゆくことにする︒

‑独占資本主義のもとでの国家資本主義

まず︑一七年四月の国家独占資本主義の概念確立から一

O

革命にいたる時期についてみていこう︒この時期は︑二月革命

後のいわゆる﹁二重権力﹂の時期││ブルジョア権力とプロレ

タリア権力との国家権力の帰すうにおける過渡的対抗の持期で

あるが︑レlニンの論究は︑革命前のロシア独占資本主義︑国

家独占資本主義のもとで︑国家資本主義がどのようなものであ

ったかを具体的にしめしている︒

i

ニンは国家独占資本主義の概念を確立した二カ月後の論

稿﹁崩壊とそれにたいするプロレタリアの闘争﹂において︑国

家資本主義とはそもそも何であるかをはっきり提示している︒

﹁ロシアの製糖シンケジ

1

トか︑{日有鉄道か︑石油玉︑等々を

とってみたまえ︒それは︑国家資本主義

( g q h

告白日民同盟国

J g

ω宮)でなくて︑いったいなんであろうか﹂(レlュγ

全集

第四

版︑

大月

書底

︑第

二五

巻︑

邦訳

三三

ペー

ジ︑

以下

同じ

﹀︒

すなわち砂糖(H製糖)シンジケート︑{巨有鉄道︑石油王等

i

ニンの国家資本主義論 が国家資本主義であるとされているのであるが︑それではなぜ︑それらのものが国家資本主義とされたのか︑その根拠があきらかにされなければならないであろう︒

まず砂糖シシジケlトについては︑レl

ニンは︑ほぽ同じ

頃︑他にもこれについてのべている︒たとえば﹁ロシアの農民

の大多数は︑製糖工場主のシンジケートが国家の手に移り労働

者と農民の統制下におかれ︑砂糖の値段がさがることに賛成を

表明できるだろうか?完全にできる︒なぜなら︑それは人民

の大多数にとって利益だからである︒それは経済的に可能だろ

うか?まったく可能である︒なぜなら︑製糖工場主のシシジ

i

トは実際上すでに経済的には全国的規模の一つの生産有機

体に融合しているだけでなく︑なおツアlリズムのもとですで

に﹃国家﹄ハすなわち資本家に奉仕する官僚)の統制のもとにあっ

たか

らで

ある

﹂(

ごつ

の根

本問

題﹂

第二

回巻

︑一

八九

ペー

ジ)

﹁さしせまる破局︑それとどうたたかうか﹂では︑砂糖シン

ジケートの同様の実体がよりくわしくのべられている︒﹁とれ

はすでにツ

71

リズムの時代につくられ︑その当時に︑りっぱ

な設備のある諸工場の巨大な資本主義的合同体をつくりだし

た︒しかもこの合肉体は︑いうまでもないことだが骨の髄まで

もっとも反動的で官僚的な精神で貫かれており︑外聞が悪いほ

どの暴利を資本家に保障し︑職員と労働者をまったく無権利

な︑いやしめられ︑ひしがれた︑奴隷的状態に陥れていた︒国

家は︑すでにぞの当時︑大資本家の金持の利益になるように︑

一四

(12)

レiニンの国家資本主義論

生産

を統

制し

規定

して

いた

ので

ある

﹂(

第二

五巻

︑一

ニ六

一ペ

ージ

これらをみると砂糖シンジケートは︑さし︑ずめ﹁国家により

生産が統制され︑規制されていた企業﹂という特殊な企業形態

産業経営形態をとっている点で︑国家資本主義とぎれているこ

とが

わか

る︒

しかし︑それではこのような国家経済統制の内実はどのよう

なものであったであろうか︒国家的経済統制といってもさまざ

まな諸手段︑諸形態をとってなされるのであるから︑この点

を明確にしないでは︑国家資本主義についての内容的規定をう

ることはできないであろう︒これについては︑ポヴィキン︑ギ

ンヂン︑タルノアスキー﹁ロシアにおける国家独占資本主義

(3 U 

ーl

t社会主義革命の諸前提に関する問題によせて﹂で﹁大蔵省

による砂糖規制の実施はシンジケートが自分たちの割当機関を

もっ必要をなくした︒だから︑こうした強力な結合体が簡単な

協定の段階のままでとどまっており︑中央の販売事務所なしに

すましたことはおどろくにはあたらない﹂(豊川卓二訳︑静岡大

学文

理学

部研

究報

告﹃

社会

科学

﹄第

O号︑一一二ページ)とのべて

いることから知られるように︑ここでの国家的統制は国家が直

接︑統一的に販売生産統制の機能を代行するという形態をと

ったものであったのである︒

つまり︑砂糖シツジケlトは︑シンジケートの独占的地位の

保持が国家の直接的強制によって促進されているという意味で

強制シンジケートとみなしうるが︑その強制が国家

l

大蔵省に

一四

よる園内出荷量︑貯蔵義務量︑限界価格の決定にまウとわういわ

(4

ゆる﹁ノルマ規制﹂により︑生産と資本運動が規制一されている

という点では︑通常の強制シンジケートよりすすんで︑円国家と

私的資本

i !

