九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
『乾坤弁説』諸写本の研究
平岡, 隆二
長崎歴史文化博物館 : 研究員
http://hdl.handle.net/2324/18937
出版情報:長崎歴史文化博物館研究紀要. 1, pp.51-63, 2006. 長崎歴史文化博物館 バージョン:
権利関係:
はじめに
転びバテレンの沢野忠庵(Christovão Ferreira, 1580頃−1650)が訳出したと伝えられる『乾坤弁説』
は、西欧の科学思想をはじめて日本に伝えた書物の 一つとしてつとに有名である。その内容はおおむね アリストテレス・サクロボスコ流の天文宇宙論であ り、球形の大地を諸天球が重層的に取り巻くという 宇宙の構造論(いわゆる天動説)から、四元素説に 基づく気象現象の説明に至るまで、天地全般にまつ わる事象が幅広く取り上げられている。それらの記 述は、現存する南蛮科学書のなかでも質・量ともに 際立つものであり、黎明期の日欧科学交流を研究す るための一級史料であることは言を俟たないが、さ らに本書の場合、同時代の長崎で活躍した儒医の向 井玄松(元升。1609−1677)による詳細な「弁説」(注 釈)が付されているという点に大きな特徴がある*1。 すなわち、この注釈部を読み解くことによって、西 洋の学術思想とはじめて全面的に対峙した日本知識 人の反応と彼自身の世界像を窺うことが可能となる のであり、それが同書の内容をより豊かなものにし ていると言える。
このように『乾坤弁説』という書物には、科学史・
日欧交流史的観点から見て看取すべき論点が数多く 含まれており、先行研究においても、忠庵がその本 説を訳出する際に利用したという西洋側書物が何で あったのかという「原書探し」の問題を中心に、多 くの歴史家が活発な議論を展開してきた*2。 しかしながら、それら先行研究の全ては、大正三 年に出版された『文明源流叢書』巻二所収の活字版
「乾坤弁説」*3(以下、文明本と呼ぶ)に全面的に依
拠する形で成されたものであり、本来ならば一次史 料として最も重視されるべき―そして量的にも相当 の数が現存する―同書の現存写本について、体系的 な調査・研究が試みられたことはこれまでなかった。
すなわち、『乾坤弁説』の写本は今日どこにどのよう な形で伝存しているのか、その異同はどのようなも のであるのか、その原型はどのようなものであった のか、それが江戸時代を通じてどのように流布・転 写されていき、その過程で内容がどのように成長・
変容していったのかといった問題は、これまで全く 閑却されてきたと言ってよいのである。
このような書誌学的・文献学的問題は、先述の「原 書探し」の問題と密接に関連しているだけでなく、歴 史学的にも、また同書の内容理解の点においても、決 して見逃せないところである。そしてまた何よりも、
このきわめてユニークな内容をもつ書物を日本の重 要な文化遺産として確定し、古典のリストに登録し ていくためにも、このような原典についての書誌的 検討は不可欠だと考える。そこで本稿では、現在調 査可能な『乾坤弁説』写本計17点を紹介するととも に、その各々の書誌的性格について検討し、将来の 批判校訂版(critical edition)作成のための準備とし たい*4。
現存写本の所在と書誌
『乾坤弁説』という本には、その本文がほぼ同一で、
題名のみを異にするいくつかの異称本が存在してい る。ただし本文全編を有する近世期の写本は事実上 皆無であり、写本によっては欠本が著しく、巻構成 も大幅に異なるなど、書誌的情報にかなりのヴァリ
平 岡 隆 二
『乾坤弁説』諸写本の研究
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エーションが見られる。その詳細は以下の通りであ る*5。
1.乾坤弁説
まず「乾坤弁説」という標題のみを有する写本に は次の9点がある。写本の現存数はこのタイプが もっとも多く、また文明本の元となった底本・校本 もこの中に含まれるため、本書が『乾坤弁説』とい う名で広く知られるようになったとも言える。
[1]〔京大文図本〕
京都大学文学研究科図書館蔵、請求番号:国史/
す7 / 9、二冊(「元巻」「享巻」・「利巻」「貞巻」)、袋 綴、26.5×19.1cm、外題「乾坤弁説」天・地、内題
「乾坤弁説」、各冊77・75丁、毎半葉13行。朱・藍の 書込み多数。欠本なし。
(第一冊見返貼紙墨書)「乾坤弁説天地二冊/右 明治四十四年五月細川男爵蔵本ヲ謄写シタル モノニ係ル、後更ニ狩野享吉氏蔵本ヲ以テ一 校ヲ加ヘ異同ヲ注記ス、書中藍書ノモノ及異 本所載ト記シタルモノ即チ是ナリ/狩野氏蔵 本ハ写本四冊ニシテ第一冊ノ表紙ニハ「イ第 三千八百八十号」ト記セシ貼紙アリ/地巻星 部五箇条、細川男爵蔵本全ク欠ク、今狩野氏 蔵本ヲ以テ補写シ巻末ニ附載シタリ/別ニ、
同男爵蔵本南蛮天地論一名南蛮運 気 論抄出一巻アリ、前 記星部諸条ノ抄出ニ係ル、又冨士川游氏蔵本 天文沙汰弁解乾坤弁説一巻アリ、並ニ謄写シテ別冊 トナセリ、参考スベシ/明治四十五年六月記」
(首目の構成):玄松略序・玄松序・凡例・四国 学例・忠庵序。
この写本は、明治・大正期に活躍した法学者・教 育家の細川潤次郎(1834−1923)蔵本を謄写したも のに、狩野享吉(1865−1942)蔵本に基づく校訂・
補写を加えるという形で、明治45年(1912)に成っ たものであり、今日まで『乾坤弁説』の標準的なテ キストの役割を果たしている文明本の底本となった 写本である。そのことは、上記貼紙墨書の内容と文
明本「緒言」の記述*6が一致すること、また文明本 の体裁や本文に挿入された異同の場所・内容が、本 写本のそれと著しく一致することから見て明らかで あり、したがって『乾坤弁説』にまつわる従来の研 究は、本写本、ひいてはその元となった細川・狩野 蔵本の内容・特徴に依拠するものであったというこ とになる*7。
なお細川蔵本の現所在は不明であるが、そのもう 一つの転写本が、現在日本学士院に架蔵されている
([8]学士院本)。また校訂・補写に使われたという 狩野蔵本は、下に述べる[3]狩野本のことであり、
同じく貼紙墨書中に見える「冨士川游氏蔵本天文沙 汰弁解乾坤弁説一巻」の写しとは下の[11]京大文図B本 のことと思われる*8。
[2]〔神原本〕国書・書目未収
香川大学附属図書館神原文庫蔵、請求番号:449−
34、二冊(7オ本文冒頭に「巻上」とあり・「下巻」
