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室町時代の九州の文書

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

室町時代の九州の文書

佐伯, 弘次

九州大学大学院人文科学研究院歴史学部門

https://doi.org/10.15017/4372122

出版情報:史淵. 158, pp.1-26, 2021-03-07. 九州大学大学院人文科学研究院歴史学部門 バージョン:

権利関係:

(2)

室町時代の九州の文書

佐    伯    弘    次

はじめに

明治期にヨーロッパ史学の影響を受けて始まった日本の古文書学は、まず、様式論的な研究が進展し、精緻なた

。その様式論を基盤にして、文書の機能の重要性を主張する機能論が提され

((

、今日に至っている。こうした古文書学の主たる対象は中世文書であるが、今日体系化されているのは、央の文書、すなわち幕府文書や朝廷文書が主である。とくに幕府文書は残存数が多いこともあって研究が進み、

一方、地方の中世文書については、史料調査が進み、史料集が多く刊行され、研究上便利になったが、その史

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二 方文書の体系的整理を行い、それが中央の幕府・朝廷文書の体系とどのように関係するのかということを明確にし、中世古文書学の深化を図る必要がある。また、都道府県史・市町村史等のいわゆる地域史の編纂・刊行は、史料の調査・研究・刊行を大いに進展させた。主としてその核となったのが、地域史の編纂室や地域博物館・資料館である。こうした動向は、幕府・朝廷文書のみならず、地方文書の研究の進展に大いに寄与している。本稿は、以上のような問題関心のもと、室町時代の九州の文書を素材として史料的な検討を行う。九州は、中世文書の宝庫として知られ、『九州史料叢書』の刊行等によって、早くから調査・研究と史料集刊行が進んでいる地域である

。その後、とくに県史やそれに類する県レベルの史料集が刊行され、史料の刊行と歴史研究が進展した。後述するように、佐賀県・大分県・熊本県・宮崎県・鹿児島県で網羅的な中世史料集の刊行が行われている。鎌倉時代に関しては、膨大な史料集『鎌倉遺文

』が刊行され、鎌倉時代の研究が進展した。また、九州の鎌倉・南北朝期に関しては、文書目録が刊行され

、南北朝期に関しては、網羅的な史料集

が刊行された。戦国大名に関しては、大友氏を中心に関係史料集

が刊行されている。しかし、室町時代の文書に関しては、史料集の刊行はおろか、研究の対象となることが少ないのが現状である。本稿では、こうした現状に鑑み、まず九州の室町時代の文書の全体的把握を行い、他時代と比べた特徴や地域別の残存状況を検討し、その歴史的背景について考察することとする。本論に入る前に、本論で使用する時期区分について言及しておきたい。鎌倉時代の開始=鎌倉幕府の成立については諸説あるが、近年、鎌倉幕府の成立に関しては、文治元年(一九八五)の守護・地頭の設置に求める考え方が有力である。『鎌倉遺文』の採録文書も同年から始まっている。鎌倉時代の終わりは、正慶二年(元弘三年・

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三 一三三三)五月の鎌倉幕府の滅亡である。ここでは、正慶二年までを便宜上、鎌倉時代とする。鎌倉時代は、文治元年(一一八五)から正慶二年(一三三三)までの一四九年間とする。元弘三年(一三三三)六月、後醍醐天皇による建武政権が成立する。後醍醐天皇は、建武三年(一三三六)五月、足利尊氏によって比叡山に逐われ、十月に尊氏と和睦した。こうして建武政権は崩壊した。同年十二月、後醍醐天皇は吉野に逃れ、ここに朝廷を開いた。南朝の成立である。従って、広義の南北朝時代の始まりは、鎌倉幕府滅亡後の建武政権の成立であり、狭義の始まりは、建武三年十二月の南朝の成立である。南北朝時代の終焉=南北朝の合一は、南朝の後亀山天皇が京都で北朝の後小松天皇に三種の神器を渡した明徳三年・元中九年(一三九二)閏十月である。本稿では、建武元年(一三三四)から明徳三年・元中九年(一三九二)までの五九年間を便宜上、南北朝時代として取り扱う。室町時代の開始は、南北朝合一の明徳三年閏十月である。室町時代と戦国時代の境目をどこに設定するかは、見解が分かれるところである。ここでは、応仁元年(一四六七)正月に起こった応仁の乱を戦国時代の始まりとする。明徳四年(一三九三)から文正元年(一四六六)までの七四年間を便宜上、室町時代とする。戦国時代の終焉は、一般的には天正十九年(一五九一)九月の豊臣秀吉による天下統一に求められる。しかし、今回は九州をフィールドとするため、豊臣政権と九州との関係が重要な指標となる。九州が秀吉の勢力下に入ったのは、天正十五年(一五八七)五月の島津氏の秀吉への降伏である。これによって九州は平定された。その直後の同年六月七日、筑前箱崎において、秀吉は九州の国分けを実行した。九州地方の大名の領土配分を実施したのであり、これを九州の戦国時代の終焉=近世の開始と考えたい。従って本稿では、応仁元年(一四六七)から天正十五年(一五八七)までの一二一年間を戦国時代と便宜上規定する。以下、各時期の区分はこれによる。

