朝鮮時代の近世中国語の「翻訳」について
伊藤 英人
序論
1. 正音と読誦
1.1. 15世紀中葉の陀羅尼注音
1.2. 神聖句注音と正音
1.3. 18世紀の儒者にとっての正音
2. 近世中国語文法標識の翻訳と崔世珍
2.1. 『翻訳老乞大・朴通事』の資料的性格
2.2. 句末助詞「了」と「来」の「翻訳」様相
3. 15世紀仏僧の近世中国語理解
3.1. 『蒙山和尚法語略錄諺解』について
3.2. 蒙山法語の誤訳
3.3. 禅文献翻訳体の平易さ
結語
序論
『訓民正音』「御製序」の冒頭に記された世宗による
1) 国之語音異乎中国 与文字不相流通 故愚民有所欲言而終不得伸其情者多矣 予為此憫然 新制二十八字 欲使人人易習 便於日用耳1)
を若干の文言を補って訳すと以下のようになる。
2)「国」の言語は中国と異なるため(中国語のための文字である)漢字と一致しない。
このため(わが国の)民は,申し述べたいことがあっても(漢文文書を出せないため)思いを表
出伝達することが出来ずにいる。私はこのことを哀れに思う。そこで,28字母からなるアル ファベットを新たに作り,人々にたやすく学んでもらい日用の便に供してもらいたいと思う。
要点を整理すれば,世宗の趣旨は以下の通りである。①王室とその王室の支配する領域に住む人民は 言語的に等質である,②その言語は「中国」と異なる,③その言語共同体を「国」と観念する,④「国」
の話し言葉(vernacular)を表記するために新たにアルファベットを創製する,⑤それによって人民の 意思表示が可能になるような政策を行う。
ベネディクト・アンダーソン(2007),ダニエル・バッジョーニ(2006)等の著作に述べられた同時期の 諸地域の諸王権とその支配する領民への言語施策を思い合わせるとき,我々は15世紀朝鮮において表 明されたこの考えの早熟性に瞠目せざるを得ない。
「国之語音異乎中国」は「国之語音異乎中国之語音」と補い得るため,ここでは両国の口頭語の差,
すなわち15世紀朝鮮語と明代白話の差が念頭に置かれていると看做すことが出来る。「与文字不相流通」
の「文字」とは「文」すなわち「文言」,アンダーソンのいう「真実語」,「聖なる言語」としての漢字 漢文を指す。「故愚民有所欲言而終不得伸其情者多矣」及び「欲…便於日用」は,尚書院言語,すなわ ち行政・裁判等文書のvernacular化への控えめな宣言と捉えることが可能である。2)
ここで,中国語,朝鮮語における「書かれ得る言葉」としての文語と口語の関係を整理してみよう。
文語(真実語) 口語(vernacular) 中国語 文言(文) 白話(俗) 朝鮮語 なし 朝鮮口語(諺)
「文」は中国・朝鮮の「口語」の上に君臨する「文言」すなわち漢文を指し,中国の口語すなわち白 話を「文」と称することはない。一方,白話と朝鮮口語は共に「俗」,「俚」などと称されることがあり 得るが,ここでは崔世珍が主に『訓蒙字会』で示した用法に従って,中国語口語すなわち近世中国語を
「俗」,朝鮮口語を「諺」と称することとする。3)
上述の如く,中国語話者であっても訓練を経なければ駆使し得ない「文」は中朝両口語の上位に君臨 する真実語であり,中国における「文」と「白」の関係は,朝鮮における「文」と「諺」の関係と等価 なものと観念された。ハングル創製以前に,吏読文によって朝鮮語訳された『大明律直解』が,文言の 白話解である『孝経直解』と「直解」の名称を共有するのもこうした認識の現れと看做すことが出来る。
「意訳」としての「文:白」,「文:諺」の関係はこのように比較的簡単に整理し得る。
15・16世紀の朝鮮における「翻訳」の語は,現代語と同様の「意訳」の他に,ハングルで音を付す作 業である「音訳」の意味を持っていた。崔世珍の著した『翻訳老乞大』,『翻訳朴通事』の書名に見える
「翻訳」は後者の意味である。本稿においても「音訳」と「意訳」の両義を持つ語として,「翻訳」の 用語を以下用いることとする。
「意訳」に関しては上で示したような比較的単純な図式を考え得るが,「音訳」においては,用語は
かなり複雑な様相を示す。崔世珍は『翻訳老乞大朴通事凡例』において近世中国語音について「国音」,
「正音」,「俗音」,「漢音」,「諺音」 を区別している。一方,『東国正韻』序の 「以影補来因 俗帰正」は,朝鮮漢字音における「正音」と「俗音」についての言及である。本稿は近世中国語の「翻 訳」を考察の対象とするため,朝鮮漢字音における「正音」と「俗音」の差は考察の対象から外す。ま た,崔世珍の「諺音」は「朝鮮語表記に用いうる字母の範囲内での近世中国語音表記」の意味であり,
「国音」,「漢音」については議論が分かれるため,15・16世紀の朝鮮における近世中国語の「音訳」
の側面に関しては「正音」と「俗音」の観点からこれを論ずることとする。音訳においては朝鮮語の側 は問題とならず,近世中国語の「音」として何を「正」とし何を「俗」として朝鮮側で受け入れ,それ をハングルで表記するかが問題となる。例えて言うなら,中国語で書かれたテキストを朗誦する際に,
どのような音で読誦すべきかの問題であり,真実語と系統を異にする周辺言語が真実語をどのように読 誦するかという通文明圏的な問題でもあり得る。ホイットマン(2010)はラテン語の「正しい」音読がロ マンス語圏よりも,むしろゲルマン語圏,ケルト語圏で行われ,それが後にロマンス語圏に再輸入され た事実を東アジアにおける cosmopolitan languageと vernacularの関係と比較しつつ述べている。