あるいは「坤巻」)、袋綴、第一冊23.5×16.5cm・第 二冊23.7×17.0cm(第二冊のみ裏打ち補修済み)、外 題「<天/□>乾坤弁説」上・下、内題なし、各冊 57・65丁、行数不定、印記3点「神原家図書記」縦 長方形・陽刻・黒印、「江戸小伝馬町/鎮守別当/教 光院」縦長方・陽・朱、「□□縣/神道黒/住派教/
会所印」方・陽・朱。地部第23・24章欠。
(第一冊1オ貼紙)「磐渓追遠展覧会大槻文庫書 目に左ノ如く載せたり/乾坤弁説 理学 写 一 慶安三年 沢野忠庵訳・向井元升弁 忠 庵ハ南蛮帰化人也。元升の弁説ハ万治二年也。
下巻欠本」青色ペンで記す
(首目の構成):玄松序・凡例・四国学例・忠庵 序
図1.神原本(第一冊表紙・同1丁表)
洋学資料の蒐集で有名な神原甚造(1884−1954)
の旧蔵書である(図1)。江戸小伝馬町教光院、神道 黒住派教会(いずれも詳細未詳)の印記が捺される など、興味深い来歴を持つ。冒頭のいくつかの章は、
『乾坤弁説』写本としては珍しく、変体仮名混じりの 草体で書かれている。なお貼紙の青ペン書きに見え る大槻文庫蔵本とは、下の[10]静嘉本を指すもの であろう*9。
[3]〔狩野本〕
東北大学附属図書館狩野文庫蔵、請求番号:8−
21234、四冊(「上巻」あるいは「一巻」・「上ノ二」
あるいは「上ノ二巻」・「下ノ一」あるいは「下巻」・
「下ノ二」)、袋綴、24.0×16.5cm、外題「乾坤弁説」
一・二・三・四止、内題なし、各冊50・44・41・40 丁、毎半葉9行、印記1点「荒井泰治氏ノ寄附金ヲ/
以テ購入セル文学博士/狩野享吉氏旧蔵書」縦長方・
陽・朱・子持枠。朱の書込みあり。地部第13・14章 に一部落丁あり。
(第一冊表紙の貼紙墨書)「イ第三千八百八拾 号」ただしイは方・陽・朱の小印
(第二冊15ウ貼紙)「一枚落丁アリ」
(第二冊39オ行間余白)「天明二壬寅[1782]年 八月十五日夜初更前西南ノ虹立夜ノ虹甚メヅ ラシ…[虹図あり]」本文に比べて薄墨
(首目の構成):玄松略序・凡例・四国学例・忠 庵序。
狩野亨吉の旧蔵書である。第一冊表紙に付された 貼紙から、上の[1]京大文図本の校訂・補写に用 いられた写本であることが判明する。その第二冊、第 24章「中部ノ風中ニ生スル物ノ事」の余白には、天 明二年(1782)八月十五日夜に出現した虹に関する 観望記録が付されている。ただし第一冊本文の筆跡 は、第二・三・四冊のそれとは明らかに別人のもの である。
[4]〔京大附図本〕
京都大学附属図書館蔵、請求番号:6−04 /ケ/
2、三冊(「巻一元本」「巻二元末」・「巻三享本」「巻四
享末」・「巻五利本」「巻六利末」「巻七貞本」)、袋綴、
29.1×20.8cm、外題「乾坤弁説」[虫損]・巻第三四・
[題簽ハガレ]、内題なし、各冊44・40・61丁、毎半 葉12行。天部第25−29章欠。
(首目の構成):玄松序・凡例・四国学例・忠庵 序
この写本は、天部の第25−29章(いわゆる「星部」)
のみを欠いている。書写・伝来は不明。
[5]〔白井本〕
国立国会図書館白井文庫、請求番号:特1−2189、
四冊(第一冊のみ「巻一元本」とあり)、袋綴、24.3
×16.8cm、外題「乾坤弁説」一・二・三・四、内題 なし、各冊25・23・21・23丁、毎半葉10行、印記1 点「白井/光」方・陽・朱。第二冊18−21丁に乱丁 あり。地部第3−16章・天部第7・17−29章を欠く。
(首目の構成):玄松序・凡例・四国学例・忠庵 序。
植物学者・白井光太郎(1863−1932)の旧蔵書で ある。天部・地部とも、欠章が多い。
[6]〔天理本〕国書未収
天理大学附属天理図書館蔵、請求番号:441−1、三 冊(「元巻」・「享巻」・「利巻」)、袋綴、27.5×19.2cm、
外題「乾坤弁説」上・中・下、内題「乾坤弁説」、各 冊45・41・40丁、毎半葉10行。印記1点「鳳翔/閣 蔵」縦長方・陰・朱。天部第17−29章欠。
(首目の構成):玄松序・凡例・四国学例・忠庵 序
これは各冊に捺される印記「鳳翔/閣蔵」から日 向延岡藩主・内藤政陽(1737−1781)の旧蔵書であ り*10、したがって18世紀中葉以前の書写にかかると 推定される。下の[7]山内本と同じく、天部の第 17−29章を欠く。
[7]〔山内本〕国書・書目未収
㈶土佐山内家宝物資料館所蔵*11、請求番号:ヤ440
−33−1、一冊(「元巻」「享巻」「利巻」)、仮綴、28.5
×20.5cm、外題「乾坤弁説」、内題「乾坤弁説」、全
70丁、毎半葉15行、印記4点「山内宗家/蔵書章」
方・陽・朱、「山内/文庫」方・陽・朱、「徳永/蔵 書」方・陽・黒(墨で消される)、「德」小円・陽・
朱。朱の書込みあり。水損あり。13ウと14オの「四 大相尅相生図」「総図」は刪削の後、後補されたもの。
「口上覚」と題する文書三葉の挿入あり(八月十八日 付け。成立年・作者未詳)。天部第17−29章を欠く。
(首目の構成):玄松序・凡例・四国学例・忠庵 序
土佐藩山内家に伝来の写本である(図2)。この写 本には、西洋医学を信奉する医師たちが行っている 死体解剖に対して徹底的な論難を浴びせ、その禁止 を詮議して欲しい旨上訴する内容の「口上覚」が挿 入されており、『乾坤弁説』が江戸時代にどのような 人物によって読まれたかを窺う上で興味深い。
[8]〔学士院本〕
日本学士院蔵、請求番号:6631、二冊(「元巻」「享 巻」・「利巻」「貞巻」)、袋綴、26.8×19.2cm、外題「乾 坤弁説」天・地、内題「乾坤弁説」、各冊76・60丁、
毎半葉13行。鉛筆による書き込みあり。天部第25−
29章を欠く。
(奥書)「明治四拾四年十月/細川潤次郎蔵書ヨ リ写記」第一冊76オ;「明治四十四年十一月/
細川潤次郎蔵書ヨリ写記」第二冊60ウ
(首目の構成):玄松序・凡例・四国学例・忠庵 序。
これは奥書から、上の[1]京大文図本と同じく、
細川蔵本からの転写本であり、明治44年(1911)に 作成されたものである。
[9]〔秋岡本〕国書未収
神戸市立博物館秋岡コレクション蔵、請求番号:
天文暦学関係書3、一冊(巻名なし)、袋綴、23.8×
16.0cm、外題なし、内題なし、玄松序題「乾坤弁説」、
全48丁、毎半葉8−10行、印記1点「秋岡/図書」
方・陽・朱。地部第3−8・17−24章、天部全章を欠 く。
(首目の構成):玄松序・凡例・四国学例・忠庵 序
地理学者で古地図コレクターとしても有名な秋岡 武次郎(1895−1975)の旧蔵書である。欠本が著し い。