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以下では、時代毎の文書数を数えるが、書状などの無年号文書の計算が難しい。編年主義といった史料集の編集方針等も加味して、適宜時期判定を行った。無年号文書に関しては、大半は史料集の年次比定に従ったが、一部筆者の判断で比定をしたものもある。従って、数値自体は不正確さを免れないが、時代別文書数の大まかな傾向がつかめればいいと考えている。また、各時代に期間の長短があるので、文書数を時代別に比較しても余り意味はない。時代別の文書数を時代の年数で割り、年平均値を出した上で、その数値を比較することが妥当なあり方であろう。

一  現存する九州の室町時代文書

(一)問題の発端

いくつかの中世九州の家文書を見ていると、文書の残存状況に関して気になることがある。それは、鎌倉・南北朝時代の文書は多いのに、室町時代になると急激に文書が減少する家文書があることである。例えば、九州大学所蔵来島文書

は、松浦党大島氏の家文書で、「非松浦党の松浦党化」の事例として知られる。中世文書は三八通あるが、鎌倉期一〇通、南北朝期二四通、室町期三通、戦国期一通である。鎌倉・南北朝期に偏重し、とくに南北朝期に多いことが分かる。この傾向が、来島文書のみに言えることかどうかが鍵になる。同じ松浦党関係文書である有浦文書

はどうか。鎌倉期三三通、南北朝期一一七通、室町期一二通、戦国期二八通、計一九〇通である。来島文書ほど極端ではないが、室町・戦国期の文書が少ない点は共通している。松浦党関係の家文書の特徴は、

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五 鎌倉・南北朝期が多く、室町・戦国期が少ないという共通項があることがわかる。一般的には、時代が下るほど、文書発給数が多く、残存数も多いと考えられるのであるが、松浦党関係文書はその想定とは逆の結果となっているのである。これは松浦党関係文書のみの特徴なのか、そうではなく一般的な傾向なのかということが問題となる。深堀文書は、鎌倉期に上総国から肥前国彼杵郡戸町浦(現長崎市)に移住した御家人深堀氏の家文書 (1

である。文書の内訳は、鎌倉期一〇四通、南北朝期二五六通、室町期一一通、戦国期七通、計三七八通である。一見して松浦党関係文書の残存傾向と一致する。以上の文書は、全て肥前国内の武家の家文書であるから、こうした傾向は、肥前国内の武家文書の特徴であることも考えられる。こうした文書の例を参照して、九州全体の中世文書について考えてみたい。その前提として、全国の動向を確認する必要がある。しかし、全国の中世文書を網羅した(網羅しようとした)既刊史料集は『鎌倉遺文』しかない。ただし、東京大学史料編纂所のデータベース「日本古文書ユニオンカタログ」は、「日本列島上で作成された古文書の網羅をめざし」「平安時代から安土桃山時代(

(~

((世紀)が中心」となるデータベースである ((

。このデータベースが古代中世の古文書について最も網羅的に採録しているものと考えられる。このデータベースから、先に示した時代区分で古文書の点数と年平均の点数を出したものが、表

均値が全体平均値近くに減少し、戦国時代には若干増加し、全体平均値とほぼ同数 均値は、二四・二七点である。南北朝時代に文書数が激増し、室町時代には、年平 これによると、全体の文書数(九七七九点)を年数(四〇三年)で割った全体平 (である。

表1 日本古文書ユニオンカタログ中の 時代別文書数

時代 点数 年平均

鎌 倉 ((0( ((.((

南北朝 (((( ((.((

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になる。時代が下るに従って文書数が増加するのではなく、とくに南北朝時代の文書数が最も多く、全体平均値の二倍の平均値であることが特徴であることを確認しておきたい。南北朝期を除くと、鎌倉期・室町期・戦国期と年代増加型となっている。これが日本全体の傾向か否かは断定できないが、全国的規模で作られたデータベースであるため、重要なデータとして位置づけたい。

二  九州の中世文書の数量的推移

次に、九州地方の中世文書の数量的推移について、具体的に考察する。先に示したように、個別の家文書では、家独自の個性や歴史に左右されて、文書の数量的推移が特殊な傾向になることも考えられる。これを是正するためには、ある程度広域に集計・整理することで、各家文書の個別性・特殊性が平均化され、大きな傾向性が浮かび上がるものと考えられる。また、鎌倉・南北朝期のような便利な文書目録や史料集は、室町・戦国期については作成されていない。従って、九州全体で統計を取ることは困難である。まず九州全体ではなく、ある程度広域な地域ごとに検討することが現実的である。よって、九州全体ではなく、地域別に数量的推移について検討する。その地域とは、旧国別に整理することが妥当だと思われる。しかし、旧国別に網羅的に文書数や目録・史料を整理したものは稀少であり、むしろ県別に中世文書を網羅的に収集した史料集は多く刊行されている。こうした事情により、既刊の県別史料集を素材として、県別に中世文書の数量的変化を追求したい。

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七 (一)福岡県福岡県は、筑前・筑後と豊前の一部からなっており、多くの中世文書が残存している。しかし、福岡県に関しては、網羅的な中世文書史料集が刊行されていない。ただ、自治体別に中世文書集を刊行したり、所蔵機関毎に史料集が刊行されているものがある。それらの中で、福岡県内で最も多い中世文書を所蔵する太宰府天満宮は、『大宰府・太宰府天満宮史料』全十九巻 (1