以下,1章では「音訳」の問題として,①訓民正音公布直後の王室,仏教界における「正音」と読誦 の関係を陀羅尼注音の問題を通して考察する。②儒教界における「正音」の捉え方を18世紀の性理学 者の言説をもとに考察する。2章では「意訳」の問題として,中国語学者である崔世珍の近世中国語解 釈を彼自身のグロッサリーにおける証言と比較しつつ論ずる。3章ではやはり「意訳」の問題として近 世中国語の非専門家による解釈,誤訳と翻訳文体のありようを『蒙山和尚法語略録諺解』を通して分析 する。
1. 正音と読誦
1.1. 15 世紀中葉の陀羅尼注音
伊藤英人(2004a)で述べた如く,日本では律令時代に,仏典読誦と度僧(僧侶に国家資格を授与するこ
と)の条件として「正音」を用いることを義務付ける詔勅,教令が発せられた。
(1) 詔曰 (中略) 比者或僧尼自出方法妄作別音遂使後生之輩積習成俗 不肯変正 恐汙法門 (中略) 宜(中略)余並停之 (『続日本紀』養老四(720)年条)
(2) 自今以後年分度者非習漢音 勿令得度 (『日本紀略』延暦十二(792)年条)
一方朝鮮半島では仏典読誦に際して読誦音を指定した教令が発せられたことはなく,度僧に関しても
(3)為僧者三朔內告禅宗或教宗試誦経[心経金剛薩怛陀] (『経国大典』度僧条)
に見られる如く,禅宗か教宗かを明らかにした後,心経と金剛陀羅尼を暗誦させるとされるのみで,そ の読誦音に関する規定はなされなかった。
訓民正音公布以降,世祖代を中心とした1460年代に至る時期は朝鮮時代を通じて例外とも言うべき 崇仏時期であった。同時にこの時期は『東国正韻』と『洪武正韻訳訓』がこの間に刊行された事実から も見て取れるように漢字音の「正・俗」に対して敏感な時期でもあった。
上述の如く,朝鮮半島では仏典読誦に際して読誦音を指定したことはなかった。しかし,仏典のうち,
その読誦音が問題とならざるを得ないのが陀羅尼である。
(4) kɨ 體nʌn ‘irhumi 陀羅尼‘o kɨ 用‘ʌn ‘irhumi 咒ini 飜譯‘ʌr mothʌrirssʌi 眞言‘irato hʌnʌnira.
(釈譜詳節二十一23a)4)
その体は名が陀羅尼であり,その用は名が咒であるが,翻訳出来ないので真言とも言うので ある。
咒(vidyā), 総持(dhāraṇị̄), 真言(mantra)は本来区別されるが後代に混同された。例(4)はまさ にそうした混同の例である。「陀羅尼」は「翻訳出来ない」のであるから可能な限り「原音」
に近い発音で読誦される必要がある。成宗代刊行の『五大真言』(1485 年)以降の陀羅尼のハン グル注音についてはすでに数多くの研究がある。しかし,訓民正音公布から刊経都監の廃止(1471 年)に至るこの時期の,漢字表記の陀羅尼の注音については等閑視されてきた。この時期,すな わち近世中国語の標準漢字音の韻書である『洪武正韻訳訓』と朝鮮漢字音の標準を定めた『東 国正韻』が活用されていた時期に,「翻訳」者がいずれの漢字音をもって陀羅尼の注音をしよ うとしたかという問題は,この時期の「読誦されるべき正音」に対する意識を探るための糸口 となるものと考えられる。
結論を先取りして言えば,この時期の陀羅尼注音法は3つの時期に区分される。それぞれの 時期の資料は以下の如くである。
第1時期 1447年 『釈譜詳節』巻二十一 法華経陀羅尼品(23a-24a)
第2時期 1459年 『月印釈譜』巻十 大雲輪請雨龍王宮說法緣起 (88a-116b) 同 巻二十一地藏菩薩本願経 (70a-73a) 等
第3時期 1463年 『法華経諺解』陀羅尼品
1464年『心経諺解』 等刊経都監刊仏典諺解類
上の第3時期,すなわち刊経都監刊の仏典諺解類の陀羅尼には音注が附されていない。すなわち,無
注音時期である。実際にハングルで注音された第1時期および第2時期の陀羅尼にハングルで付された 注音を比較してみると以下の如くである。
通摂入声 目 叔 第1時期 muk 第2時期 suˀ
江宕摂入声 悪 縛 莫 托 第1時期 ˀak
第2時期 vvav mav tʰav
臻摂入声 仏 吉 失 悉 瑟 密 跋 第1時期 vvut kit
第2時期 vvuˀ šɨiˀ šɨiˀ siuˀ miˀ ppueˀ
山摂入声 鉢 達 怛 薩 涅 剌 刹 伐 第1時期 ttat niət
第2時期 puəˀ ttaˀ taˀ saˀ raˀ šaˀ vvaˀ
蟹摂 帝 第1時期 tiəi’
第2時期 ti
果仮止遇摂 摩 膩 輸 第1時期 muə’ niəi’ šu’
第2時期 muə ni šu
上の字音を分析すれば以下の如くである。
① 第1時期の注音では,通摂入声,江宕摂入声字は韻尾 –kを,臻摂入声,山摂入声字は韻尾 –t をそれぞれ保っているが,第2時期は通摂,臻摂,山摂入声字は影母‐ˀに,江宕摂入声字は –vに変えられた。第1時期は『洪武正韻訳訓』の「正音」と,第2時期は同書の「俗音」と 一致する。
② 果仮止遇摂でも第2時期は『洪武正韻訳訓』の「俗音」と一致する。第1時期は『洪武正韻 訳訓』の「正音」に『東国正韻』式に「喩」母字が添加されている。
伊藤英人(2005)はこの事実について次のように述べている。
(5)特に陀羅尼の功徳は「正確に読誦」することにのみ存した。当時の仏典翻訳者はどの種の字音 で陀羅尼に注音すべきか悩んだはずである。彼らははじめ(1447年)は当時編纂中で未刊であった
『洪武正韻訳訓』の「正音」をもって注音した(蟹果仮止遇摂の扱いは若干異なる)。『月印釈譜』
(1459年)では『洪武正韻訳訓』の「俗音」を用いた。その理由は不明である。しかしながら中国
