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港湾都市横浜の空間形成史に関する研究

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(1)

港湾都市横浜の空間形成史に関する研究

著者 石渡 雄士

著者別名 ISHIWATA Yushi

その他のタイトル A Study on the History of Spatial Formation in Yokohama

ページ 1‑112

発行年 2018‑03‑24

学位授与番号 32675乙第232号 学位授与年月日 2018‑03‑24

学位名 博士(工学)

学位授与機関 法政大学 (Hosei University)

URL http://doi.org/10.15002/00014638

(2)

法政大学審査学位論文

港湾都市横浜の空間形成史に関する研究

石渡 雄士

(3)
(4)

目次

序章

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  

第 1 節 研究の背景と目的 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 第 2 節 研究方法 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 第 3 節 既往研究の概要と本研究の位置づけ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 第 4 節 論文の構成 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第 1 章 横浜の地域構造

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  

 第 1 節 研究の背景と目的 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 第 2 節 研究方法 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 第 3 節 地形と河川 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第 4 節 横浜の開港以前における地域構造(海路) ・・・・・・・・・・・・・・

 第 5 節 横浜の開港以前における地域構造(陸路) ・・・・・・・・・・・・・・

 第 6 節 神奈川の地域形成 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   6-1. 神奈川湊と権現山城の形成(中世まで) ・・・・・・・・・・・・・・・

   6-2.街道の整備と宿場町の形成(近世) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 第 7 節 開港以前の横浜村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 第 8 節 小結 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第 2 章 商港を中心として発展した関内の形成史

・・・・・・・・・  

 第 1 節 研究の背景と目的 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 第 2 節 研究方法 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 第 3 節 第 1 期:外国公館による借用(開港~明治 9 年頃) ・・・・・・・・

 第 4 節 第 2 期:官庁施設の設置(明治 9 年~明治 17 年) ・・・・・・・・・

 第 5 節 第 3 期:横浜御用邸の移転と払い下げ(明治 18 年~大正 14 年)  

 第 6 節 小結 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第 3 章 関内における近代的港湾施設の建設とその変遷

・・・・・  

 第 1 節 研究の背景と目的 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 第 2 節 研究方法と史料 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

5

7 7 8 11

17

19 19 19 19 21 22 22 24 24 25

27

29 32 32 36 38 39

47

49 51

目次

(5)

 第 3 節 沖荷役前期 ( 第 1 期 : 安政 6 年~慶応元年 ) ・・・・・・・・

   3-1. 接岸設備 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・     

   3-2. 陸上設備 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 第 4 節 沖荷役後期 ( 第 2 期 : 慶応 2 年~明治 29 年 ) ・・・・・・・  

   4-1. 接岸設備 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   4-2. 陸上設備 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 第 5 節 岸壁荷役前期 ( 第 3 期 : 明治 27 年~大正 5 年 ) ・・・・・・

  5-1. 接岸設備 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  5-2. 陸上設備 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 第 6 節 岸壁荷役後期 ( 第 4 期 : 大正 6 年 ) ・・・・・・・・・・・・・・

  6-1. 接岸設備 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   6-2. 陸上設備 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   6-2-1. 起重機用鉄道と列車用鉄道 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

   6-2-2. 上屋 、 倉庫 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   6-2-3. 列車用鉄道 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 第 7 節 小結 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第 4 章 鉄桟橋と新港埠頭における上屋と倉庫の空間構成

・・・  

 第 1 節 本章の背景と目的 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 第 2 節 研究方法と史料 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 第 3 節 当時の標準的な上屋及び倉庫と横浜港の比較 ・・・・・・・・

  3-1. 上屋と倉庫の使用目的と港湾施設内の位置づけ ・・・・・・・     

   3-2. 本稿の対象となる上屋と倉庫について ・・・・・・・・・・・・

   3-3. 上屋の桁行 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   3-4. 上屋の梁間 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   3-5. 倉庫の梁間と桁行 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 第 4 節 貨物空間 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   4-1. 上屋 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  4-2. 倉庫 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 第 5 節 旅客空間 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   5-1. 震災以前 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

52 52 53 53 53 56 57 58 59 59 60 61 61 63 64 64

71

73 76 79 79 80 80 82 83 83 83 86 88 90

(6)

  5-1-1. 旅客のみが利用する空間 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

5-1-2. 旅客と送迎者が利用する空間 ・・・・・・・・・・・・・・・・・      

5-2. 震災以後 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  5-2-1. 旅客のみが利用する空間 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

5-2-2. 旅客と送迎者が利用する空間 ・・・・・・・・・・・・・・・・・

 第 6 節 小結 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

結章

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

論文初出 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

謝辞 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

90 90 90 92 92 96

105

111 112

目次

(7)
(8)

序章

序章

(9)
(10)

第 1 節 研究の背景と目的

安政 6(1859)年の開港以降、港湾都市として発展した横浜は、臨海部に港湾ゾーンや工業地 帯が形成された。関内の海沿いに形成された港湾ゾーンでは、波止場や鉄桟橋、新港埠頭とい った港湾施設が海面へ突き出すかたちで建設され、東京湾内においても独自の形態で発展を遂 げる。一方、神奈川以東の工業ゾーン(京浜工業地帯)の埋立地は、東京の芝浦や品川で見ら れる近代に行われた埋立地と類似している。それは漁船の通路として掘割が残され海岸線と平 行に通る運河が整備され、島状の埋立地が連続する空間である。これら2つのゾーンは 20 世紀 前半まで大きく発展し、港湾都市横浜の中核を担っていた。

 だが 20 世紀の後半になると、産業構造や都市機能の変化によって臨海部の土地利用が転換す る。港湾ゾーンでは「みなとみらい21地区」や「新港埠頭地区」が 1980 年代以降、ウォータ ーフロントの再開発が行われた。港湾機能が移転して衰退した旧港湾地区を、商業・業務・居 住などに有効利用しようとする都市再生の動き1として、横浜はその先駆けとなった。だがこれ らの開発は経済的な有用性から開発が行われたため、ウォーターフロントが本来有するその資 質を活かした開発であるかというと甚だ疑問であるという指摘がされている2。その資質を見出 す手がかりとして、開発が行われる以前の港湾地区がどのように成立し、時代とともにどう移動・

変遷してきたのかを解き明かすことが求められている3

本論文の目的は、港湾都市として発展した横浜を対象に、その空間形成について2つの視点 から解き明かそうとするものである。ひとつ目の視点は、個別の研究対象として扱われていた 港湾施設と後背地の両者を結びつけてその形成過程を示すことである。二つ目の視点は、これ まで詳細に論じられることのなかった港湾施設そのものに焦点を当て、開港から近代的港湾施 設が完成する大正初期までの変遷過程を解読することである。

第 2 節 研究方法

最初に本論文の目的のひとつである、個別の研究対象として扱われていた港湾施設と後背地 の両者を結びつけてその形成過程について考察をした。横浜村(後の関内地区)と神奈川を対 象に、海路と陸路、そして両者をつなぐ港湾施設に着目して横浜全体の地域構造を明らかにした。