といってもすでに産業独占体をなすところの

11

8

の結合した混合企業型の強制シンジケートになっており︑国家

規制・統制といっても︑その経済的内容において国家が直接シ

ンク

iトの基本的機管である販売生産統制を掌握し︑シン

ジケートの基幹部を国家経営におくことによってシンジケート

を占有しているといいうる状態にあるという点で周家資本主義

とみなされていたと考えられるのである︒

では︑国有(H官有)鉄道についてはどうであろうか︒ロシア

の国有鉄道について︑レiニンはすでに初期の論稿﹁国家γ予算

について﹂でふれているが︑そこでのレ

i

ニンの主旨とほぼ同

様の内容をリャシチェンコは﹃ロシア経済史﹄(邦訳山下義雄︑

原書房)においてよりまとまった形で︑つぎのよラにのべてい

る︒﹁しからば鉄道経営における︑一種の﹃国家的資本蓄積﹄

より鉄道短設巳対するこの﹃凶家的﹄投資の泉源はR

いか

うであったか︹・:・・︺︒との同盛なる鉄道及工業発展蒔代におい

ては国家は︑租税の搾取︑即ち直接税︑間接税の賦課︑酒専

売︑関税収入等の途によりて︑人民より年平均一億二千万ルー

ブルを絞り︑これを資本主義的工業のこれからの武器︑即ち鉄

道に︑及び鉄道を経由して︑一般重工業に磨やした︒零細なる

国民的貯蓄の資本化と﹃国有化﹄において︑鉄道がーいかなる・優

(13)

越的役目を浪じたかということは︑例えばこれら国民的貯蓄よ

りなる国家貯金金庫の資本は︑大部分鉄道借款の維持費に用い

られたことによりて瞭かである﹂(五三四ページ︑旧仮名づかい

を改

めて

いる

)︒

国有鉄道にあっては︑いうまでもなく︑運輸手段u生産手段

が国家的所有のもとにあり︑租税︑貯蓄等を源泉とする国家資

金が国家資本︑しかも支配的意義をもっ国家資本として機能し

ているところの固有国営企業の形態をとっている︒そこで︑こ

の場合は国家が鉄道運輸の基本的機能の把握にさいし︑生産手

段について占有からいっそうすすんで所有し︑国家を主体とし

て資本関係が構成され︑それら生産手段が国家資本としての運

動をおこなっているという点で国家資本主義とされているとい

うことができよう︒

ついで石油王についてのべておくなら︑この石油王とはロシ

アのー石油独占﹁ノーベル﹂と﹁マズlト﹂をさしているとみら

れるが︑これについては﹁さしせまる破局﹂で︑﹁石油事業を

とってみよう︒この事業はこれまでの資本主義の発展によっ

て︑すでに大規模に﹃社会化﹄されている︒二人の石油主││

利札を切り︑すでに事実上︑技術的に︑社会的に︑全面的な規

模で組織され︑すでに何百何千人という職員や技師などによっ

て運営されているこの﹃事業﹄から︑うそのような利潤をかき

あつめることによって︑何百万何億という金をうごかしている

のは︑この二人である︒石油産業の国有化は︑すぐにも可能で

レlニンの国家資本主義論 あるし︑また革命的民主主義国家にとって︑とくにこの国家が重大な危機に際会しており︑なんとしても人民の労働を節約して燃料を増産しなければならないときには︑ぜひ必要なことである﹂(第二五巻︑三六二ページ)とのべられている︒