2.天文沙汰弁解
続いて「天文沙汰弁解」と題する写本には、以下 の2点がある。これらは外題が「天文沙汰弁解」と 変更されているだけで、本文はまったく『乾坤弁説』
である。
[10]〔静嘉本〕
静嘉堂文庫大槻文庫蔵、請求番号:九十七函三十一 槻架、一冊(8オ本文冒頭に「巻上」とあり)、袋綴、
23.8×16.9cm、外題「天文沙汰弁解」右余白に「乾 坤弁説トモ云フ」と付す、原表紙外題「天文沙汰弁 解」乾、内題なし、玄松序題「乾坤弁説」、全69丁、
毎半葉12行、印記3点「大槻文庫」縦長方・陽・朱・
子持枠、「□運」円・陽・黒、「□」縦長方・陽・黒。
地部第23・24章、および天部全章を欠く。
(首目の構成):玄松序・凡例・四国学例・忠庵 序
これは多くの学者を輩出した大槻家の旧蔵書であ る。上の[2]神原本と同じく、冒頭のいくつかの 章が変体仮名混じりの草体で書かれる。
[11]〔京大文図B本〕
京都大学文学研究科図書館蔵(「南蛮天地論一名南 蛮運気論抄出」と合綴)、請求番号:国史/す7 / 3、
一冊(8オ本文冒頭に「巻上」とあり)、23.8×16.2cm、
図2.山内本(24丁表・表紙)
外題「天文沙汰弁解乾坤弁説/南蛮天地論一名南蛮 運気論抄出」、1オ扉題(原外題ヵ)「天文沙汰弁解」
乾、内題なし、玄松序題「乾坤弁説」、全77丁(「天 文沙汰弁解」69丁・「南蛮天地論一名南蛮運気論抄 出」8丁)、毎半葉12行。朱の書込みあり。地部第23・
24章、および天部全章を欠く。
(奥書)「明治四十三年二月東京冨士川游氏蔵本 ヲ謄写ス」69ウ*12
(首目の構成):玄松序・凡例・四国学例・忠庵 序
これは明治43年(1910)に、医学史家の富士川游
(1865−1940)蔵本から転写されたものである*13。こ の写本と上の[10]静嘉本とは、本文の改行位置が 全編にわたって完全に一致するなど著しく類似して おり、きわめて親しい関係にあることが分かる*14。な おこれも冒頭のいくつかの章が変体仮名混じりの草 体で書かれる。
3.四大全書
続いて「四大全書」という標題を持つ写本には、以 下の2点がある。いずれも京都で活躍した医者・文 人の橘南谿(1753−1805)による識語を有し、「四国 学例」および向井玄松による弁説の全てを欠く。た だしその本文は忠庵本説そのものである*15。
[12]〔稲垣本〕国書・書目未収
津市図書館稲垣文庫蔵、請求番号:44−69・70、二 冊(「巻之上」あるいは「上ノ二巻」・「巻之二」)、袋 綴、26.9×19.2cm、外題「乾坤弁説」、内題および忠 庵序題「四大全書」、玄松序題「四大全書序或乾坤弁 説ト名ク」、各冊37・42丁、毎半葉12行、印記1点
「止々軒蔵」方・陽・朱。頭注多数あり。刷り匡郭
(四周単辺有界、黒口下向単白魚尾、版心下に篆書様 の二字あり)。地部第10章を欠き、同第13・14章に大 きな脱文あり。
(識語)「一、此乾坤弁説或ハ四大全書ト名ク。其 来由序文ニ述スル如クナリ。毎条/下弁論ア リ。向井玄松作ナリ。其論天経或問ニ依リテ
少シモ違/フコト無シ。今是ヲ削リ去リテ只 本説ハカリヲ書ス。此書ハ只蛮学/ノ真面目 ヲ見ルコトヲ要スルノミ。唐土ノ人ノ説ノ如 キハ天経或問ニ/就テ合セ考ヘシ。タカイニ 得失有ベシ。読者撰之。南谿逸人誌」第一冊 4ウ
(後序)「四大全書後序/蛮夷之民固愚也、凡物 皆不能依理以懸断焉、/雖乾坤之恢且廓者、而 制器目親測之、操舟躬直/窮之、其為技也勿 論陋、而唯其得之於實者、其/説確々可據、其 論切々可信矣、自不同彼游子六/諸人書也、近 得四大全書、二儀畧説者、蓋并其書也、天学 之士不可不讀焉、語曰君子不以人而廃言、遂
/并繕写以蔵家云/天明四[1784]年甲辰孟 春之日 南谿 橘春暉」第二冊42オ
(奥書)「寛政六[1794]龍次甲寅孟冬朔 見山 紀定穀」第二冊42ウ
(首目の構成):忠庵序・玄松略序・凡例・[橘 南谿識語]
これは天文・暦学・地理を研究した伊勢商人の稲 垣定穀(1764−1835)旧蔵本である(図3)。寛政6 年(1794)の書写にかかるが(稲垣奥書)、その前に 付された「四大全書後序」より、橘南谿蔵本から派 生した写本であることが判明する*16。
[13]〔桑木本〕
九州大学附属図書館桑木文庫蔵、請求番号:270、
四冊(「上巻」・「巻之二」・「巻之三」・「巻之四」)、袋 綴、26.9×19.0cm、外題「四大全書」一・二・三・
四終、内題(第三冊のみ)「四大全書」、扉題(原外 題ヵ)「四大全書」春・夏・秋・冬、玄松序題「四大 全書序或乾坤弁説ト名」、各冊34・36・41・43丁、毎
図3.稲垣本(第一冊表紙・同2丁表)
半葉9行。地部第10章を欠き、同第13・14章に大きな 脱文あり。
(識語)「一、此乾坤弁説或ハ四大全書ト名ク。其 来由序文/ニ述スル如クナリ。毎條下弁論ア リ。向井玄松/作ナリ。其論天経或問ニ依リ テ少シモ違フコト/無シ。故ニ今是ヲ削リ去 リテ只本説ハカリヲ/書ス。只蛮学ノ真面目 ヲ見ルコトヲ要スルノミ。/唐土ノ人ノ説ノ 如キハ天経或問ニ就テ合セ/考ヘシ。タカイ ニ得失有ヘシ。読者撰之。/南渓逸人誌」第 一冊4ウ−5オ
(首目の構成):忠庵序・玄松略序・凡例・[橘 南谿識語]
書写・伝来は不明であるが、上の[12]稲垣本と 同じく橘南谿の識語を持つ。
4.弁説南蛮運気書
続いて「弁説南蛮運気書」という標題を有する写 本が4点ある。これらに「乾坤弁説」という書名は まったく出てこないが、本文は他の『乾坤弁説』写 本と同じである。ただし上・下冊の順が自余の写本 とは逆で、玄松序文を欠くのが特徴である。
[14]〔大河内本〕国書・書目未収
豊橋市立美術博物館大河内家文書蔵、請求番号:
537・538、二冊(下冊7オ本文冒頭に「巻上」とあ り)、袋綴、27.3×20.2cm、外題「弁説南蛮運気書」
上・下、内題なし、各冊85・82丁、毎半葉9行。上冊 冒頭に脱葉あり。玄松序を欠く。
(下冊大尾貼紙墨書)「寛文十年庚戌十二月十三 日[以下双行]袋ノ上ノ手付ヲ記置」82ウ
(首目の構成):凡例・四国学例・忠庵序
これは島原の乱(1637−1638)に幕府上使として 派遣された老中松平伊豆守信綱(1596−1662)と、そ の息子甲斐守輝綱(1620−1671)を祖に持つ松平(大 河内)家に伝わる写本である(図4)。これを収納す るための和紙の袋が現存しているが(縦24×横 34cm)、そこには「寛文拾年庚戌十二月十三日/弁 説南蛮運気書二冊」*17と墨書されている。したがっ て、少なくともこの日付(西暦1671年1月23日)以 前に書写された写本ということになり、これは現存 諸本の中で最も古い年紀を有する写本である。なお 大河内家文書には、他に写本『南蛮運気論』*18および