を刊行しており、県内で最大の中世文書史料集となっている。県単位の整理に代えて、この太宰府天満宮関係文書を素材に、その数量的推移を追ってみたい。本史料集には、太宰府天満宮所蔵・関係文書以外に、他家の文書や記録類・歴史書等の史料が多く含まれている。ここでは、太宰府天満宮文書・大鳥居文書・小鳥居文書・満盛院文書・上座坊文書・西高辻文書・松大路文書等の神社および社家文書に限定する。さらに青柳種信資料等にある天満宮文書の近世写本所収文書は、本来神社に存在した文書であるので、これらを加えて数量を数えた。また、有年号文書や年代比定文書の他、書状等の無年号文書も多い。有年号や年代比定文書については、先の年代区分の原則に則って分類した。無年号文書については、発給者等により、時期を判断した。その結果、時代毎の文書数を示したのが、表2である。これによると、全体の年平均値は、一・九八である。鎌倉期の文書が僅少である。南北朝期に文書が急増し、全体平均値を超える。室町期には年平均値より少なくなり、南北朝期の約半分に減少する。戦国期に文書が再び増加し、全体平均値の二倍

表2 太宰府天満宮関係文書の時代別 文書数

時代 点数 年平均

鎌 倉 (( 0.((

南北朝 ((( (.((

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以上となり、時代別では最多となる。一般的に荘園経営が危機に瀕する戦国期においても、社領の経営努力がなされ、かつ戦国大名や地域の領主層等の厚い保護があり、文書が増加したのであろうか。

(二)佐賀県

佐賀県は、長崎県の一部とともに肥前国を形成した。佐賀県では、『佐賀県史料集成古文書編』全三十巻 (1

が刊行され、中世文書に関してはほぼ網羅的に刊行されたことになる。同じ肥前国でも、両県を比較すると、佐賀県の方が文書の残存度が高い。もっとも、現在佐賀県下にある深堀文書や深江文書は、中世においては肥前の長崎県側に存在した。佐賀県には、河上神社文書・実相院文書・武雄神社文書・高城寺文書・龍造寺文書・深堀文書・深江文書・光浄寺文書・横岳家文書・田尻家文書・鶴田家文書・多久家文書・橘中村文書・有浦家文書等々、百通を超す家文書が多い。まさに中世文書の宝庫である。『佐賀県史料集成古文書編』の中の中世文書を時代別に整理すると表3のようになる。これによると、全体平均値は、九・二七である。鎌倉期の文書も比較的多いのであるが、南北朝期に文書数が急増し、全体平均値の約二倍となる。この南北朝期が最も多い。しかし、室町期には急減し、全体平均値の三分の一以下に減少する。戦国期になると、数は急増し、全体平均値以上になる。先の松浦党関係文書や深堀文書と比較すると、南北朝期が多く、室町期に減少する点は共通しているが、戦国期の状況が異

表3 『佐賀県史料集成』の時代別文書数

時代 点数 年平均

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南北朝 (0(( ((.((

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戦 国 (((( ((.((

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九 なっている。すなわち、松浦党関係文書は、戦国期も少ないのに対し、『佐賀県史料集成古文書編』の集計では、むしろ戦国期の方が全体平均値より多くなっている。これは、戦国時代の肥前では、佐賀を拠点として龍造寺氏が台頭し、とくに戦国末期には戦国大名化し、国外にも勢力を拡大していくことが大きな要因と考えられる。佐賀県の中世文書の数量的傾向は、南北朝期と戦国期の二つのピークがあり、南北朝期が最も多いというパターンである。(三)長崎県長崎県は、肥前国の一部と壱岐国・対馬国からなる。県の網羅的な史料集の刊行は行われていない。長崎県下では、中世文書の残存の度合いが高い地域と低い地域がある。高いのは松浦地方と対馬である。松浦地方は、佐賀県の北部沿岸地域とともに、松浦党の本拠地である。松浦党関係文書の中では、五島の青方文書 (1

が最も点数が多い。松浦党関係文書を代表する文書である。青方文書全四四二通(中世分)を時代別に集計すると、表4のようになる。これによると、全体平均値は一・〇五である。文書数では鎌倉期が多いが、年平均値は、南北朝期が最も多い。室町期になると減少し、戦国期は〇・〇二と極端に少ない。戦国期における特徴的な事情があると思われる。先に示した松浦党関係文書の傾向と同一である。対馬は古文書の宝庫とされるが、中世文書が多く残る地域である (1

。中でも「宗家御

表4 青方文書の時代別文書数

時代 点数 年平均

鎌 倉 ((( (.((

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室 町 (( 0.(0

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一〇 判物写 (1

」は、江戸時代に対馬藩が数次にわたって書き上げた古文書の写しで、多くの中世文書を収録している。この「宗家御判物写」は、長崎県立対馬歴史民俗資料館宗家文庫、韓国国史編纂委員会対馬島宗家文書、九州大学附属図書館付設記録資料館等に写本があるが、中核的史料である宗家文庫本については、編年文書目録 (1