海路では、航路の要衝に当たり後背地との連絡にも利便性の高い場所に発展する湊町の位置に ついて考察を行った。次に陸路については都市間を陸上で結び、物資や人の往来によるネット ワークとなった古道に着目した。地図上に古道をトレースし、中世の城跡をプロットすることで、

地域の拠点の変遷について考察を行った。そして横浜全体の地域構造を捉えた上で、次は関内 を対象として港湾施設の発展と共に、その後背地にも土地の用途が変化し、施設利用の変遷が 序章

(11)

見られる過程を明らかにした。その事例として横浜生糸検査所跡地を取り上げた。施設利用の 変遷から対象地が次の4つの時期に分けた。

第 1 期:外国公館による借用(開港~明治 9 年頃)

第 2 期:官庁施設の設置(明治 9 年~明治 17 年)

第 3 期:横浜御用邸の移転と払い下げ(明治 18 年~大正 14 年)

各施設の変遷を分析する上で、異なる時代の土地宝典から敷地割りを復元し、1 筆ごとの変遷 を収集した文献史料や地図史料から考察を行った。また、新聞記事から各施設の利用目的を分 析することで、施設が変化しても受け継がれた用途について考察をした。

 次に、本論文のもうひとつの目的である港湾施設そのものに焦点を当て、開港から近代的港 湾施設が完成する大正初期までの変遷過程を解読することである。対象とする範囲は横浜港の 中心的役割を担っていた関内の税関構内と呼ばれた場所(東波止場と西波止場、鉄桟橋と新港 埠頭)である。これら港湾施設の変遷を 4 つの時期に分けて考察を行った 。 沖荷役のうち、陸 上設備に該当する建築物 ( 上屋や倉庫 ) が建設される前を沖荷役前期 、 建設後を沖荷役後期と した。そして鉄桟橋の完成以降を岸壁荷役前期、最後に新港埠頭が完成する時期を岸壁荷役後 期として以下に分けた。

第 1 期 : 沖荷役前期 ( 安政 6 年~慶應元年 ) 第 2 期 : 沖荷役後期 ( 慶應 2 年~明治 29 年 ) 第 3 期 : 岸壁荷役前期 ( 明治 27 年~大正 5 年 ) 第 4 期 : 岸壁荷役後期 ( 大正 6 年 )

横浜港の中心部であった税関構内全体の変遷を明らかにした上で、次に港湾の景観を構成す る上で重要な要素である上屋と倉庫に着目し、関東大震災前後におけるこれらの空間構成につ いて論じた。港湾施設として上屋と倉庫がどのように使用されていたのか、またそれらの標準 的な大きさ(梁間と桁行き)について考察を行った。そして横浜港の上屋と倉庫の空間構成の 考察を行った。各建物の主要室の名称から先述した2つの使用目的に分類し、①を貨物空間、

②を旅客空間と呼び分析を進めた。

第 3 節 既往研究の概要と本研究の位置づけ

既往研究の概要を次の順に述べていく。最初に本論の 3 章、4 章と関係する港湾研究史につい て述べ、次に本編全体に関係する建築史・都市史を中心とした建築学の分野における既往研究 について述べ、本研究の位置づけを行う。横浜に関する既往研究は膨大にある。そのため各章 においても特に関係のある既往研究について冒頭に述べることで、各研究成果の位置づけを明

(12)

確に示した。

最初に港湾研究史については、稲吉4によればこの分野を戦後に主導したのは経済学であり、

そのほかの分野では土木史に多くある。経済学が主導した理由として、寺谷5は経済成長の隘路 となって顕在化した港湾機能が麻痺したことから社会的間接資本の不足に直面して喚起された と指摘している。そのため現実的にして現代的な課題としたものが多く、港湾施設やその後背 地における文化や歴史に着目されてこなかった。一方の土木史の分野では、明治以降、多くの 日本人技術者・研究者らによって最新の港湾技術に関する港湾研究が進められたものの、戦前 で特記すべき成果としては近代港湾技術の第一人者とされる広井勇による『日本築港史』6があ る。歴史として取り組まれることが戦後までほとんどなかった。我が国の築港工事を後世に伝 えるため、収集した資料に基づいて 54 港の築港工事の沿革から計画、設計ならびに施工などに ついて記され著者の批評も加えられている7

戦後になると、戦前までに建設された港湾施設が陳腐化・老朽化・被災などにより、改造・補修・

撤去が進み、史料の散逸の危機感から港湾史をまとめようとする動きが市や港湾管理者によっ て進められる。また、防災対策上からも既往港湾施設の設計、施工の経緯を調査する必要が生 じてきたことから、我が国の修築の歴史をまとめようとする動きがでてくる。全国の港湾を対 象としたものとして、運輸省港湾局『日本港湾修築史』(1951 年)、日本港湾協会『日本港湾史』

(1978 年)。横浜港に関しても記述があるのの、港湾施設の概要を述べるに留まっている。

次に横浜港を対象としたものとして、次のものが挙げられる。運輸省第二港湾建設局、京浜 港工事事務所『横浜港修築史―明治・大正・昭和前期―』(1983 年)。横浜市+横浜歴史的資産 調査会『都市の記憶 横浜の土木遺産』(1988 年)。横浜港振興協会横浜港史刊行委員会『横浜 港史8』(横浜市港湾局企画課、1989 年)。横浜港振興協会横浜港史刊行委員会『横浜港史 総論編』

(横浜市港湾局企画課、1989 年)。また 2000 年代に入ると、港湾施設の急激な消滅により危機意 識が芽生え、また赤レンガ倉庫をはじめとする保存・活用の動きがあり、横浜みなとみらい 21『横 浜赤レンガ倉庫物語』(神奈川新聞社、2004 年)、客船とみなと遺産の会『横浜大桟橋物語』(JTB パブリッシング、2004 年)、田中祥夫『横浜港の七不思議 : 象の鼻・大桟橋・新港埠頭』(有隣 堂、2007 年)などの著作が出版される。また、物流博物館『横浜浮世絵に見る 近代物流事始』

(財団法人利用運送振興会、2002 年)にみられるように、簡易ではあるが近代の港湾施設の紹介 をした冊子も刊行されている。

いずれも個々の港湾施設や建物の概要について概要を述べているものの、施設間の関係性や その空間構成についてまでは述べられておらず、本論文ではそれらの解明を試みた点に特性が ある。

序章

(13)

 次に本編全体に関係する建築史・都市史を中心とした建築学の分野における既往研究につい て述べる。日本の湊町や港湾都市9に関する研究成果は膨大にある。時代ごとでは、中世・近世 までの港町の既往研究レビューは谷沢明10によって整理をされているため、本稿では主に近代 以降に発展した港湾都市について本論文と特に関係があるものについて述べる11。藤森照信の東 京築港論12をはじめとして、陣内と高村を中心とする一連の水都学研究13や岡本哲志+日本の 港町研究会『港町の近代―門司・小樽・横浜・函館を読む』(学芸出版社、2008 年)、近年では、