『南蛮運気論図絵』*19も架蔵されているが、後者に含 まれる計19点の図は、前者の図とは対応しておらず、
この『弁説南蛮運気書』所載の図とほぼ完全に一致 する。
この大河内本が同家文書に収められた頃の川越 藩・松平家当主が甲斐守輝綱であり、先行研究では これが輝綱自筆の写本であるとの指摘がなされてい る*20。この自筆如何については文献学的再検証の余 地があるものの、たしかに輝綱は島原の乱に従軍し て以後、南蛮・紅毛の天文学・軍学・航海術に大き な関心を寄せた学究的な大名であったし*21、これも 輝綱の蒐集にかかる写本であろうことは、同家文書 中の他の史料からも首肯し得るところである。
たとえば、『南蛮運気論』の他の現存写本2点の奥 書には、それが輝綱蔵本からの転写である旨明記さ れており、大河内家文書中の同書写本が輝綱時代に 遡ることが分かる*22。第二に、同家文書中に含まれ る「智光院様(輝綱)」自筆の諸断簡が貼り込まれた 一紙文書(図5)*23には「一回三百六十四度/半地 百八十二度」、「晷キ 日景也」、「晷キ ド キ度器/アスタラヒ ヨ」等の記述とともに地球(あるいは地球儀)の図 が描かれており、輝綱は確かに南蛮系の天文地理学 に関心を寄せていた*24。
さらにこの一紙文書には、輝綱が長崎でキリシタ ン関連史料を蒐集していたことを窺わせる断簡も複 数貼り込められている。たとえば、その一つに「露ろ
図4.大河内本(第一冊17丁表・袋)
宇う和わ道たう斎せい滋じヲ三知志毛□さ賀か羅ら免めん都と」なる文言が見え るが(図6)、これは『天草四郎陣中旗』(図7)等の キリシタン遺物に見える古ポルトガル語「Lovvado seia o sanctissimo sacramento(いとも尊き聖体の秘 蹟はほめ尊まれ給え)」の音訳であり、島原の乱以後 に長崎近辺で入手した情報である可能性が高い*25。 また別の断簡には、
此書者肥前國長崎之一向宗光源寺之住僧松吟/
傳受南蠻人而記之[以下朱筆双行]南蠻人トハ 伴天連於日本改名忠庵ト号/吉利支丹之目明シ シテ住長崎也
と記され、これが大河内本「弁説南蛮運気書」か、あ るいは「南蛮運気論」の解題であることは疑い得な いが、その内容は下で引用する盧草拙書簡に見るよ うに、長崎に伝わっていた『乾坤弁説』の由来と合 致するものである。
[15]〔学士院B本〕
日本学士院蔵、請求番号:6981、二冊(下冊7オ本 文冒頭に「巻上」とあり)、袋綴、26.8×19.1cm、外 題「弁説南蛮運気書」上・下、内題なし、各冊86・
85丁、毎半葉9行。上冊冒頭に脱葉あり。玄松序を欠 く。
(識語)「此書原本の表紙に上巻と下巻とを誤り 記るせる/を其侭に写し取りたり。又此巻の 冒頭には/脱葉あるが如し。此れ又其侭に為 し置きたり。/三上義夫識」上冊1ウ
(奥書)「大正二年七月/大河内正敏蔵書ヨリ写 記ス」上冊86ウ;「大正二年七月/大河内正敏 蔵書ヨリ写記/[以下別筆]此書原本は大河 内子爵家に伝はれるものにして同家祖/先松 平輝綱の遺物なるべし。上下二冊と附図とを 入れ/たる紙の袋ありて其袋に「寛文拾年庚 戌十二月十三日」と/記るせり。三上義夫識」
下冊85ウ
(首目の構成):凡例・四国学例・忠庵序 これは奥書から、[14]大河内本の大正期の転写本 であることが知られる*26。以下の2写本も同様の奥 書を持ち、いずれも大河内本から派生した近代の転 写本である。
[16]〔桑木B本〕
九州大学附属図書館桑木文庫蔵、請求番号:1660、
二冊(下冊本文冒頭7オに「巻上」とあり)、仮綴、
27.8×20.0cm、外題「弁説南蛮運気書」上・下、内
図6.一紙文書(大河内家文書885−902番の一葉。部分・左90度回転)
図7.天草四郎陣中旗(天草市立天草切支丹館蔵)
図5.一紙文書(大河内家文書885−902番の一葉。上・表面、下・裏面一部拡大)
題なし、各冊85・87丁、毎半葉9行。上冊冒頭に脱葉 あり。玄松序を欠く。上冊見返しに「物理(Ito)
¥400」と鉛筆書あり*27。
(奥書)「大正二年七月/大河内正敏蔵書ヨリ写 記/[以下別筆]此書原本は大河内子爵家に 伝はれるものにして同家祖/先松平輝綱の遺 物なるべし。上下二冊と附図とを入れ/たる 紙の袋ありて其袋に「寛文拾年庚戌十二月 十三日」/と記るせり。三上義夫識」下冊87 ウ
(首目の構成):凡例・四国学例・忠庵序。
[17]〔天文台本〕国書未収
国立天文台三鷹図書室蔵、請求番号:天文・暦書 462、二冊(下冊本文冒頭7オに「巻上」とあり)、仮 綴、28.0×20.2cm、外題「弁説南蛮運気書」上・下、
内題なし、各冊85・82丁、毎半葉9行。上冊冒頭に脱 葉あり。玄松序を欠く。
(識語)「此書原本の表紙に上巻と下巻とを誤り 記るせる/を其侭に写し取りたり。又此巻の 冒頭には/脱葉あるが如し。此れ又其侭に為 し置きたり。/三上義夫識」上冊見返し
(奥書)「大正二年七月/大河内正敏蔵書ヨリ写 記ス」上冊85ウ、「大正二年七月/大河内正敏 蔵書より写記/[以下別筆]此書原本は大河 内子爵家に伝はれるものにして同家祖/先松 平輝綱の遺物なるべし。上下二冊と附図とを 入れ/たる紙の袋ありて其袋に「寛文拾年庚 戌十二月十三日」と/記るせり。三上義夫識」
下冊82ウ
(首目の構成):凡例・四国学例・忠庵序
5.現所在不明の写本
さいごに、現所在およびその現存如何は確認でき ないものの、諸本の奥書や目録等から存在が知られ る写本の情報を掲げておく。まず上掲諸本の奥書等 から「細川本」([01]京大文図本・[8]学士院本参 照)、「橘南谿本」([12]稲垣本・[13]桑木本参照)
の存在が分かるが、いずれも現存を確認することが できなかった。
続いて『国書総目録』等の目録に記載されている 写本には以下のものがある。
「彰考館本」(2部)
彰考館図書目録には「乾坤弁説/西人忠菴編・向 井玄松等訳/明暦己亥/二部九[冊]/[番号]十七
/写[本]」と見え、すなわち9冊本が2部架蔵されて いたことになるが、いずれも太平洋戦争の戦災で焼 失してしまった*28。なお『国書』には「彰考(五冊)
(九冊本二部)」と見えるが、上の目録に5冊本の記 載はない。
「礫川本」
これは尾島碩宥(1876−1948)の蒐集にかかる礫 川堂文庫蔵本である。1932年に東京科学博物館に出 展された際に「乾坤弁説 三冊/慶安三年(一六五〇)