が刊行されている。これによって、中世分を整理したのが表5である。まず、五千点を超えるという文書数の多さが注目される。一国とはいえ、面積的には狭い領域で、このように文書数が多いことは驚異的である。全体平均値は、一三・〇四である。この数値は、『大分県史料』に次ぐものである。鎌倉期の文書は極端に少ないが、時期が下るに従って文書数が増加し、年平均値が上昇する。中世文書残存の一つの典型的パターンと言うことができる。とくに戦国期の平均値が三六・九六と高く、全体平均値の三倍近い数値である。この時期の残存度が極めて高い。南北朝期の文書が多いのが一般的な中、対馬では、南北朝期に数は増えるものの、他地域ほどの増加が見られない。他地域に多い着到状・軍忠状といった軍事関係文書も少なく、この時期、対馬の文書体系が九州本土とはかなり隔絶していたことを示している。南北朝期以来、守護・地頭の少弐氏に代わって、地頭代宗氏が島主として台頭し、守護大名・戦国大名となり、近世には藩主として君臨するという他地域にはあまりない歴史の展開をたどる。権力者の変化のなさ、つまり政治的環境の安定がこうした傾向を惹起したものと考えられる。また戦国期に文書が急増することは、宗貞国以降、発給文書が増え、とくに戦国後期の島主宗晴康・義調父子の時期に多くの文書が出されたことによって、領国支

表5 「宗家御判物写」の時代別文書数

時代 点数 年平均

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一一 配が進展したためであろう。(四)大分県 分県は、豊後国と豊前国の一部からなる。同県では、県内の中世文書を網羅した史料集として、『大分県史料』全三十七巻 (1

がある。基本的に家別に編年の史料集であり、無年号文書にもその方針が貫かれている。中には近世史料やキリシタン史料も収録されている。中世文書は、第一期に当たる第一巻から十三巻までに収められているが、その後、二十四~二十六巻、二十九巻、三十巻、三十五巻に中世文書の補遺が収録されている。また、第三十一巻~三十四巻には「大友家文書録」が、第三十六巻には「豊後国図田帳」「豊後国田代注進状案」が収録されている。これらのうち、「大友家文書録」は近世に成立した大友氏関係の史料集であり、「豊後国図田帳」「豊後国田代注進状案」は性格が異なるので、集計から除外する。また、第三十巻に収録されている「宮内庁書陵部八幡宮関係文書」も除外する。以上のことを前提に、文書数を計算したものが、表6である。一万点に近い文書の多さが注目される。全体平均値は、二二・六七である。時代的には南北朝期と戦国期が多い。南北朝期の年平均値は全体平均値に近いが、戦国期の年平均値は四六・一四と、全体の約二倍の数である。室町期は、全体平均値より低い。戦国期の平均値が最も多いのは、豊後が戦国大名大友氏の本国であり、大友氏によって多くの文書が発給されたためと宇佐宮関係文書も戦国期に最も多くなるためであろう。南北朝期と戦国期という二つのピークがあり、佐賀県と異なり、戦国期が最多と

表6 『大分県史料』の時代別文書数

時代 点数 年平均

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一二 いうパターンである。『大分県史料』所収中世文書の半分近くが豊前国の宇佐宮関係文書である。宇佐宮関係文書として、到津文書・永弘文書・小山田文書・乙咩文書・金光文書・宮成文書・益永文書など、社家の文書も多く収録されている。宇佐宮関係文書を収録する第一巻~七巻、二十四巻、二十九巻、三十巻の文書を整理したものが表7である。一神社としての文書数の多さがまず注目される。全体平均値は、一〇・九〇である。時代別の傾向は、時代が下るに従って文書数が増加するという点が大きな特徴である。また戦国期の年平均値は、全体平均値の約二倍という多さであり、この時代にとくに増加していることも特徴である。この二傾向は、対馬の文書の傾向と似ており、先に示した大分県下の全体的傾向と一致しない。第二十六巻には、大名家の大友氏の家文書が収録されている。全国的にも珍しい中世の守護家の家文書である。これを整理したのが表8である。大友家文書には、偽文書の存在が知られているが (1

、これも含めて集計した。これによると、全体平均値は、〇・八一である。南北朝期の年平均値二・〇五が最も多く、戦国期がこれに次ぐ。室町期は〇・二二と最も少なく、全体平均値の約四分の一であり、鎌倉期の平均値より少ない。かなり特徴的な文書の残存状況と言える。室町幕府守護家の家文書に室町時代の文書が少ない点は意外である。

表7 宇佐宮関係文書の時代別文書数

時代 点数 年平均

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表8 大友家文書の時代別文書数

時代 点数 年平均

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一三 (五)熊本県熊本県は肥後国からなる。県単位の網羅的史料集として、『熊本県史料中世篇』全五巻 11

が刊行されている。凡例に「各諸家文書は、成巻・非成巻を問わず、原則としてすべて年代順とし、無年号文書もほぼ年代を推して挿入した」とあるように、『大分県史料』と同様、家別に編年主義による文書配列がなされている。第一巻から四巻までは、地域ごとに県内の中世文書が収録されている。第五巻は県外文書であり、筑後五条家文書等が収録されている。なお、『大日本古文書』に収録されている阿蘇文書・相良家文書は県史料に収録されていない。第五巻を除いた中世文書数を表9に示した。全体平均値は、四・九七である。鎌倉期は少ないが、南北朝期に六・一七と文書数が増え、全体平均値を超える。室町期には三・二三と減少し、全体平均値より低くなる。戦国期に、九・五四と増加に転じ、全体平均値の約二倍という数値になり、最多となる。つまり、南北朝期と戦国期という二つのピークがあり、戦国期が最多というパターンである。次に、『大日本古文書』に収録されている阿蘇文書 1(