渡邊大志『東京臨海論 港からみた都市構造史』(東京大学出版局 、2017 年)がある。いずれも 都市論の中で港湾施設について述べているものの、港湾施設について詳細にまで言及がなされ ていない。次に横浜の既往研究について述べる。

横浜において建築史の分野では、最初にまとめられたものとして神奈川県建築士会編『神奈 川県建築史図説』(1962 年)がある。地図史料から波止場・鉄桟橋・新港埠頭の変遷を示してい るものの、分析にまで言及されてはいない。また建築史の分野では最初に堀勇良14による横浜 の建築/建築家データベースの蓄積があげられる15。同氏は日本近代建築家経歴研究として横浜 で活躍した国内外の建築関係者についてまとめた成果がある16。横浜にある近代建築については、

1970 年代末から横浜税関や赤煉瓦倉庫について雑誌などにおいて紹介をしている17。横浜の都 市形成について、従事した建築家や技術者からまとめている成果もある18

そして、1980 年代以降は横浜の都市形成の名著となる横浜市企画調整局編『港町・横浜の都 市形成史』(1981 年)がある。都市全体の形成について述べられている点では評価ができるが、

港湾施設に関しては言及されるものの概要で留まっている19。また北沢20の指摘するように、

この時期に横浜の都市づくりや都市デザインに関する研究が多く生み出される。横浜市の担当 職員によって書かれたものがあり、田村時代(80 年代以降)と創造都市(00 年代)の2つの時 期に多くの成果がまとめられた。80 年代は、企画調整局長として飛鳥田市政の都市づくりを支 えた田村明を中心とするものであり、田村明21『都市ヨコハマをつくる―実践的まちづくり手法』

(中央公論新社、1983 年)などがある。00 年代については後述する。また同時期は、みなとみ らい 21 地区の埋立事業が始まり臨海部の急激な開発によって風景が一辺するなかで、海辺の多 様な歴史を明らかにする試みとして、人々の生業、信仰、遊び、そして工業地帯の変遷に関す る研究成果が刊行される。尾州海戦との関係から近世神奈川湊の海運22を明らかにすることで、

上方から江戸にいたる太平洋海運の一端を明らかにした横浜市歴史博物館『海からの江戸時代 神奈川湊と海の道』(1997 年)や横浜市歴史博物館・横浜市ふるさと歴史財団編『移りゆく横浜 の海辺 海とともに暮らしていた頃』(横浜市歴史博物館、1999 年)横浜開港資料館編『横浜の

(14)

海七面相』(横浜市ふるさと歴史財団、2012 年)がある。

 前述した 80 年代に盛んであった横浜の都市づくりや都市デザインに関する研究が 00 年代に も多くの成果が出された。その理由として創造都市構想により歴史的建造物の保存及び活用に 注目がされたことにある。野田邦弘『創造都市・横浜の戦略―クリエイティブシティへの挑戦』

(学芸出版社、2008 年)や横浜市・鈴木伸治編著『創造性が都市を変える クリエイティブシテ ィ横浜からの発信』(学芸出版社、2013 年)といった書籍が刊行された23。その一方で都市史・

建築史では横浜市都市発展記念館主任研究調査員の青木24により開港直後の関内にその特性を 伝統都市の延長線上に解釈をしようと試みた研究成果がある。

そして 2010 年代では、3.11 の経験から地形への関心が高まり、貝塚爽平『東京の自然史』(講 談社、2011 年)の復刻も大きな影響となり、横浜の地形に関する成果が出される。松田磐余『対 話で学ぶ 江戸東京・横浜の地形』(之潮、2013 年)や都市研究会『地図と地形で楽しむ 横浜歴 史散歩』(洋泉社、2017 年)がある。またもうひとつの流れとして、横浜のみに限らず、周辺地 域を含めた地域の再考を行う研究がある。吉崎雅規編集・執筆『港をめぐる二都物語 江戸東 京と横浜』(横浜都市発展記念館・横浜開港資料館、2014 年)や中尾俊介「幕末から明治初頭に おける湾内の変遷と神奈川・横浜地帯の形成」(2014 年度東京大学集論文)」などがある。また、

横浜市域の歴史的な役割と特質を弥生時代から江戸時代までの大きな流れの中で捉えようとす る五味文彦『日本史のなかの横浜』(有隣堂、2015 年)も同様である。現在、注目を集める研究 テーマであるが、本研究の目的とする港湾施設やその建築物の細部にまで考察が進められてい ない。

第 4 節 論文の構成

 本論文は、序論及び結章と本論 4 章から構成する。各章の概要は以下の通りである。

序章では、本研究の目的、背景と問題の所在、既往研究と本論文の位置づけ、論文の構成に ついて述べた。

第 1 章では、横浜村(後の関内地区)と神奈川を対象に、海路と陸路、そして両者をつなぐ 港湾施設に着目して横浜全体の地域構造を明らかにすることを目的としている。  

第 1 節では、横浜村と神奈川の位置関係や歴史的背景について述べた。

 第 2 節では分析方法として、地図上に地形や古道、寺社、城跡などの要素をプロットするこ とで地域構造を解読した。

第 3 節では、海路に着目して横浜の地域構造を検証した。

第 4 節では、陸路に着目して横浜の地域構造を解読した。近世の主要街道との関係から神奈 序章

(15)

川宿、横浜村(後の関内)について論じた。また古道のほかに中世の城跡をプロットすることで、

地域の拠点が変遷したことを論じた。

第 5 節では、分析の対象地を神奈川に絞り、寺社の創建年代やその移転、城跡を地図上にプ ロットすることで地域構造を検証した。

 第 2 章では、港湾施設の発展と共に、その後背地となる関内においても土地の用途が変化し、

施設利用の変遷が見られる過程を明らかにした。

第 1 節では、横浜生糸検査所跡地を事例として取り上げた理由や、関内における対象地の位 置づけを論じた。

 第 2 節では、施設利用の変遷から対象地が4つの時期に分けられることを指摘した。そして 本章の考察を進める上でベース図となる敷地割を示した地図の作成方法や分析で扱った史料に ついて論じた。

第 3 節では、対象地に外国公館が立ち並ぶ第 1 期について論じた。風光明媚な立地を活かし、

良好な住環境が求められる外国公館の場所として対象地が利用されたことを指摘した。また他 の外国人居留地と外国公館の地坪数を比較することで、対象地が住環境に恵まれていたことを 明らかにした。