刊ママ
野マ マ澤忠庵訳…(尾島碩宥氏蔵)」と記録されてい るが*29、同文庫の大半は戦災によって焼失した由で ある*30。
「栗田本」
日本史家で書誌学者の栗田元次(1890−1955)蔵 本である。これには栗田自身による以下の解題が残 されている。
乾坤弁説 向井玄松 文化十四年 一冊/沢野 忠庵の原著ローマ字本を西吉兵衛の翻読により 向井玄松が筆記し、更に弁説を加へしもの。繪 図入。奥に左の識語あり「文化十四年丁丑年冬 十月従碌々洞得之写此書雖不足写而以俟類本 焉」環翠堂主人「一齋儲藏」、表紙にも「環翠堂 藏」の墨書あり。端に「弌齋」朱印を捺す*31。
「東北大本」
『国書』の四大全書の項には「東北大」蔵本の記載 があるが、同大学図書館の現行目録には記載が見ら れず、その現存も確認できなかった。
さらに上記のもの以外では、たとえば幕府天文方 渋川家の幕末期の蔵書目録には「乾坤弁説 五[册]」*32
と見えている。また海老沢有道が指摘するように、
平田篤胤(1776−1843)の『太昊古暦伝』には「慶 長年中に。漂着せる蛮人忠庵と云へるが。此方にて 著せる。四大全書といふ物に其の国に伝ふる所の地 大 の 説 を 載 し て。 其 の 周 回 皇 国 の 里 法 に て、
一万六千二百里云云」という記述がある*33。これら もまた、江戸時代における『乾坤弁説』流布の幅広 さを示す一証と言えるであろう。
なお『乾坤弁説』の生誕地である長崎には写本の 現存が確認できないけれども、少なくとも享保期に は複数の写本が伝わっていた。享保11年(1726)、唐 通事の盧草拙(1675−1729)が渡辺軍蔵なる人物に 送った書簡が、細井広沢編『測量秘言』に収録され ている。その中で草拙は、長崎で諸人が皆写し持っ ている『仮名天文鈔』(あるいは『三国運気通要鈔』
『光源寺天文書』)と『乾坤弁説』の由来について、次 のように記している。
長崎に假名天文鈔と申書二冊、諸人皆写し置 申候書物御座候。又ハ三國運氣通要鈔とも題し 申候。隨分天文の道理分明に聞へ申候。此書ハ 先年淺野長澤様ト申候醫師江戸より御下り被成 候て、南蛮の目付澤野忠庵に被仰付候て西洋の 天文の学の趣を被爲書候。其節忠庵ハ本より日 本文字は讀申候得共和字を綴義ハ成申さす候ニ 付、光源寺住寺松吟と申し候僧筆譯仕候。就夫 此書を世に光源寺天文書とも申候。松吟か本筆 の書物は吉村郷右衛門カ方へ取持可仕候と奉存 候。此者祖父ハ末次平蔵家来ニて候付、其節末 次平蔵方へも松吟直書納マリ申候。其書を相傅 へ居申候。且又此二冊の書の内を段々挙申候て 辨破致候書物を乾坤辨説と申候て四冊御座候。
是ハ只今ノ[向井]元成か親ニ元升と申候者御 座候。後は京都ニ上り大醫の名を振申候。此人 撰作致申候。然とも天文の難破に於不分明の義 も有之候。右申上候趣長崎天文者ノ由来にて御 座候…[七月二十五日付]*34。
そしてこの書簡に対する渡辺の返答が『盧氏文書』
中に残されている。それによると渡辺は、長崎で『乾 坤弁説』の写本を作成し、江戸に持ち帰っていた。
乾坤弁説ハ先年成程見申候。とくと不相考一通 ニ見過申候。天文之辨破ニおゐて不分明之議論 も御座候由、其節ハ何も尤なる議論とのミ存居 申候へ共、近頃乍卒尓不分明之思召之所御教戒 被下度奉願候。後学ニ仕度候。勿論所々大躰ハ 手前へも寫取置申候。江戸ニ差置申候へ共罷帰 候ハヽ思召之所引合了簡可仕候[七月二十五日 付]*35。
さらにまた、これに対する草拙の再返答を『測量秘 言』中に見ることができる。
乾坤弁説ノ事ハ定て向井氏より先年御借被成候 半と奉存候。此儀ハ懸御目候節大意可申上候。是 ニハ少し子細も有之候事御座候[七月二十五日 付]*36。
ここで草拙は、渡辺が向井元成(1656−1727。玄松 の子)の持つ『乾坤弁説』写本を借りたのではと推 測し、最後に「是ニハ少し子細も有之候事御座候」
という意味深な言葉で締めくくっている。その子細 が如何なるものであったにせよ、『先民傳』の向井元 升の条に「所著乾坤弁説行世」*37と見えるように、享 保期の長崎において『乾坤弁説』写本が流布してい たことは確実と言ってよいであろう。
おわりに
本稿では現在調査可能な17点を中心とする『乾坤 弁説』の諸写本を紹介し、その各々の書誌的性格に ついて検討した。以上をまとめるならば、『乾坤弁 説』という本には3種の異称本(『天文沙汰弁解』『四 大全書』『弁説南蛮運気書』)が存在しており、諸本の 書写・伝来からして、すでに江戸時代から広く全国 に流布していたということである。上の17点から明 らかに近代以降に書写された写本6点([1]京大文
図本・[8]学士院本・[11]京大文図B本・[15]学 士院B本・[16]桑木B本・[17]天文台本)を除いて も計11点を数えるが、この残存数は、キリシタン関 係書としても、近世初期に成立した天文書としても、
決して少ないものではない。現所在不明の写本や、諸 本の書写系列上に少なからず介在したであろう潜在 的な写本の量まで視野に入れると、その数は相当数 増加するであろう。その意味において、本書を「頗 る世に稀」*38とし、キリシタン書であるため広く流 布することはなかったとする位置付けは*39、基本的 に事実ではなかったと結論してよいと思われる。
また写本によって標題・巻割りが異なることは、書 写系統の枝分かれが進んでいく過程で段階的に形成 されたもの見てよく、したがって、上の諸本がそれ ぞれどのような位置にあるものかを明確にしたうえ で取り扱っていくためにも、また『乾坤弁説』とい う本の成立と展開を跡づけていくためにも、諸本の 細かな異同に留意して適切な系統付けを施しておく ことが必要である。この書写系統の確定の問題と、そ の分析に基づいた形での新たな批判校訂版の作成が 次の課題として残されているが、それらについては 稿を改めて論じることにしたい。
謝辞
本稿を成すにあたって調査・研究にご協力頂いた 各 所 蔵 機 関 と、 次 の 各 位 に 感 謝 申 上 げ ま す。
Wolfgang Michel、大河内元冬、大島明秀、佐藤賢 一、高橋憲一、日比佳代子(五十音順、敬称略)。
なお本研究は文部科学省科学研究費補助金特定領 域研究(122)「我が国の科学技術黎明期資料の体系化 に関する調査研究(略称:江戸のモノづくり)」、「日 本数学史料の所在調査と総合目録作成(A01−2、代 表:佐藤賢一)」による成果である。
補記