についてみてみよう。この

録されている。これらの文書を集計したのが表 蘇家文書・西巌殿寺文書・健軍神社文書・満願寺文書が収 (冊の史料集には、阿蘇神社文書・阿

(0である。

表9 『熊本県史料中世篇』の時代別文書数

時代 点数 年平均

鎌 倉 ((( (.((

南北朝 ((( (.((

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表10 阿蘇文書の時代別文書数

時代 点数 年平均

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戦 国 ((( (.((

合計 (((( (.((

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一四 全体平均値は、三・三六である。南北朝期が一〇・四四と圧倒的に多いことが特徴である。南朝文書が多いことで知られる阿蘇文書であるが、そのことを裏付ける数値である。鎌倉期は少ないが、室町期は全体平均値以下で、戦国期に増加し、ほぼ全体平均値となる。南北朝期と戦国期に二つのピークがあり、南北朝期が最多である。南北朝期突出型とも言えるほど、南北朝期の文書が多い。『大日本古文書』に収録される相良家文書 11

は、西遷御家人相良氏の家文書である。肥後国人吉に下向し、そこで定着して、戦国期には戦国大名に成長するとされる。この文書を整理したのが表

家文書のデータを加えて整理したのが表 先の『熊本県史料中世篇』のデータに、阿蘇文書・相良 パターンである。 期が四・一二と最も多く、全体平均値の二倍以上ある。南北朝期と戦国期にピークがあり、戦国期が最多という 全体平均値は一・七九である。鎌倉期は少なく、南北朝期に増加し、室町期は〇・二〇と極端に少ない。戦国 ((である

加えると、二つのピークは変わらないが、南北朝期が最多 あり、戦国期が最多であったが、阿蘇文書と相良家文書を 篇』のみの集計では、南北朝期と戦国期の二つのピークが び増加し、全体平均値の一・六倍となる。『熊本県史料中世 期には六・三一と全体平均値の六割に減少し、戦国期に再 朝期に一九・〇三と全体平均値の約二倍に激増する。室町 全体平均値は一〇・一二である。鎌倉期は少なく、南北 ((である。

表11 相良家文書の時代別文書数

時代 点数 年平均

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表12 熊本県の中世文書の時代別文書数

時代 点数 年平均

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一五 となる。南北朝期の文書が極めて多い阿蘇文書が、最多時期を逆転させたのである。(六)宮崎県宮崎県は日向国からなる。網羅的な中世史料集として、『宮崎県史史料編中世』全二巻 11

が刊行されている。第一巻は県内文書を収録する。第二巻は県外文書であるが、県内文書の補遺も収録する。第一巻所収文書と第二巻の県内文書補遺を合わせて表

と考えられる。 期の年平均値が、全体平均値をさほど上回らないのは、こうした歴史的背景がある 日向は、伊東氏と島津氏の抗争の場となり、政治的に不安定な時期が続いた。戦国 ピークがあるが、南北朝期に文書数が最多になるというパターンである。戦国期の 値を上回る程度に増加する。最も年平均値が高いのは南北朝期であり、全体平均値の約二倍の数である。二つの 全体平均値は一・九七である。南北朝期に四・二五と文書数が増加し、室町期に減少する。戦国期に全体平均 ((を作成した。

(七)鹿児島県

鹿児島県は、薩摩国と大隅国からなる。多くの史料集が刊行されているが、『鹿児島県史料』は現在刊行中の網羅的中世文書史料集である。ここでは、同史料に収録されている編年史料集である「旧記雑録前編 11

」、「旧記雑録後編 11

」を便宜的に素材として整理した。これによって、文書数を集計したのが表

((である。

表13 『宮崎県史史料編中世』の時代別 文書数

時代 点数 年平均

鎌 倉 ((( 0.((

南北朝 ((( (.((

室 町 ((( (.((

戦 国 (00 (.((

((( (.((

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一六 全体平均値は一二・二四である。鎌倉期も比較的多いが、南北朝期に年平均値が二〇・二〇と全体平均値の二倍近くに増加し、最も高くなる。室町期に九・三九と減少し、全体平均値より下回る。戦国期には再び増加し、全体平均値とほぼ同じ数値となる。南北朝期と戦国期の二つのピークがあり、南北朝期が最多というパターンである。ここで、点数が多い武家文書について、同様の検討をしてみよう。まず薩摩国入来院に拠点を置く御家人渋谷氏の家文書入来文書 11

である。入来院家文書・岡本家文書・寺尾家文書・庶流入来院家文書・田中家文書・「清色亀鑑」・入来関係文書(「旧記雑録」)・「祁答院旧記」からなる。これらの文書から、中世文書を集計すると、表

今ひとつは、大隅の国人祢寢氏の家文書・祢寢文書 11 向に似ている。 戦国と減少するというパターンで、松浦党関係文書の傾 る。鎌倉・南北朝期に多く、南北朝期が最多で、室町・ し、戦国期はさらに減少し、全体平均値の半分以下にな 全体平均値の三倍近くとなる。室町期は〇・八〇と減少 に近く、多いと言わざるをえない。南北朝期に急増し、 全体平均値は、一・〇九である。鎌倉期は全体平均値 ようになる。 ((の