石油王││﹁ノーベル﹂と﹁マズlト﹂が国家資本主義とさ

れているのは︑これらの石油王がロシアの石油産業を主導して

いたところから代表的存在として指称されたものとみられる

が︑その組織実体としては︑同じ﹁さしせまる破局﹂で︑この

﹁石油産業の国有化﹂を﹁石油シンジケートの国有﹂といって

いることからもわかるように(問︑三六一ページ)︑石油シンジ

ケートを意味しているといえる︒

そこで︑この石油シンジケートがなぜ国家資本主義とされた

のかであるが︑この点については︑九

0

年代﹁パクl石油事業

者輸出シンジケート﹂が強制シンジケートとして組織されてい

るが︑九七年に解消しているので︑ここでの場合は国有産油地

が石油独占に賃貸され︑﹁産油地賃貸に対する従来の産油量定額

地代を廃止し︑産油量に対する一定比率の原油もしくはそれを

半年間の平均価格により換算した金額を(国家に)支払わせる﹂

(和田春樹﹁近代ロシア社会の発展構造問││一八九0年代のロシプ﹂

東京大学社会科学研究所紀要﹃社会科学研究﹄第一巻第三号︑一六二│

六三ページ)等の内容をもっ採油業規則による統制がおこなわ

れていたこと︑すなわち︑国家的所有に属する油田が賃貸︑つ

まり︑国家的所有の生産手段が資本││石油独占に占有されて

一四

(14)

レlニンの国家資本主義論

経営されるという国有民営形態をとり︑そのもとで︑国家によ

り価格統制など一定の経済統制がおこなわれるという事態に着

目していわれているとみられるのである︒

そこで︑このようにみてくると︑レlニンによって国家資本

主義とされているものは︑規制・統制の内容において︑国家が

個別企業︑産業経営形態の基本的機能を掌握し︑それらにたい

し︑占有的地位をしめる場合︑また国家が基本的生産手段︑流

(5

通手段を所有している場合︑および国家的所有のもとにある基

本的生産手段等が資本によって占有されている場合などにみら

(6

れるように︑国家が基本的生産手段︑流通手段にたいし︑国家

経蛍というかたちで占有関係にあるか︑ないし所有関係にた

ち︑しかもその国家が資本制的生産関係︑経済関係の直接的関

与者ないし担当者に転化しているという点から規定され︑また

(7

この点にその根拠をもとめることができるといえよう︒

そして︑ここにみられるような国家資本主義の基本的態様

は︑たしかにその生成︑機能において︑ロシア的特殊性がある

とはいえ︑一般に独占資本主義︑国家独占資本主義のもとにお

ける隠家資本主義にも妥当するということができよう︒

2過渡期経済のもとでの国家資本主義

つぎに︑十月革命後の資本主義から社会主義への過渡期にお

ける国家資本主義がどういう意味でいわれているかをみておこ

う︒レlニンは︑たびたび平命前と後との国家資本主義の関

係︑または﹁普通の国家資本主義と普通とはちがった国家資本

一四

主義

との

継承

関係

﹂ハ

﹁協

同組

合に

つい

て﹂

第三

三巻

︑四

九二

ペー

ジ﹂

を問題にしていることからみて︑過渡期における国家資本主義

の規定もまた︑国家資本主義の一般的概念をうるにあたって資

するものがあるといえるからである︒

レlニンは一八年三月のブレスト講和ののちの﹁怠つぎ﹂の

時期に︑国家資本主義を通じての社会主義への移行といういわ

ゆる﹁一八年春の構想﹂を提起したさい︑﹁左翼共産主義﹂を

代表していたプハ

i

リンとの論争において︑国家資本主義につ

いてのレ

i

ニンなりの規定を与えているので︑まずこれかちみ

てお

こう

﹁い

ま同

士山

ブハ

lリンは不当にも︑ソヴェト権力のもとでは

国家資本主義はありえないと述べた︒︹

‑ j

u ‑

‑ ‑

それはあきら

かにばかげたことだ︒ソヴェト権力の統制のもとにおかれ︑国

家に所属している幾多の企業と工場︑この一事がすでに資本主

義から社会主義への移行をしめしている﹂(全ロシア中央執行委

員会

の会

議﹂

第二

七巻

︑第

O九

ペー

ジ﹀

ここではまず﹁ソヴェト権力の統制のもとにおかれ︑国家に

所属している企業﹂が出家資本主義とされている︒しかし︑過

渡期経済にあっては︑この規定だけでは社会主義企業との相

違︑つまり社会主義企業もまたこのような型の企業ということ

ができようし︑これら両者を区別する経済的相違が明らかにな

らない不充分さをもっており︑その点さらに論歩がすすめられ

なければならないであろう︒そこでより充全な国家資本主義の

(15)