本稿の校正中に「5.現所在不明の写本」で紹介 した栗田本が、個人蔵書として現存しているとの情 報を得た。貴重な情報をご教示頂いたJosé Miguel Pinto dos Santos氏に感謝申し上げます。また、Pinto dos Santos前掲論文(2005年)、p.185も参照のこと。
*1 玄松は後に元升と称し、後者の方が一般的な呼称とし てよく知られているが、本稿では『乾坤弁説』諸写本 の記述にしたがって玄松で統一した。玄松に関する代 表的な研究を挙げると以下の通り。渡辺庫輔「去来と その一族」、去来顕彰会編『向井去来』(去来顕彰会、1954 年)、354−415頁;菰口治「向井元升の『知恥篇』素描
−神道・仏教・キリシタン観−」、『中国哲学論集(九 州大学中国哲学研究会)』第18巻、1993年、54−69頁;
ヴォルフガング・ミヒェル「九州大学蔵の「阿蘭陀伝 外科類方」(阿蘭陀外科正伝)と向井元升について」、『比 較社会文化研究科紀要』第2号、1996年、75−79頁;同
「出島蘭館医ハンス・ユリアーン・ハンコについて」、ハンス・ユリアーン・ハンコについて」、ンス・ユリアーン・ハンコについて」、
『言語文化論究』第7号、1996年、83−96頁;木村�文語文化論究』第7号、1996年、83−96頁;木村�文論究』第7号、1996年、83−96頁;木村�文
「向井元升と『孝経』−連続する「本性」」、『文芸研究』
第149集、2000年、21−33頁;若木太一「向井元升著述 考:東西文化の接触」、『雅俗』第8号、2001年、105−
132頁。なお忠庵(フェレイラ)の事蹟については、チー スリクによる古典的な研究、Hubert Cieslik, “The Case of Christovão Ferreira” , Monumenta Nipponica 29, 1974, pp. 1−54 [邦訳:「クリストヴァン・フェレイ ラの研究」、『キリシタン研究』第26輯、1986年、81−
166頁]を参照のこと。
*2 代表的な研究として、以下のものを挙げておく。大矢 眞一「乾坤弁説の一異本−南蛮運気論」、『科学史研究』
第14号、1950年、35−38頁;今井�「Claviusと乾坤弁�「Claviusと乾坤弁「Claviusと乾坤弁 説」、『日本天文研究会報文』第1巻第4号、1957年、15
−22頁;海老沢有道『南蛮学統の研究:近代日本文化 の系譜』(創文社、1958年)、90−113頁;尾原悟「キリ シタン時代の科学思想:ペドロ・ゴメス著「天球論」
の研究」、『キリシタン研究』第10輯、1965年、101−
178頁;古賀十二郎著・長崎学会編『長崎洋学史』上巻
(長崎文献社、1966年)、232−242頁;伊東俊太郎「ア リストテレスと日本―わが国における西欧的世界像の 最初の受容」、同『文明における科学』(勁草書房、1976 年)、168−237頁(初出『東京大学教養学部教養学科紀 要』第一集、1967年、1−45頁);今井�「�ome�の天�「�ome�の天「�ome�の天 球論とClavius」、『日本天文研究会報文』第3巻、第3号、第3巻、第3号、、第3号、第3号、、 1968年、13−18頁;Shigeru Nakayama, A History of Japanese Astronomy: Chinese Background and Western Impact, Cambridge[MA], Harvard Univ.
Press, 1969, pp. 79-115; Henrique Leitão e José Miguel Pinto dos Santos, “O Kenkon bensetsu e a recepção da cosmologia ocidental no Japão do séc.
XVII” , Revista Portuguesa de filosofia 54, 1998, pp.285-318. なおこれまで提出された原本候補には、
(1)ペドロ・ゴメス『天球論』、(2)クラヴィウス
『サクロボスコ天球論注解』の二書があるが、ゴメス
『天球論』中に明らかにクラヴィウスの影響が見られる こ と に つ い て は、 今 井 前 掲 論 文(1968年 );Ryuji Hiraoka, “Jesuit Cosmological Textbook in ʻthe Christian centuryʼ Japan: De sphaera of Pedro
�ome� (Part I)” , Sciamvs 6, 2005, pp.99−175を参照 のこと。
*3 「乾坤弁説四巻」、国書刊行会編『文明源流叢書』第2巻
(名著刊行会、1914年[1969年再版])、1−100頁。
*4 筆者はすでに『乾坤弁説』を含む南蛮宇宙論関連諸写 本の調査結果を発表しており、本稿はその一部を増補 改訂したものである。平岡隆二「南蛮渡来の宇宙論」、江 戸のモノづくり第3回国際シンポジウム実行委員会編
『近世日本における科学・技術の源流−ガリレオ、レー ウェンフックから一貫斎まで−』([同実行委員会]、2003 年)、173−176頁(ただし編者による謝罪文付の差し込 み原稿として);Ryuji Hiraoka, “The Transmission of Western Cosmology to Sixteenth century Japan” , L.Saraiva and C. Jami (eds.), History of Mathematical Sciences: Portugal and East Asia III (近刊予定).また Pinto dos Santosによる以下の二論文にも、独自の調査 に基づく『乾坤弁説』諸写本のリストがあるので合わ せて参照のこと。José Miguel Pinto dos Santos, “As distâncias dos céus aos infernos na cosmologia Nanban” , Anais de história de além-mar 5, 2004, pp.415-479;同, “The “Kuroda Plot” and the Legacy of Jesuit Scientific Influence in Seventeenth century Japan” , Bulletin of Portuguese/Japanese Studies 10/11, 2005, pp.97-191.