である。祢寢文書は、各所に所蔵される祢寢文書の原本や影写本、「祢寢氏正統世録系譜」等の編纂史料、池端文

表14 「旧記雑録」所収中世文書の時代 別文書数

時代 点数 年平均

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南北朝 (((( (0.(0

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表15 入来文書の時代別文書数

時代 点数 年平均

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南北朝 ((( (.((

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戦 国 (( 0.((

((( (.0(

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一七 書・坂口文書・鳥浜文書等の一族の文書からなっている。それらの中から中世文書を集計したのが表 ある。 異なる状況を呈することが判明した。その差異の理由については、今後の検討課題で ともかく、島津氏を主体とした史料集「旧記雑録」と、有力国人の家文書は、全く 位置づけるべきか否かは慎重に検討しなければならない。 る。この傾向は、入来文書と共通するものである。南九州国人に典型的なパターンと 倍以上になる。室町期は〇・八六と急激に減少し、戦国期は〇・四一とさらに減少す 全体平均値は、二・〇七である。鎌倉期はこれを上回り、南北朝期は六・三二と三 ((である。

三  総括

(一)文書残存の傾向

以上、地域(県)ごとに残存する中世文書の数と年平均値の特徴を概観してきた。以上の検討によって、いくつかにパターン化されることが分かった。①  二ピーク南北朝期最多型南北朝期と戦国期の二つのピークがあり、南北朝期の数値の方が高いというパターンである。佐賀県・大友文 表16 祢寢文書の時代別文書数

時代 点数 年平均

鎌 倉 ((( (.((

南北朝 ((( (.((

室 町 (( 0.((

戦 国 (0 0.((

((( (.0(

(19)

一八

書・熊本県・宮崎県・「旧記雑録」がこれに該当する。この四つに共通する地域的特性は看取できないので、偶然性が高いと考えられる。ともかく南北朝期に多くの文書が発給され、多く残存したという共通性しか、現時点では指摘できない。②二ピーク戦国期最多型①と同様に、南北朝期と戦国期が多いが、戦国期の数値の方が高いというパターンである。太宰府天満宮・大分県・『熊本県史料』がこれに該当する。①と同様、この三者に共通する性格は見てとれない。ともかく戦国期に多くの文書が発給され、残存したということである。③単純増加型時代が下がるに従って、文書数や年平均値が増加するというパターンである。このパターンが一般的かと予想したが、対馬と宇佐宮しかなく、中世文書のあり方としてはむしろ例外的であるといえる。④鎌倉・南北朝期集中型鎌倉期と南北朝期に突出して文書が多く、室町期以降、文書が急激に減少するというパターンである。青方文書・来島文書・有浦文書等の松浦党関係文書や深堀文書、南九州の入来文書・祢寢文書等に特徴的なものであり、室町・戦国期に激減する要因があるはずである。一つの想定としては、この時期に領主間の抗争が激化し、政治的に極めて不安定となったという要因が考えられる。日本古文書ユニオンカタログの傾向は、全体的な単純増加型と南北朝期最大型が複合したものであるが、これが一般的なのかどうか、現時点では判断できない。ともかく、多くの場合、南北朝期と戦国期という二つの増加の時期があることが明らかになった。その理由に

(20)

一九 ついては、様々な要因が考えられる。南北朝期の文書が多い理由は、相次ぐ戦乱によって、軍事行動が増加し、それを主張する軍事当事者の着到状・軍忠状やそれらに対する証判、軍事指揮者側の感状や恩賞宛行状が増加したことがあげられる。戦国時代には、戦国大名による領国の拡大や領国制の進展がおき、領国支配や軍事のための文書が増えたことが大きな要因と考えられる。南北朝期と戦国期の二つのピークの間にあって、宇佐宮や対馬を除く多くの地域では、室町期に文書が減少することも明らかになった。室町期になぜ文書が減少するのか、その要因を探る必要がある。(二)  室町時代文書の考察

九州における室町時代文書の減少という事象をどのように理解するか。すぐに答えを見いだすのは難しい。予察的に検討したい。(

時代背景すなわち環境である。室町期の九州は、政治的に不安定な状況であった 11 ()時代背景

。室町初期には、応永二年(一三九五)閏七月の今川了俊の九州探題罷免、翌年の新探題渋川満頼の下向という大きな出来事が起こる。この探題の交代を契機として、九州は混乱に陥った。すなわち、筑前の少弐氏と肥後の菊池氏という守護大名たちが、反渋川氏の行動を取り、軍事的に渋川氏と対立した。これは、北部九州のみならず、肥後や豊後といった中部九州にも波及した。応永期には断続的に合戦が続いた。応永三十二年(一四二五)、少弐氏・菊池氏のために九州探題渋川義俊が肥前に追われ、渋川氏は肥前の一勢力となる。その欠を補うように九州に進出するのが、周防の大内氏である。大内氏は少弐氏・大友氏と対立し、筑

(21)

二〇

前国に進出し、最終的には筑前国の守護となるに至る。大内氏から圧迫された少弐氏は、肥前や対馬に逃れるなど、迷走する。大友氏は、室町幕府を背景とする大内氏に対抗したが、永享期に敗れ、親幕府の一族が守護に取り立てられ、守護家内部の対立が進行した。少弐氏と連合していた菊池氏は、後に親幕府方になるが、筑後国の領有をめぐって大友氏と対立する。南九州では、南北朝時代中期に、島津氏の惣領家が総州家と奥州家の二家に分かれて、薩摩・大隅・日向守護職とその守護領等をめぐって抗争を繰り広げた。三国守護職は、応永期に奥州家の島津元久の手に帰し、守護職をめぐる争いは奥州家の勝利に帰したが、両家の抗争はその後も継続した。このように、室町期の九州では、守護大名間の対立に守護家内部の抗争が絡み合い、複雑な状況が続き、政治的に安定しなかった。これが、室町期の文書が減少する大きな背景になったと考えられる。次の文書は、そうした守護家の対立・抗争が文書の残存に影響を与えたことを物語る文書である。