規定をえるため︑同﹁会議﹂でつづいていわれているところの

もう一つの規定とみておく必要があろう︒すなわち﹁国家資本

主義は貨幣にではなく︑社会関係にある︒もしわれわれが鉄道

令によって二

C00

ルーブルづつあたえるなら︑それは国家資

本主

義で

ある

﹂(

向上

︑三

一五

ペー

ジ)

これは一七年一一月に接収された国有鉄道の経済管場にかん

していわれているもので︑﹁鉄道令により(国家)が二

000

ルlブリずつあたえる﹂というのは︑直接には過渡期における

テクノクラート︑ブルジョア専門家の利用についていわれてい

るものである︒そこでここでのべられていることの経済的内容

は︑国家的統制のもとにあるとはいえ︑テクノクラート︑ブル

ジョア専門家のイニシアチィヴにたいして︑﹁労働に応じた分

配﹂原則をこえる監督者賃金ないし経営者報酬が支払われ︑い

まだ資本主義的意味での剰余価値・利潤範騰が残存し︑それゆ

え二

QOO

i

ブリの国家ファンドも貨幣としてでなく事実上

の資本関係を媒介するものとして資本

1

1国家資本としての規

定性において運動するという事態が意味されていると思われる

ので

ある

いいかえればプロレタリア権力のもとで生産手段が函有化さ

れても︑その生産手段がなお資本関係のもとで利用され︑国家

資金も国家資本として機能するなら︑そこには国家資本主義が

存在するということができるのである︒

ところでレlニンは︑戦時共産主義をへて︑ふたたび国家資

レlニンの国家資本主義論 本主義を社会主義への移行の基本的環としてとらえかえし国家資本主義を通ずる社会主義への道を過渡期の戦略的経済路線として提唱した新経済政策ハネツプ)の時期において︑よりはっきりと国家資本主義を規定しているので︑これについてみておこう︒すなわち︑過渡期におけるその純粋の型で﹁もっとも簡単なはっきりした︑明瞭な輪郭の正確なもの﹂といわれる利権事業型国家資本主義について︑つぎのようにいわれている︒﹁経済関係の具地か︑りすれば︑利権とはいったいなにか?それは国家資本主義である︒ソヴェト権力が資本家と契約を結ぶ︒との契約によって一定量の対象

1

i

原料︑鉱山︑池田︑鉱石︑あ

るいは最近の利権契約案の一つにみられるように︑特殊な工場

さえもが︑資本家の手にゆだねられる︒社会主義国家権力は自

己に属する生産手段lll工場︑資材︑鉱山ーーーを資本家に提供

する︒資本家は請負人として︑社会主義的生産手段の賃借入と

して仕事をし︑自分の資本にたいし︑利潤を受けるとともに︑

生産物の一部を社会主義国家に引きわたすのである﹂︿﹁毛ス

クワ

市と

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第三

二巻

︑三

一六

ペー

ジ﹀

ここでは明確にわれわれがおこなってきたように生産︑流通

手段の占有・所有関係︑資本関係の存在とそれへの国家の直接

的規制という基準にたって国家資本主義がとらえ︑りれていると

いえる︒すなわち︑この場合︑国家資本主義は︑生産手段は国

家的所有││社会主義国家の所有であるとしても︑私的資本家

一四

(16)