第 4 節では、外国公館跡地に官庁施設が置かれる第 2 期について論じた。また新聞記事の分 析から、東海鎮守府では軍事目的以外にも利用されたことを明らかにした。

第 5 節では、御用邸が移転する第 3 期について論じた。御用邸の利用目的について新聞記事 から分析を行った。その結果、利用目的の一部が第 2 期の東海鎮守府から引き継がれていたこ とを明らかにした。そして新港埠頭の完成によって対象地が物流の拠点として重要となったこ とから、敷地が統合されて生糸検査所となる過程を論じた。

第 3 章では、関内の税関構内を対象に港湾施設の変遷を4つの時期に分けて論じた。

対象となる時代は、開港から本格的な近代的港湾施設として新港埠頭が完成する大正初期まで である。

 第 1 節では、我が国における港湾のあり方が近世から近代にかけて大きく変化したことを指 摘し、横浜港を含む商港の近代的港湾施設の特徴について論じている。

 第 2 節では、横浜港の港湾施設の変遷を解明する上で4つの時期に分けて検証したことを指 摘し、分析に用いた史料について述べた。

第 3 節では、沖荷役が行われていた第 1 期の港湾施設(波止場)について論じた。接岸設備 では東西の波止場を中心に 、 その規模や雁木の存在を明らかにした 。 まだ陸上設備は建設され ておらず、波止場周辺は更地の状態であったことを地図や絵図史料で明らかにした。

(16)

第 4 節では、第 2 期の港湾施設(波止場)について論じた。陸上設備では上屋や倉庫、鉄軌、

転車台、起重機を対象に考察を行った。上屋や倉庫ではその建設年代や位置、規模などを文献 や地図史料から明らかにした 。 残りの鉄軌と転車台、起重機については荷揚げの機械化が進め られたことを指摘した 。

第 5 節では、第 3 期の港湾施設(波止場と鉄桟橋)について論じた。横浜港において初めて 岸壁荷役用の接岸設備となる鉄桟橋について3つの部分(鉄橋、桟橋前部、桟橋後部)に分け て各部分の用途を指摘した。鉄桟橋上の鉄軌が第 2 期の港湾施設(波止場)へと連結されてい ることから、この両者をつなぎ合わせて荷役が行われていたことを明らかにした。また鉄橋の 存在から、鉄桟橋は岸壁荷役のみでなく 、 沖荷役で利用される艀の航行に配慮された設計であ ったことを指摘した。

第 6 節では、第 4 期の港湾施設(新港埠頭)について論じている。岸壁荷役として利用され た岸壁と沖荷役として利用された物揚場について、その位置や寸法 、 水深について明らかにし た 。 陸上設備は、海側から岸壁→起重機用鉄道・列車用鉄道→上屋 ・ 倉庫→列車用鉄道の構成 で 、 岸壁荷役が行われていたことを指摘した 。 その結果、艀輸送に頼らずに鉄道によって直接 に内陸へと運搬できる点が第 3 期と異なる点であると指摘した。

第4章では、関東大震災前後における税関構内の官設上屋と倉庫の空間構成について論じた。

第 1 節では、税関や港湾施設の概要について論じ、上屋と倉庫が港湾の景観を構成する上で 重要な要素であることを指摘した。

第 2 節では、分析で扱った史料の概要と研究方法について論じた。

第 3 節では、当時の港湾施設において上屋と倉庫がどのように位置づけられ、またどのよう に使用されていたのかを史料を用いて検証した。そして収集した史料を元に、分析対象の上屋 と倉庫についての基本情報(構造や階数、梁間と桁行の寸法)を整理した。次に上屋と倉庫に おける梁間と桁行の寸法について、当時の主要港と比較しながら横浜港の特徴を論じた。

第 4 節では、上屋と倉庫の貨物空間について論じた。貨物空間では、用途の違いから上屋と 倉庫では異なる空間構成となっていることを指摘した。また、関東大震災前後で屋根の架構形 式によって柱の配置に違いがあることを明らかにした。

 第 5 節では、上屋の旅客空間について論じた。関東大震災後の上屋では、旅客空間の動線や 待合室の空間構成を検証することで、より快適性を重視した設計であったことを指摘した。また、

天井の形態などから旅客空間と貨物空間に違いがあることを指摘した。最後に旅客空間は送迎 の用途だけではなく、酒場や食堂の設置により食を楽しむための空間としても利用されたこと を指摘した。

序章

(17)

 結章では、本論文 1 ~ 4 章の結果を要約として結論とした。

1)前掲「ウォーターフロント開発の変遷と開発を促す要因」、pp.170-171, pp.174-175 2)前掲「ウォーターフロント開発の変遷と開発を促す要因」、p.179

3)陣内秀信「世界の港町に関する発展・衰退・再生のメカニズム』『水都学Ⅳ 特集水都学の 方法を探って』(法政大学出版局、2015 年)p.175。陣内は近年水都学を提唱し、その最も重要 なテーマのひとつとして港の立地形態及び機能などの問題を挙げている。

4)稲吉晃『海港の政治史―明治から戦後へ―』、名古屋大学出版会、2014 年、pp.10-12

5)寺谷武明『近代日本港湾史』(時潮社、1993 年、はじめに)。他に経済分野において港湾研究 をテーマに活躍した中に北見俊郎、山口辰男、小林照夫がいる。

6)広井勇『日本築港史』、丸善、1927 年

7)土木名著百書『土木工学大系第1巻 土木工学概説』、1982 年、p.284 8)総論編と各論編の分冊がある。

9)本論文では、『建築大辞典 第 2 版』(彰国社、p.554)に従い、港湾を中心に発達、発展し た都市について、近代以降を「港湾都市」、それ以前を「港町」と表記をした。

10)谷沢明「瀬戸内の港町形成に関する史的考察」、法政大学博士論文、2000 年

11)日本近代都市史全般に関する既往研究のレビューは、松山恵「日本近代都市史研究のあゆみ」

(都市史学会編『都市史研究 2』山川出版社、2015 年、pp.71-79)などがある。

12)藤森照信『明治の東京計画』、岩波書店、1990 年

13)陣内秀信・高村雅彦編『水都学 Ⅰ~Ⅴ』、法政大学出版局、2013 ~ 2016 年

14)堀氏による建築/建築家データベースは横浜に留まらず、全国へと展開し、また日本の外 国人建築家にも取り組み、「履歴を通じての近代日本外国人建築家の研究」として 2005 年度に 日本建築学会賞(論文)を受賞した。

15)堀氏の研究内容については、青木祐介「幕末・明治期の横浜における都市と建築に関する研究」

(東京大学博士論文、2009 年、p.3)や「履歴を通じての近代日本外国人建築家の研究 ( 学会賞 ( 論文 ),2005 年 日本建築学会賞 )」『建築雑誌 vol.120 No1536』(2005 年、p.60)を参照した。

16)堀勇良「横浜市建築関係者一覧」『昭和を生き抜いた学舎 横浜震災復興小学校の記録』付録(横 浜市建築局学校建設課 / 横浜市教育委員会施設課、1985 年)

同「横浜の建築家」『横浜・都市と建築の 100 年』、横浜市建築局企画管理課、1989 年

(18)