音で陀羅尼に注音するという方法自体には改変がなかった。(原文中文)
これに対して中村雅之(2006)は次のように指摘した。
(6) 伊藤氏はその理由を不明としているが,上述の状況に照らせば,解釈は容易である。すなわち,
約10年を要したという『洪武正韻訳訓』の編纂の過程で,理論的な「正音」を作り上げ,『釈
譜詳節』(1447年)にはその「正音」が採用されたのであるが,陀羅尼の性格上,音声化すること
が肝要なのであり,理論的な「正音」はその用に堪えなかった。そのため『月印釈譜』(1459)で は実際の音声を反映した「俗音」を採用したのであろう。
「上述の状況」とは,『洪武正韻訳訓』の「正音」が全濁声母と3つの入声韻尾を人工的に纏わせて 作り上げた理論的な音系に過ぎなかったという事実である。『洪武正韻訳訓』の「正音」が『東国正韻』
のそれと同様に架空の音系であったことは中村氏の指摘の通りであるが,正音「目muk」と俗音「叔 suˀ」を比べれば前者の方が朝鮮語話者には発音可能である事実を顧みれば,朝鮮語話者にとって「音声 化」の用に堪えるか否かが,第1時期から第2時期への方針の転換を齎したと簡単に考えることは難し い。注音放棄の第3時期も含め,陀羅尼(神聖句)と正音の関係をあらためて考察する必要がある。
1.2. 神聖句注音と正音 問題点を整理してみよう。
① 第1・2時期の陀羅尼注音になぜ近世中国語音を用いたか。
② 第3時期すなわち刊経都監の仏典諺解ではなぜ注音を廃止したか。
③ 朝鮮漢字音の標準として制定した東国正韻式漢字音をなぜ用いなかったか。
上述したように陀羅尼は「正しく口誦する」ことにのみ価値のある神聖句である。一般化するなら,
vernacular話者がsacred languageの神聖句を如何に口誦するかの問題である。周知の如く,『洪武正韻
訳訓』の声母の体系は,中古音の三十六字母のうちの舌上音,すなわち「知徹澄」母を「照穿牀」母に,
「娘」母を「泥」母に,「敷」母を「非」母に編入させた三十一字母体系である。①に対する答えとし て翻訳者が陀羅尼注音に際して,より区別が多く,古音の体系に近い音系で注音しようとしたためとい う回答を与えることが可能である。しかし,『洪武正韻訳訓』の正音と俗音の差は韻母にあり,声母の 体系に差はない。このため第2時期で,なぜ俗音を選んだかについての正確な理由は知り得ない。中村
雅之(2006)の推論に従って敷衍すれば,当時の中国音により近くかつ中古音の声母の体系に近い音を選
ぼうとした考えることも可能である。弁別性の高い音系を陀羅尼注音に選んだとすれば,これはそのま ま③への答えとなる。わずか二十三字母の区別しか持たない『東国正韻』字音を陀羅尼口誦音に選ぶこ とが考えられなかったからである。唇音の軽重, 舌頭舌上,歯頭正歯の区別もない,いわば「鄕音(田 舎の音)」で陀羅尼に注音することを翻訳者が躊躇ったとしたら,彼らが『東国正韻』を「正音」とは 認めていなかったということになる。
世宗の訓民正音創製の大きな動機の一つは漢字音の乱れを正すことにあった。このため中国の正音を 体現した『古今韻会挙要』の「翻訳」に取り掛かったのだが,朝鮮漢字音との余りの乖離のため,朝鮮 漢字音の標準としての『東国正韻』と中国漢字音の標準としての『洪武正韻訳訓』を別々に編纂せざる を得なくなった。朝鮮漢字音の標準としての『東国正韻』はしかしながらvernacular用の当座のもので あるという意識は仏典翻訳者のみならず創製者自身にもあったと考えられる。実際『東国正韻』は科試 とは最後まで無縁であった。
のみならず,東国正韻式漢字音は実際に「声に出して」読むことの出来ない字音ですらあった。
(7) 慧覺尊者skɨi makʌi’oasinʌr 貞嬪韓氏等’i 唱準hʌ’ianʌr (中略) 臣趙祉nʌn 國韻’ ɨr ssɨko(楞嚴経諺解 御製跋)
慧覚尊者にお質しになってから貞嬪韓氏等が読み合わせて(中略) 臣下である趙祉 が国音を書いて
志部昭平(1983)は(7)について,校正,唱準(読み合わせ)をした後に「国音」すなわち東国正韻式漢字 音を書き入れる,という作業順序であったと指摘している。つまり校正,読み合わせ段階では東国正韻 式漢字音ではなく伝来字音で朗読していたことになる。東国正韻式漢字音は音読しようにも音読できな い字音であったからである。
(8)觀世音菩薩sarˀ’oa (釈譜詳節九18a)
(9)怨讐ssiuwirəra(月印釈譜一6a) (10)nimkɨm 位’ui’r (月印釈譜一2a)
例文(8)のsarˀ’oaはsar’oa,(9)のssiuwirəraはssiuirəra,(10)の’ui’rは’uirとしか発音し得ず,下線部 は「書いているだけ」の語源的綴り字である。
刊経都監で訳経に携った慧覚信眉をはじめとする学僧たちが陀羅尼に東国正韻式漢字音を用いなか った理由はこうした東国正韻式漢字音の性質によるものと考えられる。では,かれらはなぜ1459年ま での方針を踏襲して中国字音で陀羅尼に注音することをも止めてしまったのであろうか。慧覚信眉をは じめとする刊経都監の学僧たちは当時の仏教界の現実を知悉していたと考えられる。そこでは陀羅尼は,
成宗代以降の真言集に見られるような,字音質としての梵字と朝鮮伝来漢字音の反切から帰納された伝 統的な読法で読誦されていたはずであり,度僧にも関与した彼らは,陀羅尼に当時の中国字音で注音す ることの非現実性を深く認識していたと思われ,このことが陀羅尼のハングル注音を全廃するという方 針転換を齎したものと考える。