*5 以下、諸本の通し番号と略称を掲げたあとに、『国書総 目録』および中村士・伊藤節子編著『明治前日本天文 暦学・測量の書目辞典』(第一書房、2006年)における 該当本記載の有無を記す(略称はそれぞれ「国書」「書 目」)。書誌の記述においては、冊数の後ろに( )を )を)を 付して各冊中に見られる巻名を列記し、印記は現所蔵 機関のものは省略した。(首目の構成)には、序・凡例 の有無を掲げたが、玄松による序文は、全文を有する ものと、省略したものの二種があり、それぞれ「玄松 序」「玄松略序」と記した。奥書等を引用する際は通行 の字体を用い、合字・略字等は仮名にひらいた。
*6 「乾坤弁説四巻…本叢書に収むる所は、京都帝国大学附 属図書館に於て諸家の珍蔵を蒐集し校訂せられしもの にして、本邦唯一の善本なるを以て、同館の許可を得 て底本となし、更に異本を以て校訂せしものなり」、文 明本、1頁。
*7 ただし、本写本が漢字カタカナ混じり文で書かれるの
に対して、文明本の仮名は全編を通じて平仮名である。
おそらく編集時に変更されたのであろう。なお本論文 で紹介する『乾坤弁説』写本は、[2]神原本・[10][2]神原本・[10]神原本・[10][10]
静嘉本・[11]京大文図B本の一部で変体仮名混じりの[11]京大文図B本の一部で変体仮名混じりの京大文図B本の一部で変体仮名混じりの 草体が用いられている他は、いずれも全編を通じて明明 瞭な楷書体の漢字カタカナ混じり文で書かれている。漢字カタカナ混じり文で書かれている。
*8 さらに同墨書中の「同男爵蔵本南蛮天地論 一名南蛮同墨書中の「同男爵蔵本南蛮天地論 一名南蛮墨書中の「同男爵蔵本南蛮天地論 一名南蛮 運気論 抄出一巻」は、[11]京大文図B本の末尾に合[11]京大文図B本の末尾に合京大文図B本の末尾に合合 綴されたテキストを指すものであろう。詳しくは同写されたテキストを指すものであろう。詳しくは同写 本の書誌情報を参照。
*9 大槻如電著『磐渓追遠展覧会 大槻文庫書目』(大槻如 電、1908年)、27頁参照。
*10 渡辺守邦・後藤憲二編『新編蔵書印譜』(青裳堂書店、
2001年)、336頁。
*11 これはかつては高知県立図書館の山内文庫に架蔵され ていたが、近年土佐山内家宝物資料館に移管された。な。な お請求番号は高知県立図書館架蔵時のものである。。
*12 この奥書以外に、巻末8丁に付された「南蛮天地論一この奥書以外に、巻末8丁に付された「南蛮天地論一以外に、巻末8丁に付された「南蛮天地論一 名南蛮運気論抄出」の奥書もあるので以下に記してお く::「原本�/南蛮運気論以松平甲斐守之写本書之/時「原本�/南蛮運気論以松平甲斐守之写本書之/時「原本�/南蛮運気論以松平甲斐守之写本書之/時 寛文十年十月十二日/杉氏貞菴識[以上本奥書]/余 ガ所蔵ノ乾坤弁説貞巻星部ニ目録アツテ本文ハ欠ケタ リ。三上/義夫此一冊ヲ余ニ寄贈シテ其ノ欠ヲ補フ。然 レドモ本文アツテ弁/説ナシ。且ツ二十九号ハ尚欠文 ナリ。十洲居士識[以上書写奥書]/[77オ]明治 四十四年七月男爵細川潤次郎氏蔵本ヲ謄写ス」76ウ−
77オ。
*13 海老沢有道は、かつて「西吉兵衛は…彼自ら右[=乾 坤弁説]の異本『天文沙汰弁解』京都大学国史研究室 蔵を遺している…」(海老沢前掲書、108頁)と述べ、同海老沢前掲書、108頁)と述べ、同前掲書、108頁)と述べ、同 本が西個人の作であると理解しているようであるが、
その根拠は本写本には見出されず不明である。西吉兵 衛(玄甫。?−1684)については、「長崎通詞由緒書」、
長崎県史編纂委員会編『長崎県史 史料編 第四』(長 崎県、1965年)、819頁;片桐一男「阿蘭陀通詞西吉兵 衛父子について:南蛮・阿蘭陀通詞と医学兼修・教授」、
箭内健次編『鎖国日本と国際交流』下巻(吉川弘文館、
1988年)、197−217頁参照。
*14 なお富士川は大槻如電(1845〜1931)と交友関係にあっ た。大槻如電『新撰洋学史年表』(柏林社書店、1963年)、
5頁、「[1623年ドイツで刊行された万国地誌を]富士川 医博、独逸游学中ウルムといふ地の古本店に於て獲た りとて余に贈らる、今は大槻文庫貴重品なり」。
*15 大矢眞一「乾坤弁説の異本」、『科学史研究』第17号、
1951年、25−27頁;海野一隆「江戸時代における『二 儀略説』の流布」、同『東洋地理学史研究』(清文堂、2005
年)、48−61頁(初出『科学史研究』第38巻、1999年、
93−98頁)を参照。
*16 海野前掲書、54−55頁。
*17 さらにその左肩には「柳篭利入」と墨書した貼紙が付 されている。
*18 書誌情報は以下の通り。請求番号:618・619、二冊、袋 綴、25.6×17.3cm、外題「南蛮運気論」乾・坤、内題 なし、各冊46・48丁、毎半葉9行、印記「大河内」方・
陽・朱。
*19 請求番号:539、一冊、仮綴、28.2×20.8cm、外題「南 蛮運気論図絵」、内題なし、全11丁。新村出はかつてこ の写本について「…此袋の中には「顕偽録」と共に「南 蛮運気論図譜」(本文九枚半、表紙とも十一枚)と題す る写本が収められ、其れにも更に別に袋が有つて、袋 の上に「御封、南蛮伴天連ころびの書物」と書かれて ゐる」と記しているが、袋の現存は確認できなかった。
与謝野寛他編纂・校訂『日本古典全集第二回:ぎやど ぺかどる下巻・妙貞問答・破提宇子・顕偽録』(日本古 典全集刊行会、1927年)、5−6頁参照。なおその近代転 写本が日本学士院(請求番号:6939)・九州大学附属図 書館桑木文庫(請求番号:1662)・国立天文台三鷹図書 室(請求番号:天文・暦書462)にそれぞれ架蔵されて いる。
*20 三上義夫「松平甲斐守輝綱の数学上の事蹟並に三州吉 田(豊橋)の数学」、『東京物理学校雑誌』第517号、1934 年、532−535頁;同第518号、1935年、11−15頁;福井 久蔵『諸大名の学術と文芸の研究』(厚生閣、1937年)、