17)堀勇良「建築譜 - 明治大正昭和 -1- 赤煉瓦倉庫」『自然』(中央公論社、1979 年 ) など。

同「建築譜 - 明治大正昭和 -1- 税関」『自然』(中央公論社、1981 年 )。

18)堀勇良「開港場のグランド・デザイナー 開港都市発達史稿」『新体系 土木工学 別巻 日本 土木史』(技報堂出版、1994 年)や同「都市経営の技術―横浜のまちづくり―」『新体系日本史 11 産業技術史』(山川出版社、2001 年)

19)ほかに都市形成を扱ったものとして、塚田景「近代横浜の都市形成」(信州大学学位論文、

2005 年)や梅津章子「港都横浜の都市形成」『日本の美術 10』(至文堂、2005 年)などがある。

20)北沢猛「空間計画と形成方策の多層性に関する研究 : 横浜市の空間誘導制度から捉えた現 代都市デザイン試論」(東京大学博士論文、2004 年)を参照した。

21) 他に『都市プランナー田村明の闘い―横浜“市民の政府”をめざして』(学芸出版社、2006 年)

22)近年では井上攻「一九世紀の神奈川湊と塩の流通 - 武州橘樹郡長尾村鈴木藤助日記を中心 に -」『横浜市歴史博物館紀要 第 20 号』(2016 年)などもある。

23)近年では情熱都市 YMM21 編集委員会『情熱都市 YMM21』(鹿島出版会、2017 年)などみなと みらい 21 地区の開発の再評価がされている。

24)青木祐介「幕末・明治期の横浜における都市と建築に関する研究」(東京大学学位請求論文、

2009 年)。ほかに市内の資料館・博物館の研究員では、歴史学の西川武臣『横浜開港と交通の近 代化 蒸気船・鉄道・馬車をめぐって』(日本経済評論社、2004 年)があり、交通史や流通史を 論じている。

序章

(19)
(20)

第 1 章 横浜の地域構造

第1章

横浜の地域構造

(21)
(22)

第 1 節 研究の背景と目的

本章では、関内と神奈川を対象に、海路と陸路、そして両者をつなぐ港湾施設に着目するこ とで港湾都市の形成と変容を明らかにすることを目的とする。

横浜地域を把握する研究成果として関内のみに限らず、周辺地域を含めた地域の再考を行う 研究が近年多くある。例えば吉崎雅規編集・執筆『港をめぐる二都物語 江戸東京と横浜』(横 浜都市発展記念館・横浜開港資料館、2014 年)や中尾俊介「幕末から明治初頭における湾内の 変遷と神奈川・横浜地帯の形成」(2014 年度東京大学集論文)」などがある。また、横浜市域の 歴史的な役割と特質を弥生時代から江戸時代までの大きな流れの中で捉えようとする五味文彦

『日本史のなかの横浜』(有隣堂、2015 年)も同様である。いずれも今後の研究テーマの展開が 期待される。開港以前の横浜村(後の関内一帯)は、半農半漁の寒村であったが、海を隔てた 北東約 3Km には東海道に沿って宿場町や港町、漁村がある神奈川があった。近世までに繁栄し た神奈川を含む周辺地域を対象とすることで、近代に大きく成長を遂げる関内がどのような地 域構造を背景としていたのかを明らかにする。

第 2 節 研究方法

開港以前の関内と神奈川の地域構造を考察するにあたり、海路と陸路に着目した。海路では、

航路の要衝に当たり後背地との連絡にも利便性の高い場所に発展する湊町の位置について考察 を行った。次に陸路については都市間を陸上で結び、物資や人の往来によるネットワークとな った古道1に着目した。地図上に古道をトレースし、中世の城跡をプロットすることで、地域の 拠点の変遷について考察を行った。

第 3 節 地形と河川

 横浜市内は、東側を東京湾に接し、西側に陸地が広がっている(図 1-1)。河川では、主に4 つの水系(鶴見川水系、帷子川水系、大岡川水系、境川水系)があり、鶴見川水系、帷子川水系、

大岡川水系の3つは東京湾へ流れ、境川水系は相模湾へ注ぐ。

本章で考察の対象となる神奈川と関内の地域は、東京湾と複雑に入り組んだ下末吉台地の麓 の低地部にある。神奈川は帷子川水系、関内は大岡川水系のともに河口が大きな入り江を形成 した位置にあたる。

第 4 節 横浜の開港以前における地域構造(海路)

 近世までの横浜市域内の主要な港町は、神奈川湊、六浦湊2の存在が指摘されている。中世 第 1 章 横浜の地域構造

(23)

の江戸湾では、地方経済の中心として品川、神奈川、六浦があり3 、それぞれ湊を持っていた。

神奈川湊4は、神奈川の湾岸沿い一帯を指し、特定の場所ではなかったとされている。いつ頃 から湊があったのか正確な資料はないが、文書に残されている最古のものは、永和 4 年(1378)

の武蔵国守護、上杉憲春が円覚寺に出したものである。神奈川湊がある青木村は、湊を中心に、

武蔵国の交通、経済、軍事上の要害拠点5 となっていたと考えられる。

−33−

図4−4  横浜市の地形と谷戸分布図図 1-1 横浜市域の地形と河川

出典:横浜市環境科学研究所エコシティ研究室『横浜型エコシティ研究報告書 花鳥風月のま ちづくり』2002 年より

(24)

一方、開港場となる横浜村6は、その先端を「象ヶ鼻」と呼ばれる細長い砂洲の上にあり、そ の砂洲に抱き込まれるように「州乾の湊」という小さな港と吊鐘上の入江があった。文政 10(1823)

年の『新編武蔵野風土記稿』によれば八七戸の半農半漁の横浜村(現在の神奈川県庁以東)が ある静かな場所であった。

第 5 節 横浜の開港以前における地域構造(陸路)

開港直前の横浜市内における陸路の主要道7は、市域の東北より西南にかけて、東海道、矢倉 沢往還、中原街道といった主要路が通っている(図 1-2)。

近世の神奈川宿8は、城下町の小田原と開港以後の横浜を除いては、神奈川県域で最大の都市 であった9 。東海道の宿駅として陸上交通の要衝であったことと共に、東海道に沿って南西に 神奈川湊、北東に子安などの漁村が周辺に位置し、海陸両面から国内各地と物資の流通や人の 往来、文化が流入した。そのため、横浜市内の枝道は主要路を連絡する形で通じていると共に、

神奈川に集中している(恩田川南北岸の神奈川道、稲毛道、八王子道、相州道など)。  横浜市内における近世の宿場町は、ほかにも保土ヶ谷宿と戸塚宿があるが、いずれも東海道

図 1-2 関内と神奈川の位置及び、中世の城跡と近世末の主要道 出典:国土地理院の基盤地図情報を元に作成

第 1 章 横浜の地域構造

(25)