ここでは1440-50年代の王室,朝鮮仏教界で,陀羅尼という神聖句の読誦音に際して,真実語,神聖
語としての文明の中心の語音である当代の中国字音が選好されたという事実を確認しておきたい。
1.3. 18 世紀の儒者にとっての正音
陀羅尼の中国字音による字音は15世紀半ばで立ち消えてしまうが,朝鮮半島における当代中国字音 への関心は朝鮮時代を通して抱かれ続けた。司訳院という通訳養成機関のテキストにおいて中国字音の 改訂が1880年代まで何度も続けられたことは,中国語教育の必要上ある意味で当然のことである。こ こでは中国語教育とは関係のない,一儒者の「正音」を見てみることにする。5)
英祖,正祖朝は字音に関しての一大転換期である。先に訳学に関して述べれば,1745年の『老乞大諺 解』の箕営刊本以降,左側音の字音が,『四声通解』の「正音」から,『洪武正韻訳訓』の正音へと変 更される。『洪武正韻訳訓』の正音は,上述の中村雅之(2006)に言う通り,「理論的」な字音であり,
そこでは例えば韻尾 –n, -m が区別される。中国語学習にとっては何等益するところのない,一種の
atavism,anachronismを敢えてなした思想的背景には,明清交替,華夷変態への対抗,小中華としての
national unity形成への志向性を見て取ることができると筆者は考える。英祖,正祖朝のこうした時代的
背景の中で著された韻書が申景濬の『韻解訓民正音』である。伊藤英人(1995)は該書字音分析法の「朝 鮮的特徴」について論じた。すなわち,
①韻尾と主母音を切り離し,韻尾のみによる分摂を行っており(例:-m 音節,–n隠摂, –ŋ凝摂),
それらの「音,隠,凝」等の摂名も朝鮮伝統の借字表記法の用字に従う。
②音節主母音の同質性のみに依拠し,開合の韻図 (例:開口正韻第一章主母音-a-:鴦aŋ安an庵am
等) を分かっている。
等の分析法を朝鮮的な「要素主義」と名づけた。伊藤英人(1995)では触れなかったが,申景濬の字音の 特徴の一端を示せば以下の如くである。
①声母として三十六字母を設定している。
②①と関連して,知組字のハングル字母(例:ヒṭ)を作っている。
③牙喉音二等字を「副韻」,すなわち介母-i-を持つものとして処理している。
④果合一戈,山合一末,山合一桓等の主母音がəとなる。
①②は中古音的性格を示し,③④は近世音的特徴を示している。
申景濬の示した字音は歴史的,地理的にかつてどこにも存在したことのない「理想的」な字音であ る。「理想的な」字音であるという点においては『洪武正韻訳訓』の正音と共通するが両者には以下 のような違いがある。
①『洪武正韻訳訓』は中国で中国人によって示された韻の枠にハングルで音の実体を与えたもので あるが,『韻解訓民正音』は字音の枠自体を創出している。
②『洪武正韻訳訓』の「俗音」は当時の中国音を記述的に示そうとしているが,『韻解訓民正音』
には「記述的」姿勢はみられない。
③ 15世紀の韻書編纂者は中国標準字音のための『洪武正韻訳訓』と朝鮮標準字音のための『東国 正韻』を別途編纂するという姿勢を示したが,申景濬は両者を止揚し,その記述には朝鮮の方 が中国よりも正しい音を保っていると看做す傾向もある。
③の記述とは以下のようなものである。
(11)且今雖不明而古有存者 中土雖不行而他国有用処 至於知徹澄嬢 我国西北人用 之 在京中泮村人亦用之 故今依旧法備三十六母焉(9a-b)
『洪武正韻』を否定し,舌上音を加えた三十六字母体系に復する理由として「我国」に舌上音が 行われていると看做したことが挙げられているのは,15世紀の意識とは異なる,自国の正統性へ の自信に基づく意識の変化であり,このことは上述の『老乞大諺解』の箕営刊本以降の左側音の 字音が,『四声通解』の「正音」から,『洪武正韻訳訓』の正音へと変更されたこととともに,
明清交替以降の18世紀朝鮮知識人の「正音」意識,小中華意識の反映である可能性がある。
一方,訳官を始めとした現実の中国語に接する必要のある領域では中国語の変化に伴う字音の変 化を「記述的」に記録,学習していった。司訳院漢学書の「右側音」は清代が下るにつれて牙音の 口蓋音化等に代表される字音改訂が進められていったことは多くの先行研究の示す通りである。
「理念」としての正音意識と実用の学としての中国字音の記述という中国音に対する二段構え
の態度が生じたのが18世紀であり,儒学者である申景濬による「架空の正音」は前者を代表する ものであったと考えられる。
2. 近世中国語文法標識の翻訳と崔世珍 2.1. 『翻訳老乞大・朴通事』の資料的性格 以下では「翻訳」のうち,「意訳」の問題を扱う。
司訳院の四学書が外国語学習・教育史上で占める重要性とこれらに関する研究は「訳学書研究」とい う一つの分野を形成するに至っている。特に中宗代に活躍した漢語訳官崔世珍が「翻訳」した『翻訳老 乞大・朴通事』は,これに対する語彙注釈書である『老朴集覧』と近世中国語韻書である『四声通解』
とともに韓中日の研究者の注目を引いてきた。『翻訳老乞大・朴通事』は,①あらすじと登場人物が 一貫している対話式中国語学習書の東アジアにおける嚆矢であり,②近世中国語注音が声調はもちろん,
tone sandhi及び 軽声化までもが表示されているなど音韻史的価値が高く,③「翻訳」が崔世珍という
一個人によってなされたものである上,崔世珍自身による音韻,語彙,文法(虚辞) 注釈が存在し, ④後 代漢学書の亀鑑となり明清代を通しての改訂により中韓両言語の変遷が同一テキストによって確認さ れる等々,他の類書の追従を許さない重要性をもっている。