 「王丸新左衛門□       徳□   」敵方之状八通到来候、喜入候、猶々如此奔走祝着候、恐々謹言、

     六月十一日          徳雄(花押 11

)大内盛見が少弐氏討伐のため、九州に下向していた永享初期の文書と考えられる。大内盛見(徳雄)が、筑前国人王丸新左衛門から、敵方の文書八通が盛見のもとに届けられたため、盛見がこれを賞した感状である。この敵方とは、当時、大内氏と対立していた少弐氏や大友氏であると考えられる。このような敵方の文書をそれと対抗する守護大名に届けるということが日常的に行われれば、同時代において文書は減少する。ただし、南北朝期や戦国期も戦乱の時代であり、このような文書の処理が行われたと推測され、この事例のみ (包紙ウハ書)

(22)

二一 が室町期の文書が少ない要因とは言えない。(

期をもって姿を消すとされている 11 二)で、大部分は南北朝期のものであり、南北朝後半に軍忠状と融合した形式の文書が現れ、応永末年から正長 蒙古襲来前後からこうした軍事関係の上申文書が作成されるようになる。着到状は、初見が文永九年(一二七 えると、広義の軍事関係文書とは、感状・宛行状も含むと考えるべきである。 級権力者から感状が発給され、さらに恩賞が認定されると、恩賞の宛行状が発給される。従って、機能論的に考 は軍事指揮者の証判が加えられ、複合文書という性格を持っている。この着到状・軍忠状に対して、将軍等の上 文書が増加したためと考えられる。狭義の軍事関係文書は、上申文書である着到状・軍忠状であるが、これらに 次に中世文書史上の変化について考えてみたい。南北朝期に文書が多いのは、合戦の継続によって、軍事関係 ()中世文書史上の変化

。九州ではもう少し早く姿を消すようである。軍忠状の初見は蒙古合戦直後の弘安五年(一二八二)であり、蒙古襲来が契機になって登場する文書であり、建武新政前夜から南北朝期のものが大部分で、室町時代を下るにつれて、合戦手負注文などの注文形式に変化した 1(

。九州でも、南北朝期に多かった着到状・軍忠状は、室町期になると急激に減少するようになる。ただし、感状・宛行状は減少するとはいえず、軍忠の実施から感状・宛行状の発給に至る手続きが変化すると考えるべきであろう。幕府による戦功認定

また、室町幕府の文書にも変化が現れる。大まかな傾向としては、将軍の直接発給文書が減少する傾向になる。 く、訴訟関係文書においてもいえるのではないかと考えている。 こうしたシステムの主体が、幕府から守護に移行するのではないか。こうした傾向は、軍事関係文書のみではな 状発給・恩賞給与システムが変化したという想定である。室町期の地方になると、 - 感

(23)

二二

将軍の直接発給文書とは、下文・御判御教書・御内書・書状等をいう。その代替として、管領や奉行人による奉書があるが、将軍発給文書が減少すると、管領や奉行人の奉書が増えるということでもない。幕府の文書は、九州においては、全体的に時代が下るに従って減少傾向になる。表

((は、守護家の文書である島津家文書 11

・大友家文書 11

から、将軍発給文書を代ごとに整理したものである。当然、家文書による差異がある。また両者の文書目録は別の基準で作成されているため、単純な数的な比較も適当ではない。とくに足利義昭の文書は、島津家文書に多いが、室町幕府滅亡後の文書も多く、単純な比較はできない。最も発給文書が多いのは、初代足利尊氏の時期であり、幕府成立期に権力を分掌していた弟の直義の文書(島津家:二六通、大友家:四通)を入れるとさらに多くなる。幕府全盛期といわれる義満の時期にはむしろ文書数が減少している点に注目したい。四代将軍足利義持の時期になると明らかに減少し、義教の時期も多くない。義政以降、とくに大友家文書で文書数が増えるが、そのほとんどは御内書である。御内書は本来、書状に近い文書形式であるが、三代義満の頃からよく用いられるようになり、しだいに将軍公用文書となり、戦国になり、義晴・義輝・義昭の代には、盛んに出されるようになるとされる 11

。両守護家の家文書を見ると、将軍発給文書として御内書が見られるのは義満の時期である(島津家文書に四通)。さらに義教の時期には、両家文書ともに御内書しか確認できない。戦国期に将軍発給文書のほとんどが御内書となることも通説通りである

表17 島津家文書・大友家文書の中 の室町将軍発給文書

歴代将軍 島津 大友

尊氏 (( ((

義詮 ((

義満 ((

義持

義量 0 0

義教

義勝 0 0

義政

義尚 0 0

義稙 ((

義澄 0 (0

義晴 0

義輝 ((

義栄 0 0

義昭 ((

(24)

二三 が、義澄・義晴・義輝は御判御教書を発給しており(大友家文書)、永続的効力を持つ公的文書としての御判御教書は戦国末期まで存続していた。以上のように、九州の守護家に出される室町将軍の公的文書は、義満以降減少するということができる。これは、室町将軍と地方の武家や寺社との直接的な関係が希薄になるということを意味していると考えられる。これも室町期に文書が減少する要因の一つであると考えられる。室町期の政治体制は、室町幕府