沿いに形成された宿場町として栄えたが、唯一海に面して湊を持ち漁村と接した宿場町は神奈 川宿のみであった。その他の陸路としては、近世後期に発達した信仰のための道(大山道、小 机観音道、淡島道等)、学問所への道(三ツ沢檀林道など)が数多くある。

 一方の横浜は、近世の主要街道から外れて位置する。江戸時代、東海道から横浜村へ行くには、

保土ヶ谷経由か神奈川宿から船で渡るしかなかった。そこで幕府は開港にあたり、「横浜道」を 整備した。東海道筋の芝生村(現在の西区浅間町付近)から戸部村に真っ直ぐの道を通し、野 毛山には切り通しを開いた。ここを過ぎると野毛浦から吉田新田の土手を経て、開港場の入口 である吉田橋に達した。

第 2 節から、現在の市域は江戸から諸方面へと至る主要路の中間的な存在であり、地域的に は諸物資輸送などの中心地神奈川への道が集中していたことの2点が最も大きな特色であると いえる。一方の横浜村は、陸路・海路ともに周辺地域とつながりの薄い場所としてあった半農 半漁の寒村であった。後の開港場の後背地である現在の伊勢佐木町から日枝神社に至る一帯は、

吉田新田が完成するまでは入江であった。吉田新田は江戸の材木商であった吉田勘兵衛を中心 に 8 年の歳月をかけて寛文 7 年(1667)に完成した。大岡川をその海の吐き口で 2 分し、太田村、

戸部村沿いと堀之内村、中村、横浜村沿いに水路を作り、その両水路に囲まれた入江の内部を 埋め立てたものである。開港後に市街地となるエリアは、吉田新田のほかにも太田屋新田、横 浜新田(現在の中華街)といった近世の新田開発地が大きな意味を持つことになる。

第 6 節 神奈川の地域形成

6-1. 神奈川湊と権現山城の形成(中世まで)

 神奈川区内には、6500 年前の縄文時代には桐塚や台町といった台地の崖下周辺に貝塚の存在 などが発見され、人々が暮らしていた痕跡を確認できる10。そして中世になると、最も創建年代 が古い寺社として、寛治元年(1087)に幸ヶ谷山頂に熊野神社が置かれた。そして現在の幸ヶ 谷公園周辺にある崖下に寺社が置かれ始める。青木町周辺には、建久 2 年(1191)に洲崎神社 と文治 3 年(1187)には普門寺11が置かれる。陸海の交通の要衝として青木町周辺には神奈川 湊が発達し繁栄した12

 その後、創建年代から寺社の分布を見ていくと、青木町周辺から東部にある滝の川沿いに都 市が発展する(図 1-3)。滝の川沿いには、文応年中(1260 ~ 61)に創建とされる浄龍寺13、永 仁年中(1293 ~ 1298)に創建とされる成佛寺、天文 14 年(1546)に創建された慶運寺が置か れる14

 以上のように寺社の創建年代から、幸ヶ谷山上に置かれた熊野神社をはじめ、台地下にある

(26)

図 1-3 神奈川の寺社分布図(明治初期)

出典:明治 14 年の内務省地理局測量課編「横浜実測図」をベースに作成

第 1 章 横浜の地域構造

(27)

洲崎神社を中心に寺社が発展し、その後滝の川沿いへと発展していくことがわかる。

また、戦国期に入ると現在の幸ヶ谷公園がある台地上には権現山城が築かれ、軍事拠点でもあ ったことが分かる。また開港当初は、浄龍寺にはイギリス領事館、州崎大神はフランス領事館、

甚行寺はフランス公使館が置かれ、外交の場としても重要な地となる。

6-2.街道の整備と宿場町の形成(近世)

幸ヶ谷地区から滝の川周辺へと中世まで発展した神奈川区は、近世に入ると、東海道の整備 とともに街道に沿って短冊状に敷地が割られ宿場町(神奈川宿)が形成される(図 1-3)。海岸 線と平行して整備された街道沿いに宿場町が形成され、低地の沿岸部分へと発展する。この時 期は神奈川区などの内陸にあった寺社が宿場町へと移転される。この地区で最も古い歴史を持 つ熊野神社は、現在の幸ヶ谷公園にあった場所から、正徳 2 年(1712)に宿場町内へ移転する(現 在の東神奈川町四番地)。宿場町へ移転した寺社は他に、元禄 2 年(1689)に稲荷山の中腹から 移転した笠のぎ稲荷神社15(現在の東神奈川二丁目九番の一)、慶安元年(1648)に小机から移 転した良泉寺(現在の新町九番地の三)、。

 その後幕末には、滝の川河口にある猟師町の先に神奈川台場が築かれる。この台場は近代に 入ると操車場となり、臨海部の発展が進む上で大きな役割を果たす。

第 7 節 開港以前の横浜村

開港以前の関内は、文政 10(1823)年の『新編武蔵野風土記稿』によれば八七戸の半農半漁 の横浜村(現在の神奈川県庁以東)がある静かな場所であった。横浜村は細長い砂洲の上にあり、

その先端には弁天社のある洲乾島と洲乾湊があったといわれている。

開港直前の横浜村の様子を知る地図資料として「横浜村并近傍之図16」(図 1-4)がある。現 在の市街化された関内からはこの地図と重ね合わせるのは難しいが、開港後に重要となる馬車 道が確認できる。馬車道は日本初の近代的街路樹発祥の地として一般に知られているほか、本 稿において近代的港湾施設の完成する新港埠頭が万国橋を渡った先につながる道でもある。地 図上に「神奈川ヘノ渡船場」とある場所から弁天社(現在の神奈川県立博物館周辺)までをつ なぐ道が後の馬車道である。弁天社は当時の名所であり『江戸名所図会』にも取り上げられて いる。横浜村対岸にある神奈川宿の旅人が渡船場まで船に乗り、弁天社へアプローチ道として 利用されていた。(図 1-4)

 以上のように半農半漁の静かな横浜村に開港以降、近代的港湾施設が建設される。

(28)

第 8 節 小結

ここまで関内と神奈川における地域構造の分析を行ってきた。海路と陸路、両者をつなぐ港 湾都市の視点から、開港までは現在の市域において、神奈川中心の地域構造であったことが、

神奈川湊や宿場町、主要道の関係から明らかになった。その一方で関内は、海路と陸路におい て周辺地域から隔離された場所であったが、開港後、物流として重要な道となる馬車道や繫船 接岸方式の新港埠頭となる場所は、開港以前から陸路や海路として利用されており、近世の地 域構造が受け継がれていることを明らかにした。

1)近世の主要古道については、横浜市教育委員会社会教育部文化財課『横浜の古道』(1990 年)