『翻訳老乞大・朴通事』のみならず他の漢学書を含めて注目すべき点は以下の諸点である。
第一に考慮すべきは司訳院四学書会話教材のうち,漢学, 蒙学, 淸学会話テキストの文体が,一種の 外国語学習用の特殊文体であるという点である。
(12) 大哥 你従那裏来
kʰɨn hiəŋnim nəi ‘ətɨrərosiəpɨtʰə ‘onta (翻老1a2-3) 大兄様,お前はどこから来たのか。
例文(12)は上称,中称,下称という三段階の対遇法を有する16世紀朝鮮語として自然な文ではありえ ない。日本語訳に見られるように「大兄様」に2人称代名詞「お前」や「~なのか」に相当する下称疑 問形語尾を用いているからである。漢学書等における下称使用は朝鮮時代最末期の高宗代まで一貫して いる。高宗代漢語テキスト『華音啓蒙』には次のような例が見られる。
(13)你老是外来的貴客呢 (華音啓蒙上4a1)
nənʌn paskɨro ‘on 貴hʌn 客’ini お前は外から来た貴い客だから
中国語の「你老」は尊称であるのに朝鮮語訳は(12)同様に「お前」である。
これは崔世珍が『老乞大・朴通事』を朝鮮語に「翻訳」するに際して採用した一種の外国語学習用特 殊文体であると考えられる。恰も現代の英文和訳において you を機械的に「あなた」と訳すようなも のであり,このため『翻訳老乞大・朴通事』を敬語法研究の資料として用いる事は出来ない。
第二に,それにも拘わらず 『翻訳老乞大・朴通事』は翻訳を通して16世紀朝鮮語の文法形式の用法 を考察する資料として活用し得るという点を確認しておきたい。特にtense, aspect, mood接辞の用法に 関する研究において外国語との対訳資料として用い得る殆ど唯一の資料であると言える。
周知の如く中世朝鮮語文献の大半は「諺解」である。 諺解の原語は仏教漢文を含む漢文すなわち文 言である。文言は,tense, aspect, mood等の文法マーカーの著しく欠如した言語である。一方,白話,
すなわち近世中国語は文言に比べてこれらの文法マーカーが豊富に出現する。15, 16世紀の文献中,白 話を翻訳した資料としては15世紀に成書した禅宗語錄の諺解を除外すれば中宗代の 『翻訳老乞大・朴 通事』が唯一の資料となる。
中世朝鮮語のtense, aspect, moodを表す接辞,例えば {-nʌ-}, {-tə}, {-kə-} 等の用法に関する研究は主と して諺解文内部のみの観察を通して帰納的にその用法を抽出する手法でなされてきた。原文の文言には これらに当る形態素が存在しないため,統辞論的研究の様には原文を参照し得ないからである。『翻訳 老乞大・朴通事』原文に出現する近世中国語文法マーカーが如何に翻訳されたかを研究することは,中 世朝鮮語のtense, aspect, moodを表す接辞の文法的意味を「外的」に研究し得る可能性を与える。2.2.
では 『翻訳老乞大』原文の近世中国語の幾つかの文法マーカーの翻訳様相を見てみることにする。
2.2. 句末助詞「了」と「来」の「翻訳」様相6)
『老乞大』の句末助詞「也」,「了」については多くの研究がなされている。特に『旧本老乞大』発 見以降の修訂問題と関連して次のような事実が明らかにされている(佐藤晴彦2002, 竹越孝2002)。すな わち,元代近世中国語を反映した『旧本』の「也」のうち,「已然変化」を表す「也」は『翻老』で は「了」に修訂された例が多いのに対して,「将然変化」を表す「也」は『翻老』でも「也」で現れる という事実である。以下では先ず『翻老』における句末助詞「了」の「翻訳」を見てみよう。
『翻老』の句末助詞「了」と「了也」が,時相接辞を含んだ終結形で現れる例を接辞別に示せば以下 の如くである。
「了」
時相接辞 -kə/’ə- -∅- -tə- -nʌ- -ri- 用例数 31 12 1 8 10
「了也」
時相接辞 -kə/’ə- -∅- -tə- -nʌ- -ri- 用例数 7 1 0 0 1
「了」と「了也」が {-kə/’ə-}に訳された例を見てみよう。
(14)這肉熟了(上22a4)
‘i koki nikkəta.
この肉煮えたわ。
(15)我贏了(下37a7) nai ‘ikɨi‘oata.
私が勝ったわ。
(16) 這些貨物都買了也(下70b2)
‘i hoanghotʌr ta sata.
この荷をみな買ったわ。
(17)明星高了(上58a8) saibiəri nopkəta 明星が高いわ。
{-kə/’ə-}の機能に関しては諸説があるが,本稿は高永根(1998)で示された「話し手が主観的経験によっ
て事態を確定的・独白的に把握する」という見解に従う。例(14)から(17)は全て発話の現場ですでに成 立した新しい事実を確定的・独白的に確認した例である。佐藤晴彦(2002)は『翻老』の漢語文に現れる
「已然変化」の「了」, 「了也」の機能を「新しい事態が発生したということを確認する語気」と規定 している。『翻老』の「了」, 「了也」が高い比率で{-kə/’ə-}に翻訳されている事実は,{-kə/’ə-}の機能 が「確認法」であるという高永根(1998)の見解を「外的」に支持する。
興味深いのはこれらの{-kə/’ə-}に訳された例文が『旧本』で「也」, 「了也」であった例であるという 点である。反対に『旧本』で「了来」,「来」,「有」等であったものが『新本』(『翻老』の底本)で「了」
に変わった例は不定法 {-∅-} に訳されている。
(18)我昨日冷酒多喫了(下40a3) (旧本 : 「来」) nai ‘əcəi cʰʌn su’ɨr manhi mək-∅-ora.