- 守護体制といい、室町幕府権力を高く評価し、幕府の守護への規制力を強調

する見解が一般的である。この室町幕府

- 守護体制論に関しては、地域性や時期的な差異・変化の検討が望まれ

る。残存する文書のレベルで考えると、九州においては、室町幕府の文書は多くない。管領奉書や奉行人奉書を含めても同様である。先に示したように、九州における室町将軍文書は、義満期から減少傾向になる。それと併行して、守護大名の文書が増加していく。南北朝期に多かった九州探題の文書も、応永末年に探題渋川氏が博多から肥前に移ると、発給文書は激減する。九州の室町期は、文書のレベルで評価すると、守護大名の時代と考えた方が実体に近い。そのように考えると、室町期の九州における守護領国の形成の度合いが、文書数の多寡に影響すると考えられる。九州各国では、守護大名間や守護一族間での抗争が激しく、順調に守護領国が形成されなかったことは先に述べた通りである。少弐氏や菊池氏のように、確固たる守護領国を形成出来なかった大名もある。非領国型の守護大名である。室町期九州における政治的混乱、軍事的抗争の激しさが、順調な守護領国の形成を阻害し、これが、九州の室町期文書の少なさに繋がったと現時点では考えておきたい。

(25)

二四

相田二郎『日本の古文書』上下(岩波書店、一九四六年)

佐藤進一『古文書学入門』(法政大学出版局、一九七一年)

川添昭二「九州の古文書」(同『中世九州の政治と文化』文献出版、一九八一年、初出は一九七八年)

竹内理三編『鎌倉遺文』古文書編四十二巻・補遺四巻・索引編五巻(東京堂出版、一九七一~九五年)

瀬野精一郎編『九州地方中世編年文書目録鎌倉時代篇』、『同南北朝時代篇』(吉川弘文館、一九七四年)

瀬野精一郎編『南北朝遺文九州編』全七巻(東京堂出版、一九八〇~九二年)

田北学編『増補訂正編年大友史料』三十三巻・別巻二巻(田北学、一九六二~七九年)

川添昭二「来島文書と肥前大島氏」、同『中世九州地域史料の研究』(法政大学出版局、一九九六年)

立図書館、一九七八~七九年) 生・編『』(堂、)、九・』(

(0 『佐賀県史料集成古文書編第四巻』(佐賀県立図書館、一九五八年)

(( 東京大学史料編纂所ホームページ。

史料編年目録」等が収録されている。   府・』(は、」「 (( 竹内理三・川添昭二・吉原弘道編『大宰府・太宰府天満宮史料』全十九巻(太宰府天満宮、一九六四~二〇〇九年)。最終刊の

(( 佐賀県史編纂委員会編『佐賀県史料集成古文書編』全三十巻(佐賀県立図書館、一九五五~九〇年)

((  瀬野精一郎校訂『史料纂集古文書編青方文書一・二』(続群書類従完成会、一九七五~七六年、一九八六年増補改訂)

(( 竹内理三「対馬の古文書

慶長以前の御判物

」(『九州文化史研究所紀要』一、一九五一年)

(『九州文化史研究所紀要』四四、二〇〇〇年) (( 三「」(』、)、次「 四、二〇一四年)、「同(続々)」(『同前』二五、二〇一五年)、「同(完結)」(『同前』二六、二〇一六年)。宗家文庫本「宗家判物 (( 男「稿」(〇、)、同()」(『

(26)

二五 写」の所収文書八三五三件のうち、五七七九件がリストアップされている。

一九五二~八四年) (( 会(編『巻(会()、

(( 村井章介「具書案と文書偽作

- 「立花家蔵大友文書」

所収「鎌倉代々御教書」についての一考察」(同『中世史料との対話』川弘文館、二〇一四年、初出は二〇〇〇年)

(0 『熊本県史料』全五巻(熊本県、一九六一~六七年)

((  『大日本古文書家わけ第十三阿蘇文書一~三』(東京大学史料編纂所、一九三二~三四年)

((  『大日本古文書家わけ第五相良家文書一・二』(東京大学史料編纂所、一九一七~一八)

(( 『宮崎県史史料編中世一・二』(宮崎県、一九九〇~九四年)

(( 『鹿児島県史料旧記雑録前編一・二』(鹿児島県、一九七九~八〇年)

(( 天正十五年以前の文書を収録するのは、『鹿児島県史料旧記雑録後編一~二』(鹿児島県、一九八〇~八一年)

(( 朝河貫一著・朝河貫一著書刊行委員会編『入来文書』(紀伊國屋書店、二〇〇〇年復刻版)

((  『鹿児島県史料旧記雑録拾遺家わけ一』(鹿児島県、一九八七年)

点鎌倉・室町時代』、高志書院、二〇二〇年)を参照。 ((  多くの研究があるが、さし当たり、佐伯弘次「九州の守護大名」(大庭康時・佐伯弘次・坪根伸也編『九州の中世Ⅱ武士の拠

(( 王丸文書六号(『新修福岡市史資料編中世一』福岡市、二〇一〇年)

(0 佐藤進一『新版古文書学入門』二三八~二三九頁(法政大学出版局、一九九七年)

(( 同前二四五頁。

CD-ROM出版会、)。 (( ス、』(

(( 『大分県史料』二十六巻。

(( 佐藤前掲書一七一頁。

(27)

二六

稿は、金・究()「」(者:次、

- 二〇二〇年度、課題番号:

((K00((()の研究成果の一部である。

参照

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