を参照した。

2)六浦湊(横浜市金沢区)は、鎌倉の外港として中世に繁栄をした。

3)神奈川区誌編さん刊行実行委員会『神奈川区誌』1977 年、p.39

4)神奈川湊の記述に関しては、前掲『神奈川区誌』(pp.33-39)から引用。

5)権現山の戦いの場となった青木城が現在の本覚寺一帯にあった。

6)文政 10 年の『新編武蔵野風土記』によれば、「民戸 87、東西 10 丁又は 17,8 丁の処もあり、

図 1-4 開港直前の横浜村の様子 出典:「横浜村并近傍之図」(横浜市立中央図書館所蔵)に筆者加筆。

第 1 章 横浜の地域構造

(29)

南北も大抵 18 丁程なり。水田はなく陸田多し。爰も天水にて耕植す」と横浜村の様子が記述さ れている。

7)前掲『横浜の古道』(p.1)によれば、主要道とは、文献・古地図・古碑・道標等によって確 認できる近世の道を指す。鎌倉に近いことから、鎌倉道をはじめ中世の古道といわれるものが 数多くあるが、ただ古いと伝承されているのみで、何れも一考に値するものではあるが、定説 といえるものではない。

8 前掲『神奈川区誌』によると、「東海道の宿場町の多くは鎌倉時代の宿が当てられたといわ れており、神奈川宿も中世以来、海陸の要地であったので、早くから宿の役割を果たしていた と考えられる」とある。

9)前掲『神奈川区誌』、p.58

10)横浜市教育委員会事務局生涯学習部文化財課『横浜市文化財地図』(2004 年)より 11)普門寺は、開港後フランス公使館として使用された。

12)幸ヶ谷地区周辺に現在ある寺社には、他に 1597 年(慶長 2)創建の三宝寺がある。

13)浄龍寺は、開港後イギリス領事館が置かれた。

14)滝の川沿いに創建されたものとして、他に宗興寺(創建年代不明)がある。

15)笠のぎ稲荷神社が稲荷山の中腹に創建された時期は 938 ~ 947 年(天慶年間)。 16)「横浜村并近傍之図」(1851 年、横浜市中央図書館所蔵)

(30)

第 2 章 商港を中心として発展した関内の形成史

第2章

商港を中心に発展した関内の形成史

(31)
(32)

第 1 節 研究の背景と目的

 これまで関内の形成史について記述された通史はいくつかある1。横浜における都市形成史 をまとめたものとして多く取り上げられる 1981 年に出版された横浜市企画調整局による『港町  横浜の都市形成史』を引用しながら、最初に関内全体の形成史を概観し、その後に本章の目的 を述べていく。本章で対象とする時代は、開港以前から昭和初期である。先述した『港町 横 浜の都市形成史』では、都市計画の視点からこの期間を次のように分けて論じられている。

 第 1 期 開港以前期(~安政 5 年)

 第 2 期 開港場整備期(安政 6 年~慶応 3 年)

 第 3 期 文明開化期(明治元年~明治 21 年)

 第 4 期 港湾整備期(明治 22 年~明治 35 年)

 第 5 期 工業招致期(明治 36 年~大正 11 年)

 第 6 期 震災復興期(大正 11 年~昭和 15 年)

  第 1 期の開港以前期2(~安政 5 年)では、開港以前の関内には「象ヵ鼻」と呼ばれた砂州 上に横浜村があり、江戸期に村は 100 戸前後の寒村であったという。砂州の背後には新田開発 が行われ、江戸期を通して生産力の低い寒村であったことが政治的、社会的背景の中で開港場 の条件として活かされていったと述べている。これらの状況において開港場の開港場建設が行 われることとなる。

次の第 2 期の開港場整備期3(安政 6 年→慶応 3 年)では、開港を直前にして具体的な開港場 建設が行われた時期にあたる。開港場は外国人居留地、日本人居留地に分けられ、両地区とも 商人の移住に伴い賑わいを呈することになる。外国人居留地の整備については、慶応 2 年(1866)

の第 3 回地所規則の成立により、現在の関内地区の骨格が定まったとしている。

第 3 期の文明開化期(明治元年~明治 21 年)4 では、支配権が江戸幕府から明治新政府へ交代し、

第 2 期に成立した第 3 回地所規則が着実に実施に移された時期にあたり、欧米の技術導入によ りガス灯などの近代化が進められたとしている。そして貿易の進展とともに、港湾機能の整備 が課題となるとしている。

第 4 期の港湾整備期5(明治 22 年~明治 35 年)では、市町村制施行により横浜区から横浜市 となった明治 22 年 4 月から市原市長が誕生する明治 35 年までの期間である。この期間は横浜 市の人口も急速に増加し、日清戦争が引金となり日本資本主義の形成期にあたり、横浜港の整 備拡張が進められることとなる時期にあたる。

第 5 期の工業招致期6(明治 36 年~大正 11 年)は、明治後期から大正期にあたり、開港以降 の蓄積を元に都市が成熟期に入ったと位置づけている。また開港以降の横浜都市形成に関する 第 2 章 商港を中心として発展した関内の形成史

(33)

種々の矛盾が露呈し、その対応が要請され、実施に移される時期でもあるとしている。そのため、

市原市長による基本方針のもと工業誘致をはじめとする都市政策が進められる。中でも「工場 地区」「衛生地区」などの都市計画的対処は、わが国において先駆的なものであったとされている。

第 6 期の震災復興期7(大正 11 年~昭和 15 年)では、経済的、物的に壊滅的な被害を受けた 関東大震災からの復興時期である。この復興は横浜市にとって従来にない近代的都市へ転換す る機会となったとしている。

 以上、関内の形成史について『港町 横浜の都市形成史』を参照して概観を把握した。本章では、

参照した『港町 横浜の都市形成史』にみられる関内の急速な都市発展を踏まえながら、次の 視点のもとに考察を進めていく。開港から関東大震災後までの時期において、横浜の港湾都市 としての発展と共に、時代の要請に応え、敷地の用途がいかに変化し、どのような施設利用の 変遷が見られたかをその象徴的な敷地として考えられる旧横浜生糸検査所の敷地を取り上げて みていく。

関内の税関構内8において、港湾施設は2つのエリアで建設が行われた。ひとつ目のエリアは、

現在の日本大通りの先に当たる開港当初に建設された沖荷役のための2つの波止場(東波止場、

西波止場)と、明治中期に東波止場を延長する形で建設が行われた鉄桟橋を含むエリアである。

もうひとつのエリアは、馬車道の地先を埋め立て、岸壁荷役を中心に港湾施設が建設された新 港埠頭(大正 6 年竣工)である。本稿では、馬車道沿いに位置する横浜生糸検査所跡地(中区 北仲通 5-57、敷地面積 9,621 坪)の敷地の変遷を明らかにすることで、新港埠頭の完成により 馬車道沿いが物流・貿易機能の拠点として発展していく過程の一端を読み解いていきたい。

生糸検査所は、開港後の我が国の輸出産業の中心として重要な役割を果たした生糸の品位・正 量などの検査を行う国の機関として、明治 29 年(1896)に横浜と神戸に設置された。横浜生糸 検査所は、日本大通り9にある本町 1 丁目で開庁したが、関東大震災後の大正 15 年(1924)に、