私は昨日冷酒多く飲んだ。
(19)十分老了(下8b2) (旧本:「有」)
kʌcang nɨrk-∅-tota.
かなり年老いたなあ。
崔世珍は『翻老』の翻訳に際して新旧本の両者を参照していることが知られているが, 已然変化の
「了」,「了也」のうち,旧本で「来」,「有」であった例と本来「了」,「了也」であった例を訳し分 けた可能性がある。
句末助詞「来」に関しては 崔世珍自身の言及が 「単字解」に「語助」の例として載せられている。
(20) 有来 ‘is-tə-ra あった(過去持続)
(21) 去来 ka-∅-ta 行った(点的過去)
遠藤光曉(2004)は近世中国語の助詞「来」の機能として,①状態動詞・形容詞の過去, ②過去の 習慣的動作, ③過去の時間的な幅のある動作を挙げている。一方,崔世珍は状態性用言(‘is-:ある)に「来」
が続いた例を過去持続,過去状態を示す{-tə-}で, 動作性用言(ka-:行く) に「来」が続いた例を点的過去 を表す不定法{-∅-}と解釈している。
(22) 我年時在京裏来 (上9b6)
nai nikən hai siə’ur ‘is-ta-ni 私は去年都にいたが
(23) 我在漢児学堂裏, 学文書来(上2b4)
nai toi hʌktang ‘əsiə kɨr pʌiho-∅-ra.
私は漢人の学校で文を学んだ。
例文(22),(23)のように「単字解」の証言どおり,『翻老』中では「状態性用言+来」は{-tə-}に代表 される持続性を帯びた形式に,「動作性用言+来」は不定法を用いて点的過去,一纏りの過去の事態と して把握してこれを翻訳している。 (23)は中国語自体の解釈としては「私は漢人の学校で文を学んでい た」と解し得ようが,崔世珍は「私は漢人の学校で文を学んだ」のように一纏りの過去の事態と捉えて 朝鮮語に訳している。
(24)我有一箇火伴, 落後了来, 我沿路上慢慢的行着等侯来(上1b2-4) nai hʌn pəti ptəti’iə ‘orsʌi nai kir cocʰa narhoi’iə niə kitɨr’uə ‘onora.
私の一人の友が遅れて来るので私は道々ゆっくり行き待って来るのだ。
例文(24)の「了來」と「来」は二つとも助詞であるが崔世珍は本動詞「来る」の訳を与えており,誤 訳であると考えられる。こうした誤訳の問題は「韓習」の問題と併せて結語において再論したい。
3. 15 世紀仏僧の近世中国語理解 3.1. 『蒙山和尚法語略錄諺解』について
3章では中国語の専門家ではない知識人(仏僧)の近世中国語理解と翻訳の問題を 『蒙山法語』の翻訳 を通して考察する。
上述のように近世中国語の朝鮮語訳は15世紀にもなされている。その代表例が『蒙山和尚法語略錄 諺解』である。翻訳は慧覚信眉による。慧覚信眉は世宗から世祖代に活躍した学僧であり,1章で述べ た陀羅尼注音にも恐らく中心的に関与したはずの人物である。
始めに注意しておくべきことは,高麗時代までは仏僧は折にふれて入元し,普愚のように大都(北京) で法会を催すような学僧も存在したのに対して,朝鮮時代以降,僧侶の中国入国は全くなくなり,僧侶 は直に中国語に接する機会が全くなくなったということである。高麗時代までは高麗国内にも中国から の僧が訪れ,高麗の禅刹はbilingual空間であったのが,朝鮮時代以降は朝鮮語のmonolingual空間に戻 ったと考えられる。この点で,①室町期にも明との行き来が盛んであった日本の禅刹とは異なり,②燕 行使に随行して中国入国が可能であった儒臣のような中国語体験を僧侶は持つことが出来なかった,と いう二点を確認しておきたい。鮮初の学僧慧覚信眉もしたがって中国語に直に接する機会を持ち得なか ったと考えられる。
3.2. 蒙山法語の誤訳7)
『蒙山和尚法語略錄諺解』は宋末元初の僧,蒙山徳異(1232-?)の語録を高麗僧普済懶翁が1260年に 抄録したものを,15世紀に慧覚信眉が翻訳したものである。先ずは誤訳の例から見てみることにする。
(25) 看来看去(15b)
‘or cəi pomiə karˀ cəi pomiə 来るとき見て行くとき見て (26) 疑来疑去(15b)
‘or cəi 疑心hʌmiə karˀ cəi 疑心hʌmiə 来るとき疑い行くとき疑って (27) 錯了也瞎漢(56a)
kɨrɨ ‘an nun mən saraʌmirota.
誤って悟った目の見えぬ人よ。
(28) 雖然趙州道無你作麼生会(54b)
pirok kɨrəhʌna 趙州i nir ‘on 無rɨr ‘əstiəi ‘anʌnta?
たとえそうであっても趙州の言った無をいかに知るのか。
(25)(26)は反復を表す「V来V去」を本動詞と誤解して訳している。 (27)は中国語としては「間違っ
ておるぞ。目の見えぬ奴め」と解し得るが,「了也」で句を切らず,錯(間違って)+了(悟った)+也(連 体修飾マーカー)と誤訳している。 (28) は「趙州が無を言ったとしてもお前はどうやって知るのだ」の 意だが,「雖然」が掛かる範囲を取り違えた上,動賓構造の「道無」を連体修飾構造と誤解している。
(28)の誤訳は「懸吐」の段階ですでに起きている。
文言であれ,白話であれ,口語としての中国語を知らない朝鮮知識人が漢語文を読もうとするとき,
日本人が返り点を施すように,先ず「懸吐」を行う。「吐」とは「口訣」すなわち朝鮮語のテニヲハで あり,原文の句説を切り,「吐」を「懸する(振る)」作業を行った後,それに従って朝鮮語に訳して 解釈する。(28)の懸吐文は次の如くである。
(29) 雖然hʌna 趙州 道hon 無rʌr 你nʌn 作麼生 会hʌnʌnta?(54b)
雖然ナレドモ 趙州 道セル 無ヲ 你ハ 作麼生会スルヤ
朝鮮における懸吐では「雖然hʌna」とするのが習慣であり,(28)の誤訳は習慣的懸吐に誘発されたも のであることが見て取れる。竹越孝(2005)は『翻訳老乞大』,『老乞大諺解』の「則」,「然後」など を前の句につけて句読を振る「韓習」的分句について指摘しているが,朝鮮の一般的知識人の中国語理 解を考える上で『蒙山和尚法語略錄諺解』の懸吐と誤訳はその早い例として注目すべきものである。
3.3. 禅文献翻訳体の平易さ
『蒙山和尚法語略錄諺解』の翻訳文体について見てみよう。
(30) 作麼生(56a) ‘əstəhʌnio?