レlニンの国家資本主義論

がその生産手段を占有し︑経営をおこなうことにより︑そこじ

資本関係︑したがっaて私的利潤(﹁階級所得としての利潤﹂)範鴎

も事在するが︑しかしその資本関係は国家的所有にもとづき︑

国家により直接規制されているというところから規定されてい

るわけである︒

そして︑レlニンは︑このような国家資本主義を﹁社会u

済制度のひとつの要素(ウF

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︑型

﹂(

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国家

資本主義を利権事業という形で﹃植えつける﹄ことによって︑

ソヴェト権力は︹:::︺国家によって規制される経済関係をつ

よめ

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食糧

税に

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新政

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意義

とそ

の条

件﹂

向上

三七三ページ﹀とのべているように︑社会経済制度の型︑なか

んずく﹁国家によって規制される経済関係﹂のひとつの型とみ

なしている︒いうまでもないと思われるが︑国家資本主義は︑

このよ︑つな意味で経済的範鴎に属するものと理解されるべきな

ので

ある

さらに一レ

i

ニンは﹁食糧税について﹂において国家資本主

義の型として︑利権事業型のほかに︑協同組合型︑仲買人制度

型︑賃貸制度型の三つの種類をあげており︑これらの諸類型に

ついてもそれが国家資本主義とされる所以をみておく必要があ

一五

O

ろ ︑ っ ︒

まず協同組合型国家資本主義は︑国家との納入契約により国

家と協同組合との﹁経済的同盟﹂という関係をとりむすび︑そ

の枠内で協同組合に組織された農民などの小経営主や中小企業

家が商品生産と資本蓄積をおこなうというもので︑レ

1

ニン

この形態については﹁国家資本主義に似ている﹂︑﹁他のものほ

ど単純ではなく︑その輪郭も他のものほどはっきりしていな

い﹂とのべている︒このような協同組合が国家資本主一義とされ

るのは︑国家が通常の交換関係をこえた一種の計画契約︑れわ

ゆる﹁組織された商品交換﹂によって︑その経営内容に関与

し︑生産手段の使用および処分を制縛しているという側面から

いわれているものと考えられ︑こんにちいう国家資本主義の初

級形態にあたるものといえよう︒

つぎに仲買λ制度型国家資本主義とは︑国家が国家に属する

生産物の販売と小生産者等からの生産物の買入れを商人︑商業

資本家に代行させ︑それにたいし︑手数料を支払うという形態

であって︑商品資本の形態をとる生産物を媒介とじて︑事実上

これらの商業企業にたいし国家が占有的地位をしめるかぎり

で︑国家資本主義としての規定が与えられるものといえよう︒

また賃貸制度型国家資本主義は﹁国家が︑国家に属する施

設︑油田︑森林等々を︑資本家たる企業に賃貸するもの﹂で︑

国家が生産手段を所有するとしても︑占有︑じたがって経営が

賃貸形態によって資本家企業にまかされるのであるから︑利権

(17)

事業型国家資本主義に近い一形態である︒

このようにみてくると︑過渡期における国家資本主義も)種

々の類型をとり︑また︑その程度u段階に異なるものがあると

はいえ︑総括していうならば)すでに国家資本主義を規定する

とみられた︑国家的経済統制といっても︑基本的生産手段︑流

通手段の占有・所有関係を媒介にしておこなわれ︑それゆえ︑

そのような生産︑流通手段が資本関係のもとで充用されると

き︑国家がその資本関係の直接的関与者ないし主体になるとい

(8

う経済的特質は確認できるところであるといえるのである︒3国家資本主義の一般的規定

iさて︑上来の検討を基礎に︑ここで国家資本主義を一般的規

定としてとうとらえるべきかについてまとめておこう︒

レlニンは国家資本主義について一般的︑定義的にはつぎの

ようにのべている︒﹁あらゆる経済学文献を通じて︑日出家資本

主義とは︑資本主義体制にあって︑国家権力みずからが直接あ

れこれの資本主義企業を従属させているばあいに生ずる資本主

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I

ニンの国家資本主義論 このフレーズは国家資本主義の概念が問題となるさいよく

引用されるところであるが︑その意味するものはこれまで必ず

しもはっきりと理解されてこなかったといえる︒問題はまず

﹁国家権力みずか︑りが直接あれこれの資本主義企業を従属させ

ているばあい﹂というときの︑この﹁直接的従属﹂をどう解する

かである︒往々︑それをばくぜんと国家的経済規制一般と解じ︑

国家がそのような規制・統制を加えている企業等をすぐさま国

家資本主義と規定する向きがみられるが︑しかし国家が行政権

にもとづき︑何らかの国家的経済規制を加えるというのであれ

ば︑極端にいって︑およそこんにち企業なるものはすーベて国家︑

資本主義的なものといわざるをえないほどだ漠たることになろ

うし︑また過渡期においては︑国家の経済的規制︑強制を受け

ない私的企業などはありえないのであるから︑およそ私的資本

(9

主義と国家資本主義とを分ける意義もないことになろう︒

したがって︑ここでの﹁直接的従属﹂というのは︑国一家的統

制でも︑国家がカルテル等の経済機関に行政権能を委譲︑また

は賦与し︑それらを媒介として統制をおこなう﹁間接統制﹂で

はなく︑国家が他者を介することなく︑その意味で直接に経済

活動に介入する﹁直接続制﹂︑

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かも﹁直接統制﹂であっても

いわゆる蛍業の自由の外的制縛にかかわる﹁統制下命﹂や﹁統

制許可﹂等の段階をこえて︑国家が生産・流通手段にたいし︑

占有・所有という形態で自ら経済主体として関与︑支配してい

る内容をもっ場合をさしていっていると理解されるのであるー︒

一五

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