埋め立てによって新港埠頭(港湾空間)ができたことで物流・貿易機能を担い始めた前述の北 仲通へ移転をする(図 2-110)。移転先では戦前の関内において最大の建物であった横浜生糸検査 所庁舎と附属倉庫の一大建築群が建設された。これらの建物は、生糸貿易によって発展した横 浜の象徴のひとつともいえる。現在は復元された本庁舎を役所として活用しているが、敷地内 の多くは未利用地となっている。そして近年、横浜生糸検査所跡地を中心に北仲通北地区にお いて、超高層タワーを中心に大規模な再開発事業が予定されている。

 横浜の関内においては、建築史・都市史の分野で多くの研究がなされてきた。

明治初年に英国人技師ブラントンによって設計された日本大通りは関内の中心部を通り、また 外国人居留地と日本人居住地を分ける境界であったこともあり研究の対象とされてきた。例え

(34)

ば青木は11、日本大通りを対象としてその成立と都市機能に焦点をあて、近代的な都市計画と異 なる伝統都市の理念を読み解いた。だが本稿の対象となる馬車道を含む日本人居住地について は江戸と同様の伝統的な両側町が開港直後に形成されたと指摘しているものの、各敷地の変遷 については明らかとしていない。また内田12は日本大通りの官庁街化の様相を明らかにしてい る 。 その中で本稿でも取り上げる横浜地方裁判所の日本大通りから馬車道への移転について触 れているものの、馬車道及び本稿の対象とする敷地における位置づけまでは行われていない。

日本大通り以外の街路に着目した研究として、岡本ら13は開港後の都市形成と近世以前の横 浜村との歴史的連続性を解明する中で、馬車道を近世からの重要な道であったと位置付け、開 港後に海運・港湾と金融・業務の層を形成したことを指摘している。だが本稿の対象とする生 糸検査所及びその敷地に関する考察まで至っていない。

 また中尾14は、幕末から明治初頭における日本人居住地の水際空間の復元的考察と運送関係 者の業務について検討を行っているものの、運送関係者の存在が確認されない本稿の対象敷地 については言及がされていない。そして筆者はこれまで、横浜港における港湾空間の変遷や上屋・

倉庫の空間構成についての研究15を行ってきたが、考察の対象としたのは港湾施設内に留まっ ており、また、港湾施設と都市との関係についての考察が十分になされてこなかった。

最後に横浜生糸検査所に関する研究は、中村ら16による一連の横浜生糸検査所附属倉庫を対 象とした多くの研究成果があり、保存再生へ向けた詳細な建物調査がまとめられている。だが 対象敷地の沿革については、生糸検査所の変遷や震災直前の敷地についての記述がみられるも のの出典が明らかとされず、また不十分な点も見受けられる。また堀17は、横浜生糸検査所が

0 100m

0 100m

新港埠頭

馬 車 道

日 本 大 通

神奈川県庁 横浜公園

横浜生糸検査所 弁天社の旧社殿が あったとされるエリア

新港埠頭

馬車道

日本大通

横浜公園

横浜生糸検査所

弁天社の旧社殿が あったとされるエリア

附属倉庫

庁舎 臨港鉄道 神奈川県庁

図 2-1 横浜生糸検査所及び周辺図

出典:横浜開港資料館所蔵の「横浜市三千分一地形図」(1932 年)を元に筆者加筆 第 2 章 商港を中心として発展した関内の形成史

(35)

北仲通へ移転する前の本町 1 丁目にあり、我が国最初期の無梁版構造の鉄筋コンクリート建築 であった庁舎の配筋調査を行っている。

 以上の先行研究から本稿の特徴は、これまで断片的に論じられることの多かった横浜生糸検 査所の敷地の変遷を通時的に整理し考察を行うことで、関内地区の多様な土地利用の変遷を明 らかにする点にある。

第 2 節 研究方法

 施設利用の変遷を考察するにあたり、収集した4つの時代の土地宝典18を参照して敷地割を 示したのが図 2-2 である。図 2-2 は明治 39 年の土地宝典19を元に作成し、その後の土地宝典の 史料から分筆や埋め立てによる土地の増加がある場合に修正を加えて作成した。図 2-2 の敷地 のうち、明治 39 年の土地宝典からは地番 71、73、21、78 の敷地割と地番名をそのまま採用し た。また同年の土地宝典では地番 72 が隣接して 2 筆あったことから、東側の敷地を 72 番、西 側の敷地を地番 72’と表記して区別し、敷地割をそのまま採用した。明治 39 年の土地宝典にあ る地番 77 の敷地割は、大正 5 年の土地宝典では地番 77 ノ 1 と 77 ノ 2 に分筆されているため、

後者の敷地割と地番名を採用した。最後に地番 58 の敷地割は昭和 2 年竣工の埋立地20であるこ とから昭和 5 年の土地宝典を参照して敷地を加筆し、その地番名を採用した。以上により作成 した中区北仲通 5 丁目にある対象地内の 9 筆(地番 21、58、71、72、72’、73、77 ノ 1、77 ノ 2、

78)を対象に考察を行った。また、土地利用の変遷のほかに、敷地と街路及び水面との空間構 成や外国公館の地坪数について関内の東側を占める外国人居留地との比較を行うことで、対象 地の特徴について考察を行った。

各時期の変遷を考察するにあたり、文献史料と地図史料を使用した。最初に『横浜開国五十年 史 下巻』21や『横浜沿革誌』22、『横浜市史稿』といった基本史料を用いながら、その不足し ている時期の変遷や不明な点については他の文献史料や地図史料で補い考察を行った。地図史 料は前述した地籍図や横浜市中央図書館所蔵の古地図23、実測図24を用いた。加えて、朝日新 聞の記事25から各施設の利用目的について明らかにしながら分類を行い、変遷する中でも継承 された利用目的について考察を行った。

第 3 節 第 1 期:鎮守の森から外国公館26へ(幕末~明治 9 年頃)

最初に本稿で対象とする敷地の開港以前における様子について述べておく。開港以前の関内及 びその周辺は横浜村と呼ばれ、象ヶ鼻と呼ばれる細長い砂州の上にあった。その砂州の先端に おかれたのが洲乾弁天と呼ばれた弁天社である27。弁天社の創建は定かではないが、治承年間

図 1-3  神奈川の寺社分布図(明治初期)
図 2-4 後の横浜生糸検査所敷地(1970 年頃) 図 2-6 ドイツ領事館図 2-5 オランダ領事館 図 2-7 フランス公使館 図 2-8 イタリア領事館 出典:いずれも横浜開港資料館所蔵 図 2-3 海に面した海岸通り(1970 年頃) 第 2 章 商港を中心として発展した関内の形成史
図 2-9 東海鎮守府 図 2-10 横浜裁判所 出典:いずれも横浜開港資料館所蔵
図 3-2 第 1 期の関内地図(1865 年)
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