どうだい?
(31) 曽切著者箇無字否(60b)
‘arai i 無ˀ 字to sakitosoni‘oa 先にこの無の字も解釈し (32) 捉破趙州(60b)
趙州rʌr capʌmiə 趙州を捕え
(33) 勘破仏祖得人憎処(60b)
putʰiə‘oa 祖師‘oai sarʌmʌikəi mɨ‘isian kotʌr kɨs ‘armiən 仏と祖師とが人に憎まれることを知り抜けば
(34) 若忘却話頭(17b) 話頭 ‘os nicɨmiən もし話頭を忘れたら
(30)から(34)の朝鮮語訳は日本語訳に示したように極々平易な朝鮮語文である。日本の禅宗において
は(31)以下の漢語「V著」,「V破」,「V却」などをそのまま音読し,また(30)は「そもさん」とい
う唐音で読む習慣が現在に至るまで続いているのと,極めて対照的である。『蒙山法語』は日本におけ る『無門関』のように朝鮮の禅刹で現代に至るまで広く用いられる書である。日本における『無門関』
の訓みが,禅宗特有のジャーゴンに満ちた,chinoiserie嗜好を満足させる異国趣味に溢れているのに対 して朝鮮のそれにはそうした衒いが見られない。日本の禅宗における唐音多用と併せて,中国語・中国 文化受容における両国の差という観点からこの事実を考えるべきである。
結語
本稿では,朝鮮における近世中国語の「翻訳」の問題を「音訳」と「意訳」の二つの側面に分けて考 察してきた。15世紀,16世紀の中国字音のハングル音訳は,①中国人によって示された枠内での理念 的な中国標準字音(『洪武正韻訳訓』の正音),②15 世紀中国語の現実音(『洪武正韻訳訓』の俗音),
③朝鮮標準字音(『東国正韻』),④崔世珍による16世紀現実音(『四声通解』の俗音)という,中 国と朝鮮を区別する二層構造を持っていた。8) 15世紀中葉に陀羅尼の音注を施した学僧たちは,読誦 されるべき「聖なる言語」の字音として,最初に①を,続いて②を選び,③を選ぼうとはしなかった。
このことは,真実語,神聖語としての聖句は,朝鮮語の音韻項目にはない区別を含む「中国語の正しい 音」で読むべきであるとの認識が存在したことを示唆する。筆者の能力を大きく越えることではあるが,
こうした神聖句の読誦音の問題は,通文明圏的に比較する必要があろう。9)
明清交替を経た18世紀になると,訳官たちによる中国語の現実字音の記述が重ねられる一方で,儒 教知識人たちの間に,中国朝鮮の別を止揚した「理想的」な漢字音を追求しようという機運が見られる ようになる。このことは訳学書の「左側音」を『洪武正韻訳訓』の正音という現実離れした復古的字音 で記すようになる動きとも関連すると思われる。10)
中国朝鮮の別を使用した「理想的」な字音は「朝鮮」にこそ実現し得るという思考が胚胎する。本稿 では申景濬の『韻解訓民正音』を通してその一端を垣間見た。
「意訳」としての翻訳の問題について,中国語の専門家である崔世珍による『翻老』の翻訳と中国語 の非専門家である信眉による『蒙山法語』の翻訳について考察した。前者では崔世珍自身による語釈を 引き合わせ,近世中国語の文法マーカーの朝鮮語訳が,16世紀朝鮮語の時相接辞の機能の解明に資する ものであり得ることを示した。後者では中国語接触体験のない仏僧が,文言の知識によって白話を解釈 したこと及び伝統的な懸吐によって引き起こされた「誤訳」の問題について考察した。また,信眉の訳 文が極めて平易な朝鮮語であり,禅宗ジャーゴンに満ち溢れた日本の禅籍訓読とは大きく様相を異にす ることにも言及した。
伊藤英人(2010)でも述べたが,朝鮮時代の知識人の唯一の書き言葉は文言であった。一方で朝鮮時代 を通して朝鮮は毎年北京に使節を送り,「現実」の中国と密接に関らざるを得なかった。江戸期の知識 人にとって中国はあくまでもバーチャルな世界であったのとは大きく異なり,したがって中国語現実字 音の知識は朝鮮時代を通して必要とされた。華音学習は一貫して現実的に要請され,崎陽之学の一過性 とこれを同日に論ずることはできない。一方で華夷変態以降,「より正統な中国性を体現する朝鮮」が 観念され,その過程で理想的な「正音」の創出がなされたことも注目すべきである。11)
最後に「韓習」の問題に触れておきたい。中国語解釈における分句等の韓習については既に述べた。
朝鮮知識人が,中国語(文言,白話)を書く際に生ずる韓習についての研究は近年始まったばかりであ る。杉山豊(2010)は『熱河日記』の白話文について分析を行っている。文言文についてはどうであろう か。
(35) 即帰馳来告于母主(葆眞堂燕行日記 1a)
(36) 今日与仏欲闘蒲戯(万福寺樗蒲記2a)
(35)は「母主」という漢語には存在しない語を用いた例である。これは「父主」等と共に朝鮮語の –nim
を訳して出来た朝鮮製漢語である。(36)では介詞に導かれた下線部が能願動詞に先行している統語的な 破格である。いずれも正統な文言で書くことを意図して書かれたものである。こうした意図せざる(と 思われる)破格漢語をKoreanismとして考察し,意図的に朝鮮語文を漢字表記した吏読的なものと区別 する作業が必要となる。
朝鮮における漢語受容の問題はさらに多角的に考究されるべきであると考える。
注