319−320頁。
*21 福井前掲書、256−250および314頁;『川越市史』第三 巻近世編(川越市、1983年)、224−232頁参照。なお国 文学研究資料館史料館・三河国吉田大河内家文書にも、
輝綱に関する史料が多く残されている。たとえば『大 河内本島原乱記』(請求記号:95番);『哥并阿蘭陀字』
(請求記号:310番)を参照。
*22 奥書「南蛮運気論以松平甲斐守之写本書之。時寛文十 年十月十二日。杉氏貞菴識」。これとほぼ同じ奥書を有 する『南蛮運気論』写本には以下のものがある:天理 図書館本(二冊、外題「天文秘書 天文運気論」、請求 記号:440 /イ13 / 44−45);神戸市立博物館秋岡コ レクション本(一冊、扉題「天文秘書 天文運気論」、
請求番号:天文暦学関係書4番)。なお同書の学士院本番号:天文暦学関係書4番)。なお同書の学士院本号:天文暦学関係書4番)。なお同書の学士院本
(二冊、請求番号:6938番)番号:6938番)号:6938番)・・・[11]京大文図B本(上述)[11]京大文図B本(上述)[11]京大文図B本(上述)[11]京大文図B本(上述)京大文図B本(上述)
は、その書写奥書から、明らかに近代の転写本である。
Hiraoka前掲論文(近刊予定)参照。
*23 『御軍法智光院様御自筆共入ル其外被仰付候書付共も 入候』(請求番号:885−902番)と墨書された袋に含ま番号:885−902番)と墨書された袋に含ま号:885−902番)と墨書された袋に含ま
れる文書中の一紙で、計11枚の断簡が貼り込められて いる。袋の表面には以下の墨書も見られる:「御筆之分
/…一、晝夜行天ト書出シ 一枚…/一回三百六十四 度御書出 一枚…」「延宝三年[横に「寛文九年」と記 し線で消す]/被 仰付候上覧之分/…一、儀礼集傳
/天之性情ト書出シ 二枚…」「此一袋只今迄六番御長 持ニ/入来候処甚朽候ニ付此度裏/打仕一番御長持江 入置/明和元年七月廿二日/新藤右兵衛…」。
*24 なお、他の貼り込み断簡には、『素問入式運気論奥』巻 上からの引用と思しき「晝夜行天之十三度有奇者謂復 行一度之中作十/…行疾速終以二十七…/九日 計行 天三百八十七度有奇計月行疾之数/比日行遲之數則 二 十 九 日 日 方 行 天 二 十 九 度 月 / 巳 先 行 一 周 天 三百六十五度外又行天之二十二度/反少七度而不及日 也」や、さらに「儀禮集傳/天之形状似鳥卵、天包地 外 / 天 半 覆 地 上 半 在 地 下、 其 天 / 居 地 上 見 者 一百八十二度半/強、地下亦然、其南北極持其両端/
夏至日北去極六十七度、春/秋分去極九十一度、冬至 去極/一百一十五度、此其大率也/其天與日月星宿廻 轉天行健、故/一日行一周天而又踰一度、日/行一度 月行十三度十九分度之七」なる記述が見え、輝綱は漢 籍中の日月の運行や�天説に関する記述を探っていた。日月の運行や�天説に関する記述を探っていた。�天説に関する記述を探っていた。
また輝綱自筆と伝えられるポルトラーノ海図が現存し ているが、筆者は未見。中村拓『御朱印船航海図』(日 本学術振興会、1965年)、53−54頁および145頁以降;
海野一隆「「日本カルタ」の出現と停滞」、同『東西地 図文化交渉史研究』(清文堂、2003年)、274−276頁参照。
なお大河内家文書の『書籍目録』(請求番号:378・379)
の一丁裏には「仁義略説 完」なる書名が見え、南蛮 宇宙論書の一種である『二儀略説』を想起させ興味深 いが、その現存は確認できなかった。
*25 原城から出土したメダイにも同じ文言が見える。『原城 跡』南有馬町文化財調査報告書第2集(長崎県南有馬町 教育委員会、1996年)、71−73頁。
*26 和算史家の三上義夫と、当時大河内家文書の所蔵者で 元東京帝大教授・理研所長の大河内正敏(1878−1952)・理研所長の大河内正敏(1878−1952)理研所長の大河内正敏(1878−1952)(1878−1952)−1952)1952)
との関係については、三上前掲論文参照。
*27 この鉛筆書きは、九州帝国大学教授で物理学者の伊藤 徳之助(1894−1961)寄贈本に付されるものであるた め、後に何らかの経緯で桑木文庫に編入されたのであ ろう。
*28 彰考館文庫員纂補『彰考館図書目録 附・焼失目録』
(八潮書店、1977年)、674頁。
*29 東京科学博物館編『江戸時代の科学』(名著刊行会、1976 年)、70頁。
*30 尾島と礫川堂文庫については、中村士「江戸後期幕府
天文方と地方天文学者の交流:加越地方の事例から」、
『東洋研究』第147号(大東文化大学東洋研究所、2003 年)、57−62頁;国立国会図書館編集『日本の暦−国立 国会図書館所蔵個人文庫展その3−展示会目録』(国立 国会図書館、1984年)、57頁を参照。
*31 栗田元次編『栗田文庫善本書目』(中文館書店、1940年)、
144−145頁。また栗田元次「焼亡せる家蔵史料」、『史 学研究』第7巻第2号、1935年、206−238頁も参照。
*32 大崎正次編『天文方関係史料』(私家版、1971年)、109 頁。
*33 海老沢前掲書、112頁。
*34 平岡隆二・日比佳代子「史料紹介 細井広沢編『測量 秘言』」、『科学史研究』第43巻、2004年、94−105頁、特 に96頁参照。
*35 『盧氏文書 上・下』、九州大学附属図書館記録資料館 九州文化史資料部門・古賀文庫蔵(請求番号:37・38 番)、下巻、10オ。
*36 平岡・日比前掲論文、96頁。
*37 盧驥著『先民傳』(原三右衛門校、文政二年刊記)、下巻 17ウ。
*38 文明本「緒言」、2頁。
*39 Nakayama前掲書、100頁。