1) 以下,本稿における漢語文の字体は便宜上常用漢字体に従う。
2) 伊藤英人(2010:152)参照。1446年以降,政府レベルでの正書法改正は,1447年,1465年の2度に留まった。活字印刷に
よる出版資本主義と近代国民国家形成を結びつけたアンダーソンの見解に対してBoudewijn Walraven(2004)は,それへ の反証の例として朝鮮時代の出版文化を挙げている。Walraven(2004)は朝鮮時代の出版文化が,官版(活字本)→流通版
(木版)→流通本(写本)という,商業主義とは無縁のルートを通じてなされたにも関らずそれがnational unity形成に貢献
したという事実に言及している。
3) 本稿でいう近世中国語とは中国語学でいう近代漢語のことである。本稿で対象とするのはその内の南宋末~清代の言語 である。
4) 転字は以下の通りである。
母音 ㅏ a ㅑ ia ㅓə ㅕiə ㅗ o ㅛ io ㅜ u ㅠ iu ㅡ ɨ ㅣi ・ʌ 三重母音 ㅒ iai ㅙ oai …
子音
ㄱ k ㄴ n ㄷ t ㄹ r ㅁ m ㅂ p ㅅ s ㅇ ‘ ㅈ c ㅊ ch ㅋ kh ㅌ thㅍph ㅎ h
疑 ng 非 v 奉 vv 微 w 影 ʔ 日 z 精 c 清 s 従 cc 心 s 邪 ss 照 č 穿 čh 牀 čč 審 š 禅 šš 知ṭ
5) 1880年代の字音改正については伊藤英人(2002)参照。
6) この部分の記述は伊藤英人(2008)を一部要約したものである。
7) この部分の記述は伊藤英人(2004c)の記述と重なる。
8) 本稿では触れなかったが崔世珍は『訓蒙字会』において16世紀の現実朝鮮字音を示している。
9) Whitman(2010)は「意訳」の問題を含め「訓詁の到処性」の問題として音訳の問題にも言及している。
10) 18世紀以降の漢学書はすなわち「左側」では正統中華の伝統音を記し,右側では時代によって変化していく当代北京語 音を記すという互いに逆向きの志向性を帯びるようになる。
11) 鄺健行(2010)は,『清脾録』の用例分析を通して,「北京に行く」ことを,明代のそれを「赴京」,「朝京」とするが,清 代のそれは「遊燕」,「入燕」等とし「京」の字を用いない事実を明らかにしつつ,朝鮮知識人が明を慕い,「胡人入主 中原」の清の都を「京」の字で呼ぼうとしなかった清代朝鮮知識人の意識によるものとしている。これも「自らの中華 性」認識の傍証となろう。Dormels, Reiner(1999)は、18世紀韻書の字音規範化の動機として「朝鮮語におけるtの口蓋 音化」及び「外華内我」思想の現われとするが、明清交替による「中華性」志向は認めていない。また,孫衛國(2007) 参照。
* 本稿は科学研究補助費「朝鮮語史の国際的共同研究のための研究資源基盤構築」基盤(B)21320075の成果物の一部で ある。
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조선시대의 근세 중국어‘ 번역’ 을 둘러싸고
이토 히데토
본고는 조선시대의 근세중국어 ‘번역’에 대하여 이를 ‘음역’과 ‘의역’이란 두 가지 측면에서 고찰한다. 15, 16 세기의 중국자음의 음역은 ①중국의 틀에 맞추어서 음역한 이념적인 중국표준음(『洪武正韻譯訓』正音), ②15 세기 중국어 현실음(『洪武正韻訳訓』俗音),
③한국표준자음(『東國正韻』), ④崔世珍에 의한 16 세기 현실음(『四 聲 通解』俗音)이라는 중국과 한국을 구별하는 이층구조를 가지고 있었다. 15 세기 중엽에 다라니에 음주를 단 학승들은 독송되어야 할 신성한 언어의 자음으로서 먼저 ①을, 이어서 ②를 선택하였고 ③을 선택하지 않았다. 신성한 언어의 음으로서는 한국어에는 존재하지 않는 음소 항목을 포함한 중국의 옳은 자음을 선호한 것으로 생각된다.
청나라 성립 이후 18 세기에는 역관들에 의해 중국 현실자음이 기술되어 가는 한편, 유교 지식인들 사이에 중국과 한국의 구별을 초월한 正音에 대한 지향성이 생기게 된다.그리고 그러한 정음은 오히려 조선에 존재한다는 관념조차 생기기에 이르렀다. 본고는 申景濬의
『韻解訓民正音』를 통해서 그 일단을 살펴보았다.
‘의역’으로서의 번역의 문제에 관해서는 중국어 전문가인 최세진과 비전문가인 신미의 번역에 대해서 고찰하였다. 전자에 있어서는 최세진 자신에 의한 주석을 참조하면서 백화문 원문의 문법표지의 번역 양상이 16 세기 한국어의 시상 선어말어미의 용법 해명에 이용될 수 있다는 사실을 확인하였다. 후자에서는 현실적으로 중국어와 접할 기회가 없었던 신미가 한문 현토 방식에 의한 백화해독을 행하는 데서 말미암은 오역의 문제를 살펴보았다. 동시에 신미의 번역문이 극히 평이한 한국어문이 되어 있는 사실과 일본의 선종문헌 훈독의 난삽성, 현학성을 대비함으로써 양국의 선문화 수용의 차이에 대해서 고찰하였다.
Transcription and Translation of Baihua in Joseon ITO, Hideto